弁護士・金原徹雄のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します。

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(全)

 今晩(2016年9月27日)配信した「メルマガ金原No.2582」を転載します。

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(全)

 2016年5月22日から25日までの間、「メルマガ金原」に3回に分けて掲載し、ただちに「弁護士・金原徹雄のブログ」と「wakaben6888のブログ」に転載した「西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』」は、西郷さんが、ドジョウスクイという切り口から自らの半生を振り返った自分史であると同時に、「ドジョウスクイは平和の踊り」という信念が実現される世界を目指して努力を続けるのだという決意表明でもありました。
 ところで、メルマガ掲載版をブログに転載するに当たり、細かな校正漏れを修正したりしていましたので、「弁護士・金原徹雄のブログ」版を底本とし、あらためて『ドジョウスクイ半生記』全編をまとめてご紹介することとしました。とりあえず、私が編集・校訂を担当した版としてはこれが確定稿となります。
 既に3回分載版で『ドジョウスクイ半生記』を読んでおられる方々にも、これを機にもう一度新たな気持ちで全編を味読していただければと思います。
 なお、3回分載時に私が書いた(リード文)は、まとめて本文の後ろに掲載しました。
 

                               ドジョウスクイ半生記
   
                                       西 郷   章 

はじめに

 私がドジョウスクイを覚えたのは、父親(西郷市松)の影響によるものでした(以下、ドジョウスクイにまつわる話ですから父親のことはオヤジと書かせていただきます)。私は終戦直後の昭和21年生まれです。私が物心つく頃の我が家の生計は、オヤジの遠洋漁業の雇われ船員としての収入によって支えられていました。遠洋漁業は「突き棒船」という臼杵市(うすきし/大分県)独自のカジキマグロを追う大変珍しい原始的な漁獲法ですので、歴史的な経緯も含めてあとで紹介したいと思います。
IMG_0002(1974年か5年 弟の結婚式での市ちゃん最後の踊り) オヤジがどこでドジョウスクイを覚えたのか、軍隊の時に覚えたのか、あるいは戦後漁師に復職してから覚えたのか知りませんが、軍隊では下関か門司だったか、大砲部隊の鬼軍曹の教官として恐れられ、軍国主義思想で凝り固まったクソまじめな人間だったオヤジが、なんであんな面白い踊りが踊れるのか、私は子供心にも不思議に思えてなりませんでした。 そして、私がドジョウスクイを覚えようと決めたのは、29歳で結婚をして、三男が中学校に入る1~2年前の48歳の頃でした。オヤジから見覚えた踊りは面白いのですが、あくまでもローカル的で、親しい仲間内ではよく踊っていても、どうしても品格に欠けますので、どこでも踊れるというわけにはいきません。私は、きちんとした踊りを覚えたいと思い、わざわざドジョウスクイの本場の安来市(やすぎし/島根県)観光課に問い合わせてみました。すると宇田川さんという名人の踊りのビデオテープや、安来節の道具一式5万円を紹介してくれたのです。それ以来、私のドジョウスクイは、どこでも安心して踊れるものとなり、様々な場所で踊ることになりました。ここでは、その中の思い出深い2~3の踊りとその背景についてご紹介したいと思います。
(金原注)写真は、1975年頃、息子(西郷章さんの弟さん)の結婚式でドジョウスクイを踊る西郷市松さん。西郷章さんが、お父さんの踊る姿を見たのはこれが最後だったとか。

一時代に繁栄した「突き棒船」とは

 ドジョウスクイを踊った特徴的な場面を紹介する前に、前置きしました「突き棒船」と当時の私の家庭事情についての話をしたいと思います。
 突き棒船は、「突きんぼ船」とか「突き船」とも言われ、海面に浮上するカジキを手投げモリ(樫の木で作った丸棒で、長さ5メートルくらいの先端に3本の矢じりのついたもの)で仕留める勇壮な漁法で、原始的漁獲法と言われていました。船の先端(棚)に構える突き方(矢じりをカジキに突き刺す者で一番方と二番方が構えていたと思います)や、マストの上でカジキを見つけて機関長や突き方に合図をする者が中心となり操業します。この漁法の由来は、明治3~4年の頃から大分県の豊後水道一帯で、私の部落の板知屋(いたちや)などが中心となって始められたもので、その頃は当然エンジンなどはなく、櫓櫂(ろかい)や帆立てが動力源でした。その後、臼杵市・中津浦の板井五三郎がカジキマグロを樫棒の先につけたモリで突く「突きん棒」漁法を編み出し、やがて明治末期から大正初期にかけて帆船による突きん棒漁業が発達します。大正10年頃からは、動力源が内燃機関(焼き玉エンジン)に代わったために操業範囲も飛躍的に広範になり、夏から春にかけて長崎県沿岸から朝鮮近海まで出漁し、春からは豊後水道で操業しました。昭和10年頃からは、宮崎県油津沖合から北海道・三陸沖合までの漁場に出漁し、さらに広範囲に出かけるようになりましたが、第2次世界大戦でいったん壊滅してしまいました。 その後は、戦後復興とともに漁船は大型化し、乗組員も一船が十数人規模になり、私が中学に入る頃最盛期を迎え、30トン~50トン級の船が私の部落を中心に60隻くらいに増えました。しかし、北陸あたりの仕掛け網による大型大量漁獲法が取り入れられるようになると、原始的な突き棒船は急速に自然消滅へと追いやられ、昭和52年にはついに全滅してしまいました。

先を見越して運搬船に乗ったオヤジ
 オヤジは、私が中学生の頃(突き船の最盛期の頃)には既に先を見越して突き船から降りて、義兄弟の持つ貨物船で生計を立てるようになり、その船も幾年もしない間に降りて、自分で運搬船を持つようになりました。けれども、貧乏人が借金をして持てる船は、中古の木造船が関の山でした。仕事も決して楽ではなく、積み荷は四国の多度津などから西大分へ土管を運ぶ仕事で、その土管の積み降ろしは、私も中学の夏休みや冬休みの時に経験しましたが、1本1本手渡し作業による過酷なものでした。しかし、会社のように命令されて仕事をする訳ではなく、1本1本の手作業をやればやるほど必ず自分の利益になるのがせめてもの救いでした。
 この家業のために、臼杵の水産高校を出て、北九州の若築建設(現・東証1部上場)に就職していた5つ上の兄貴が呼び戻され、また私より4つ下の名古屋のグンゼで働いていた三男も呼び戻され、やがて四男もという具合に、私を除いては男の子は3人とも船乗り稼業で生計を立てるようになりました。子供たちが、いやいやながらも割にすんなりと親の意思に従ったのは、家父長制の名残によって、子供というものは親の言うことに従うものだという育て方に影響された点が多分にあったと思います。私だけが会社勤めをしたのは、船に酔いやすいという体質的な弱点があったからかもしれませんが、男の子は1人くらいは陸(おか)働きをさせておかないと、船乗りの身に何かあった時に家が行き詰まってしまうからという、これも親の意思が多少なりとも働いていたようなことをオヤジに聞いたように記憶しています。
 運搬船の事業もだんだんと軌道に乗ってくると、もう少し儲かる取引先として大阪まで足を延ばすようになりました。大阪からの積み荷は、チリ紙やトイレットペーパーなどの原料となる雑誌やボロ紙でした。それを大分の製紙会社に納入するために、西大分港の荷役場まで運ぶのです。西大分港の思い出は、まだ土管しか運んでいなかった中学生の頃のことしか覚えていませんが、冬休みの時に手伝いに行って、夕方仕事が終わると寒い町中に行き、そこで入った銭湯が暖かくて気持ちが良かったこと、また、ご褒美にジャンバーを買ってもらったのはいいが、生地がビニールのようなものでできているために、ひどく蒸れて、さすがの着るもののない私でも不快な思いをしたことが思い出されます。また、その後の大阪の荷役場は、大正区の川沿いにあり、当時、私は和歌山の住金(現・新日鉄住金)に入社して間もない頃でしたので、時々は船着き場まで親兄弟に会いに行きました。今でも大正区の川沿いが懐かしいのはそのためです。

大黒様・恵比寿さんになったオヤジ
 しかし、長年の運搬船事業も止めるかどうかの転機が訪れてきました。船の痛みもひどくなり、新しい船を買うにも相当な借金をしなければならず、それで採算がとれるのか、など考えた後に廃業することになりました。
 ところがその時に、思いもよらぬ福の神が舞い込んできたのです。船は処分しなければなりませんが、解体料こそ取られても古すぎる船自体は三文の値打ちもありません。だが、時はバブルの絶頂期で、関西空港建設のために海上の埋立てが盛んにおこなわれており、埋立てには多くの船が必要でした。船には権利があり、船を持つためにはその船の大きさ相応の権利を買わなければなりません。オヤジの船には権利という価値があったのです。その当時、ゴルフの会員権に法外な値段が付いたように、オヤジの船も貧乏人にとっては驚くほどの値段が付いたのです。かつて村一番の貧乏人と言われてもおかしくなかった両親は、たちまち金持ちになり、まさに大黒さんが舞い込んだような身分になりました。
 母親は、生前にその当時のことを振り返って「儲けた金には毎月利子だけでも相当額付いててきた」と言っていました。その余裕から、私が帰省すると必ず、少額でも小遣いをくれており、それは私が50歳近くになるまで続いたと思います。私は「いい年をして小遣いをもらうなどは恥ずかしいから止めてくれ」と言いながら貰っていたのを憶えています。
 オヤジは、船を売る何年か前から家業は子供たちに任せ、自分は隠居しながら小型漁船で好きな魚釣りをしていましたが、思わぬ金を手にしたことで、その一部を使い、村で一番速い船を新造しました。その漁師としての姿は、誰よりも遅く出漁し、だれよりも早く帰港して、誰よりも多くアジを釣る、アジ釣りの名人「市ちゃん」として釣り仲間に頼られる存在でした。私は、人一倍アジを釣るその秘訣をオヤジに聞いたところ、「どんなエサにアジが良く食いつくかエサのことをいつも考え研究している」と教えられましたので、私の生活にもこれを応用して、「人と仲良くしたり、人に好かれるには良いエサを撒くことが肝心だ」と考えてこれを実行するようになりました。そのおかげで、思想信条の違いは別としても、少なくとも人様にはあまり嫌われることはなかったのではないかと思っています。
IMG_0003(1995~6年 市ちゃんの船に乗る孫たち) さて、オヤジの釣った魚は網カゴの生けすに入れられて市場にもって行くまで生かされます。ある時、私は生けすにあるアジ、イカ、イサギ、サバ、タイを刺身にしてもらって食べ比べたことがありますが、その中で一番うまかったのはサバでした。サバは、関サバ(臼杵湾を出た半島の近海で捕れるサバ)も他のところで捕れるものも美味しさはあまり変わらないとオヤジは言っていました。
 子や孫が遊びに来れば、生の魚をどっさりと食わせてくれ、喜ばれるオヤジは正に大漁の神さん、恵比寿さんのような存在でした。その親父も、とっくに亡くなり、母親も金に不自由することなく老人センターなどを利用して、天寿を全うしました。その後、兄弟たちは別々に雇われ船員としての船乗り生活を経て、今では皆んな良い年になり、年金生活者として暮らしています。
 私は家業を手伝った訳ではありませんから、大黒様(金を儲けたオヤジ)の恩恵は少ししかありませんでしたが、その分、恵比寿様(魚釣り名人のオヤジ)の釣った魚は帰省した時には存分に食べさせてもらい、「ドジョスクイ」と「魚を釣るにはいいエサ」の秘伝を教わり、今もそれを実践していますので、これはいい財産をもらったと思っています。
(金原注)写真は、1995年頃、西郷市松さん自慢の“快速船”に乗って喜ぶお孫さんたち。
 
初めての中国でドジョウスクイを踊る
 私たち夫婦は3人の、それぞれが3つ違いの男の子に恵まれました。一番下の子が3歳の時、満蒙開拓団の一員として満州に渡っていた義父の長女で、敗戦の混乱の中、生き別れて残留孤児となった妻の姉の身元がようやく分かり、和歌山在住の姉の家族ともども総勢10名で再会のために中国に行くことになりました。中国の行き先は東北部の瀋陽市(旧・満州奉天市)です。上海から国内線で北京を経由して東北行きの飛行機に乗り換えるのですが、北京市内はこの頃(1985年)から道路も整備され、3~4車線の車道の他に同じような幅の自転車道と歩道が建設されていました。そして、初めての中国訪問ですから、名所見物も兼ねて、魯迅の活躍した場所や、最後の女帝の別荘や紫金城、万里の長城なども見物しながら瀋陽へと向かいました。瀋陽の姉の家につきますと、まず義父に代わり、私から、中国の養父に対し、長年我が子同然に可愛がり、育ててくれたご恩へのお礼と感謝の言葉を述べ、姉と再会することになりました。しかし、物心つく頃に親子は離散しましたから、言葉は通じません。あまり言葉を交わすことなく、互いの手を握りしめて姉は涙を流し、顔を見つめ合っているだけですが、義父は離散した当時に思いをはせていたことでしょう。
 離散した当時、和歌山県御坊市から娘を連れて先妻とともに満蒙開拓団員として入植した義父は広い土地を与えられたそうです。しかし、義父の遺品の中には、最下級の兵隊の位が書かれた身分票がありましたから、実際は満鉄沿線の警備を兼ねた食糧生産兵の役割をさせられていたのかもしれません。開拓団は入植した当初から軍のために苦しい生活を強いら、そして敗戦間際には、鍬(くわ)しか持ったことのない手に銃を持たされ、戦場と化した田畑、荒野を逃げ回ったのです。その後は、お定まりのソ連軍の捕虜となり、夫婦・親子はチリジリとになります。捕虜のシベリアでの生活は過酷なもので、1日に何百グラムのパンしか配給されずに飢えと寒さに耐えきれずに死んでいくものも多くいたそうです(その当時はソ連も食糧危機で自国民にすら十分に食料を供給できなかったと聞く)。そのような過酷な受難を生き抜いた義父は、4年前後の捕虜生活から解放されて運よく帰国できたのです。ついでに付け加えますと、義父が生前、私たちと一緒に暮らした和歌山では、近所に同じ境遇(ソ連の捕虜)を生き抜いてきたクニちゃんというオジサンがいて、2人は意気投合して、昼間からでもよく酒を飲んでいました。その義父は真冬でも素足の生活が平気でした。
 さて、中国の姉さんと再会した私たちは、3日ほど近くの公団住宅に泊まることになりました。そして、その間は親戚筋の料理の得意な人が食事を作ってくれました。日本とは当然生活習慣の違う中国のサラリ-マンの集合住宅での生活は、まず給水制限があり、朝の数時間と昼休み時間と夕食時しか水道が使えません。中国の家庭は夫婦共働きが普通で、仕事場での昼休みは2時間あるため、自宅に帰って昼食をとり、昼寝をするのだそうです。私たちが訪れた時期は真夏で、瀋陽は湿度が高く、私たちが「風呂に入りたい」と言うと、住宅街の一角にある小さな風呂場に案内され、洋式の狭い風呂で水浴びをする程度の入浴しかできませんでした。何も知らない私たちは、湿度が高く気持ちが悪いので、毎日風呂を使いましたが、現地の人たちは、何万人住んでいるかわからない広い団地での風呂は共用で数も少なく、市民はみな毎日風呂に入る習慣はなかったのではないかと後で気が付きました。
 瀋陽では、姉や義兄弟、親戚とようやく打ち解けた頃には、お別れをしなければなりませんでした。姉さん夫婦とその子供たちが北京空港まで同伴してくれました。そして、北京空港での別れの宴席で、私は初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになったのです。道具は食卓にあるお皿だけです。それを持つと義父が♪やすき~めいぶつ~♪と歌いだし、その歌に合わせてゆっくりと皿を両手にもってドジョウを救う真似をして踊るのです。そして時折、♪アラ、エッサッサ~♪の掛け声の時には皿を頭の上に乗せる格好で片足を上げて1回転するのです。こんな、たわいない踊りでしたが、中国の兄弟は大喜びでした。少し大げさですが、私はこの経験から、ドジョウスクイは世界でも通用すると実感しました。しかし、いまだに世界の檜(ひのき)舞台で踊ったことは一度もありません。
 さて、すっかり気を良くした私は、茅台酒(マオタイ酒)を飲みすぎて前後不覚となり、いつ飛行機に乗ったのやらわかりません。気が付くと機内は騒然としており、飛行機はよく揺れているのです。そして、その揺れは羽田空港近くまで続いたと思います。しかし最後に無事に着陸した時には、乗客は一斉に拍手を交わして喜び合いました。なぜそんなに感情的になったかと言いますと、この頃は丁度、御巣鷹山の日本航空機墜落事故があって1週間もしない時でしたから、激しい揺れで御巣鷹山事故を連想し、恐怖心がわき、パニック寸前のさわぎになったのだと思います。私は、今まで飛行機には10回くらいしか乗っていませんが、揺れたからといって大騒ぎしたのは、後にも先にもこの時だけです。
 そのような出来事からしばらくして、中国の姉さんは夫婦で帰国し、その子供たち(2人の娘さん)も日本で一緒に住むようになり、それから 早くも30年近くが経ちました。姉さんたちは、和歌山の私たちの近くで貧しいながらも幸せに暮らしており、上の娘さん(私の妻の姪)夫婦は、中華料理店で細々と身を立てて暮らしています。
(金原注)西郷さんの奥様の姪御さん夫婦が営んでおられる中華料理店には、西郷さんに連れられて私も何度かおじゃましましたが、とても美味しい料理がリーズナブルな値段で食べられる大衆的なお店でした。

少年野球のコーチ、そしていつもヘルメットをかぶっていたH君

IMG_0004(1992年 少年野球最後(6年生)の二男) 中国に家族全員で出かけた2年後の1987年には、二男が小学校2年生となり、少年野球のお世話になるようになりました。それまでにも、妻は長男の頃からPTA(楠見地区では「育友会」と称していました)活動に非常に熱心でしたので、その付き合いの関係で、同じ楠見小学校のグランドを借りて行われている少年野球に誘われたのでしょう。そこへ私までもが駆り出されたのです。私は臼杵での少年時代、中学校から商業高校3年生まで、田舎野球ではありますが、一応6年間野球をやっていましたので、少年野球のコーチなら何とか務まるのではないかと思い、しぶしぶと承諾しました。ところが、実際にやりだすと責任感も出てきて熱心に関わるようになってしまいました。その頃、私は住友金属和歌山製鉄所の職工として3交代勤務でしたから、いつも練習などに出られるわけではありませんでしたが、極力出るように努めました。その時にコーチとして仲良くしていただいたIさんとUさんも、和歌山市内の化学工場に勤めており、私と同じように3交代をしながらコーチとしてお世話をされていました。少年野球の練習は平日もありますので、日中勤務のサラリーマンよりも、かえって3交代勤務の者の方が時間的に融通が利くのです。その点では、清掃事業に勤める職員も午後3時頃には勤務が終わりますので、指導するには時間的にも都合よく、彼らと私たちが主になって運営されました。
 少年野球は、自分の子供のために家族が総出で試合の応援をします。もちろん、私の家族もそうでしたが、一緒にコーチを務めていたIさんには、私の三男と同じ年くらいのH君という息子さんがおり、H君は応援の時、いつもヘルメットをかぶってグランドに来るので、余程野球が好きなのかな?と最初は思っていました。しかし、付き合っていくうちにそうではないことが分かりました。H君がいつもヘルメットをかぶってグランドに来るのは、頭にボールが当たったら困るからです。H君は、物心つく頃から脳腫瘍があることが分かり、それを治療するために頭蓋骨に穴を開けなければならず、そこを保護するための防具としてヘルメットをかぶっていたのです。
IMG_0006(1992年 少年野球の家族と瀬戸大橋巡りの旅館で) 私の家族はIとYさんに特に親しくしていただき、いよいよ少年野球も卒業する頃の秋に、3家族で瀬戸大橋の見物を兼ねて四国への一泊旅行に出かけたのです。その夜の食事の時に、私はあらかじめ用意していた小さなザルを持ち、タオルをかぶり、旅館の寝間着姿のまま、子供たちの前でドジョウスクイを踊ったのです。すると子供たちは大喜びです。もちろんH君も喜んでくれました。そのH君も、中学3年生の時にはかなくこの世を去ってしまいました。今でも、あの時に自己流ながらドジョウスクイを踊って子供たちが喜んでくれたことを思う時、ふとH君のはかない人生を想像してしまいます。
(金原注)1枚目の写真は、1992年、少年野球最後の年(小学校6年生)の西郷さんの息子さん(二男)。
 2枚目は、同じ年、少年野球の3家族が瀬戸大橋巡りの一泊旅行をした際の旅館でドジョウスクイを踊る西郷章さん。

正調・安来節を覚えた中学PTA役員の頃
 安来節には2つの踊りがあります。1つは「女踊り」で、緩やかなテンポで♪出雲~名物~荷物にゃならぬ~♪と歌われ、踊り自体も上品さこそ感じても面白いものではありません。それに比べて「男踊り」は、♪オヤジ~どこ行く~裏の小川に~ドジョ取りに~♪と早いテンポで歌われ、踊りもそれに合わせてリズミカルに腰を振ります。私がこれまで自己流で踊っていた踊りは、「女踊り」の歌に合わせたものでした。そして、ローカルで踊られる一般的な昔からの踊りは、この「女踊り」の歌に合わせて、男が面白おかしく踊るものでした。それに比べて、本場の面白い安来節として覚えようとしたのが、テンポの速い「男踊り」だったのです。
 さて、小学校では少年野球とともに、妻の勧めで早くから育友会(PTA)のコーラス部に入っていました。男性が少ないために一度顔を出すとなかなかやめることができません。小学校育友会のコーラス部に参加する一方で、少年野球でお世話になった二男が中学2年生になる頃には、中学校のPTAの役員も掛け持ちするようになりました。正調・安来節を覚えたのはその頃ではなかったかと思います。ところが、二男と入れ替えに3つ違いの三男が中学に入ると、中学校育友会(PTA)の会長を務める羽目になったのです。楠見中学校は、楠見、楠見西、楠見東の3つの小学校区からなり、中学の育友会長はそれぞれの小学校が輪番制で受け持たねばならないため、会長に一番ふさわしいからとか、なりたいからといってなれるものではありません。たまたま順番が楠見小学校にまわってきて、その条件の中で、それまで2年間、他の役員を務めてきた私が会長にされてしまったのです。そして、会長になったこの頃に、ドジョスクイ(正調・安来節)を初めて育友会の宴会の席などで1~2回は披露したのではないかと思いますが、はっきりと覚えていません。
 私はその後、計3年間楠見中学校の会長を務め、最後の3年目には、和歌山市小中PTA連合会長にされてしまいました。市の会長になりますと、和歌山市は自動的に4人いる県PTА連合会副会長のポストが付いてきます。やはりドジョスクイで一番華やいだのはこの頃でした。宴会の時は必ず引っ張り出され、ある時には和歌山市教育長と一緒に踊ったこともありました。当時の市の教育長は坂口さんという方で、色々芸達者な方でしたが、その中の一つにドジョウスクイがありました。自己流ながらドジョウスクイの名人との評判があり、私はぶっつけ本番で2人踊りをやったのですが、ストーリーなどはなく、めいめいが勝手に踊るのです。ところが坂口さんは、本場安来市で踊った時に、そこの名人から「あなたは胴が長いからドジョウスクイにはピッタリです」と言われただけあって、その巧みな腰つきには唖然とさせられました。この2人踊りが評判となり、瞬く間に5名の女性の役員さんが弟子になってしまったのです。しかも嬉しいことに、皆さんドジョウスクイにはぴったりの美貌ぞろいで私も大満足でした。
IMG_0005(1997年 和歌山市PTA連合会最後の懇親会) いよいよ私のPTA活動も終わろうという時、年に1回の全国大会の開催地が大分県に決まったのです。順番からすれば熊本県のはずでしたが、あろうことか、に熊本県の幹部役員が会費を着服したことが発覚して、急きょ大分県に変わったのです。大分県は私の故郷ですから、こんな運のいいことはありません。何しろ、和歌山という遠いところに18歳で職工として就職し、その地で県PTAの副会長までさせていただき、その最後の年に、一生に一度回ってくるかどうかわからない故郷・大分県で全国大会が行われるわけですから。しかも、幸運はそれだけではありません。その時期、臼杵市の教育長は、私の中学時代に野球部の監督であった村上先生が就任していたため、あらかじめ村上先生に、「和歌山から20名ほどのPTAの役員が臼杵見物をしたいので、名所を紹介していただけないか」とお願いしたところ、快く引き受けてくださり、村上先生直々に、大友宗麟の城下町や、臼杵の石仏などを案内していただくことができました。この時ほど、誇らしく、大船に乗った気持ちになったことはありませんでした。そしてその晩は、ドジョウスクイで皆さんに臼杵の情緒を楽しんでいただいたことは言うまでもありません。ちなみに、この年の日本PTA全国協議会の会長は、なんと臼杵市にある高野山ゆかりの寺・興山寺住職の岡部観栄さん(奥さんは和歌山高野山の人)だったのですから、これも驚きです。かくして、PTA役員を務めた時代は、私のささやかな現場作業員人生の中で、ドジョウスクイのおかげで一番華やいだ頃であったと言えます。
 しかし、楽しかったPTA時代の思い出を語るときに忘れてならないのは、陰で私を支え続けてくださった楠見中学校の当時の校長、坂本晃清(こうせい)先生です。坂本先生は、那智勝浦町の出身で、和歌山大学在学中は、休みになると勝浦に帰り、漁船に乗って近海漁のアルバイトをして学費を稼ぐといった苦学の人で、誠実で温厚な人柄である上に、責任感が強く、部落問題にも良く理解を示し、育友会活動も熱心に指導してくださいました。そのため、私も思い切ってPTA会長の役職を務めることが出来、意気投合した活動の中で義兄弟のような気持すら持ちました。その坂本先生も、停年退職をして何年もしないうちに、それまでの生真面目な性格の心労がたたったのか、早くに亡くなってしまわれました。私は今、原発反対の仲間とともに、毎週金曜日の夕方、関西電力和歌山支店前に立つようになって4年以上になりますが、当初からの仲間に貴志公一さんがおられます。貴志さんと一緒に行動する中で、坂本先生が貴志さんと和歌山大学学芸学部(現教育学部)時代の同期生であることを知りました。その貴志さんからもまた、坂本先生と同様に筋の一本通った頼もしい先輩として、いろいろと教えを受け、楽しく付き合わせていただいていているところです。
(金原注)写真は、1997年、和歌山市小中PTA連合会最後の懇親会で(ちなみに、西郷さんの相方は坂口教育長ではなく、本物の女性だそうです)。

カルタ取り「小倉百人一首」の名人、甥の西郷直樹君のこと

 私は5人兄弟の二男で、兄弟の子供たち(甥と姪)が合計13人います。その中で、1人ズバ抜けた頭脳の持ち主がいました。西郷直樹君といって、私より4つ下の弟の子供です。弟夫婦には2人の男の子がおり、大分の公団住宅で生活をしていました。そして、子供たちは、カルタの優れた指導力を持った先生に恵まれて、小学校の頃からカルタに打ち込んでいました。兄の拓也君が小学生の頃からカルタ競技を始めると、弟の直樹君もまだ幼稚園の頃からお母さんとともにそれを熱心に見ていました。そして、すぐさま自分でも競技をするようになりました。その腕前たるや、拓也君は小学生の部、中学生の部で日本一になりました。重い病気をしたこともあり、また学業に専念するために競技を断念しました。弟の直樹君も兄と同じように小学生の部、中学生の部と日本一になり、カルタ界では「西郷兄弟」と言われるようになったそうです。そして高校生の部でも日本一になり、早稲田大学に進学後も大学で日本一になり、カルタ大会では最高峰の名人戦に出場したのです。初挑戦となった1999年の名人戦(五回戦勝負)、二連敗の後に三連勝する大逆転勝利で、ついに史上最年少名人の座に上り詰めたのです。その後、5期連続で名人戦に勝利し、永世(えんせ)名人となり、その後も勝ち続けて連続記録や在位記録などのカルタ会のすべての記録を塗り替えました。
 ここで競技カルタについて説明したいと思います。詳しくはネットで、「百人一首入門」等を検索していただけばわかりますが、ここでは、私が10回以上競技場で観戦した知識なども基にしながら紹介したいと思います。競技カルタは、全数100枚のうちの「取り札」は無作為に50枚を抜き取り、対戦者双方の前に25枚ずつ置きます。そして読み札は100枚あり、読み方は、一回戦ごとに100枚全部を読みます。そして、読み方が最初の一言、二言と読んだときに相手より早く取る技を競うものです。、上の句の一言、二言、場合によっては3つも4つも同じ上の句で始まるものもありますから、競技者は、間違いなく相手より早く取らなければなりません、そこに幾つものルールがあって50枚のうちに先に多くとった方が一回戦の勝ちとなり、普通一試合で三戦を先に取った方が勝者となります。
 カルタ競技のことを知らない人は、十二一重(ひとえ)の着物を着たお姫様が楽しそうに笑いながら遊びに興じている姿を連想するでしょうが、実際は格闘技のようなもので、それは、瞬発力、暗記力、集中力、持続力のすべての体力や気力を必要とします。直樹君の瞬発力について、昔「夕陽のガンマン」か「荒野のガンマン」か忘れましたが、西部劇がはやった頃に、拳銃をホルダーから抜いて引き金を引くまでの時間が、0.3秒とかいう早業が人気になったことがありました。それと同じように、カルタを取る速さも、読み方が上の句を言おうとすると、すでに手が動き、カルタを払いのけるまでの速さが0・3秒なのです。また暗記力は、50枚の取り札を何分間かで暗記したのちに、それを裏返しにして、読み方が読む札を余程の間違いがない限りは、ほぼ50枚全部を当てる暗記力を持っています。集中力のためには試合時間中(場合によっては朝から晩まで)食事は抜いて水しか口にしません。直樹君はそのようなすべての力を駆使して前人未踏の記録を達成することになったのです。
 話をドジョウスクイに戻しますと、直樹君は、早稲田大学時代のカルタ仲間の女性と縁ができ、結婚をすることになりましたが、その東京での結婚披露宴で、私はドジョウスクイを踊ってお祝いしたことがあります。
IMG_0007(2001年 新春大会で3年連続名人(22歳)の頃の直樹君) そうして、彼の記録はその後も止まることを知らず、あまりの強さから、2012年に14年連続優勝したのを機に、自ら名人戦への出場を辞退して身を引きました。私は最後の1~2回は応援に行けなかったものの、それまではほとんど毎年、新年早々、名人戦とクイーン戦が行われる琵琶湖のほとりの近江神宮に応援に駆け付け、彼の偉才を目の当たりにしていました。もし辞めずに続けているなら、恐らく体力的にも技能的にもあと10年くらいは勝ち続けたかもしれません。
 記録を出し続けたその過程では、100年に1度出るか出ないかの偉才の出現を記念して、近江神宮の正門に向かって左横には西郷直樹と名前が刻まれた植樹がなされています。その樹木も今は相当大きくなっているのではないでしょうか。そして今は、忙しい仕事の合間を縫って、母校の早稲田大学での後進の指導や、自分の住む静岡県の子供たちの育成指導にも励んでいると聞きました。
(金原注)写真は、2001年の新春大会で3期連続名人となった22歳の西郷直樹さん。

ドジョウスクイを踊れる幸せ
IMG_0008(2010年 住金職場忘年会) 私は、職工時代には合理化などに反対したため、会社からはあまり好かれていなかったかもしれません。しかし、職場の中では、ドジョウスクイを踊ったり、アコーデオン伴奏をしたおかげで、多くの同僚には好意をもって接してもらうことができたと思っています。
 2000年頃の年の瀬も迫る夕方に、同じ会社で働いていた(職場は全然違います)同期入社のM君がやつれた格好で訪ねてきて、「寒い、今は普通の生活ができていない。」と言ってきたので、自分の着古した防寒着などを与え、ご飯を食べさせて、とりあえず一泊させてあげることにしました。しかし、その日は、泊まりがけの忘年会でしたので、妻に後のことを頼んで宴会場へ行くと、得意なドジョウスクイを踊ってみんなで忘年会を楽しみました。そして、次の日に自宅に帰ると、M君は自分の一別以来の人生を語りながら、「この冬をしのぐのに釜ヶ崎に臨時の宿泊所があり、そこは1万4千円払えば一冬越せるだけ泊まらせてもらえるから金を貸して欲しい。」と言うので、言われるままに金を貸してあげることにしました。すると、「この恩は決して忘れない。金は必ず返しに来ます。」と言って立ち去りました。私は、彼の言うことをほとんど信用していませんでしたから、金は落としたものとしてあきらめました。しかしその時、彼は本当にそう思っていたのか、その後、忘れた頃に手紙が来て、中身をみると熱心な文章で、お礼と必ず約束を守るようなことが書かれていました。しかし、次に彼から電話があったのは、それから1年ほど経った夏の夜中の2時頃のことでした。「今、京都のある駐在所で保護されているので、身元引受人になって欲しい。」との連絡でした。さすがに明日仕事があるのに、夜中の2時に起こされた私は、「いい加減にしてくれ、私は知らない。」と言って電話を切りました。彼はその後どうしているのか、生きているのかどうかも分かりませんが、それきり何も言ってこなくなりました。高校を卒業して九州から集団就職さながらこの地に来て、合理化の波にのまれ、要領を得ずしてあのような人生を送らねばならなかったのは決して彼が悪いわけではなく、私自身にも一つ間違えば起こり得る、誰にでも起こり得る過酷な運命と隣り合わせに生きていることを知らなければならないと思いました。
(金原注)写真は、2010年ころ、職場(住友金属)の忘年会で踊る西郷章さん。

その場その時で臨機応変に踊る
 ドジョウスクイを踊る場所は、その時々により全部違います。ですから、踊る直前にその場を見定めて、あそこではこう踊る、ここはこうすると、あらかじめ自分で計算しておかなければなりません。といっても、踊り自体は基本の動作を4~5回程踊るだけですからきわめて単純です。出来るだけお客さんの近くで、与えられたスペースを計算して踊りの順序を間違えなければ、ほぼうまくいったと言えるでしょう。狭すぎるところ、広すぎるところと色々経験しましましたが、一つ変わった場所で踊ったことをご紹介しましょう。市民運動の仲間で、和歌山の隣りの市で市会議員をやっているОさんの選挙の時でした。
Оさんは、ずいぶん前まではある民間労組の組合長をしており、その時によく歌った『頑張ろう』という歌を出陣式で歌いたいということで、私がアコーデオンで伴奏をすることになったのですが、それだけではなく、事務所の前で私にドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれたのです。なぜドジョウスクイなのかとОさんに聞きましたところ、「ドジョウをスクウ=票をスクウで縁起がいいからです。」との答えが返ってきました。それにしても、私はドジョウスクイをお座敷で踊ったことは何回もありますが、お土敷(砂利の上)で踊るのは初めてです。お座敷ですら、真剣に踊れば、知らないうちに必ず向う脛(すね)のあたりが赤くむくれてしまうのに、石ころだらけの土の上でまともに踊るとどうなるか、経験的、直感的に身の危険を察知しました。そのおかげで、危ないところでは手加減をして怪我をすることなく踊り終えることができたのです。
 そして、その後に嬉しいことがありました。私の踊りを見ていた前の後援会長の奥さんと1週間ぶりに会った時、奥さんは、亡くなられたご主人の仏前で、私の踊りのことを「いいものを見せてもらった」と報告しましたと言ってくれたのです。一見場違いに思えるところでも、そんなに喜んでもらえる人がいたことに、どこで踊っても決して無駄ではないと自信を持ちました。
 その市会議員のОさんから2016年の8月下旬に電話があり、「私の住むI市では、10月初旬に市長選がある。現職は5期20年務めており、これ以上市長をやらせることは市政のマンネリ化に拍車をかけ、市民にとって決して好ましいことではなく、市民の方を向いた政治をするため、また無投票当選を防ぐためにも私が市長選に立候補するからよろしく頼む。」と言ってきました。Оさんが市長選に立候補するのは今回で2度目であり、先日事務所開きに行ってきました。ところが最近になって、「出陣式の時に元気の出る歌なら何でもいいからアコーデオンを引いてくれないか。」という依頼のメールが届きましたので、快く了承したものの、今年の3月、郡山市で開かれた「3.11反原発福島行動’16」で弾いて以来全く触っていなかったので、9月25日の出陣式に向けて慌てて練習をしているところです。今回の出陣式では、「三百六十五歩のマーチ」を歌ってもらおうと思っていますが、残念ながらドジョウスクイはお呼びがかかりませんでした。

福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して
 3・11福島第一原発事故があり、それから1年が過ぎた頃から、今は亡き親友の寺井拓也さんの努力により、福島の被災者の皆さんとの交流が生まれました。そして、そのような関係の中から、「3.11反原発福島行動’14」の会場でドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれることになり、大きな会場で踊ったことのない私は、そのリハーサルも兼ねて、福島(会場は郡山市)での集会の2日前に和歌山城西の丸広場で開催されたイベント(フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション)に出させてもらいました。和歌山では、その後も、“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”という大きなイベントなどでドジョウスクイを踊る機会をいただいたりしています。
飯舘村民仮設住宅を慰問して ところで、2014年3月の反原発福島行動に参加することになった私は、「被災者の皆さんが避難をされている仮設住宅に慰問に行きたい」と現地の友人にお願いしたところ、その希望がかない、アコーデオンとドジョウスクイの道具一式を持参して飯館村の高齢者の皆さんが暮らしておられる仮設住宅を訪問することになりました。その時、目的地に向かうタクシーの中で、運転手さんが話されたことが印象的でした。「ドジョウスクイですか。福島はドジョウがたくさん取れるところです。1時間もしないうちにバケツ一杯も取れます。今でもたくさん取れます。しかし、それを食べることはできません。」ということでした。慰問先の仮設住宅の皆さんは、よく笑ってくれました。しかし、大成功かに見えた慰問でしたが、1つだけ気がかりなことがありました。それは、最後に『故郷(ふるさと)』という歌をみんなで歌ってもらった時のことです。歌詞の3番♪こころざしを果たして~いつの日にか帰らん~♪の歌詞に差しかかりますと、皆さんの声が聞こえなくなったのです。それで私は、「もう一度大きな声で歌いましょう。」と合図をしながら歌ったのですが、なぜあの時に声が途切れたのか、その理由を案内の人に聞きました。するとその人は、「飯館村の人たちは、東電や国が情報を隠して知らせなかったために避難するのが遅れてしまい、その後も毎年もうすぐ帰れると行政に騙され続け、帰れないことを体で知ってしまったのです。だから3番は歌えないのです」と言ったのです。その話を聞いた時には本当にショックを受けました。その後も、希望をなくしたお年寄りは、帰れない故郷のことを思いながら次々に亡くなっていきます。そして政府や行政は、「安心、安全、大丈夫だ。」と言いながら飯館村にも帰還政策を推し進めていますが、この人たちのことを思うときに本当に切ない気持ちになります。
 私はこの10月で古希(満70歳)を迎える年になりました。しかし、世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。
(金原注)写真は、2014年3月、福島県伊達市の仮設住宅(飯舘村の方が避難)を慰問してドジョウスクイを踊る西郷章さん。
 なお、今のところ私が西郷さんのドジョウスクイを生で見た最後の機会となっているのが“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”です。その写真レポートを私のブログに書いており、西郷さんのステージ(この年は土の上)姿の写真も掲載していますのでご参照ください(写真レポートで振り返る“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”)。

