新・古代史 「倭韓交差王朝説」を考える~石渡史学ファンサイト

 一つの古代史理論が、その科学的かつ合理的な解釈によって、強い力を示している。アカデミズムの実情があまりにお粗末すぎるからだ。 石渡信一郎史学とそれを受けた林順治による「倭韓交差王朝説」を中心に、先鋭的な最新理論を考察する! 応神天皇の正体=昆支(コムキ)とは?  隅田八幡鏡の「日十大王」とは?  そしてなぜ「聖徳太子」は不在だと言いきれるのか!?

なぜ神武はBC660年即位という「設定」になったのか?―――あなたは日本人として知っていますか? 学界を沈黙させた衝撃作『応神陵の被葬者はだれか』(石渡信一郎)はじめ、『日本人の正体』(林順治)などの古代史の真説をガイドし、詳説する! ―――これが 「太子不在説」を三十年近くも前に説いた石渡理論のインパクトだ! 

「畿内(箸墓)と崇神朝」という結びつきを再考する②――石渡理論による渡来王朝説の読み替え

では具体的に、石渡信一郎説がこの江上の騎馬民族説をどう援用し、どう自説を組み上げていったのかを見てみましょう。

石渡は、上記の③段階までをほぼ肯定的に把握しました(ただし、辰王こそが「伯済(のちの百済)」をも建国していったとし、辰王の半島における勢力は持続していたと新説で捉え返している『新改 邪馬台国の都 吉野ヶ里』など)。崇神天皇をその辰王の子孫筋の「外来王」と認識して、崇神の親世代とともに崇神が倭に渡来してきたと見ました。さらに崇神を、「駕洛国」(金海市)の「首露王」とも同一視し、崇神=首露王の本拠を加耶地方と見て取りました(これは、かの降臨説話が金首露とニニギで(倭韓で)そっくりさんというしろものです)。『三国遺事』にはこの駕洛国の年代記(事件史)を描いた「駕洛国記」が抄録されているわけですが、駕洛国は本来の同時代資料の『魏志』東夷伝では「狗邪韓国」(または狗邪国)と書かれ、のちの「金官加耶」と等置されています(ここの遺跡としては大成洞古墳群がその華麗な馬具などの出土で有名)。この「狗邪韓国=金官加耶」を本拠としつつ、崇神は倭にも向かったとするわけだ。そうしてその渡来以後の過程を合理的に跡づけしてゆきます。

たとえば江上説(改められたあとの江上説)では、崇神は九州に進出したが畿内にはまだ行っていないことになるので、崇神の〝大王墓〟は九州もしくは故国の加耶エリア(たとえば金海市大成洞古墳群)に存在することにならざるをえず、「畿内と崇神朝の結びつきはありえないことになります。石渡説の第一の独自性は、崇神が九州にとどまったのではなく、さらに東征(東遷)して吉備地方(岡山県)を拠点とし、吉備経由で畿内にまで乗りこんだ――というように一挙に外来王の遠征の射程をヤマトに伸ばしたことです。端的に言えば「畿内(ヤマト)と崇神朝」を結びつけたと。実際に、畿内の奈良盆地東南には箸墓古墳を中心とした纏向古墳群(奈良県桜井市)があり、その三輪山麓のヤマト地方を崇神王家の中心地(都宮)と見たほうがずっと理にかなっていたのです。

たとえば松岡正剛が、《任那あたりから崇神らしき大王の一派がやってきたという仮説は、いまなお否定されきってはいない。》と述べているが(「松岡正剛の千夜千冊」1491夜『古代の日本と加耶』)、この仮説をまさに生きているのが石渡信一郎説そのものですね。

逆に、ちょっと考えるだけでも、江上説が崇神を九州にとどめていたことには今更ながら疑問が残るところ。たとえば、『書紀』「崇神紀」には、前期前方後円墳の代表格である箸墓古墳の伝承をはじめ、この纏向(大田)の地の出来事がよく描かれているのだが、その文献上の記事からでも「畿内(箸墓)と崇神朝」は本来ワンセットになっていなければならないはずだったのです。わざわざその両者を引きはがしてしまったところに、江上の理論倒れぶりを感じざるをえないと。考古学と文献史学のすりあわせやごく自然な総合判断が不十分だったのです。

さらに江上は前期古墳を総じて「平和的」なものと見出していたわけですが、実のところ前期古墳の副葬品にも武具は多数見つかっています。弥生から古墳時代への端境期にも武具を用いた戦闘行為(戦争)が激しく行なわれたことは察するにかたくない。むしろ、渡来勢力が倭に侵攻したのだとすれば、武具が古墳から出ないほうが不自然です。メスリ山古墳(桜井市)は4世紀後半のものとされていますが、そこでは鉄矛や銅鏃など多量の武器が発見されている。前期古墳の時代であっても実用的な武器は用いられていたと。そうした意味でも、「平和的」であると江上が考えた前期古墳にも戦闘色はあって、崇神(加耶系)が「畿内」という渡来終着地に到達していたとする石渡説のほうにずっと分があるわけです。

半島から畿内へと達するためには、当然ながら北部九州という第一関門がある。加耶から4世紀に渡来した崇神(辰王系)らの勢力は、北部九州で当時の倭国――“女王が都とする「邪馬台国」(「女王国」)”がある――と遭遇せざるをえないわけです(だから石渡氏は「邪馬台国九州説」を採り、邪馬台国=吉野ヶ里遺跡とする)。西暦248年の卑弥呼の死後、倭国内は混乱と戦争状態はあったが、卑弥呼の宗女である台与(十三歳)を立てることで、倭国はなんとか安定を取り戻したといいます。しかし266年、次世代の新女王・台与による西晋への遣使以降、この邪馬台国の外的記録はなくなってしまう。その後の邪馬台国は弱体化していただろうが、『魏志』その他に滅亡したともなにも記されていない、のもポイント。

そして、最新の鉄製武具などを有する加耶系渡来勢力は、このピークをとうに過ぎていた邪馬台国に打撃を与え、著名なこのクニを制圧したと思われる。ここで邪馬台国は「滅びた」という言い方をしてもいいわけだが、「新邪馬台国」という有効な概念を石渡先生はうまくここで残している(つまりありていに言えば乗っ取ったということですね)。この新邪馬台国――政治中枢は加耶勢力が占めていただろう――が以後、東遷(東進)して西日本から畿内へ進出するという絵図を描いているわけです。

従来、森浩一などの「邪馬台国東遷説」という考え方があったわけですが、石渡氏のこの考え方はだから「新邪馬台国東遷説」とあえて命名されてもよいぐらいでしょう。加耶勢力によって旧邪馬台国は《特別自治区》(石渡)とされたとしており、加耶勢力は旧邪馬台国サイドに北部九州の支配をつづけさせたと。たとえば邪馬台国の都とされる吉野ヶ里遺跡では、弥生時代の終焉期に環濠集落が埋没しており、また「前方後方墳」(ST2200など)が少なくとも三基造営されていることが特筆されます。この前方後方墳を、旧邪馬台国を支配させた首長たちの墓と石渡説では見ています(『新訂 邪馬台国の都 吉野ヶ里遺跡』)。微妙な差異ですが加耶勢力が邪馬台国を完全に打ち滅ぼしたのではなく、征服・制圧したという観点が新鮮です。そもそも占領軍というものは、征服地にそのすぐ翌日から自らの新王朝を名乗らせるというものでもないだろうから。

