January 12, 2006

一時の別離と信じたい別離

今日はおそらくPNGの中で一番お世話になったイーパパと最後の日。彼は今日から一週間海上に出てしまう。

彼は午後から船に乗るというのに、午前中は先週沈めたイセエビのコレクターを集めるしかけのチェックに行く。彼との最後の仕事がこのReserva Marinaの作業だったのは、僕にとってはとてもうれしいことだった。昨日準備できなかったので朝市でタンクと他の機材を準備して車で島の反対側のイタバカまで出発。

最初のポイントは問題なかった。しかし二本目のポイントは水深2mのところにしかけたはずのしかけが、水面まで完全に浮き上がってしまっていた。底からロープをひっぱり固定しなおす。

 

作業はお昼前には終わった。

帰りの車の中で、僕はやたら無口だった。それを見かねて運転していたイーパパはときおり

“Shinji!! Genki??”

と声を上げてた。

彼には本当に感謝することばかりで、自分自身常に彼の足をひっぱっていたとは思うのだが、それでもいろいろと面倒を見てくれた。そういう思いがあったからこそ、いつもいつも彼から頼まれる仕事は断らなかった(それは自分自信の時間をマネージできていないと指摘もされるだろうが)し、何よりやっぱなんらかで貢献することで恩返しっていうか、やっぱそういう気持ちがあった。でも実際のところ、彼の意思をうまく自分が理解できていなかったり、と足でまといになることが本当に多かったと思う。

見習うところは本当にたくさんあった。彼自身にとってどんな関係のない仕事でも、助けを切望されると断れない情の厚いところがある。もちろん最終的にそれを処理するのが自分だったりしたこともあった。8月か9月末だったろうか、そういったことに疑問をもたずにはいられないこともあった。金も人的資源も時間もない俺らがなんで島の祭りに参加するんだ、と。断ればいいじゃねーかよ!って。今でもそういうラテン(or Galapagos)全般に見え隠れする、返答だけはいい見栄っぱりな一面は好きになれないのだが、ただ彼自身にそういったことが集中するっていうのは、むしろ彼の人徳のなすところで、それをサポートすべきだった自分はもっとポジティブにそれに取り組むべきだったと今では思う。それが欧米的な組織力の全くないこの土地で、自分がアウトプットできるものだったのかも、と。

今思えば彼は仕事をなんでもやっていた。PNG唯一の英・西のバイリンガルで、Reserva Marinaでの外交的案件は彼に全て集中し、なおかつ一番難しいドナーとの案件のマネージャーでもあり、若い衆へのアドバイスもしつつ、ときには浜で弱ったアシカを助けにいくなんていう彼じゃなくてもできるだろーっていうことまでやっていた。彼のその態度はときにそれぞれの仕事の進展を遅々とさせることもあったのだろうが、ただ彼のその小さなことから大きなことまで全てを自分の手で経験していくっていうことは、ここガラパゴスでは非常に重要な問題解決型の人材になっていくプロセスなのかもしれない。自分のスーパバイザーもしかり、自分のまわりにいるガラパゴスを支えている人ってのはそういう非合理的な行動パターンをしたりに見えたりするのだが、逆にいうと、なんでも知ってるというか。そういう人材は、まるで天災のような政治的人災や、本当の天災がやってくるときなど、この国・土地特有の問題がふりかかってきたときに、切り込み隊長として必要で、そうなるためには「なんでも」やっていくしかないんじゃないだろうか、と今はなんとなーく思う。

彼の行動のインセンティブが徹底したガラパゴスのconservationってところが、知らず知らずのうちになんでもやっているってことにつながっているのだろう。

いろいろ書いているがとにかくそんな彼の態度は今の自分は大好きなわけで、本当にどうやって感謝の言葉をあらわせばいいのかわからないくらいありがとうが言いたくて。

それでだけです。



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