天国の親友に捧げたドジョウスクイ

 私は、2015年の暮れから2016年の春にかけて2人の親友を相次いでなくしました。一人は、若いときの職場の同僚で、千葉から和歌山の住友金属に入社した友人でした。彼は、近い将来茨城県の鹿島工場が操業した時に、即戦力となる技術を身につけるために和歌山工場に来たのでした。おとなしい性格の彼とは良く気が合い、私のアパートで一杯飲んだり、お互いの故郷のことなどを語り合い、親しく付き合っていました。
 やがて、彼も鹿島転勤の時が来て、故郷の銚子に帰って行きましたが、それから幾年もしないうちに結婚の知らせがありました。その後、千葉から鹿島まで通っていた彼は、製鉄所の仕事を辞め、近くの個人企業に勤めるようになり、給料は減ったものの家庭は平凡ながら幸せに暮らしていたようです。それから数十年の時を経ても、私たちは、ずっと年賀状だけは自分の近況を書き添えて届け合っていました。そして、2016年の春先に奥さんから「実は主人が昨年末に肺がんが転移して亡くなりました」という手紙が届いたのです。私は、「近いうちにお悔やみに伺います」と約束をして、5月の妻が連休の時に2人で軽自動車に乗って、銚子の犬吠埼(いぬぼうさき)近くのお墓にお参りしてきました。お墓は彼の家のすぐ近くにあり、奥さんは毎日墓参りをしているものの、「それでも急に寂しくなりました」と言っていました。銚子は、私の先祖が遠洋漁業で世話になった特別の思い入れのある土地ですから、そのことのお礼の気持ちも含めて、彼のもとを訪ねることができたことに安堵感を覚えました。
 また、千葉の友人の墓参りに行く前の今年の4月半ば、和歌山では、市民運動仲間から、「田辺の寺井拓也さんが亡くなり、なきがらは病院へ献体するので、それに間に合うようにお悔やみに行きます」という知らせを受け、私も田辺へと駆け付け、少し細くなった彼の安らかな寝顔に接することができました。寺井さんもまた、直腸癌が肺に転移して半年もしないうちに亡くなったのです。
龍神村にて(寺井拓也さん、小笠原厚子さんと) 寺井さんと私は同じ昭和21年生まれですが、寺井さんは早生まれで学年は1つ上ということもあり、年は同じでも能力には大差があり、頼もしい寺井さんの市民運動での活躍に、私はいつも指導される方でした。その私たちが急速に親しくなったのは、2006年から2007年頃で、全国では憲法9条が危ないということで、多くの9条の会が発足した時期でした。その頃以降、私が紀南にゆかりの大逆事件の歴史を調べたり、「さようなら原発1千万署名」を進める上で、寺井さんから貴重な助言を得ることができましたし、9条を守る市民運動でも活発に交流するようになりました。そうした中、特に2人が意気投合して行動を共にするようになったのは、3.11福島第一原発事故から2年半を経た2013年9月に敢行した大間~福島の反原発交流ツァーにおいて、大間(あさこはうす)の小笠原厚子さんや、福島共同診療所の椎名千恵子さんたちと親交を結んだ頃からでした。そのような関係は、寺井さんが亡くなる前年まで続きました。特に2014年の福島訪問の際には、一度は仮設住宅に暮らす避難者の方を慰問したいという私の願いがかない、飯館村の避難者の皆さんが暮らす伊達市の仮設住宅にドジョウスクイの道具とアコーデオンを持ち込んで慰問することができました。それらの行動の折に触れ、寺井さんは、「人生60年だ。あとの人生は儲けものだ。」と言われました。そして、70歳まで生きた寺井さんは、その言葉を行動で示すように、儲けた10年間の人生を、人々の平和と幸せのために、市民活動家として一直線に駆け抜けた純粋な人でした。また、謙虚で一本筋の通った寺井さんが無教会派の敬虔なるクリスチャンであることを、亡くなった翌月、「偲ぶ会」が行われる少し前に知りました。寺井さんは、クリスチャンとして明治の日露戦争主戦論に抗して非戦論を唱えた内村鑑三の教えを若い頃から人知れず実践していたのです。そして、私はといえば、中年を迎えてから、内村鑑三とともに万朝報(よろずちょうほう)で非戦論の論陣を張った堺利彦(社会主義者)の影響を受けました。万朝報を去った2人の非戦論者がそれぞれの道を歩み、内村と堺の非戦論の影響を受けた私たちが、こうして出会えたのも、偶然にして必然であったのだと思いました。
 2016年5月28日に、寺井さんの地元、和歌山県田辺市の「ララ・ロカレ」で行われた「寺井拓也さんを偲ぶ会」では、私にとって生涯無二の親友であった寺井さんに天国から観てもらうためにドジョウスクイを精一杯踊りました。私は、今後も寺井さんに教わった「儲けた人生」を余すことなく使って、人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたいと思います。
(金原注)写真は、2014年4月、和歌山県田辺市龍神村にて。向かって右から、寺井拓也さん、小笠原厚子さん(あさこはうす)、西郷章さん。
                                         おわり
 

(3回分載時のリード文)
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(前編)
 はじめに
 一時代に繁栄した「突き棒船」とは
 先を見越して運搬船に乗ったオヤジ
 大黒様・恵比寿さんになったオヤジ
 初めての中国でドジョウスクイを踊る
(リード文)「毎週金曜日の夕方6時から7時までの1時間、雨の日も、風の日も、雪の日も(―和歌山はあまり雪は降りませんが)、関西電力和歌山支店前の路上で、静かに脱原発をアピールする人々の姿を見ることができます。そして、よほどのことがない限り、その中には必ず西郷章さんの姿があります。
 また、「憲法を生かす会 和歌山」として、来る10月22日(土)には、和歌山市中央コミセンのキャパ200名の会場で「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」と題した講演会(講師は何と私!)を主催したり(開催予告10/22「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」(講師:金原徹雄弁護士)@和歌山市中央コミセン/2016年9月4日)、11月12日(土)には、ソプラノ歌手・前田佳世さんの和歌山市での初めてのコンサートを企画したりと、少しもじっとしていられない(?)活躍ぶりです。
 その活動ぶりについては、西郷さんご自身のFacebookで活発に発信しておられますが、西郷さんがFacebookを始められるまでの間は、しばしば「メルマガ金原」に寄稿していただいていました。それが、だいたい2011年から2012年にかけての時期だったでしょうか。その頃の西郷さんの文章は、その後、私の最初のブログ(wakaben6888のブログ)に転載しています(巻末にリンクしておきます)。
 その後、西郷さんはすぐさまFacebookに習熟し(動画投稿もお手のもの)、普段の情報発信はもっぱらFacebookを通じて行っておられます。
 けれども、2013年以降も、ほぼ年に1本の割合で、気合いの入った長文の原稿を執筆して「メルマガ金原」(及びブログにも転載)に寄稿してくださっています。以下のとおり。

2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる

※追悼特集の一部として西郷さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』を掲載。
 
 「ほぼ年に1本の割合で」と書きましたが、今年に入ってから執筆意欲が非常に高まったのか、かねて西郷さんから「書きたいと思っています」と予告されていた『ドジョウスクイ半生記』が遂に完成し、今年3本目の原稿として掲載できる運びとなりました。
 西郷さんの得意芸である「ドジョウスクイ」については、西郷さん自身が書かれた上記「3.11反原発福島行動’14」参加記を読んだり、また、折にふれて和歌山のイベントでドジョウスクイを披露された様子を直接見たり、私がレポートした文章を読まれた方も少なくないかもしれません。
 その見本(?)として、「3.11反原発福島行動’14」の2日前の3月9日、和歌山城西の丸広場で開かれた「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」に出演された西郷章さんのステージ写真を掲載した私のブログをご紹介しておきます(「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」を開催しました)。
 けれども、これからご紹介する『ドジョウスクイ半生記』は、西郷さんがまずドジョウスクイを見習ったお父さんの話から始まり、競技カルタの天才と謳われた甥御さんや、満蒙開拓団の一員として満州に渡った奥様のお父様、そして中国残留孤児として取り残され、その後家族との再会を果たして帰国された奥様のお姉様やその家族のお話、さらに、最近の親友との別れまで、ドジョウスクイを通じて自分と周囲の人々との交流を振り返る本格的な自伝となっており、いままで以上に読み応えがあります。それに応じて分量もかなりのものとなりましたので、前編・中編・後編の3回分載とさせていただくことにしました。
 前編の今回は、大分県臼杵(うすき)市で漁師として働き、その後、家族で海運業を営んだお父様を中心としたお話と、西郷さんが住友金属和歌山製鉄所で働くようになってから結婚された奥様のお父様や、中国に残されたお姉様のお話が中心で、そこにドジョウスクイのお話も散りばめられています。何しろ、奥様のお姉様と会うために中国を訪問した際の北京空港での別れの宴席で、「初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになった」というのですから。」
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)
 少年野球のコーチ、そしていつもヘルメットをかぶっていたH君
 正調・安来節を覚えた中学PTA役員の頃
 カルタ取り「小倉百人一首」の名人、甥の西郷直樹君のこと
(リード文)「西郷章さんの大作『ドジョウスクイ半生記』の中編をお届けします。3人の息子さんにめぐまれた西郷さんは、PTA活動に熱心であった奥様の影響もあり、少年野球チームのコーチ、PTAコーラスへの参加、さらにPTAの役員(和歌山市小中PTA連合会会長、和歌山県PTA連合会副会長まで)を務めながら、様々な場でドジョウスクイを披露していくことになります。
 さらに、ドジョウスクイとの関連はあまりないものの、競技かるたの世界で不世出の天才と謳われる永世名人(社団法人全日本かるた協会認定)西郷直樹さんが、西郷さんの甥(弟さんの息子)であることが明かされます。ちなみに、Wikipediaにも「西郷直樹」という項目がありました。
 少年野球を通じて交流のあった少年(H君)にドジョウスクイを見てもらえた思い出など、印象深いエピソードにもご注目ください。」
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)
 ドジョウスクイを踊れる幸せ
 その場その時で臨機応変に踊る
 福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して
 天国の親友に捧げたドジョウスクイ
(リード文)「西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)をお届けします。いよいよ最終編となる今回は、今まで以上に「ドジョウスクイと人生」が語られています。
 実は、西郷さんから最初にお届けいただいた『ドジョウスクイ半生記』の原稿には、「ドジョウスクイは平和の踊り」という小見出しのついたパートがありました。非常に魅力的なキャッチフレーズではあったのですが、本文の内容と符合しておらず、まことに「惜しい」と思いながら、別の小見出しに変更しました。
 私自身、西郷さんによるドジョウスクイの実演を拝見したのは全部で3回、会場は全て和歌山城西の丸広場でした。
 2014年3月9日 「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」
 2014年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”
 2015年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”
西郷章さん(ハッピーバースデイ憲法2014) 本来、お座敷芸として発展したドジョウスクイを踊るのにふさわしい会場とはとても言えない広いところで、それでも西郷さんが果敢に踊られたのは、「世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。」(本稿「福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して」より)という決意があったからでしょう。
 本稿が、今年の5月、「寺井拓也さんを偲ぶ会」での、平和・人権・脱原発に尽力して先立った亡き親友に捧げるドジョウスクイで締めくくられたのも、まことに感慨深いものがあります。
 私も、微力ながら、西郷さんとともに「人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたい」という思いや切なるものがありますし、本稿を最後まで読んでくださった多くの方も同じ思いを共有してくださるものと信じます。
(金原注)写真は、2014年の憲法記念日、和歌山城西の丸広場の特設ステージでドジョウスクイを踊る西郷章さん(“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”にて/撮影:金原)。ドジョウスクイの写真にしては「凜々し過ぎる」かもしれませんが、西郷さんの平和にかける熱い思いの表れでしょう(もしかしたら、痛風の痛みをこらえていたからかもしれませんが)。
 

(「メルマガ金原」から後日「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)

2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します

2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)

2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)

2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』

(「メルマガ金原」から即日「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる

※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。


第192回国会(臨時会)開会の日に「異様な光景」を見た~今後の「改憲論議」に注目!

 今晩(2016年9月26日)配信した「メルマガ金原No.2581」を転載します。

第192回国会(臨時会)開会の日に「異様な光景」を見た~今後の「改憲論議」に注目!

 本日(2016年9月26日)、第192回国会(臨時会)が召集されました。会期は11月30日までの66日間です。
 報道等では「臨時国会」と言い習わされていますが、憲法上、国会法上は「臨時会」という用語が使用されています。
 ちなみに、「第192回」というのは、日本国憲法の施行(1947年5月3日)以降に召集された19
2回目の国会(常会、臨時会または特別会)という意味です。
※注「国会会期一覧」(衆議院ホームページより)

 なお、雑学風に説明を加えれば、「召集」というのは、「召し集める」(目上の者からの呼び出し・お召し)という語意から、同じような意味で使われる「招集」との使い分けが難しいのですが、国会「召集」については、「招集」では明らかに間違いです。
 典拠は、日本国憲法7条2号の「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。(略)二 国会を召集すること。」です。
 さらに、この規定の淵源は、大日本帝国憲法7条「天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス」にまで遡ります。
 つまり、国会が活動能力を付与されるためには、第三者たる天皇による「召集」という(内閣の助言と
承認に基づく)「国事行為」が必要とされているのです。もちろん、「召集」というような行為を必要とせず、国会が自立的に活動できるようにしようと思えばできますが、そのためには憲法改正が必要です。
 雑学ついでに、地方議会はどうなっているかと言えば、「普通地方公共団体の議会は、普通地方公共団体の長がこれを招集する。」(地方自治法101条)とあり、「召集」ではなく、「招集」という用語が使用されています。
 NHKの放送では、「召集」は「日本の国会、旧日本軍に限定」して使用し、その他の場合には(例えば、米国が予備役を「招集」するというような)「招集」を使うという方針ということですが(NHK放送文化研究所「放送現場の疑問・視聴者の疑問」)、「召集」を使用するのは、いずれも天皇が「召す」
場合であり、さすがにこれを「招集」と言い換えるのははばかられるということかもしれません。

 会期は、とりあえず11月30日までと定められましたが、国会法12条は、「1項 国会の会期は、両議院一致の議決で、これを延長することができる。/2項 会期の延長は、常会にあつては一回、特別会及び臨時会にあつては二回を超えてはならない。」とありますので、もちろん会期延長の可能性もあります。

 ところで、秋の臨時会(春の臨時会というのはまずないですね。1月に召集するのを「常例」とする常
会の会期が150日と法定されていますから)といえば、昨年、安倍内閣が、「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」(日本国憲法53条)という明文の規定に違反して、臨時会の召集を決定しなかったことが思い出されます。
※注 弁護士・金原徹雄のブログ「憲法53条後段に基づく臨時会召集要求と国会の先例について」(2015年10月21日)を参照願います。

 さて、私が長々とした前置きを書き連ねながら、臨時会召集の話題を取り上げたのは、先の参院選の結果、衆参両院で改憲に前向きな政治勢力が2/3以上の多数を占めるという事態が現実のものとなって以降、初めて召集された国会であり、そこで改憲論議がどのように進められようとしているのか、重大な関心を持たざるを得ないからです。
 さらに、個人的な事情を付け加えると、10月6日(木)にクローズの学習会で、また、10月22日
(土)には公開講演会(午後2時~/和歌山市・中央コミセン/主催:憲法を生かす会 和歌山)で、改憲の動向を主要なテーマとした講演の講師を務めなければならず、レジュメを書くためにも、安倍晋三首相の「所信表明演説」の内容や、両院の憲法審査会の状況をフォローしなければならないという差し迫った必要もあるからです(「施政方針演説」は常会冒頭で行われる首相の演説を指し、臨時会や特別会冒頭での首相の演説は「所信表明演説」と称するのが普通)。
 
 ということで、首相官邸ホームページに掲載された安倍首相の所信表明演説の原稿全文を読破しました。上記のような必要に迫られなければ、とても読む気になるような文章ではないですけどね。
 なお、首相が原稿を良好ならぬ滑舌で読み上げる動画の視聴は省略しようと思っていたのですが、たまたま朝日新聞デジタルで以下の記事を読み、該当箇所だけは確認のために視聴しました。

朝日新聞デジタル 2016年9月26日17時21分
首相の呼びかけで自民議員が起立・拍手 衆院議長は注意

(抜粋引用開始)
 安倍晋三首相が26日の衆院本会議で行った所信表明演説で、領土や領海、領空の警備に当たっている海上保安庁、警察、自衛隊をたたえた際、安倍氏に促された自民党の議員たちが一斉に立ち上がって手をたたき続けたため、約10秒間、演説が中断した。大島理森議長は「ご着席下さい」と議員らを注意した

 安倍氏は演説で「現場では夜を徹し、今この瞬間も海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が任務に当たっている」と強調。「今この場所から、心からの敬意を表そうではありませんか」と呼びかけた。これに自民
議員らが呼応して起立。安倍首相も壇上で拍手をした。
(引用終わり)

 政府インターネットテレビの中継では、26分以降でこの「異様な光景」(小沢一郎氏談)が見られます
。この光景を見て「異様」と思わない人たちが自民党に投票しているのでしょうか。日本の「北朝鮮化」の勢いは止まりませんね。
 
 さて、肝心の所信表明演説ですが、「憲法改正」について触れたのは、末尾の以下の箇所です。

「憲法はどうあるべきか。日本が、これから、どういう国を目指すのか。それを決めるのは政府ではありません。国民です。そして、その案を国民に提示するのは、私たち国会議員の責任であります。与野党の
立場を超え、憲法審査会での議論を深めていこうではありませんか。
 決して思考停止に陥ってはなりません。互いに知恵を出し合い、共に「未来」への橋を架けようではありませんか。」
 
 論評の対象とするにしては短か過ぎますが、それでも、文句をつけようと思えばつけられます。例えば、所信表明演説というのは内閣の代表者として行うものであって、与党の代表者として行うものではないのですから、「与野党の立場を超え、憲法審査会での議論を深め」ようという呼びかけは本来筋違いであり、憲法99条の「憲法尊重擁護義務」に抵触する恐れもなしとしません。
 また、「思考停止」というのは、「改憲反対」の立場を暗に指すとも解釈でき、国民のうちに多数存在
する「護憲派」に対するあからさまな侮辱であり、挑発であるという読み方もできます。

 さて、議論の主要な舞台は、両院に設置された憲法審査会となります。当面、その審議の動向には注意を怠らないようにしなければなりませんので、それぞれのホームページにリンクしておきます。是非皆さんも注目してください。
 


(付録)
『Bob Dylan ライセンス・トゥ・キル の替え歌』 日本語詞・演奏:中川五郎
 

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)

 今晩(2016年9月25日)配信した「メルマガ金原No.2580」を転載します。

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)

 西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)をお届けします。いよいよ最終編となる今回は、今まで以上に「ドジョウスクイと人生」が語られています。
 実は、西郷さんから最初にお届けいただいた『ドジョウスクイ半生記』の原稿には、「ドジョウスクイは平和の踊り」という小見出しのついたパートがありました。非常に魅力的なキャッチフレーズではあったのですが、本文の内容と符合しておらず、まことに「惜しい」と思いながら、別の小見出しに変更しました。
 私自身、西郷さんによるドジョウスクイの実演を拝見したのは全部で3回、会場は全て和歌山城西の丸広場でした。
2014年3月9日 「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」
2014年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”
2015年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”
西郷章さん(ハッピーバースデイ憲法2014) 本来、お座敷芸として発展したドジョウスクイを踊るのにふさわしい会場とはとても言えない広いところで、それでも西郷さんが果敢に踊られたのは、「世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。」(本稿「福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して」より)という決意があったからでしょう。
 本稿が、今年の5月、「寺井拓也さんを偲ぶ会」での、平和・人権・脱原発に尽力して先立った亡き親友に捧げるドジョウスクイで締めくくられたのも、まことに感慨深いものがあります。
 私も、微力ながら、西郷さんとともに「人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたい」という思いや切なるものがありますし、本稿を最後まで読んでくださった多くの方も同じ思いを共有してくださるものと信じます。
(金原注)写真は、2014年の憲法記念日、和歌山城西の丸広場の特設ステージでドジョウスクイを踊る西郷章さん(“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”にて/撮影:金原)。ドジョウスクイの写真にしては「凜々し過ぎる」かもしれませんが、西郷さんの平和にかける熱い思いの表れでしょう(もしかしたら、痛風の痛みをこらえていたからかもしれませんが)。


(中編)からの続き

         ドジョウスクイ半生記(後編)
            
                                     西 郷   章
 

ドジョウスクイを踊れる幸せ
 私は、職工時代には合理化などに反対したため、会社からはあまり好かれていなかったかもしれません。しかし、職場の中では、ドジョウスクイを踊ったり、アコーデオン伴奏をしたおかげで、多くの同僚には好意をもって接してもらうことができたと思っています。
IMG_0008(2010年 住金職場忘年会) 2000年頃の年の瀬も迫る夕方に、同じ会社で働いていた(職場は全然違います)同期入社のM君がやつれた格好で訪ねてきて、「寒い、今は普通の生活ができていない。」と言ってきたので、自分の着古した防寒着などを与え、ご飯を食べさせて、とりあえず一泊させてあげることにしました。しかし、その日は、泊まりがけの忘年会でしたので、妻に後のことを頼んで宴会場へ行くと、得意なドジョウスクイを踊ってみんなで忘年会を楽しみました。そして、次の日に自宅に帰ると、M君は自分の一別以来の人生を語りながら、「この冬をしのぐのに釜ヶ崎に臨時の宿泊所があり、そこは1万4千円払えば一冬越せるだけ泊まらせてもらえるから金を貸して欲しい。」と言うので、言われるままに金を貸してあげることにしました。すると、「この恩は決して忘れない。金は必ず返しに来ます。」と言って立ち去りました。私は、彼の言うことをほとんど信用していませんでしたから、金は落としたものとしてあきらめました。しかしその時、彼は本当にそう思っていたのか、その後、忘れた頃に手紙が来て、中身をみると熱心な文章で、お礼と必ず約束を守るようなことが書かれていました。しかし、次に彼から電話があったのは、それから1年ほど経った夏の夜中の2時頃のことでした。「今、京都のある駐在所で保護されているので、身元引受人になって欲しい。」との連絡でした。さすがに明日仕事があるのに、夜中の2時に起こされた私は、「いい加減にしてくれ、私は知らない。」と言って電話を切りました。彼はその後どうしているのか、生きているのかどうかも分かりませんが、それきり何も言ってこなくなりました。高校を卒業して九州から集団就職さながらこの地に来て、合理化の波にのまれ、要領を得ずしてあのような人生を送らねばならなかったのは決して彼が悪いわけではなく、私自身にも一つ間違えば起こり得る、誰にでも起こり得る過酷な運命と隣り合わせに生きていることを知らなければならないと思いました。
(金原注)写真は、2010年ころ、職場(住友金属)の忘年会で踊る西郷章さん。

その場その時で臨機応変に踊る
 ドジョウスクイを踊る場所は、その時々により全部違います。ですから、踊る直前にその場を見定めて、あそこではこう踊る、ここはこうすると、あらかじめ自分で計算しておかなければなりません。といっても、踊り自体は基本の動作を4~5回程踊るだけですからきわめて単純です。出来るだけお客さんの近くで、与えられたスペースを計算して踊りの順序を間違えなければ、ほぼうまくいったと言えるでしょう。狭すぎるところ、広すぎるところと色々経験しましましたが、一つ変わった場所で踊ったことをご紹介しましょう。市民運動の仲間で、和歌山の隣りの市で市会議員をやっているОさんの選挙の時でした。
Оさんは、ずいぶん前まではある民間労組の組合長をしており、その時によく歌った『頑張ろう』という歌を出陣式で歌いたいということで、私がアコーデオンで伴奏をすることになったのですが、それだけではなく、事務所の前で私にドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれたのです。なぜドジョウスクイなのかとОさんに聞きましたところ、「ドジョウをスクウ=票をスクウで縁起がいいからです。」との答えが返ってきました。それにしても、私はドジョウスクイをお座敷で踊ったことは何回もありますが、お土敷(砂利の上)で踊るのは初めてです。お座敷ですら、真剣に踊れば、知らないうちに必ず向う脛(すね)のあたりが赤くむくれてしまうのに、石ころだらけの土の上でまともに踊るとどうなるか、経験的、直感的に身の危険を察知しました。そのおかげで、危ないところでは手加減をして怪我をすることなく踊り終えることができたのです。
 そして、その後に嬉しいことがありました。私の踊りを見ていた前の後援会長の奥さんと1週間ぶりに会った時、奥さんは、亡くなられたご主人の仏前で、私の踊りのことを「いいものを見せてもらった」と報告しましたと言ってくれたのです。一見場違いに思えるところでも、そんなに喜んでもらえる人がいたことに、どこで踊っても決して無駄ではないと自信を持ちました。
 その市会議員のОさんから2016年の8月下旬に電話があり、「私の住むI市では、10月初旬に市長選がある。現職は5期20年務めており、これ以上市長をやらせることは市政のマンネリ化に拍車をかけ、市民にとって決して好ましいことではなく、市民の方を向いた政治をするため、また無投票当選を防ぐためにも私が市長選に立候補するからよろしく頼む。」と言ってきました。Оさんが市長選に立候補するのは今回で2度目であり、先日事務所開きに行ってきました。ところが最近になって、「出陣式の時に元気の出る歌なら何でもいいからアコーデオンを引いてくれないか。」という依頼のメールが届きましたので、快く了承したものの、今年の3月、郡山市で開かれた「3.11反原発福島行動’16」で弾いて以来全く触っていなかったので、9月25日の出陣式に向けて慌てて練習をしているところです。今回の出陣式では、「三百六十五歩のマーチ」を歌ってもらおうと思っていますが、残念ながらドジョウスクイはお呼びがかかりませんでした。
 
福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して
 3・11福島第一原発事故があり、それから1年が過ぎた頃から、今は亡き親友の寺井拓也さんの努力により、福島の被災者の皆さんとの交流が生まれました。そして、そのような関係の中から、「3.11反原発福島行動’14」の会場でドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれることになり、大きな会場で踊ったことのない私は、そのリハーサルも兼ねて、福島(会場は郡山市)での集会の2日前に和歌山城西の丸広場で開催されたイベント(フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション)に出させてもらいました。和歌山では、その後も、“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”という大きなイベントなどでドジョウスクイを踊る機会をいただいたりしています。
飯舘村民仮設住宅を慰問して ところで、2014年3月の反原発福島行動に参加することになった私は、「被災者の皆さんが避難をされている仮設住宅に慰問に行きたい」と現地の友人にお願いしたところ、その希望がかない、アコーデオンとドジョウスクイの道具一式を持参して飯館村の高齢者の皆さんが暮らしておられる仮設住宅を訪問することになりました。その時、目的地に向かうタクシーの中で、運転手さんが話されたことが印象的でした。「ドジョウスクイですか。福島はドジョウがたくさん取れるところです。1時間もしないうちにバケツ一杯も取れます。今でもたくさん取れます。しかし、それを食べることはできません。」ということでした。慰問先の仮設住宅の皆さんは、よく笑ってくれました。しかし、大成功かに見えた慰問でしたが、1つだけ気がかりなことがありました。それは、最後に『故郷(ふるさと)』という歌をみんなで歌ってもらった時のことです。歌詞の3番♪こころざしを果たして~いつの日にか帰らん~♪の歌詞に差しかかりますと、皆さんの声が聞こえなくなったのです。それで私は、「もう一度大きな声で歌いましょう。」と合図をしながら歌ったのですが、なぜあの時に声が途切れたのか、その理由を案内の人に聞きました。するとその人は、「飯館村の人たちは、東電や国が情報を隠して知らせなかったために避難するのが遅れてしまい、その後も毎年もうすぐ帰れると行政に騙され続け、帰れないことを体で知ってしまったのです。だから3番は歌えないのです」と言ったのです。その話を聞いた時には本当にショックを受けました。その後も、希望をなくしたお年寄りは、帰れない故郷のことを思いながら次々に亡くなっていきます。そして政府や行政は、「安心、安全、大丈夫だ。」と言いながら飯館村にも帰還政策を推し進めていますが、この人たちのことを思うときに本当に切ない気持ちになります。
 私はこの10月で古希(満70歳)を迎える年になりました。しかし、世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。
(金原注)写真は、2014年3月、福島県伊達市の仮設住宅(飯舘村の方が避難)を慰問してドジョウスクイを踊る西郷章さん。
 なお、今のところ私が西郷さんのドジョウスクイを生で見た最後の機会となっているのが“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”です。その写真レポートを私のブログに書いており、西郷さんのステージ(この年は土の上)姿の写真も掲載していますのでご参照ください(写真レポートで振り返る“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”)。

天国の親友に捧げたドジョウスクイ

 私は、2015年の暮れから2016年の春にかけて2人の親友を相次いでなくしました。一人は、若いときの職場の同僚で、千葉から和歌山の住友金属に入社した友人でした。彼は、近い将来茨城県の鹿島工場が操業した時に、即戦力となる技術を身につけるために和歌山工場に来たのでした。おとなしい性格の彼とは良く気が合い、私のアパートで一杯飲んだり、お互いの故郷のことなどを語り合い、親しく付き合っていました。
 やがて、彼も鹿島転勤の時が来て、故郷の銚子に帰って行きましたが、それから幾年もしないうちに結婚の知らせがありました。その後、千葉から鹿島まで通っていた彼は、製鉄所の仕事を辞め、近くの個人企業に勤めるようになり、給料は減ったものの家庭は平凡ながら幸せに暮らしていたようです。それから数十年の時を経ても、私たちは、ずっと年賀状だけは自分の近況を書き添えて届け合っていました。そして、2016年の春先に奥さんから「実は主人が昨年末に肺がんが転移して亡くなりました」という手紙が届いたのです。私は、「近いうちにお悔やみに伺います」と約束をして、5月の妻が連休の時に2人で軽自動車に乗って、銚子の犬吠埼(いぬぼうさき)近くのお墓にお参りしてきました。お墓は彼の家のすぐ近くにあり、奥さんは毎日墓参りをしているものの、「それでも急に寂しくなりました」と言っていました。銚子は、私の先祖が遠洋漁業で世話になった特別の思い入れのある土地ですから、そのことのお礼の気持ちも含めて、彼のもとを訪ねることができたことに安堵感を覚えました。
 また、千葉の友人の墓参りに行く前の今年の4月半ば、和歌山では、市民運動仲間から、「田辺の寺井拓也さんが亡くなり、なきがらは病院へ献体するので、それに間に合うようにお悔やみに行きます」という知らせを受け、私も田辺へと駆け付け、少し細くなった彼の安らかな寝顔に接することができました。寺井さんもまた、直腸癌が肺に転移して半年もしないうちに亡くなったのです。
龍神村にて(寺井拓也さん、小笠原厚子さんと) 寺井さんと私は同じ昭和21年生まれですが、寺井さんは早生まれで学年は1つ上ということもあり、年は同じでも能力には大差があり、頼もしい寺井さんの市民運動での活躍に、私はいつも指導される方でした。その私たちが急速に親しくなったのは、2006年から2007年頃で、全国では憲法9条が危ないということで、多くの9条の会が発足した時期でした。その頃以降、私が紀南にゆかりの大逆事件の歴史を調べたり、「さようなら原発1千万署名」を進める上で、寺井さんから貴重な助言を得ることができましたし、9条を守る市民運動でも活発に交流するようになりました。そうした中、特に2人が意気投合して行動を共にするようになったのは、3.11福島第一原発事故から2年半を経た2013年9月に敢行した大間~福島の反原発交流ツァーにおいて、大間(あさこはうす)の小笠原厚子さんや、福島共同診療所の椎名千恵子さんたちと親交を結んだ頃からでした。そのような関係は、寺井さんが亡くなる前年まで続きました。特に2014年の福島訪問の際には、一度は仮設住宅に暮らす避難者の方を慰問したいという私の願いがかない、飯館村の避難者の皆さんが暮らす伊達市の仮設住宅にドジョウスクイの道具とアコーデオンを持ち込んで慰問することができました。それらの行動の折に触れ、寺井さんは、「人生60年だ。あとの人生は儲けものだ。」と言われました。そして、70歳まで生きた寺井さんは、その言葉を行動で示すように、儲けた10年間の人生を、人々の平和と幸せのために、市民活動家として一直線に駆け抜けた純粋な人でした。また、謙虚で一本筋の通った寺井さんが無教会派の敬虔なるクリスチャンであることを、亡くなった翌月、「偲ぶ会」が行われる少し前に知りました。寺井さんは、クリスチャンとして明治の日露戦争主戦論に抗して非戦論を唱えた内村鑑三の教えを若い頃から人知れず実践していたのです。そして、私はといえば、中年を迎えてから、内村鑑三とともに万朝報(よろずちょうほう)で非戦論の論陣を張った堺利彦(社会主義者)の影響を受けました。万朝報を去った2人の非戦論者がそれぞれの道を歩み、内村と堺の非戦論の影響を受けた私たちが、こうして出会えたのも、偶然にして必然であったのだと思いました。
 2016年5月28日に、寺井さんの地元、和歌山県田辺市の「ララ・ロカレ」で行われた「寺井拓也さんを偲ぶ会」では、私にとって生涯無二の親友であった寺井さんに天国から観てもらうためにドジョウスクイを精一杯踊りました。私は、今後も寺井さんに教わった「儲けた人生」を余すことなく使って、人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたいと思います。
(金原注)写真は、2014年4月、和歌山県田辺市龍神村にて。向かって右から、寺井拓也さん、小笠原厚子さん(あさこはうす)、西郷章さん。
                                            おわり
 

(「メルマガ金原」から後日「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)
2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)
2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)
2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』

(「メルマガ金原」から即日「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる
※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。
2016年9月22日
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(前編)
2016年9月23日
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)

映画『レジスタンスなう』制作協力感謝試写会(9/22@京都市)での川口真由美さんの歌声を聴いて元気を貰う

 今晩(2016年9月24日)配信した「メルマガ金原No.2579」を転載します。

映画『レジスタンスなう』制作協力感謝試写会(9/22@京都市)での川口真由美さんの歌声を聴いて元気を貰う

 ドキュメンタリー映画『レジスタンスなう!』といっても、観た人はほとんどいないはずです。一昨日(9月22日)、京都市の「ひと・まち交流館京都」2F大会議室で「制作協力感謝試写会」が開かれたばかりですし、ネット検索しても、映画製作委員会の公式サイトも、映画自体の予告編も見当たりませんから。
 実は、上記「制作協力感謝試写会」における監督の原田圭輔氏による挨拶や、この映画の中心を担って出演している(と推測される)シンガーソングライターの川口真由美さんによる挨拶と演奏が、IWJ京都によって中継され、その動画アーカイブが視聴できることに気がつき、私も初めてこのような映画が作られたことを知ったのです。
 何しろ、予告編すら観ていないのですから、映画の評価を云々することは全く不可能ですが、私としては、こういう映画が作られたということ自体、心にとどめるべきという直感が働き、今日のメルマガ(ブログ)に取り上げることにしたものです。

 まず、一昨日の「『レジスタンスなう』制作協力感謝試写会」のFacebookイベントページから、この映画の成り立ちや概要を説明した部分を引用してみます。

(引用開始)
【レジスタンスなう】
「この歌は届きますか?」
 2014年夏、沖縄・辺野古を訪ねたシンガーソングライター川口真由美は、その美しい自然、基地建設反対を貫き座り込む人々の深い心に出会い感動。以来、ほぼ毎月辺野古を訪ね、人々を歌で励まし「絆」を深めてきた。―
 その中で、辺野古の基地建設反対運動のリーダー・山城博治さんとの出会いは彼女にとっての大きな転機だった。
 2014年12月、京都府経ヶ岬(きょうがみさき)で地元住民の反対を押し切り新たな米軍のXバンドレーダー基地が建設された。防衛相は安心安全を謳うが、住民たちは十分な説明もないままに標的にされるかもしれない恐怖や見えない電磁波の影響などに怯えながら暮らしている。抗いながら立ち向かう人々がいる。
 この映画は川口真由美と彼女を取り巻く彼ら彼女らの平和への想い、叫び、歌声に焦点をあて「レジスタンスなう!」とまさに今権力に立ち向かっている人々の姿を映し出す事で、沖縄辺野古の基地問題、また、世間にあまり知られていない京丹後Xバンドレーダー基地問題を浮き彫りにする。
 さらに、彼女達の等身大の日常を生き生きと描くことで、平和への運動が特別な事ではなく、この国に住むすべての人々に平等に与えられた権利であり、自分たちの生活に密接する大きな問題であることを視聴者に問う。この映画の製作・上映運動が、全国の平和を求めて闘う人々の連帯の輪を広め、強くすることを願って―
長編ドキュメンタリー映画(70分)
原田圭輔初監督作品
『レジスタンスなう』(『炎の歌姫』改題)
(引用終わり)

 そういえば、IWJは、【京丹後「Xバンドレーダー」配備問題】について、継続して追跡取材を積み重ねていましたからね。今回の「『レジスタンスなう』制作協力感謝試写会」中継も、その流れの一環なのかもしれません。
 以下に、IWJの中継動画アーカイブをご紹介します。
 
「レジスタンスなう!」制作協力感謝試写会における原田圭輔監督挨拶、川口真由美氏(シンガソングライター)挨拶・演奏 2016.9.22
2分~ 「レジスタンスなう!」映画製作実行委員会代表挨拶 大湾宗則氏
7分~ 監督挨拶 原田圭輔氏
(試写会/これは中継されません、もちろん)
14分~49分 挨拶・演奏 川口真由美氏(シンガソングライター)
 18分~『美しき五月のパリ』
 23分~『悲しみから生まれた平和への道』(オリジナル)
 28分~『ケサラ』
 33分~『安里屋ユンタ』
 39分~『戦争は絶対にしない』(?オリジナル)
 45分~『翼をください』

 5曲目の曲名は正直「聞き取れた」という自信がありません。ちなみに、2曲目については、YouTubeに『悲しみから生まれた平和の道』と表記された録画がアップされたりしていますが、どう考えても『平和への道』の方が適切だろうと思います(私は作者ではありませんが)。
 YouTubeには、川口真由美さんの様々な演奏がアップされていますが、ここでは2つだけご紹介します。
 1つは、2014年8月22日の夜、キャンプ・シュワブゲート前での「ナイトライブ」です。

キャンプ・シュワブゲート前ナイトライブ(一部手話あり) (2014年8月22日 沖縄県名護市辺野古)(12分47秒)

 
冒頭~ 翼をください
 3分57秒~ ケサラ
 7分30秒~ 故郷
 9分34秒~ 美童しまうた

 最後にもう1曲。フランスの抵抗歌として名高い『オラシャヤーン』の日本語版(というのがあったんだ!)を川口真由美さんが歌っています。これはいいですね。

オラシャヤーン! 日本語歌詞 On lache rien, version japonaise/ 歌:川口真由美


 第1部が映画『レジスタンスなう』上映、第2部が川口真由美さんコンサートという企画、どこか考えてみませんか?