この観点は現実的な把握の仕方なのです。たとえば北部九州の弥生期には副葬品の「三点セット」(鏡・玉・剣)が墳墓(甕棺)からよく出土するわけですが、これがこののち4世紀の畿内においても引きつづき同スタイルで出土するのです。となれば、まるで〝北部九州じるし(邪馬台国じるし)〟のようなこの三点セットの副葬は一つの「国のかたち」=スタイルが継続されたものとも解釈しうる。だから「新邪馬台国になった」という概念が実効性を持つわけです。またこの弥生終末期には「破砕鏡」と呼ばれる破損された銅鏡が北部九州(福岡県、佐賀県)に限定されて出ており、それが次代の庄内式期になると近畿など他の西日本にも破砕鏡分布が拡大されてゆくことも、この勢力が東進して邪馬台国連合内の神器を破壊していったことの裏づけと見ることができる(柳田康雄説を石渡氏が援用)。

一方で、別の勢力が東進すれば、「国のかたち」が北部九州(3、4世紀)と畿内(4世紀後半)で異なってくるものが当然です。上記したようにヤマトの纏向古墳群の遺跡の多くは「前期古墳」であり、典型的な竪穴式石室(木槨墓)が用いられているのだが、崇神の母国と見なされる狗邪韓国=金官加耶(洛東江下流域の現在の金海市)でも、実際にこの竪穴式石室(木槨墓)が盛行していたのです。すなわち半島東南部の墓制が直接的に倭に採用されたという影響関係を見ることができるのです。石渡氏は『百済から渡来した応神天皇』で、金海市大成洞古墳群における木槨墓(大成洞29号)が半島における最初の「古墳の発生」という説を推しており、その年代を4世紀前半と見積もっている。今の韓国考古学界では、この29号墳を3世紀後半と見ているようだが、むしろそのように古くされたとしてもある意味で好都合。その3世紀後半になって出現した木槨墓が加耶地域で熟成され、その技術を伴った勢力が満を持して倭にやってきたという流れを追いやすいからです。吉備地方(倉敷市)にある楯築墳丘墓(いわゆる「弥生墳丘墓」)は、埋葬施設としてやはり木槨墓が使用されていますが、この楯築墳丘墓もこの29号墳や良洞里235号墳(金海市)などの技術に由来する渡来系墓制であると考えられています。


次回、このくだりをまとめます。

「畿内(箸墓)と崇神朝」という結びつきを再考する①――騎馬民族王朝説からソフトな渡来王朝説の復権へ

 今回は、崇神王朝の列島への進出について、三、四回かけて、石渡理論をベースに、われわれの知見を加えて、通史的にたどってみたいと思います。
 本ブログでも書いたことがあるように、いま、騎馬民族征服王朝説は、少し、というよりだいぶ分が悪く、それが石渡説でもネックになっているところはあると思います。ただ、この数年の状況を見ていると、実は、「騎馬民族」はともかく、少なくともツングース系の北方からの勢力が倭にやってきた――という考え方には、復権の光が見えます。そのあたりを、最近、請われた原稿でちょうど私が書きましたので、一部を転載したいと思います(全部で3、4回くらい)。
 
 天皇制へと連なる古代の大王家が、大陸からの騎馬民族的な渡来勢力の血脈ではないのかという説は、戦前からあったものですが、それでも代表的なものとしては戦後日本の古代史学界のみならず日本じゅうの歴史ファンの心を興奮で震わせた江上波夫(東洋史学者)の「騎馬民族征服王朝説」があります。列島への「外来文化」の大量の流入ぶりを説明するためには実にわかりやすく有効な説でした。近年では分が悪いところも多分にあったが、復権の兆しは最新の考古学資料や理論からも十分見えてきている。ここでは「戦後最大の歴史学説」「壮大な仮説」などと呼ばれてきたこの江上の騎馬民族征服王朝説のポイントを簡単におさらいしながら、石渡史学のあらためての「入門」の「切り口」としてみたい(そこから現在のアクチュアルな古代史理論や石渡説との異同もはっきりするだろう)。

江上の説明によるとそれは次のような「二段階」を踏みます。



『魏志』によると、3世紀の三韓時代(馬韓・弁韓・辰韓)の朝鮮半島では、東北アジアのツングース系騎馬民族(扶余・高句麗系)のある人物が、馬韓に属する月氏国で「辰王」という外来の王となった(在地の王が立ったのではなく、外来王が立ったのがポイントである)。辰王は、当時の弁韓、辰韓をあわせた全二十四か国のうち、「弁辰」十二か国もを支配していたという。辰王は世襲的なものだったかもしれない。



②次いで4世紀の東アジアに重大な契機が訪れる。313年、314年に、かつての大帝国=漢の出先機関(4世紀には西晋の支配下)であった楽浪郡と帯方郡の二郡がそれぞれ高句麗などの攻撃によって滅亡したのである。このため朝鮮半島にあったパワーバランスが崩れ、半島に古代国家が形成されてゆく端緒となっていった(その後、百済が346年、新羅が356年に建国される)。辰王サイドからすると、馬韓(百済)と辰韓(新羅)が弁辰の内外でそれぞれ独立し、おのれの弁辰エリアが周囲に食われ縮小してゆく事態になったのだ(ここまでが一般的な通史で、③からが江上の見立て)。



③辰王は、残された領域(小国群)である弁辰(とくに弁韓エリア)を本拠地(「任那加羅」)とする「任那王」として打開策を講じ、外に打って出る。辰王の勢力が海を渡り、倭国の筑紫(九州)をめざす道を探ったのである。そうして、辰王やその子孫である外来民族(「天神」)による勢力が、4世紀はじめになって故地の任那(ミマナ)を本拠地としながらも北部九州に進撃し、その地を占領した。これがいわゆるのちの「天孫降臨であり、これが第一回目の日本建国であるとする。辰王もしくは辰王の子孫が崇神天皇(和風諡号ミマキイリヒコ)に相当するという。ニニギによる「天孫降臨」すわなち高千穂峰降臨説話がこの筑紫への渡来を示す、というわけだ。江上によると、ミマナから来たのでミマキイリヒコだというネーミングの解説も印象的だった。


④その後、4世紀末から5世紀初めにかけて、この辰王系の後裔・子孫である応神天皇が北九州から畿内へ遠征し、畿内中枢地まで征服して、応神王朝が成立した。それが「大和朝廷」の創始であり、第二回目の建国とされます。応神天皇の陵墓である伝応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は後期前方後円墳の代表たる巨大古墳であり、従来の前方後円墳(奈良県桜井市などに位置する)とは異なって破格のスケールを持ち、奈良県から大阪平野へ陵墓地がシフトしているのがその証拠でもあり、また応神は九州生まれとなっているため(記紀)、江上はここで躊躇なく「九州の応神」というカードを切ってきたと思われます。



ここで念のためおさらいをすると、古墳時代に築造された古墳としては、あの「前方後円墳」がなによりも有名でシンボリックだが、古墳時代はその時代区分を前期・後期(または前中後期)と分けることが一般的です。
「前期古墳文化」は、箸墓古墳を含めた纏向古墳群(奈良県桜井市)に代表されるものであり、一般的に竪穴式石室(木槨墓)が用いられ、副葬品は宝器や祭器が中心で、鏡・剣・玉のような「呪術的」「平和的」「祭祀的」「東南アジア的」「農耕民族的」なものとして特徴づけられると江上はまとめていた。
 他方、「後期古墳文化」は、大阪府に位置する伝応神陵(誉田御廟山古墳 羽曳野市)や伝仁徳陵(大山古墳 堺市)がその代表例で、横穴式石室を用いたものが多く、装飾古墳もあらわれ、副葬品には実用的な馬具や武具、あるいは金銅製装身具を伴っており、それを称して、「王侯貴族的」「騎馬民族的」「北方アジア的」という形容をあてているわけです。

