February 05, 2006
Gear Change
帰国してもうすぐ2週間。何してたかというと、
23日:帰国→大学へ→関係各者へのあいさつと旧友と再会。日本食と日本のビールに感動。
24日:大学へ、この一年の活動に関する今後の活動予定。旧友との再会。
25日:大学へ、そして夕方実家に帰り、夜中に到着、両親へ挨拶。
26日:東京に戻る。
27日:ラーメンを食べる。
28日〜再会、飲み、食、部屋探し、リバース・カルチャーショック、寒さからくるストレス、を楽しむ。基本的には異邦人扱いの日々。
もちろんこれと並行して、やんわりと始まった、進路選択。やんわりと始まっても急激な心労となる進路選択。大学院進学はなしで就職活動に決定。現在細々と進行中。議論をしても問題解決につながらなければ意味がないと、いい意味でも悪い意味でも確信した一年であったため、そのことが決定打になったと思われる。ニートという選択肢もあったが在野にいても拾われる才も機会もない世だと思いそれも断念。
とはいえでも赤道直下をひきずった課題も多々あり。まずこの一年を通して学んだことに対する分析を加えた最終レポート。この締め切りが刻一刻とせまってくる。赤道直下宛のレポートもいくつかあり。んで日本での事後処理もちらほら。
この制度の前利用者いわく、「俺みたいになるな」と。どういうことかというと、この時期明らかにふりかかってくるover workにつぶされるな、ということ。
制度利用者の義務をこの就職活動という進路選択とともにこの時期にやり遂げること、これが非常に難しいことらしく、前利用の彼はそれを心配してくれたようだ。その彼は5年生になるはずが、卒業間近で希望していた職種へ。結果オーライってことではあるのだが。
まあこんなことをここで書いている暇があったら、エントリーシートなり、積み上げられたレポートを処理しておけということなのだろうが、やっぱりこの一年は自分に鮮烈すぎて、ギアを入れ替えようと思ってもなかなか急には変えられない。そんな思いも実際にあるわけで、目下最大の問題は、
このblogをどうするか。
もうすでに北緯35度付近で部屋の物件も決めてしまい、赤道直下とは似ても似つかない寒い日本にいるのに、「赤道直下がらぱごす生活日誌」なんてblogは更新できねーだろ〜と思うなか、放置しておくと消されかねないという不安もあり(それはそれでいいのかもしれないが)とりあえず今日はこうやってエントリーしておくことに。まあ報告書も書くわけで、これからこの一年を振り返ることもあろうかと思いこのまま書き続けようかなぁ〜と思うわけだが、今のままのトーンでblogを書き続けると当然就職活動ネタや日本での生活ネタが多くなるわけで、これをご覧のガラパゴスフリークの方々になんだか悪いというか、、、
なのでせめてとりあえずタイトルだけでも変えようと。だがなかなかニュータイトルも思いつかず。だったらいっそのこと別のところで書くべきか。といってもそんなに書くことにあふれているほどたいした生活をしてるわけではないのだが。
まあ結としては、
1. まず新しいタイトルを早急に立案する。
2. 気が向いたときに書く
ってな具合にしておくか。
というわけで、これからはがらぱごすのことは書けませんので、そこが目的だった方は、そういうことですので、よろしくお願いします。
読んでいただいた方へ、
誤字脱字飛び交う駄文に最後までお付き合いいただき、まことにありがとうございました。
January 18, 2006
島を出る日
昨日の送別会の後、結局荷造りが終わらず朝6時におきて荷造りをする。7時くらいにPNGメンバーも仕事にでてくる。荷造りでしっかりとあいさつもできない。しめっぽくなるよりはよかったのかも。
Adios!といえればそれでいいのかも。8時に空港まで行く車が向かえにきてくれることになっている。
