今晩(2016年12月10日)配信した「メルマガ金原No.2656」を転載します。

司法に安保法制の違憲を訴える意義(6)~東京・国家賠償請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告による意見陳述

東京地方裁判所(民事第一部) 
平成28年(ワ)第13525号 安保法制違憲・国家賠償請求事件
原告 堀尾輝久、辻仁美、菱山南帆子ほか454名
被告 国


 昨日の原告代理人3名の陳述に引き続き、去る9月2日(金)、東京地方裁判所で開かれた安保法制違
憲・国家賠償請求訴訟の第2回口頭弁論から、今日は3名の原告による意見陳述をご紹介します。
 意見陳述されたのは、
〇本望隆司さん 元船員として
〇牟田満子さん 長崎原爆被爆者として
〇安海和宣さん キリスト教会の牧師として
でした。
 
 被爆者あるいは宗教者としての意見にも胸を打たれましたが、本望さんの陳述には、多くのことを教えられました。
 第二次世界大戦中、輸送船として徴用された日本の民間船舶が、ろくな護衛もない中、米軍(主として潜水艦)による攻撃の標的となり、次々と海の藻屑と消えたことはよく知られていると思います(そうで
もないか)。
 例えば、「公益財団法人日本殉職船員顕彰会」ホームページの中の「太平洋戦争と戦没船員」のページ、「全日本海員組合」が運営する「戦没した船と海員の資料館」ホームページなどをご参照ください。

 ところで、本望さんの陳述の中で「2016年には軍需物資の海上輸送に、防衛省と船舶会社との間で、既に、2隻のチャーター契約を結んでいます。」とあるのは、防衛省が進めている「民間船舶の運航・管理事業」のことです。
 今年の3月15日付で、防衛大臣が「民間船舶の運航・管理事業 事業契約の内容の公表について」いう文書を公表しています。
 それによると、選定事業者の商号は「高速マリン・トランスポート株式会社(代表取締役 万願寺 拓秋)」、契約期間は「平成28年3月11日から平成37年12月31日まで」、契約金額は「24,964,958,057円(税込)」とあります。
 ちなみに、この「民間船舶の運航・管理事業」の事業目的は、以下のように規定されています。

民間船舶の運航・管理事業 実施方針

(引用開始)
 国は、一層厳しさを増す安全保障環境の下、実効性の高い統合的な防衛力を効率的に整備し、柔軟かつ即応性の高い統合運用の体制を構築する必要があり、海上輸送においては、迅速かつ大規模な輸送・展開
能力を確保し、所要の部隊を機動的に展開・移動させることが求められている。
 特に、災害時、緊急時等における機動的な展開には、常時運航可能な体制確保が必要であるとともに、自衛隊の輸送能力だけでは不足する事態も想定されることから、人員・車両・物資等を海上輸送できる複
数の民間フェリーの早期確保が不可欠である。
 そのような背景のもと、本事業では、自衛隊の輸送力と連携して大規模輸送を効率的に実施できるよう、輸送所要に合致した民間フェリーの調達・維持管理・運航、予備自衛官の活用を含む船員の確保等を一元的に行い、災害時、緊急時等における機動的な展開能力を常時確保するとともに、公的機関のための輸
送等を行うことを目的とする。
(引用終わり)
 
 着々と戦争は準備されているのだという意識を常に持っていないと、このような重要な情報も見過ごしてしまうことになりかねません。
 そういう問題意識も持ちながら、12月2日の原告意見陳述を読んでいただければと思います。

 なお、今年の2月、社民党の照屋寛徳衆議院議員が、「海上自衛隊による民間船舶借り上げ及び民間船員の予備自衛官任用に関する質問主意書」を提出していますので、内閣による答弁書と併せてリンクして
おきます。
 質問主位書 
 答弁書
 