江上に言わせると、前期古墳文化と後期古墳文化は、その出土物において《根本的に異質》であり、《その変化がかなり急激で、そのあいだに自然な推移を認めがたい》という認識を示した(『騎馬民族国家』)。
 この学説は「図式」も明瞭でわかりやすさもあり、戦後の学界だけではなく戦後社会の一般の人びとの圧倒的な関心を呼び起こし、時代を席捲したのはよく知られています。戦前からの「皇国史観」に呪縛されていた普通の日本人にとって、戦後民主主義とほぼ同時にやってきたこの学説が、一陣の風となって旧来の学問や慣習に風穴を開けてゆくようにも見え、さぞや痛快だったのでしょう。江上説への手放しでの喝采や同調もあれば、学界ではその大枠を肯定しながらも修正主義的に渡来王朝説のヴァリエーションを説いた学者もあらわれていったわけです(たとえば、「崇神―応神―継体」という「三王朝交替説」を唱えた水野祐など。ただし水野説では、崇神は純粋なヤマト在地の人間)。

それではこの学説を二十一世紀の今日的な視座から捉えるとどうなるのか?――これを見てみましょう。
 

江上波夫は文化勲章(1991年)まで受賞した学者であったが、騎馬民族征服王朝説に関しては、本人も認めるように考古学的事象に「ミッシング・リング」(江上)があり、内外各地の遺跡の発掘でそのミッシング・リンクがやがては閉じられるであろうと自身でも大いに期待していたように見受けられます。当然ながら「征服」という言葉は若干の誤解も生みやすく、国内でも反発と反論は当時からあった。それでも晩年の江上波夫は、朝鮮半島の古代国家である加耶連合国(群)のうちの一つである金官加耶の遺跡(金海市大成洞古墳群)が発掘され、見事な歴史史料がそこから出土すると、当の大成洞古墳群には崇神天皇の陵墓があるかもしれないというところまで強気に踏みこんだ発言をしていたものです。

 それでも、〈馬を率いた軍隊(騎馬軍団)が日本列島を駆け抜ける〉という勇ましく戦闘的なイメージばかりが流通するのは江上も本意でなかったであろう。そうではなく、騎馬民族の系譜を遠く引くツングース系の渡来集団が大陸の北方系文化や半島の技術(製鉄や製陶)を帯同しつつ倭へ移動し、時に交戦もしながら移住をはたして、ほどなく在地の民と交わって定着していったというゆるやかでソフトな過程を採るのが、今日、この江上の描いた壮大なパラダイムを基本的に支持する者の妥当な見方であろう。結論的にまず言えば、この十数年やや押され気味であったこうした騎馬民族説(あるいは渡来王朝説)が今また「形を変えて」復権している気配を大いに感知することができます。いずれにせよ、この加耶勢力の侵攻、渡来、定着という事態は、石渡理論にかぎらず日本=倭の「謎の4世紀」を語る上でもっとも重要なことですね。

 次回以後、石渡理論が、この「騎馬民族征服王朝説」をどう捉え、援用し、修正したのかを見てゆきます。

尾張連(=崇神王家)の血脈――応神婿入説における「ホムダマワカ以前」の問題点を考える

上田 正昭
新潮社
2012-12


 石渡理論が見抜いた卓抜な見解の一つに、応神天皇が「入り婿」として継いだその王家の「正体」が、崇神王家=尾張連氏だという説があります。崇神王家の本体が尾張連氏らの系譜に連なる(重なる)ものだと、その正体をある程度(部分的に)見定めたわけです。石渡理論以前でも、かつて井上光貞は「応神入婿説」をたしかに唱えており、これももちろん画期的なものだったわけですが、応神の父母「仲哀&神功皇后」を実質的に重要視せず、虚構扱いとしたところがご明察でした。仲哀と神功皇后が不在(虚構)となるならば、応神が婿入りした妻(ナカツヒメ)とその実父(ホムダマワカ)の系譜のほうが重要であり、その系譜が「メインストリーム」としておのずと浮上してこざるをえないわけです。また、仲哀&神功皇后が(いわんや仲哀の父のヤマトタケルも含めて)「怪しい」「架空だ」ということになれば、その系譜に「取って代わる」応神の「父方(先祖)」を明示しないことには、この婿入り説は本当には輝かないわけです。すなわち、応神の父母が架空の存在だが応神自体が虚構でないのならば、応神の「実の父母」の出自(DNA的なつながり)が要請されてこざるをえない。だからこそ、応神=昆支の可能性にも信憑性や説得力が出て、「父方」(先祖)が百済王家だというその可能性も了解されてくるのです。井上らの入婿説にはそこに対しての明確なツッコミがなかったのに、石渡理論がそこに踏みこんでいたところにその優位性があるわけです。


 この筋の話をすると、たとえば上田正昭も、三輪王権の血脈をうける中比売を娶ってワケ大王家を樹立した》と応神について語っているぐらいです(『私の日本古代史』2012年)。これはわりと最近の書籍ですが、主張がこのように変わらぬことが重要です仲哀&神功皇后の存在がいかに今日、学会的にも疑問視されているかという証左であり、《三輪王権》としての崇神王朝から、《ワケ大王家》としての応神王朝へのシフトを、上田氏のような大家もごく当然のように認めています(→ただ問題は、応神王朝の時間軸を5世紀後半以降~とする石渡説にまで同調してくれるかどうかですね)。

 以下のA図は、怪しい記紀の系譜関係のなかでもこのようにお歴々が認めるほどの信憑性があり、たいへんオーソドックスなものである、ということを再確認しておきましょう。


 

A図 井上説 ]  

          

   ┌ イニシキイリヒコ(第二皇子)

    崇神― 垂仁 ┴ 景行(第三皇子)― イホキイリヒコ(次男)― ホムダマワカ― ナカツヒメ  

                                │ 夫婦――仁徳
                                                          応神


 さて、石渡理論がこのA図をベースに、以下の見事な系図を再現したことは、石渡読者なら知っているはずでしょう。崇神=ミマキイリヒコ、垂仁=イクメイリヒコの王朝、イリ王朝=三輪王朝です。




B図 崇神王統(三輪=イリ王朝) 石渡説その1



崇神垂仁― イニシキイリヒコ― イホキイリヒコ― ホムダワカ― ナカツヒメ 

                              │ 夫婦―( 仁徳は虚構 )
                                                  応神

 

石渡理論が際立つのは、このB図に「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)を対応させていること(並の学者は応神や仁徳を「讃」以降に該当させるのが常で、「時代」の目測を完全に見誤っている)。それが以下のC図です(参考用に『宋書』の讃珍済興武もその下に掲げる)。





C図 崇神王統と倭の五王 石渡説その2

                                  ┌ (ナカツヒメ兄=凡連)
崇神
垂仁 イニシキイリヒコ)  
イホキ~― ホムダマワカ)┴ ナカツヒメ  

       ├ 景行                                           │ 夫婦―( 仁徳は虚構 )
             └ ワカキニイリヒコ)                        応神

           ※イホキイリヒコは景行の子 

      



