2011年07月05日
松本担当相辞任は「自爆テロ」?
とにかく暑いので、「真昼の極暑の夢」というところだが、松本大臣の突然の辞任は、朝のニュース速報で知ったが、率直に驚いた。東北での発言が、内容的には、そんなに間違っているとは思えないが、確かに、表現が酷いし、しかも、ニュースカメラが回っている前での発言だから、不用意なオフレコ発言ではない。つまり、確信的な発言だったと考えざるえない。もちろん、政治家に少し前になったわけではないから、あのような発言を公の場ですれば、当然辞任要請の声が巻き起こることは、知っていたはずだ。まさか、そんなことは考えもしなかったと理解することは難しい。すると何故あのよう発言を。そして、かくも迅速な辞任を。
そこで、考えたのが、「自爆テロ」だったのではないかということだ。つまり、なかなか辞任しない管首相を引きずり下ろすために、復興相の依頼があったことを幸い、それを引き受けて、あえて問題発言を行い、さっさと辞任して、首相の任命責任を問う声を誘発するとともに、首相の求心力の低下を更に押し進める。
民主党の人間関係などは興味ないので、どのような人的つながりがあるのか知らないが、そうとでも考えないと、不自然であるし、また、管首相が、本当に適切な人事として行い、かつ当人が、まじめに取り組もうと思っていて、あのような発言をしてしまったのだとしたら、日本の政治家のあまりの水準の低さに暗澹たる気持ちになってしまうし、そこまでひどくはないのでは?と思うと、この自爆テロ説が思いついたわけである。反管派が放った特攻隊員だったというわけだ。
「真昼の極暑の夢」ではあるが。
それにしても、管という人物は、ほんのちょっとした成功で有頂天になり、さあ大丈夫と不用意なしかけを出して、窮地に陥る、そういうことを何度繰り返すのだろうか。
2010年10月29日
まだわからない点がある
いじめによる自殺は、決して日本だけの現象ではないが、日本では「教育の体質」が関係していると見られる面があり、やはり大きな教育上の問題であろう。そして、最近またいじめによく自殺がニュースで取り上げられることが多くなっているような気がする。
文部科学省がいじめの定義を、客観主義から主観主義へと変更し、学校現場に対応をきちんととるように指導して、統計的にはいじめが減ったとされているが、そんなに簡単にいじめがなくなるわけではない。
ところで、いくつか気になる事例のひとつとして、追手門学院大学で、インド人留学生が昨年「いじめが耐えられない」という遺書を残して飛び下り自殺し、更に病気であった父親が今年後追い自殺したということ、そして、遺族が調査を依頼したにもかかわらず、大学側がそれを隠蔽していると報じられている事件がある。
事実であれば、とんでもない事件だと思うが、報道が産経新聞程度で、他のメディアはあまり報道しておらず、産経新聞の報道についても、肝心のところが分からないのである。
疑問を整理すると、
1 大学でもいじめらあると思うが、自殺に至るような酷いいじめが継続するということは、通常は考えられない。いろいろなブログなどを読んでも、その点は多くの人が共通認識をもっているようだ。大学生というのは、基本的に、自ら選んだごく親しい人以外とは、ほとんどつきあわないという生活をしており、クラスがあったとしても、その人間関係は希薄なのが普通である。そこがあまり居心地がよくなければ、全く出てこない学生はいくらでもいる、というより、それが普通である。出てこないと、気まずくなるというのは、演習のような少人数で、かなり拘束性の高い授業の場合だけだろう。
報道ではどのようないじめがあったのか、私の知る限りでは書かれていないので、やはり留学生という立場からくる、大学文化に対する感覚の違いがあったのかも知れないという可能性は拭いきれない。
2 大学側がずいぶん追求されているようだが、報道によると、成績優秀者に与える奨学金をこの学生は受けることが決まっていたという。どのような選抜があるのかわからないが、通常は大学の授業にしっかりと出て、かなり良い成績をとらなければ、成績優秀者に与えられる奨学金をとることはできないだろうから、授業なども積極的に参加して、模範的な学生と、大学は解釈していたはずである。それが突然いじめによる自殺と聞かされたら、?と思うことは不自然ではない。ただ、調査等を求められれば、やはり、誠実に調査すべきで、本当に隠蔽工作をしたのなら、非難されても仕方ないだろう。
3 一番理解しにくいのは、ゼミ担当教授という人の行動である。ゼミ担当教授は、いじめが確かにあったと認識して、大学側にちゃんと調査するように強く求めていたらしい。しかし、大学側がその教授を窓口から外したということになっており、そのことも大学側が非難されるひとつの理由になっている。
ところで、ゼミ担当教授というのは、いわば担任のようなもので、大学では、担当学生と親しく接することが当然とされる唯一の立場である。通常講義などに出席している学生を、名前と顔が一致する形で記憶することは、大学ではほとんどないといってよい。しかし、ゼミの場合だけは異なる。教師は学生をきちんと把握し、それぞれの研究課題を指導しているわけだ。
講義などでいじめがあるということは、あまり考えられないのだが、たとえあったとしても、自殺するほど深刻に考えることは、考えにくい。自殺する原因となったいじめがあったのだとしたら、それはゼミにおいてであると考えるのが、最も自然であろう。とすると、このゼミ担当教授は、何をしていたのだろうか。確かに報道によれば、いじめがあったと認識していたらしい。そうならば、いじめをなくすような指導を、いくら大学とはいえ、ゼミなのだから、当然しなければならない。防げなかったとしてもそれは相手のあることだから、批判できないかも知れないが、しかし、自分の責任を棚にあげて、大学側を批判するというのは、何か腑に落ちないものがある。
私は関東でしか生活したことがないので、この大学のことは全く知らないが、ホームページによると、人権のための活動は、大学として活発におこなっているようだ。
いろいろと背景について考えたくなるが、それはここでは省略する。
大学は、いじめによる自殺は滅多にないが、どこの大学でも、学生の自殺は少なくないし、教員としては、いつもそのようなことがないように、努力をしている。ほとんどは鬱病等の疾患が原因であることが多いから、防ぐといっても限界があるのだが、できるだけ教員と学生の距離を近くできるような工夫をしている。少なくとも私の勤務する大学ではそうだと思う。
報道が正しいとしたら、この大学の責任はいろいろあると思うが、私自身は、報道がどこまで正確に事実を伝えているか、疑問があるので、メディアにはもう少し丁寧な調査と報道を期待したい。
2010年10月15日
国への提訴など、自爆ではないか
小沢一郎氏が、検察審査会の決定は無効であるという主張で国を訴えるという記事が出ている。
産経新聞(2010.10.15)によると、以下のようだ。
−−−
民主党の小沢一郎元代表(68)の資金管理団体「陸山会」をめぐる政治資金規正法違反事件で、小沢氏は15日、東京第5検察審査会が出した起訴議決は検察審査会法に違反しており無効などとして、国を相手取り、起訴議決の取り消しと、起訴手続きの差し止めなどを求める訴訟を東京地裁に起こした。
小沢氏の弁護士は「議決は行政処分にあたる」と主張しており、強制起訴に向け、検察官役となる指定弁護士を同地裁が選任する手続きを停止するよう求めている。提訴と同時に仮差し止めも申し立てた。
−−−
法律論は素人なのでわからないが、少なくとも小沢氏としては大きな賭であり、かつますます泥沼に入り込むことにしかならないのではないだろうか。もし、起訴議決の取消、および選任手続の停止の双方が否定されたら、そのこと自体で窮地に陥ることになる。選任手続の方は、取消の判断を待つということになるかも知れないが、国民が直接参加する形での決議を受け入れないということは、事実上国民の声を聞かないと宣言するに等しい。検察の主張を変えることがてきるように設置された審議会なのだから、検察が審議して不起訴にしたことを変えることがけしからんというのでは、検察審査会そのものを否定しているようにも聞こえる。
この話題は2度書いたが、この件の基本は、「法律問題」ではなく、「政治問題」である。小沢氏は彼を排除しようという政治勢力との権力闘争に敗れつつあるということだろう。しかし、彼が政治家として国民の信頼を勝ち取ることができれれば、劣勢を押し返すことができる。法律論や密室の協議(検察の取り調べ)でいくら攻勢をかけても、国民の支持にはつながらない。むしろ、そういう手法に向かうこと自体が、不信感をかっている原因である。
最近は民主党執行部は、政倫会への出席を模索する動きにでている。当然、反小沢勢力の意思だろう。しかし、私が理解できないのは、小沢支持グループがそうした国会の委員会での弁明を止めさせようとしていることだ。国会での弁明を拒否してきたことが、国民の支持を失った最大の原因であるのに、ますます小沢支持を低下させる動きに出ていることが、不可解である。本当はまずいことがあり、それが野党のつっこみで出てしまうのではないかという不安をもっているのだろうか。国民はそう思ってしまうわけだ。そういうことの積み重ねが現在に至っているのであって、小沢氏を有罪と多くの人が思っているわけではないだろう。強制起訴によって無罪になっても、小沢氏への政治家としての信頼が再度高まるとは思えない。国民が疑念をもっているときに、国民に直接説明しようとしない政治家を信頼するはずがないではないか。
小沢氏は、検察審議会の決定取消や、指定弁護士の選任停止などを求めるのではなく、証人喚問に応じて、堂々と説明すればよい。それで国民が納得すれば、その後の裁判など、恐れることはないのである。しかし、小沢氏はそうしないだろうし、また、まわりもそうさせないように奮闘するだろう。
国民に説明できない政治家およびその取り巻き集団は、民主主義的な政治の世界では不要である。
2010年08月02日
全国学力テストは原則希望参加にすべき
産経新聞が社説で、またまた全国学力テストの悉皆調査復活を主張している。そして、その理由に「競争の強化」を明確にあげている。「全員参加に戻し競い合え」という題が付けられている。よほど、産経新聞は「競争」が好きなようだ。勉強は競争のためにやるものではないのだ。
競争そのものの問題や悉皆調査の問題は、後で書くとして、学力の傾向に関して、漱石の「吾輩は猫である」の文章の意味がわからないことを課題としてあげている。「夏目漱石の『吾輩は猫である』の「羊の御厄介(ごやっかい)になったり、蚕(かいこ)のお世話になったり」という衣服を着ることを例えた表現が分からない生徒も少なくない。文豪の作品に親しまない弊害など、現代の子供の課題がうかがえる。」というわけだ。おそらくこの部分を読んで「苦笑」した読者は多いに違いない。そもそも漱石の「吾輩は猫である」は、「実際にはほとんど読まれない有名作品」の代表作ではないかと思うのだが、また読んだとしてもあれを「読みこなせる」現代人は、ごくごく少数しかいないのではなかろうか。私も若い頃読んだことは読んだが、とにかく漱石の漢籍と欧米文化の深い教養とその遠慮なき開陳に、ほとほと難儀した記憶しかない。だいたい産経新聞の論説委員は、この小説を「理解している」と自信をもっていえるのだろうか。少なくとも、様々な産経の社説を読んできたが、およそ論理的思考力の緩い人たちだという印象だから、とうてい「読みこなせる」人たちとは思えないのだが。