今日という日はやっぱり特別で、なんだが空気が違っていた。自分が静かな動揺をしているのを隠せないからだろうか、それともまわりの友達、いや家族、その他大切なひとたちの何かしらの思いからなのか、それとも昨日のお酒で頭が働いていないだけなのか・・・
変わらなかったのは、まずしすぎる赤道直下の日差しとモッキンバードの歌声。
パブロ、パメラ、ルース、カロラインに本当に最期のお別れをする。
二度と会えないって決まったわけじゃない。だけど今自分がとんでもなく特別な一秒一秒を刻んでいる切迫感にも似た状況に追い込まれているのがわかる。だけど自分が出せる言葉はGraciasだけ。それ以外の言葉が出てこなくてまた追い込まれたように動揺する。車のドアが閉まって窓から頭を出してその言葉を叫んだ。9ヶ月世話になったボランティアの家を後にした。
車はあっという間にサンタ・クルス島の北端のイタバカ・チャネルに到着。いつもの渡し船でチャネルを渡り、バスに乗る。これですぐに空港についてしまう。
ここまで涙を我慢していたわけじゃなかったと思う。しかしガラパゴスの出口、バルトラ島の空港へ向かうバスの中で、何かが静かにこみあげてきて、一粒の涙がこぼれたのをかわきりに、ぼろぼろと涙が出てきて、いろんな出来事と人の顔、感情がフラッシュバックしてきて、必死にそれを制御しようとしていた。
空港でガラパゴスでの最期の別れをむかえる。こんなとき、自分は何て言っていいのかわからなくなる。もっと大事なことを言うべきだってわかってるのに残りの30分を、まだ30分ある、とか、まだゲートの中がある、とか、そう思ってたんじゃないだろうか。これで島を去るってのに時間は日常と同じように、いやそれより確実に早くときを刻んでいるのにあとまわしにしてしまって・・・
自分のナンバーが呼ばれ、別れは瞬間的に訪れた。
二度と会えないわけじゃない。
いつもどんなことだって自分で何とかしようとがんばればなんとかなるもんだと思って、そうやってここにも来た。
しかし今直面していることは、もう本当にどうすることもできない。
別れの悲しみと今までの感謝とその他の感情に押しつぶされそうな苦しい時間だった。
そう自分はそれをうけいれるしかなかった。
飛行機の中は、いつも大陸に行くのとまったく同じようにスチュワーデスによる安全説明が行われていた。
席に座ってもらった手紙を読む。
そこにはこの自分の9ヵ月が、その人の視点からどうだったのかが、とてもあたたかく書いてあった。
そのあたたかさと優しさが、今までのさまざまな思い出をよみがえらせて、今度こそ制御不能の状態に押し流した。帽子を深くかぶって誰かにみられないようにするのがせいいっぱいで、そんな中、飛行機は加速離陸する。
実は今自分は本当に前が見えない。涙と不安で見えていない。しかし涙をふいたらそのやさしさを胸にしっかりと前を向いて歩き出せることもわかっていた。
さまざまなあふれてきた感情ってのは、文字通りさまざまなのだろうが、一番言いたかったことは、こういうことなんだろう。
Gracias por todos en Galapago.
January 17, 2006
January 12, 2006
一時の別離と信じたい別離
今日はおそらくPNGの中で一番お世話になったイーパパと最後の日。彼は今日から一週間海上に出てしまう。
彼は午後から船に乗るというのに、午前中は先週沈めたイセエビのコレクターを集めるしかけのチェックに行く。彼との最後の仕事がこのReserva Marinaの作業だったのは、僕にとってはとてもうれしいことだった。昨日準備できなかったので朝市でタンクと他の機材を準備して車で島の反対側のイタバカまで出発。
最初のポイントは問題なかった。しかし二本目のポイントは水深2mのところにしかけたはずのしかけが、水面まで完全に浮き上がってしまっていた。底からロープをひっぱり固定しなおす。
作業はお昼前には終わった。
帰りの車の中で、僕はやたら無口だった。それを見かねて運転していたイーパパはときおり
“Shinji!! Genki??”
