和解の部屋

高橋清隆の文書館別館

〜劇的な和解体験を紹介します〜
 当ブログではさまざまな和解体験を紹介していきたいと思います。和解体験をお持ちの方は、ぜひメッセージをお送りください。全国どこでも取材に伺います。

両親との対話避け続けた過去、離婚で孤独に気付く③

父との初デート

 9月の終わり、幸子さんは父と初めて釣りに行った。父は渓流釣りが趣味。5月に定年を迎え、家にいるようになった。ぎくしゃくした関係を終えた証しに、何か一緒にしたいと考えていた矢先だった。


 「釣りに行くか」

 「うん」

 幸子さんは二つ返事で答えた。


 長良川水系の上流部に、イワナ・アマゴを狙うことに。父は仕掛けや餌、竿や魚籠(びく)まで用意し、運転も引き受ける。渓の下り方や竿の振り方まで、手取り足取り教えてくれる。納竿後はランチのお店まで予約してくれていた。まるで1日がデートのよう。帰りの車中、幸子さんはぐっすり眠った。


 「これが私の欲しかったものだと実感できました。甘えたいことを素直に表現できて、不思議と安心している自分がいた。不安や寂しさは、自分からつくっていたんだと思いました」


 家にいる居心地のよさを初めて知った。両親とハグをすることも。父は最初「いいよ、いいよ」と逃げ回っていたが、「やっぱりうれしそう」と幸子さん。


 母に対しては、外出する際「今日、夕ご飯は」と毎度尋ねられ、うるさく感じていたが、「私の伝え方が悪いから、何度も聞いてたんだ」と気付いた。今は「○○に行くからご飯はいいよ」というふうにコミュニケーションを欠かさない。


 「人の話を聞けるようになったと思う。今までは母が感情的に物を言うと、いちいち腹を立て、嫌な気分になっていました。分かってもらおうと思わなかったんです」


 今は母が何を言おうとしているのか理解に努め、「こういう思いだったの」と聞ける。そうして「でも、私はこう思うよ」と伝えるよう心掛けている。

 

両親との対話避け続けた過去、離婚で孤独に気付く②

調理イベントが運んだ対話

 名古屋時代の終わりごろから、幸子さんは新しい趣味を持ち始めていた。自身の疲労から、安全な食生活と健康について興味を抱いたのである。市内にある、有機食材を使ったクッキングスクールに入学する。


 家族との摩擦を避けるためもあって通ううち、自宅でも食事を作るようになった。母は日中、働きに出ているし、父は台所に近づかない。初めはただ、学校で学んだ成果を確認したいだけだったが、両親が体の不調を訴えていた。父は糖尿を患い、母は白内障で手術することが決まる。幸子さんは腕を振るい始めた。


 「初めは強い気持ちはありませんでしたが、学ぶにつれ、大切な人に食べてもらって幸せに、健康になってほしいと思うようになりました」


 実家に戻り10カ月がたった今年4月、幸子さんの通うクッキングスクールがイベントを開いた。幸子さんはアシスタントを務めることに。安全な食に関する講座と、料理教室からなる。参加者にキャンセルが出た関係で、幸子さんはいちかばちか、両親を誘ってみた。


 「じゃあ、行ってもいいよ」と母。

 「私のやることに興味はないと思っていました。受け入れてもらえたと感じ、うれしかった」


 イベントでは、日本人にどういう栄養素が足りないか、農薬や牛乳の害など、マスコミが伝えない情報を伝授。調理を実践し、披露した。


 「素晴らしかったわ」

 「ありがとう」


 帰宅後、褒められた幸子さんは、心から感謝の言葉が出た。幸子さんは回想する。


 「本当は私のことをずっと受け入れてくれていたのに、私が拒否していたんです。うるさく言うのも、私のことを思ってくれていたから。それから世界が変わって見えてきました」


 程なく、「私を生んでくれてありがとう」と言えた。


 父に自分のことをどう思っているのか聞く。すると、「子供が嫌いな親なんかいるか」と返る。「愛しているの」と迫ると、「決まってるだろう」と恥ずかしそうに言う。ぶっきらぼうな言い方に優しさを感じた。「それまでの私には、聞く耳がなかったから、そういうふうに受け取れなかったんだと思います」と幸子さん。


 妹との関係にも変化が起きた。幸子さんは妹さんを重視していなかった。親からガミガミ言われる自分は家庭内で孤立した存在だと思っていた。親の意向に沿って進学や就職を決めてきた妹とは対照的に、自由人を自覚している。


 両親と和解した後の6月、妹に会う機会があった。感謝の気持ちを伝えると、妹が自分を大好きに思っていてくれたことを知る。


 「本当はお姉ちゃんは甘えたかったんでしょう。私が場所を取ってごめんね」


 妹に、そう謝られた。母の膝の上を奪われた感覚などなかったが、予想以上に自分のことを気に掛けてくれていたのである。

両親との対話避け続けた過去、離婚で孤独に気付く①

宮崎幸子(41) 岐阜県在住

 

家を出ることだけを考えて

 宮崎さんは高校時代まで、中部地方の小都市で過ごした。両親と妹の四人家族。自身を家庭の中で孤立した存在だと思ってきた。


 「両親をあまり好きでありませんでした」


 理由は、自分に対し、いつも否定的な態度を取ってきたから。何か言動する度、「あんたは長女なんだから」「普段の生活もちゃんとできてないのに、そんなことが何でできるの」と母にとがめられた記憶がある。


 父も同じ。雨が降っているので「今日、駅まで送って」と言うと、送ってくれる。しかし、「俺は忙しいんだから」などと、必ず小言が付いてきた。「偏屈で、何をやるにしても文句が返る。本当に嫌でした」。


 幸子さんは、早く家を出ることだけを考えてきた。子供のころから、ヤマハ音楽教室のピアノの先生になるのが夢で、高校を出たら音楽の学校に行こうと思った。市内にも音楽短大があったが、幸子さんは栃木県宇都宮市にある音楽短大に進む。現地で彼氏ができた。


 卒業後、岐阜の地元に戻り、念願の音楽教室の講師になる。栃木の彼氏とは4年間の遠距離恋愛の末、親の反対を押し切って結婚。ピアノ講師は辞め、宇都宮市内に嫁ぐ。しかし、夫とうまくいかず6年で離婚した。


 幸子さんは自宅には帰れなかった。両親に反対されての結婚だと思っていたから。式には出てくれたが、啖呵(たんか)切って出て行きながらの失敗である。名古屋市内にアパートを借り、結婚相談所の社員や派遣での専門学校の受付、県会議員事務所の雑用など、職を転々とした。


 名古屋には9年いたが、特にやりたいことはなかった。コンビニ弁当に頼った食生活で、心身ともに弱っている自分に気付く。働いても家賃を払うのがやっとの生活に疲れ果て、岐阜県内の実家に戻った。


 両親は懸念をよそに迎えてくれた。16年ぶりの共同生活。最初は互いに気を遣う分、関係は良好だったが、ずっと一緒にいると、本音が出てくる。


 「早く寝なさい」


 39歳にもなる自分に母親が子供扱いするのがたまらなかった。幸子さんが小言を返すと、「この年にして、まだこうなんか」とぶつける。父親に「おまえは何も変わってない」と言われた。


〈やっぱり無理だわ〉


 幸子さんは心の中でそうつぶやいた。互いに年も取っているのでそれ以上踏み込まないが、同じ家に住みながら、会話のない生活が続いた。

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