(付録)
『HK & Les Saltimbanks "On lâche rien" (Japanese subtitles) あきらめないぞ』
 

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)

 今晩(2016年9月23日)配信した「メルマガ金原No.2578」を転載します。

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)

 西郷章さんの大作『ドジョウスクイ半生記』の中編をお届けします。3人の息子さんにめぐまれた西郷さんは、PTA活動に熱心であった奥様の影響もあり、少年野球チームのコーチ、PTAコーラスへの参加、さらにPTAの役員(和歌山市小中PTA連合会会長、和歌山県PTA連合会副会長まで)を務めながら、様々な場でドジョウスクイを披露していくことになります。
 さらに、ドジョウスクイとの関連はあまりないものの、競技かるたの世界で不世出の天才と謳われる永世名人(社団法人全日本かるた協会認定)西郷直樹さんが、西郷さんの甥(弟さんの息子)であることが明かされます。ちなみに、Wikipediaにも「西郷直樹」という項目がありました。
 少年野球を通じて交流のあった少年(H君)にドジョウスクイを見てもらえた思い出など、印象深いエピソードにもご注目ください。
 

(前編)からの続き

                 ドジョウスクイ半生記(中編)
            
                                                             西 郷   章 

少年野球のコーチ、そしていつもヘルメットをかぶっていたH君

IMG_0004(1992年 少年野球最後(6年生)の二男) 中国に家族全員で出かけた2年後の1987年には、二男が小学校2年生となり、少年野球のお世話になるようになりました。それまでにも、妻は長男の頃からPTA(楠見地区では「育友会」と称していました)活動に非常に熱心でしたので、その付き合いの関係で、同じ楠見小学校のグランドを借りて行われている少年野球に誘われたのでしょう。そこへ私までもが駆り出されたのです。私は臼杵での少年時代、中学校から商業高校3年生まで、田舎野球ではありますが、一応6年間野球をやっていましたので、少年野球のコーチなら何とか務まるのではないかと思い、しぶしぶと承諾しました。ところが、実際にやりだすと責任感も出てきて熱心に関わるようになってしまいました。その頃、私は住友金属和歌山製鉄所の職工として3交代勤務でしたから、いつも練習などに出られるわけではありませんでしたが、極力出るように努めました。その時にコーチとして仲良くしていただいたIさんとUさんも、和歌山市内の化学工場に勤めており、私と同じように3交代をしながらコーチとしてお世話をされていました。少年野球の練習は平日もありますので、日中勤務のサラリーマンよりも、かえって3交代勤務の者の方が時間的に融通が利くのです。その点では、清掃事業に勤める職員も午後3時頃には勤務が終わりますので、指導するには時間的にも都合よく、彼らと私たちが主になって運営されました。
 少年野球は、自分の子供のために家族が総出で試合の応援をします。もちろん、私の家族もそうでしたが、一緒にコーチを務めていたIさんには、私の三男と同じ年くらいのH君という息子さんがおり、H君は応援の時、いつもヘルメットをかぶってグランドに来るので、余程野球が好きなのかな?と最初は思っていました。しかし、付き合っていくうちにそうではないことが分かりました。H君がいつもヘルメットをかぶってグランドに来るのは、頭にボールが当たったら困るからです。H君は、物心つく頃から脳腫瘍があることが分かり、それを治療するために頭蓋骨に穴を開けなければならず、そこを保護するための防具としてヘルメットをかぶっていたのです。
IMG_0006(1992年 少年野球の家族と瀬戸大橋巡りの旅館で) 私の家族はIとYさんに特に親しくしていただき、いよいよ少年野球も卒業する頃の秋に、3家族で瀬戸大橋の見物を兼ねて四国への一泊旅行に出かけたのです。その夜の食事の時に、私はあらかじめ用意していた小さなザルを持ち、タオルをかぶり、旅館の寝間着姿のまま、子供たちの前でドジョウスクイを踊ったのです。すると子供たちは大喜びです。もちろんH君も喜んでくれました。そのH君も、中学3年生の時にはかなくこの世を去ってしまいました。今でも、あの時に自己流ながらドジョウスクイを踊って子供たちが喜んでくれたことを思う時、ふとH君のはかない人生を想像してしまいます。
(金原注)1枚目の写真は、1992年、少年野球最後の年(小学校6年生)の西郷さんの息子さん(二男)。
 2枚目は、同じ年、少年野球の3家族が瀬戸大橋巡りの一泊旅行をした際の旅館でドジョウスクイを踊る西郷章さん。

正調・安来節を覚えた中学PTA役員の頃
 安来節には2つの踊りがあります。1つは「女踊り」で、緩やかなテンポで♪出雲~名物~荷物にゃならぬ~♪と歌われ、踊り自体も上品さこそ感じても面白いものではありません。それに比べて「男踊り」は、♪オヤジ~どこ行く~裏の小川に~ドジョ取りに~♪と早いテンポで歌われ、踊りもそれに合わせてリズミカルに腰を振ります。私がこれまで自己流で踊っていた踊りは、「女踊り」の歌に合わせたものでした。そして、ローカルで踊られる一般的な昔からの踊りは、この「女踊り」の歌に合わせて、男が面白おかしく踊るものでした。それに比べて、本場の面白い安来節として覚えようとしたのが、テンポの速い「男踊り」だったのです。
 さて、小学校では少年野球とともに、妻の勧めで早くから育友会(PTA)のコーラス部に入っていました。男性が少ないために一度顔を出すとなかなかやめることができません。小学校育友会のコーラス部に参加する一方で、少年野球でお世話になった二男が中学2年生になる頃には、中学校のPTAの役員も掛け持ちするようになりました。正調・安来節を覚えたのはその頃ではなかったかと思います。ところが、二男と入れ替えに3つ違いの三男が中学に入ると、中学校育友会(PTA)の会長を務める羽目になったのです。楠見中学校は、楠見、楠見西、楠見東の3つの小学校区からなり、中学の育友会長はそれぞれの小学校が輪番制で受け持たねばならないため、会長に一番ふさわしいからとか、なりたいからといってなれるものではありません。たまたま順番が楠見小学校にまわってきて、その条件の中で、それまで2年間、他の役員を務めてきた私が会長にされてしまったのです。そして、会長になったこの頃に、ドジョスクイ(正調・安来節)を初めて育友会の宴会の席などで1~2回は披露したのではないかと思いますが、はっきりと覚えていません。
 私はその後、計3年間楠見中学校の会長を務め、最後の3年目には、和歌山市小中PTA連合会長にされてしまいました。市の会長になりますと、和歌山市は自動的に4人いる県PTА連合会副会長のポストが付いてきます。やはりドジョスクイで一番華やいだのはこの頃でした。宴会の時は必ず引っ張り出され、ある時には和歌山市教育長と一緒に踊ったこともありました。当時の市の教育長は坂口さんという方で、色々芸達者な方でしたが、その中の一つにドジョウスクイがありました。自己流ながらドジョウスクイの名人との評判があり、私はぶっつけ本番で2人踊りをやったのですが、ストーリーなどはなく、めいめいが勝手に踊るのです。ところが坂口さんは、本場安来市で踊った時に、そこの名人から「あなたは胴が長いからドジョウスクイにはピッタリです」と言われただけあって、その巧みな腰つきには唖然とさせられました。この2人踊りが評判となり、瞬く間に5名の女性の役員さんが弟子になってしまったのです。しかも嬉しいことに、皆さんドジョウスクイにはぴったりの美貌ぞろいで私も大満足でした。
IMG_0005(1997年 和歌山市PTA連合会最後の懇親会) いよいよ私のPTA活動も終わろうという時、年に1回の全国大会の開催地が大分県に決まったのです。順番からすれば熊本県のはずでしたが、あろうことか、に熊本県の幹部役員が会費を着服したことが発覚して、急きょ大分県に変わったのです。大分県は私の故郷ですから、こんな運のいいことはありません。何しろ、和歌山という遠いところに18歳で職工として就職し、その地で県PTAの副会長までさせていただき、その最後の年に、一生に一度回ってくるかどうかわからない故郷・大分県で全国大会が行われるわけですから。しかも、幸運はそれだけではありません。その時期、臼杵市の教育長は、私の中学時代に野球部の監督であった村上先生が就任していたため、あらかじめ村上先生に、「和歌山から20名ほどのPTAの役員が臼杵見物をしたいので、名所を紹介していただけないか」とお願いしたところ、快く引き受けてくださり、村上先生直々に、大友宗麟の城下町や、臼杵の石仏などを案内していただくことができました。この時ほど、誇らしく、大船に乗った気持ちになったことはありませんでした。そしてその晩は、ドジョウスクイで皆さんに臼杵の情緒を楽しんでいただいたことは言うまでもありません。ちなみに、この年の日本PTA全国協議会の会長は、なんと臼杵市にある高野山ゆかりの寺・興山寺住職の岡部観栄さん(奥さんは和歌山高野山の人)だったのですから、これも驚きです。かくして、PTA役員を務めた時代は、私のささやかな現場作業員人生の中で、ドジョウスクイのおかげで一番華やいだ頃であったと言えます。
 しかし、楽しかったPTA時代の思い出を語るときに忘れてならないのは、陰で私を支え続けてくださった楠見中学校の当時の校長、坂本晃清(こうせい)先生です。坂本先生は、那智勝浦町の出身で、和歌山大学在学中は、休みになると勝浦に帰り、漁船に乗って近海漁のアルバイトをして学費を稼ぐといった苦学の人で、誠実で温厚な人柄である上に、責任感が強く、部落問題にも良く理解を示し、育友会活動も熱心に指導してくださいました。そのため、私も思い切ってPTA会長の役職を務めることが出来、意気投合した活動の中で義兄弟のような気持すら持ちました。その坂本先生も、停年退職をして何年もしないうちに、それまでの生真面目な性格の心労がたたったのか、早くに亡くなってしまわれました。私は今、原発反対の仲間とともに、毎週金曜日の夕方、関西電力和歌山支店前に立つようになって4年以上になりますが、当初からの仲間に貴志公一さんがおられます。貴志さんと一緒に行動する中で、坂本先生が貴志さんと和歌山大学学芸学部(現教育学部)時代の同期生であることを知りました。その貴志さんからもまた、坂本先生と同様に筋の一本通った頼もしい先輩として、いろいろと教えを受け、楽しく付き合わせていただいていているところです。
(金原注)写真は、1997年、和歌山市小中PTA連合会最後の懇親会で(ちなみに、西郷さんの相方は坂口教育長ではなく、本物の女性だそうです)。

カルタ取り「小倉百人一首」の名人、甥の西郷直樹君のこと
 私は5人兄弟の二男で、兄弟の子供たち(甥と姪)が合計13人います。その中で、1人ズバ抜けた頭脳の持ち主がいました。西郷直樹君といって、私より4つ下の弟の子供です。弟夫婦には2人の男の子がおり、大分の公団住宅で生活をしていました。そして、子供たちは、カルタの優れた指導力を持った先生に恵まれて、小学校の頃からカルタに打ち込んでいました。兄の拓也君が小学生の頃からカルタ競技を始めると、弟の直樹君もまだ幼稚園の頃からお母さんとともにそれを熱心に見ていました。そして、すぐさま自分でも競技をするようになりました。その腕前たるや、拓也君は小学生の部、中学生の部で日本一になりました。重い病気をしたこともあり、また学業に専念するために競技を断念しました。弟の直樹君も兄と同じように小学生の部、中学生の部と日本一になり、カルタ界では「西郷兄弟」と言われるようになったそうです。そして高校生の部でも日本一になり、早稲田大学に進学後も大学で日本一になり、カルタ大会では最高峰の名人戦に出場したのです。初挑戦となった1999年の名人戦(五回戦勝負)、二連敗の後に三連勝する大逆転勝利で、ついに史上最年少名人の座に上り詰めたのです。その後、5期連続で名人戦に勝利し、永世(えんせ)名人となり、その後も勝ち続けて連続記録や在位記録などのカルタ会のすべての記録を塗り替えました。
 ここで競技カルタについて説明したいと思います。詳しくはネットで、「百人一首入門」等を検索していただけばわかりますが、ここでは、私が10回以上競技場で観戦した知識なども基にしながら紹介したいと思います。競技カルタは、全数100枚のうちの「取り札」は無作為に50枚を抜き取り、対戦者双方の前に25枚ずつ置きます。そして読み札は100枚あり、読み方は、一回戦ごとに100枚全部を読みます。そして、読み方が最初の一言、二言と読んだときに相手より早く取る技を競うものです。、上の句の一言、二言、場合によっては3つも4つも同じ上の句で始まるものもありますから、競技者は、間違いなく相手より早く取らなければなりません、そこに幾つものルールがあって50枚のうちに先に多くとった方が一回戦の勝ちとなり、普通一試合で三戦を先に取った方が勝者となります。
 カルタ競技のことを知らない人は、十二一重(ひとえ)の着物を着たお姫様が楽しそうに笑いながら遊びに興じている姿を連想するでしょうが、実際は格闘技のようなもので、それは、瞬発力、暗記力、集中力、持続力のすべての体力や気力を必要とします。直樹君の瞬発力について、昔「夕陽のガンマン」か「荒野のガンマン」か忘れましたが、西部劇がはやった頃に、拳銃をホルダーから抜いて引き金を引くまでの時間が、0.3秒とかいう早業が人気になったことがありました。それと同じように、カルタを取る速さも、読み方が上の句を言おうとすると、すでに手が動き、カルタを払いのけるまでの速さが0・3秒なのです。また暗記力は、50枚の取り札を何分間かで暗記したのちに、それを裏返しにして、読み方が読む札を余程の間違いがない限りは、ほぼ50枚全部を当てる暗記力を持っています。集中力のためには試合時間中(場合によっては朝から晩まで)食事は抜いて水しか口にしません。直樹君はそのようなすべての力を駆使して前人未踏の記録を達成することになったのです。
 話をドジョウスクイに戻しますと、直樹君は、早稲田大学時代のカルタ仲間の女性と縁ができ、結婚をすることになりましたが、その東京での結婚披露宴で、私はドジョウスクイを踊ってお祝いしたことがあります。
IMG_0007(2001年 新春大会で3年連続名人(22歳)の頃の直樹君) そうして、彼の記録はその後も止まることを知らず、あまりの強さから、2012年に14年連続優勝したのを機に、自ら名人戦への出場を辞退して身を引きました。私は最後の1~2回は応援に行けなかったものの、それまではほとんど毎年、新年早々、名人戦とクイーン戦が行われる琵琶湖のほとりの近江神宮に応援に駆け付け、彼の偉才を目の当たりにしていました。もし辞めずに続けているなら、恐らく体力的にも技能的にもあと10年くらいは勝ち続けたかもしれません。
 記録を出し続けたその過程では、100年に1度出るか出ないかの偉才の出現を記念して、近江神宮の正門に向かって左横には西郷直樹と名前が刻まれた植樹がなされています。その樹木も今は相当大きくなっているのではないでしょうか。そして今は、忙しい仕事の合間を縫って、母校の早稲田大学での後進の指導や、自分の住む静岡県の子供たちの育成指導にも励んでいると聞きました。
(金原注)写真は、2001年の新春大会で3期連続名人となった22歳の西郷直樹さん。
                                                                                          (後編に続く)
 

(「メルマガ金原」から後日「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)
2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)
2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)
2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』

(「メルマガ金原」から即日「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる
※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。
2016年9月22日

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(前編)

 今晩(2016年9月22日)配信した「メルマガ金原No.2577」を転載します。

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(前編)

 毎週金曜日の夕方6時から7時までの1時間、雨の日も、風の日も、雪の日も(―和歌山はあまり雪は降りませんが)、関西電力和歌山支店前の路上で、静かに脱原発をアピールする人々の姿を見ることができます。そして、よほどのことがない限り、その中には必ず西郷章さんの姿があります。
 また、「憲法を生かす会 和歌山」として、来る10月22日(土)には、和歌山市中央コミセンのキャパ200名の会場で「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」と題した講演会(講師は何と私!)を主催したり(開催予告10/22「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」(講師:金原徹雄弁護士)@和歌山市中央コミセン/2016年9月4日)、11月12日(土)には、ソプラノ歌手・前田佳世さんの和歌山市での初めてのコンサートを企画したりと、少しもじっとしていられない(?)活躍ぶりです。
 その活動ぶりについては、西郷さんご自身のFacebookで活発に発信しておられますが、西郷さんがFacebookを始められるまでの間は、しばしば「メルマガ金原」に寄稿していただいていました。それが、だいたい2011年から2012年にかけての時期だったでしょうか。その頃の西郷さんの文章は、その後、私の最初のブログ(wakaben6888のブログ)に転載しています(巻末にリンクしておきます)。
 その後、西郷さんはすぐさまFacebookに習熟し(動画投稿もお手のもの)、普段の情報発信はもっぱらFacebookを通じて行っておられます。
 けれども、2013年以降も、ほぼ年に1本の割合で、気合いの入った長文の原稿を執筆して「メルマガ金原」(及びブログにも転載)に寄稿してくださっています。以下のとおり。
 
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる
※追悼特集の一部として西郷さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』を掲載。
 
 「ほぼ年に1本の割合で」と書きましたが、今年に入ってから執筆意欲が非常に高まったのか、かねて西郷さんから「書きたいと思っています」と予告されていた『ドジョウスクイ半生記』が遂に完成し、今年3本目の原稿として掲載できる運びとなりました。

 西郷さんの得意芸である「ドジョウスクイ」については、西郷さん自身が書かれた上記「3.11反原発福島行動’14」参加記を読んだり、また、折にふれて和歌山のイベントでドジョウスクイを披露された様子を直接見たり、私がレポートした文章を読まれた方も少なくないかもしれません。
 その見本(?)として、「3.11反原発福島行動’14」の2日前の3月9日、和歌山城西の丸広場で開かれた「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」に出演された西郷章さんのステージ写真を掲載した私のブログをご紹介しておきます(「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」を開催しました)。

 けれども、これからご紹介する『ドジョウスクイ半生記』は、西郷さんがまずドジョウスクイを見習ったお父さんの話から始まり、競技カルタの天才と謳われた甥御さんや、満蒙開拓団の一員として満州に渡った奥様のお父様、そして中国残留孤児として取り残され、その後家族との再会を果たして帰国された奥様のお姉様やその家族のお話、さらに、最近の親友との別れまで、ドジョウスクイを通じて自分と周囲の人々との交流を振り返る本格的な自伝となっており、いままで以上に読み応えがあります。それに応じて分量もかなりのものとなりましたので、前編・中編・後編の3回分載とさせていただくことにしました。
  
 前編の今回は、大分県臼杵(うすき)市で漁師として働き、その後、家族で海運業を営んだお父様を中心としたお話と、西郷さんが住友金属和歌山製鉄所で働くようになってから結婚された奥様のお父様や、中国に残されたお姉様のお話が中心で、そこにドジョウスクイのお話も散りばめられています。何しろ、奥様のお姉様と会うために中国を訪問した際の北京空港での別れの宴席で、「初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになった」というのですから。
 

        ドジョウスクイ半生記(前編)
   
                                   西 郷   章 

はじめに

 私がドジョウスクイを覚えたのは、父親(西郷市松)の影響によるものでした(以下、ドジョウスクイにまつわる話ですから父親のことはオヤジと書かせていただきます)。私は終戦直後の昭和21年生まれです。私が物心つく頃の我が家の生計は、オヤジの遠洋漁業の雇われ船員としての収入によって支えられていました。遠洋漁業は「突き棒船」という臼杵市(うすきし/大分県)独自のカジキマグロを追う大変珍しい原始的な漁獲法ですので、歴史的な経緯も含めてあとで紹介したいと思います。
IMG_0002(1974年か5年 弟の結婚式での市ちゃん最後の踊り) オヤジがどこでドジョウスクイを覚えたのか、軍隊の時に覚えたのか、あるいは戦後漁師に復職してから覚えたのか知りませんが、軍隊では下関か門司だったか、大砲部隊の鬼軍曹の教官として恐れられ、軍国主義思想で凝り固まったクソまじめな人間だったオヤジが、なんであんな面白い踊りが踊れるのか、私は子供心にも不思議に思えてなりませんでした。 そして、私がドジョウスクイを覚えようと決めたのは、29歳で結婚をして、三男が中学校に入る1~2年前の48歳の頃でした。オヤジから見覚えた踊りは面白いのですが、あくまでもローカル的で、親しい仲間内ではよく踊っていても、どうしても品格に欠けますので、どこでも踊れるというわけにはいきません。私は、きちんとした踊りを覚えたいと思い、わざわざドジョウスクイの本場の安来市(やすぎし/島根県)観光課に問い合わせてみました。すると宇田川さんという名人の踊りのビデオテープや、安来節の道具一式5万円を紹介してくれたのです。それ以来、私のドジョウスクイは、どこでも安心して踊れるものとなり、様々な場所で踊ることになりました。ここでは、その中の思い出深い2~3の踊りとその背景についてご紹介したいと思います。
(金原注)写真は、1975年頃、息子(西郷章さんの弟さん)の結婚式でドジョウスクイを踊る西郷市松さん。西郷章さんが、お父さんの踊る姿を見たのはこれが最後だったとか。

一時代に繁栄した「突き棒船」とは
 ドジョウスクイを踊った特徴的な場面を紹介する前に、前置きしました「突き棒船」と当時の私の家庭事情についての話をしたいと思います。
 突き棒船は、「突きんぼ船」とか「突き船」とも言われ、海面に浮上するカジキを手投げモリ(樫の木で作った丸棒で、長さ5メートルくらいの先端に3本の矢じりのついたもの)で仕留める勇壮な漁法で、原始的漁獲法と言われていました。船の先端(棚)に構える突き方(矢じりをカジキに突き刺す者で一番方と二番方が構えていたと思います)や、マストの上でカジキを見つけて機関長や突き方に合図をする者が中心となり操業します。この漁法の由来は、明治3~4年の頃から大分県の豊後水道一帯で、私の部落の板知屋(いたちや)などが中心となって始められたもので、その頃は当然エンジンなどはなく、櫓櫂(ろかい)や帆立てが動力源でした。その後、臼杵市・中津浦の板井五三郎がカジキマグロを樫棒の先につけたモリで突く「突きん棒」漁法を編み出し、やがて明治末期から大正初期にかけて帆船による突きん棒漁業が発達します。大正10年頃からは、動力源が内燃機関(焼き玉エンジン)に代わったために操業範囲も飛躍的に広範になり、夏から春にかけて長崎県沿岸から朝鮮近海まで出漁し、春からは豊後水道で操業しました。昭和10年頃からは、宮崎県油津沖合から北海道・三陸沖合までの漁場に出漁し、さらに広範囲に出かけるようになりましたが、第2次世界大戦でいったん壊滅してしまいました。 その後は、戦後復興とともに漁船は大型化し、乗組員も一船が十数人規模になり、私が中学に入る頃最盛期を迎え、30トン~50トン級の船が私の部落を中心に60隻くらいに増えました。しかし、北陸あたりの仕掛け網による大型大量漁獲法が取り入れられるようになると、原始的な突き棒船は急速に自然消滅へと追いやられ、昭和52年にはついに全滅してしまいました。
 
先を見越して運搬船に乗ったオヤジ
 オヤジは、私が中学生の頃(突き船の最盛期の頃)には既に先を見越して突き船から降りて、義兄弟の持つ貨物船で生計を立てるようになり、その船も幾年もしない間に降りて、自分で運搬船を持つようになりました。けれども、貧乏人が借金をして持てる船は、中古の木造船が関の山でした。仕事も決して楽ではなく、積み荷は四国の多度津などから西大分へ土管を運ぶ仕事で、その土管の積み降ろしは、私も中学の夏休みや冬休みの時に経験しましたが、1本1本手渡し作業による過酷なものでした。しかし、会社のように命令されて仕事をする訳ではなく、1本1本の手作業をやればやるほど必ず自分の利益になるのがせめてもの救いでした。
 この家業のために、臼杵の水産高校を出て、北九州の若築建設(現・東証1部上場)に就職していた5つ上の兄貴が呼び戻され、また私より4つ下の名古屋のグンゼで働いていた三男も呼び戻され、やがて四男もという具合に、私を除いては男の子は3人とも船乗り稼業で生計を立てるようになりました。子供たちが、いやいやながらも割にすんなりと親の意思に従ったのは、家父長制の名残によって、子供というものは親の言うことに従うものだという育て方に影響された点が多分にあったと思います。私だけが会社勤めをしたのは、船に酔いやすいという体質的な弱点があったからかもしれませんが、男の子は1人くらいは陸(おか)働きをさせておかないと、船乗りの身に何かあった時に家が行き詰まってしまうからという、これも親の意思が多少なりとも働いていたようなことをオヤジに聞いたように記憶しています。
 運搬船の事業もだんだんと軌道に乗ってくると、もう少し儲かる取引先として大阪まで足を延ばすようになりました。大阪からの積み荷は、チリ紙やトイレットペーパーなどの原料となる雑誌やボロ紙でした。それを大分の製紙会社に納入するために、西大分港の荷役場まで運ぶのです。西大分港の思い出は、まだ土管しか運んでいなかった中学生の頃のことしか覚えていませんが、冬休みの時に手伝いに行って、夕方仕事が終わると寒い町中に行き、そこで入った銭湯が暖かくて気持ちが良かったこと、また、ご褒美にジャンバーを買ってもらったのはいいが、生地がビニールのようなものでできているために、ひどく蒸れて、さすがの着るもののない私でも不快な思いをしたことが思い出されます。また、その後の大阪の荷役場は、大正区の川沿いにあり、当時、私は和歌山の住金(現・新日鉄住金)に入社して間もない頃でしたので、時々は船着き場まで親兄弟に会いに行きました。今でも大正区の川沿いが懐かしいのはそのためです。
 
大黒様・恵比寿さんになったオヤジ
 しかし、長年の運搬船事業も止めるかどうかの転機が訪れてきました。船の痛みもひどくなり、新しい船を買うにも相当な借金をしなければならず、それで採算がとれるのか、など考えた後に廃業することになりました。
 ところがその時に、思いもよらぬ福の神が舞い込んできたのです。船は処分しなければなりませんが、解体料こそ取られても古すぎる船自体は三文の値打ちもありません。だが、時はバブルの絶頂期で、関西空港建設のために海上の埋立てが盛んにおこなわれており、埋立てには多くの船が必要でした。船には権利があり、船を持つためにはその船の大きさ相応の権利を買わなければなりません。オヤジの船には権利という価値があったのです。その当時、ゴルフの会員権に法外な値段が付いたように、オヤジの船も貧乏人にとっては驚くほどの値段が付いたのです。かつて村一番の貧乏人と言われてもおかしくなかった両親は、たちまち金持ちになり、まさに大黒さんが舞い込んだような身分になりました。
 母親は、生前にその当時のことを振り返って「儲けた金には毎月利子だけでも相当額付いててきた」と言っていました。その余裕から、私が帰省すると必ず、少額でも小遣いをくれており、それは私が50歳近くになるまで続いたと思います。私は「いい年をして小遣いをもらうなどは恥ずかしいから止めてくれ」と言いながら貰っていたのを憶えています。
 オヤジは、船を売る何年か前から家業は子供たちに任せ、自分は隠居しながら小型漁船で好きな魚釣りをしていましたが、思わぬ金を手にしたことで、その一部を使い、村で一番速い船を新造しました。その漁師としての姿は、誰よりも遅く出漁し、だれよりも早く帰港して、誰よりも多くアジを釣る、アジ釣りの名人「市ちゃん」として釣り仲間に頼られる存在でした。私は、人一倍アジを釣るその秘訣をオヤジに聞いたところ、「どんなエサにアジが良く食いつくかエサのことをいつも考え研究している」と教えられましたので、私の生活にもこれを応用して、「人と仲良くしたり、人に好かれるには良いエサを撒くことが肝心だ」と考えてこれを実行するようになりました。そのおかげで、思想信条の違いは別としても、少なくとも人様にはあまり嫌われることはなかったのではないかと思っています。
IMG_0003(1995~6年 市ちゃんの船に乗る孫たち) さて、オヤジの釣った魚は網カゴの生けすに入れられて市場にもって行くまで生かされます。ある時、私は生けすにあるアジ、イカ、イサギ、サバ、タイを刺身にしてもらって食べ比べたことがありますが、その中で一番うまかったのはサバでした。サバは、関サバ(臼杵湾を出た半島の近海で捕れるサバ)も他のところで捕れるものも美味しさはあまり変わらないとオヤジは言っていました。
 子や孫が遊びに来れば、生の魚をどっさりと食わせてくれ、喜ばれるオヤジは正に大漁の神さん、恵比寿さんのような存在でした。その親父も、とっくに亡くなり、母親も金に不自由することなく老人センターなどを利用して、天寿を全うしました。その後、兄弟たちは別々に雇われ船員としての船乗り生活を経て、今では皆んな良い年になり、年金生活者として暮らしています。
 私は家業を手伝った訳ではありませんから、大黒様(金を儲けたオヤジ)の恩恵は少ししかありませんでしたが、その分、恵比寿様(魚釣り名人のオヤジ)の釣った魚は帰省した時には存分に食べさせてもらい、「ドジョスクイ」と「魚を釣るにはいいエサ」の秘伝を教わり、今もそれを実践していますので、これはいい財産をもらったと思っています。
(金原注)写真は、1995年頃、西郷市松さん自慢の“快速船”に乗って喜ぶお孫さんたち。
 
初めての中国でドジョウスクイを踊る
 私たち夫婦は3人の、それぞれが3つ違いの男の子に恵まれました。一番下の子が3歳の時、満蒙開拓団の一員として満州に渡っていた義父の長女で、敗戦の混乱の中、生き別れて残留孤児となった妻の姉の身元がようやく分かり、和歌山在住の姉の家族ともども総勢10名で再会のために中国に行くことになりました。中国の行き先は東北部の瀋陽市(旧・満州奉天市)です。上海から国内線で北京を経由して東北行きの飛行機に乗り換えるのですが、北京市内はこの頃(1985年)から道路も整備され、3~4車線の車道の他に同じような幅の自転車道と歩道が建設されていました。そして、初めての中国訪問ですから、名所見物も兼ねて、魯迅の活躍した場所や、最後の女帝の別荘や紫金城、万里の長城なども見物しながら瀋陽へと向かいました。瀋陽の姉の家につきますと、まず義父に代わり、私から、中国の養父に対し、長年我が子同然に可愛がり、育ててくれたご恩へのお礼と感謝の言葉を述べ、姉と再会することになりました。しかし、物心つく頃に親子は離散しましたから、言葉は通じません。あまり言葉を交わすことなく、互いの手を握りしめて姉は涙を流し、顔を見つめ合っているだけですが、義父は離散した当時に思いをはせていたことでしょう。
 離散した当時、和歌山県御坊市から娘を連れて先妻とともに満蒙開拓団員として入植した義父は広い土地を与えられたそうです。しかし、義父の遺品の中には、最下級の兵隊の位が書かれた身分票がありましたから、実際は満鉄沿線の警備を兼ねた食糧生産兵の役割をさせられていたのかもしれません。開拓団は入植した当初から軍のために苦しい生活を強いら、そして敗戦間際には、鍬(くわ)しか持ったことのない手に銃を持たされ、戦場と化した田畑、荒野を逃げ回ったのです。その後は、お定まりのソ連軍の捕虜となり、夫婦・親子はチリジリとになります。捕虜のシベリアでの生活は過酷なもので、1日に何百グラムのパンしか配給されずに飢えと寒さに耐えきれずに死んでいくものも多くいたそうです(その当時はソ連も食糧危機で自国民にすら十分に食料を供給できなかったと聞く)。そのような過酷な受難を生き抜いた義父は、4年前後の捕虜生活から解放されて運よく帰国できたのです。ついでに付け加えますと、義父が生前、私たちと一緒に暮らした和歌山では、近所に同じ境遇(ソ連の捕虜)を生き抜いてきたクニちゃんというオジサンがいて、2人は意気投合して、昼間からでもよく酒を飲んでいました。その義父は真冬でも素足の生活が平気でした。
 さて、中国の姉さんと再会した私たちは、3日ほど近くの公団住宅に泊まることになりました。そして、その間は親戚筋の料理の得意な人が食事を作ってくれました。日本とは当然生活習慣の違う中国のサラリ-マンの集合住宅での生活は、まず給水制限があり、朝の数時間と昼休み時間と夕食時しか水道が使えません。中国の家庭は夫婦共働きが普通で、仕事場での昼休みは2時間あるため、自宅に帰って昼食をとり、昼寝をするのだそうです。私たちが訪れた時期は真夏で、瀋陽は湿度が高く、私たちが「風呂に入りたい」と言うと、住宅街の一角にある小さな風呂場に案内され、洋式の狭い風呂で水浴びをする程度の入浴しかできませんでした。何も知らない私たちは、湿度が高く気持ちが悪いので、毎日風呂を使いましたが、現地の人たちは、何万人住んでいるかわからない広い団地での風呂は共用で数も少なく、市民はみな毎日風呂に入る習慣はなかったのではないかと後で気が付きました。
 瀋陽では、姉や義兄弟、親戚とようやく打ち解けた頃には、お別れをしなければなりませんでした。姉さん夫婦とその子供たちが北京空港まで同伴してくれました。そして、北京空港での別れの宴席で、私は初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになったのです。道具は食卓にあるお皿だけです。それを持つと義父が♪やすき~めいぶつ~♪と歌いだし、その歌に合わせてゆっくりと皿を両手にもってドジョウを救う真似をして踊るのです。そして時折、♪アラ、エッサッサ~♪の掛け声の時には皿を頭の上に乗せる格好で片足を上げて1回転するのです。こんな、たわいない踊りでしたが、中国の兄弟は大喜びでした。少し大げさですが、私はこの経験から、ドジョウスクイは世界でも通用すると実感しました。しかし、いまだに世界の檜(ひのき)舞台で踊ったことは一度もありません。
 さて、すっかり気を良くした私は、茅台酒(マオタイ酒)を飲みすぎて前後不覚となり、いつ飛行機に乗ったのやらわかりません。気が付くと機内は騒然としており、飛行機はよく揺れているのです。そして、その揺れは羽田空港近くまで続いたと思います。しかし最後に無事に着陸した時には、乗客は一斉に拍手を交わして喜び合いました。なぜそんなに感情的になったかと言いますと、この頃は丁度、御巣鷹山の日本航空機墜落事故があって1週間もしない時でしたから、激しい揺れで御巣鷹山事故を連想し、恐怖心がわき、パニック寸前のさわぎになったのだと思います。私は、今まで飛行機には10回くらいしか乗っていませんが、揺れたからといって大騒ぎしたのは、後にも先にもこの時だけです。
 そのような出来事からしばらくして、中国の姉さんは夫婦で帰国し、その子供たち(2人の娘さん)も日本で一緒に住むようになり、それから 早くも30年近くが経ちました。姉さんたちは、和歌山の私たちの近くで貧しいながらも幸せに暮らしており、上の娘さん(私の妻の姪)夫婦は、中華料理店で細々と身を立てて暮らしています。
※(金原注)西郷さんの奥様の姪御さん夫婦が営んでおられる中華料理店には、西郷さんに連れられて私も何度かおじゃましましたが、とても美味しい料理がリーズナブルな値段で食べられる大衆的なお店でした。
                                        (中編に続く)
 

(「メルマガ金原」から「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)
2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)

2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)
2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)
2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』

(「メルマガ金原」から「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる

※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。

岡野八代教授(同志社大学大学院グローバルスタディーズ研究科)の講演動画を3本ご紹介します

 今晩(2016年9月21日)配信した「メルマガ金原No.2576」を配信します。

岡野八代教授(同志社大学大学院グローバルスタディーズ研究科)の講演動画を3本ご紹介します

 数年前までは、講演会の企画をする際にまず参考としたのは、新書、選書などを含めた単行本、それから論壇誌などに掲載された論考、新聞への寄稿やコメントといったところだったのではないでしょうか(TVで有名な人は講演料が高すぎて考慮外?)。
 私も、青年法律家協会和歌山支部の会員として、「来年の憲法記念講演会を誰にお願いしようか?」という議論を毎年行っていましたし、憲法9条を守る和歌山弁護士の会の事務局長時代(2006年~2012年)にも、いくつかの企画に関与しましたから、その経験から言うのですが、3.11の頃を境に、講師候補者の名前をあげていく上で参考とする媒体が、紙から動画に大きく推移したように思います。
 ちょうどその頃から、URTREAMによる中継が普及し、YouTubeへの長時間動画のアップが可能となり、講演動画のインターネット環境への掲載を了解する講師が増えたのでした。
 こうして、「一度是非和歌山にお招きしたい」と考える講師候補者をリストアップする作業に私が関わ
る場合、インターネットでの講演動画を視聴できる方に偏りがちになることは否めず、これはこれで問題なのですけどね。

 というような前置きになったのは、今日ご紹介しようという岡野八代(オカノヤヨ)教授(同志社大学
大学院グローバルスタディーズ研究科)が、まだ直接講演を伺ったことのない方の中で、近く和歌山に講師として招いてくれる団体がないだろうかと期待しているお1人だからなのです。
 ちなみに、岡野教授は、立憲デモクラシーの会の呼びかけ人の1人として、立憲デモクラシー講座の第12回「女性と政治と憲法と」を担当され、私のメルマガ(ブログ)でもご紹介しています(立憲デモク
ラシー講座第11回(6/3石田英敬東京大学教授)と第12回(6/10岡野八代同志社大学大学院教授)のご紹介/2016年6月16日)。

 今日は、必ずしも和歌山で講演会を企画する人のための参考資料にしようというだけではなく、民主主義についてもっと深く学びたいという方のためにもと思い、岡野八代教授による講演動画を3本まとめてご紹介することにしました。私自身、これから時間を作って何とか見たいという段階ですが、個人的に一番興を惹かれているのは、2本目の動画、今年の5月26日にシアターセブンで開かれた 市民社会フォーラム第180回学習会「戦争と民主主義を考える-個人の尊厳を守る政治のために」です。皆さんはいかがでしょうか?
 