と声を上げてた。
彼には本当に感謝することばかりで、自分自身常に彼の足をひっぱっていたとは思うのだが、それでもいろいろと面倒を見てくれた。そういう思いがあったからこそ、いつもいつも彼から頼まれる仕事は断らなかった(それは自分自信の時間をマネージできていないと指摘もされるだろうが)し、何よりやっぱなんらかで貢献することで恩返しっていうか、やっぱそういう気持ちがあった。でも実際のところ、彼の意思をうまく自分が理解できていなかったり、と足でまといになることが本当に多かったと思う。
見習うところは本当にたくさんあった。彼自身にとってどんな関係のない仕事でも、助けを切望されると断れない情の厚いところがある。もちろん最終的にそれを処理するのが自分だったりしたこともあった。8月か9月末だったろうか、そういったことに疑問をもたずにはいられないこともあった。金も人的資源も時間もない俺らがなんで島の祭りに参加するんだ、と。断ればいいじゃねーかよ!って。今でもそういうラテン(or Galapagos)全般に見え隠れする、返答だけはいい見栄っぱりな一面は好きになれないのだが、ただ彼自身にそういったことが集中するっていうのは、むしろ彼の人徳のなすところで、それをサポートすべきだった自分はもっとポジティブにそれに取り組むべきだったと今では思う。それが欧米的な組織力の全くないこの土地で、自分がアウトプットできるものだったのかも、と。
今思えば彼は仕事をなんでもやっていた。PNG唯一の英・西のバイリンガルで、Reserva Marinaでの外交的案件は彼に全て集中し、なおかつ一番難しいドナーとの案件のマネージャーでもあり、若い衆へのアドバイスもしつつ、ときには浜で弱ったアシカを助けにいくなんていう彼じゃなくてもできるだろーっていうことまでやっていた。彼のその態度はときにそれぞれの仕事の進展を遅々とさせることもあったのだろうが、ただ彼のその小さなことから大きなことまで全てを自分の手で経験していくっていうことは、ここガラパゴスでは非常に重要な問題解決型の人材になっていくプロセスなのかもしれない。自分のスーパバイザーもしかり、自分のまわりにいるガラパゴスを支えている人ってのはそういう非合理的な行動パターンをしたりに見えたりするのだが、逆にいうと、なんでも知ってるというか。そういう人材は、まるで天災のような政治的人災や、本当の天災がやってくるときなど、この国・土地特有の問題がふりかかってきたときに、切り込み隊長として必要で、そうなるためには「なんでも」やっていくしかないんじゃないだろうか、と今はなんとなーく思う。
彼の行動のインセンティブが徹底したガラパゴスのconservationってところが、知らず知らずのうちになんでもやっているってことにつながっているのだろう。
いろいろ書いているがとにかくそんな彼の態度は今の自分は大好きなわけで、本当にどうやって感謝の言葉をあらわせばいいのかわからないくらいありがとうが言いたくて。
それでだけです。
January 11, 2006
赤道直下がらぱごす生活まとめ(1)
先のエントリー「別離」より抜粋。
「いつ帰ってくるの?」
「わかんない、これからの人生しだい・・・かな。」
「帰ったらどうすんの?」
「とりあえず大学を卒業する。んで働く。で、もっと何か人のためにできる人材になったら、帰ってこれるかもしれない。そのためにとりあえずは働く。」
「それまでスペイン語忘れないでね。(笑」
そういう思いに現時点において至ったのは、やっぱりこの一年があったから。この一年自分がいた場所は「権威」とか「学位」とかそういうものが際立って威力を発揮する場所ではなかった。それをパワフルな意味のあるものにするためには、とりあえず働いてみることが必要なのかも、と。それらを通して、ときに自分にどんな学位が必要なのかを少しばかり時間をかけて探せばいいか、とも。