さて、本題だ。
「文科省の調査では都道府県教育委員会のうち「全員参加が望ましい」とする教委が7割を占める。多くの保護者が学校別の成績公表を望んでいるという調査もある。」ということから、悉皆調査を望んでいるという声が圧倒的であることを主張する。しかし、悉皆調査なら、すべて「国の負担」でやってくれるのだから、自分の負担(現在は採点)でやるよりいいと思うのは当たり前の話だ。本当に必要だと思うなら、自分の負担(費用なり採点等の労力)を提供することも厭わないのが当然だろう。そういうことを主張するのではなく、国の負担によりかかって参加したいという意向を、そのまま肯定するというのは、産経新聞が、いかに「自立的」であることを軽視しているかがわかる。
この社説には現れていないが、別の産経の記事では、統一的な採点ではないので、他との比較や全体の中での位置がわからないから、統一的な採点が必要だと主張されていた。
この問題はいくつかある。
試験というのは、本当は「教師の自作」「教師の採点」が最も教育的に効果がある。それを積み重ねることで、学力はついていくものだ。しかし、もっと他と比較したいというときに、より大きな単位のテストを望む。そのこと自体の効果はあるとしても、単位が多くなればなるほど、実際の授業との距離が大きくなり、またそのテストの結果を日々の授業に活かすことも難しくなる。実際に、全国学力テストの結果を授業に活かしている現場は、私の聞く限りきわめて少ない。活かせるような資料もこないし、また、時間もないという。とするならば、確かに比較の数値を気にする結果になるだけだ。何位だからもっと頑張ろうとか、そういうはっぱかけに役に立つのがせいぜいなのだ。
もし、本当に自分たちの役にたつことを意図して、学力テストに参加したいというのならば、自分たちの負担を当然負うべきであるし、またそれ抜きに効果があるとは思えないのだ。だから、3割の指定ではなく、統計的に有効であるサンプル数まで指定を減らし、原則希望参加にしたほうが、教育効果はあがるはずなのだ。もしそんなことは面倒だ、と現場がいうならば、産経新聞はそういう姿勢こそ批判すべきではなかろうか。
さらに問題をあげると、他との比較を重視すると、確かに統一採点となるが、しかし、全国の生徒のテストを統一的に採点するとなると、当然選択問題となり、記述問題はきわめて難しくなりる。しかし、産経新聞は「記述式問題が苦手な傾向は変わらない」と指摘しているのだから、記述問題をしっかり出し、また現場でも記述式のテストを日常的にやるべきだと考えているのだろう。しかし、全国の生徒全員に、(もちろん2学年だけだが)記述式のテストをして、採点をする、それをデータ化して分析するということが、毎年毎年可能だと思っているのだろうか。PISAでは記述式を重視しているが、サンプルは各国1万以下であり、しかも3年に一度だ。産経新聞の感覚はきわめて非現実的だ。
さて、何度も書いたが、1960年代の全国学力テストは、日教組が「競争主義」を否定したわけではなく、本質的な批判としては、国家が「正解」を決めることを批判したのであり、また、弊害としては、「競争」そのものではなく、「競争によって生じた不正」をあげていたのである。実際に、再開された全国学力テストでも、不正はいくつも報道されている。全国的な競争試験を強制としてやれば、不正が起きるのは必然だ。しかし、産経新聞は、一切この「不正」を取り上げることはない。不正などまるで興味がないという感じだ。しかし、教育現場が不正をせざるをえないような仕組みは、制度として問題であろう。
産経新聞はもっと懸命に子どもと取り組んでいる教師たちが、何に困っているか、「政治的」にではなく、「教育的」に問題に取り組むべきだ。
競争そのものの問題や悉皆調査の問題は、後で書くとして、学力の傾向に関して、漱石の「吾輩は猫である」の文章の意味がわからないことを課題としてあげている。「夏目漱石の『吾輩は猫である』の「羊の御厄介(ごやっかい)になったり、蚕(かいこ)のお世話になったり」という衣服を着ることを例えた表現が分からない生徒も少なくない。文豪の作品に親しまない弊害など、現代の子供の課題がうかがえる。」というわけだ。おそらくこの部分を読んで「苦笑」した読者は多いに違いない。そもそも漱石の「吾輩は猫である」は、「実際にはほとんど読まれない有名作品」の代表作ではないかと思うのだが、また読んだとしてもあれを「読みこなせる」現代人は、ごくごく少数しかいないのではなかろうか。私も若い頃読んだことは読んだが、とにかく漱石の漢籍と欧米文化の深い教養とその遠慮なき開陳に、ほとほと難儀した記憶しかない。だいたい産経新聞の論説委員は、この小説を「理解している」と自信をもっていえるのだろうか。少なくとも、様々な産経の社説を読んできたが、およそ論理的思考力の緩い人たちだという印象だから、とうてい「読みこなせる」人たちとは思えないのだが。
さて、本題だ。
「文科省の調査では都道府県教育委員会のうち「全員参加が望ましい」とする教委が7割を占める。多くの保護者が学校別の成績公表を望んでいるという調査もある。」ということから、悉皆調査を望んでいるという声が圧倒的であることを主張する。しかし、悉皆調査なら、すべて「国の負担」でやってくれるのだから、自分の負担(現在は採点)でやるよりいいと思うのは当たり前の話だ。本当に必要だと思うなら、自分の負担(費用なり採点等の労力)を提供することも厭わないのが当然だろう。そういうことを主張するのではなく、国の負担によりかかって参加したいという意向を、そのまま肯定するというのは、産経新聞が、いかに「自立的」であることを軽視しているかがわかる。
この社説には現れていないが、別の産経の記事では、統一的な採点ではないので、他との比較や全体の中での位置がわからないから、統一的な採点が必要だと主張されていた。
この問題はいくつかある。
試験というのは、本当は「教師の自作」「教師の採点」が最も教育的に効果がある。それを積み重ねることで、学力はついていくものだ。しかし、もっと他と比較したいというときに、より大きな単位のテストを望む。そのこと自体の効果はあるとしても、単位が多くなればなるほど、実際の授業との距離が大きくなり、またそのテストの結果を日々の授業に活かすことも難しくなる。実際に、全国学力テストの結果を授業に活かしている現場は、私の聞く限りきわめて少ない。活かせるような資料もこないし、また、時間もないという。とするならば、確かに比較の数値を気にする結果になるだけだ。何位だからもっと頑張ろうとか、そういうはっぱかけに役に立つのがせいぜいなのだ。
もし、本当に自分たちの役にたつことを意図して、学力テストに参加したいというのならば、自分たちの負担を当然負うべきであるし、またそれ抜きに効果があるとは思えないのだ。だから、3割の指定ではなく、統計的に有効であるサンプル数まで指定を減らし、原則希望参加にしたほうが、教育効果はあがるはずなのだ。もしそんなことは面倒だ、と現場がいうならば、産経新聞はそういう姿勢こそ批判すべきではなかろうか。
さらに問題をあげると、他との比較を重視すると、確かに統一採点となるが、しかし、全国の生徒のテストを統一的に採点するとなると、当然選択問題となり、記述問題はきわめて難しくなりる。しかし、産経新聞は「記述式問題が苦手な傾向は変わらない」と指摘しているのだから、記述問題をしっかり出し、また現場でも記述式のテストを日常的にやるべきだと考えているのだろう。しかし、全国の生徒全員に、(もちろん2学年だけだが)記述式のテストをして、採点をする、それをデータ化して分析するということが、毎年毎年可能だと思っているのだろうか。PISAでは記述式を重視しているが、サンプルは各国1万以下であり、しかも3年に一度だ。産経新聞の感覚はきわめて非現実的だ。
さて、何度も書いたが、1960年代の全国学力テストは、日教組が「競争主義」を否定したわけではなく、本質的な批判としては、国家が「正解」を決めることを批判したのであり、また、弊害としては、「競争」そのものではなく、「競争によって生じた不正」をあげていたのである。実際に、再開された全国学力テストでも、不正はいくつも報道されている。全国的な競争試験を強制としてやれば、不正が起きるのは必然だ。しかし、産経新聞は、一切この「不正」を取り上げることはない。不正などまるで興味がないという感じだ。しかし、教育現場が不正をせざるをえないような仕組みは、制度として問題であろう。
産経新聞はもっと懸命に子どもと取り組んでいる教師たちが、何に困っているか、「政治的」にではなく、「教育的」に問題に取り組むべきだ。
2010年03月11日
朝鮮学校無償化適用は、「政治主義的反対」の結果
3月11日付け産経新聞(インターネット版)によると、政府は朝鮮学校への無償化を適用する方向になっている。これはごく自然な流れだろう。もちろん、私は何度かここで書いたように、外国人学校を除外するのは当然であると考えているが、産経や橋下知事の朝鮮学校に反対する論理からして、その反作用として政府は賛成に廻らざるをえないと考えていた。
橋下知事が、朝鮮はナチス国家と同じだとか、あるいは政府内でも拉致担当大臣が、拉致の制裁の一環として、というような理由をあげて反対している以上、政治と教育を一緒にするなという論理が優勢になることは目に見えていた。橋下知事の発言を新聞で読んで、「ああ、この人は、朝鮮学校の無償化を望んでいるのか」と思わざるをえなかった。もし、あのような発言が、無償化阻止に有効であると橋下知事が思っていたとしたら、あまりに無知というべきだろう。
産経新聞は今後どのような論調をとるのだろうか。産経新聞自身が、政治と教育を乱暴に混同させる論調で朝鮮学校への無償化適用に反対をしてきたわけだから、これまで通り、政治主義的に反対を続けるのだろうか。しかし、北朝鮮の政治に対して、朝鮮学校の子どもたちに責任があるわけではない。親の犯罪をもって子どもを差別することも、日本国憲法上は許されない差別なのだから、まして、肉親でもない政治家の責任を、外国で学んでいる子どもたちにとらせることが、適切であるはずがない。
3月10日付け産経新聞(インターネット版)が報じているように、「川端文科相は「文科省としては、今おっしゃいました実態の話、あるいは国民感情の問題、あるいは外交上の配慮等々を(無償化対象の)客観的判断に組み込むことは前提にしていない」と述べ、」という文相の言葉は適切なのである。だから、政治的理由で反対することは、実施的に賛成する機能を果たさざるをえない。どんなに北朝鮮の政治に問題があろうとも、日本国内で生活する人びとに対して、法的に認められている権利は認めなければならない。
この問題はあくまでも国内法と国際法の規定および原則に従って考えるべきで、テレビのゲストの発言でも、「外国人学校とは何か」という適切な論理で主張していた人が何人かいたが、外国人学校というのは、外国で学ぶ子どもたちが、自国の教育を外国でも受けられるようにするための機関なのであって、そこに財政的補助をすることは、内政干渉に近いものなのである。もちろん、相互協定を結ぶことによって国内と同様の待遇を与えることは可能だろうが、そうでない以上、内政干渉的政策はとるべきではない。
2010年02月16日
本当に専門家に届いていなかったのか