 なお、講演動画のご紹介の前に、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科の公式サイトに掲載された「プロフィール」と「学生へのメッセージ」を引用しておきます。

(引用開始)
プロフィール
 わたしは、三重県の松阪市で生まれ育ちました。松阪牛で有名なわたしの故郷は、大学進学を機に離れ
てみてようやく、歴史的に作られた複雑な差別構造をもった市なのだと気づきました。それ以来、差別やアイデンティティの問題に関心をもち、歴史的・理論的にこれらの問題を考えるために、哲学ではなく、政治思想を専門に選びました。内向的な思索ではなく、世界とのかかわりの中で、差別やアイデンティテ
ィの問題を考えたかったからです。
 その後、博士課程に進学するさい、カナダに留学し、政治思想においてフェミニスト理論がいかに大きな貢献を果たしているのかを目の当たりにしました。差別やアイデンティティの問題に、ジェンダー構造・秩序は大きな影響を与えています。また、社会全体の隠された支柱こそが、ジェンダー構造です。みなさんの関心から、こうした問題を一緒に考えていけることを楽しみにしています。
学生へのメッセージ
 わたしの学生時代には、大学院での研究にくわえ、友人たちとのお喋りのなかから、多くの先人たちの著作やことば、そして彼女たちの経験について学びました。そうした言葉は、いまなおわたしの心にしっ
かりと刻まれています。たとえば、わたしの研究対象の一人である、ユダヤ系ドイツ人女性で、戦後合衆国で活躍したハンナ・アーレントの次の言葉は、いまなおわたしの研究生活にとって大切にしている言葉です。
人間の創造とともに、「始まり」の原理が世界の中にもちこまれたのである。これは、もちろん、自由の原理が創造されたのは人間が創造されたときであり、その前ではないということをいいかえたにすぎない[ハンナ・アーレント『人間の条件』177頁]。
 大学院での研究は、これまで考えたこともなかったほどに、みなさんの心と世界を広げてくれるはずです。予測不可能なことが生じるところに、研究の楽しさや可能性が秘められています。現実の社会とは違い、理念や思想の世界に触れることで、わたしたちは、真の意味で自由で平等となりえます。そして自由な心をもつことで、わたしたちは時間や空間の境界を超えることもできます。本研究科で学ぶみなさんとともに、そうした自由を実現し、感じられるようになりたいと思っています。
 わたしの専門は西洋政治思想ですが、ただ単に著名な哲学者の言葉について思索をめぐらせるだけでなく、日本社会で現在生じている問題、たとえば、第二次世界大戦下における「性奴隷制度」・従軍「慰安婦」問題や、男女間の社会的地位における格差などについても論じています。みなさんも専門的研究を通
じて、より広い世界へとぜひはばたいてください。
(引用終わり)
 
20150221 UPLAN 岡野八代「憲法九条から考える 非暴力・反暴力の思想について」(2時間49分)

※岡野教授の講演は23分~2時間07分。その後は、質疑応答を含めた対談。
「人類の歴史を振り返ると、とくに私が専門とする政治思想史の観点から人類の歴史を振り返ると、そこには暴力が吹き荒れる荒野が広がっているように見えます。とくに20世紀は「戦争と革命の時代」とも呼ばれるように、これまで経験したことのない大量の殺人が「国家」の名の下に遂行されました。非暴力─わたしはむしろ、反暴力のほうが相応しいと考えております─の思想とは、こうした人類の無残な歴史を反省するなかで生まれてきたと同時に、弱く無力でありながら、他者に依存しなければ生きていけない人びと(=多くは子どもたち)に寄り添ってきた経験からも紡がれてきたと考えられます。そうした歴史を踏まえれば、現行の政治は、大きな変革を迫られることになるでしょう。講演では、そもそも暴力、暴力に抵抗する営みと政治との関係を思想史的に考えながら、皆さんと新しい政治の在り処について考えてみたいと思います。」
 
岡野八代教授講演「戦争と民主主義を考える-個人の尊厳を守る政治のために」(1時間40分)

講師:岡野八代教授(同志社大学大学院グローバルスタディーズ研究科)
日時:2016年5月26日18時半~
場所:シアターセブン(大阪)
市民社会フォーラム第180回学習会
「歴史を振り返れば、古代アテネは「兵士の共同体」、フランス革命は「国民軍」を生んだ。だからこそ、
「戦後」民主主義は、人権と反戦平和という新しい規範によって立ち上げられようとした。
 「民主主義」社会の前提となる「個人の尊厳」と「戦争」は相容れない。だからこそ、「民主主義」国
家と「戦争」もまた相容れない。
 西洋政治思想史を専門とする岡野八代さんに、日本の立憲主義・平和主義・民主主義の回復の課題にも触れながら、お話しいただきます。」
 
戦争法強行採決1年を考える兵庫集会 ―講演 岡野八代・同志社大学教授「この国に民主主義を実現するために」、真喜志好一氏「沖縄は戦争法の具体化と闘う」 2016.9.19
日時:2016年9月19日(月)13:30~16:30
場所:兵庫県私学会館大ホール(兵庫県神戸市)
「■呼びかけ文■集会後三宮までのデモ行進をおこないます。
 2015年9月19日、憲法違反を指摘する大多数の憲法学者の声と国会内外で行われたデモや民意を無視して、
安全保障関連法(戦争法)が強行採決されました。それから1年。参議院選挙で議員の構成を変えて法律の廃止を実現するには至っていませんが、各種世論調査でも反対意見が今なお過半数を超えています。さらに政府自民党は、立憲主義を根底から覆す憲法改定に突き進もうとしており、戦争法廃止・改憲阻止を求
める取り組みが今、求められています。
 本集会では、学者と沖縄の市民に講演していただき、今後の取り組みの参考にします。
岡野八代さんは政治思想・フェミニズム思想が専門。立憲主義とは何か?西洋政治思想から説き起こし、
日本におけるその可能性と、自民党改憲草案がいかにそれを壊すものかを語っていただきます。
 真喜志好一さんは「沖縄はもうだまされない」(2000年)の著作で知られた市民活動家。
高江の問題の背景にあるSACO合意の問題点を沖縄で一貫して主張されてきました。8月に訪米し、平和のた
めの退役軍人の会総会で高江の取り組みに連帯する決議をあげた報告もしていただきます。
 アベ政治を許さない市民デモKOBEからも、今後の市民ネットワークの在り方について提案し、アピールや
会場の意見で豊富化したいと考えています。皆さん、ぜひご参加ください。」

俵義文さんの講演動画「安倍政権と一体の極右組織「日本会議」の全貌」(9/19 NHK問題を考える会(兵庫))のご紹介

 今晩(2016年9月20日)配信した「メルマガ金原No.2575」を転載します。

俵義文さんの講演動画「安倍政権と一体の極右組織「日本会議」の全貌」(9/19 NHK問題を考える会(兵庫))のご紹介

 私は、9月29日(木)午後6時から、和歌山市のプラザホープ2F多目的室で開催される俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21事務局長)を講師とした学習会「日本会議のすべて~安倍政権を支える草の根「改憲」のうごき~」をご案内するにあたり、俵さんの著書『日本会議の全貌 知られざる巨大組織の実態』(花伝社)を含め、目に付く「日本会議」本を6冊ご紹介しました(開催予告9/29憲法学習会(講師:俵義文氏)「日本会議のすべて~安倍政権を支える草の根「改憲」のうごき~」/2016年8月23日)。
 けれども、その後も「日本会議」本の出版は続いているようですね。とりあえず、気がついたものを挙げておきます。

2016年8月29日発売
『日本会議の人脈』(三才ムックvol.899):

「にわかに世間の耳目を集めている「日本会議」。マスコミの多くは、安倍政権を陰で操る謎の組織といった捉え方をし、その影響力の大きさを強調するが、その実像とはどのようなものなのか――。本書では日本会議と主要関連団体、政治家、宗教人、文化人100人にスポットを当て、その全体像を浮かび上がらせ
た。」
●主な内容
[巻頭]
政治目標、関連組織、成り立ちから読み解く「日本会議」の実像
国内の出来事との比較でみる「日本会議」の活動の履歴
『日本会議の研究』著者・菅野完氏に聞く~「日本会議」とはどんな組織なのか?
「日本会議」と注目の10人ピックアップ
[第1章]日本会議と主要関連団体の人々
[第2章]日本会議と政治家たち
[第3章]日本会議と宗教人たち

 『日本会議の人脈』は、誰かの著書という訳ではなく、いわゆるムックですね。ということで低く見るという訳ではなく、「ムックまで出るようになればブームも一過性のものとは言いにくい」という感想を持ったりしています。
 
 このような「ブーム」に対する日本会議側からの反応もご紹介しておきましょう。
 一つは、日本会議広報部が9月9日付で公表した公式の「反論」です。
 
日本会議に関する最近の一連の報道について
―日本会議報道における虚偽・誤解・偏見に関する反論―
日本会議広報部(平成28年9月9日)

(抜粋引用開始)
 最近、日本会議に関する新聞・週刊誌の報道や、書籍等の出版がにわかに活気づいている。しかし、残念ながらこれらの報道や出版物には、日本会議の運動の歴史的な経緯や一次資料を踏まえることなく安易
な陰謀論に陥ったり、一面的な批評に止まっていたりするものが少なくない。
 私達の運動は、戦後見失われようとしてきた伝統文化を守り、日本を取り巻く厳しい国際環境の変化の
中で、自立した対等な独立国家としての矜持を持った国づくりを目指した国民運動を推進してきた。
 特に、近年の北朝鮮による拉致事件や工作船の活動、核・ミサイル開発、中国による南シナ海や尖閣諸島周辺での勢力拡張や威嚇、米国の内向きの姿勢は、国民の間の危機意識を高めていると考えられる。日本会議への共感や支持の拡大は、このような国民意識の変化に後押しされている点と無関係ではないだろ
う。
 ここでは、私たちの活動を子細にご紹介する機会はないが、昨今の報道・出版の虚偽、誤解、偏見など
につき簡単に反論を加えておきたい。
(引用終わり)

 もう一つ、こちらは日本会議の地方組織、というのでしょうか、「日本会議広島」と表記されたホーム
ページに(ブログ版からの転載のようですが)以下のような記事が掲載されていました。
 
「安倍政権を完全支配する日本会議」 FRIDAY、朝日新聞が日本会議をPRしてくれました
(抜粋引用開始)
★8月12日 「講談社さん、ありがとう」 
私たち日本会議が会員拡大を目指す中で、一番困っていることは何か?
それは何をさておき、知名度がないことなのです。
ところが、ここにきて、各種メディアが日本会議を取り上げてくれるおかげで、
知名度急上昇中!!
たとえば、徹底した安倍批判で有名な日刊ゲンダイを発行している講談社様
が、発売中のフライデーで日本会議を取り上げてくださっています
私たちが頼んでもいないのに、記事で取り上げて下さったお蔭で、
事務所にもチラホラとフライデーに出ている日本会議さんですか
多くの自民党国会議員が所属している日本会議さんですか
との電話が入っており、中には、
入会を検討したいので、資料を送ってもらえますか
と話してくださる方まで!!
私たちに批判的な記事を書きながら、
実は応援してくださってる結果になってるのです!!
何よりも、一番の懸案であった、知名度アップアップ
に貢献してくださるなんて!!
講談社さん、ありがとう!!
何と言っても、記事見出しが嬉しいですよね!!
安倍政権を完全支配する「日本会議」ですって!! ラブラブ!
せっかくですので、講談社さんが私たち日本会議をどのように宣伝してくださっているのか、引用してみま
しょう!!
(引用終わり)
注:FRIDAYが掲載した「安倍政権を完全支配する『日本会議』の正体 根底から暴く!」はインターネット版で今でも読めます。

 以上は、この長い記事のほんの冒頭だけの引用です。私は「面白い」と思ってこれを引用している訳ではないですよ。
 私が日本会議の方と直接お話する機会があったのは、あとにも先にも、昨年9月12日、和歌山県田辺市で開催された「安保法案だよ全員集合!」というイベントに、私が法案反対派の1人として出演した際、法案賛成派として登壇された日本会議紀南支部支部長の大倉勝行さんと同事務局次長の山本浩さんとご一緒した時だけなのですが、その際、紀南支部のお2人から受けた印象と、上記「日本会議広島」の(誰が書いたのか知りませんが)のホームページにアップされた文体から推測される人柄とのあまりの違いに驚きを禁じ得ないからです。大倉さんが、「日本会議広島」の上記文章を読まれたらどう思われるでしょうか?
 どんな組織にも、いろんな人がいるのだなあ、というごく当たり前のことが、日本会議にもあてはまるのでしょうね。 
 
 さて、日本会議について再び取り上げたのは、和歌山での講演が9日後に迫ってきた俵義文さんが、昨日(9月19日)、「NHK問題を考える会(兵庫)」の招きにより、神戸市で講演されたのですが、IWJ兵庫によって撮影された講演動画のアーカイブが公開されており、全編視聴できますのでご紹介しようと思ったことによります。

 なお、「NHKにも魔の手」の部分は、俵さんではなく、元NHK経営委員の小林みどりさん(国立音楽大学名誉教授)がスピーチされていますので(1時間28分~1時間46分)、そちらも是非ご覧ください。

 最後に、9月29日の和歌山市での俵さんの講演会の開催概要をチラシから転記しておきます。

(引用開始)
憲法学習会
日本会議のすべて
~安倍政権を支える草の根「改憲」のうごき~
講師 俵 義文 氏(子どもと教科書全国ネット21 事務局長)
と き 2016年9月29日(木)18:00~19:20
ところ 和歌山勤労福祉会館プラザホープ2F多目的室
    (当初、会場を高校会館とご案内しましたが、変更致しました)
主催 
 憲法改悪阻止和歌山県各界連絡会議
  (高校会館内)073-432-6355
 憲法九条を守るわかやま県民の会
  (県地評内)073-436-3520
*当日は、19:30から憲法会議2016年度総会を同じ会場で開催いたします。

(引用終わり)
 
(弁護士・金原徹雄のブログから)
2015年9月12日
「安保法案だよ全員集合!」(9/12@田辺市)で話すつもりだったこと ※動画追加あり

※東条雅之さんが撮影してくださった動画(2時間02分)も是非ご覧になってください。
 

「日本会議のすべて(俵義文氏)」チラシ 

辺野古訴訟判決(9/16福岡高裁那覇支部)の「判決要旨」をじっくりと読む

 今晩(2016年9月19日)配信した「メルマガ金原No.2574」を転載します。

辺野古訴訟判決(9/16福岡高裁那覇支部)の「判決要旨」をじっくりと読む

福岡高等裁判所那覇支部 平成28年(行ケ)第3号
地方自治法第251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件
原告 国土交通大臣 石 井 啓 一
被告 沖縄県知事 翁 長 雄 志

 9月16日に福岡高裁那覇支部で判決が言い渡された上記事件について、とりあえず昨日は「判決骨子」(PDFファイルで2ページ)をご紹介するとともに、「判決文(全文)」(同358ページ)及び「判決要旨」(同13ページ)にリンクしておきました。
 掲載されているのは、沖縄県公式ホームページの中の「知事公室辺野古新基地建設問題対策課」というコーナーです。


 今日は、昨日時間の都合で紹介できなかった「判決要旨」全文をご紹介します。テキスト情報が埋め込まれていないPDFファイルから、文字情報を読み取る高性能のソフトウェアもあるやに聞いていますが、あいにく私にはその便宜がないため、以下のような作業で「判決要旨」の本文を定めました。
 まず、「沖縄タイムス+プラス」に掲載されている「判決(要旨)」をコピーして文書作成ソフトに貼り付けました。次に沖縄県ホームページに掲載されている「判決要旨」(全13ページ/県が裁判所から入手したものでしょう)を印刷しました。その上で、文書作成画面に貼り付けた「沖縄タイムス+プラス」の「判決(要旨)」と「判決要旨」とを読み比べ、相違している箇所は全て「判決要旨」に従って訂正するという作業を行いました。
 慣れてくれば、沖縄タイムスがこう書いているところは、多分原文ではこうだろうと予測できるようになってきましたから、だいたいは訂正できたと思いますが、きっと見落としている箇所もあるでしょう。従って、昨日書きましたように、「判決要旨」を引用しようとする方は、最終的にはPDFファイルと読み比べて、間違いないかどうかを確認するようにしてください。
 しかし、沖縄タイムスには独自の用語法の内規があるのでしょうし、「読点(、)」を追加して読みやすくなっていたりはするのですが、法令の条文を引用している箇所まで「及び」を「および」に直したりするのは、いくら何でもやり過ぎではないかと思いましたけどね。
 もっとも、沖縄タイムスがそういう「おせっかいな(?)」修正をしててくれたおかげで、「判決要旨」を復元するために、否応なく、じっくりと読まざるを得ませんでしたから、感謝しなければならないかもしれません。

 以下に、まず「判決要旨」全文を引用します。
 その上で、判決要旨を理解する上で必須となる法律の条文を引用します。
 最後に、今年の3月4日、福岡高裁那覇支部で行われた代執行訴訟についての国(国土交通大臣)と県(沖縄県知事)との和解関連文書(和解勧告文及び和解条項)を引用します。
 少なくとも、この訴訟に関与してこなかった法律家が、判決について何らかの意見を述べるためには、
前提的作業として以上の資料に目を通すことが最低限必要だろうと思い、集めてみることにしたものです。
 付言すると、今年の3月に成立した和解協議を主導した裁判長は、今回の判決を言い渡した裁判長と同一人物(多見谷寿郎裁判官)です。

 それで、私の意見は?
 私は、公有水面埋立法や地方自治法を専門に勉強したことはありません。わずかに、和歌山市と隣接の海南市との間で、新たな埋立地(その後、「マリーナシティ」として知られるようになる)の境界をめぐって争論が発生し、地方自治法に基づく境界確定訴訟に発展した際、海南市弁護団の末席に名を連ね、訴訟要件論のパートを担当したという程度であり、最近の地方自治法の改正などは、詳しくフォローしていませんから、この辺については、専門家の教示を得たいと思っています。
 けれども、今日、「判決要旨」の本文を確定するために、普通の人よりも(?)じっくりと要旨を熟読
した上での感想は、「これって裁判官が書くべきことか?」(既に何人もの識者が指摘されているようで
すが)という箇所の多さにめまいがしそうだったということです(特に「3 「本件承認処分の第1号要件欠如の有無」について」など)。
 あと、法律論として、私が特に注意を引かれたのは、「8 「知事が本件指示に従わないことは違法と言えるか」について (2)不作為の違法の意義について」における、「国地方係争処理委員会の本件指示の適法性について判断せずに協議すべきであるとの決定を尊重して、国の関与の取消訴訟を提起しなかったものであり、被告の不作為が違法とはならない」という被告の主張を裁判所が排斥した箇所ですね。この部分の文章が、他の箇所に比べて、「言い訳がましい」という印象を受けたのですが、皆さんはどうでしょう?

 それでは、じっくりと「判決要旨」及び関連資料をお読みください。


平成28年(行ケ)第3号 地方自治法第251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件
                      判  決  要  旨

第1 事案の概要
 本件は、国(沖縄防衛局)が、普天間飛行場代替施設(本件新施設等)を辺野古沿岸域に建設するため、平成25年12月27日、被告の前任者である沖縄県知事から公有水面埋立ての承認(本件承認処分)を受けていたところ、被告が、平成27年10月13日、承認処分の取消し(本件取消処分)をしたため、原告は、本件取消処分は、公有水面埋立法(以下「法」という。)に反して違法なものであるとして、地方自治法245条の7第1項に基づき、本件取消処分の取消しを求める是正の指示(本件指示)をしたものの、被告が、本件指示に基づいて本件取消処分を取り消さない上、法定の期間内に是正の指示の取消訴訟(同法251条の5)をも提起しないことから、同法251条の7に基づき、被告に対し、同不作為の違法の確認を求めた事案である。
 
第2 当裁判所の判断
1 取消権の発生要件(審理対象)およびその判断方法について

 行政処分に対し、原処分庁が職権で行ういわゆる自庁取消しが認められる根拠は法律による行政の原理ないし法治主義に求められるから、その要件は原処分が違法であることであり、原処分に要件裁量権が認められる場合には、原処分の裁量権の行使が逸脱・濫用にわたり違法であると認められることを要する。したがって、この点が本件の審理対象である。被告は、本件取消処分においてした本件承認処分に違法があるとの判断に要件裁量権がある」と主張するが、そうだとすると、裁量がないものとして判断しても、法的、客観的に適法である原処分に対する被告の再審査の判断が、裁量の範囲内においてであるがこれを誤って違法と判断したものであるとしても有効に取り消せるという不条理を招くことになるなど採用できない。
 また、被告は、地方自治権・自治体裁量権を根拠に司法審査が制限される旨主張するが、地方分権推進法並びに地方自治法平成11年及び24年改正は、国と地方の利害が対立し法解釈に関する意見が異なる場合に、それぞれが独立の機関として対立が続けば、行政が服すべき法的適合性原則に反する状態が解消できず、国地方の関係が不安定化し、ひいては地方分権の流れが逆流し国の権限を強化すべきであるとの動きが起こることを懸念して、その解決方法を設け、そこでも透明で割り切れたシステムにするという観点から、国の関与の手続を明確に規定し、その手続の中で解決がつかない場合は、第三者であることから中立的で公平な判断が期待でき、かつ透明で安定した手続を有する裁判所に判断させることとしたものである。したがって、裁判所としては、是正の要求や指示がされ地方公共団体がそれに従わないことから地方自治法所定の訴えが提起された場合は、所定の手続に沿って速やかに中立的で公平な審理・判断をすべき責務を負わされているのであり、それを全うすることこそが地方自治法改正の趣旨にかなうゆえんである。また、不作為の違法確認訴訟は、その制度検討過程において、地方公共団体が不作為の違法を確認する判決を受けてもそれに従わないのではないか、そうなれば制度が無意味になるというだけでなく、裁判所の権威まで失墜させることになり、ひいては日本の国全体に大きなダメージを与えてしまうとの懸念が表明されるほどマイルドな訴訟形態であることなどからしても、被告の主張は理由がない。

2 「第1号要件審査の対象に国防・外交上の事項が含まれるか」について
 第1号要件は当該埋立ての必要性および公共性の高さを埋立てに伴う種々の環境変化と比較するものであるから、埋立てに係る事業の性質や内容を審査することは不可欠であり、そのことは、それが国防・外交に関わるものであっても何ら変わりはないので、知事の審査権は国防・外交に係る事項に及ぶものと解するのが相当である。
 ただし、国防・外交に関する事項は本来地方公共団体が所管する事項ではなく、地域の利益に関わる限りにおいて審査権限を有するにすぎない。そして、地方公共団体には、国防・外交に関する事項を国全体の安全や国としての国際社会における地位がいかにあるべきかという面から判断する権限も判断しうる組織体制も責任を負いうる立場も有しない。それにもかかわらず、本来知事に審査権限を付与した趣旨とは異なり、地域特有の利害ではない米軍基地の必要性が乏しい、また住民の総意であるとして40都道府県全ての知事が埋立承認を拒否した場合、国防・外交に本来的権限と責任を負うべき立場にある国の不合理とはいえない判断が覆されてしまい、国の本来的事務について地方公共団体の判断が国の判断に優越することにもなりかねない。これは、地方自治法が定める国と地方の役割分担の原則にも沿わない不都合な事態である。よって、国の説明する国防・外交上の必要性について、具体的な点において不合理であると認められない限りは、被告はその判断を尊重すべきである。

3 「本件承認処分の第1号要件欠如の有無」について
(1)
第1号要件は、埋立て自体及び埋立地の用途が国土利用上の観点からして適正かつ合理的なものであることを要するとする趣旨と解され、承認権者がこれに該当するか否かを判断するに当たっては、国土利用上の観点からの当該埋立ての必要性および公共性の高さと、当該埋立て自体および埋立て後の土地利用が周囲の自然環境ないし生活環境に及ぼす影響などと比較衡量した上で、地域の実情などを踏まえ、総合的に判断することになり、これら様々な一般公益の取捨選択あるいは軽重の判断は高度の政策的判断に属するとともに、専門技術的な判断も含まれるから、承認権者である都道府県知事には広範な裁量が認められると解される。
 本件承認処分の第1号要件の審査が違法となるのは、その基礎とされた重要な事実に誤認があること等により、重要な事実の基礎を欠くこととなる場合、又は、事実にする評価が明らかに合理性を欠くこと、判断の過程において考慮すべき事情を考慮しないこと等によりその内容が社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限り、裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用したものとして違法となる。
(2)ア 沖縄の地理的優位性について
 沖縄と潜在的紛争地域とされる朝鮮半島や台湾海峡との距離は、ソウルまでが約1260キロ㎞であり、船舶での移動時間が約34時間、オスプレイの固定翼モードの速度時速230マイル(368㎞)で約3.5時間となり、台北までが約630㎞であり、船舶での移動時間が約17時間、オスプレイで約2時間となること、他方、北朝鮮が保有する弾道ミサイルのうち、ノドンの射程外となるのはわが国では沖縄などごく一部であること、南西諸島は、わが国の海上輸送交通路に沿う位置にあり、沖縄本島はその中央にあること、これに対し、グアムからは、ソウルまでが約3220㎞、台北までが約2760㎞、沖縄までおよそ2200㎞であること等に照らして、沖縄に地理的優位性が認められるとの原告の説明は不合理ではない。
イ 海兵隊の一体的運用について
 被告は、普天間飛行場に配備された航空機部隊は強襲揚陸艦に搭載されて艦船からの輸送および強襲揚陸に対する支援を行うことを任務とし、揚陸艦の母港は長崎県佐世保基地であるから、沖縄から海兵隊が展開するには佐世保基地から回航した揚陸艦が沖縄に到着するのを待たなければならないとして、沖縄から海兵隊航空基地を移設しても海兵隊の機動力・即応力が失われることはない旨指摘するが、在沖縄米軍の中でも海兵隊は武力紛争から自然災害まで種々の緊急事態に迅速に対応する初動対応部隊として他の軍種が果たせない重要な役割を持っており、強襲揚陸作戦ばかりでなく、海上阻止行動、対テロ作戦や安定化作戦、平時における人道支援・災害救助、敵地における偵察・監視、人質の奪還等の特殊作戦や危機発生時の民間人救出活動も任務としていること、これらの場合には在沖縄海兵隊独自の活動として強襲揚陸艦とは別に行うことも想定していることからすると、被告の上記指摘はその前提において海兵隊の持つ一部の任務に該当しうるに過ぎず、その余の重要な任務については、海兵隊航空基地を沖縄本島から移設すれば海兵隊の機動力・即応力が失われることになるから採用することができない。
ウ 普天間飛行場の返還と本件新施設等との関係について
 本件新施設等は普天間飛行場の半分以下の面積であり、その設置予定地はキャンプ・シュワブの米軍使用区域内であることからすると、全体としては沖縄の負担は軽減される。
 また、平成8年に日米間でされた普天間飛行場の返還合意は沖縄県内の米軍施設および区域内に新たにヘリポートを建設することが前提とされており、これが満たされなければ、返還合意自体が履行されない関係にあり、かつ、普天間飛行場が返還されることとなるまでは本件新施設等が米軍基地として使用されるわけではないから前者と後者は二者択一の関係にあること、その間に上記合意に基づく本件新施設等による一部機能の代替以外の方法で普天間飛行場が返還される可能性、即ち、前記のとおり、一体的運用が必要とされる以上、海兵隊全体が沖縄に駐留する必要性が失われるか、本島近辺に他の代替地を確保する必要性があるところ、その可能性があるとは考えにくく、本件新施設等が設置されなければ、普天間飛行場が返還されない蓋然性が有意に認められる。そうなると、計画されている普天間飛行場跡地利用による沖縄県全体の振興や多大な経済的効果も得られない。他方、仮に将来海兵隊全体が沖縄に駐留する必要がなくなるとすれば、そのときは、本件新施設等もキャンプ・シュワブも必要がなくなり、返還されることになるはずである。
エ 普天間飛行場による騒音被害や危険性の原因と対策について
 被告は普天間飛行場による騒音被害や危険性は、平成8年及び平成24年に日米安全保障協議委員会で合意された航空機騒音規制措置という日米両国間の地位協定に関わる合意事項が遵守されていないことにより深刻化しているのであるから、これを遵守させることによりそれを防止できると主張する。しかし、同規制措置は、全て「できる限り」とか「運用上必要な場合を除き」などの限定が付されており、そもそもこれが遵守されていないとの確認は困難であるから、被告の主張はその前提を欠いている。しかも、規制措置の内容を見てもそれによって普天間飛行場による騒音被害や危険性が軽減できる程度は小さく、これらは周囲を住宅密集地に囲まれた普天間飛行場に海兵隊の航空部隊が駐留すること自体によって発生していることが明らかであるから、普天間飛行場から海兵隊の航空部隊が他に移転すること以外に除去する方法はない。
 以上要するに、①普天間飛行場の騒音被害や危険性、これによる地域振興の阻害は深刻な状況であり、普天間飛行場の閉鎖という方法で改善される必要がある。しかし、②海兵隊の航空部隊を地上部隊から切り離して県外に移転することはできないと認められる。③在沖縄全海兵隊を県外に移転することができないという国の判断は戦後70年の経過や現在の世界、地域情勢から合理性があり尊重すべきである。④そうすると県内に普天間飛行場の代替施設が必要である。⑤その候補として本件新施設等が挙げられるが、他に県内の移転先は見当たらない。よって、⑥普天間飛行場の被害を除去するには本件新施設等を建設する以外にはない。言い換えると本件新施設等の建設をやめるには普天間飛行場による被害を継続するしかない。
(3)結論
 以上によれば、本件埋立事業の必要性(普天間飛行場の危険性の除去)が極めて高く、それに伴う環境悪化等の不利益を考慮したとしても第1号要件該当性を肯定できるとする判断が不合理なものであると認めることはできない。

4 「第2号要件審査に埋立地の竣工後の利用形態を含むのか及び本件承認処分の第2号要件欠如の有無」について
(1)
第2号要件は、埋立地の竣工後の利用形態ではなく、埋立行為そのものに随伴して必要となる環境保全措置等を審査するものと解するのが相当である。
(2)第2号要件の審査は、専門技術的知見を尊重して行う都道府県知事の合理的な判断に委ねられているといえる。このような都道府県知事の判断の適否を裁判所が審査するに当たっては、当該判断に不合理な点があるか否かという観点から行うべきであり、具体的には、現在の環境技術水準に照らし、①審査において用いられた具体的審査基準に不合理な点があるか、②本件埋立出願が当該具体的審査基準に適合するとした前知事の審査過程に看過しがたい過誤、欠落があるか否かを審査し、上記具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは、本件埋立出願が上記具体的審査基準に適合するとした前知事の審査の過程に看過しがたい過誤、欠落がある場合には、前知事の判断に不合理な点があるとして、本件承認処分は違法であると解すべきである。
 環境保全対策のための調査、予測および評価の方法について、同等程度の成果が得られるなら効率的な手法で行うべきことは、そうでなければ長期間事業目的を達成できないこと、多額の費用が国民の負担に帰することからも明らかである。このようなことからすると、第2号要件の審査時点では、現在の知見をもとに実行可能な範囲において環境の現況及び環境への影響を的確に把握した上で、これに対する措置が適正に講じられることで足り、上記不確実性に対応するには、承認後に引き続き事後調査や環境監視調査を行い、その場その時の状況に応じて専門家の助言・指導に基づいて柔軟に対策を講じることはむしろ合理的である。
 以上のような点等に照らすと、本件審査基準に不合理な点があるといえず、かつ、本件埋立出願が本件審査基準に適合するとした前知事の判断に不合理な点があるといえない。

5 「本件承認処分が法4条1項1号および同項2号の要件が欠如している場合に取消制限の法理の適用によって本件取消処分は違法と言えるか」について
(1)
「瑕疵のある処分をしてしまったことにより生じた法律関係や事実状態を保護する必要があるとの
法的安定性の確保が取消制限の根拠であり、加えて、授益的処分の取消しは、申請者の既得権や信頼を保護するという観点も加わり、これを取り消すべき公益上の必要があること、それを取り消すことによる不利益とを比較して前者が明らかに優越していることが必要であると解される。
 公有水面の埋立事業は多大な費用と労力を要し、様々な法律・利害関係が積み重なっていく性質を有し、法も一旦した法4条の免許を取り消し得る場合を詐欺の手段を以て埋立免許を受けたときと定めるなど、取消権の行使を制限する趣旨の規定を設けていること等からすると、公有水面の埋立承認処分に対する取消権行使は法的安定性の確保のためより制限されるべきものと解される。
(2)本件承認処分に瑕疵があるとしても、その瑕疵の性質は、裁量の範囲内の不当であり、すなわち、考慮すべき事情をいずれも考慮した上で、その利害調整において優劣の判断を誤ったというにすぎないものである。その不当性も事情評価の軽度な誤りであって、瑕疵の存否が一見して明らかなものではないから、その意味では瑕疵のある処分が存続することにより、取消権の根拠である法律による行政の原理が損なわれる程度は小さい。
 取り消すことによる不利益は、日米間の信頼関係の破壊、国際社会からの信頼喪失、本件埋立事業に費やした経費、第三者への影響がある。
 他方、取り消すべき公益上の必要としては、自然海浜を保護する必要等があげられるが、他方、本件埋立事業を行う必要性(普天間飛行場の危険性の除去)自体は肯定できるので、前者が後者に程度において勝ったというにすぎず、その分取り消すべき公益上の必要が減殺される。
 被告は、本件取消処分をしないことによって、沖縄県の自治が侵害され、更に、沖縄県民の民意に反し、地域振興開発の阻害要因を作出する旨主張する。しかし、本件埋立事業による普天間飛行場の移転は沖縄県の基地負担軽減に資するものであり、そうである以上本件新施設等の建設に反対する民意には沿わないとしても、普天間飛行場その他の基地負担の軽減を求める民意に反するとは言えない。また、本件埋立事業によって設置される予定の本件新施設等は、普天間飛行場の施設の半分以下の面積であって、その設置予定地はキャンプ・シュワブの米軍使用水域内であることからすれば、本件埋立事業が被告の主張する地域振興開発の阻害要因とは言えない。
(3)結論
 そうすると、そもそも取り消すべき公益上の必要が取り消すことによる不利益に比べて明らかに優越し
ているとまでは認められず、本件承認処分の取消しは許されない。

6 「法令の規定に違反する場合」(地方自治法245条の7第1項)の意義および原告が行える是正の指示(同条項)の範囲」について
(1)「法令の規定に違反する場合」(地方自治法245条の7第1項)の意義について
 被告は、その違法が全国的な統一性、広域的な調整等の必要という観点から、看過しがたいことが明らかである場合をいうと主張するが、その根拠とする「一定の行政目的を実現するため」とは、是正の指示(同法245条1号へ)とは異なる、地方自治法が、国に対し、できる限り地方公共団体に対して行うことのないよう求めているいわゆる非定型的関与に関する規定である。被告の主張は、地方自治法上是正の指示とは明確に区別してその利用を制限すべきものとされた非定型的関与の規定を、是正の指示にも適用すべきであるという失当なものであることが明白である。
(2)原告が行える是正の指示の範囲について
 被告は、原告の所掌事務である「国土の総合的かつ体系的な利用、開発及び保全」(国土交通省設置法3条1項)の範囲に限られ、かつ、法の目的の範囲内に限られるところ、本件指示理由は、国土交通大臣の所掌している事務でなく、かつ、法の目的ではない、外交および防衛であるので、本件指示は国土交通大臣の権限を逸脱するとして、違法である旨主張する。しかし、そもそも、是正の要求の要件が「各大臣は、その担任する事務に関し、都道府県の自治事務の処理が法令の規定に違反していると認めるとき」(地方自治法245条の5第1項)と規定しているのに対比して、是正の指示の要件は、「各大臣は、その所管する法律又はこれに基づく政令に係る都道府県の法定受託事務の処理が法令の規定に違反していると認めるとき」(同法245条の7第1項)と定めている。これは、法定受託事務に関する是正の指示については自治事務に関する是正の要求よりも広く、都道府県が処理する法定受託事務に係る法令を所管する大臣であることだけが要件とされており、自らの担任する事務に関わるか否かに関係なく、法定受託事務の処理が違法であれば、是正の指示の発動が許される趣旨と解される。よって、この点において被告の主張に理由がないことは明らかである。

7 「本件新施設等建設の法律上の根拠および自治権の侵害の有無」について
(1)本件新施設等建設の法律上の根拠について
 本件新施設等は、日米安全保障条約および日米地位協定に基づくものであり、憲法41条に違反するとはいえず、さらに、本件新施設等が設置されるのはキャンプ・シュワブの使用水域内に本件埋立事業によって作り出される本件埋立地であって、その規模は、普天間飛行場の施設の半分以下の面積であり、かつ、普天間飛行場が返還されることに照らせば、本件新施設等建設が自治権侵害として憲法92条に反するとはいえない。
(2)自治権の侵害の有無について
 地方自治法および法により許容される限度の国の関与が当然に憲法92条に違反するとは言えないところ、本件指示が地方自治法および法により許容され、本件新施設等についての沖縄の地理的必然性がないとはいえないことに加え、本件新施設等が設置されるのはキャンプ・シュワブの使用水域内に本件埋立事業によって作り出される本件埋立地であって、その規模は、普天間飛行場の施設の半分以下の面積であり、かつ、普天間飛行場が返還されることに照らせば、沖縄県の自治権制限・米軍による環境破壊や事件事故等によって本件指示が憲法92条に違反するとはいえない。

8 「知事が本件指示に従わないことは違法と言えるか」について
(1)相当の期間の経過について

 法定受託事務に関する是正の指示がなされた場合は、地方公共団体はそれに従う法的義務を負い、それに係る措置を講じるのに必要と認められる期間、すなわち、相当の期間を経過した後は、それをしない不作為は違法となる。地方公共団体からする審査申出期間、審査期間および出訴期間は国の提訴を制限する期間である。相当期間がいつまでであるかについて、本件では、従前の代執行訴訟と主たる争点が共通することになることに鑑みると、遅くとも本件指示についての国地方係争処理委員会の決定が通知された時点では、是正の指示の適法性を検討するのに要する期間は経過したというべきであり、その後に本件取消決定を取り消す措置を行うのに要する期間は長くとも1週間程度と認められるから、本件訴えが提起された時点では相当期間を経過していることは明らかであり、被告が本件指示に従わないことは不作為の違法に当たると言える。
(2)不作為の違法の意義について
 被告は、地方公共団体の長に国地方係争処理委員会への審査申出やその後の訴え提起の途が開かれているにもかかわらず、それぞれ相応の一定期間を経過してもそうした対応をしないなどの一連の経過に照らし、地方公共団体の長の対応に故意または看過しがたい瑕疵のあることが認められて初めて不作為の違法が認定できると解すべきであると指摘する。しかし、平成24年改正で提訴対象を是正の要求・指示に限定する一方、国地方係争処理委員会への申立てを前置しなかったのは、重要案件につき、いずれが正しいにせよ、国と地方公共団体の対立により、違法状態が長く続くことは好ましくなく、迅速に処理すべきとされたこと等に照らし、国地方係争処理委員会の手続を経ても、是正の指示が撤回されるなど被告の不作為が違法である状態が解消されなかった以上、被告において、前記のとおり、最終的な解決手段として用意された訴え提起を行うことにより、自らの違法状態を解消することが地方自治法の趣旨に沿うものである。
 さらに、被告は、国地方係争処理委員会の本件指示の適法性について判断せずに協議すべきであるとの決定を尊重して、国の関与の取消訴訟を提起しなかったものであり、被告の不作為が違法とはならないと主張する。しかし、本件指示の適法性について判断しなかったことについては、国地方係争処理委員会は行政内部における地方公共団体のための簡易迅速な救済手続でありその勧告にも拘束力が認められていないことから、是正の指示の適法性を判断しても、双方共にそれに従う意思がないのであれば、それを判断しても紛争を解決できない立場である。また、国や地方公共団体に対し訴訟によらずに協議により解決するよう求める決定をする権限はなく、もちろん国や地方公共団体にそれに従う義務もない。代執行訴訟での和解では国地方係争処理委員会の決定が被告に有利であろうと不利であろうと被告において本件指示の取消訴訟を提起し、両者間の協議はこれと並行して行うものとされたところ、国地方係争処理委員会の決定は和解において具体的には想定しない内容であったとはいえ、元々和解において決定内容には意味がないものとしており、実際の決定内容も少なくとも是正の指示の効力が維持されるというものに他ならないのであるから、被告は本件指示の取消訴訟を提起すべきであったのであり、それをしないために国が提起することとなった本件訴訟にも同和解の効力が及び、協議はこれと並行して行うべきものと解するのが相当である。なお、同和解は代執行訴訟において被告が不作為の違法確認訴訟の確定判決に従うと表明したことが前提とされているところ、被告は本件においてもその確定判決に従う旨を述べており、被告にも国にも錯誤はなく、同和解は有効に成立した。
 本件のようにそれ自体極めて重大な案件であり、しかも、国にとって防衛・外交上、県にとって、歴史的経緯を含めた基地問題という双方の意見が真っ向から対立して一歩も引かない問題に対しては、互譲の精神により双方にとって多少なりともましな解決策を合意することが本来は対等・協力の関係という地方自治法の精神から望ましいとは考えるが、被告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、前の和解成立から約5カ月が経過してもその糸口すら見出せない現状にあると認められるから、その可能性を肯定することは困難である。そうすると、前記のとおり、平成11年及び平成24年の地方自治法の改正の経緯から、本件訴訟に対して所定の手続きに沿って速やかに中立的で公平な審理・判断をすべき責務を負わされている裁判所としてはその責務を果たすほかないと思料するものである。
                                              以上