結局、自分がここで何を学んだのか一言で言えといわれれば、おそらくそれは「問題解決の仕方」、なんだと思う。あたりまえだが理論(や理想的なプラン)と現実社会の間にはいろんな意味で大なり小なりののギャップがあって、そのギャップの影響や背景を理解することが大事だってことに気が付いた。いやなんとなく言われたら、はーん、そうかもね、ってわかっていたことだろうけど、それがどういうことなのかわかった。
ぶっちゃけ、大学生のインターン(インターンの種類にもよるが)なんて、社会人一年生に習うことをちょっと先取りするだけなら何の意味もないと思う。個人的な意見だがそんなのせこいんじゃないだろうか。そんなのは会社に入れば二年後・三年後にはなくなっている差なんだろうから。って、むしろなくなってなかったら困るし、そういうことを学んだインターン後入社何年かした後も「今の俺はあのときのインターンがあるからだ!」って本気で思うんだろうか?ちょっと疑問。
そうじゃあなくて、わざわざ大学にいる間にそういうインターンでもボランティアでも肩書きはなんでもいいんだが、実社会を経験することの意味ってのは、なんで問題が生じてそれをどういうふうに分析なり解決していくかを自分で考えて、ときには大学っていう土俵に持ち帰って、大学って場所でしかできない様々な視点からの考察ができることに意味があるんじゃないだろうか。
なんでうまくいかないのか、って問いに対して、「それが大人の世界だから(笑」とか「そういう国・場所だから」じゃあなくて、じゃあその大人の世界っていう構造的なフレームのessentialな部分は何で、時に誰なのか、んでその大人の世界を壊すことは可能なのか、もし可能ならどういう手順なのか、壊さなくてもうまくいくようにするにはどうすればいいのか、そう考えことができる時間がある。様々な分析手法を学ぶだろうし、論文も読むだろうし、シュミレーションを組んでみようかとも思う。ただその問題がどういう問題なのかわからない限り、それは現実社会と程遠いものとなるんだろう。机上の空論とか言われちゃうんだろう。だからこそインターンでしっかり世界がどういうことになっているかを「感」じて、その解決策をもんもんと模索する。
それはpolicy makeのことを言ってるじゃない。policy makeはもちろん大事。だけどその後、常にやってくる問題を回避、解決していって目標を達成すること。それはpolicy makeとは絶対的に違った技術。まあ世のお父さん・お母さんたちはそれを無意識にやっているんだろうけど、一学徒として、今このタイミングで考えて何かしらのimplicaitonを導きだそうってことにも意味があるんじゃねーか、って思ったりした。
それが自分の求めているもんなんじゃないか、って今なんとなく思ってる。
別離。
いよいよ本格的に島を出る日が決まった。
1月18日、島を出る。そして予定では24日に日本に到着し。25日、大学の授業2005年度最終日にてその日に来れる人と再開、そして、やらかす、と。
そういうふうにしようと思ってみた。コロンビア旅行は断念。もう時間がない。まだチケットもとれてない。あなたの計画性のなさもさすがよねと苦笑される。
こうまで決断が急になったのは、そういう性格なのもさることながら、いろんなものになかなかケリがつかなかったから。あれも、これもとやってるうちに準備ができず、またいつでそれが終わるのかわからなかったから。
そしてもうひとつの理由は、心の整理がつかなかったから。別れを切り出すのがつらすぎる。
いつ帰ろうか、いつ島を出ようか、12月末から迷っているうちにあれよあれよと日付が変わり、ようやく心の整理がついた。18日の朝に島を出る。
知り合った全ての人にそれを告げはじめる最初の日が今日だった。
明日から船に乗ってガイド実習にでかけてしまうジョセリンと会うのは今日が最後だった。彼女はまだ自分が図書館で働きはじめる前のオフィスにいるときからよく出入りをしてて、いつしか自分の後ろに座っているエディのnoviaになってた。ガラパゲーニャ!って感じの元気のいい女の子で、英語が達者で、気遣いできる子だった。