               ┌讃                           

                       │                   済―       
                   └
珍                    

 C図では、イホキイリヒコが倭の五王の「だれ」にも相当しないのがミソです。というのは、『宋書』倭国伝では讃珍は「兄弟」関係であるものの、讃珍と済たちとの「続き柄」が上のように描かれていないから(→「段差」が生じている)。そこを石渡氏は、景行の実子であるイホキイリヒコが王位に就かず(一拍置いて)、イホキイリヒコの子のホムダマワカがワカキニイリビコのあとで王位に就いた(つまりホムダマワカ=済)と解釈したのです。常識的には、事績も多い景行天皇を「讃」と結んだほうが一見おさまりがいいようにも見えますが、それだと通常の親子関係(景行→イホキイリヒコ)が成立してしまうため、『宋書』と異なってしまいます。すなわち「イホキイリヒコ―ホムダマワカ―応神」系統へと連なる際、『宋書』におけるこの「段差」が理論上も生まれないことになってしまい、石渡理論では採用されませんでした。

しかもイニシキイリヒコには景行(オオタラシヒコ)とちがって「イリ」が名前に入るため、崇神(ミマキイリヒコ)以来の「イリ」の伝統、いわゆる「イリ王朝」としての正統性も踏まえられていることになります。念のため示唆すると、珍とイコールにされているワカキニイリヒコもその意味で「イリ」メンバー。そこに応神――名前にイリが入っていない外部の人間――が「ワケ系」として婿入りしたのがよくわかる(応神天皇=ホムタワケ)。

なおイニシキイリヒコで見落としてならないのは、なんと伊奈波神社(岐阜市)の祭神であることであり(珍しい!)、尾張地方や尾張氏との関連性が濃厚に残る点。なんといってもイニシキイリヒコは、あの垂仁の第二子であり、武器を管掌して軍事面を司り、池溝の開拓などの土木面で活躍したなかなかの政治家なのです。

 

しかし、石渡理論の秀逸さを知り、それにすら慣れてしまった読み手が、つい失念してしまいがちな事柄をここであえて示したいと思います(ようやく本題に入ります)。まず、済をホムダマワカと見立てるのはとても有能な補助線なのですが、その場合、ホムダマワカの先祖(母系)の系譜が実は問題になるのです。ホムダマワカの先祖(母系)の系譜すなわち文献上の系図で示すと――





D図  尾張連の系譜  『古事記』『旧事本紀』




 (
ニギハヤヒ → 十数代のち→ヲトヨへ)

 

                                 イホキイリヒコ

                     │

ヲトヨ タケイナダネ ┬シリツキトメ ホムダマワカ― 三姫(ナカツヒメ等)

                 金田屋野姫命 ホムダマワカに嫁ぎ三姫を生む)      │   

                  尾綱根(長男)                      応神  

   
    
※「ホムダマワカ=済」、「応神=武」はあくまで石渡説                   






 ――つまり、この連綿とした「尾張連の系譜」と崇神王統(五王含む)との「対応関係」に注意する必要が出てくるのです。ここが今回の記事の肝ですので、以後、注意深くお読みください。まずこのD図の「下(右端)」に位置する応神は、見てのとおり、ホムダマワカの娘たち三姫(のちの后妃)を娶っており、その三姫すべてと結ばれているという観点からもたいへん政治色が強く、ある「王家」に婿入りした可能性は上記のように十分に高いわけです。むろんその王家こそが崇神王家です。 

他方、D図の「上(左端上)」に位置するのはこの王家の祖であるニギハヤヒです(ホアカリと同格 『先代旧事本紀』)。たしかにニギハヤヒは第一次「降臨」の主役であり、ニニギ(神武の直系の先祖)は第二次「(天孫)降臨」の主役となるのが『記紀』にも明瞭です。このニギハヤヒから始まる王家こそ、応神が婿入りした王家だと見なすこと自体、だから理論上は明晰そのもの。もし、応神天皇を「武」と等置するという大前提を採るなら、すなわち、ホムダマワカを応神の「義父」として「済」とイコールで結び、『書紀』に書かれなかった(完全に隠された)ホムダマワカを尾張連草香の別名と考えることによって、尾張連草香の子(=凡連)が「興」の正体であることも仄見えてきます(「メノコヒメつながり」です。⇒メノコヒメの重要さについては過去記事崇神王朝はなぜ尾張連氏とかぶると言えるか?~ホムダマワカと応神①】【応神と継体の妻が尾張系であることの奇縁と必然~ホムダマワカと応神②を参照のこと)。

ましてや前出のイニシキイリヒコですら尾張とも地域的に関連しているとなると、まるでデキスギのように尾張連氏が崇神王家の本体であるという理屈はますます強くなるように見え、石渡理論の頼もしさがいや増すようにも―― 一見したところ――感じられます。が、同時に問題点も生じるのです。公平を期すために一つツッコミを入れざるをえないところがあります。それは、D図のホムダマワカのこの系譜(尾張連の系譜)をさかのぼらせて、やはり倭の五王の「讃珍済興武」と対応させてみるとき、タケイナダネやその父のヲトヨ(乎止与命/初の尾張国司)の具体的な対応関係(位置づけ)に苦慮せざるをえないという点です。換言すると、タケイナダネやヲトヨの存在がむしろ邪魔にすらなってしまうのです。 

たとえばイホキイリヒコは、石渡説では五王のだれとも対応しない崇神王族であるものの、タケイナダネの娘を娶った男です(婿入りはしていないだろう)。もしもですよ、イホキイリヒコの直系=崇神王統(男系)をさかのぼったらニギハヤヒが出てくる――というならば、話はずっと単純なのですが、事実は逆で(!)、イホキイリヒコが娶った「妻の先祖」にニギハヤヒが登場してくるのです。もちろんこれはある意味で当然の事態です。イホキイリヒコもイニシキイリヒコも「神武―崇神」に連なる万世一系アマテラス―ニニギに始まる系統)の流れに位置しているわけで、そのラインをさかのぼったらニギハヤヒが出てくるということは万世一系の制度上もありえないわけですね。だからこそ「イニシキイリヒコ―イホキイリヒコ (伯父/甥)」の二代はともにもともと崇神王家の主流であるはずなのに、両者とも妻の実家(=第一渡来集団の王の系譜)が有力で、まるで婿入りするかのようにも見え、あるいは母系氏族のメンバーのように見えてしまうのが少し奇異に思われてしまうわけです。やはり崇神王家は「男系」であるはずだからです。男系であるべきはずなのに歪な系譜に見えるのは、そこのライン(線)に作為性やなんらかの操作があるのでしょう。話がやや複雑になり、われわれも少しばかり頭を悩まさざるをえないというわけです

そこで、イホキイリヒコの義父であるタケイナダネを「崇神王家のだれ」と対応させるべきなのか(もしくは、対応関係などという「余計なこと」は考えずに捨象するほうが賢明か)という問題が具体的に生起してきます。なお石渡理論では、タケイナダネを「ホムダマワカの分身」(つまり「済の分身」)と見て、「実体」(同体)と見なすことはあえて重視していないように思えます。実体としてよりもアナロジー(類推、類比)思考で石渡先生は処理していますね。具体的には、タケイナダネは、『古事記』神話のイナダノミヤヌシと等置され、その場合、そのイナダノミヤヌシの娘であるクシイナダヒメと結ばれたスサノヲを補助線として使用すると、「有力家の娘を娶る物語」として「スサノヲ=ヤマトタケル=(応神天皇)」のアナロジー的発想から、イナダノミヤヌシ(=タケイナダネ)=ホムダマワカというアナロジーも明瞭に浮上してくるからです。以下の系図をつらつら眺めてみてください(赤字で、類比関係になっていると石渡氏は推理しているわけ)。