【関連法令】
地方自治法(昭和二十二年四月十七日法律第六十七号)
(是正の指示)
第二百四十五条の七
 各大臣は、その所管する法律又はこれに基づく政令に係る都道府県の法定受託事務の処理が法令の規定に違反していると認めるとき、又は著しく適正を欠き、かつ、明らかに公益を害していると認めるときは、当該都道府県に対し、当該法定受託事務の処理について違反の是正又は改善のため講ずべき措置に関し、必要な指示をすることができる。
 (略)
 (略)
 (略)
                                   
(国の関与に関する訴えの提起)
第二百五十一条の五
 第二百五十条の十三第一項又は第二項の規定による審査の申出をした普通地方公共団体の長その他の執行機関は、次の各号のいずれかに該当するときは、高等裁判所に対し、当該審査の申出の相手方となつた国の行政庁(国の関与があつた後又は申請等が行われた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁)を被告として、訴えをもつて当該審査の申出に係る違法な国の関与の取消し又は当該審査の申出に係る国の不作為の違法の確認を求めることができる。ただし、違法な国の関与の取消しを求める訴えを提起する場合において、被告とすべき行政庁がないときは、当該訴えは、国を被告として提起しなければならない。
一 第二百五十条の十四第一項から第三項までの規定による委員会の審査の結果又は勧告に不服があるとき。
二 第二百五十条の十八第一項の規定による国の行政庁の措置に不服があるとき。
三 当該審査の申出をした日から九十日を経過しても、委員会が第二百五十条の十四第一項から第三項までの規定による審査又は勧告を行わないとき。
四 国の行政庁が第二百五十条の十八第一項の規定による措置を講じないとき。
 前項の訴えは、次に掲げる期間内に提起しなければならない。
一 前項第一号の場合は、第二百五十条の十四第一項から第三項までの規定による委員会の審査の結果又は勧告の内容の通知があつた日から三十日以内
二 前項第二号の場合は、第二百五十条の十八第一項の規定による委員会の通知があつた日から三十日以内
三 前項第三号の場合は、当該審査の申出をした日から九十日を経過した日から三十日以内
四 前項第四号の場合は、第二百五十条の十四第一項から第三項までの規定による委員会の勧告に示された期間を経過した日から三十日以内
 第一項の訴えは、当該普通地方公共団体の区域を管轄する高等裁判所の管轄に専属する。
 原告は、第一項の訴えを提起したときは、直ちに、文書により、その旨を被告に通知するとともに、
当該高等裁判所に対し、その通知をした日時、場所及び方法を通知しなければならない。
 当該高等裁判所は、第一項の訴えが提起されたときは、速やかに口頭弁論の期日を指定し、当事者を呼び出さなければならない。その期日は、同項の訴えの提起があつた日から十五日以内の日とする。
 第一項の訴えに係る高等裁判所の判決に対する上告の期間は、一週間とする。
 国の関与を取り消す判決は、関係行政機関に対しても効力を有する。
 第一項の訴えのうち違法な国の関与の取消しを求めるものについては、行政事件訴訟法第四十三条第一項 の規定にかかわらず、同法第八条第二項 、第十一条から第二十二条まで、第二十五条から第二十九条まで、第三十一条、第三十二条及び第三十四条の規定は、準用しない。
 第一項の訴えのうち国の不作為の違法の確認を求めるものについては、行政事件訴訟法第四十三条第三項 の規定にかかわらず、同法第四十条第二項 及び第四十一条第二項 の規定は、準用しない。
10 前各項に定めるもののほか、第一項の訴えについては、主張及び証拠の申出の時期の制限その他審理の促進に関し必要な事項は、最高裁判所規則で定める。

(普通地方公共団体の不作為に関する国の訴えの提起)
第二百五十一条の七
 第二百四十五条の五第一項若しくは第四項の規定による是正の要求又は第二百四十五条の七第一項若しくは第四項の規定による指示を行つた各大臣は、次の各号のいずれかに該当するときは、高等裁判所に対し、当該是正の要求又は指示を受けた普通地方公共団体の不作為(是正の要求又は指示を受けた普通地方公共団体の行政庁が、相当の期間内に是正の要求に応じた措置又は指示に係る措置を講じなければならないにもかかわらず、これを講じないことをいう。以下この項、次条及び第二百五十二条の十七の四第三項において同じ。)に係る普通地方公共団体の行政庁(当該是正の要求又は指示があつた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁)を被告として、訴えをもつて当該普通地方公共団体の不作為の違法の確認を求めることができる。
一 普通地方公共団体の長その他の執行機関が当該是正の要求又は指示に関する第二百五十条の十三第一項の規定による審査の申出をせず(審査の申出後に第二百五十条の十七第一項の規定により当該審査の申出が取り下げられた場合を含む。)、かつ、当該是正の要求に応じた措置又は指示に係る措置を講じないとき。
二 普通地方公共団体の長その他の執行機関が当該是正の要求又は指示に関する第二百五十条の十三第一項の規定による審査の申出をした場合において、次に掲げるとき。
イ 委員会が第二百五十条の十四第一項又は第二項の規定による審査の結果又は勧告の内容の通知をした場合において、当該普通地方公共団体の長その他の執行機関が第二百五十一条の五第一項の規定による当該是正の要求又は指示の取消しを求める訴えの提起をせず(訴えの提起後に当該訴えが取り下げられた場合を含む。ロにおいて同じ。)、かつ、当該是正の要求に応じた措置又は指示に係る措置を講じないとき。
ロ 委員会が当該審査の申出をした日から九十日を経過しても第二百五十条の十四第一項又は第二項の規定による審査又は勧告を行わない場合において、当該普通地方公共団体の長その他の執行機関が第二百五十一条の五第一項の規定による当該是正の要求又は指示の取消しを求める訴えの提起をせず、かつ、当該是正の要求に応じた措置又は指示に係る措置を講じないとき。
 前項の訴えは、次に掲げる期間が経過するまでは、提起することができない。
一 前項第一号の場合は、第二百五十条の十三第四項本文の期間
二 前項第二号イの場合は、第二百五十一条の五第二項第一号、第二号又は第四号に掲げる期間
三 前項第二号ロの場合は、第二百五十一条の五第二項第三号に掲げる期間
 第二百五十一条の五第三項から第六項までの規定は、第一項の訴えについて準用する。
 第一項の訴えについては、行政事件訴訟法第四十三条第三項 の規定にかかわらず、同法第四十条第二項 及び第四十一条第二項 の規定は、準用しない。
 前各項に定めるもののほか、第一項の訴えについては、主張及び証拠の申出の時期の制限その他審理の促進に関し必要な事項は、最高裁判所規則で定める。

 
公有水面埋立法(大正十年四月九日法律第五十七号)
第四条 都道府県知事ハ埋立ノ免許ノ出願左ノ各号ニ適合スト認ムル場合ヲ除クノ外埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ズ
一 国土利用上適正且合理的ナルコト
二 其ノ埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノナルコト
三 埋立地ノ用途ガ土地利用又ハ環境保全ニ関スル国又ハ地方公共団体(港務局ヲ含ム)ノ法律ニ基ク計画ニ違背セザルコト
四 埋立地ノ用途ニ照シ公共施設ノ配置及規模ガ適正ナルコト
五 第二条第三項第四号ノ埋立ニ在リテハ出願人ガ公共団体其ノ他政令ヲ以テ定ムル者ナルコト並埋立地ノ処分方法及予定対価ノ額ガ適正ナルコト
六 出願人ガ其ノ埋立ヲ遂行スルニ足ル資力及信用ヲ有スルコト
 前項第四号及第五号ニ掲グル事項ニ付必要ナル技術的細目ハ国土交通省令ヲ以テ之ヲ定ム
 都道府県知事ハ埋立ニ関スル工事ノ施行区域内ニ於ケル公有水面ニ関シ権利ヲ有スル者アルトキハ第一項ノ規定ニ依ルノ外左ノ各号ノ一ニ該当スル場合ニ非ザレバ埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ス
一 其ノ公有水面ニ関シ権利ヲ有スル者埋立ニ同意シタルトキ
二 其ノ埋立ニ因リテ生スル利益ノ程度カ損害ノ程度ヲ著シク超過スルトキ
三 其ノ埋立カ法令ニ依リ土地ヲ収用又ハ使用スルコトヲ得ル事業ノ為必要ナルトキ


【2016年3月4日和解に関する文書】
(事件の表示)
福岡高等裁判所那覇支部 平成27年(行ケ)第3号
地方自治法第245条の8第3項の規定に基づく埋立承認処分取消処分取消命令請求事件
原告 国土交通大臣 石 井 啓 一
被告 沖縄県知事 翁 長 雄 志
及び
同支部 平成28年(行ケ)第1号
地方自治法第251条の5に基づく違法な国の関与の取消請求事件
原告 沖縄県知事 翁 長 雄 志
被告 国土交通大臣 石 井 啓 一

(和解勧告文)
(注記 和解手続は非公開で行われることにご留意いただき、本書面は当事者限りとしていただきたい。)
 現在は、沖縄対日本政府という対立の構図になっている。それは、その原因についてどちらがいい悪いという問題以前に、そうなってはいけないという意味で双方ともに反省すべきである。就中、平成11年地方自治法改正は、国と地方公共団体が、それぞれ独立の行政主体として役割を分担し、対等・協力の関係となることが期待されたものである。このことは法定受託事務の処理において特に求められるものである。同改正の精神にも反する状況になっている。
 本来あるべき姿としては、沖縄を含めオールジャパンで最善の解決策を合意して、米国に協力を求めるべきである。そうなれば、米国としても、大幅な改革を含めて積極的に協力をしようという契機となりうる。
 そのようにならず、今後も裁判で争うとすると、仮に本件訴訟で国が勝ったとしても、さらに今後、埋
立承認の撤回がされたり、設計変更に伴う変更承認が必要となうたりすることが予想され、延々と法廷闘争が続く可能性があり、それらでも勝ち続ける保証はない。むしろ、後者については、知事の広範な裁量が認められて敗訴するリスクは高い。仮に国が勝ち続けるにしても、工事が相当程度遅延するであろう。他方、県が勝ったとしても、辺野古移設が唯一の解決策だと主張する国がそれ以外の方法はありえないとして、普天間飛行場の返還を求めないとしたら、沖縄だけで米国と交渉して普天間飛行場の返還を実現できるとは思えない。
 そこで、以上の理由から、次のとおり和解案を2案提示する。まずは、A案 を検討し、否である場合にB案 を検討されたい。なおA案B案ともアウトラインを示したものであり、手直しの余地はあるので、前向きな提案があれば考慮する。
 A案 被告は埋立承認取消を取り消す。原告(国)は、新飛行場をその供用開始後30年以内に返還または軍民共用空港とすることを求める交渉を適切な時期に米国と開始する。返還等が実現した後は民間機用空港として国が運営する。原告(国)は、埋立工事及びその後の運用たおいて、周辺環境保全に最大限の努力をし、生じた損害については速やかに賠償することとする。国は、普天間飛行場の早期返還に一層努力し、返還までの間は、特段の事情変更がない限り、普天間爆音訴訟一審判決(那覇地裁沖縄支部平成24年(ワ)第290号等)の基準(コンター図w75区域及びw80区域居住者につきそれぞれw75は一日150円、w80は300円とするもの)に従って、任意に損害を賠償する。被告(県)は、原告(国)がこれらを遵守する限りにおいて埋立工事及びその後の運用に協力する。
 B案 原告は、本件訴訟を、沖縄防衛局長は原告に対する行政不服審査法に基づく審査請求をそれぞれ取り下げる。沖縄防衛局長は、埋立工事を直ちに中止する。原告と被告は違法確認訴訟判決まで円満解決に向けた協議を行う。被告と原告は、違法確認訴訟判決後は、直ちに判決の結果に従い、それに沿った手続を実施することを相互に確約する。
                                          以上
 
(和解条項)
1 当庁平成27年(行ケ)第3号事件原告(以下「原告」という。)は同事件を、同平成28年(行ケ)第1号事件原告(以下「被告」という。)は同事件をそれぞれ取り下げ、各事件の被告は同取下げに同意する。
2 利害関係人沖縄防衛局長(以下「利害関係人」という。)は、被告に対する行政不服審査法に基づく審査請求(平成27年10月13日付け沖防第4514号)及び執行停止申立て(同第4515号)を取り下げる。利害関係人は、埋立工事を直ちに中止する。
3 原告は被告に対し、本件の埋立承認取消に対する地方自治法245条の7所定の是正の指示をし、被告は、これに不服があれば指示があった日から1週間以内に同法250条の13第1項所定の国地方係争処理委員会への審査申出を行う。
4 原告と被告は、同委員会に対し、迅速な審理判断がされるよう上申するとともに、両者は、同委員会が迅速な審理判断を行えるよう全面的に協力する。
5 同委員会が是正の指示を違法でないと判断した場合に、被告に不服があれば、被告は、審査結果の通知があった日から1週間以内に同法251条の5第1項1号所定の是正の指示の取消訴訟を提起する。
6 同委員会が是正の指示が違法であると判断した場合に、その勧告に定められた期間内に原告が勧告に応じた措置を取らないときは、被告は、その期間が経過した日から1週間以内に同法251条の5第1項4号所定の是正の指示の取消訴訟を提起する。
7 原告と被告は、是正の指示の取消訴訟の受訴裁判所が迅速な審理判断を行えるよう全面的に協力する。
8 原告及び利害関係人と被告は、是正の指示の取消訴訟判決確定まで普天間飛行場の返還及び本件埋立事業に関する円満解決に向けた協議を行う。
9 原告及び利害関係人と被告は、是正の指示の取消訴訟判決確定後は、直ちに、同判決に従い、同主文及びそれを導く理由の趣旨に沿った手続を実施するとともに、その後も同趣旨に従って互いに協力して誠実に対応することを相互に確約する。
10 訴訟費用及び和解費用は各自の負担とする。

辺野古訴訟判決(9/16福岡高裁那覇支部)の「骨子」をとりあえず読む

 今晩(2016年9月18日)配信した「メルマガ金原No.2573」を転載します。

辺野古訴訟判決(9/16福岡高裁那覇支部)の「骨子」をとりあえず読む

福岡高等裁判所那覇支部 平成28年(行ケ)第3号
地方自治法第251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件
原告 国土交通大臣 石 井 啓 一
被告 沖縄県知事 翁 長 雄 志

 一昨日、福岡高裁那覇支部で判決が言い渡された事件を正式に表記すると以上のとおりとなります。ご存知かとは思いますが、石井啓一国土交通大臣は、自民党ではなく公明党の方(衆議院議員)です。
 「ひどい判決だ」という話はあちこちから聞こえてきますが(実際、そうだろうとは思いますが)、一応読んでからでないと、何がどれだけ「ひどい」のかも分かりませんしね。
 裁判所の判例検索サイト(これが検索しにくい)で探してみましたが、(多分)まだ掲載されていないようです。
 ということで、当事者である沖縄県公式WEBサイトの中の「知事公室辺野古新基地建設問題対策課」を開いたところ、被告側が受領した判決正本をスキャンしたらしい「判決文」が6分割されたPDFファイルとして掲載されていました。


 最終ページ(書記官による「これは正本である」という認証欄)の直前を確認してみると、別紙を含めてトータル358ページ、本文だけでも180ページ以上、これはなかなか読み通すのは難しい。
 沖縄県の当該ページには、「判決文」そのものだけではなく、「判決骨子」(2ページ)と「判決要旨」(13ページ)も掲載されていました。これは、耳目を集める重大事件の判決に際し、裁判所自身が作成する要約版であり、とりあえずこれを読んでみることにしましょう。
 「判決骨子」は、沖縄県ホームページから私が転記しました。
 それから「判決要旨」も全文を紹介したいと思いましたが、自分で転記するのは時間がかかり過ぎるので断念しました。すると、具合良く、沖縄タイムス+プラスに「判決(要旨)」が掲載されているのに気がつき、これをコピペさせてもらって紹介しようと思ったのですが、念のために県ホームページに掲載されたPDFファイルと照らし合わせてみると、読者に分かりやすいようにという配慮からでしょうか、書き直しが随所に見られました。もちろん、内容的な変更ではなく、元号を西暦にしたり、「被告」を「知事」と言い替えたりというようなことが大半ですが、文章表現を手直ししている箇所も結構あります。従って、裁判所が作成したとおりの「判決要旨」になっていませんので、「判決要旨」を引用しようという方は、沖縄タイムスからではなく、原文のPDFファイルから引用されるように助言したいと思います。
 従って、今日のところは判決要旨の全文転載は諦めて、リンクするにとどめます。
 時間に余裕が出来たら、全文をご紹介したいと思います。
 
【判決骨子】 
平成28年(行ケ)第3号 地方自治法第251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件
                      
判  決  骨  子
1 事案の概要

 本件は、原告が、被告に対し、普天間飛行場代替施設を辺野古沿岸域に建設するために受けていた公有水面埋立ての承認の取消しを取り消すよう求めた是正の指示に従わないのは違法であるとして、その不作為の違法の確認を求めた事案である。
2 当裁判所の判断
(1)
知事が公有水面埋立承認処分を取り消すには、承認処分に裁量権の逸脱・濫用による違法があることを要し、その違法性の判断について知事に裁量は存しないので、取消処分の違法性を判断するに当たっては、承認処分の上記違法性の有無が審理対象となる。
(2)公有水面埋立法(以下、「法」という。)4条1項1号要件の審査対象に国防・外交上の事項は含まれるが、これらは地方自治法等に照らしても、国の本来的任務に属する事項であるから、国の判断に不合理な点がない限り尊重されるべきである。
(3)普天間飛行場の被害を除去するには本件埋立てを行うしかないこと、これにより県全体としては基地負担が軽減されることからすると、本件埋立てに伴う不利益や基地の整理縮小を求める沖縄の民意を考慮したとしても、法4条1項1号要件を欠くと認めるに至らない。
(4)承認時点では、十分な予測や対策を決定することが困難な場合は引き続き専門家の助言の下に対策を講じることも許されるなどの点に照らすと法4条1項2号要件を欠くと認めるには至らない。
(5)よって、承認処分における要件審査に裁量権の逸脱・濫用があるとは言えず、承認処分は違法であるとは言えない。仮に、承認処分の裁量権の範囲内であってもその要件を充足していないという不当があれば取り消せると解したとしても、承認処分に不当があると認めるには至らないし、仮に不当があるとしても、知事の裁量の範囲内で埋立ての必要を埋立てによる不利益が上回ったに過ぎず、承認を取り消すべき公益上の必要がそれを取り消すことによる不利益に比べて明らかに優越しているとはいえないなど、承認処分を取り消すことは許されない。よって、被告の取消処分は違法である。
(6)その他、被告がする是正の指示が違法であるとの主張は、その前提とする地方自治法の解釈が失当である。
(7)遅くとも本件訴え提起時には、是正の指示による措置を講じるのに相当の期間は経過しており、被告の不作為は違法となった。また、地方自治法の趣旨及び前件和解の趣旨から、被告は是正の指示の取消訴訟を提起するべきであった。
                                              以上

【判決要旨】
 県PDF 判決要旨

 沖縄タイムス+プラスを閲覧したついでに、同紙から、以下の2つの記事をご紹介しておきます。

沖縄タイムス+プラス ニュース 2016年9月17日 12:03
辺野古違法確認訴訟 裁判長の説明

(抜粋引用開始)
 なお、この場で2点だけ説明致します。
 まず1点目は、協議と判決との関係。協議は政治家同士の交渉ごとでまさに政治の話。訴訟は法律解釈の話。両者は対象とする問題点は同じでも、アプローチがまったく違うもので同時並行は差し支えないと、考えた。
 2点目。裁判所が被告に敗訴判決に従うかを確認した理由に関係する。国は敗訴しても変わらない。国は何もできないことが続くだけ。
 これは弁護士の方はよくご存じだと思うが、平成24年の地方自治法改正を検討する際に問題になった。
 不作為の違法を確認する判決が出ても、地方公共団体は従わないのではないか。そうなれば判決をした裁判所の信頼権威を失墜させ、日本の国全体に大きなダメージを与える恐れがあるということが問題になった。
 そういう強制力のない制度でも、その裁判の中で、被告が是正指示の違法性を争えるということにすれば、地方公共団体も判決に従ってくれるだろうということで、そういうリスクのある制度ができた。
 それで、その事件がこの裁判にきたということになる。そういうことで、そのリスクがあるかを裁判所としてはぜひ確認したいと考えた。もしそのリスクがあれば、原告へ取り下げ勧告を含めて、裁判所として日本の国全体に大きなダメージを与えるようなリスクを避ける必要があると考えた。もちろん代執行訴訟では、被告は「不作為の違法確認訴訟がある。そこで敗訴すれば、従う。だから、最後の手段である代執行はできない」と主張されまして、それを前提に和解が成立しました。
 ですから当然のこととは思いましたけれども、今申し上げたように理解があるということでしたので、念のため確認したものの、なかなかお答えいただけなくて心配していたんですけども、さすがに、最後の決断について知事に明言していただいて、ほっとしたところであります。どうもありがとうございました。判決は以上です。じゃあ終わります。
(引用終わり)
※多見谷寿郎裁判長による法廷での「主文読み上げ」及び「説示」が再現されており、なかなか興味深いですね。再現の正確性については沖縄タイムスを信用するしかありませんが。とりあえず、「説示」部分のみ引用しました。
 
沖縄タイムス+プラス タイムス×クロス 2016年9月18日
【木村草太の憲法の新手】(40)辺野古訴訟判決 県の主張に応えていない

(抜粋引用開始)
 
9月16日、福岡高裁は、辺野古の埋め立て承認処分の取消を違法と判断した。判決は、次のように述べる。
 「全ての知事が埋立承認を拒否した場合、国防・外交に本来的権限と責任を負うべき立場にある国の不合理とは言えない判断が覆されてしまい、国の本来的事務について地方公共団体の判断が国の判断に優越することにもなりかねない。これは、地方自治法が定める国と地方の役割分担の原則にも沿わない不都合な事態である。よって、国の説明する国防・外交上の必要性について、具体的な点において不合理であると認められない限りは、被告はその判断を尊重すべきである」
 この言いようは、あまりにもひどい。米軍基地が嫌悪施設だと認めつつ、「みんな嫌がるから、地元の話など聞いてられない」という開き直りだ。これでは、安全保障に関する事柄は全て、自治体の意向を無視して、国が勝手にできることになってしまう。
 今こそ、憲法が、地方自治を保障する意味を見直さねばならない。国地方係争処理委員会は、話し合いによる解決を求めていた。この判決は、それすら無視している。
 この判決を基礎にするならば、国は、話し合いの場を設けるインセンティブがなくなる。何もしない方が、国の主張が通りやすいからだ。沖縄が納得するだけの十分なコミュニケーションを促すには、何をすべきなのか、そういった視線も必要だ。
 また、沖縄に基地が集中しているのを知りながら、「仕方ない」と国民が思っていたのでは、地域間の不平等は解消されない。米軍基地による恩恵を受けているのは、日本国民全体だ。「本当に沖縄でなければならないのか」を、一人一人が考えていかねばならない。
(引用終わり)
 
 最後に、地元沖縄2紙の社説にリンクしておきます。

UPLAN【原発事故避難者インタビュー】に注目しよう~まずは松本徳子さんと森松明希子さん

 今晩(2016年9月17日)配信した「メルマガ金原No.2572」を転載します。

UPLAN【原発事故避難者インタビュー】に注目しよう~まずは松本徳子さんと森松明希子さん

 かつて、IWJで「百人百話」という、岩上安身さんによる原発事故後の福島の人々に対する連続インタビューが行われ、第2集まで本になっています。
 


 当初はUSTREAM中継され、その後文字化されたものですが、事故直後の2011年から2012年にかけて、否応なく原発事故に巻き込まれた当事者の率直な声を届けてくれる、そして、今となっては歴史に残る、貴重な記録(オーラルヒストリー)であったと思います。

 そして、事故から5年が経過した今年(2016年)、三輪祐児さんが主宰するUPLANが、【原発事故避難者インタビュー】シリーズの収録・公開を開始しました。
 まだ、松本徳子さん(「避難の協同センター」代表世話人)インタビュー(2016年7月14日)と森松明希子さん(東日本大震災避難者の会Thanks&Dreamサンドリ代表、原発賠償関西訴訟原告団代表)インタビュー(with松本徳子さん)(2016年9月17日)の2本がアップされただけですが、おそらくこれからもシリーズで避難当事者へのインタビューが集積されていくのだろうと思います。

 最初の頃の百人百話をUSTREMで視聴した時もそう思ったのですが、「体験」というのは、1人1人にとって全部違うのですよね。そこに「共通性」を見出すことは可能だし、必要なことであるにしても、まずなすべきことは「個別の体験」に耳を傾けることなんだという当たり前のことに、優れたインタビューを視聴すると気付かされます。

 今日(9月17日)の森松さんのお話の中でも(29分~)、2014年4月に韓国で発生した旅客船「セウォル(世越)号」沈没事故で船内に閉じ込められて沈んでいった人々の様子が写されたスマホ映像などをワイドショーで見ながら、福島に取り残された住民と同じだと連想し、涙が止まらなかったという話など、その身になってみなければ分からないことですよね。もちろん、避難者がみんな森松さんと同じように感じたということでないのは言うまでもありません。

 今後もUPLANによる【原発事故避難者インタビュー】に注目していきたいと思います。

20160714 UPLAN【原発事故避難者インタビュー(1)】松本徳子氏(「避難の協同センター」代表世話人)に聞く(1))(31分59秒)

(動画紹介文から引用開始)
【UPLAN月島スタジオ】
「避難の協同センター」(2016年7月12日設立)の代表世話人に就任された松本徳子氏(郡山市から川崎市に避難中)にお話を伺いました。
撮影場所はUPLAN月島スタジオ、聞き手はたまちゃんです。
原発災害避難者に対する住宅補償打ち切りの時期が来年3月に迫る中、こどもを殺して自分も死ぬという、母子心中まで考えるような切羽詰まった状況になっています。原発事故以前にはごくあたりまえの普通の家庭生活を送っていた母子です。避難先で孤立し、どのようにしたらいいかわからないでいるお母さん、同じような状況で苦しんでいる人がたくさんいることをこの映像から知っていただけると思います。ひとりで悩まないで、ぜひ「避難の協同センター」またはUPLANまでご連絡ください。
※20160712 UPLAN「避難の協同センター」設立集会(1時間50分)

(引用終わり)

20160917 UPLAN【原発事故避難者インタビュー(2)】森松明希子氏を迎えて(59分21秒)

(動画紹介文から引用開始)
【UPLAN月島スタジオ】
原発事故から五年半。福島から全国に避難している罹災家族の生活は、住宅支援打ち切り問題などでますます混迷を深めております。今回は郡山から大阪に避難している森松明希子氏をゲストに迎え、第一回目のインタビューのゲスト松本徳子氏(「避難の協同センター」代表世話人)とともにお話を伺いました。
司会はたまちゃんこと赤坂珠良(フリー)。
(引用終わり)

「自衛隊を活かす会」シンポジウムから学ぶ「北朝鮮は脅威なのか、どう対応すべきか」(2016/5/20)

 今晩(2016年9月16日)配信した「メルマガ金原No.2571」を転載します。

「自衛隊を活かす会」シンポジウムから学ぶ「北朝鮮は脅威なのか、どう対応すべきか」(2016/5/20)

 久々に、「「自衛隊を活かす会」シンポジウムから学ぶ」シリーズをお届けします。とはいえ、シンポが行われたのは4ヶ月も前の5月20日のことであり、シンポの内容がテキスト化されてホームページにアップされた7月19日からでも2ヶ月が経っています。
 思えば、5月20日からの2ヶ月間といえば、参院選和歌山選挙区に弁護士のゆら登信さんを野党統一候補に擁立して突っ走っていた時期で、いつもなら定期的に閲覧してチェックしていたはずの「自衛隊を活かす会(自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会)」ホームページを巡回する余裕もなくなっていた時期でした。
 それからさらに2ヶ月が経過して、ようやく元のペースを取り戻しつつあるというところでしょうか。
 今日(9月16日)は、福岡高裁那覇支部が、国(国土交通大臣)が沖縄県知事を相手に提起した不作為の違法確認請求事件について、国勝訴の判決を言い渡した件を取り上げようかと思ったものの、肝心の判決文が読めていない今の段階では意見の述べようがありませんので、これはいずれまたということにして、5月20日の「自衛隊を活かす会」シンポジウム「北朝鮮は脅威なのか、どう対応すべきか」をご紹介することにしました。
 いつものように、シンポジウムの概要をご紹介した後に、動画とテキストにリンクした上で、テキストの(ごく)一部を抜粋してご紹介します。
 なお、シンポの開催日から当然ですが、去る9月9日の北朝鮮による「5回目の核実験」は、議論の前提となっていません。
 
5.20 シンポジウム
北朝鮮は脅威なのか、どう対応すべきか
日時:2016年5月20日(金)17:00~19:45
会場:参議院議員会館 101会議室
主催:自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会(略称:自衛隊を活かす会)
登壇者
安倍政権に拉致問題の解決を期待できるのか
 蓮池 透 元拉致被害者家族会事務局長
弾道ミサイル防衛について、邦人救出について
 渡邊 隆 元陸将・東北方面総監
北朝鮮問題に日本はどう対応すべきなのか
 柳澤 協二 自衛隊を活かす会代表・元内閣官房副長官補
討論参加
 伊勢﨑 賢治 東京外大教授・自衛会を活かす会呼びかけ人
 加藤 朗 桜美林大学教授・自衛隊を活かす会呼びかけ人

シンポジウム・動画
北朝鮮は脅威なのか、どう対応すべきか|自衛隊を活かす会(2時間41分)

安倍政権に拉致問題の解決を期待できるのか
蓮池 透(拉致被害者家族会元事務局長)

(抜粋引用開始)
 私は仮にこれから日朝間が交渉を再開した場合には、過去の問題とセットでやるしかないと考えています。つまり過去の清算ということですが、それによって北朝鮮側に見返りがあるということで乗ってくる
という、そういう考え方です。
 見返りに対してはアメリカから小泉政権時代以上の干渉があると私は思っていますので、アメリカから
の干渉を蹴飛ばしてまで日朝間の交渉を進めることが出来るのかを考えると今のような安倍政権が対米従属の姿勢を見せている以上、それは叶わないなと感じて残念です。やはり「北の脅威」と言いますが、私は北の脅威を煽って――拉致問題も脅威の一つです――、そういうツールにされているような気がします
 最近、安倍さんは核・ミサイルと拉致問題を包括的に解決するとおっしゃっていますが、今までの六者協議の結果を見ればわかるとおり、セットではなかなかうまくいかないと思います。日朝間固有の問題として拉致問題を早く――早くしないと皆さん死に絶えてしまいますので――、やってもらいたいと思いま
す。
 北の核はアメリカを向いていると思うので、私は日本に対してはノドンで十分だと思います。日本海側
に並んでいる原発を狙えば立派な核兵器になるわけですから。
 その問題は国会でも話題になりましたが、「そういう仮定の話にはお答えできない」という答弁でした。私は東京電力に勤めておりましたので、当時「原発にミサイルが飛ん出来たらどうするんだ」という質問がありまして、当時の通産省から答えを考えるように言われて――すぐ通産省は電力会社に投げてきますので――、いろいろと答えを考えたんですが、実際にミサイルが飛んできて命中したらアウトです。なんとかうまく乗り切る方法はないのかということで、結局出た結論は「日本は法治国家だからありえない」という答えでした。それがいろいろな質問に対する標準模範解答としてずっとまかり通ってきた現実が
あります。
 いろいろ申し上げてきましたが、北朝鮮の非核化は難しいと思います。来週、オバマ大統領が広島に行きますが、北朝鮮側は欺瞞だとか偽善だとか言っていましたけれども、私はその辺はちょっと一理あるのかなと思います。自ら核兵器を廃絶しようとする姿勢を見せないアメリカが核の被害地であるヒロシマを訪れて、誤りだったとか謝罪だとか無しに、プラハ演説の延長として最後の花道を飾るということでは、私はあまり意味がないように思います。そこに同行してパフォーマンスをする安倍首相の姿を見たくはあ
りません。
 時間がなくなりましたが、私はこのままだと難しいと思います。なんとか北朝鮮とパイプをつなぐような民間外交とか議員外交とか、そういうものに頼るしかないという段階に来ています。もう家族としてや
れることはありません。
 後は政府がどうするかです。民間外交や議員外交を否定しているのであれば、どうするのか、本気になって欲しいと思います。金正日の料理人と言われている藤本健二さんが金正恩氏と面会して3時間も話をしたということがありましたが、そういうことが出来るのは藤本さんだけだと思います。藤本さんは総理大臣の親書を持って行って渡したいとおっしゃっていましたが、そういう道を使うのも一つの方法なので
はないかと思っています。
 金正恩委員長は粛清を繰り返していますから、ボトムアップするシステムは今の北朝鮮では全く機能していないのではないかと私は考えています。自分が気に食わなければすぐに粛清してしまうようなタイプですので、小泉政権時代に対応したミスターXというような全権を担った外交官の出現はなかなか難しいと思います。そういう厳しい状況の中でどうやってこの拉致問題を解決していくのか、私は難しいと考え
ています。
 最後に、「私は立法府の長である」とか、「日本の最高責任者である」とか、自衛隊を「我が軍である」というようなことを安倍首相は口にされておりますが――単なる勘違いとおっしゃる方もおりますけれ
ども――、私は確信犯的な、或いは本当にそう思っておられるのか、これは本当に独裁政権に近づいてきた、だんだん日本の世相も北朝鮮と同じように窮屈で息苦しくなってきている。そういう状態では拉致問題の解決はできないと考えています。
(引用終わり)
 
弾道ミサイル防衛について、邦人救出について
渡邊 隆(元陸将・東北方面総監)

※「弾道ミサイル防衛」と「邦人救出」について、豊富なパワーポイント資料などをもとにした説明がな
されており、ざっと一読しましたが、そのどれかを切り取ってご紹介する気になれませんでしたので、是非リンク先で全文をお読みください。
 
北朝鮮問題に日本はどう対応すべきなのか
柳澤 協二(元内閣官房副長官補、自衛会を活かす会代表呼びかけ人)

(抜粋引用開始)
 北朝鮮の核は日本にとって脅威なのかどうかですが、私は一貫してアメリカ向けのカードだとおっしゃ
る蓮池さんと同じ意見です。
 例えば、2006年7月5日――私が官邸にいる時――、に北朝鮮はミサイルを何発か撃ちました。その日はアメリカ時間で言えば7月4日の独立記念日でした。その時はスカッドとノドン、失敗しましたがテポドン2の3つのミサイルを撃っていますので、撃った意味は何かと言えば、スカッドで在韓米軍基地を叩く、ノドンで在日米軍基地を叩く、テポドン2でグアムかハワイの米軍を叩くというデモンストレーショ
ンをやったということだと思います。
 そして2006年10月9日、小泉さんから第1次安倍政権に変わっていましたが、最初の核実験と称するものをやるわけです。ミサイルと核とセットになっている。私はこれは面白い、わかりやすいなと思ったの
は、ミサイルは7月4日、アメリカ独立記念日に撃って、核は10月9日、コロンブスがアメリカ大陸を発見したアメリカ国民の祝日を狙ってやっているわけですね。非常にアメリカ向けのメッセージということがわかりやすい、父親の金正日の時はそういうやり方をしていたということです。息子の金正恩も、サンフランシスコもハワイ、グアムも、横須賀も我々のミサイルの射程内にあるということを言っています。アメリカ向けにはそういうカードがあった。
 2010年秋には韓国の延坪島(ヨンピョンド)に大砲を撃ち込んでいます。韓国向けには大砲でいいんですね。大砲を向けて「ソウルが火の海になるぞ」と言う、ソウルに届く大砲を持っているわけですから、
それをカードに使っているわけですね。
 日本はどうか。日本向けにはノドンではないのです。日本向けのカードは拉致の問題だと思うんですね

 拉致の問題をカードとして扱うようになったのが2002年9月の小泉訪朝だったわけですが、実はその後、アメリカは日本に対して、北朝鮮はウランの濃縮をやっているようという情報を国務次官補のケリー(ジェイムズ・アンドリュー・ケリー)がリークするとか、そういう形でちょっかいを出してくるわけです

 日本側も小泉訪朝団で金正日が事実を認めて謝罪したのがすごく大きな転機になっていると思うんです。ところがアメリカは日本だけ先走られても困る。日本側にしてみれば、北朝鮮から非常に多くの方が亡くなったという回答を受けて、それはやはり国内向けにも納得できないという要素があって、そこでもっとたくさんの拉致被害者が一気に帰って来れば、状況はかなり変わっていたと思うのですが、そういう形
で拉致については日本が独自に北朝鮮に働きかける状況になったわけです。
 日本の立場から見ても持っているカードは核実験に対する経済制裁ではありません。やはり、拉致の問題を通じて、ありていに言えば北朝鮮にどういう「ご褒美」を渡すことが出来るのか、相手を軍事的にや
っつけて強制するのでなければ、ご褒美を与えて相手の意志を変えるしかないわけですね。
 核の方は、アメリカはどうやったって北朝鮮が核を作っていることを認める、認めたからご褒美を出すというわけにはいきません。今、日本はアメリカと同じ立場に立ってしまっているわけです。それは一般論として誤りではありませんが、しかし核とは別に拉致というイシューがあるわけで、拉致の問題をイシューとしてどう解決していくのかということを考えるという意味で、日本はカードを持っているわけです
ね。
(略)
 私が北朝鮮の立場で考えて、なぜ日本にミサイルを撃ち込むかといえば、それは恐怖があるからですね。日本を無力化しなければ、日本から自分達に対する攻撃が加えられるという恐怖です。誰が攻撃するのかと言えば在日米軍です。在日米軍がひとっ飛びで北朝鮮を爆撃しに来る。だから本当に北朝鮮がアメリカと戦争をする気になれば、まず一番近い敵をやっつけますよ。中国だって同じ理屈です。だから、アメリカと一体化すれば安全になるという安保法制の基本的な思想が、ミサイル防衛に関する限り、北朝鮮に
関する限り、それは多分違うということです。
 北朝鮮が日本全土を占領しに来る、或いはどこかの島を取りに来るという動機はないのです。なぜ北朝鮮が日本を攻撃するか。それは、攻撃しないと自分がやられるという恐怖が募った時に、それがありうる
わけです。
 だから、トランプさんも折角、「守って欲しければ金を出せ」と言っている時に、ちょっと待てと。本当にアメリカ軍がいるからミサイルが飛んでこなくて済んでいるのか、アメリカの基地があるからミサイ
ルが飛んでくるかもしれないのか、ということを我々も冷静に考えなければいけないと思っています。
 最終的に言えば、この北朝鮮問題で他国の生存や承認を巡る戦争に組み込まれて、乗っかっていってしまったら、こういう類の戦争は無制限な際限のない暴力の応酬ですから、どちらかが滅びるまでやるんですね。だから同じ戦争の論理で入っていってしまうのは、私は100%間違った戦略であると言わざるをえな
いと思っています。
 そういうことを考えれば、どこかで日本自身が進んでなんとかして、核・ミサイルと拉致をデカップリング、分離してやらないと交渉の余地はないのです。そうでないと自らで自らの手を縛るようなことになってきます。その意味で、今の方向性に凝り固まっている現政権で拉致問題の解決があるかと言えば、全くありえないと私は思っております。
(引用終わり)
 