この記事はいいたいことは分かるが、あまりに矛盾したことが書かれているので、誰が書いたのかと疑問に思ってしまう。もっとも署名記事だから驚くのだが。題名が「無言のSOS、専門家に届かず 江戸川区の7歳虐待死」となっているのだが、記事の中には、死んだ海渡君が通っていた歯医者があざを見つけ、区の子ども家庭支援センターに通報し、その際に「パパにぶたれた。ママは見ていて何も言わない。僕は悪いことはしていない」と話したことも伝えたと書かれている。つまり、無言のSOSではなかったし、専門家が専門機関にきちんと「届けた」わけだ。そういう記事の内容なのに、何故「無言のSOS」とか、「専門家に届かず」などという題名をつけるのか。周りの責任を軽くしてあげようかというような配慮なのだろうか。まさかとは思うが。
これは決して軽いことではないだろう。事実の解釈の誤りではなく、事態を違うように伝えており、そのことは事実を間違って理解させるからである。この題からは、結局、本人がちゃんと伝えなかったとか、あるいは専門機関が知ることができたらなんとかできたのに、とか、そういう解釈を生み出すからである。しかし、専門機関は「知ったのに何もできなかった」というのが事実なわけである。少なくとも記事を読めば、それ以外の解釈は出て来ない。とすれば、専門機関のどこに責任があるのか、それを解明しなければならないはずなのに、違った課題に誘導してしまう。
江戸川区の子ども家庭支援センターのホームページを見てみた。そうすると、そこには「明るい未来を子どもたちに〜〜江戸川区児童虐待防止ガイド〜〜」というパンフレットが掲載されている。ホームページにはPDFで載っているが、おそらく冊子の形で多数が配布されているに違いない。(厚生労働省のものを転載したとある。)平成20年4月となっているので、約2年前だ。これを読んでみると、「緊急度アセスメントシート」というのがあり、それぞれの事態の緊急度と対応について図式化されている。そして、緊急度の高い可能性を知るための質問があり、noだと緊急度が下がる質問になり、対応もゆるやかになる。
最初の質問はこうだ。
「子どもの保護者が保護を求めている。」
そしてその項目の細目として、
「□子ども自身が保護・救済を求めている。」
「□保護者が子どもの保護を求めている。」
この項目がイエスだと、
「子どもの保護者が訴えている状況が切迫している。」
細目が
「確認には至らないものの性的虐待の疑いが濃厚」
「このままでは何をするかわからない」「殺してしまいそう」などの訴え。
この項目に当てはまると「緊急度AA」となり、「分離を前提とした緊急介入」となる。そして、この項目がノーでも、「子どもに既に重大な結果が生じている」となると、この対応となる。
以下、興味のある人は、ぜひこれを見て欲しいが、ここまで読んでも、かなりお粗末なシートであると感じるし、また、このシートを前提としても、江戸川区の子ども家庭支援センターのとった対応は疑問だらけだ。
私は児童虐待問題の専門家ではないが、このシートのおかしさはいくらでも指摘できる。シートがおかしければ、対応がおかしくなるのは当然であろう。本当にこれは専門家が作成したのだろうか。
そもそもの出発点が「子どもの保護者が保護を求めている」とあるが、多くの調査が指摘しているように、子どもに虐待するのは、多くが母親であり、次に父親である。父親が全くの放任タイプの場合は、母子密着の中で虐待が起きるのであり、虐待をしている当人が「保護を求めてくる」などということは、通常あり得ないではないか。もちろん、虐待しながらも辛いのだろうから、虐待している本人が訴えてくることもないとはいえないだろうが、それは自分を犯罪者にするようなものだから、例外的だろう。
このシートのおかしな点は、流れが一方通行だということだ。最初から深刻な事態として把握される場合もあるが、むしろ多くは、教師や医者などの専門家が偶然見つけたり、近所の人が様子が変だと思ったというようなところから始まるのではなかろうか。そして、直ちに深刻だと分からないことも多いはずである。だから、見つけたパターンごとに、そして、程度の軽いと判断されるところから、次第に深刻かも知れないと判断できるような系列も含む、双方向のシートになっていなければならないはずである。このシートだと、結局ノー、ノーと判断されていって、あまり緊急ではないと判断されがちである。
としても、子ども家庭支援センターの判断がおかしいのは、最初に「子ども自身が保護・救済を求めている」という項目があるのに、この事例がそのように判断されなかったことである。
歯医者によれば、子ども自身が、パパにぶたれた、ママは見ていても何も言わない、僕は悪いことはしていないと、明確に医者に語っている。これは「保護・救済を求めている」ことに入らないのか。虐待されている子どもの多くが、虐待している親をかばい、自分が悪いと述べると言われている。そのことを考えると、このように明確に、自分は悪くないのに、父親が殴っていると医者に訴えていることは、極めて事態が深刻であることを予想させるに十分である。このシートの「子ども自身が訴えている」ということを、「子ども自身が駆け込んできて保護を求めた」などということに限定しているとしたら、まったくの無理解であるし、また、そうではなく、このような事例も含めているのだとしたら、受けた担当者の鈍さ以外のなにものでもないだろう。朝日の記事によると、センターは学校に連絡、学校から校長・副校長・担任が家庭訪問した結果、「二度としない」という約束をしたという報告をセンターにしたところ、センターは「緊急性はない」と判断したというのだが、このシートがどのように活用されたのだろうか。そもそも、家庭虐待の事実を学校に伝え、学校に対応を任せる、そしてその結果をよく吟味もせずに「緊急性なし」としてしまう。このまずいシートでも、常識的にみれば、緊急性があるとしか思えないのだが。これは、「安全配慮義務」に対する重大な過失と思われるのだがどうだろうか。
さて、学校側の対応はどうだったのだろうか。
記事によると、この家庭訪問のあと、副校長が「食事はカップラーメンなのか」と聞いたことに激昂して、子どもを学校に行かせなくなったという。学校は虐待を疑うより、信頼関係の回復に躍起だったという。そして、そのまま悲劇に至ってしまったようだ。親は教育委員会にも訴えていたという。
ここにはいくつもの検討課題があるように思われる。
子どもを殺してしまうような親だから、当然クレームをつけることになれば、尋常ではないはずである。こうした親に対する対応には、学校は慣れていない。慣れていなくてもある程度は仕方ないだろう。もちろん、どのような親でも対応できる方が望ましいし、「食事はカップラーメンしか与えていないんですか?」などと聞いたのだとしたら、もう少し聞き方に工夫があってしかるべきだろう。しかし、相手が子どもを行かせないなどという対応になったら、虐待対策よりは、信頼回復を優先させたということも、学校側としては合理的であると思う。
むしろ問題は教育委員会だろう。意図的に学校に行かせないのだから、義務就学違反となるので、その点の対応はとらなかったのだろうか。当然虐待の疑いがあるのだから、福祉や警察と連携することも必要だったろう。ただいずれにせよ、児童相談所や子ども家庭支援センターの対応に疑問が残る。りっぱなパンフレットを作っても、それを実践しなければ何の意味もない。
2010年02月13日
自転車も交通上の責任を
今日の産経新聞(インターネット版)に、「自転車で加害者に−−各種保険の特約で安心」という、保険会社の宣伝みたいな記事が掲載されていたが、それはさておき、書かれていることは重要なことだし、普段感じていることだ。
自転車に乗らなくなってずいぶんたつが、自転車だけに乗っていたときにはわからなかった危険性が、車に乗るようになって、すごく切実に感じられるようになった。そういう経験は多くの人がしているに違いない。とにかく、自転車は交通ルールを守る必要がないと思っているとしか思えない子どもが少なくない。
先日もあるスーパーマーケットの駐車場の入り口で、ひどく危険な状況を見た。車道から歩道を経て、駐車場の入り口があるのだが、当然車は左折して入ることになる。歩行者があれば、通常車が譲って、歩行者が通り過ぎてから入り口に入るわけである。ある女性が運転している車が車道から歩道に入りかけたときに、歩道を勢いをつけていたらしい小学生の運転する自転車が、その車の前を横切った。ぶつかりそうになった子どもは、とっさに車をよけながら、「危ない」と叫んで通り過ぎていった。私はその叫び声でその事態に気づいたので、正確な事情はわからないが、入ろうとしていた車は、ぴたりと止まっていたし、運転手の不注意は感じられなかった。急ブレーキの音もまったくしなかった。当然方向指示器も出していたろうから、大人の自転車であれば、自分が先にいけるか、車が入るのを待つか判断した上で対応したろう。しかし、子どもだったからか、たぶん車が入ろうとしている態勢であるのに、飛び込んできたと感じられた。つまり、運転手は子どもに気づき車を止め、子どもも減速するのではないかと思っていたところ、自転車は減速せずに突っ込んできて、よけて斜めの態勢になって、それが「危ない」という叫びになったような状況だった。運転者に対して、危ないじゃないか、という注意の叫びではなく。
これで事故になったら、やはり運転手の責任になるのだろうか、といささか憂鬱な気分になった。自転車は歩道を運転してはいけないのだから、明らかに自転車は交通違反をしていたわけだ。自転車は車の後ろを走っていたのだから、車道を走っていれば、起きない「危険」だった。
この例は私自身が運転していてひやりとしたわけではないが、もちろん、何度か危険な運転をしている自転車を、車内から見たことがある。運転中に自転車を見たら、100%用心するので、今のところ、危険な事態はあまり経験していないが、やはり、交通に関する法はしっかりと教え、かつ、この産経新聞が報じているように、事故を起こしたら責任をとらされるということもきちんと教える必要があると感じる。産経の記事は、女子高校生が加害者となって、5000万円の損害賠償を判決で命じられたという内容である。そういえば、私は駅まで30程度ある道を歩いていくことが度々あるのだが、暗くなりかけたところで、突然角の見えないところから、猛スピードで走ってきた自転車に危うくぶつけられそうになったことは数回ある。この記事を読んだからには、もしけがをしたら、損害賠償を請求しようという気になった。
ことほど左様に、危険な運転をする自転車、特に子どもの運転が多い。
これだけではなく、子どもは自分の行った行為によって、権利侵害をしたり、けがさせたりしても、責任を問われないと思っている者がほとんどだし、また、実際に教師もそのように教えてしまっている例が多いのではなかろうか。ネットでの誹謗にしても、わからないと思っているかも知れないが、調べればわかってしまうとか、いじめだからよくないだけではなく、賠償責任を問われることがあると、きちんと教えている教師や親がどれだけいるだろうか。人を殺しても責任を問われないと、大人も思っている場合が多い。しかし、この女子高校生のように、莫大な賠償金を請求されることは、ある面、刑事責任を問われるよりも、ずっと人生を狂わせるし、大きな重荷を背負うことになる。
実際に責任を問われることがあることは、しっかり教えていく必要があるし、また、この産経新聞の記事が紹介しているように、自転車の例でいれば、自転車の保険に加入することを、もっと普及させていく必要があるだろう。そうすれば、自覚も高まるだろうし。
2009年11月20日