 ホムダマワカ ― ナカツヒメ        穂積氏忍山宿禰 ― オトタチバナヒメ(「櫛」になる)

           │                      

          応神天皇                   ヤマトタケル




      

 イナダノミヤヌシ ― クシイナダヒメ(「櫛」に変えられ助かる)    タケイナダ ― シリツキトメ

             │                                       │

             スサノヲ                                   イホキイリヒコ



これはこれで、アナロジーで処理するというのは一つの見識であり、対応関係をしつこく考察しない、という考え方もある意味では賢明だと思われます。そもそも、崇神王家は、あの3世紀の三韓で国々(辰韓)を治めていた辰王もしくは辰王系の後裔である氏族あるいは親族群が本体であろうため、仮に辰王系の直系(崇神天皇や崇神天皇の父)が加羅系渡来集団の中心に存在するとしても、その傍系・傍流に親戚筋が多数いたはずであり、それらが全体で尾張系・物部系・穂積系などの渡来集団を構成している、と考えるのが、一応は合理的だからです(辰王のくだりは、もちろん江上説を援用した石渡説ですね)。それゆえあまり誰が誰に該当する、などという細部に淫する野暮な行為は必要ないという考えもありうるわけ。具体的に言うと、崇神天皇は尾張大海媛(おわりおおしあまひめ)を娶って子をなしています。名前のとおり尾張系の女性(→『古事記』では意富阿麻比売に相当しており「尾張連の祖」と書かれている)と崇神は縁を結んでいる。崇神を加羅系渡来集団のある時期の「長(トップ)」とすれば、おそらくこの尾張大海媛もその集団内部の近しい有力な親戚縁戚筋の女性というふうに解釈することができるわけです。ありていに言えば、辰王系の最初の渡来集団のアバウトな全体像こそが尾張・物部・穂積系だろうという言い方もできなくはない、という意味です。

このように加羅系渡来集団たる崇神一派には支脈や分派もそもそもあり、古代氏族社会そのままに婚姻関係を積み重ねた、と――この着眼にも念のためご注意ください。われわれがここで言及しているのは、本質的なことだと思われますが、少々、細部にわたりすぎているツッコミなのかもしれないからです。



そこで、話を元に戻し、ポイントを繰り返しますが、タケイナダネらの先祖がニギハヤヒであると史書にきっちりと書かれている分、尾張連を崇神王家と把える石渡説にとっては(ちょっとだけですが)難問になりうるということです。もとより二系統を一系統へと変換して考えるわけですから、噛みあわなさや「残余」は当然あるというわけですね。そこを「フォロー」だけはしておきたいなと感じた次第。もっともこれは、タケイナダネとそれ以前の先祖の「本体」をもしも明瞭に特定(同定)できるなら、石渡理論にさらなるアドバンテージ、強みが出るわけです。もちろん特定できない場合でも、タケイナダネを「済の分身」として見て、あとは過度にすりあわせをしないという取り決めをしてもいいのだ、という話もまた上記しました。どの道、この尾張連氏の系図はもとより部分的な捏造の記録ということにならざるをえないからです。なぜならもともと史上の実在人物たちの血縁による系図は当然ながら「一つ」に決まっているからです(血縁によらない系図なら、幾通りに登場しても問題ないのは、カール5世などを想起すればわかる話だが)。石渡理論が〈崇神王統こそ正当=正統であり、尾張連の系譜に真の王権の血脈がある〉というふうに把握してゆくかぎり、尾張連の系譜・系図は、基本、後づけ工作されたものということにならざるをえないのです。よく考えるならば、往時の良識派たちが『書紀』で書き記されなかった「事実」をなんとか正史ではない『古事記』や『旧事本紀』などで残そうとしていた、とも取れます)。それらの事情を踏まえて、以下をお読みください。



率直に言って、タケイナダネやヲトヨに相当する人物は、崇神王統以下の倭の五王(讃珍)のなかにはたやすくは見つかりません。なまじ尾張連氏は『先代旧事本紀』や国宝『勘注系図』にびっしりと系統譜が描かれている分、事績は曖昧ながらも系譜関係だけは膨大でつまびらかになっています。この明瞭さがかえってうっとうしく邪魔にもなるわけです。当然、タケイナダネの父としても有名な「ヲトヨ」(初の尾張国造)の存在もなかなか崇神王統のなかには位置づけられません。なぜこうした観点にわれわれがこだわるのか、もうすっかりおわかりでしょう? いずれにせよこの筋の話は、石渡氏も林氏も詳細に言及し、語ったことがないと思いますので、われわれとして一つの考えを提起します。

一つは、「演繹的」にたどる場合。ホムダマワカを済とするなら、「ホムダマワカの祖父」(『旧事本紀』)に該当するタケイナダネを(D図参照)、B図から素直にたどってそのままイニシキイリヒコと該当させるという考え方がまずあります。これはふとしたアイデアのようでいて、ちょっとした合理性がある。というのは、先に説明したように、イニシキイリヒコは岐阜(美濃)で祭神となっているほど愛知(尾張)と縁があるということと、もう一つは、その伊奈波神社のイナハの音韻INAやイニシキイリヒコのINIが、タケイナダネのINAにちょっとだけかぶっている点です。なおイニシキイリヒコは石上神宮で神宝管理を担いましたがこれがのちに物部に引き継がれてゆきます。尾張(愛知県)は物部神社など物部の事績が多く残るところでもあり、やはり物部・尾張連両氏とイニシキイリヒコには関連があると判断できるでしょう(いわば、タケイナダネを「イニシキイリヒコの分身」とした)。

そして、さらに強引に推し進めるなら、イニシキイリヒコの父である垂仁を、そのままタケイナダネの父=ヲトヨと対応させて、ヲトヨを「垂仁の分身」として見なしてみるのも一つの考えとしてはありということになります(垂仁の虚像、分身としてヲトヨを創作したと)。
 われわれはむろん「ヲトヨ=垂仁」説を強固に主張する気はないですしこれは少々強引ですが、こういう一つの仮想的(speculative)な推論(思考実験)は必要だろうということですね。なお、ヲトヨの直接の先祖(父母や祖父母)となると、『旧事本紀』は実は明瞭ではないという事実があります。つまり、ヲトヨより以前に系図を直接さかのぼることには無理があるため、D図で示したとおり、ヲトヨらの系譜のトップは(たしかに)ニギハヤヒである、という漠とした構図こそがきっと大正解にもなりうるのです。これすなわち、石渡氏が実質的に、ヲトヨやタケイナダネの対応関係を倭の五王に探ろうとしなかったことも一応、理にはかなっているというゆえんですね。いずれにせよ、ヲトヨ直前がデッドエンド(つまり系譜未詳)になっているので、ヲトヨ前後の系譜は非常に怪しい、不透明だと言わざるをえません。

また、遡るのではなく、系図の「下流」にくだってゆくなら、D図の尾綱根(命)は、タケイナダネの長男ということになりますが、こちらの長男の直系(嫡流)よりもイホキイリヒコが婿入りした系譜のほうが「主流」のようにも結果的に見えています。ですから、尾綱根の系譜をのちの尾張連氏そのものと見てもよいでしょう。その系譜には「尾張連草香―凡連」親子も見えてきますが、嫡流ではなく「傍系」「傍流」扱いなのがやはり「怪しい」ところです。歴史上にも尾張連氏は存在していたのはまちがいないわけなので、このように系図の下流に関しては、とくに嫡流を実在視してもまったく問題は生じぬというのが正直なところです。