コメント 伊勢﨑 賢治(東京外大教授・自衛隊を活かす会呼びかけ人)
(抜粋引用開始)
 最後に追加もう1点だけ。メディアの話ですが、覚えていらっしゃいますでしょうか、2010年に韓国の哨戒艇「天安」の沈没事件がありました。韓国の哨戒艇が韓国の近海で沈んで46名の水兵が亡くなりました。あの時――後で意見が分かれるのですが――、海底から北朝鮮のものと思われる魚雷の破片が海底から見つかりました。ここで、スワっ報復だと世論が沸騰するわけです。ところが、韓国社会が粘りを見せたんです。一部の専門家達から哨戒艇の爆発の跡を見たら、どう見ても爆発物によるものではない、何かがぶつかった跡であるという意見が出されました。この原因は未だ決着に至っておりません。ある意味、意識的にうやむやにしたのです。日本の自衛隊の関係者に聞くと、キッパリと北朝鮮がやっていることになっているのですが。水兵が46名も死んでいるのにです――アメリカの原潜と衝突したという説もあるの
ですが。
 もし北朝鮮糾弾の世論が野放図になれば、停戦が破られて戦争状態になるということで、客観的な意見を求める世論が、好戦世論を抑えた。そして、北朝鮮の脅威を煽りに煽った当時のハンナラ党が、統一選
挙で負けてしまうのです。戦争回避の世論の胆力が見事に備わっている、本当に天晴れだと思います。
 こういう「胆力」が日本に備わっているかというと…。
 僕の東京外国語大学のゼミで、この事件を各国のメディアはどう報道したかという比較研究調査をしました。面白いですよ。アメリカ、韓国、中国、日本の、それぞれの右・左、リベラルと保守のそれぞれの主要新聞のヘッドラインを定点観測したんです。この事件をどう報道したか。もちろん中国に右・左があるかどうかは疑問ですが、しかし少なくともアメリカと韓国、日本にはリベラルと保守の両方のメディア
があります。報道の仕方、ヘッドラインを比較したんですね。
 実は、4カ国の中で、最も好戦的、つまり「ゼッタイ北朝鮮に決まっている」と決めつけて「報復やむなし」という報道をしたのは、日本のメディアなのです。韓国のメディアが一番、保守も含めて冷静でした。日本の問題ではないのに日本のメディアだけが突出して舞い上がっていたんです。その日本メディアの中でもどこが一番、舞い上がっていたか。北朝鮮が犯人と決めつけて、報復やむなしと報道したかとい
うと、朝日新聞です。産経ではありません。
 これを我々はどう考えるか。「胆力」の無さは、日本人の弱点だと思います。
(引用終わり)
 
コメント 加藤 朗(桜美林大学教授・自衛隊を活かす会呼びかけ人)
(引用開始)
 胆力というお話がありましたので、まず、邦人救出ということであれば、今日ここにいらっしゃる皆さんは、ほぼ安保法制に反対していらっしゃると思うので、そもそも邦人救出などということは皆さんの頭の中にはないだろうと思います。だから自力で帰ってきて下さいと。その胆力が必要だということです。
間違っても自衛隊に救出を求めるなんていうことはやめて下さい。それだけのことです。
 それから2点目、弾道ミサイルです。おそらく北朝鮮が日本に核ミサイルを撃ってくることはないと思います。柳澤さんがおっしゃる通り、これはアメリカに対するカードですから。でも万が一、日本に対して弾道ミサイルが撃ち込まれたらどうするか。犠牲を引き受けて下さい。そんなに死にませんから。せいぜい40~50人が犠牲になる程度です。なぜこんなことを言うかというと、湾岸戦争の時にイラクからサウジアラビアに対して大変な数のスカッドミサイルが撃ち込まれましたが、そんなに死んでいません。もっと言えば、1985年のイラン・イラク戦争の時にイラクがイランの首都のテヘランに1カ月近くにわたってスカッドミサイルを何十発も撃ち込んだことがあります。これでも全部あわせても200~300人ぐらいしか死ん
でいません。
 だから皆さんは、何かあったら平和憲法のために殉ずるんだという覚悟を持てば、その胆力さえ持てば、なんということはありません。試されているのは皆さんの胆力です。本当に。憲法に殉ずることが出来
るかどうかという胆力だけです。
 北朝鮮の問題に関して言うと、我々が持っているカードはありません。金正恩が日本に対してほとんど何も言っていないのは、北朝鮮にとって日本はもうパッシング(passing)なんですよ。日本は北朝鮮に影
響力はありません。経済制裁は効いていないんです。
 では、これから効くものは何かと言うと、和解のために払う経済褒賞です。経済協力や韓国と同じぐら
いの金額を出すぞというぐらいです。
 さて皆さんは、我々がかつて韓国に対して行ったことと同じぐらいの経済援助に耐えられるかどうかということです。これも皆さんの胆力です。おそらく数十兆円規模になると思います。それぐらい大変な額
だったはずです。それに耐えられるか。
 要するに一言で言うと、憲法9条を守るということは、ひとえに我々の胆力が試されるということだろ
うと思います。
(引用終わり)

谷口真由美さん(大阪国際大学准教授)講演10/13「がんばる女性へのメッセージ」@和歌山市あいあいセンターのご案内

 今晩(2016年9月15日)配信した「メルマガ金原No.2570」を転載します。

谷口真由美さん(大阪国際大学准教授)講演10/13「がんばる女性へのメッセージ」@和歌山市あいあいセンターのご案内

 昨日に引き続き、和歌山での行事のご案内です。昨日は、橋本市に和歌山地家裁の支部設置を求める「日弁連地域司法キャラバン in 伊都橋本」(9/24橋本市産業文化会館「アザレア」大ホール)への参加を呼びかけましたが、今日は、和歌山市の男女共生推進課が企画した「男女共生特別講座」(10/13和歌山市男女共生推進センター6階ホール)をご案内するものです。
 講師は谷口真由美さん。大阪国際大学准教授で、国際人権法や日本国憲法、ジェンダー法などを専攻する研究者であると紹介すれば、非常勤講師として出講している大阪大学で受け持つ日本国憲法の講義において、「DJマユミの恋愛相談」が学生に大人気というニュースを思い出す人がいるかもしれませんね。
 最近の記事を1つご紹介しておきます。
 

 さらに、「全日本おばちゃん党」代表代行と紹介すれば、ヒョウ柄の(?)衣服を身にまとい、歯に衣着せぬ本音トークで正論を主張する精力的・魅力的な女性を思い出してもらえるかもしれません。
 同党が大きな話題を集めたのは、3年前の参院選のさらに前年、2012年の秋以降だったでしょうか、2013年には私もメルマガ(ブログ)で取り上げていました。

 そのようなことから、私が関与している団体、たとえば青年法律家協会和歌山支部が憲法記念日の前に開催している講演会の講師候補者として折衝したこともあったやに聞いているのですが、日程が合わなかったとか。他にも、一度谷口さんのお話を聴いてみたいという人(特に女性)が私の周囲にたくさんいたりします。
 10月13日に男女共生特別講座「がんばる女性へのメッセージ」の講師として谷口真由美さんが来和されるということは、知り合いの女性のFacebookページでつい先日(9月10日)知ったばかりであり、今日の昼間、私自身がFacebookに
簡単な紹介の投稿をしたところ、即座に3人の女性から熱烈歓迎のコメントが寄せられるなど、(一部の人かもしれませんが)相当な人気です。
 会場のキャパの関係から、事前申込みが150名に達し次第受付終了となりますので、「聴いてみたい」という方は、すぐに申し込みされることをお勧めします(9月13日から受付が始まっています)。
 和歌山市男女共生推進課のページに告知がアップされていますが、それよりも、チラシが詳細情報満載で、「これだけで充分!」という充実ぶりです。そこで、以下にチラシの文字情報を転載します。

チラシから引用開始)
男女共生特別講座
がんばる女性へのメッセージ

「おはよう朝日です」や「サンデーモーニング」のコメンテーターでもお馴染みの谷口真由美さん。「おばちゃん」目線で今の政治や社会にツッコミをいれ、年齢や性別に関わらず、全ての人が生きやすい社会づくりを訴える谷口さんのお話を聞いてみませんか。

講師
谷口 真由美 さん
(大阪国際大学准教授・全日本おばちゃん党代表代行) 
テレビでも活躍中!

 
大学教員のかたわら、“庶民目線の政治”を訴えるために、おばちゃんたちの底上げと、オッサン社会に愛とシャレでツッコミをいれることを目的に、「全日本おばちゃん党」をFacebook 上で立ち上げる。おばちゃん目線でオッサン政治をチェックしながら、問題提起を続けて、世界のメディアからも注目を集めている。
1975 年 大阪市生まれ。
1997 年 大阪国際大学政経学部卒業(国際人権法)
1999 年 和歌山大学大学院経済学研究科修了修士(経済学)
2004 年 大阪大学大学院国際公共政策研究科修了博士(国際公共政策)
2013 年 法政大学現代社会法研究所客員研究員
専門:国際人権法、ジェンダー法、日本国憲法
<主なメディア出演>
朝日放送「おはよう朝日です」木曜日コメンテーター
TBS「サンデーモーニング」コメンテーター
テレビ大阪「ニュースリアル」コメンテーター

日時
平成28年10月13日(木)19:00~20:30
場 所 和歌山市男女共生推進センター 6階 ホール   
     (和歌山市小人町29番地 あいあいセンター内)
対 象 和歌山市在住または通勤、通学の方(性別問いません♪)
定 員 150名(定員になり次第締め切り)
参加費 無料
申込方法 電話・メール、または直接男女共生推進課へ
※メールには、「講座名」「住所」「氏名」「電話番号」「一時保育の有無(お子さんの名前と年齢)」を記入
9月13日(火)より受付開始

一時保育あり
講座中、お子さんをお預かりします。1歳~就学前のお子さんが対象です。お申込は開催日の1週間前までです。(定員あり)

申込み・問い合わせ
和歌山市小人町29 あいあいセンター5階
和歌山市男女共生推進課
電話 073-432-4704(8 時30 分~17 時15 分)
メール
danjokyousei@city.wakayama.lg.jp
休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合、その次の平日)
※あいあいセンター地下駐車場の駐車台数には限りありますので、出来るだけ公共交通機関をご利用ください。
(引用終わり)

 私はこのチラシを読んで、谷口さんが和歌山大学大学院修士課程(経済学研究科)に2年間在籍していたことを初めて知りました。同大学教育学部附属中学校出身の私とも、まんざら無縁というわけではない(?)。

 ところで、チラシにもあるとおり、「全日本おばちゃん党」は、Facebook上のヴァーチャル政党(?)であり、私も同Facebookページに「いいね」しているのですが、あまり頻繁な記事の更新は行われておらず、最近は、大きな節目の際に、大阪弁の(私は大阪人ではないので多分そうだろうとしか言えませんが)声明がアップされる程度のようです。
 試みに、昨年9月19日の「声明」をご紹介しておきましょう。
 
【安全保障関連法成立に抗うおばちゃん党の声明】
(引用開始)
飴ちゃん舐めても おばちゃん舐めたらアカンで。
シルバーウィークが過ぎようが来年になろうが、与党とそのツレが無茶苦茶なことをしたこと、おばちゃんらは忘れへんで。言うとくけど、おばちゃんらはしつこいで。昔のことでも、嫌なことはよう覚えてるから、これも覚えとくで。賛成した人ら、自分らがした恐ろしい行為、あとからジワジワしっぺ返し来るで。
何べんでも言うとくわ。
#うちの子もよその子も戦争には出さん
(引用終わり) 

 なお、全日本おばちゃん党のFacebookの他に、谷口真由美さん個人のFacebookページもあることに気がつきました。
 ただし、自己紹介には「Facebookは基本的にプライベートなことが多く、プライベートでお付き合いしている方以外は「お友達」になりません。例外はありますが、原則私とリアル社会でお付き合いの無い方はお友達申請ご遠慮ください。」とあり、それもそうだろうなあ、と思いました。
 けれども、それにしては結構読める記事が多いなと思い、基本的なプライバシー設定を確認してみると、「谷口真由美さんの友達の友達」まで閲覧可という設定になっていました。谷口さんと私には共通の「友達」が10人いますので、いろいろと皆さんにご紹介したい投稿も読めることは読めますが、公開設定ではないので、引用は遠慮しておきます。特に7月6日に書かれた「知憲」の重要性を強調した文章は是非読んで欲しいなあ。谷口さんと共通のFB友達が1人でもいれば読めると思うので、FBをやっておられる方は一度是非アクセスしてみてください。

 上記JCASTニュースでも紹介されていましたが、今年の6月に、谷口真由美さんの最新刊『憲法って、どこにあるの?』が集英社から刊行されました。版元のホームページにこの新刊の特集が組まれており、著者インタビューもあって読み応えがあります。

 さらに、谷口さん個人のFacebookページの昨晩の投稿で気がついたのですが、この本のプロモーション動画(憲法ミニ講座)が公開されていることが紹介されていました。
 谷口さん自身、Facebookで「でもたぶん、恥ずかしいからもう見ません。もしよろしければ、私の代わりに見てください(笑)」(この程度の引用はいいでしょう)と仰っていますので、4本に分割された動画をご紹介して本稿を終えることにします。
 ただし、10月13日の講演は、男女共生講座「がんばる女性へのメッセージ」ですから、その中に「憲法講座」の要素が含まれるのかどうか、行ってみた上でのお楽しみというところでしょうか(私は、憲法に全然触れないはずはないと思いますけどね)。
 
『憲法って、どこにあるの?』谷口まゆみの憲法ミニ講座 1(2分28秒)

『憲法って、どこにあるの?』谷口まゆみの憲法ミニ講座 2(2分16秒)

『憲法って、どこにあるの?』谷口まゆみの憲法ミニ講座 3(2分41秒)

『憲法って、どこにあるの?』谷口まゆみの憲法ミニ講座 4(3分04秒)



(付録)
『大阪のおばちゃん』 作詞・作曲:ヒポポ大王 演奏:ヒポポフォークゲリラ婦人部
 

谷口真由美チラシ 

日弁連「地域司法キャラバン in 伊都橋本~地家裁支部の設置を目指して~」(9/24)開催のお知らせ

 今晩(2016年9月14日)配信した「メルマガ金原No.2569」を転載します。

日弁連「地域司法キャラバン in 伊都橋本~地家裁支部の設置を目指して~」(9/24)開催のお知らせ

 日本弁護士連合会が全国各地で開催する「地域司法キャラバン」。来る9月24日(土)に、和歌山県橋本市で開催されます。テーマは「地家裁支部の設置を目指して」というものです(※チラシ)。
 まずは、開催概要をご紹介します。
 
地域司法キャラバン in 伊都橋本
~地家裁支部の設置を目指して~
 
日時 2016年9月24日(土)13:30~16:30(開場13:00)
会場 橋本市産業文化会館「アザレア」大ホール
    (和歌山県橋本市高野口町向島135番地)
参加費無料・事前申込不要
内容
1.開会挨拶
2.地域司法の充実の必要性と当該地域の現状の報告
3.基調報告『最高裁協議の経過と得られた成果について(仮)』
4.報告『徳島県内の家庭裁判所(出張所)の運用について(仮)』
 (和歌山家庭裁判所妙寺出張所の活性化に向けて)
5.パネルディスカッション『地元密着の家庭裁判所を求めて(仮)』
6.質疑応答(他の地域からの会場発言)
7.パネリストからのコメント、まとめの発言
8.閉会挨拶
主催 日本弁護士連合会
共催 和歌山県、橋本市、かつらぎ町、九度山町、高野町、裁判所橋本支部設置推進協議会、近畿弁護士会連合会、和歌山弁護士会
お問い合わせ 
日本弁護士連合会法制部法制第一課
 TEL:03-3580-9893  FAX:03-3580-9899
和歌山弁護士会 〒640-8144 和歌山市四番丁5番地
 TEL:073-422-4580  FAX:073-436-5322

 開催趣旨については、主催者である日本弁護士連合会と、開催地弁護士会である和歌山弁護士会のホームページにそれぞれ掲載されたものをご紹介しましょう。
 
日本弁護士連合会
(引用開始)
 日本弁護士連合会では、この度、和歌山県伊都橋本地域における司法基盤に関する意見交換会「地域司法キャラバンin伊都橋本~地家裁支部の設置を目指して~」を開催いたします。
 開催地である和歌山県伊都橋本地域は、1990年の裁判所支部統廃合により、和歌山地家裁妙寺支部が廃止され、本庁管轄となったため、現在、同地域には家庭裁判所妙寺出張所及び簡易裁判所が置かれているのみとなりました。このため、市民の司法アクセスの利便性が相当程度低下しており、地域において司法が果たすべき役割との観点からも重要な課題となっています。
 そこで、地元においていかなる活動をすべきか等について意見交換を行いますので、ぜひお集まりください。
 なお、日弁連では、本年11月5日に第27回司法シンポジウムを開催予定であり、本意見交換会は、そのプレシンポジウムとの位置付けで開催します。同シンポジウムは、「いま、司法が果たすべき役割とは―法の支配の確立をめざして―」をテーマに据え、権利の実現に果たす司法の役割や地域におけるネットワークづくりへの司法の関与の可能性等について取り上げる予定ですので、こちらにつきましても、ぜひご参加ください。
(引用終わり)
 
和歌山弁護士会
(引用開始)
 伊都橋本地域は1990年(平成2年)の裁判所支部統廃合により和歌山地家裁妙寺支部が廃止されました。このため、現在は家庭裁判所妙寺出張所と簡易裁判所が置かれているのみとなっており、同地域の住民の司法アクセスは大きく阻害されている状況にあります。
 和歌山弁護士会は、これまでも伊都橋本地域の司法アクセス改善に重点的に取り組んできました。今般、日弁連、近弁連、そして地元自治体である和歌山県、伊都橋本地域の1市3町(橋本市・かつらぎ町・九度山町・高野町)及び裁判所橋本支部設置推進協議会と共催のうえ、「地域司法キャラバンin伊都橋本~地家裁支部の設置を目指して~」を橋本市産業文化会館「アザレア」で開催することになりました。
 今回のキャラバンでは、伊都橋本地域の司法の現状を把握し、日本各地の取り組みを紹介するなどして、家裁妙寺出張所の活性化、さらには同地域への将来的な地家裁支部の設置に向けた検討を行います。
 伊都橋本地域の住民の皆様はじめ、たくさんの方々のご来場をお待ちしております。
(引用終わり)

 開催趣旨にも書かれているとおり、かつて和歌山県の紀の川上流域には、伊都郡かつらぎ町妙寺に和歌山地家裁妙寺支部が設置されていましたが、1990年の裁判所支部統廃合のうねりの中、支部が廃止され、家裁出張所と簡裁だけが残されることになりました。 このため、橋本市及び伊都郡内の各町の住民が、地裁管轄の事件を提起しようとすれば、車を走らせても1時間~2時間(橋本市の中心部からなら約1時間半)はかかる和歌山市の本庁まで出向かねばならず、非常な不便を強いられることになりました。
 また、家裁出張所があるとはいえ、調停期日が開かれる日程が非常に限られているなど、利用者の司法アクセスに対する障害となってきました。
 和歌山弁護士会では、2度にわたってとりまとめた地域司法計画の中で、伊都橋本地域に新たな支部を設置すべきことを強く主張してきました。
 以下に、「第2次和歌山地域司法計画」の該当箇所(14~16頁)を、少し長くなりますがご紹介したいと思います。
 これをお読みいただければ、9月24日に開催される日弁連の地域司法キャラバンの目指すところが、端的にご理解いただけるものと思います。
 会場の「アザレア」大ホールはキャパ680人の広い会場です。是非、伊都橋本地域の多くの方に来場いただき、支部設置要求の気運を一層盛り上げていただければと思います。
 なお、引用箇所に記載されているデータ(法律事務所の数など)は、同地域司法計画公表(2012年10月)後の変動を反映していないことをお断りしておきます。
 
第2次和歌山地域司法計画  2012(平成24)年10月  
和歌山弁護士会
(引用開始)
第3 和歌山の司法の現状と課題
2 裁判所
(4)現状の分析と今後の課題
(イ)裁判所の適正配置
a はじめに
 和歌山県内の弁護士数はここ10年間で著しく増加しました。県内でのいわゆるゼロワン地域も解消し、地家裁支部のない橋本市にも弁護士法人非常駐支店を含めると3事務所が開かれ、県民の弁護士へのアクセスはかなりの程度改善されたといえます。
 しかし、市民間の法的紛争は、地域に弁護士がいればそれで適切に解決されるというわけではなく、最終的な公権的紛争解決機関としての裁判所が地域に存在することが不可欠です。
 憲法32条は、国民に裁判所において裁判を受ける権利を保障しています。しかし、国民の居住する身近な地域や生活圏内に裁判所が存在してはじめて、裁判を受ける権利が実効的に保障されるのであり、裁判や調停のために何時間もかけて裁判所に行かなければならないような状況では、もはや「裁判を受ける権利」は絵に描いた餅と同じです。
 見方を変えれば、裁判所を含めた司法機関は、道路や上下水道と同じように国民生活を送る上で不可欠なインフラというべきであり、地域の実情にあわせた適正な配置が必要です。
 その視点で、和歌山県内を見渡しますと、1990(平成2)年まで和歌山地家裁妙寺支部が設置されていた伊都橋本地域に支部を新設(復活)することの必要性を指摘しなければなりません。また、串本簡裁地域の管轄を田辺支部から新宮支部に変更することの要否についても検討する必要があります。
b 和歌山地家裁橋本支部(仮称)新設の必要性及び家裁妙寺出張所の活性化
 1990(平成2)年まで設置されていた伊都郡かつらぎ町妙寺の和歌山地家裁妙寺支部が、地家裁支部統廃合により廃止されて和歌山地裁本庁管内となり、現在は妙寺簡裁と家裁出張所が置かれているのみという状況です。
 家裁出張所は、当初は月2回、和歌山家裁の審判官や書記官が出張して調停などが開かれていましたが、現在は月1回のみとなっているため、利便性が相当程度低下しています。特に、弁護士が代理人につく事件においては、期日がほとんど入らず現実的に利用されていないと言っても過言ではありません。
 伊都郡及び橋本市地域は、和歌山県の東北部に位置し、北は大阪府、東は奈良県と接しており、紀ノ川に沿って国道24号線とJR和歌山線が東西に走っており、また、大阪難波から高野山まで南海高野線が走っています。 
 橋本駅からは、南海高野線で、難波まで特急で45分程度なのに対し、和歌山地家裁本庁のある和歌山市までは、JR和歌山線を利用しても1時間5分程度かかります(しかもほぼ1時間に1本しかありません。)。橋本市北部の林間田園都市から公共交通機関を利用したとすると、乗換えがスムーズにできたとしても橋本駅で乗り換えて1時間20分程度かかり、高野山からでは2時間もかかり、隣の奈良地家裁五條支部のある五條市や大阪地家裁堺支部のある堺市に行くよりも遙かに時間がかかるという状況です。自家用車を利用したとしても、高野山からでは約2時間、橋本市中心部からでも1時間30分はかかります。
 伊都橋本地域の大部分は、通勤や日常生活においても大阪エリアであり、日常生活において和歌山市に出ることはあまりないのが現状です。
 このような状況において、伊都橋本地域の住民が紛争解決のために裁判所を利用することのハードルは非常に高い状況になっています。特に、本人の出席が必要な離婚などの家事調停においては、その不便さは顕著です。
 今、橋本市など地元自治体、地元経済団体も、地元のバランスのとれた発展、地域作りのためには地域に地家裁支部が必要であることから、橋本市や橋本商工会議所などを中心に「裁判所橋本支部設置推進協議会」の設立準備が進められており、地家裁支部の新設運動が起こりつつあります。国の財政状況などを考えれば、多くの困難も予想され一朝一夕に実現できるものではないかもしれませんが、県民に対する司法サービスの充実に責任を負わなければならない和歌山弁護士会としては、地域住民とともに、和歌山地家裁橋本支部(仮称)の新設実現のための運動を、粘り強く展開しなければならない決意で取り組んでいきたいと考えております。
 また、地家裁橋本支部が新設されるまでの措置として、和歌山家裁妙寺出張所の期日を増やし住民が利用しやすい裁判所にすべきです。前述のように、この地域に現在ある和歌山家裁妙寺出張所は現在毎月1回、本庁から裁判官と書記官が文字通り出張してくるのみで、普段は単に受付業務しかなされていません。これでは、調停期日も十分に確保できず、現状では地域住民は現実的に非常に利用しにくい状況にあります。少なくとも週に1回は調停が行えるようにし、妙寺出張所を活性化すべきです。
(引用終わり)

地域司法キャラバンin伊都橋本 

再放送を見逃すな!~『武器ではなく 命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~』と『沖縄 空白の1年~“基地の島”はこうして生まれた~』

 今晩(2016年9月13日)配信した「メルマガ金原No.2568」を転載します。

再放送を見逃すな!~『武器ではなく 命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~』と『沖縄 空白の1年~“基地の島”はこうして生まれた~』

 私のメルマガ(ブログ)では、しばしば興味深いドキュメンタリー番組の放送情報を掲載しています。とはいえ、BSやCSにまで手を広げる余裕はなく、地上波で視聴できる番組枠、NHKスペシャル、ETV特集、NNNドキュメント、テレメンタリー、映像(毎日放送)などが主なものですが。
 けれども、放送が終わってしまった後になって、「そんな番組が放送されていたのか!」と気がついてがっかりすることもあり、また、もっとひどい場合には、番組情報をメルマガ(ブログ)で紹介していながら、録画予約するのを失念してしまうこともあったりします。

 そういう時に頼りになるのが「再放送」です。
 実は、1週間以内に、上記のようなうっかり視聴・録画し損なった番組の再放送が2本もあるのです。
 まず、1本目は、そういう番組が放送されること自体気がついていなかったというもので、一昨々日(9月10日)の夜、EテレのETV特集で放送された『武器ではなく 命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~』です。
 その再放送時間と番組案内をご紹介します。
 
再放送 NHK(Eテレ) 
2016年9月17日(土)午前0時00分~1時00分(金曜深夜)
ETV特集『武器ではなく 命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~』
「アメリカ同時多発テロから15年。今も戦乱の続くアフガニスタンで干ばつと闘う日本人がいる。医師・
中村哲(69)。「武器や戦車では解決しない。農業復活こそがアフガン復興の礎だ」。中村は白衣を脱ぎ、用水路の建設に乗り出した。15年たったいま、干ばつの大地には緑がよみがえり、人々の平穏な営みが再び始まろうとしている。戦乱の地アフガニスタンに必要な支援とは何か。15年にわたる中村の不屈の歩みを通して考える。」
 
 ペシャワール会現地代表の中村哲先生は、私の知る限り、以下のとおり、和歌山で3回講演されており、私はその全てを聴講しています(もっとも、2回目は会場に人が溢れ、私はずっとロビーにいたので、聴講したことになるのかどうか)。

2005年12月1日 和歌山市民会館小ホール
「氷河の流れのように~憲法9条に守られて~」
主催:9条ネットわかやま創立総会実行委員会

2008年4月19日 和歌山市民会館市民ホール
「中村哲医師講演会 アフガン最前線報告」
主催:和歌山県平和フォーラム
※あの会場に400人以上はとても入りきれませんでした。

2010年10月29日 和歌山市民会館小ホール
「アフガン最前線報告~アジアの同朋としての同じ目の高さをもって~」
主催:9条ネットわかやま、憲法9条を守る和歌山弁護士の会

 ところで、中村哲さんのアフガニスタンでの活動の映像化ということでは、日本電波ニュース社製作の
『アフガニスタン 干ばつの大地に用水路を拓く 治水技術7年の記録』(谷津賢二監督、2012年、73分)というDVDが発売されています。
ダイジェスト版


 そして、どうやら今回のETV特集も、谷津賢二さんが作られた作品のようなのです、
谷津さんのFacebookによれば。

 ということは、今回の番組は、NHKと日本電波ニュース社の提携作品なのだろうか?という疑問を抱いたので、日本電波ニュース社のホームページをのぞいてみたところ、「テレビ番組」というコーナーに、この番組の情報が掲載されていました。
 NHKの番組案内より詳しいので、こちらも引用します。
 
(引用開始)
Eテレ(NHK教育)  
2016年9月10日(土)23時00分~24時00分
ETV特集「武器ではなく 命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~ 」
 アメリカで起きた同時多発テロから15年、世界では終わりの見えない「対テロ戦争」が続く。いったい
われわれはどこで道を間違えてしまったのだろうか。アフガニスタンで献身的な復興支援を続ける医師・中村哲(69)の活動を通して「平和に至る道」を考えるドキュメンタリー。
「対テロ戦争」の標的として最初に攻撃されたアフガニスタン。実は当時、現地では100年に1度と言
われる大干ばつが続いていた。農業は壊滅的打撃を受け、飢えと渇きが多くの人々の命を奪った。今もなお国民の3分の1にあたる760万人が食糧不足に苦しんでいる。この干ばつと闘い続けているのが、1990年代からアフガニスタンで医療支援に従事してきた中村哲だ。「武器や戦車では問題は解決しない。
農業の復活こそが、アフガン復興の礎だ」。そう考えた中村は2003年、白衣を脱ぎ、アフガン東部の乾いた大地をうるおす用水路の建設に乗り出した。過酷な自然との闘い。米軍による誤射。現地の人々とともにあらゆる苦難を乗り越え、27キロに及ぶ「マルワリード用水路」は完成した。周辺の村落では緑が蘇り、いま再び平穏な人々の営みが始まろうとしている。15年にわたる不屈の歩みを描いた記録。
ディレクター:髙橋泰一   
撮影:谷津賢二、柿木喜久男、大月啓介
編集:櫻木まゆみ
AD:菊地啓  
プロデューサー:谷津賢二
(引用終わり)

 つまり、民放の番組をテレビマンユニオンが制作するようなもので、制作費はNHKから出ているけれ
ど、実際に番組を作ったのは日本電波ニュース社ということなのかもしれません。

 ところで、DVD『アフガニスタン 干ばつの大地に用水路を拓く 治水技術7年の記録』について
想田和弘監督が書かれたレビューが、想田監督のFacebookに再掲載されていますのでご紹介しておきます。

 以上のような、日本電波ニュース社とNHKの関係など、番組を視聴する上では別にどうでもいいこと
に違いありません。問題は番組の中身なのですから。
 けれども、中村哲先生にしても、PMS現地スタッフの人たちにしても、いきなり馴染みのない日本の
テレビ局のスタッフがやって来ても、一朝一夕に信頼関係を築けるものではなく、邪魔になるだけでしょう。長年取材を続け、PMSの活動方針などを充分に理解している日本電波ニュース社のスタッフであればこそ作れた番組なのだろうと思います。

 想田監督の上記Facebook投稿へのコメントで、谷津賢二さんが以下のように述べておられましたので紹介します。
 
「想田さん、いろいろありがとうございます。ETV特集は多くの方々に観ていただけ、本当に嬉しいです。しかし15年間を1時間にまとめるのは、どだい無理なので、伝えきれなかった事がたくさんあります。まだまだ中村医師の映像記録は続けるつもりです。」
 
 それから、同じコメント欄に、今秋、新しいDVD『アフガニスタン 用水路が運ぶ恵みと平和』が発売予定で予約受付中という情報が掲載されていました。
 送料・税込み3,000円。前作の朗読は菅原文太さんが担当されていましたが、今作はなんと吉永小百合さん!期待したいですね。

 ということで、このメルマガ(ブログ)を読んでくださった皆さん。テレビがない、テレビを見る習慣がない(私もかなりそうですが)という人は仕方がありませんが、視聴可能な方は是非ご覧いただきたいと思い、ご紹介しました。

 もう1本の再放送は、NHKスペシャルです。しかも、私自身がこのメルマガ(ブログ)でご紹介していたにもかかわらず、本放送を録画・視聴するのをついうっかり失念してしまっていたものです(放送予告・2016年8月のNHKスペシャル/2016年7月31日)。
 5本もまとめて紹介したのがよくなかったのか、簡単録画予約するためには、番組表が掲載される放送1週間前になってから、などと思っているうちに、つい録画するのを忘れてしまっていたものです。
 再放送時間と番組案内を紹介します。

再放送 NHK(総合TV) 
2016年9月19日(月)午前1時45分~2時34分(18日深夜)
NHKスペシャル『沖縄 空白の1年~“基地の島”はこうして生まれた~』
「1945年8月15日、本土の人々が太平洋戦争の終わりを告げる玉音放送を聞き、悲嘆に暮れる中、沖縄では、人口のおよそ9割が「収容所」に入れられるなど、全く別の「戦後」がはじまろうとしていた

 今回NHKは、アメリカ軍の占領直後―――「1945年6月から1946年にかけて」の映像や、米
軍の機密資料、未公開の沖縄の指導者たちの日記等を入手した。資料を詳細にみていくと、この時期、アメリカの占領政策は揺れており、まさに沖縄が「これからどうなるか」が決められていく期間でもあったことが分かってきた。沖縄はこの時期、アメリカでもなく日本でもない、“空白の状態”に置かれながら、次第に「基地の島」へと変貌させられていったのだ。戦後、本土が平和と繁栄を謳歌する一方、その代償として重い負担を背負った沖縄。「空白の1年」を通して、沖縄の戦後の歩みと今を考える。」

 沖縄県東村高江での米軍(海兵隊)ヘリパッド新設工事のために全国から機動隊員を動員して強権的に工事を進める日本国政府。辺野古もまたしかり。外国軍隊の便益のために自国民を恫喝、弾圧することを厭わない政府の在り方の根源はどこにあるのか?そういう問題意識をもって視聴したいと思います。

ビデオニュース・ドットコム 加藤紘一氏追悼無料放送「日本の針路が大きく間違っているようなこの感覚は何なのだろう」(2004年4月30日)のご紹介

 今晩(2016年9月12日)配信した「メルマガ金原No.2567」を転載します。

ビデオニュース・ドットコム 加藤紘一氏追悼無料放送「日本の針路が大きく間違っているようなこの感覚は何なのだろう」(2004年4月30日)のご紹介

NHKニュース 2016年9月10日 18時05分
加藤紘一 自民党元幹事長 死去

(抜粋引用開始)
 
自民党の元衆議院議員で、官房長官や党の幹事長など、政府や党の要職を歴任した加藤紘一氏が9日、東京都内の病院で肺炎のため亡くなりました。77歳でした。
 加藤氏は、山形県鶴岡市出身で、東京大学を卒業後、外務省を経て、昭和47年の衆議院選挙で旧山形2区から立候補して初当選し、13回当選しました。この間、第2次中曽根改造内閣で、防衛庁長官として入閣し、その後も、宮沢内閣の官房長官や、党の幹事長、政務調査会長など、政府や党の要職を歴任しました。
 自民党内では、総理・総裁の有力候補とされ、平成10年には派閥を宮沢元総理大臣から引き継ぎ、会長に就任しました。
 また、加藤氏は、小泉・元総理大臣、山崎・元自民党副総裁と近かったことでも知られ、3人の盟友関係は「YKK」とも呼ばれました。
 こうした中、平成12年秋の臨時国会で、内閣支持率が低迷していた当時の森総理大臣の退陣を求めて、野党側が提出した森内閣に対する不信任決議案に賛成する意向を示しながら、採決直前に方針を変更した、いわゆる「加藤の乱」を主導し、加藤派は分裂しました。
 平成14年には、みずからの事務所の元代表が所得税法違反の罪で起訴されたことを受けて、自民党を離党し、衆議院議員を辞職しましたが、翌15年の衆議院選挙に無所属で当選した後、自民党に復党しました。そして、平成24年12月の衆議院選挙で落選した後、3女の鮎子氏を後継に指名し、政界を引退していました。
 その後、加藤氏は体調を崩し、9日、東京都内の病院で肺炎のため亡くなりました。
(中略・・・金原注:この後、加藤氏を知る人のコメントなどが続きます。森元首相、古賀元幹事長、野中元幹事長、川崎元厚生労働大臣、山崎元副総裁など)
言論の自由 訴え続けた
 加藤紘一氏は生前、自身の靖国神社をめぐる発言を理由に山形県の実家が放火されましたが、講演や著書で暴力に屈することなく、言論の自由の重要性を訴え続けました。
 加藤氏は小泉純一郎氏が総理大臣だった当時、近隣諸国との関係から総理大臣が靖国神社に参拝することに反対していました。小泉氏は総理大臣として最後の参拝を平成18年の8月15日に行い、加藤氏は、参拝後の記者会見でも「かつて日本と戦いを交えた国は、挑戦的な行動だと受け止めざるをえないので、できれば参拝を控えてほしかった」と述べていました。そして、その日の夕方に加藤氏の山形県鶴岡市の事務所と棟続きの実家が右翼団体の男に放火されて全焼し、この男は警察の調べに対し、「小泉総理大臣の靖国神社参拝に関して加藤氏が慎重な発言をするなど、その政治姿勢に不満があった」と犯行の動機を供述しました。
 この事件をめぐっては、政界だけでなく、弁護士やジャーナリストなどから「言論を封じるテロを断じて許さない」という批判の声が上がりました。放火された実家に住んでいた加藤氏の高齢の母親は、事件当時、外出していて無事でしたが、加藤氏は事件当初、強いショックを受けた様子でした。それでも、加藤氏は講演などでテロに屈しないという態度を貫き通し、言論の自由の重要性を訴え続けました。
 事件後に出版した著書、「テロルの真犯人」の中でも「代議士として国民の負託を受けている以上、発言を曲げることはあってはならないし、これからも、語るべきことは語っていくつもりでいる」と述べたうえで、「昭和初期の、五・一五事件、二・二六事件の例を挙げるまでもなく、テロは自由な言論の最大の敵である。ここで私の心がくじけたら、この国の将来に対して大きな禍根を残すことになる」と、テロに屈しない覚悟を強く示していました。
新華社通信 功績を称賛
 加藤氏の死去について、中国国営の新華社通信は、日本時間の10日夜、記事を配信しました。この中で、加藤氏について、「長年にわたって、日本の侵略の歴史を反省するよう呼びかけ、これを美化するような言動を批判してきた。政治家を引退したあとも、安倍政権による自衛隊の集団的自衛権の行使を可能にする安全保障法制を公然と非難し、正義の声を発し続けた」と称えています。
 そのうえで、加藤氏が日中友好協会の会長を務めるなど、日中間の友好交流のために力を尽くしてきたことを紹介しました。
(引用終わり)

 元衆議院議員の(と今となっては言うべきなのでしょうね)加藤紘一氏が一昨日(9月9日)死去したことを伝える報道の中で、以上のNHKニュースは、最も詳しいものの一つだったでししょう。
 加藤紘一氏の訃報を伝える際、どのマスコミでも必ず触れるのは「加藤の乱」ですが、靖国神社参拝に関する発言をきっかけとした右翼による鶴岡市の実家への放火をめぐる対応に、記事のうちの相当な分量を割くという見識に対しては、素直に敬意を表したいと思います。