「いつ帰ってくるの?」
「わかんない、これからの人生しだい・・・かな。」
「帰ったらどうすんの?」
「とりあえず大学を卒業する。んで働く。で、もっと何か人のためにできる人材になったら、帰ってこれるかもしれない。そのためにとりあえずは働く。」
「それまでスペイン語忘れないでね。(笑」
そんな言葉を交わしただろうか。
ってか自分の言いたかったことが伝わったんだろうか。まあいいや。
ジョセリンっていう名前が最初覚えられなくて、向こうは“Hola shinjiro!”と毎日声をかけてくれるのに、こっちはしばらく“Hola!”だけだった。ようやく名前をエディから聞いてメモって初めて“Hola!...Joserin!”って言ったときに、「あなた私の名前知ってたのね。」と意地悪な顔でつっこまれたのが6月ごろだっただろうか。それからガイド講習を彼女が受け初めて、「シンヒロ〜、テストの問題知ってるんでしょ?教えてよ〜」と泣きそうな顔で言われたり、テストの合格発表が予定よりも2日も遅れたときに何度も掲示板にやってきて、「まだかよ!Hijo de puta!」と普通女の子が言わないような言葉を連発してたりとか、かわいい顔しておもしろい子だった。
今この瞬間が最後。もうしばらく会えない。ってか二度と会えないかもしれない。そう思うと、普通の友達でも、何を言っていいかわからなくなる。
別れがつらくて、出会いそのもを呪いたくなる。出会いってのはひょっとしたら残酷なものなんじゃないだろうか。
冷静に考えれば、自分も彼女もこれから一生会わなかったとしても、何の支障もなく生きていける。死ぬときに彼女の顔を思いだしたりはしないだろうし、とにかく二人はそういう仲だ。
でもそういうことじゃない。そのときの「感情」が自分を支配していることを感じる。
別離ってのはそういうことなんだ。
January 08, 2006
NHK地球ラジオ出演
本日朝3時からNHKラジオの「NHK地球ラジオ」に生出演した。
ルームメイトのパブロに悪いので、携帯と赤ワインを持ってオフィスへ行く。昨日夜のバスケの試合が終わった数時間後、本番30分前の午前2時半に一度連絡がくるというので、それまで起きていようと思ったがやっぱ無理。オフィスの外のソファで寝る。
2時半に電話で起きる。ディレクターさんから電話がはいる。
「○○さーん、それでは30分後本番ですので、よろしくおねがいしまーす」
「はーい、こちらこそお願いしまーす。」
と寝てなかったふりをして、返事をし、また寝る(笑
3時に電話が鳴り、
「○○さーん、本番10分前でーす、よろしくお願いしまーす」
「はーい、こちらこそお願いしまーす。」
とまた寝てなかったふりをして、返事をし、携帯から流れてくるNHKラジオを聞いていること数分。最初はドイツの方のインタビューだった。あっという間に
「それでは次は、エクアドルのガラパゴス在住の○○shinjiroさんからです。○○さーん、」とふられ、
「はーい」と答える。(寝起き10分後)
人生初のラジオ出演、最初の一声は「はーい」
「夜分遅くに申し訳ありませーん、よろしくお願いしまーす」
「よろしくお願いしまーす」
と始まり、一通り質問に答えて出演時間約3分半。
一応無事に終わった。
今週いっぱいはNHKラジオのホームページで放送内容が聞けるようなのだが、いろんな人から指摘をうけたとおり、宇宙と交信しているようだった(笑。
January 07, 2006
バスケリーグ出場2戦目
今日は昨日にまして多くの応援団の方々に来ていただき、むしろ彼らの声援のおかげで出場できたようなもんで(笑、本当にありがとうございました。