このように、ちょっとややこしいところですが、二つの異なる系譜として知られている系統を、一つの系譜のなかに集約(収斂)させてゆくという方法を『記紀』編纂者たちが採っていたことを考えると(そう考えるのこそ石渡説ですが)、当然、こうした複雑な「処理」を施しつつ考慮することも大事でしょう。今回はそこを検討したかった次第です。われわれとしてもこのトピックスは一度は語っておきたかった事柄でして、ひととおり書いてみて、だいぶ個人的にはすっきりした思いがします。



 

石渡理論の「弱点」はあるのか?――難点と強化ポイント

林 順治
彩流社
2015-10-07


林順治氏の『日本古代国家の秘密』が秋に上梓されました。今回の林氏の著作は、タイトルからしてあらためての古代史入門的なポジションであり、「総論」を扱っている印象が持たれます。一方、石渡氏は、わざわざ「新訂版」で『邪馬台国の都 吉野ヶ里遺跡』を刊行しています。いまの石渡先生の直近の志向性が邪馬台国問題にあることがわかりますね。

われわれは、石渡氏著作の熱狂的な読者が言うような話――石渡先生を東大の教授にしないといけません――という考えには同調もしても、それが無理なことも当然承知しているので、その分、究極的な石渡理論のアカデミズムへの影響力や波及(効果)、というものがいかにあるべきかということを考えることがあります。アカデミズムの全面的な石渡理論の採用(もっと言ってサシカエ)というのはおそらくは起こりえないわけですから。

ただ可能なのは、正統派のアカデミズムとどう歩調を合わせ、かつそこに食いこんでゆく、もしくは取りこんでゆくか(あるいは、逆にうまい具合に石渡理論が正統派に「取りこまれ」てゆくか)という、そうした影響関係論のほうにも興味が持たれるところです(→「取りこまれた」例としては、たとえば世の「聖徳太子不在説」など、石渡理論の「細部」はいまだ使われないながらも、骨の部分は使われていると言える)。

これが、たとえば中沢新一ファンだったら、こういうことはここまで考えないかもしれません。たとえば網野善彦の「甥」である中沢新一氏などは専門の宗教人類学をテコに、歴史にかぎらず人文科学の全方位で思想的な「読み替え」をすることをこそ第一義に置いているように見えます(あのレーニンまで読み替えちゃいますからね→『はじまりのレーニン』)。対象たる折々の専門ジャンル(たとえば古代史の最前線)を中沢新一が変えたいと思っているような節はありません。すでに独自の「中沢学」が往年の柳田学や折口学のように形成されつつもあり、オウム事件での一時的失脚もこみで、学者としての専門はすでに持っているわけだし(なぜ中沢氏を例に挙げたかというと、「週刊現代」連載中の「アースダイバー(神社編)」が列島の古代史とそのメンタリティーをめぐっておもしろすぎるから。未読の読者にはお薦めします。)。

また古代史ジャーナリズム畑では関裕二氏なども斬新な説を展開しますが、現実の古代史や考古学の緒論と切り結ぶことよりも、独自性にことのほか面白さがありますし、氏もそこにあまりこだわりがあるとは思えません。そこが歴史ライターの強みでもあるでしょう。

しかし石渡理論は控えめに言ってさえ、中沢説とも関説ともアプローチの仕方が異なりますし、中沢氏のような哲学志向・内面志向であるわけでもありません。すでに古代史の領域において、検討するに値する「応神=武=昆支説」、「応神継体=兄弟説」、「太子不在説」、「天武=古人大兄説」、「ワカタケル大王=欽明説」などの惚れ惚れするほどの明証性、衝撃力を持っているのです。たとえばまた、隅田八幡鏡の解読など、日本史研究史上で最高の研究成果の一つでしょう。最近は「斯麻」を武寧王とする503年説が趨勢にもなってきたから、その「武寧王の父=昆支」のはたす役割の重要性がクローズアップされてきてしかるべきです(503年説の明証性が、「昆支」を主舞台に押し出してくるということの重要性に、正面から言及してゆく既存の歴史家、文献史学者がいない)。そもそも、石渡氏の理論の一部が、従来説の正統派も(あるいは異端派)の一部とリンクするところもなくはありません。従来の井上説たる「応神=婿入り説」などすでに援用しているわけだし、この同時代にも「天孫族」が広義のツングース系出自だと説く研究者も多くいて、それらは石渡説ともシンクロしています。同じように石渡氏の「箸墓=崇神陵説」は従来から主張する研究者も少なからずいる(宝賀寿男氏、安本美典氏などなど)。ただし江上の騎馬民族征服王朝説まで来ると、渡来時期などが現状ではネガティヴに受けとめられているので、ちょっとカッコにくくりたいところ(再評価の動きはもちろんあるが)。もちろん石渡氏自身も江上説に影響を受けたことを語っています。

そんななかで、今回は、石渡説の「弱点」「難点」と思われるものを、「あえて」われわれも提示してみたいと思います。難点を提示すれば、その半面、「強化ポイント」もおのずと明瞭になるでしょうし、われわれが「フェアな書き手」であり、「フェアな追走者」であることもあらためて世の読み手に伝わるかと思いますので。

① 一番は――これは総論というか「背景の問題」ですが――安本美典氏なども嘆きかつ批判しているところの近年の考古学アカデミズムが析出する「科学的」と称する古墳年代観と、石渡理論が少しく解離しているところです。炭素法などの「科学的」と言われる方法の「限界」があり、それについてはつねに今後も批判的に検証し、矛盾点を衝いてゆく必要があります。一方の科学の最前線として形質人類学分子遺伝学が、石渡理論を支持しているのがしかし強みでしょう。このことはただし言うようにあくまで総論なので、以下、各論。



② 「崇神=旨」(そして崇神の父ら)が倭に上陸して、邪馬台国を滅ぼし、列島を制圧していったというその軍事面の証拠、記録、出土物が足りなのではないか?――という問題(たとえば渡来地点たる北部九州で半島系の出土物が出るも、少しく程度が小さく弱いため、反論しうる点)。とくに近年は「文化伝播」説という考え方が横行しているように見える。そのため、そもそもの「騎馬民族征服王朝説」も、「邪馬台国東遷説」もそうですが、大きな政体や軍隊(のようなもの)が移動してゆくような考え方自体が、批判にさらされやすいという保守的な傾向が今日では出てしまう。そのため、「移動」「リロケート」のなるべく少ないセオリーが、あたかも不戦勝のように、結果として無難な理論となってゆく――そんな悪しき傾向を感じる昨今です。

③ おそらくそうした点も把握されているだろうし、その分、「地名論」に石渡氏がこだわっているのだとわれわれは察しています。そして、そんな「地名論」のアプローチは、たとえば岡山平野の「カラ」名オンパレードはたしかに説得的で、読む者が惹起される部分はある。だが、一般に神名や地名など含め、「固有名詞」の扱いというのは、いくらでも恣意的に説を展開できるというきらいがあるために、説得力に限界があるものです。とくに、石渡説はネット上でも好評ではあるものの、こと『日本地名の語源――地名からわかる日本古代国家』(三一書房)だけは、アマゾンレビュー一つを見ても、低評価を食らっています(しかも石渡氏ほどの人がなぜ……という言い方がなされている)。結局、地名・人名のような固有名詞(固有名)論は、こだわりすぎると「第三者への説得力」を維持しづらいという典型的なジャンルということでしょう。反面、同じ固有名詞へのアプローチでも宋書の「倭の五王」の「興」を「おこし」と読むことで、「凡連」(おおしのむらじ)との類縁性を得るようなものは、石渡氏の固有名詞論の白眉であろう。また七支刀の「旨」を「うまし」と読み、ウマシマジ(物部氏らの祖)とリンクさせているのも素晴らしい着眼です。⇒「凡連=興」説、「旨=崇神=物部系」説へとひろがってゆく。