 さらに、加藤氏の政治家としての姿勢を伺える映像として、ビデオニュースドットコムが追悼のために無料公開したマル激トーク・オン・ディマンド 第162回「日本の針路が大きく間違っているようなこの感覚は何なのだろう」は、是非じっくりと視聴したいと思います。
 
マル激トーク・オン・ディマンド 第162回 2004年4月30日
日本の針路が大きく間違っているようなこの感覚は何なのだろう


「加藤紘一氏 (自民党元幹事長)
 マル激トーク・オン・ディマンド 第162回
 対米協調が全てに優先されるかのような外交政策を愚直なまでに貫く小泉政権だが、肝心のアメリカが戦争の大義だった大量破壊兵器を見つけられなかったり、軍によるイラク人捕虜の虐待事件を起こしたり、かと思うと、戦闘が終わったはずなのに未だにファルージャで市民を巻き込んでの掃討戦を展開したりと、どうも様子がおかしい。そのアメリカと一蓮托生の道を選んだ日本の選択は本当に正しかったのか。この道で日本の国益は本当に守れるのか。日本には他の選択肢はないのか。加藤の乱と秘書による金銭スキャンダルで一度は失脚し、出直しを迫られた自民党の元幹事長にして総理候補の加藤紘一氏をゲストに招き、現在の日本外交の針路の問題点を根本から考えてみた。また、今井・郡山両氏の会見と彼らの発言に対する世論の反応を受けて、なぜ今回のような醜いバッシングが起きたのかを再検証した。」

 12年前の収録ですが(神保さんも宮台さんも若い!思えば、宮台真司さんは「東京都立大学」の「助教授」だった)、イラク戦争開戦の翌年、日本人人質3人に対して「自己責任論」なる醜悪な(上記の文章のとおり)バッシングの嵐が吹き荒れた当時、しっかりした見識に基づいた意見を述べることを躊躇しなかった保守政治家の姿を見ることができます。
 「対米協調が全てに優先されるかのような外交政策を愚直なまでに貫く小泉政権だが」
「アメリカと一蓮托生の道を選んだ日本の選択は本当に正しかったのか。この道で日本の国益は本当に守れるのか。日本には他の選択肢はないのか。」という問いは、「小泉政権」を「安倍政権」に置き換えてもそっくりそのまま、いや、現在の自民党には加藤紘一氏がいないのですから、もっと悲痛な問いかけと思えます。

治安維持法と自民党改憲草案~石埼学龍谷大学法科大学院教授の講演レジュメで学ぶ(9/8国賠同盟近畿ブロック会議より)

 今晩(2016年9月11日)配信した「メルマガ金原No.2566」を転載します。
 
治安維持法と自民党改憲草案~石埼学龍谷大学法科大学院教授の講演レジュメで学ぶ(9/8国賠同盟近畿ブロック会議より)

 龍谷大学法科大学院教授の石埼学(いしざき・まなぶ)先生といえば、昨年5月28日に、300人の学生を対象に行った日本国憲法講義「平和主義と安保法制」がIWJによって中継され、翌日、それを私がメルマガ(ブログ)でご紹介したこと、また、今年の4月2日、私も運営委員を務める「守ろう9条 紀の川 市民の会」の第12回総会で記念講演をされ、当日のうちにレジュメの骨子のみ、取り急ぎ私のメルマガ(ブログ)で紹介させていただいたこと、さらにその3日後には、レジュメの中に4問組み込まれていた【設問】の詳解を私が試みたりしたことなどをご記憶の読者もおられることと思います。
 末尾に、過去4回私のメルマガ(ブログ)で石埼先生を取り上げた記事にリンクしておきますので、ご参照いただければ幸いです。

石埼先生・国賠同盟講演①(FB掲載版) そのようなことで、和歌山にもご縁が生まれた石埼学先生が、一昨々日(9月8日(木))、再び和歌山市において講演されました。招いたのは、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟和歌山県本部であり、国賠同盟近畿ブロック会議のプログラムの一部としての記念講演であったため、一般には広報されませんでした。
 基本はクローズの講演だったものの、会場のスペースに若干の余裕があることから、参加申込みをすれば聴講するチャンスはあったのですが、平日の昼間(午後1時から和歌山ビッグ愛12階にて)ということで仕事の予定が入っており、石埼先生の講演をうかがうことはかないませんでした。
 その代わり、私としては、「九条の会・わかやま」事務局の南本勲(みなもと・いさお)さんが、和歌山での主要な憲法講演会にはいつもカメラとICレコーダー持参で参加され、会紙「九条の会・わかやま」に講演要旨をだいたい3回連載で紹介してくださる例となっており、その上、南本さんは国賠同盟和歌山県本部の役員でもあるのだから、今回も南本さんから会紙「九条の会・わかやま」が届くのを待てば良いと安心していたところ、何と、国賠同盟のクローズの会議での講演という性格からか、会紙「九条の会・わかやま」への掲載予定はないことが判明し、がっかりしてしまいました。
 
(参考)今年の4月2日、石埼先生が「守ろう9条 紀の川 市民の会」第12回総会で講演された「戦争法は廃止、憲法9条が輝く日本を取り戻そう~今、私たちにできること~」の講演要旨を掲載した会紙「九条の会・わかやま」をご紹介します(ホームページ掲載版)。
 第1回(296号)

 かくなる上は、レジュメを入手して勉強するしかないと思い、南本さんにレジュメの残部があったら譲って欲しいと連絡しようとしていたところ、石埼先生が、講演の内容をより広く市民に知っていただきたい気持ちがおありだということをFacebookタイムラインを通じて知り(Facebook友達になっていただいていましたので)、私から、石埼先生のレジュメを私のブログ(その前のメルマガ金原)に掲載したいとお願いしたところ、すぐにご快諾いただき、レジュメのデータを送っていただきました。そして、講演会主催者の国賠同盟和歌山県本部からも、メルマガとブログへの掲載について了解いただきましたので、以下に、石埼先生の8日に行われた講演会用のレジュメを全文掲載します。
 
 ここまで、うかつにも講演のタイトルをご紹介していませんでした。演題は、さすがに国賠同盟(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟)の会議での講演に相応しい「日本を治安維持法の時代に回帰させてはならない~自民党改憲草案が目指すものは何か~」というものです。
 自民党改憲案(の危険性)を論じる講演会は全国各地であまた行われていますが(私もそのような学習会の講師を何度も務めました)、今回の石埼学先生の講演のように、治安維持法と関連付けながら自民党改憲案を論じるというものは珍しいと思います。
 その意味でも、このレジュメを全文公開する意義は大きく、掲載をご快諾いただいた石埼学先生、そしてレジュメの公開にご同意いただいた国賠同盟和歌山県本部の皆さまに、深く感謝致します。
 
(注)印刷される場合にはPDFファイルからどうぞ。


2016治安維持法国賠同盟近畿ブロック(2016年9月8日和歌山市)
                    石埼 学(龍谷大学法科大学院教授・憲法学)
 
       日本を治安維持法の時代に回帰させてはならない
         ~自民党改憲草案が目指すものは何か~

はじめに
・現行憲法の平和主義の放棄は、改憲草案前文、9条2項、9条の2等から明らか。
→集団的自衛権の行使をはじめ、海外で武力行使をする「国防軍」の新設。
→本報告では、平和主義の放棄などについては立ち入らず、自民党改憲草案のうち、治安維持法と関係しそうなところを中心にする。

・自民党改憲草案(「日本国憲法改正草案」自由民主党、平成24年4月27日決定)の性格について。
→この草案通りの改憲を本気でめざしているわけではない(憲法改正手続上も無理)。ただし平和主義、緊急事態条項等など個々の部分の改憲がなされる可能性は、政治情勢次第では十分にありうる。
→現在の自民党が実現しようとしている国家像・価値観を示している。例えば「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」という前文の文言や職業選択の自由の条項からそれを制約する文言(公共の福祉等)を削除している(草案22条1項)ことが示すように、企業活動等に対する制約が大幅に緩和された国家像が示されている。
→正面からの憲法改正だけではなく、現行憲法下での法令の制定・改廃等を通じてこの草案が示す国家像・価値観を実現しようとしている点にも注意(9条違反の安保関連法の制定が典型的)。

【余談 北川宗藏先生と父】
1953年の北川先生の逝去の翌年に私の父が和歌山大経済学部に入学。北川先生を知っているか尋ねたところ「知っているも何も、入学してすぐに、複数の先輩に勧められて、北川先生のご著書で経済学を学んだ」とのこと。私も、政治や経済のこともよく話す父を介して、北川先生の影響を受けている可能性あり(?)。

一 自民党憲法改正草案批判
1 法と道徳の混同
・法と道徳の区別は近代法の基本原理。
→道徳、思想、宗教等の価値観に国家は関与せず、それらは市民社会に生きる一人ひとりの個人が自由に取捨選択すべしというのが近代国家の基本原理である。
→大日本帝国憲法(1889年)の制定者はこの基本原理は、一応守っていた(「国体」を憲法ではなく教育勅語に書き込んだことなど―樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』集英社新書、2016年、特に142-145頁の樋口発言を参照)。
→もっとも教育勅語の下での公教育は、紆余曲折があるものの、近代国家の教育として大いに問題があることは確か(山住正己『教育勅語』朝日新聞社、1980年を参照)。
→ただし、教育勅語の下賜(明治23年(1890年)10月30日)以降の「衍義書」(解説書)
の中には、これを近代的な解釈を施したものもあったようだ(山住・前掲書、106-110頁)。→「国体」についても、その具体的意味は誰もよく解かっていなかったようだ(山住・前掲書、129-146頁)。「曖昧である」国体という観念を「同時にこの上なく尊いものだと印象づけることが、逆に国民を勅語を中心とした体制にとりこむうえで威力を発揮したのではなかろうか」(山住、前掲書、145頁)。

・改憲案前文では、「国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、・・・和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」等の「道徳」が示され、それらの道徳―全部というわけではないが―に対応する条項が本文にある(例えば、9条の3の領土保全における国民の協力、24条1項の家族の互助の義務など)。

・最高法規たる憲法にこのような道徳を書き込むことは論外である。
→改憲案が回帰しようとする「旧体制」は「実は、明治憲法以前だ」(樋口・小林、前掲書、34-35頁、樋口発言)。
→改憲案には「どうやら国家と歴史と文化、国民と国家と社会が、いずれも渾然一体となった秩序が背後に控えているようであり、だからこそ国家は→道徳、思想、宗教等の価値観には国家は関与せず、それらは一人ひとりの個人が自由に取捨選択してよいという近代国家の基本原理に反する。価値を一元化し、『こういう生き方をせよ』と迫ることができるものと思われる」(青井未帆『憲法と政治』岩波新書、2016年、21頁)。
→そういう改憲案だから、現行憲法13条の「個人」を「人」に書き換えて個人主義を否定するのは自民党の立場に立てば当然(なお改憲案24条3項には「個人の尊厳」との文言があるがミスか・・・)。

・本文の条文が現行憲法からさほど違わない文言を用いていても、道徳が正面から掲げられているので、それに従った解釈を個々の条文になしうるという点でも危険である。
→権利条項に「公益及び公の秩序に反してはならない」との制約がある(改憲案12条、13条、21条2項)が、これらの「公益及び公の秩序」に前述の道徳観が読み込まれうる。

2 歪んだ権利概念
・「権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも重要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基いて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました」(自民党の「日本国憲法改正草案Q&A 増補版」(同党HP)13頁、Q14)。
→天賦人権説の否定。ところが「人権は、人間であることによって当然に有するものです。我が党の憲法改正草案でも自然権としての人権は、当然の前提」との記述もある(Q&A 37頁、Q44)。改憲案が否定したのは、どうも自然権思想ではなく、人権が「神から人間に与えられる」という考え方のようである。
→改憲案の国家観が「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」(前文)というものだから、人権が、天皇ではない別の神や造物主から与えられるものであってはならないと考えたのであろう。
→このような権利概念を改憲案は前提としているため、改憲案の「公益及び公の秩序」に「天皇を戴く国家」の価値観・道徳観が読み込まれうると理解するのは邪推ではないだろう。
→関連して、改憲案21条2項が「公益及び公の秩序」を害する表現や結社を禁止していることに要注意。「天皇を戴く国家」の価値観・道徳観が「公益及び公の秩序」に読み込まれる余地がある以上、治安維持法に類似した法律が違憲とならない余地もあるかもしれない。
→なお現行憲法が「絶対に」禁止している拷問(36条)から「絶対に」を削除している(改憲案36条)点にも注意。「絶対に」という文言を削除することにより、例外的に拷問が許される場合があるという解釈ができるようになる。

・「彼らの共通の思いは、明治維新以降、日本がもっとも素晴らしかった時期は、国家が一丸となった、終戦までの10年ほどのあいだだった、ということなのです。普通の感覚で言えば、この時代こそがファシズム期なんですがね」(樋口・小林、前掲書、32頁、小林発言)。

二 自民党憲法改正草案と治安維持法
1 「国体」概念の法律への挿入
石埼先生・国賠同盟講演②(南本さん)・「国体」という概念が「法律上の文言に採用されたのは、治安維持法がほとんど最初である」(奥平康弘『治安維持法小史』岩波現代文庫、60頁)。
→大日本帝国憲法(1889年(明治22年)2月発布)と教育勅語(1890年(明治23年)10月)とを当時の政権担当者は「あえて分けた」。「教育勅語は道徳規範であって、国政事項ではないという判断が働いていた」(樋口・小林、前掲書、143頁、樋口発言)。
→ところがその道徳規範であるはずの「国体」概念が1925年の治安維持法(第1条)に挿入された。

→1928年の緊急勅令による目的遂行罪の新設、1941年の新治安維持法(昭和16年法54号)による①国体擁護のための罰則強化、②特別な刑事手続きの新設(同法第2章)、③予防拘禁制度の導入(奥平・前掲書、241-242頁)等、治安維持法は次第に改悪されていき1941年の新法では、もはや法律の体をなしていない(公権力行使に対する限定が無いに等しい)ものと化するが、そもそもは1925年法が「国体」という法律用語としても定義しかねる概念を取り込んだのか根本的な問題だろう。

【北川宗藏先生の1944年の検挙について】
・捜査の端緒は「ゼミナールの学生たち」との「今でいうコンパのようなものをした時、みんなで書いた寄せ書き」のようだが、特高が押収したのは「講義ノートのすべて、たくさんの本」だけのようである(『命燃えて 北川宗藏 生誕100年』2004年、23頁。21頁、112頁も参照)。二年三か月の実刑判決を受けていることとも合わせて考えると1941年法の支援結社(2条)、準備結社(3条)又は集団結成(4条)の「目的遂行ノ為ニスル行為」で有罪となった可能性も捨てきれないが、資料からは当の「支援結社」等らしきものが見当たらず、構成要件としては5条違反ではないかと考えられるものの、「一年以上」の懲役を定めた4条又は5条違反だとすると、刑が重たいようにも思われる(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟和歌山県本部『和歌山県の治安維持法犠牲者(第2版)』2013年、36頁も参照)。
→つまりはデタラメ。弁護活動も訴訟もまともになされたとは考えられない。

・「自民党の改正草案に近いことが、教育勅語には出てきますね。父母に孝行せよ、兄弟、友、夫婦相和し、朋友を互いに信じなさい、としている」(樋口・小林、前掲書、142頁、小林発言)。

・改憲案は、教育勅語に類似した道徳を、あろうことか憲法典に書き込もうとしている。

2 緊急勅令による治安維持法改正
・大日本帝国憲法の緊急勅令:「天皇ハ公共の安全ヲ保持シ又ハ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス」(8条1項)。
→同憲法には、戦争・内乱等に際して、武力組織の発動を前提とする戒厳(同憲法14条)および非常大権(同憲法31条)の定めがあるが、緊急勅令は、そうした「段階以前の非正常な状態において、立法上、財政上の例外措置」(小林直樹『国家緊急権』1979年、148頁)をとることを可能する規定である(緊急財政処分に関する同憲法70条も参照)。
→次期の帝国議会での「承諾」が必要(8条2項)であり、効力は法律と同等。

・1928年の緊急勅令(昭和3年勅令129号)
→1925年の治安維持法の改正内容。
① 国体の変革目的(1条1項)と私有財産制の否定目的(1条2項)とは別個とし、②前者の目的で結社を組織した者等を死刑を含む厳罰とした。③また結社の目的遂行罪を新設した。
→大日本帝国憲法8条1項の要件を満たしていないとの厳しい批判があった。すなわち「①勅令を制定する必要性が目前に迫っており、つぎの議会の開会を待つことができない特別の事情がある場合、②まえの議会の閉会後に予期しえない突発事件が発生した場合」との当時の支配的な憲法学説が示していた二要件のいずれをも欠いていた(奥平、前掲書、113頁)。
→1929年3月に議会の承諾があった。

・2015年の安保関連法の制定過程を思い起こさせる
(政府や与党による無理な憲法解釈に基づく、かつ多くの憲法学者の違憲との指摘を無視しての法律制定という意味で)。

・緊急勅令制度は、自民党改憲案99条の内閣の定める「法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」と類似している。
→ただし、改憲案は、大日本帝国憲法の前記の二系統の緊急事態の区別をしていない。
→「緊急ノ必要」ではなく「特に必要がある」(改憲案98条1項)のほうが要件として緩い可能性があり、また改憲案のほうには「議会閉会ノ場合」という要件がない。
→改憲案の緊急事態条項(98条、99条)は、大日本帝国憲法のそれと比しても、要件があいまいかつ緩やかなのではないか。

三 日本国憲法の改正手続
1 国会による発議までの流れ
・憲法改正原案の発議
(憲法改正手続法(平成19年(2007年)法律51号、2007年5月14日制定、2010年5月18日に全面施行)により改正された国会法)
(a)議員が憲法改正案の原案を発議するには、衆議院議員100人以上、参議院議員50人以上の賛成が必要であること(国会法68条の2)
(b)憲法改正原案の発議は、「内容において関連する事項ごとに区分して」行うべきこと(法68条の3)
(c)衆参両院に設置され「憲法審査会」(法102条の6)が憲法改正原案等の発議権を付与(法102条の7)。

・衆参いずれかの本会議に提出された憲法改正原案が「憲法審査会」でまず審議され、その後、本会議で特別多数で議決される(両議院で)。

・国会による発議
・憲法の改正には、「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で」国会が発議し、国民に提案する(憲法96条1項前段)必要がある。

cf.「総議員」の意味:現在議員数とする説と法定議員数とする説がある。欠員を差し引いた現在議員数とする説が多数。

2 国民投票による過半数の賛成
・国会から提案された憲法改正案について、「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成」でもって国民の承認がなされる(憲法96条1項後段)。
・国民の憲法改正の承認が得られた場合、その時点で憲法改正が確定する。

cf.憲法改正案に対する賛成の投票が、有効投票総数の二分の一を超えた場合に憲法96条1項の「国民」の「承認」があったものとすること等を定める(憲法改正手続法126条1項)。

まとめ
1.改憲案を丸ごと一つの議案として国会に提出し、そのまま発議し、国民投票で賛否を問うことは、法律上できない。
→憲法改正原案の発議は、「内容において関連する事項ごとに区分して」行うべきこと(国会法68条の3)
→ただし、これは法律上の定めであり、国会の議決で改正可能(憲法には違反しない)。

2.自民党のめざす改憲に多くの国民の賛同が得られそうな状況に現在はない。したがって、近いうちに憲法改正の発議と国民投票がなされる可能性は決して高くはない。

→多くの憲法学者は現在でも違憲と考えているが、2014年7月1日の閣議決定で憲法9条解釈を変更し、それに基づいて安保関連法を整備し、海外における武力行使を合憲としてしまった安部政権にとって改憲のモチベーションはさほど高くないのではないか。
→改憲派の立場に立った場合、安保関連法を実施していくうえで、存立危機事態、重要影響事態等に際して自衛隊や米軍の活動への国民の協力を義務化するための、緊急事態条項の憲法への挿入は不可欠なはずである。

3.改憲(明文改憲)だけではなく、改憲案の描く国家像を具体化するための法令の整備等への警戒が不可欠である。
→「改憲」よりも「壊憲」が進行している。
                                          以上


(付記その1 参考サイト)
 以下、蛇足ながら、石埼先生のレジュメをさらに深く学ぼうという方のために、インターネットで参照できる以下の資料をご紹介しておきます。
〇治安維持法
  大正14年(法律第46号)
(付記その2 北川宗藏先生について)
 本レジュメの中の2箇所(【余談 北川宗藏先生と父】と【北川宗藏先生の1944年の検挙について】)に登場する「北川宗藏先生」について、いささか説明を付け加えておいた方がよいかと思い、和歌山大学経済学部出身で、石埼先生のお父様の8年後輩にあたる南本勲さんにお願いして資料を送っていただきました。
 たくさんメールに添付して送っていただいた資料は、北川宗藏氏についての評伝というか研究書というか、『北川宗蔵 一本の道をまっすぐに』(中村福治著/創風社/1992年)という本からの抜粋、それと、南本さんが資料を博捜して作成された「和歌山県の治安維持法犠牲者より」と「特高月報より」の中の北川宗藏氏関係の部分でした。
 いずれも、貴重なものですが、これを一々ご紹介する余裕もありませんので、『北川宗蔵 一本の道をまっすぐに』掲載の略年譜を参考に、ごく簡略な経歴を記載するとともに、南本さんが書かれた「和歌山県の治安維持法犠牲者より」(北川宗藏の項)の中から、3度にわたる治安維持法関係での取り調べや検挙について説明された箇所を引用させていただくことにしました。
○北川宗藏氏略歴
1904年鹿児島県六日町出身。鹿児島市立商業学校を経て、26年3月、神戸高等商業学校卒業。27年4月東京商科大学本科に入学し、30年3月卒業。32年3月和歌山高等商業学校(和歌山大学経済学部の前身)に講師として着任。33年3月同校教授。同年6月治安維持法違反で最初の取調べ。1943年10月2度目の事情聴取。44年3月治安維持法により検挙され、11月起訴、12月判決、大阪刑務所に服役。45年10月釈放されて和歌山の自宅に戻る。46年6月和歌山経済専門学校(和歌山高等商業学校の後身)教授。同年8月日本共産党入党。49年7月和歌山大学教授、図書館長。53年8月19日商学博士。同年12月2日脳腫瘍にて死亡(満49歳)。著書・論文多数。82年~89年『北川宗蔵著作集』(海道進編/千倉書房)全7巻刊行。
○『和歌山県の治安維持法犠牲者(第2版)』(2013/11/11)より
(抜粋引用開始)
北川 宗藏(きたがわ・そうぞう) 本籍:鹿児島県鹿児島市六日町
 1933(昭和8)年6月27日、和歌山高商学生の治安維持法違反事件に関係して、和歌山高商教授・岩城忠一、同校学生・内田穰吉らとともに和歌山警察署で取り調べを受ける。
 1943(昭和18)年10月、立教大学教授・宮川實の検挙(1942年3月15日)の余波を受け、和歌山地方裁判所検事局で事情聴取を受ける。
 1944(昭和19)年3月9日、兵庫県において治安維持法違反で検挙され、同年11月17日、起訴される(41歳)。『特高月報』によれば違反容疑は目的遂行罪で、一般大衆、特に学生層に対する共産主義思想の浸透を図り、和歌山高商機関紙、神戸商大機関紙、神戸商大新聞、関西学院新聞等に唯物弁証法に依拠した論文を執筆、掲載し、学生や一般大衆の啓蒙に努め、また、自己の和歌山高商の教え子で神戸商大に進学した堀田順次、上田宇一、高良武士らと度々会合して意識の啓蒙指導を行ったこととされる。同年12月28日、神戸地方裁判所で懲役2年、未決勾留200日算入の判決を受け、神戸拘置所、大阪刑務所で服役。敗戦を迎え、1945(昭和20)年10月9日釈放される。
(引用終わり)

司法に安保法制の違憲を訴える意義(2)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述

 今晩(2016年9月10日)配信した「メルマガ金原No.2565」を転載します。

司法に安保法制の違憲を訴える意義(2)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述

 去る9月2日(金)午後2時から、東京地方裁判103号法廷で第1回口頭弁論が開かれた安保法制違憲・国家賠償請求訴訟では、原告訴訟代理人(弁護士)5名及び原告5名による意見陳述が行われ、その原稿が「安保法制違憲訴訟の会」ホームページで公開されています。
 私は、その内、まず寺井一弘弁護士以下、5名の訴訟代理人の陳述を全文ご紹介しました(司法に安保法制の違憲を訴える意義(1)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述/2016年9月6日)。

 今日は、その続編として、同日行われた5人の原告による意見陳述をご紹介することとします。
 陳述されたのは、以下の5人の方々です。肩書きなどは、陳述書を読ませていただいた上での私の心覚えのメモに過ぎません。
 今回陳述された5人は、堀尾先生をはじめとして、皆さん、様々な活動をしてこられた方々ですが、それぞれ参考サイト(私が勝手にセレクトしました)を1つずつご紹介しておきます。

菱山南帆子さん 
祖母が八王子大空襲の被災者 平成元年生まれの市民運動家
※参考サイト
「あらしを呼ぶ少女」菱山南帆子さんが歩んだ道~講演に笑いと共感(レイバーネット日本)

辻仁美さん 
安保関連法に反対するママの会
※参考サイト
辻仁美氏(安保関連法に反対するママの会から) スピーチ 「みんなのための政治を、いま。市民+4野党党首 有楽町大街宣」 2016.6.19 @有楽町イトシア前(YouTube)


河合節子さん 
東京大空襲被災者(母と2人の弟を喪う) 東京大空襲訴訟原告
※参考サイト
知って下さい東京大空襲(YouTube) 紙芝居(絵・文・上演:河合節子さん)


新倉裕史さん 米軍横須賀基地近隣住民 非核市民宣言運動・ヨコスカ
※参考サイト
基地の街で「対話」40年 横須賀の新倉さん、平和運動を本に(東京新聞)

 私が選んだ参考サイトを読んだり視聴したりしてくだされば分かると思いますが、今回陳述された5人の皆さんは、様々な体験や属性を背景としながら、日本国憲法の基本理念である恒久平和主義を、日々の実践を通して「不断の努力によつて、これを保持し」てきた方々です(憲法12条)。
 そうであればこそ、憲法を踏みにじった安保法制法の制定は、自らの生き方を否定されたに等しく、立ち上がらざるを得なかったということだと思います。
 そして、そのような思いは、この5人の皆さんほど目立った活動はしていなくても、憲法の平和主義を大切なものと思ってきた大方の国民が共有するところだろうと思います。

 それでは、5人の原告の皆さんの陳述をご紹介します。
 一読して共感していただければ、是非、これを周りの方々に知らせてください。このブログをシェアしたり、自分のFacebookタイムラインに貼り付けたり、あるいは「安保法制違憲訴訟の会」ホームページに掲載されたPDFファイルを印刷したり、いろんな方法を活用して、共感の輪を少しでも大きく拡げていきましょう。よろしくお願いします。

 なお、第1回口頭弁論終了後の記者会見と報告集会の動画を再掲しておきます。

20160902 UPLAN【裁判所前広報・記者会見・報告集会】安保法制違憲・国家賠償請求訴訟第1回口頭弁論(2時間24分)

冒頭~ 裁判前の東京地裁前での集会
40分~ 記者会見
1時間10分~ 報告集会
司会 杉浦ひとみ弁護士
1時間10分~ 寺井一弘弁護士 あいさつ
1時間24分~ 黒岩哲彦弁護士 第1回口頭弁論の裁判の様子
1時間35分~ 伊藤真弁護士 裁判の法的な展開について
1時間43分~ 原告・堀尾輝久さん
1時間48分~ 原告・菱山南帆子さん
1時間51分~ 原告・辻仁美さん
1時間56分~ 原告・河合節子さん
2時間00分~ 原告・新倉裕史さん
2時間04分~ 福田護弁護士 訴訟の今後の展開  
2時間13分~ 質疑応答
 

原告意見陳述  堀 尾 輝 久

私が本件の原告になることを決意した理由

1 私の成育史
 私は1933年福岡県小倉生まれ。1937年、4歳の時日中戦争がはじまり、父は戦場へ。6歳の時、中国北部で戦病死した。靖国に祀られ、我が家は「誉れの家」となった。学校では戦争は「東洋平和のために」と教え込まれ、やがて私は当然のように軍国少年になっていた。
 敗戦は12歳、小倉中学1年の夏。終戦の安堵と将来の不安。教科書の墨塗り体験は、それまでの価値観を自分の身体で否定する、否定される体験であり、翌年配られた「新しい憲法のはなし」は新鮮な驚きであった。戦後改革、憲法と教育基本法のもとでわたしの青年期は始まる。
 大学では比較的に自由な法学部政治学科に入ったものの、なじめず、さらに人間の問題を深く考えたいと思い、人文科学研究科の大学院で教育哲学・教育思想を専攻した。

2 研究者として、教師として
 戦争と平和の問題は、なぜ自分は軍国少年であったかの問いとして、学部生の時からの関心事であった。法学部では、丸山真男ゼミで「日本におけるナショナリズムとファシズム」、尾高朝雄ゼミでカントの「永久平和論」を読み、大学院では現場教師の平和教育実践に触発される。私の研究も戦後改革への関心から憲法と教育基本法の成立過程を精査して、『教育理念』(東大出版1976)として上梓。その後も、新資料に基づき憲法9条の押し付け論を批判し、その世界史的意味を考察してきた。(「戦争と教育そして平和へ」『総合人間学会年報』4 号2010、「憲法9条と幣原喜重郎」『世界』2016.5 月号)
 また人格形成を軸とする人間教育にとって、平和は条件であり、目的であると考え、平和主義を教育思想の中軸に据え、さらには自分の生き方として捉えるようになってきた。(『人間形成と教育』岩波1991、『地球時代の教養と学力』かもがわ2005)
 東京大学では、教育学、教育思想の講義とともに「平和と教育」ゼミを続け、中央大学では国際教育論を講じ、現在も総合人間学会で「戦争と平和の問題を総合人間学的に考える」研究会を主催している。
 この間憲法に対する確信も深まり、憲法9条の精神を守るだけではなく世界に拡げることをこそ憲法は求めていると考え、同じ思いの先輩方を引き継いで、国際憲法学会や9条世界会議、パリでの国際平和教育会議にも参加してきた。今は「9条を持つ地球憲章を!」の国際的な運動をすすめるため、世話人の一人として準備をしている。私の研究・教育活動の軸には平和への希求と9条の理念があったのだと改めて思う。

3 精神的打撃
 この間の経緯と現在の状況は私の精神のありようにとって厳しいものがある。安倍内閣のもとでの教育基本法制定(2006年)は衝撃的であり、教育学研究の根拠を奪われる思いであった。しかし憲法がまだ生きている、と思い直してきた。
 しかし、安保法体制が進めば、マスコミと教育は国民馴化のための手段となり、社会から、学校から自由の雰囲気が消えていき、再び軍国少年少女が育てられるのではないか。貧困と格差は経済的徴兵の温床となるのではないか。そのような事態こそ、人格権としての幸福追求の権利を制約し奪うことになろう。
 このような憲法が侵される事態は堪え難い苦痛である。それは研究者としての苦痛であるとともに、平和主義を自分の生き方として選びとってきた私にとっての人格権の侵害そのものと言うべき苦痛である。
 長らく教育研究に身をおき、平和の思想史と平和教育の実践的研究に携わり、前文・9条に誇りをもって生きてきた者として、さらに「9条を持つ地球憲章」を創る仕事に取り組もうとしている者として、この事態は、私の研究の根拠を、さらには私の生き方を国家権力によって否定され、奪われる思いである。
 これまで教育関連の裁判においては、学者として意見書を書くことはあっても、自ら原告になることはなかった。しかし今度ばかりは、自ら原告となる道を選んだ。それほどの苦痛を受けているということである。それは個人としての苦痛にとどまらず、教育研究者として未来世代に責任を負うものとしての憤り( 公憤) でもある。
 戦前戦中そして戦後を生きてきた人間の一人として、 未来世代の権利を護る責任をもつ世代の一人として、法の前に立ちたいと思う。
                                        以上
 

原告意見陳述  菱 山 南 帆 子

 私は、1989(平成元)年生まれです。両親が共働きだったため、一人っ子の私は、日中祖母の家に預けられることが多かったです。祖母は、戦争のことを私によく話してくれました。戦争で祖母の兄弟や家族が亡くなり、祖母自身も戦火に逃げ回ったそうです。祖母は1945年8月2日の八王子大空襲を経験しています。八王子の街の約80%が焼かれて何もなくなったということです。「火に追われ必死に逃げ回っているのは、今の私ではなくてあなたくらいの子どもだったのよ」と言われ、私は自分自身が火に追われ逃げる様子を想像し、親を亡くすことを想像するようになりました。心から怖いと思いました。祖母は、戦争の話をした後、いつも「今は二度と戦争をしないという憲法ができたのよ」と本当にうれしそうに話してくれました。私は八王子の街を逃げ回らなくてもいいし、親を亡くして独りぼっちになってしまうこともないと子ども心に安堵しました。私は、「憲法があって良かった!」と心から思ったのです。

 小学校6年生の秋にアメリカの9.11がありました。私は、なんでこんなテロを起こしたのか疑問を持ちました。私は、アフガンの人たちがアメリカを憎む原因を考え、また、9.11で犠牲になられた人たちの苦しみを想像しました。アメリカが始めた、いわゆる「正義の戦争」はアフガンの人たちから見たら「正義」ではなく「悪」ではないだろうか。そして、なぜテロを起こしたのかと考える中で、「貧困」や「差別」がもとにあり、「戦争」は憎しみの連鎖にしかならないということは、12才の私にも分かりました。
 中学1生だった2002年12月、イラク戦争が始まる直前に、初めて母と一緒にイラク戦争反対の集会に日比谷野外音楽堂に行きました。同じ思いの人が集まり、思いを共有することに感動しました。それから私は一人で集会などに参加するようになりました。
戦争で人の命や生活が失われるということに焦りを感じで、何かしなければならない、という思いに突き動かされていました。
 当時は、ツイッターやフェイスブックもスマートフォンもなかったため、情報源は「ビラ」でした。私は学校内で友だちに伝えようと「ビラ」を作り学校内で撒きました。
 イラク戦争が始まった3月20日以後は、寝袋をもってアメリカ大使館前で泊まり込んで訴えたりしました。
 私はそれまで、おまわりさんは優しい人たちと思っていましたが、大使館前に座り込んでいる私たちを時には暴力を持って排除しようとしたのを見ました。
 私は、こんなふうに運動に関わる中で大人の人たちの話から、戦後の運動の歴史や、憲法というものの中味、憲法9条だけでなく13条や24条など私たちにとってとても大切なことを書いた条文がたくさんあることを知りました。
 中学3生から高校2年までの長期休みの時は沖縄の辺那古の海に行きました。そこで、体を張って基地を建設させない運動を続けている人たちを知り、私も仲間に入れてもらいました。ここでも国の人が住民を海に突き落とすという姿を見ました。
 私は、祖母が安堵した平和を守る憲法を、このままの姿で守りたいのです。
 戦争の加害者になって心の傷を負う人を作りたくない。
 安倍政権の憲法破壊をやめさせ、のびのびと安心して生きられる社会を残したい。
 安全保障法制によるアメリカとの一体化する政策は、自衛隊をこれまでの中立者から明確な敵兵と豹変させることであり、日本を一気に危険な状態へと陥れます。本裁判提起後である、7月2日、バングラデシュの首都ダッカで、テロ事件が起こり7名の日本人が犠牲となりました。私たち日本人は、安全保障法制を制定したことによって、ISのようなアメリカやその同盟国を標的とするテロリストにとっての、標的となりました。私たちの身には現実のテロの危険が迫っています。
 また、私たちの国家の基本法である憲法をかくも違法な手続きで破壊した安全保障法制は、私たちに憲法97条が定める「この憲法がさだめる基本的人権は侵すことのできない永久の権利として信託されたものある」ことを、改めて私の心に呼び起こしました。私が祖母から教えられた戦争を行わないかけがえのない憲法9条が、安全保障法制によって破壊されてしまったことは私の心に大きな傷跡を残しました。
 安倍政権が強引に成立させた安全保障法制によって、私が、平和の為には最善のものと考えている憲法9条が歪められています。私の中には、主権者としての意識、政府が憲法に従うべき立憲主義という考え方が、15年以上前に私の中に育まれ、これまで蓄積されてきました。しかし、安全保障法制によって私の考えがドンドン破壊され続け、絶望的な気持ちになっています。
 私は祖母から思いを託された者として平和憲法を踏みにじる安保法制を認めることはできません。自分が平和の中で安心して暮らしてきたことを、そのまま次世代に渡すために、安全保障法制を違憲とする原告となります。
                                        以上
 

原告意見陳述  辻  仁 美

 私は二人の子どもを育ててきました。娘は、この春、大学を卒業して社会人になりました。息子は大学2年生です。
 私は3.11の原発事故までは政治に特に関心を持ったことはなく、いわゆるノンポリでした。
 3.11以来、政府の出す情報がおかしいのではないかと思うことが重なり、放射能のことや食の安全に関しても、自分で考えて行動しなければと思うようになりました。当時子どもたちは高校生と中学生でしたので、子どもを守るための市民活動をするようになりました。その延長線上に、昨年7月に参加するようになった「安保関連法に反対するママの会」の活動があります。ママの会は「だれの子どももころさせない」を合言葉にしています。
 国民の8割が時期早尚と言っていたのにもかかわらず、国会で十分に審議が尽くされないまま、また立法事実のないままに安保法制が強行採決されたとき、私は、とうとう日本が海外に出かけて行って戦争できる国になってしまったのだと絶望感にさいなまれました。
 私たちの国は「政府の行為によって再び戦争の惨禍がおこることのないようにすることを決意したのではなかったのですか?」
 安倍首相は安保法制の成立を受けて「国民に丁寧に説明していく」といいましたが、安保法制が施行されたいまも、丁寧に説明してくれたことはあったでしょうか。
 政府への不信感から、私は、安保法制が施行されてから子どもを持つ母として不安でたまらなくなりました。
 原発だらけの日本へのテロ攻撃の心配も現実となってきています。今年3月22日のベルギーのテロ事件を知って、ますますその心配が高まっていたところ、今年の7月初めにはバングラデシュのダッカで明らかに日本人がターゲットになったテロ事件が起きました。ベルギー事件以上に、ダッカ事件は私に恐怖をもたらしました。安保法制によって、日本は外国から見れば、明らかに平和主義を捨てたとみられていることがはっきりしたからです。このようなことは国の内外を問わず、これからは私たちに起きるのだと思い知らされました。
 これで「安保法制は国民の生活や安全を守るために必要不可欠」なんていえるのでしょうか?
 先月、私は、沖縄の東村・高江のアメリカ軍ヘリパッド建設工事に反対している人々の応援に行きました。参議院選挙が終わるのを待っていたかのような、突然の工事の再開、そして7月22日に行われた本土の機動隊員によるあまりの横暴な強制排除の映像を見て激しいショックを受けました。だから私は、いてもたってもいられず、高江に行ったのです。
 そこで、私が自分の目で見て感じたこと、それは「権力の暴走した実際の姿」でした。本土の各地から動員された若い機動隊員たちが、非暴力で抗議行動をする現地の人々を羽交い絞めにして暴力的に排除する姿がありました。彼らは、法律を無視し自分たちのしたい放題の規制をしており、ここは本当に日本なのだろうかと恐ろしくなったほど、現場はまさに「無法地帯」でした。
 戦争できる国になるということは、こういった暴力が許される社会であり、それを現場で担わされるのが若者なのだと実感しました。大学生の半分が利息付の返済が必要な奨学金を借りているという現実に照らすと、息子のような若者を使って、数年先、本土でこの光景であるかもしれないと思うと身震いがしました。
 私たち普通の市民は、安保法制のもとであっても、この国で生きるしかありません。この社会が、言いたいことも言いにくくなって徐々に息苦しい社会に変化してきていることも実感しており、押し寄せる圧迫感と不安や恐怖と闘う毎日になっています。権力の暴走を止めるのが憲法であるはずなのに、憲法にその機能がなくなってしまったら私たちは何をよりどころに暮らしていけばいいのでしょうか。