夜10時からの本日4試合目の試合が、3試合目の女子の試合がなくなったとかで、付いたときには既に第二クオーター終盤間近。急いでユニフォームに着替えて、コートに入ると、上ではカナダ、スペイン、キト、日本からの応援団の方々が、既に座って待ってくださっていて、「Shinjiroをだせー!」とがんばって声をあげてくださっていました。
それを見たチームのオーナーが気を使って、昨日全くいいところのなかった自分をコートへ(笑。今日こそ一矢報いないといけない、ということでコートの中へ。
昨日はダイビングの後で「窒素が体にまわっているんじゃないか」などとささやかれたほど動きが鈍かったようだが、今日はわりと軽快だったらしい(笑
すぐさま、ジャンプシュートを一本決めたら、会場がありえんくらいに盛り上がって(ありがとうございました)、ようやく仲間ともハイタッチ。長かった〜ここまで・・・その後フリースローをもらったのに二本ともはずし(恥)、しばらくプレイしてからベンチへ。
第3クオーターが終わったところで子供が走ってきて、「チノ!ビエン!チノ!ビエン!」とはしゃぎまわり、第4クオーター終了したときには15点差で勝利。バルセロナは昨日に引き続勝利。終わった後、ローカルテレビ局にヒーローインタビューみたいなことでカメラを向けられ、うまく答えられたかわからないが(笑、なんとかそれも無事に終了。
サポーターのみなさんのおかげですね。ありがとうございました。
January 06, 2006
バスケリーグ初出場
出場時間が短かったものの、0得点で終わり、キト、日本からのサポーターの方々に大変面目なく思った。
ガラパゴスのバスケットに慣れるのはまだまだ時間がかかりそう。まずここ何週間と今日の試合で感じたガラパゴスのバスケの特徴。
ガラパゴスのバスケの特徴。
・ディフェンスが常にゾーン(2−1−2)って決まってる
・3秒がない。
・パスが極端に悪い。
・スクリーンがない。
・基本的にボールを眼で追うだけで、味方の動きをあまり見ない。
・「ゴール下は戦場だ」っていうゴリの名言を知らない。
・バックパスのルールがない。
・基本的にカットイン→レイアップor3ポイントの得点しかない。
などなど、細かいけど何かと違うことが多く、途中出場からほとんどボールに触ることなく交代。。。うぅ・・・
自分の想像とははるかに違ったレベルの話ではあるが、海外で活躍する日本人スポーツ選手が増えてきている中、スポーツでのコミュニケーションってのは、デスクワークでのコミュニケーションと一味違った難しさがあるんだろうな〜と思うわけで。まだ英語圏ならいいかもしんないけど、スペイン語だと全部違うし。試合は待ってくれないし。むしろコミュニケーションを図ることなくこっちの文化(no team work)に適応することだけを考えればいいのかもしれないとも思う。
もんもんとしながら夕飯を食べて寝た。
しかけを沈めに
昨日までイセエビの幼生を捕獲またその生態調査のためのしかけをつくっていた。(ってか今日のお昼近くまでやっていた。)
それを沈めに行くためににエドパパがスキューバダイビングの用意をはじめる。今日は誰が潜るの?と聞くと、彼一人だという。「一人で潜るの怖いんじゃない?怖いし、危ないよね。(笑」とじりじり詰め寄ると、意地悪げに笑いながら、「俺は一人で潜るのが好き」とかいいやがる。。。眼で訴え続けているところに、Marin Resouce部のハリー君がやってきて、彼もダイブの機材を用意し始めた。ちなみに彼は自分の日本語クラスの生徒で、最近日本語を多少(あいさつ程度)話す。
“Shinjiro San !! Te vas a bucear tambien?(お前も潜ったらどうだ?)”
と、まさに自分の心を代弁してくれた一言をバシッと言ってくれた。さすが我が生徒!エドパパは「初心者だからダメ」とあまり乗り気ではなかったが、「今日は5mやそこらだから問題ない」とハリー君がすでに自分のスーツをだしてきてくれた。エドパパもしょうがねーなーとOKを出して
っしゃーーー!