 ④ 前期前方後円墳から馬具がほとんど出土していないこと。前期古墳に三点セット(鏡、玉、剣[武器])を副葬した理由を、邪馬台国の支配者層になりすましたという石渡理論が、少し弱いと思われてしまう。まだしも魏鏡を垂仁朝がなりすましのために大量製造したという説のほうがずっと理にかなっている(なぜなら、捏造されたとする魏鏡には相当の「価値」が生じ、威信財として強みあるからです)。


 ⑤ さらに言えば、これも①とかかわりますが、稲荷山鉄剣(ワカタケル大王の銘文)=471年説が、岩盤のようにまだ固いこと。個人的には、これは論破可能だと思っていますけれどもね。

 

ひとまず以上挙げましたが、①に関しては、石渡派だけにかぎらず、「大和(ヤマト)中心史観」(← 「今は戦前かよ」と思わずツッコミたくなりますよね)を批判する古代史研究の良識派たちの総力を結集して、悪しき年代観は覆していかなければなりません。個別に応戦することはたくさんできますし、状況を見守りながら改善されてゆくかをチェックしなかればなりません。

 ②に関しては、正直なところ、もっともシビアなところだと思います。とくに、崇神もしくは崇神の父親世代からの倭への侵攻と考える場合、時代がピンポイントである分、「だれが見ても明らか」だというほどの検証、立証は難しくなるのは仕方ありません。その点では、征服色の度合いを考える必要はあるかもしれない。たとえば、石渡理論ほどの言いきりや断定ではなく、やや大きな年代の幅で、「大王家=征服王朝(ツングース系)」だという説の論者に寄り添わせてゆくということです。昨今でもこの「大王家=征服王朝」説を考える人も少なくありませんからね。たとえば「竪穴式石室」が加羅由来だというのはすでに否定できない要素であり、「文化伝播」だけの社会的変動だけではこうはならないだろうということを証明すればいいのです。渡来人の人口なら、自然増ではなくて「社会増」(つまり先導的に人びとが移植してきたこと)だと検証できればいいのです。

 ③として、石渡氏は、とくに『日本地名の語源』や「新世紀の古代史」シリーズ以降、「地名論」はじめ「固有名詞論」にとにかくこだわっている様子がうかがえます。わざわざ断言する必要やいわれのないところまで断定的に決めてゆくのは、石渡ファン以外からのツッコミを受けやすくなることもあり、私たちは、「オッカムの剃刀」のことを想起せずにはいられません。オッカムの剃刀とは、「あることを証するためにあまりに多くのことを仮定するべきでない」とする物理学などサイエンスの方針です。仮定が仮定を呼んでしまうのは避け、不動のものに結びついているロジックのみで説明すればいいだけです。すでに明徴に石渡理論が論証していることに対して、仮定から仮定が伸びるような過度の不要なもの言いを後からもする必要はない、ということです。ずばりと本質を衝いている分、あとは傍証をそのほかの理屈から攻めるだけでいいのです。

 昨今のネットの言説を見ても、本当に、石渡理論が普及してきて、それを換骨奪胎して語る人もあらわれてきました(石渡氏の名前を出してるのはかなりの良識派ですが、記事自体に石渡氏の「オリジナル」であることを書かぬふれぬ輩がいるのにはついつい顰蹙せざるをえません)

さらには殊勝なことにこのサイト「倭韓交差王朝説」の説明をパクる人までついには出てきた次第です(笑)。私自身も最初の就職先が出版社だった人間なので「原則」を叩き込まれ「痛い思い」をしてまで思い知らされましたが、ものを語るのが自由であることは当然としても、「引用の原則」、「だれ」の言説かを添えて明らかにしてゆく姿勢だけは同じブロガー執筆者として肝に銘じたいところですね。

ネット上の証拠たる「魚拓」などすぐに取れ保存できるわけですから。こういうところが、メディアリテラシー不足というか、この「大量発話時代」(池澤夏樹)の負の部分ですね。私はむしろ反対に、石渡理論を正面から反対してくれる記事も探しているのですが、その数もないこともないものの、まだ強力な対手となるようなものはありません。ぜひ、controversial論争的)なもの言いが来年は出てきてくれてもいいなと思います。上記したところの「強化ポイント」中心に、われわれも来年の少しずつ書きつづけていきたいと。

最後に、少ない更新ながらも、今年も、過去記事含めて、多くのビューアーに読んでいただけて幸甚でした。最後に自己宣伝をしますと、新記事は少ないのですが、過去記事の見直しやリライトは実はよくやっていますので、より石渡史学入門者に「わかりやすく」なるように努めているところです。

『岩波講座 日本歴史』と石渡理論との親和と違和――「新興」の「河内勢力」について

岩波書店
2014-03-20


このところの読書で、岩波書店で2013年に刊行されている『岩波講座 日本歴史』を読んでいまして思ったことなどを記します。当然ながら、岩波によるこの日本歴史通説シリーズは、いま現在の古代史はじめ日本史研究の最前線が集められたものと考えていいでしょう。イデオロギー的にも偏りはなくて安心して読めるものだと個人的にも思いますし、そうした「岩波ブランド」はまだ存在するはずです(ただし、古墳などの年代観は相変わらず数十年以上古すぎるけれども)

 そして結論的にまず言うと、今回の『岩波講座 日本歴史 第1巻 原始・古代1』(2013年11月刊行)を通読したところ、かつてよりはだいぶ石渡理論に昨今の正統派たちのセオリーが近づいたということを強く感じました。その接近ぶりで眼についたところをかいつまんで紹介しつつ、コメントしたいと思います。もちろん今でも、<倭の五王の「武」=雄略=ワカタケル大王>という等式を、こうした現「講座派」の学者・研究者は崩すところまではまだまだいっていません(早く、崩す新進学者に出てきてほしい!)。ですが、彼ら学者のなかでも、どうしても不可避的に浮上してくる事実、あるいは諸矛盾に耐えきれずに、こうした「学界理論」が(いい意味で)歪み出しているのも感じた次第なのです。

 幾つかあるので、今回は、箇条書き的に記し、世の古代史ファンたちに問いたいと思います。

 なかでも胸に迫ってくるものがあったのは、たとえばこういうくだりです。


《 (四世紀後半は)大規模前方後円墳の築造が大和盆地東南部から北部に移動する時期であり、仿製鏡や石製腕飾り類など副葬品のセットにも変化が起こり、王権内部の変化が示唆されている。この新しい副葬品組成をもつ古墳については、「新興勢力」として捉えられている。この古墳から明らかになる新興勢力は朝鮮半島南部に深く関わっており、たとえば韓国慶尚南道金海市の大成洞古墳群からは、筒形銅器、巴形銅器など新勢力の古墳に通有の副葬品が出土している。このことから、畿内地域と朝鮮半島南部の伽耶地域とを直接結ぶ交易路が機能し始めたと考えられ、それが博多湾を中継点とする交易の衰退と表裏一体の関係であったと推測する。》(菱田哲郎「古墳時代の社会と豪族」 
   『岩波講座 日本歴史 第1巻 原始・古代1』所収 2013年11月刊) 