 沖縄滞在中に、戦跡を訪ね戦争被害の体験者のお話も聞き戦争とはどういうものかわかりました。戦争をしない国を次世代へ繋いでいくことこそが今を生きる私たちの使命なのではないか。そのように思いました。私たちの国はいったいどこに向かおうとしているのですか?
 私は、子どもたちには世の中に役に立つ人に育てようと、しっかりと教育をしてきたつもりです。
 しかし、子ども達を戦争に加担させるために産み育ててきたのでは、断じてありません。武器輸出解禁や自衛隊海外派遣などのニュースは私を不安にさせます。平和に生きる権利を侵害されたと感じます。高江での体験で、さらに不安が増しました。精神的にも肉体的にも大きな負担と苦痛を与えられていると感じます。裁判所におかれては、どうぞ、この思いをお受け取り下さいますようにお願いいたします。
                                        以上
 

原告意見陳述  河 合 節 子

 戦争によって家族を殺され、傷つけられた被害者の一人として、この安保法制が強引に成立させられたこと、施行されたことで、私が受けた被害を訴えます。
 昭和20年3月10日の東京大空襲は、2時間あまりの間に東京下町の約10万人が焼き殺され、約100万人が罹災したというすさまじい戦争被害でした。私は、母親と2才、3才の幼い弟を焼夷弾の火炎の中で、失いました。父親は、大火傷を負いながらも、生き長らえましたが、住居、生活用品、食物すべてを失いました。家族全員を奪われた人々も沢山いました。家族も生活のすべも失った者たちが、その後を生きることは、本当に大変なことでした。   
 大火傷を負った父は、病院に収容されましたが、薬もなく火ぶくれになった皮膚に、油を塗る程度の劣悪な医療環境の中で、やっと命を取りとめました。しかし、眼瞼や唇は反り返り、耳たぶも融けてなくなり、顔中ケロイドの状態になりました。
 当時、誰もが貧しく、なにがしかの被害を負った生活でしたが、それでも父のケロイドの顔面は人が目を背けるようなひどい様子でした。父が奇異の目にさらされながらも、働いて、幼い私を育てることは、どんなに大変だったかと思います。父はそんな被害を受けながらも、妻や子を守ってやれなかったことに苦しんでいました。父の辛さ切なさが分かる年齢になり、私自身も胸のつぶれる思いです。
 戦時中、兵士も戦いましたが、一般市民も戦争にまき込まれました。自分達の住む街が戦場になったのです。近代戦においては、国のすべての住人が標的となりました。
 私の人生は、母や弟たちを失い、父を苦しめ続けた、そんな戦争の傷跡の中で形作られてきたのです。
 国内外に膨大な被害をもたらして終わった戦争の結果、「私達は、もう二度と戦争はしない」と決め、現在の憲法が制定されました。私に大きな重荷を負わせた戦争を「やってはいけないことだ」と国が認め、「二度と戦争しない」と私たちに約束してくれたのです。二度と私のような苦しみを子どもや孫たちが負うことはないと、その約束と引き換えに大きな心の痛みや苦しみをこらえて生きてきました。
 私は、いわゆる東京大空襲の被害者として国を相手に裁判を起こす原告になり、約7年間裁判をしました。でも、司法は、この戦争被害についての救済の必要性を判断せず、立法府にゆだねました。
 ところが、国の立法機関は、司法に指摘されたかつての戦争の後始末をするどころか、その反省さえ忘れてしまいました。
 この安保法制に、私達戦争体験者は70数年前の異常な日々のくらしの記憶を呼び覚まされ、更に、自分や家族の頭上に、火の玉となって戦争が降ってくると、怯えて暮らすことになりました。
 この法制の成立によって、再びかさぶたをはがされるように、生々しい心の傷としてすべてが蘇ってきます。亡くなった母の顔や、小さかった弟たち、そして苦しんで苦しんで私を育ててくれた父のあのケロイドの残った面影、すべてが今現実のものとして蘇ってくるのです。
 戦争する国になることは世界を平和にはしません。恨みが恨みを招き、やがてその恨みは自分たちの元に返ってきます。私は、9条の戦わない平和な日本を家族の犠牲と自分の人生の犠牲の引き換えに70年手にしてきました。この先人の犠牲を無にするようなことは絶対にやめてください。
 裁判所は私たちの被害をしっかり受け止めてください。
                                        以上
 

原告意見陳述  新 倉 裕 史

 神奈川県横須賀市の南部、長沢に暮らしている新倉裕史と申します。住まいは、在日米海軍横須賀基地から約10キロメートルの距離にあります。
 父親が米軍基地で働いていたため、基地の存在は幼いころから身近に感じていました。慣れ親しんでいた基地ですが、成人するにつれてその存在に疑問を持つようになり、現在、小さな市民運動に参加し、基地の存在と市民の平和な暮らしについて、考え続けています。
 安保法制が成立しました。基地の街に暮らす市民として、安保法制の成立は、大きな不安材料です。本日、この場で証言する機会を頂きましたので、基地の街の住民が抱いている不安について、証言できればと思います。

 最初に、米海軍横須賀基地に配備されている米艦船が、実際にしてきたことについて報告します。
 横須賀基地を母港とする空母機動部隊は、湾岸戦争、イラク戦争で、先制攻撃の中軸を担ってきました。イラク戦争では横須賀母港の2隻のイージス艦が、巡航ミサイル・トマホークを発射して戦争が始まっています。先制攻撃のあと横須賀母港の空母キティーホークの艦載機が5000回以上の攻撃を行いました。
 イラク戦争の犠牲者は19万人。その7割の13万4000人が戦闘に巻き込まれて死亡した一般市民といわれています。アメリカ軍兵士の戦死も4500人を超え、除隊後の自殺者や戦争後遺症に苦しむ元兵士の多さが深刻な問題となっています。
 開戦理由とされた、フセイン政権による「大量破壊兵器の保有」も、「テロリストをかくまっている」も事実ではなかったことが、米国自身の調査で明らかになっています。
 今年7月には、同盟軍であったイギリスの独立調査委員会(チルコット委員会)も、「侵攻は法的根拠を十分に満たしていたと言うにはほど遠い」と調査報告書を発表しました。

 基地の街に暮らす市民として心に重くのしかかるのは、こうした国際法に反した先制攻撃による軍事力の投入が「平和」を遠ざけ、より大きな混乱を作り出りだしているという現実です。歴史学者のエマニュエル・トッドは「ISを生んだのは、アメリカのイラク侵攻だ」(朝日、2015.2.19)と指摘します。欧米諸国が過去数十年にわたって繰り返してきた空爆や地上戦が、夥しい数の中東の市民を犠牲にしてきたことが、今日の「テロの脅威」を呼び込んでいます。
 こうした現状を冷静に見れば、安保法制の成立によって、私たちが暮らしている横須賀の米軍と自衛隊が、より同盟化を強め、一緒になって、新たなテロを生み出すことにつながる軍事行動を起こすことになりはしないかと、心から心配しています。

 米軍基地自身が、随分前から「テロ」を現実問題と考えていることを、私たちは知っています。
 2001年9月11日、アメリカで発生した「同時多発テロ」に関連して、在日米軍基地がとった対応をみれば、そのことは明らかです。
 9.11「テロ」の直後、米陸軍相模補給廠の入口には土嚢が積まれ、その上部には機関銃が据え付けられました。重武装の兵士が構える銃口は市民に向けられていました。
 横須賀基地の正面ゲートでは、基地で働く人々の通勤時には、弁当の中身や着替えの下着までがチェックされ、人権侵害の指摘が新聞記事になりました。
 9.11の2日前の「星条旗新聞」は、1面で「テロに注意、韓国と日本の米軍基地が攻撃の対象に」という警告記事を掲載していました。
 そして、空母キティーホークは、テロを恐れて横須賀基地から避難しました。このとき、横須賀の海上自衛隊の2隻の護衛艦は、集団的自衛権の行使というべき、米空母の警護をすでに行っています。14年前のことです。安保法制の成立によって、こうした軍事行動がより日常的になれば、米軍自身が自覚している横須賀基地への「テロ」の脅威は、さらに増すものと思います。
 行政も、「テロ」問題を現実的な問題として扱っています。
 横須賀市の「国民保護計画」(2011年3月)は第1編「総論」、第5章「市国民保護計画が対象とする事態」のなかで、「基地等の機能発揮阻止のため、これらの攻撃が想定される」と位置づけています。
 さらに横須賀市の「国民保護計画」は、こうした攻撃には、「武力攻撃原子力災害」が含まれ、「米海軍の原子力艦が横須賀基地へ寄港することから、原子力艦の武力攻撃原子力災害に対しても対処を定める必要があるという特殊な地域特性を持っている」(第3編、第4章)と書きます。

 2008年から横須賀に配備された原子力空母は、一時寄港ではなく、横須賀基地で定期修理も行い、平均的な滞在日数は200日前後。加えて、原子力潜水艦の寄港もあり、年に300日近くは、横須賀基地に原子力艦が停泊しているのが現状です。こうした原子力艦が攻撃され、原子炉が破壊されれば、取り返しのつかない惨事となります。
 その被害は、首都圏全域に広がると、原子力資料情報室のシミュレーション結果は警告します。
                                        以上
 

(付記その1 東京・差止訴訟 第1回口頭弁論について)
 「安保法制違憲訴訟の会」が、4月26日に東京地方裁判所に提起したもう1つの訴訟(安保法制違憲・差止請求訴訟)の第1回口頭弁論が9月29日(木)午後2時から、今回の国賠請求訴訟と同じ、同地裁の103号法廷で開かれます(同地裁民事第2部に系属)。
 まだ、第1回口頭弁論の進行予定などは聞いていませんが、原告の志田陽子さん(武蔵野美術大学教授・憲法学)による意見陳述はきっとあるに違いない、と密かに期待しているのです。
差止請求訴訟「訴状」
第1回口頭弁論フライヤー

(付記その2 マガジン9に掲載された原告の声)
 マガジン9の中に、「注目!安保法制違憲訴訟」というコーナーが設けられ、ほぼ月に1本のペースで新たな原稿が追加されていっています。
 これまでお2人の原告が原稿を執筆されています。こちらも是非お読みください。
2016年6月29日 UP
脱線国家を、道に戻そう~志田陽子(安保法制違憲訴訟原告)
2016年7月13日 UP
隣人として~崔 善愛(安保法制違憲訴訟原告)

(弁護士・金原徹雄のブログから)
2015年9月27日
安保法制違憲訴訟を考える(1)~小林節タスクフォースへの期待と2008年名古屋高裁判決

2015年9月30日
安保法制違憲訴訟を考える(番外編)~法律の公布ということ
2015年10月3日
安保法制違憲訴訟を考える(2)~『今、改めて「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」判決文を読む』を弁護士にこそ推奨したい
2015年10月27日
安保法制違憲訴訟を考える(3)~「5党合意」は違憲論にどんな影響があるのか?(検討用メモ)
2015年11月25日
珍道世直さんの新たな闘い~「閣議決定・安保法制違憲訴訟」を津地裁に提起
2015年12月2日
安保法制違憲訴訟を考える(4)~伊藤真弁護士(安保法制違憲訴訟の会)による決意表明(11/19@国会前)と小林節氏の現時点(11/21@和歌山県田辺市)での見解
2015年12月23日
「安保法制違憲訴訟の会」による記者会見(12/21)と原告募集のご紹介
2016年3月29日
安保法制施行の日に「安保法制違憲訴訟」を思う
2016年4月21日
いよいよ4月26日「安保法制違憲訴訟」を東京地裁に提起~4/20決起集会から
2016年4月27日
安保法制違憲訴訟(4/26東京地裁に提訴)の訴状を読んでみませんか?
2016年6月4日
安保法制違憲訴訟を地方から起こす~「安保法制違憲訴訟おかやま」の動き
2016年6月18日
「安保法制違憲訴訟おかやま」提訴(6/17)~これで全国6地裁に(付・動画4本雑感) 
2016年7月27日

安保法制違憲訴訟~昨日(7/26)の信州訴訟(長野地裁)で8番目

(付録)
『世界』 作詞・作曲:ヒポポ田 演奏:ヒポポフォークゲリラ
 

有識者共同声明「沖縄の人権・自治・環境・平和を侵害する不法な強権発動を直ちに中止せよ!」への賛同をお願いします

 今晩(2016年9月9日)配信した「メルマガ金原No.2564」を転載します。

有識者共同声明「沖縄の人権・自治・環境・平和を侵害する不法な強権発動を直ちに中止せよ!」への賛同をお願いします

 本日(9月9日)午後、参議院議員会館において、「普天間・辺野古問題を考える会」が主催して、「〈共同声明〉沖縄の人権・自治・環境・平和を侵害する不法な強権発動を直ちに中止せよ!」の発表・記
者会見が行われました。
 広くインターネットを通じて賛同署名を求めているところから、昨年4月1日に発表された
声明「辺野古米軍基地建設に向けた埋立工事の即時中止を要請する!」に続く第2弾という位置付けであろうと思います。
 また、この間、昨年の10月26日には、有識者24名の連名による声明「私たちは、翁長沖縄県知事による辺野古米軍基地建設の埋め立て承認取り消しを断固支持します!」も発表されていますから(※記者会見動画)、これも一連のものと考えれば、今日の声明は第3弾という見方もできるでしょう。

 以下に、沖縄タイムスの記事から一部引用します。

沖縄タイムス+プラス 2016年9月9日 18:46
辺野古新基地・高江ヘリパッド中止を 有識者らが抗議声明

(抜粋引用開始)
 声明は、復帰後も続く米兵がらみの事件事故や高江などでの機動隊による強圧的な排除を批判し「これ
以上、基本的人権のじゅうりんを続けさせてはならない」と訴えた。
 さらに「沖縄の自治と自立の侵害は許されない」「貴重な自然環境を破壊してはならない」、米軍基地の強化による「沖縄、日本、アジアの平和を脅かしてはならない」と、4つの観点を指摘し、「沖縄に対
する安倍政権の強権発動に強く抗議し、直ちに中止するよう求める」としている。
 会見には賛同する8人の学者が出席。宮本氏(金原注:宮本憲一大阪市立大学名誉教授)は「沖縄で起こっていることは平和、環境、人権、自治の問題で沖縄だけの問題ではない。日本人全体が政権を批判し、沖縄に平和をもたらさないといけない」と強調。先週訪ねた高江で機動隊に拘束された香山リカ立教大教授も「東京だったら大問題になることが沖縄では見逃されている。人権問題、沖縄への差別と認識し問
題にするべきだ」と話した。
 宮本氏らは昨年4月にも辺野古新基地建設の即時中止を求める声明を発表し、全国から8千人以上の賛
同署名を集め政府に提出。今回も10月10日までに署名を集めて政府に要請する。
 声明文や賛同署名は以下のURLから。
 
http://goo.gl/51odu3
(引用終わり)

 上記沖縄タイムスの記事の末尾で紹介されているURL(Change.org)から賛同署名が出来ます。私も
署名を済ませました。ご協力いただける方は是非よろしくお願いします。
 以下に、共同声明を全文転載します。

<有識者共同声明>

沖縄の人権・自治・環境・平和を侵害する不法な強権発動を直ちに中止せよ!

 私たちは、沖縄の辺野古米軍基地建設をめぐる問題に重大な関心を寄せ、昨年(2015年)4月1日付けで「<緊急声明>辺野古米軍基地建設に向けた埋立工事の即時中止を要請する!」を公表し、全国から寄せられた8000名を超える賛同署名と併せて、同年4月27日、内閣府に直接提出した。以来、1年以上が経過しているが、その後も安倍政権は、私たちの要請を完全に無視したまま、辺野古米軍基地建設に向けた強権的な対応を取り続けている。

 他方、今年6月の沖縄県議会選挙、さらには7月の参議院選挙において、辺野古米軍基地建設に強く反対する沖縄県民の総意が、再三にわたり、きわめて明確な形で示されている。とりわけ参議院選挙における沖縄選挙区では、辺野古米軍基地建設に反対する候補が大差で当選し、沖縄担当の現職大臣を落選させた。これで、衆参両院とも沖縄の選挙区選出での辺野古基地建設賛成議員は一人もいなくなった。名護市長選挙、沖縄県知事選挙の結果とも合わせ、沖縄県民の意思は、これ以上明らかにしようがないほど、明らかである。

 にもかかわらず、参議院選挙の直後、安倍政権は、県外からの機動隊500人を投入して、米軍北部訓練場がある東村高江でのヘリパッド(オスプレイ着陸帯)建設工事の再開を強行し始めた。高江は人口150名ほどの小さな集落で、既設の2ヶ所を含め、6カ所ものヘリパッドに囲まれることになるため、地元では粘り強い反対運動が展開されてきたところである。すでに完成したN4というヘリパッドには頻繁にオスプレイが飛来して低空飛行が繰り返され、夜間の10時過ぎにも実施される飛行訓練によって地元住民の安眠が奪われ、暮らしが脅かされている。加えて、生活道路である県道70号の封鎖、反対運動のテント撤去、立木無許可伐採、金網設置などが矢継ぎ早に強行され、あたかも「緊急事態条項」を先取りする無法な工事が強権的に進められている。高江の工事は、辺野古基地建設と同じく、1996年の日米SACO合意での北部訓練場返還に伴い計画されたものだが、東村議会、沖縄県議会の反対決議にもかかわらず強行されたことは、「地方創生」といいながら地方自治を無視する安倍政権の尊大な態度を鮮明に表しており、辺野古工事強行への布石ともとれる。こうした態度と行為は、沖縄県民が示した明瞭な意思を無視し、それに挑戦し、侮辱するものである。およそ民主主義にもとづく法治国家にあるまじき強権発動だといわざるをえない。

 私たちは、日本およびアジアの未来にかかわる重大な問題として、この間の事態を深刻に憂慮している。とりわけ、以下に述べる4つの観点から、沖縄に対する安倍政権の強権発動に強く抗議し、このような対応を直ちに中止することを求め、ここに、改めて<有識者共同声明>を公表するものである。

1.これ以上、基本的人権の蹂躙を続けさせてはならない

(1)沖縄では、1972年の日本復帰以降に限っても、米軍基地関係者による刑法犯罪事件が6000件近くも多発してきた。これに追い討ちをかけるように、去る2016年5月、米軍属による残虐な女性暴行殺人事件が新たに発覚した。米軍基地の存在が、沖縄の人々の安全と基本的人権を脅かしている。翌6月19日には、那覇市内で県民大会が開かれ、6万5000人もの人々が集まり、今後、このような痛ましい事件がなおも引き起されることがないよう、強く抗議している。

(2)この間、辺野古米軍基地建設反対、および、高江ヘリパッド建設反対の抗議行動を行う市民に対しても、県外から動員された機動隊員による強圧的な排除行為によって多数の怪我人が続出している。これ以上、こうした沖縄での基本的人権の乱暴な蹂躙を続けさせてはならない。

2.沖縄の自治と自立の侵害は許されない

(1)2015年10月13日、翁長沖縄県知事は、「第三者委員会」による検証結果報告書を受けて、「公有水面埋立法」にもとづく仲井真前知事による辺野古埋立承認の取消しを発表した。これは、同法および「地方自治法」にもとづく翁長県知事の当然の権限行使である。ところが、これに対し、防衛省沖縄防衛局が「私人」になりすまして「行政不服審査法」にもとづく「承認取消し」の取消しを求める審査請求、および、「承認取消し」の効力を止める執行停止の申立てを行い、国土交通大臣が即座に執行停止を決定するという異例の事態になった。その後、国と県が争う3つの訴訟と「国地方係争処理委員会」を舞台とした攻防が続いてきたが、一時的な和解・協議のあと、去る7月22日、安倍政権は、さらに翁長沖縄県知事を相手取って違法確認訴訟を起こすに至っている。この判決が9月16日に予定されているが、裁判所には、戦後憲法で保障された地方自治の本旨、および、国と地方の対等な関係と国による違法・不当な関与に対する地方の不服争訟権を明示した1999年の「地方自治法」改正の主旨を踏まえた適正な判断が求められている。

(2)去る8月3日に安倍政権の第3次改造内閣が発足したが、その後の記者会見で、続投となった菅官房長官は「基地問題の進捗が沖縄関係予算に影響する」と述べ、新たに沖縄担当となった鶴保大臣もそれに同調する発言を行った。これは、いわゆる「リンク論」だが、地方自治と地域の自立的発展を保障すべき財政規律を根幹から揺るがすものである。ちなみに「沖縄振興法」では「沖縄の自主性を尊重しつつ総合的かつ計画的な振興を図る」とされており、同法の趣旨にも反する暴言である。

3.貴重な自然環境を破壊してはならない

(1)辺野古米軍基地建設に向けて埋立が進められようとしている辺野古岬・大浦湾は、沖縄県の環境保全指針で「自然環境の厳正なる保護を図る区域」(ランクⅠ)とされ、ジュゴンをはじめ絶滅の恐れがある多様な生物種が生息する海域であり、世界自然遺産の候補にもなっている。ちなみに、すでに世界自然遺産となっている知床で確認されている生物は約4200種であるのに対し、辺野古岬・大浦湾で確認されている生物は絶滅危惧種262種を含む5800種以上である。国際自然保護連合(IUCN)は2000年ヨルダンのアンマンで開いた世界自然保護会議で、「沖縄島およびその周辺のジュゴン、ノグチゲラ、ヤンバルクイナの保全」勧告を採択している。このようなかけがえのない貴重な自然環境は後世に残すべきものであり、無謀に破壊する愚行を絶対に許すことはできない。

(2)ヘリパッド建設工事が強行されている東村高江は、「やんばるの森」の一角にあり、沖縄島北部の国頭山地に広がる亜熱帯の豊かな自然環境を有している。そこには、ヤンバルクイナをはじめ、琉球列島にのみ生息し進化してきた固有種が多数見られ、独特の自然生態系が形成され、生物多様性の保全においてもきわめて重要な地域である。このような貴重な自然環境を破壊する愚行は、直ちに中止すべきである。

(3)上記の埋立工事と建設工事に関する「環境アセスメント」は、きわめて杜撰な手続きにもとづく「欠陥アセス」であり、到底、正当なものとは認めがたい。本来の適正な手続きにもとづく環境アセスメントのやり直しが不可欠であり、少なくともそれ以前には、すべての工事を中止するのが当然である。

4. 沖縄、日本、アジアの平和を脅かしてはならない

(1)現在、日米安全保障条約にもとづく在日米軍基地の74%が、国土面積の0.6%にすぎない沖縄に集中している。しかも、その7割が海兵隊の基地である。なぜ、沖縄に海兵隊を集中させる必要があるのか。これまで日本政府は「抑止力」「地理的優位」「一体的運用」などを根拠に挙げてきたが、それらはいずれも説得力に欠ける。実際、2012年12月、当時の森本敏防衛大臣は、退任時の記者会見で、「(普天間の移設先は)軍事的には沖縄でなくても良い」と発言している。

(2)辺野古米軍基地建設、および、高江ヘリパッド建設は、世界一危険な普天間飛行場の代替移設や米軍北部訓練場の一部返還に伴う再編等を建前としている。だが、実態的には、沖縄での米軍基地の一層の増強と永久固定化が進みつつある。こうした在日米軍基地強化の動きは、沖縄、日本、そしてアジアにおける軍事的な緊張をさらに高め、私たちが強く求めている平和を根底から脅かすものとなる。これからの21世紀には、戦争放棄を掲げた戦後日本の平和憲法の原点に立ち返り、在日米軍基地の縮小、とくに沖縄での過重な基地負担の根本的な解消に向けた国民的な議論と合意づくりを早急に推し進め、沖縄県民の意を体してアメリカ政府と交渉していくことが求められている。

2016年9月9日

<有識者共同声明>への賛同呼びかけ人(連名)(50音順)

青木克明(広島医療生協副理事長),青井未帆(学習院大学教授),姉歯曉(駒澤大学教授),東幹夫(長崎大学名誉教授),阿部治(立教大学教授),有本信昭(岐阜大学名誉教授),淡路剛久(立教大学名誉教授),碇山洋(金沢大学教授),池享(一橋大学名誉教授),池内了(名古屋大学名誉教授),池田清(神戸松蔭女子学院大学教授),石川康宏(神戸女学院大学教授),礒野弥生(東京経済大学教授),伊藤武彦(和光大学教授),稲村充則(埼玉協同病院医師),井上隆義(岩手大学名誉教授),井上博夫(岩手大学名誉教授),井上真(東京大学教授・早稲田大学教授),井原聰(東北大学名誉教授),今井晋哉(徳島大学准教授),今岡良子(大阪大学准教授),五十子満大(元東京都立大学教員),岩井浩英(鹿児島国際大学教授),岩佐和幸(高知大学教授),岩橋法雄(琉球大学名誉教授),上園昌武(島根大学教授),上間陽子(琉球大学教授),宇民正(元和歌山大学教授),内橋克人(評論家),内山昭(成美短大学長),浦田賢治(早稲田大学名誉教授),遠藤誠治(成蹊大学教授),大江健三郎(作家),大田直史(龍谷大学教授),大矢正人(長崎総合科学大学名誉教授),岡田健一郎(高知大学准教授),岡田知弘(京都大学教授),岡田正則(早稲田大学教授),岡田洋一(鹿児島国際大学准教授),岡本茂樹(医療法人おかもと小児科クリニック院長),岡本祥浩(中京大学教授),小沢隆一(東京慈恵会医科大学教授),大島堅一(立命館大学教授),大西智和(鹿児島国際大学教授),賀数清孝(琉球大学名誉教授),片山和希(名古屋経済大学准教授),勝俣誠(明治学院大学名誉教授),加藤節(成蹊大学名誉教授),紙野健二(名古屋大学教授),亀山統一(琉球大学助教),加茂利男(大阪市立大学名誉教授),香山リカ(立教大学教授),河上茂(日本科学者会議東京支部幹事),川瀬憲子(静岡大学教授),川瀬光義(京都府立大学教授),川原紀美雄(長崎県立大学名誉教授),菊地裕幸(鹿児島国際大学教授),君島東彦(立命館大学教授),草刈英榮(千葉大学名誉教授),栗田禎子(千葉大学教授),河野仁(兵庫県立大学名誉教授),古関彰一(独協大学名誉教授),小原隆治(早稲田大学教授),小林武(沖縄大
学客員教授),小林芳正(京都大学名誉教授),小淵港(愛媛大学名誉教授),小堀勝充(医療生協さいたま熊谷生協病院院長),小森陽一(東京大学教授),齋藤純一(早稲田大学教授),斉藤隆仁(徳島大学教授),斎藤正美(北見工業大学教授),榊原秀訓(南山大学教授),坂本恵(福島大学教授),桜井国俊(沖縄大学名誉教授),桜田照雄(阪南大学教授),佐々木寛(新潟国際情報大学教授),佐々木雅幸(大阪市立大学名誉教授),佐藤保彦(日本科学者会議埼玉支部幹事),塩崎賢明(立命館大学教授・神戸大学名誉教授),重松公司(岩手大学教授),重森曉(大阪経済大学元学長),白藤博行(専修大学教授),菅野礼司(大阪市立大学名誉教授),鈴木勝久(横浜国立大学名誉教授),関耕平(島根大学准教授),宗川吉汪(京都工芸繊維大学名誉教授),高石光雄(埼玉協同病院院長補佐),醍醐聰(東京大学名誉教授),高作正博(関西大学教授),高塚龍之(岩手大学名誉教授),高橋哲哉(東京大学教授),高原孝生(明治学院大学教授),高山新(大阪教育大学教授),高山進(三重大学名誉教授),武井隆明(岩手大学教授),武田晃二(岩手大学名誉教授),武田真一郎(成蹊大学教授),立花敏(筑波大学准教授),田中稔(岩手大学名誉教授),谷口正厚(沖縄大学名誉教授),種倉紀昭(岩手大学名誉教授),千葉眞(国際基督教大学教授),辻忠男(埼玉協同病院部長),蔦川正義(佐賀大学名誉教授),槌田洋(元日本福祉大学教授),鶴田廣巳(関西大学教授),寺西俊一(帝京大学教授・一橋大学名誉教授),土井妙子(金沢大学教授),徳田博人(琉球大学教授),鳥畑与一(静岡大学教授),豊島耕一(佐賀大学名誉教授),長尾演雄(横浜市立大学名誉教授),中川武夫(中京大学名誉教授),中川直哉(電気通信大学名誉教授),中杉喜代司(弁護士),中西新太郎(横浜市立大学名誉教授),中野晃一(上智大学教授),中道一心(同志社大学准教授),中村寿子(阪南大学非常勤講師),中本正一朗(元地球科学技術総合推進(機構主任研究員),中山智香子(東京外国語大学教授),名嶋義直(琉球大学教授),西川潤(早稲田大学名誉教授),西谷修(立教大学教授),西山勝夫(滋賀医科大学名誉教授),野底武浩(琉球大学教授),長谷川公一(東北大学教授),原科幸彦(千葉商科大学教授・東京工業大学名誉教授),樋浦順(岩手大学名誉教授),土方直史(中央大学名誉教授),人見剛(早稲田大学教授),藤井伸生(京都華頂大学教授),保母武彦(島根大学名誉教授),本多滝夫(龍谷大学教授),前田耕治(京都工芸繊維大学教授),前田定孝(三重大学准教授),前田哲男(評論家),増澤誠一(日本科学者会議東京支部幹事),増田剛(埼玉協同病院院長),増田善信(日本科学者会議会員),松田正久(愛知教育大学前学長・名誉教授),松野周治(立命館大学名誉教授),松本滋(兵庫県立大学名誉教授),間宮陽介(京都大学名誉教授),丸山重威(ジャーナリスト・元関東学院大学教授),宮入興一(愛知大学名誉教授),三宅明正(千葉大学教授),宮﨑礼二(明海大学准教授),宮田惟史(駒澤大学准教授),宮本憲一(大阪市立大学名誉教授・滋賀大学名誉教授),三村和則(沖縄国際大学教授),三好永作(九州大学名誉教授),村上博(広島修道大学教授),村上祐(岩手大学名誉教授),森明香(高知大学助教),森原康仁(三重大学准教授),森裕之(立命館大学教授),諸富徹(京都大学教授),矢ヶ崎克馬(琉球大学名誉教授),八幡一秀(中央大学教授),山川充夫(帝京大学教授・福島大学名誉教授),山口裕之(徳島大学准教授),山崎健(新潟大学名誉教授),山下英俊(一橋大学准教授),山下竜一(北海道大学教授),山田昌樹(秩父生協病院院長),雪田慎二(埼玉協同病院副院長),除本理史(大阪市立大学教授),吉尾寛(高知大学教授),横田茂(関西大学名誉教授),横山英信(岩手大学教授),和田春樹(東京大学名誉教授),渡邉知行(成蹊大学教授)(計171名,2016年9月8日現在)
 
金原注:声明の末尾の一文「沖縄県民の意を対してアメリカ政府と交渉していくことが求められている。」の「対して」は、明らかに「体して」とすべきものと考えられますので、私の判断で修正しました。

あれから1年、9月19日の過ごし方~和歌山では午前10時に和歌山城西の丸広場に結集を!

 今晩(2016年9月8日)配信した「メルマガ金原No.2563」を転載します。

あれから1年、9月19日の過ごし方~和歌山では午前10時に和歌山城西の丸広場に結集を!

 まもなく、あれから1年が経とうとしています。今年の9月19日を、全国各地の皆さんはどういう風に迎えられるのでしょうか?
 ・・・と書き出せば、当然、「和歌山ではこのような企画を用意しており、私も参加予定です」と続くことが期待されると思いますし、実際、そうしようとは思っているのですが、あまり書くことがないのですよね。
 ただ、今のところ、うちうちのMLに何人かが見るに見かねて(?)書き込んだり呼びかけたりしているだけで、実際の中身がどうなるのか、はたして何人参加できるのかさっぱり分からない状況で、私もメルマガ(ブログ)で呼びかけるのは躊躇していたのですが(開催できずに中止となっても困る)、「もう待っている時間はない」と判断し、とにかく「9月19日の午前10時、和歌山城西の丸広場に集まれる人は集まってください!」と呼びかけることにしました。
 まだ、公式チラシも出来ておらず(最後までないかもしれません)、一部の団体が「部内用」に作った暫定チラシしかないのですが(それも一部修正の必要が指摘されています)、今にいたってもそれしか紹介できる材料がないので、その文字情報を転記させてもらいます。
 
採決強行から1年
違憲立法・安全保障法制(戦争法) ただちに廃止!
和歌山アピール行動
日時 2016年9月19日(祝・月)午前10時~正午
場所 和歌山城 西の丸広場
内容(検討中)
・呼びかけ団体によるスピーチ他
・アピール行進
呼びかけ団体(予定・順不同)
 9条ネットわかやま
 安全保障関連法制の廃止を求める和歌山大学有志の会
 戦争をさせない和歌山委員会
 ワカケン
 平和と憲法を守りたい市民の声
 安保関連法に反対するママの会@わかやま
 憲法9条を守る和歌山弁護士の会
 憲法九条を守るわかやま県民の会

 呼びかけ団体(予定)をご覧いただければ分かると思いますが、昨年の9月23日に「安保法制(戦争法)廃止を求める9・23和歌山集会」を呼びかけた9団体の枠組(今回は誰も参加できないということで名前を出すことを遠慮したところもありますが)で開催を目指すものです。
 けれども、もともと、9団体の緩やかなネットワークで始まった枠組みであり、実行委員会形式にして事務局を設けるというようなこともしていませんでしたから、「9月19日をどうする?」ということも、ごく一部の個人が問題意識を持って提案し、ようやく「そうだ、やらなければ」と目が覚めたという状況でしょう。
 しかも、三連休の最終日という日程と、声をかけ始めた時期が遅かったこともあり、既に他の用事が入ってしまっている人も少なくないようです。
 ということで、はなはだぱっとしないお知らせで、私が書くのをためらっていた理由もご理解いただけることと思います。
 けれども、「やらないわけにはいかない」ということについては、大方のご賛同が得られるものと思いますので、何とか時間の都合のつく方は、9月19日(月・祝)午前10時に西の丸広場で会いましょう!

CIMG4554 誰がスピーチするのか、何時にアピール行進に出発するのか、デモコースはどうするのか、私の知る限
り、多分何も決まっていません。
 そういうことも含めて、とにかく「10時に西の丸広場にお越し下さい」と言うしかありません。
 もちろん、集まる理由は、憲法違反の安保関連法は絶対に認めず、廃止に追い込むという私たちの決意を、目に見える形で社会にアピールすることに尽きます。
 参院選とその後の一種の選挙疲れのために、「9月19日をどうするか」という検討が出遅れてしまったことは否めません。これは今後の教訓ですね。

 最後に、このメルマガ(ブログ)を目にした和歌山の人々にもう一度訴えたいと思います。既に他の用事が入ってしまっていれば仕方がありませんが、今からでも日程調整が可能な方は、是非とも9月19日は西の丸広場に集ってください。よろしくお願いします。

※上に掲載した写真は、昨年9月23日に実施した「安保法制(戦争法)廃止を求める9・23和歌山集会」後のアピールパレードの1コマです。1年前の参加者のうち、どれだけの人が9月19日に来てくれるかなあ。 

(付記その1 東京では)
 9月19日(月・敬老の日)15:30~17:00、国会正門前において、「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」が呼びかける「強行採決から1年!戦争法廃止!9.19国会正門前行動が実施されます。
 チラシには、以下の3つのアピールが掲載されています。
「戦争法強行採決から1年、私たちはあきらめない!忘れない!戦争法は廃止を!」
「南スーダンPKOでの「駆け付け警護」「宿営地共同防護」は戦争だ!」
「沖縄の高江オスプレイパッド建設中止、辺野古新基地建設計画は断念を!」

(付記その2 名古屋では)
 愛知県では、昨年の4月、「安倍内閣の暴走を止めよう共同行動」が結成され、安保関連法が成立した後も、その枠組を維持して行動を続けており、9月19日には「安倍内閣の暴走を止めよう!あいち集会 9・19戦争法強行1周年 大集会&大デモ」が開催されます。公式ブログから引用してみます。
(引用開始)
2016年9月19日(祝・月)
 13:30~ 白川公園にて大集会  
 14:30~ 名古屋市内中心部を大デモ
1年たって危機は倍増
怒りも倍増
私たちは屈しない
改憲阻止への怒りは
ますます燃え上がっている
安倍政権打倒!改憲阻止!
 辺野古新基地反対!高江を守れ!
 本当の自由と民主主義~人間らしい暮らしを取り戻そう
 抗議の声を上げましょう~みんなが集えば止められる
主催:安倍内閣の暴走を止めよう共同行動 
(引用終わり)
 愛知県で「大集会」とか「大デモ」が呼びかけられると、本当に1,000人単位の、文字通りの「大集会」や「大デモ」になるという実績を知っているだけに、9月19日にも期待が高まりますね。
 なお、公式ブログに掲載された「安倍内閣の暴走を止めよう共同行動実行委員会」のチラシを眺めてみると、囲みの呼びかけが2つあることに気がつきます。
 1つは、9月3日に行われた猿田佐世弁護士(新外交イニシアティブ事務局長)の講演会「沖縄と日本の外交」の案内です。この講演会の模様はIWJによる中継録画がアップされており、全編視聴できます。
 その開会挨拶で中谷雄二弁護士が話されているのを聞いて知ったのですが、「安倍内閣の暴走を止めよう共同行動」では、昨年の4月に発足した当初から、戦争法阻止とともに、辺野古新基地建設反対を掲げてきたということでした。
 9月19日の行動のための国会前と名古屋のチラシには、いずれも高江ヘリパッド建設・辺野古新基地建設に反対するアピールが書かれていますよね。
 戦争法制と沖縄の問題は一体であって分離はできない以上、これは当然の視点なのですが、今までの和歌山での安保法制反対運動にこの認識が不足していたことは否めません。これもまた、教訓としなければと思いました。
 そして、チラシに掲載されたもう1つの呼びかけは、「各地で学習会・ミニ集会を開きませんか~弁護
士が交通費+薄謝で出向きます!」というもので、連絡先は自由法曹団会員事務所となっています。
 これも、私がかねてから絶対に必要と考えていることなので、「我が意を得たり」という思いです。愛
知県での反応はどうなのか、気になります。

(付記その3 和歌山でのその他の取組予定)
 和歌山では、「9月19日」以外にも多彩な取組が予定されています。私の第2ブログに9月以降の予定で私が日程を把握できているものをまとめていますので(2016年9月以降の和歌山での取組予定)、ご活用ください。
 

(付録)
『この島~憲法9条のうた~』 作詞・作曲:烏野政樹 演奏:m&n(現 Crowfield)
                                                                          

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