原告  本 望  隆 司

 私は、1962 年から 1987 年まで、主にタンカーや鉱石船で資源を運搬する船舶に乗船しました。
 印象深いのは、1980 年に始まったイラン・イラク戦争の際に、ペルシャ湾内を航行する船舶を攻撃すると両国が言いだしたときです。日本船も対象になるということで、大変な問題になりました。この時、タンカー攻撃を避けて日本の石油輸送を守ることができたのは、憲法9条のおかげでした。つまり日本がいずれの国にも武力で加担しない中立国であるとの認識が国際的に確立していたからです。日本船をペルシャ湾の入り口にまとめ、船団を組んでペルシャ湾に入ることを外交ルートを通じて両国に通報し、タンカーにはデッキと船側に日本船と判明できるよう、大きな日の丸を描いて視認できる日中に航行しました。当時攻撃を受け被弾した世界全体の船舶は407隻、333人の死者、317人の負傷者が出ました。しかし日本船は被弾ゼロ、日本人船員は外国籍船の乗船者のみ2名の犠牲を出しました。(1999 年5月18日参議院「新ガイドライン関連法」特別委員会中央広聴会での海員組合・平山公述人の口述から)こうして、日本船は攻撃をまぬがれ石油輸送を守ったのです。

 ところが、政府が憲法9条の精神を捨て去り、海外での武力の行使が可能になる集団的自衛権を閣議決
定してから、我が海運業界もその影響が現れています。
 2016 年には軍需物資の海上輸送に、防衛省と船舶会社との間で、既に、2隻のチャーター契約を結んでいます。これは、普段はこの船舶を通常利用してもよいが、有事の際には、防衛省の命令によって、これらの船舶を自衛隊に提供するというものです。そして、船舶を操船するのは、自衛官となっていますが、現役の自衛官では操船が無理ですから、船員を予備自衛官として、自衛官の身分で、船舶を航行させることになります。この契約は10年で合計250億円という金額ですから、船舶会社としては、黙ってもお金が入ってくる非常に魅力的な取引ですが、現場の船員にとっては、「後方支援」の名の下、いつ攻撃されるか分からない危険な状態におかれます。そして、これらの船舶会社に就職する際に、予備自衛官補に
なることを条件としています。それを拒否すれば下船させられます。
 政府は、あたかも「後方支援」は安全であるかのような説明をしておりますが、実際のところ、兵站活動です。前線部隊に兵員、食糧、武器弾薬、医療物資等を運ぶのですから、敵からみれば、それを攻撃し、補給を遮断するのがもっとも効率的であることは当然です。「後方支援」だからといって安全であることは全くなく、輸送船は反撃の手段を持っていませんから、むしろ前線より危険ともいえるわけです。このことは、第二次世界大戦中に、日本の民間の船舶が輸送船として徴用され、攻撃対象になって、約半数の船員が犠牲となり、保有船舶もわずか数隻にまで壊滅した歴史で明らかです。日本海運が立ち直るために長い年月を要したのです。これは我々船員としては繰り返してはならない歴史です。「海員不戦の誓い
」は海運界の切実な願いです。
 さらには、集団的自衛権の行使容認を政府が決めてから、日本の船舶だから安全ということは全くなくなりました。先日のダッカでの日本人襲撃でも明らかなように、むしろ日本が攻撃対象として扱われる事態になっており、海運業界を初めとする運送に関わる業界にもろに影響が出て来るのではないかと非常に恐れています。イラン・イラク戦争の当時、憲法9条のもと日本は戦力を保持しない平和国家であると国際的に認知されていたが、その国際的認知は崩れ去り戦争やテロに巻き込まれる可能性が増大したと言わざるを得ません。船舶が攻撃される危険性に恐怖を感じます。正規の憲法改正の手続をとらず、専門家を初め多くの人たちが違憲であると言っている安保法制を強行採決し、海運業界がまた、再び戦争への協力をさせられる途がひらかれてしまったことに対し、海運業界にいた者として、これほどの苦痛はありません

                                        以上
 

原告  牟 田  満 子

1 長崎に原爆が落とされたとき、私は9歳でした。爆心地となった浦上の東にある山を越えた、西山町に住んでいました。
 家族は、 祖父母と脊髄カリエスで寝たきりの父と母、そして私が長女で4姉妹の8人家族でした。