 ここで菱田氏が書いている「新興勢力」については、同書にも論文を寄せている福永伸哉氏の「対半島交渉から見た古墳時代倭政権の性格」に原文元ネタがあるようで、福永氏は、本書『日本歴史 第1巻 原始・古代1』では、さらに踏み込んでこういう文章を載せています。


《近年では、考古学的にも巨大前方後円墳の築造地が、大和→河内(大阪平野南部)→摂津(大阪平野北部)→大和、のごとく変転していることが実証されており、この現象をいかに歴史的に評価するかという問題》がある(同書 福永伸哉「前方後円墳の成立」より)。

《四世紀後葉には大阪平野南部に百舌鳥・古市古墳群を登場させた河内勢力が加耶勢力との交渉を基盤に台頭するいっぽうで、中国王朝の権威を背景に初期ヤマト政権の主導権を手にしてきた大和盆地東南部では、一〇〇メートル級の大型前方後円墳さえも見られなくなるような衰微の様相がうかがえるのである。》  

この勢力交替について、《前期から中期への時期区分を画するこの勢力交替は、河内勢力が大和盆地東南部勢力を打倒してこれにとってかわったという性格のものでもなかったであろう。倭人社会の地域的な確執が征服戦争ではなく、ある勢力の盟主的主導権を認めて新たな政治統合を生む形で決着することは、弥生時代の倭国乱の段階から認められる特徴である。》


――こうした論文の内容からもわかるように、明らかに、「
河内勢力」を朝鮮半島南部にかかわるものと捉えています。ただ残念なのは、前期から中期への時期区分に関して、4世紀後葉と言っていること。従来の、つまり近年の古墳を古くしようとする考古学と古代史学の悪しき弊がここでも出ているわけですね。応神天皇の陵墓(誉田御廟山古墳)などの古市古墳群がその時代にできるわけがないわけです。ここはこの十数年の傾向なので、つねに古代史ファンは疑問の声をあげるべきポイントです。
ともあれ重要で明瞭なのは、半島勢力の文明・文化的な先進性(← これはいまさら言うまでもないが)と、河内勢力が大和盆地東南部勢力を打倒したのではないという見方です。《盟主的主導権を認めて新たな政治統合を生む》という考え方は、石渡理論が示唆してきた応神天皇の加羅系渡来王権(崇神王朝)への婿入りと王権継承プロセスとも見事に合致している。


 さらに本書でユニークだと思われたのは、田中俊明氏の同所収論文「朝鮮三国の国家形成と倭」に、次のようなちょっとした部位があったことです。それはこれまで石渡氏も林氏も十分に語ってきたように、加耶諸国の天孫思想と、倭=日本の天孫神話は酷似しているわけですが(いわゆる「卵生」神話)、六つの卵のうち、最初にかえったのがあの首露王(石渡理論では崇神天皇)であるとされています。残りの五つの卵は、他の加耶国の始祖となっていったなどと神話は展開してゆきます。われわれがエッと眼の動を止めさせられたのは、加耶諸国では、「邑落」を基本単位とし、その首長を「旱岐(かんき)」と呼んだと田中氏が記しており、そこのところを正確に、「旱岐干支)」とも表現していることです(⇒つまり、日と山をそれぞれの文字からドロップさせて「干支」とも書かれているということ。文献による差があるわけです)。

 われわれは、百済王子の昆支こそが隅田八幡鏡の「日十大王」であるという石渡理論の核心について、その証拠の一つとして、かつて「昆支」自身は「日十大王」を名乗るにあたって自らの痕跡を残すべく、字体のいわゆる偏旁冠脚(へん・つくり・かんむり・あし/へんぼうかんきゃく)を崩し、」「」からそれぞれ「」と「」を抜いて、「」「」を名乗ったのではないかという大胆な説を展開しました(詳細は、本サイト【日十大王の暗号――「論より証拠」倭韓交差王朝説の正しさへの決定打!】をご覧ください)。

 この田中氏の表記をめぐる小さな注釈には、当時の文字史料中にも、このように漢字の偏旁冠脚が容易に落ちたりする一つの証左を見る思いがしますし、改めて、「昆支=日十大王」説の正しさを、確信させられた気持ちです。

また。高句麗の「牟頭婁墓誌」に、「天下四方」というコンセプトが記されていることを、田中史生氏は記しています。これは高句麗王のほうに倭政権よりも先行する「天下思想」が存在していたことを含意させているわけです。知られるとおり、日本には、とくに六、七世紀以降「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)号が史料に見えるようになります。この「治天下」について、《五・六世紀の王権を支えた大王の「治天下」が、中国的なものよりもむしろ高句麗的なものと親和性をもって構想され、醸成されていったこと》がうかがえると、田中氏は言及しています(岩波同書所収「倭の五王と列島支配」より)。倭が高句麗的なものと親和性があったということは、倭政権が、夫余系の百済王族たち(つまりは昆支や継体ら)によって運営されてきたのだから、当然のことと言わねばならないでしょうし、奇しくもそのことを、こうした学者たちの発言は(まったく別の方向から)裏づけています。

田中氏は同論文で、《高句麗南下に対する百済・倭の連携》について語り、その両者を仲介したのは《以前から倭人社会と密接な関係にあった加耶南部》であったと記している。さらにたとえば両上表文(倭王武と百済王余慶=蓋鹵王)の時期と内容の酷似ぶり、同「漢字文化」を持つ人びとが担った事実などにも言及しています。倭王武=昆支と蓋鹵王は、『日本書紀』では「兄弟」ですから、石渡理論を知る者にとっては、これも当然、むべなるかなということです。


本書の各論文については、先にふれたように、いまだ「定説」に呪縛されたままで思考が硬直したところも多く見受けられますが、若い学者たちも多く、ずいぶんと古代史アプローチの様相も変わってきたという印象を持ちました。これは歓迎すべきことでしょう。まだお宝情報も多く眠っているので、最新のオーセンティックな古代史情報を重ねて知ってみたいという古代史ファンには強くお薦めいたします。とくに大学紀要はじめ小さな論文などふだんは目にすることのできぬ一般読者にとっては、ひとまず現状を概観できる格好の書籍になっているでしょう。こうした本は、アンソロジー形式になりがちですし、「朝日」「毎日」クラスの新聞書評欄などでも論じらることはあまりないですから、自ら手にとって、リアルな古代史の「今」にふれてもらいたいと思いました。とくに社会経済史からのアプローチというのは、昨今の古代史の流行のようなものかもしれませんけれども、ずいぶんと役に立ち説得力があるように感じられます。

そして、最後に言いたいのは、こういうことです。

この倭の五王の謎の五世紀に関して、現状の「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇について、異論を唱えるような研究者はいない様子です。しかしながら、上記したように、彼ら研究者たちが特筆する大阪平野の「新興勢力」(百舌鳥・古市古墳群に眠る盟主たち)と彼らの各天皇たちを結んで語ることがまったくできてないという、その事実の無効ぶりです。具体的には、雄略天皇が誉田山古墳の被葬者だというのなら、まだ話は見えてくるのですが、そこまで学者たちもなかなか踏み込めない模様です。なにせ、古墳の年代観がいまだ狂っており、応神陵(誉田山古墳)を古く古く見ています(森浩一氏の年代観が正しいのに、それを頑なに認めていない学会)。

誉田山古墳の被葬者=応神=「新興の河内勢力」>という最初のこの事実に戻らないかぎり、古代史は、怪しく迷走するよりほかはないということですね。そんなことも改めて再考・確認できたのがとてもいい読書体験になりました。

 


 

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