早速用意を始める。スーツと、靴と手袋とひれ、マスクは部屋からとってくるとして、ボンベにBCCジャケットを装着して、準備完了!
三人分のダイビング準備完了!最大でも水深5mのところでのしかけ設置なので、ボンベは一本で大丈夫とのこと。
お昼を食べて、昨日の写真の最後に写っているPNGの波止場から出るのかと思ったら、なんと今日はここに動ける船がないとかで、島の反対側にあるイタバカ・チャネルから船を出すという。荷物を積んで2時半に出発。北上し島を縦断する。途中High land で雨に降られるが、山を越えると快晴とまでいかないまでもしっかり晴れていた。
昔ケニアに赴任していたことのあるeducadoraが言ってた。「同じ赤道直下でも、ケニアでは数十時間車をすっとばさないと変わらない景観が、ここでは10分でかわる。」と。確かに。初めてきたときは、ガラパゴスの地を踏んでることに興奮して気が付かなかったが、4月に赴任したときには自分もそれにふっとした。
空港のあるバルトラ島との間の海峡、イタバカ・チャネル周辺は、ほとんど常に晴れている。海岸沿いはマングローブで緑があるものの、車で島縦断の一本道を登り始めた瞬間、サボテンと岩しかない乾燥地帯にはいる。しかし10分も車を飛ばせば、霧のかかったスカレシアが青々と生い茂った場所にはいる。ほどなくして下り坂に入り、そこから先は、スカレシアの森とは違った草本が生い茂った場所に入り、そこらへんがゾウガメの住み家である。vella vistaという村をさらに下ると、プエルト・アヨラの港町に着く。縦断の道程およそ40分。劇的な景観変化である。もちろん生態学的なことはよくわからないし、ガラパゴスしか知らない自分にはこれが世界に稀に見る生態なのかわからないが、とにかくこの変化には心が留まる。またガラパゴスという場所がそれを神秘的によく見せる。
イタバカ・チャネルについてもまだ船が用意できていないとかで、しばらく待つ。用意できた頃にはすでに4時をまわっていた。急いで荷物を船にのせて出発。最初のポイントはイタバカ・チャネル内にある、PNGのラボ付きの船が停泊している場所のすぐ下。GPSで場所をメモ。ダイブする前にエドパパから、常に一緒にいるようにと確認する。ミッションは水深5mのこの場所で、水深約2mくらいのところに仕掛けを固定する。浮いて流れてしまわないように下に沈んでいる重りにしっかりと固定して、浮きを付けた「しかけ」にロープの長さを調節して完了。
3,2,1、Vamos!と背中から、Back roll entry で海にダイブ。
早速水底で作業開始。しかけをくくりつける。なかなか紐がひっかっかたり、絡まったりでてこずる。固定した後に一度浮上してしかけを船から降ろす。
その後もう一度沈んで、長さを調節し、水深約2m付近で固定。
ミッション終了。
今度はポイントを変えてもうひとつ同じのをしかける。
ツーリストも通らない場所であることを確認し、GPSでポイントをメモ。水深は4mほど。もう夕方になっていて、さすがに寒くなってきた。同じBack roll entryで入ると、さむっ!はやくしかけて帰りたい・・・
二回目もそれなりに時間がかかったが無事終了。
海藻に見えなくもないかな?うまくいくことを願って。またうまくいかなくとも、何が悪いのかを考えながら発展させていけばよい。とにかくデータを取り始めないことには何も始まらないのだから。
なんとか無事に終了。今日のダイブはなぜかあまり耳抜きがうまくいかず、なかなか沈めなかった。やはり沈むときには重りがもう一個必要かもな。たぶんFun Diveじゃなくて、水深5mくらいでのこういう作業のときはもう一個つけよう。ガラパゴスでの話しだけど。