2 8月9日のことはよく覚えています。
 この日の朝、母は、父の薬をもらいに、爆心地となる浦上の病院に出掛けていきました。空襲でなかなか薬をもらいに行けず、薬がなくなってしまったので「今のうちに行ってくる」と、1歳半の一番下の妹を背負って出かけました。
 私は、夏休み中でしたが、同級生12,3人と一緒に公民館で、先生も来て下さって自習をしていました。ピカーッと光って窓から外をみると、外は一面真っ黄色でした。外に明るい電気がついたみたいでした。防空頭巾をとる間もなく、爆風で窓ガラスが全部割れて落ちて、ガラスがみんなにささりました。子どもたちは皆泣いていました。私も顔とかにあちこち刺さりました。みんな血まみれでした。私は、防空壕で簡単な手当してもらい、家に帰りました。

3 帰ってみると、 家は屋根瓦が飛んで、見上げると空が見える状態でした。
 家の外の様子は、 異様なものでした。焼けただれた人たちがぞろぞろと数珠つなぎになって、爆心地の浦上から東の山の方へ逃れ、金比羅山の峠を越えて、私の家のある西山町の方へと歩いて来たのです。すり鉢状の爆心地浦上は火の海になり、そこを逃げて山越えをして来た人の数は数えられるようなものではなく、列の終わりが見えませんでした。
 歩いてくる人たちは、まともに生きていた人は一人もいませんでした。皮膚がずるっとめくれて剥(む)け、ぴらぴらしていました。服の布も皮膚にくっついて、一緒になってぴらぴらとしていました。靴など履いていないで、 皆裸足でした。この浦上からの無残な被爆者の列は、今も映像になって脳裏にこびり
ついて、一生わすれられません。
 みんな「水を下さい」「水を下さい」と口々に求めてきました。私は何も恐く感じませんでした。感覚
が麻痺してしまっていたのだと思います。私は一生懸命に家の井戸の釣瓶(つるべ)に水を入れて、そのまま水をあげましたが、近所のおばさんから「水飲ませたらいかんよ。死んでしまう。」と言われてやめ
ました。あとで、飲ませてあげればよかったと後悔しました。
 死体は、学校の校庭で、どんどん荼毘に付されていました。においは煙と一緒に上がって来て、何日も続き、また街が焼けたにおいも上がってきました。

4 浦上へ行った母と妹は、帰ってきませんでした。
 母が帰ってこなかったことはとても悲しかったです。終戦は15日に、 家にあった小さなラジオで聞い
て知りました。父は原爆の翌年亡くなりました。

5 私は、戦争さえなかったら、 原爆さえなかったらと何度も思いました。
 親が亡くなった寂しさと、 長女として家事の負担や農業を支えなければならず、学校に行けなかったことは辛かったです。
 また、被爆者だということでの差別がありました。「被爆しているから子どもが産めない」、「カタワが生まれる」ということも言われました。だから、原爆の被害については救済をして欲しいと思いながらも、大きな声では言えませんでした。私は戦争を心から憎んでいます。私のこれまでの人生を踏みにじってきた戦争を許すことができません。

6 私は今の憲法になって、もう二度と戦争が起こることはないという安心感の中で過ごしてきました。
海外で戦争が続いているのを聞くと、自分の体験を思い出し、かわいそうにと思っていました。しかし、
昨年9月の安保法制の国会成立が強行されたのを目の当たりにし、こんな法律を作った政治家たちは口では平和を言いながら、 戦争のことは何も分かっていません。私たちを苦しめ続けた核兵器の被害は長崎を最後にしてほしいです。
 今、戦争が起こって核兵器が使われたら、何十万、 何百万人という方が亡くなり,多くの方が被爆します。絶対にあの悲劇は繰り返して欲しくないです。
 それをどうしても訴えたくて、私は本日長崎から東京へ参りました。
 裁判官の皆様、どうか私たち被爆者の思いを受け止めてください。
                                        以上
 

原告  安 海  和 宣

1 私はキリスト教会の牧師です。憲法違反の安保法制は「平和をつくる者たれ!」というイエス・キリ
ストの教えに反します。イエス・キリストを主と告白し信仰する私の信条に反し、信徒の信仰を守る牧師の立場としても大きな侵害を受けています。