著作権は延長ではなく、縮小すべき
著作権の延長は本当に文化の興隆に貢献するのか。
私は音楽好きなので、音楽を例にとろう。作曲家で著作権確立のために尽力した人にリヒァルト・シュトラウスがいる。そのために、リヒァルト・シュトラウスの死後の著作権は、その管理団体が極めて厳格に管理したようで、オペラなどとくに高額の著作権料をとっていたらしい。シュトラウスのオペラの「バラの騎士」の優れた解釈者として有名なカルロス・クライバーは、ミュンヘンとウィーンのオペラの引っ越し公演で、10年ちょっとの間隔を経て、2度日本で演奏した。私はウィーンのときの最終公演を聴いて感動したのだが、そのプログラムに記されていたところによると、ウィーンのときの著作権料は、ミュンヘンのときの100倍だったそうである。ミュンヘンのときが100万だったとしたら、ウィーンのときには、1億だ。とんでもない数字である。
シュトラウスは1947年に死んだと思うので、1997年まで著作権が続いたことになる。(ここらは1、2年の誤差があるかも知れない。)日本では、21世紀になってシュトラウスのオペラ公演が非常に盛んになった。これは明らかに、著作権が切れたために、上演しやすくなったわけである。つまり、著作権がネックになって、上演したいが、経済的負担が大きいということで、上演が難しい状況だったのに対して、著作権が切れたとたんに、たくさん上演されるようになるということは、そもそもオペラにとって、どちらか大切なのか。作曲家自身は既に50年近く前に亡くなっているのだから、本当のところ、誰がこの料金によって利益を得ているのかわからない。遺族としても、孫の世代だろう。
音楽愛好家にとっては、見たい音楽の公演が著作権のしばりによって、少なくなるということが、好ましい状況であるはずがない。実際に作曲した人の収入になるのならば、それは当然としても、50年もたってなおかつその権利相続者に支払い義務があって、実際の公演が少なくなる、それだけ親しまれる機会が少なくなることを、作曲者が望むだろうか。
それを70年にするという。高齢まで生きた著作者であれば、曾孫に支払うことになることになるだろう。
それが世界標準だなどというが、アメリカが押しつけているだけではないか。しかも、ディズニーの権利を守るために。民主党もおかしなことを言い出すものだ。
2007年09月05日
ウィキペディアを使うことは問題か
朝日新聞のインターネット版9月4日にウィキペディアに関する記事がでている。静岡新聞のコラムが、ウィキペディアを参照して書いたのに、著作権法に基づく処置(引用明記)をしなかったということで、不適切であったとお詫びをしたということだが、実は、新聞社幹部は、出典を明記しなかったことではなく、むしろ、ウィキペディアに依拠して文章を書いたことを問題にしているようで、今後そのようなことがないようにと、社内的に釘を指したという。こういうブログを読んでいる人なら、ウィキペディアを利用したことがあるだろうが、もちろん、誰でも書けるのだから、記事の信頼性は専門家が書いた有料の百科事典より低いことは明らかだ。これは、ウィキペディアの創始者であるウェールズ自身がインタビューで述べていることで、調べるとっかかりとしてはとても便利だが、最終的にウィキペディアだけに依存して文章を書くことはよくないと、明確に断っている。(Englsh Journal 8月号に掲載されたインタビュー)
しかし、考えてみれば、そういうことは、どんな資料についても言えることで、信頼度というのは「程度の差」に過ぎない。平凡社の百科事典やブリタニカなら、どんなことでも信頼できると考えるのはおかしい。市販の百科事典は改訂を頻繁に行うことはできないから、新しい事態が判明した内容については、当然信頼性が低いことがありうるのであって、そういう情報については、日々内容が改訂されていくウィキペディアの方が信頼性が高いこともありうる。
専門家の中には、ウィキペディアなどのような「オンライン上の情報」を認めない人もいるが、あまりにも時代錯誤というべきだろう。ウィキペディアは250カ国語で書かれているという点で、英語のようなメジャー言語で集められる情報の限界を打破している面があることも重要な意味をもっている。文化や習慣など、現地の人でなければなかなか説明できない事柄がたくさんあるが、マイナーな言語によるウィキペディアは、平凡社やブリタニカでは得られない情報がたくさんあるはずである。エスペラントの百科事典など、現在ではウィキペディアだからこそ可能だといえる。
そして、どんなに既存メディア側がウィキペディアの信頼性の低さを指摘しても、実際に学生がレポートを書く時に、もっともたくさん利用するのはウィキペディアである。それは無料だからだ。昔から百科事典は装飾品的な側面があったが、ウィキペディアは装飾品ではなく、実際にたくさんの人によって使われている極めてめずらしい百科事典なのだ。だから、どのように利用すべきかということを注意していくべきで、「ウィキペディアを使うな」というようなことを言っても、それは無力なだけだ。
しかし、考えてみれば、そういうことは、どんな資料についても言えることで、信頼度というのは「程度の差」に過ぎない。平凡社の百科事典やブリタニカなら、どんなことでも信頼できると考えるのはおかしい。市販の百科事典は改訂を頻繁に行うことはできないから、新しい事態が判明した内容については、当然信頼性が低いことがありうるのであって、そういう情報については、日々内容が改訂されていくウィキペディアの方が信頼性が高いこともありうる。
専門家の中には、ウィキペディアなどのような「オンライン上の情報」を認めない人もいるが、あまりにも時代錯誤というべきだろう。ウィキペディアは250カ国語で書かれているという点で、英語のようなメジャー言語で集められる情報の限界を打破している面があることも重要な意味をもっている。文化や習慣など、現地の人でなければなかなか説明できない事柄がたくさんあるが、マイナーな言語によるウィキペディアは、平凡社やブリタニカでは得られない情報がたくさんあるはずである。エスペラントの百科事典など、現在ではウィキペディアだからこそ可能だといえる。
そして、どんなに既存メディア側がウィキペディアの信頼性の低さを指摘しても、実際に学生がレポートを書く時に、もっともたくさん利用するのはウィキペディアである。それは無料だからだ。昔から百科事典は装飾品的な側面があったが、ウィキペディアは装飾品ではなく、実際にたくさんの人によって使われている極めてめずらしい百科事典なのだ。だから、どのように利用すべきかということを注意していくべきで、「ウィキペディアを使うな」というようなことを言っても、それは無力なだけだ。
2007年08月19日
小学校を学童保育として利用することは
女性の労働が増加すると必然的に問題となるのは、育児や学校の放課後の子どもの問題である。東京でもいくつかの区が放課後、その時間保育する親のいない場合、学校の施設を利用した世話を始めている。まだ本格化はしていないようだが、うまくいけば広がるだろうし、また、うまくいかない可能性もある。うまくいくということの意味もなかなか明確に規定することは難しい。区の事業であり、学校の教師は関わらないということになっているようだが、実際にその学校の生徒が放課後、学校施設を利用して生活するのだから、いざというときに、教師が勤務と無関係に駆り出される可能性もある。事故があったら学校の責任が問われる危険もあるが、一方では、教師が関わったとしても、手当てがでるわけではないだろうから、現在進められている日本の学校を学童保育として利用するやり方には、かなり検討が必要である。とにかく学童保育が圧倒的に少ないし、また、放課後の地域の活動などで時間を使うことができるわけでもない。また、たくさんの遊び場があって、そこで放課後たくさんの子どもが集まって過ごすということもできにくくなっている。
福祉国家でもスウェーデンとオランダでは、育児の考えがずいぶんと異なっているといわれていた。つまり、スウェーデンでは女性の労働力率が90%をはるかに超えているから、保育施設が充実しており、放課後の保育も当然親が迎えにいける時間帯まで子どもを保護・保育している施設が十分にあるのだろう。
しかし、オランダでは子どもが自立する前はできるだけ親が関わるという考えをもっているといわれていた。つまり、子どもがいる場合には、両親のどちらかが子どものいる時間帯には家にいられるように、労働時間をアレンジするわけだ。以前からオランダではフルタイマーとパートタイマーの労働条件が原則的に違わないから、夫婦で勤務時間を調整することで、子どもに関わることが他の国よりも可能性が高かった。
ところが、オランダでも夫婦共働きが増え、放課後の子どもが放置される場面が10数年前から問題となっていた。以前では考えられなかったような、テレビの子守が社会問題となりつつあった。その大きなきっかけは、従来賃貸住宅を主な住宅政策としていたのを、持ち家政策に切り換え、若い夫婦でも家を買えるような政策をとりはじめたところ、家購入のために夫婦でフルタイムで働く場合が増えたという。それで、放課後の子どもの保護の問題がクローズアップされ、今年になって、小学校の「学童保育機能」を義務化する法が通ったわけである。しかし、まだそれは実施されておらず、今夏期休暇で十分な準備がなされておらず、NRCは放課後の子どもの居場所をさがす組織が、非常にあせっていらだっている様子を伝えている。かなりたくさんある教会や1000以上もあるボーイスカウトの施設を貸すことなどが検討されているようだ。これまで、オランダでは、親が子どもの面倒をみる習慣だったので、学童保育の施設などは極めて不十分なのだろう。
ただ、賃貸住宅政策から持ち家政策になり、そのために夫婦フルタイマーになって、子どもが放置されるということは、社会的に好ましいことなのか、オランダではかなり世代間の意識の差が生じているように感じられる。NRC 2007.8.18 Kinderen kunnen ook in een kerk spelen
福祉国家でもスウェーデンとオランダでは、育児の考えがずいぶんと異なっているといわれていた。つまり、スウェーデンでは女性の労働力率が90%をはるかに超えているから、保育施設が充実しており、放課後の保育も当然親が迎えにいける時間帯まで子どもを保護・保育している施設が十分にあるのだろう。
しかし、オランダでは子どもが自立する前はできるだけ親が関わるという考えをもっているといわれていた。つまり、子どもがいる場合には、両親のどちらかが子どものいる時間帯には家にいられるように、労働時間をアレンジするわけだ。以前からオランダではフルタイマーとパートタイマーの労働条件が原則的に違わないから、夫婦で勤務時間を調整することで、子どもに関わることが他の国よりも可能性が高かった。
ところが、オランダでも夫婦共働きが増え、放課後の子どもが放置される場面が10数年前から問題となっていた。以前では考えられなかったような、テレビの子守が社会問題となりつつあった。その大きなきっかけは、従来賃貸住宅を主な住宅政策としていたのを、持ち家政策に切り換え、若い夫婦でも家を買えるような政策をとりはじめたところ、家購入のために夫婦でフルタイムで働く場合が増えたという。それで、放課後の子どもの保護の問題がクローズアップされ、今年になって、小学校の「学童保育機能」を義務化する法が通ったわけである。しかし、まだそれは実施されておらず、今夏期休暇で十分な準備がなされておらず、NRCは放課後の子どもの居場所をさがす組織が、非常にあせっていらだっている様子を伝えている。かなりたくさんある教会や1000以上もあるボーイスカウトの施設を貸すことなどが検討されているようだ。これまで、オランダでは、親が子どもの面倒をみる習慣だったので、学童保育の施設などは極めて不十分なのだろう。
ただ、賃貸住宅政策から持ち家政策になり、そのために夫婦フルタイマーになって、子どもが放置されるということは、社会的に好ましいことなのか、オランダではかなり世代間の意識の差が生じているように感じられる。NRC 2007.8.18 Kinderen kunnen ook in een kerk spelen
2007年08月15日
パル判決を考える
安倍首相は、インドで東京裁判で判事をつとめたパル判事の遺族に今月下旬に会うのだそうだ。東京裁判の不当性を主張している人たちは、一様にパル判事を持ち上げるが、いつも疑問に思うのは、そうした人たちはパル判決を読んだことがあるのだろうかという点だ。幸い、パル判決は全文が翻訳されて、今でも出版されており、本棚に並んでいることも珍しくない売れ筋の本なのだろうから、売れているのだろう。しかし、非常に厚い本で、長編小説なみだから、読むのは大変だ。私もけっこう時間がかかった記憶がある。
もちろん、こんな厚い本を読む人は少ないだろうという意味ではない。東京裁判否定派の諸氏がパル判決の日本無罪論をもちだすその論の粗雑さから、読んでないと感じるだけである。
そもそも、パル判事の考えは、「法的に罰する規定がない」から無罪だといっているすぎず、日本がやった戦争行為に「罪がない」といっているわけではない。むしろ、日本が行った行為については、極めて厳しい批判を示している。だから、パル判決を日本が無罪だといわんばかりの論理で持ち出すのは、ナンセンスであるし、パル判決を読んでもいないだろうと思わざるをえないのである。
では、パル判決は法的には正しいのかという問題がある。
国際法における戦争規定というのは、もともと戦争状態では法による規制がなくなるという前提の下に、国際的な合意において特定の規制を決めてきたものである。従って、パル判決がいうように、A級戦犯を裁く規定がないというのならば、勝った側の自由という無規制の原則の適応ということにならざるをえない。従って、戦犯(と戦勝国が考える人)の処刑も自由ということになるにすぎない。つまり、裁判で有罪などということがおかしいのであって、勝ったから敗者を自由に扱うことになるだけのことだ。
もちろん、私自身は、パル判決は間違っていると思っているが、それは、裁く法規が存在しないという認識が間違っていると思うからである。もともと、国際法は単一の権力を保持する国際機関が存在するわけではないから、もともとあいまいな部分がある。しかし、戦争を起こした者を訴追しようとした動きは、ニュルンベルク裁判や東京裁判が最初ではないし、戦争の特定の行為を禁止した国際条約は多数あったのだから、それに則って裁くことは、決して「事後法による裁判」とはいえない。
いずれにせよ、パル判決をもって、東京裁判の不当性を述べたり、また、A級戦犯の無罪を主張したりすることは、日本を醜く見せるだけだろう。
もちろん、こんな厚い本を読む人は少ないだろうという意味ではない。東京裁判否定派の諸氏がパル判決の日本無罪論をもちだすその論の粗雑さから、読んでないと感じるだけである。
そもそも、パル判事の考えは、「法的に罰する規定がない」から無罪だといっているすぎず、日本がやった戦争行為に「罪がない」といっているわけではない。むしろ、日本が行った行為については、極めて厳しい批判を示している。だから、パル判決を日本が無罪だといわんばかりの論理で持ち出すのは、ナンセンスであるし、パル判決を読んでもいないだろうと思わざるをえないのである。
では、パル判決は法的には正しいのかという問題がある。
国際法における戦争規定というのは、もともと戦争状態では法による規制がなくなるという前提の下に、国際的な合意において特定の規制を決めてきたものである。従って、パル判決がいうように、A級戦犯を裁く規定がないというのならば、勝った側の自由という無規制の原則の適応ということにならざるをえない。従って、戦犯(と戦勝国が考える人)の処刑も自由ということになるにすぎない。つまり、裁判で有罪などということがおかしいのであって、勝ったから敗者を自由に扱うことになるだけのことだ。
もちろん、私自身は、パル判決は間違っていると思っているが、それは、裁く法規が存在しないという認識が間違っていると思うからである。もともと、国際法は単一の権力を保持する国際機関が存在するわけではないから、もともとあいまいな部分がある。しかし、戦争を起こした者を訴追しようとした動きは、ニュルンベルク裁判や東京裁判が最初ではないし、戦争の特定の行為を禁止した国際条約は多数あったのだから、それに則って裁くことは、決して「事後法による裁判」とはいえない。
いずれにせよ、パル判決をもって、東京裁判の不当性を述べたり、また、A級戦犯の無罪を主張したりすることは、日本を醜く見せるだけだろう。
2007年08月12日
オランダの教員養成学部の人気低下 日本は大丈夫か
オランダの新聞、NRCが教員養成の高等専門学校PABO(日本では大学の教育学部にあたる。)の人気が低下していることについて報道している。昨年に比較して、志願者が11%も減少しているという。PABOの学生は数学や国語が弱いというテスト結果が出てしまい、イメージが悪くなっているという。教師の給与もそれほど高くないし、尊敬もされていない。他の学校種類は志願者が増えているから、その減少が際立っているようだ。そして、人気のない理由として、Sexy でないということをあげる人もいるという。つまり、親や関係者の圧迫が強く、若者が進んで行こうとはしない。結局、給与をあげるだけではなく、教職に対する社会的な尊敬の念が必要だという意見が強いようだ。
もっとも、まだ志願者の減少は短期的なことで、そんなにあせって対処する必要はないというのが、文部省の見解のようで、必ずしもこの記事通りの見解ばかりではないようだが。
日本人にとっては、あまりピンとこないかも知れないが、日本での教職の位置は、先進国といわれる国家群の中ではかなり特徴的な「高い」ものがある。教職は人気の職業だし、希望者はたくさんいる。そして、労働条件も恵まれていると思われている。しかし、残念ながら、そうしたことは既に幻想に近いものになっている。日本の教師はかなり労働条件が悪化しているし、また、これまでの尊敬の念も相当低下している。。それは決して教師だけの責任というよりは、何か政策的に進められた教師への攻撃が強化されているという感じがする。そんなに遠くない時期に、日本でも教職への魅力が低下し、教師へのなり手が少なくなり、その結果として、教師の質が低下し、必然的に教育の質が低下する危険性が、今の日本にはたくさんある。教師への尊敬を高め、働きやすい環境を育てようとしているのではなく、質の低い教師を免職させるための措置が着々ととられている。実際に満足に教育活動ができない教師が少なからずいることは確かだが、何故そういう教師が現場にいるのか、採用等の問題にメスを入れただろうか。メスを入れたとしても、逆の入れ方が横行しているように思われるのである。
欧米の教職の状況は、他山の石というべき現実であって、今の教師への政策が進展していけば、日本の教育はどんどん悪くなるだろう。選挙に負けた安倍首相は「教育改革を進める」必要を述べているが、進めてはならないことを進めているといわざるをえない。
もっとも、まだ志願者の減少は短期的なことで、そんなにあせって対処する必要はないというのが、文部省の見解のようで、必ずしもこの記事通りの見解ばかりではないようだが。
日本人にとっては、あまりピンとこないかも知れないが、日本での教職の位置は、先進国といわれる国家群の中ではかなり特徴的な「高い」ものがある。教職は人気の職業だし、希望者はたくさんいる。そして、労働条件も恵まれていると思われている。しかし、残念ながら、そうしたことは既に幻想に近いものになっている。日本の教師はかなり労働条件が悪化しているし、また、これまでの尊敬の念も相当低下している。。それは決して教師だけの責任というよりは、何か政策的に進められた教師への攻撃が強化されているという感じがする。そんなに遠くない時期に、日本でも教職への魅力が低下し、教師へのなり手が少なくなり、その結果として、教師の質が低下し、必然的に教育の質が低下する危険性が、今の日本にはたくさんある。教師への尊敬を高め、働きやすい環境を育てようとしているのではなく、質の低い教師を免職させるための措置が着々ととられている。実際に満足に教育活動ができない教師が少なからずいることは確かだが、何故そういう教師が現場にいるのか、採用等の問題にメスを入れただろうか。メスを入れたとしても、逆の入れ方が横行しているように思われるのである。
欧米の教職の状況は、他山の石というべき現実であって、今の教師への政策が進展していけば、日本の教育はどんどん悪くなるだろう。選挙に負けた安倍首相は「教育改革を進める」必要を述べているが、進めてはならないことを進めているといわざるをえない。
2007年07月28日
朝青龍はほんとうに悪いのか
朝青龍が偽の診断書を出して、巡業をさぼり、故郷で中田とサッカーをしていたというのが、大きな非難の的になっている。言い分としてはもっともな感じがするが、しかし、本当に朝青龍は非難されるしかないようなことをやったのだろうか。私にはそうは思われない。ある面、朝青龍のやり方は自己防衛のような側面もあると思うからだ。そもそも日本のスポーツ界の運営は、実際に競技をしない「運営者」たちの都合が大きな部分を占めている。一番大切にされるべきは選手であるのに、選手がないがしろにされていることが非常に多い。いつか、他の競技だが、国際試合にいくのに、選手たちがエコノミーで、役員たちがビジネスクラスだったということが話題になったことがある。
相撲界でも、力士の都合ではなく、「協会」の都合で運営されている部分がすごく大きいことは何度も指摘されているのではないだろうか。そこが改善されるどころか、ますます悪くなっている。つまり、場所その他の公式相撲の過多である。私はそういうあり方に嫌気がさして、相撲はとっくの昔にほとんど見なくなったし、興味もなくなった。
相撲のように激しくぶつかり合うスポーツでは、けがはつきもので、けがを十分に治す期間がないまま次の場所がくるために、選手寿命が短くなる。2場所制だったころの力士である双葉山は37歳で引退したが、スポーツ医学はもちろん、医学そのものが現代と比べればずっと遅れていた時代だから、戦前の場所ペースで現代のスポーツ医学で治療しながら相撲をとれば、もっと現役は伸びていたかも知れない。しかし、今のペースではけがなど休場する以外治しようがない。あるいは、朝青龍のように、さぼりを実行するかだ。だいたい、相撲をとるには不十分な状態であったとしても、軽い運動やリラックスすることは、治療効果を高めこそすれ、けっして、マイナスではない。前田山の休場中の野球観戦の例がでてくるが、そんなことを問題にする方がおかしいのではないだろうか。
今回の協会側の言い分も、新聞を見る限り、かなり感情的だ。