2 「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」とイエス・キリストは言いました。武力による威嚇・偽りの抑止力は、真の平和ではありません。日本国憲法前文と第9条は国民を守り、日本はそれゆえ緊張関係にある諸外国に対して対話する力を持ってきました。平和憲法のブランド、和を重んじる気質、敵対する相手にさえ敬意を持って向き合う精神は、キリストの教えと一致します。
 安保法制の強行採決と施行は、我々キリスト者の信仰信条を脅かしています。健全な宗教活動が制限されるのではないかという不安。戦中のような迫害が起こるのではないかという危惧。安保法制があるがゆえに、発言を自制し、忖度する社会に迎合していくことは、聖書の教えに反し、多大なストレスを抱えることになり、「権利侵害への漠然たる不安」の域を超えています。

3 戦争しようとする国は、必ず言論や思想を統制するということは歴史が教えています。日本キリスト教史を紐解きますと、1941 年、改正治安維持法の下でキリスト教会に対する迫害は始まりました。翌年から231名の牧師が全国で一斉検挙され、300以上の教会が閉鎖されました。それは、神社参拝を拒否したこと、キリストの再臨信仰・すなわち神の子であるキリストがやがてもう一度この地上に来られるという信仰が同法に抵触したという理由です。
 時を同じくして、宗教団体法が施行され、管理統制のためにプロテスタント教会は日本基督教団として一つにされました。日本基督教団は国体へ迎合し、戦争に協力していきました。1942年1月には、日本基督教団統理の富田満牧師が伊勢神宮に参拝し、1943年には全国の教会から献金を募り、ゼロ戦2機ずつ陸軍と海軍に献納しています。1943年10月にはアジア諸国の教会に「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」が送られ、侵略に加担していきました。宗教弾圧の歴史であり、負の歴史です。このような苦しみを経て日本国憲法が誕生し、第20条「信教の自由」によって、日本にキリスト教が伝えられた400年目にして初めて私たちは信教の自由を認められたのです。

4 私は宣教師の子として、インドネシア・ジャワのマラン市で生まれ 15 年を過ごしました。子ども時
代ポンティアナックという町に住むとき、何人もの友人から「安海和宣は日本人だから友達になっちゃだめだと親に言われている。ごめんね。」といわれました。彼らの親族は、日本軍に拷問を受け、虐殺されるなど、戦争の被害に遭っていました。そのとき、牧師である父は「かつて日本軍は刀を持ってやってきた。しかし、私は平和の福音を携えてこの地に戻ってきました」と語りかけ、受け入れられていきました。神様からの赦しと和解。キリスト教の教えと平和憲法の力です。このように現地の方たちとの間に築いた信仰の絆を、今回の法律で破壊されることは宗教者としては耐えられないことです。

5 平和憲法の力は海外の方がより強く感じられます。日本のパスポートは世界最強と言われ、日本人は数国を除いて世界中の国々を行き来することができます。それを受けて現在131万人(2015年外務省発表による)の在留邦人が世界中で活躍しています。私どもの教会は、海外に宣教師を派遣していますが、安保法制により日米両国が一体となって軍事活動をすると世界から見られることは、宣教師のいのちと宣教を危険に曝すリスクを格段に高めています。犠牲者が出てからでは遅いのです。どんなに科学が発達しても命を生み出すことは神様のわざによってしかできません。
 宗教者として、牧師として、安保法制の違憲性が証明され、廃止されることを願いつつこれからも声を上げてまいります。
                                        以上
 

(弁護士・金原徹雄のブログから)
2013年8月29日
自衛隊員等の「服務宣誓」と日本国憲法

2014年7月3日
今あらためて考える 自衛隊員の「服務宣誓」

2015年5月31日
もう一度問う 自衛隊員の「服務の宣誓」~宣誓をやり直さねばおかしい

2016年9月3日
東京・安保法制違憲訴訟(国賠請求)が始まりました(2016年9月2日)

※過去の安保法制違憲訴訟関連のブログ記事にリンクしています。
2016年9月6日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(1)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述
2016年9月10日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(2)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述
2016年10月4日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(3)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述
2016年10月5日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(4)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述
2016年12月9日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(5)~東京・国家賠償請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告代理人による意見陳述