骨折なら入院するのが当然というが、骨折で入院するのは常識か?もともと、報道されている内容なら、疲労骨折なのだから、入院などむしろ不自然だし、相撲のような激しいスポーツではなく、軽い運動は好ましいかも知れない。朝青龍から見れば、体の手入れが必要なのに、協会の都合で、たくさんの相撲をとらされてはたまらないというのがあるはずだ。
もちろん、そうしたたくさんの「仕事」を入れることで高い報酬が保障されているという面もあるだろう。だから、多くの力士は我慢しているのかも知れない。
しかし、長い目でみて、相撲界にとって、仕事と治療のバランスをどのようにとるのがいいのか、あくまでも力士を大切にする観点から、考えるべきではないだろうか。
相撲界でも、力士の都合ではなく、「協会」の都合で運営されている部分がすごく大きいことは何度も指摘されているのではないだろうか。そこが改善されるどころか、ますます悪くなっている。つまり、場所その他の公式相撲の過多である。私はそういうあり方に嫌気がさして、相撲はとっくの昔にほとんど見なくなったし、興味もなくなった。
相撲のように激しくぶつかり合うスポーツでは、けがはつきもので、けがを十分に治す期間がないまま次の場所がくるために、選手寿命が短くなる。2場所制だったころの力士である双葉山は37歳で引退したが、スポーツ医学はもちろん、医学そのものが現代と比べればずっと遅れていた時代だから、戦前の場所ペースで現代のスポーツ医学で治療しながら相撲をとれば、もっと現役は伸びていたかも知れない。しかし、今のペースではけがなど休場する以外治しようがない。あるいは、朝青龍のように、さぼりを実行するかだ。だいたい、相撲をとるには不十分な状態であったとしても、軽い運動やリラックスすることは、治療効果を高めこそすれ、けっして、マイナスではない。前田山の休場中の野球観戦の例がでてくるが、そんなことを問題にする方がおかしいのではないだろうか。
今回の協会側の言い分も、新聞を見る限り、かなり感情的だ。
骨折なら入院するのが当然というが、骨折で入院するのは常識か?もともと、報道されている内容なら、疲労骨折なのだから、入院などむしろ不自然だし、相撲のような激しいスポーツではなく、軽い運動は好ましいかも知れない。朝青龍から見れば、体の手入れが必要なのに、協会の都合で、たくさんの相撲をとらされてはたまらないというのがあるはずだ。
もちろん、そうしたたくさんの「仕事」を入れることで高い報酬が保障されているという面もあるだろう。だから、多くの力士は我慢しているのかも知れない。
しかし、長い目でみて、相撲界にとって、仕事と治療のバランスをどのようにとるのがいいのか、あくまでも力士を大切にする観点から、考えるべきではないだろうか。
2007年07月26日
田中克彦『エスペラント』(岩波新書)を読む
田中克彦氏の『エスペラント』(岩波新書)がでたので、早速ともいえないが読んだ。私はエスペランティストとはとうてい呼べない程度のエスペラント学習者だが、実はここ20年近く毎年、年に一時間だけ大学の授業で、エスペラントを教えている。本当はもっと時間をとりたいところだが、そういう授業ではないし、「異文化理解」というテーマの中で一こまだけ割いている。毎年学生たちはとても喜んでいるような気がする。少なくとも英語やドイツ語に比較して格段に分かりやすいし、授業の最後には簡単な自己紹介の文章を書くこともできるほどになる。
しかし、エスペラントなど言葉としても知っている学生は皆無だし、その授業をとったわずかな学生だけが、そういう言語があるのだと知った程度で卒業していく。日本は戦前はエスペラントがさかんな国のひとつだったが、戦後は英語以外は見向きもしない傾向がだんだん強まっているように思う。英語の苦手な学生だから、すすんでエスペラントまで継続的に勉強しようなどという学生はいないのに、(15年ほど前に数名いたことはある。)何故やるかというと、言語というもののより根源的な理解をしてほしいし、また、エスペラントはそれを考えるきっかけになりやすいという考えからだ。言語の平等の問題、言語をめぐる国際社会における不平等の問題という社会的政治的問題だけではなく、もともと言語に必要な要素は何かを考えるとき、エスペラントは不要なものをできるだけ取り除いてあるから、言語に不可欠な要素を理解しやすい、そうすると、英語を学習するときにも、これまで苦労した文法事項が実はあまり重大なことではないのだと知ることにもなる。そうすると、英語学習も効率よくなるのではないか、などということを考えてやってきた。そして、残念ながら、これからエスペラントが国際社会の中で、より大きな位置を占めるようになるとは、私自身まったく思っていなかった。
しかし、田中氏の著書を読むと、もう少しエスペラントの可能性は広いのかも知れないと思う。中国では、エスペラントの放送があるそうだ。wikipedia にもエスペラントバージョンがあるから、実はインターネットも普及に可能性を広げるかも知れない。
もう少し身を入れてエスペラントを学習してみよかうという気持ちになった。
しかし、エスペラントなど言葉としても知っている学生は皆無だし、その授業をとったわずかな学生だけが、そういう言語があるのだと知った程度で卒業していく。日本は戦前はエスペラントがさかんな国のひとつだったが、戦後は英語以外は見向きもしない傾向がだんだん強まっているように思う。英語の苦手な学生だから、すすんでエスペラントまで継続的に勉強しようなどという学生はいないのに、(15年ほど前に数名いたことはある。)何故やるかというと、言語というもののより根源的な理解をしてほしいし、また、エスペラントはそれを考えるきっかけになりやすいという考えからだ。言語の平等の問題、言語をめぐる国際社会における不平等の問題という社会的政治的問題だけではなく、もともと言語に必要な要素は何かを考えるとき、エスペラントは不要なものをできるだけ取り除いてあるから、言語に不可欠な要素を理解しやすい、そうすると、英語を学習するときにも、これまで苦労した文法事項が実はあまり重大なことではないのだと知ることにもなる。そうすると、英語学習も効率よくなるのではないか、などということを考えてやってきた。そして、残念ながら、これからエスペラントが国際社会の中で、より大きな位置を占めるようになるとは、私自身まったく思っていなかった。
しかし、田中氏の著書を読むと、もう少しエスペラントの可能性は広いのかも知れないと思う。中国では、エスペラントの放送があるそうだ。wikipedia にもエスペラントバージョンがあるから、実はインターネットも普及に可能性を広げるかも知れない。
もう少し身を入れてエスペラントを学習してみよかうという気持ちになった。
2007年07月17日
朝日新聞、中川氏の学校選択論について
2007年7月16日の朝日新聞の「私の視点」蘭に、国民教育文化総合研究所の中川登志男氏の「学校選択制 公平な学校間競争は不可能」と題する文章が出ている。非常に興味深い文章であるが、賛成できる部分とできない部分がある。
中川氏は、教育再生会議の第二次報告が、「学校選択制を広げる」という提言をしたことを意識して書かれているが、明らかに足立区の学力テストを巡る不正をも念頭においていると思われる。氏の趣旨は、都市で行われている学校選択制は、校舎の新しさ、伝統校であること、交通の便などの「教師の努力によって」もたらされることではない要素によって、人気の多寡が決まり、公平な学校間競争は不可能であるというものである。それはおそらく事実だろう。そして、結論として「学校間競争による書く学校の質の底上げを狙う学校選択制は、教育改革や学校改革の方策としては机上の空論に近いものがある」とする。
この結論もまた正しいと思われる。しかし、だから学校選択制が間違いなのかというと、私はそうは思わない。私の理解では、歴史的に昔からあった学校選択の制度は、もともと「学校間競争による学校の質の底上げ」を意図したものではない。それはせいぜい1980年代から始まったイギリスやアメリカの新自由主義に基づく学校選択制度である。学校選択制度というのは、もっと前から、ヨーロッパの各地で実施されているものである。それは、教育に対する親の要求は多様であるから、一律の学校で満たすことはできないのであり、学校の特色を認めつつ、特色ある学校を選択できるようにするというのが、その趣旨である。ヨーロッパの少なくない国では、公立学校にもかなりの教育の自由を認めているから、日本では「私立学校の自由」(選択の自由を含む)として考えられていることが、公立学校で実現している国も少なくないのである。だから、本来学校選択制度は、「競争原理」とは逆の、競争などではなく、自由な教育の是認だったのである。そういう学校選択制度をとっている国は今でももちろん存在する。
ところで中川氏のような論者は、選択が公平でないことを理由に学校選択制度に対して否定的なのであるが、しかし、校舎・設備等の不公平や交通の便や伝統校(にはたいてい優秀とされる教員が配置されている)等の「不公平」を、学校を選択への反対理由とするのだろうか。そういう不公平があるにもかかわらず、地域的な条件でその不公平を強制されることは、もっと「不公平」ではないのだろうか。学校選択制度が実施されていれば、それでも、よりよい条件の学校に、トライすることは誰にでもできる。そういう意味では、不公平を是正する仕組みとして、不十分であることは間違いないが、ある程度機能する仕組みであることは確かだ。
学力の差が拡大するというが、学力が低い生徒が、高いとされる学校に応募でき、そこに通うことができるのが学校選択制度だ。そこが「入試選抜制度」とは原則的に異なるところである。高い学力の学校に、低い学力の生徒が応募しないとしたら、それは高い学力を自己の教育的要求にしていないからかも知れない。学校選択制度が必ずしも学力格差を拡大するわけではないことは、その制度の意味から明らかではないだろうか。
学校選択制度の下での親や生徒の、選択行動様式は、もっと丁寧な検証が必要なのではないだろうか。
中川氏は、教育再生会議の第二次報告が、「学校選択制を広げる」という提言をしたことを意識して書かれているが、明らかに足立区の学力テストを巡る不正をも念頭においていると思われる。氏の趣旨は、都市で行われている学校選択制は、校舎の新しさ、伝統校であること、交通の便などの「教師の努力によって」もたらされることではない要素によって、人気の多寡が決まり、公平な学校間競争は不可能であるというものである。それはおそらく事実だろう。そして、結論として「学校間競争による書く学校の質の底上げを狙う学校選択制は、教育改革や学校改革の方策としては机上の空論に近いものがある」とする。
この結論もまた正しいと思われる。しかし、だから学校選択制が間違いなのかというと、私はそうは思わない。私の理解では、歴史的に昔からあった学校選択の制度は、もともと「学校間競争による学校の質の底上げ」を意図したものではない。それはせいぜい1980年代から始まったイギリスやアメリカの新自由主義に基づく学校選択制度である。学校選択制度というのは、もっと前から、ヨーロッパの各地で実施されているものである。それは、教育に対する親の要求は多様であるから、一律の学校で満たすことはできないのであり、学校の特色を認めつつ、特色ある学校を選択できるようにするというのが、その趣旨である。ヨーロッパの少なくない国では、公立学校にもかなりの教育の自由を認めているから、日本では「私立学校の自由」(選択の自由を含む)として考えられていることが、公立学校で実現している国も少なくないのである。だから、本来学校選択制度は、「競争原理」とは逆の、競争などではなく、自由な教育の是認だったのである。そういう学校選択制度をとっている国は今でももちろん存在する。
ところで中川氏のような論者は、選択が公平でないことを理由に学校選択制度に対して否定的なのであるが、しかし、校舎・設備等の不公平や交通の便や伝統校(にはたいてい優秀とされる教員が配置されている)等の「不公平」を、学校を選択への反対理由とするのだろうか。そういう不公平があるにもかかわらず、地域的な条件でその不公平を強制されることは、もっと「不公平」ではないのだろうか。学校選択制度が実施されていれば、それでも、よりよい条件の学校に、トライすることは誰にでもできる。そういう意味では、不公平を是正する仕組みとして、不十分であることは間違いないが、ある程度機能する仕組みであることは確かだ。
学力の差が拡大するというが、学力が低い生徒が、高いとされる学校に応募でき、そこに通うことができるのが学校選択制度だ。そこが「入試選抜制度」とは原則的に異なるところである。高い学力の学校に、低い学力の生徒が応募しないとしたら、それは高い学力を自己の教育的要求にしていないからかも知れない。学校選択制度が必ずしも学力格差を拡大するわけではないことは、その制度の意味から明らかではないだろうか。
学校選択制度の下での親や生徒の、選択行動様式は、もっと丁寧な検証が必要なのではないだろうか。
2007年07月08日
足立区の学力テストに関する朝日新聞の記事
7月8日の朝日新聞によると、足立区の学力テストにおける不正が報道されている。障害児の成績を集計から外したとか、似たような問題で練習させていたとか、あるいは、机間巡視している教師が間違った解答をしている生徒に、合図しているなどが指摘されている。「いつか来た道」というべきだろう。
とはいっても、なんのことかわからない人がほとんどだろうと思う。1960年代に文部省の強権的な指導で、全国学力調査が悉皆調査として行われ、各地の学校に大きな傷跡を残した。その最も大きなものは、練習をさかんに行い、成績の悪い生徒を当日休ませたりしたりして、学力テスト一位を争ういくつかの県であった。そして、そうした県では決まって非行も上位だったのである。そうした実態が明らかになるにつれて、学力テストへの批判が強まり、廃止されたわけだが、その後数十年間、文部省は、学力テストが実施できなかったわけである。
しかし、ついに文部科学省が全国テストを実施しただけではなく、都道府県や市町村単位の学力テストが行われるようになっている。足立区は、こうしたテストの結果で、上位校に予算を多くつけるという方法を発表して、世間の批判を受け、とりあえずそうした配分を止めたという経緯がある。
今回またまた足立区の話題が出てきた。
こうしたことを足立区の学校選択制度の責任にする論調があるが、それほど単純な問題ではなかろう。
朝日新聞の記事をみてみよう。
「足立の教育を考えるネットワーク」の高須有子代表(38)は「テストの結果で学校の人気が決まるため、校長は躍起になっている。休み時間を削ってテスト勉強をさせている学校もあると聞く」と憤る。
自身も2人の子どもを区内の小学校に通わせている。「子どもたちの間で『バカ学校』『エリート校』という言葉が飛び交っている。人気校に行けない子はどう思うか。どの学校でも胸をはれるのが義務教育の良さではないでしょうか」
テストの結果で学校の人気が決まるとすれば、それは親の意識も問題だろう。「どの学校でも胸をはれる」ことは確かにその通りだが、それは多様な基準を親たちがしっかりともつことによってしか成立しない。「制度」の責任にするわけにはいかないだろう。学校選択制度は、選抜試験をしないのだから、学習に自身のない子どもも、どんどん成績優秀な学校に応募することができる。そうして、平均化されれば、次第に学力格差が縮まる可能性もある。
大事なことは、学校選択とか、学力テストをどのように「使うか」という学校関係者や住民の「力量」にかかっているのだ。
前回の問題が起きたとき、確かに、足立区の教育委員会は、成績上位校に重点配分することはやめると述べたが、支援が必要な学校に重点配分すると明確に述べたのだろうか。
再び朝日新聞によると、「〈学力テスト問題に詳しい耳塚寛明・お茶の水女子大教授(教育社会学)の話〉 足立区教委は、学校の責任と教育行政の役割をきちんと分担しており、区の学力テストは、支援が必要な学校の「底上げ」を図ることに重点が置かれていたはずだ。しかし、区教委の説明どおりだと、本末転倒、その趣旨は実現されなかったことになる。底上げ以前に現場をゆがませるのであれば、学力テストの副作用が大きすぎたと考えざるを得ない。 」というように、耳塚教授の言葉を掲載している。
おそらく、世論の批判に対して、ポーズとして、支援が必要な学校の底上げをはかるというようなことを曖昧に述べたのだろうが、その姿勢を徹底させたわけではないと考えざるをえない。そこには、足立区教育委員会の勘違いがあるとしかいいようがない。
足立区が23区の中で都が実施する学力テストで最下位であったことが、先のような重点配分を打ち出した原因であったようだが、学力テストの順位をあげるためには、上位校に重点配分する「餌ぶら下げ」方式では効果がないことは明らかである。そもそもこうした学力テストは60点程度が平均となるように作成されるのであるから、それよりも上位をあげるよりも、下位をあげる方が容易であるし、また、その幅も大きい。下位が大きく平均点を下げているから、順位が下がるのであり、下位の底上げをしっかりすること以外に、足立区の不名誉を挽回することはできないことをしっかり認識する必要があるのである。
学力水準が低い学校を支援が必要な学校と認定し、そこに予算や人員を重点配分することを、明確に表明し、確実に実施すれば、上記のような不正は起こりようがないし、また、少しずつ学力水準が上昇していくはずである。
足立区教育委員会は早く、誤った認識を正すべきだろう。
とはいっても、なんのことかわからない人がほとんどだろうと思う。1960年代に文部省の強権的な指導で、全国学力調査が悉皆調査として行われ、各地の学校に大きな傷跡を残した。その最も大きなものは、練習をさかんに行い、成績の悪い生徒を当日休ませたりしたりして、学力テスト一位を争ういくつかの県であった。そして、そうした県では決まって非行も上位だったのである。そうした実態が明らかになるにつれて、学力テストへの批判が強まり、廃止されたわけだが、その後数十年間、文部省は、学力テストが実施できなかったわけである。
しかし、ついに文部科学省が全国テストを実施しただけではなく、都道府県や市町村単位の学力テストが行われるようになっている。足立区は、こうしたテストの結果で、上位校に予算を多くつけるという方法を発表して、世間の批判を受け、とりあえずそうした配分を止めたという経緯がある。
今回またまた足立区の話題が出てきた。
こうしたことを足立区の学校選択制度の責任にする論調があるが、それほど単純な問題ではなかろう。
朝日新聞の記事をみてみよう。
「足立の教育を考えるネットワーク」の高須有子代表(38)は「テストの結果で学校の人気が決まるため、校長は躍起になっている。休み時間を削ってテスト勉強をさせている学校もあると聞く」と憤る。
自身も2人の子どもを区内の小学校に通わせている。「子どもたちの間で『バカ学校』『エリート校』という言葉が飛び交っている。人気校に行けない子はどう思うか。どの学校でも胸をはれるのが義務教育の良さではないでしょうか」
テストの結果で学校の人気が決まるとすれば、それは親の意識も問題だろう。「どの学校でも胸をはれる」ことは確かにその通りだが、それは多様な基準を親たちがしっかりともつことによってしか成立しない。「制度」の責任にするわけにはいかないだろう。学校選択制度は、選抜試験をしないのだから、学習に自身のない子どもも、どんどん成績優秀な学校に応募することができる。そうして、平均化されれば、次第に学力格差が縮まる可能性もある。
大事なことは、学校選択とか、学力テストをどのように「使うか」という学校関係者や住民の「力量」にかかっているのだ。
前回の問題が起きたとき、確かに、足立区の教育委員会は、成績上位校に重点配分することはやめると述べたが、支援が必要な学校に重点配分すると明確に述べたのだろうか。
再び朝日新聞によると、「〈学力テスト問題に詳しい耳塚寛明・お茶の水女子大教授(教育社会学)の話〉 足立区教委は、学校の責任と教育行政の役割をきちんと分担しており、区の学力テストは、支援が必要な学校の「底上げ」を図ることに重点が置かれていたはずだ。しかし、区教委の説明どおりだと、本末転倒、その趣旨は実現されなかったことになる。底上げ以前に現場をゆがませるのであれば、学力テストの副作用が大きすぎたと考えざるを得ない。 」というように、耳塚教授の言葉を掲載している。
おそらく、世論の批判に対して、ポーズとして、支援が必要な学校の底上げをはかるというようなことを曖昧に述べたのだろうが、その姿勢を徹底させたわけではないと考えざるをえない。そこには、足立区教育委員会の勘違いがあるとしかいいようがない。
足立区が23区の中で都が実施する学力テストで最下位であったことが、先のような重点配分を打ち出した原因であったようだが、学力テストの順位をあげるためには、上位校に重点配分する「餌ぶら下げ」方式では効果がないことは明らかである。そもそもこうした学力テストは60点程度が平均となるように作成されるのであるから、それよりも上位をあげるよりも、下位をあげる方が容易であるし、また、その幅も大きい。下位が大きく平均点を下げているから、順位が下がるのであり、下位の底上げをしっかりすること以外に、足立区の不名誉を挽回することはできないことをしっかり認識する必要があるのである。
学力水準が低い学校を支援が必要な学校と認定し、そこに予算や人員を重点配分することを、明確に表明し、確実に実施すれば、上記のような不正は起こりようがないし、また、少しずつ学力水準が上昇していくはずである。
足立区教育委員会は早く、誤った認識を正すべきだろう。
2007年07月03日
久間大臣辞任
久間大臣が辞任したそうだ。公認は小池総理補佐官だそうだが、アメリカのCNNはタカ派の小池と紹介している。
この間の出来事は、普通の市民である私には理解を超えたことの連続で、政治に責任をもたない身として、妄想気味な内容も含めて書いてみよう。
まず大騒ぎになることが必死な「原爆投下は仕方なかった」などという発言を、何故久間元大臣はしたのか。以前はアメリカのイラク政策は間違いだったと発言して、アメリカを怒らせてしまったほどの人だから、そういう配慮がない人なのかも知れないが、いくらなんでも、自民党という「人材豊富(?)」なところで出世してきた人だから、そういう配慮が全くできない人でもないはずだ。
前回の「イラク政策」発言は、アメリカ自身が「間違いだった」と認めているのだからいいのだろうくらいの発言をしてしまい、不興をかってしまったから、今回はアメリカへの詫び入れだったのだろうか。それとも、最近の北朝鮮とアメリカが接近していることについて、安倍、麻生はご立腹らしいので、安倍内閣はもたないと判断して、アメリカのご機嫌とりでもして、浮上しようとでもしたのだろうか。北朝鮮問題も含めて、まだまだ不可解な混乱があるような気がする。
久間発言に対して、マスコミは原爆被害者の感情、日本の国是というような対応をしたが、肝心の久間がいったことが歴史的にどうだったのかという検証、正確にいえば、歴史的にもまったくでたらめな内容だということの指摘が極めて脆弱である。原爆投下が、日本の降伏を促進・加速させ、日本のソ連統治を防いだというのは、アメリカのとってきた、アメリカの正当化のためのでたらめな説明であったことは、日本の歴史家が当時の日本政府の動向との関連で誤りを指摘している。そして、ソ連の統治をまったく防いだということ自体が北方領土等を考慮すれば誤りであることも疑いない。
そうすると、近年ずっと続いている、安倍勢力の歴史歪曲、慰安婦について、軍の「教義」の関与はなかったとか、沖縄の集団自殺について、軍の「強制」はなかったとかの、一連の動きの一環ととらえられなくもない。つまり、小出しにして、国民が慣れてしまうのまって、「歴史」を変更していくことの一環である。そうさせないためには、歴史の事実をやはりきちんと確認していくことが必要だろう。
プーチンはこの事態を見てほくそえんでいるかも知れない。
アメリカはとうなのだろうか。もちろん、アメリカは多様な国家だから、さまざまな反応があるだろうが、少なくとも軍事・外交筋では、日本国家全体の反核兵器感情を確認することができて、安心したのではなかろうか。
この間の出来事は、普通の市民である私には理解を超えたことの連続で、政治に責任をもたない身として、妄想気味な内容も含めて書いてみよう。
まず大騒ぎになることが必死な「原爆投下は仕方なかった」などという発言を、何故久間元大臣はしたのか。以前はアメリカのイラク政策は間違いだったと発言して、アメリカを怒らせてしまったほどの人だから、そういう配慮がない人なのかも知れないが、いくらなんでも、自民党という「人材豊富(?)」なところで出世してきた人だから、そういう配慮が全くできない人でもないはずだ。
前回の「イラク政策」発言は、アメリカ自身が「間違いだった」と認めているのだからいいのだろうくらいの発言をしてしまい、不興をかってしまったから、今回はアメリカへの詫び入れだったのだろうか。それとも、最近の北朝鮮とアメリカが接近していることについて、安倍、麻生はご立腹らしいので、安倍内閣はもたないと判断して、アメリカのご機嫌とりでもして、浮上しようとでもしたのだろうか。北朝鮮問題も含めて、まだまだ不可解な混乱があるような気がする。
久間発言に対して、マスコミは原爆被害者の感情、日本の国是というような対応をしたが、肝心の久間がいったことが歴史的にどうだったのかという検証、正確にいえば、歴史的にもまったくでたらめな内容だということの指摘が極めて脆弱である。原爆投下が、日本の降伏を促進・加速させ、日本のソ連統治を防いだというのは、アメリカのとってきた、アメリカの正当化のためのでたらめな説明であったことは、日本の歴史家が当時の日本政府の動向との関連で誤りを指摘している。そして、ソ連の統治をまったく防いだということ自体が北方領土等を考慮すれば誤りであることも疑いない。
そうすると、近年ずっと続いている、安倍勢力の歴史歪曲、慰安婦について、軍の「教義」の関与はなかったとか、沖縄の集団自殺について、軍の「強制」はなかったとかの、一連の動きの一環ととらえられなくもない。つまり、小出しにして、国民が慣れてしまうのまって、「歴史」を変更していくことの一環である。そうさせないためには、歴史の事実をやはりきちんと確認していくことが必要だろう。
プーチンはこの事態を見てほくそえんでいるかも知れない。
アメリカはとうなのだろうか。もちろん、アメリカは多様な国家だから、さまざまな反応があるだろうが、少なくとも軍事・外交筋では、日本国家全体の反核兵器感情を確認することができて、安心したのではなかろうか。
2007年06月30日
学校の健康診断と生徒の合意
2007年6月30日の毎日新聞によると、北海道の道立高校での健康診断で、男性医師が女子生徒にブラジャーを外させた上で、聴診器を当てたり、乳房を触診して胸部にゆがみがないかのチェックをしたことで、女生徒たちからの苦情が相次いで、半分の健康診断を延期したという。
今時信じがたい失態だろう。大学病院から派遣された医師で、男性医師と女性医師2人が担当したという。女性医師がいるのならば、女生徒はそちらで担当すればよい程度のこともできなかったのだろうか。女生徒が圧倒的に多い学校なのだろうか。そこらの事情は新聞報道ではわからないが、そもそも胸部のゆがみを学校の「義務的」な健康診断の項目に入れるというのがわからない。
学校保健法によって、学校における健康診断について規定されており、学校保健法施行規則で、詳細な検査項目とその方法が規定されているが、胸郭(結核の検査のこと)の検査はあっても、胸部のゆがみなどは規定されていないし、また、その方法として乳房を触診するなどという項目はもちろん存在しない。
だから、学校側の独自の判断で行ったのであろうが、その場合当然、検査を受けることは任意としなければならないし、十分な説明の上での合意をとることは絶対に必要であろう。それをせずに、しかも男性医師によって検査を行うなどというのは、時代錯誤も甚だしいというべきだろう。
学校で健康診断を行うということは、必ずしも国際的に一般的ではない。もちろん、このことが日本人の健康を維持増進させ、平均寿命を長くした功績はあるのだろう。
しかし、法律で規定すれば、本人の合意なしに健康診断を強制するということは、本当に正しいのだろう。もちろん、伝染病のような他人に対する悪影響を与える疾患に対して、強制力をもった措置が必要なことは間違いない。しかし、それ以外の健康診断については、十分な健康教育と合わせた上での、本人および家族の同意を踏まえて行うようにしていくべきではなかろうか。
−−−−−−−−−−−−−−
札幌・道立高:女生徒124人「検診で胸触られた」と苦情 「説明不足」と校長謝罪
札幌市内の道立高校で5月中旬に行われた内科検診で、女子生徒の約半数の124人から「男性医師に乳房を触られるなど嫌な思いをした」との苦情が上がり、同校が検診を中断していたことが30日、分かった。生徒に検診内容の説明が十分伝わっていなかったことが原因とみられ、同校は残る半数の検診を7月上旬に延期した。
道教委によると、男子を含む全校生徒の検診は2回に分けて行い、1回目を5月15日に1年生全員と3年生の半数を対象に実施。大学病院から応援で派遣された男性(30歳代)と女性の医師2人が担当した。女子生徒の検診では、検診項目の中に心音や胸郭のゆがみを調べる項目があり、男性医師は女子生徒にブラジャーを外させて聴診器を当てたり、乳房を触診して胸郭にゆがみがないかどうかをチェックしたという。
これに対し、女子生徒の一部から「検診で不快な思いをした」との苦情が出た。このため、同校は2回目の検診を中止。2日後に開いた全校集会で、校長が「検診の説明が不十分で、混乱を招いた」と陳謝した。道教委学校安全・健康課は「検診には看護師も立ち合い、問題はなかった。しかし、思春期の女子生徒が対象だけに、学校側が検診内容や方法を十分説明した上で実施すべきだった」と話している。
【千々部一好】
2007年6月30日(毎日新聞)
今時信じがたい失態だろう。大学病院から派遣された医師で、男性医師と女性医師2人が担当したという。女性医師がいるのならば、女生徒はそちらで担当すればよい程度のこともできなかったのだろうか。女生徒が圧倒的に多い学校なのだろうか。そこらの事情は新聞報道ではわからないが、そもそも胸部のゆがみを学校の「義務的」な健康診断の項目に入れるというのがわからない。
学校保健法によって、学校における健康診断について規定されており、学校保健法施行規則で、詳細な検査項目とその方法が規定されているが、胸郭(結核の検査のこと)の検査はあっても、胸部のゆがみなどは規定されていないし、また、その方法として乳房を触診するなどという項目はもちろん存在しない。
だから、学校側の独自の判断で行ったのであろうが、その場合当然、検査を受けることは任意としなければならないし、十分な説明の上での合意をとることは絶対に必要であろう。それをせずに、しかも男性医師によって検査を行うなどというのは、時代錯誤も甚だしいというべきだろう。
学校で健康診断を行うということは、必ずしも国際的に一般的ではない。もちろん、このことが日本人の健康を維持増進させ、平均寿命を長くした功績はあるのだろう。
しかし、法律で規定すれば、本人の合意なしに健康診断を強制するということは、本当に正しいのだろう。もちろん、伝染病のような他人に対する悪影響を与える疾患に対して、強制力をもった措置が必要なことは間違いない。しかし、それ以外の健康診断については、十分な健康教育と合わせた上での、本人および家族の同意を踏まえて行うようにしていくべきではなかろうか。
−−−−−−−−−−−−−−
札幌・道立高:女生徒124人「検診で胸触られた」と苦情 「説明不足」と校長謝罪
札幌市内の道立高校で5月中旬に行われた内科検診で、女子生徒の約半数の124人から「男性医師に乳房を触られるなど嫌な思いをした」との苦情が上がり、同校が検診を中断していたことが30日、分かった。生徒に検診内容の説明が十分伝わっていなかったことが原因とみられ、同校は残る半数の検診を7月上旬に延期した。
道教委によると、男子を含む全校生徒の検診は2回に分けて行い、1回目を5月15日に1年生全員と3年生の半数を対象に実施。大学病院から応援で派遣された男性(30歳代)と女性の医師2人が担当した。女子生徒の検診では、検診項目の中に心音や胸郭のゆがみを調べる項目があり、男性医師は女子生徒にブラジャーを外させて聴診器を当てたり、乳房を触診して胸郭にゆがみがないかどうかをチェックしたという。
これに対し、女子生徒の一部から「検診で不快な思いをした」との苦情が出た。このため、同校は2回目の検診を中止。2日後に開いた全校集会で、校長が「検診の説明が不十分で、混乱を招いた」と陳謝した。道教委学校安全・健康課は「検診には看護師も立ち合い、問題はなかった。しかし、思春期の女子生徒が対象だけに、学校側が検診内容や方法を十分説明した上で実施すべきだった」と話している。
【千々部一好】
2007年6月30日(毎日新聞)
2007年06月10日
実習校訪問はじまる
毎年やってくる教育実習の訪問が始まった。
私はここ20年間、ずっと実習を訪問するときには、実習生の授業のビデオをとってきた。学生指導に役立てるためだ。しかし、近年、正確には昨年が初めてなのだが、そのビデオ撮りを断られるケースがでてきたのだ。これは個人情報に対する認識が変わったためなのだが、別に学生の指導以外に使用するものでもなく、そんなことは責任をもって約束するのだから、神経質になることもないし、また、心配ならビデオを一部コピーを提出してもいいのだが、とにかく、断られる場合がある。もちろん、いいと言われる場合の方が多いのだが、とにかく、学校の運営が窮屈になっていることを感じる。
私はここ20年間、ずっと実習を訪問するときには、実習生の授業のビデオをとってきた。学生指導に役立てるためだ。しかし、近年、正確には昨年が初めてなのだが、そのビデオ撮りを断られるケースがでてきたのだ。これは個人情報に対する認識が変わったためなのだが、別に学生の指導以外に使用するものでもなく、そんなことは責任をもって約束するのだから、神経質になることもないし、また、心配ならビデオを一部コピーを提出してもいいのだが、とにかく、断られる場合がある。もちろん、いいと言われる場合の方が多いのだが、とにかく、学校の運営が窮屈になっていることを感じる。