2012年02月09日

これ以上「乃木希典」氏に関する歴史捏造を許してはならない

「乃木希典」氏は、戦前の教科書に載っていた偉人である。
だから、戦前教育を受けた人は、必ず名前と功績ぐらいは知っている方である。

しかし、
戦後は、乃木将軍を無能、無責任扱いする知識人が多数おり、
また、今回
乃木将軍の新たに発見された書簡に関し、恣意的に悪意で書いていると思われる読売記事(見出し)があったので、順に紹介させていただく。

そして、乃木将軍を無能、無責任呼ばわりする人には、
乃木将軍を偉人として教科書に掲載することを含めて、日本人全体に乃木将軍という人が偉人であったことを認知・周知されたくない意図が働いていることを我々は知るべきなのだ。

 

1.乃木将軍は無能か?

私の結論は、乃木将軍は将軍として無能ではないと考える。
乃木将軍無能説は、歴史小説家に過ぎない司馬遼太郎の歴史史観によって創作され、歴史ドラマや司馬ファンによって流布されたに過ぎない。
司馬遼太郎は、歴史家ではない。単に歴史を素材とした小説(フイクション)を書いた人なのだ。当然、小説の中に架空のつくり話が挿入されているであるから、小説に書いてあることなど真に受ける必要はない。
また、司馬遼太郎は、満州の戦車隊に配属されていたが本土防衛部隊に配置換えされており、実戦経験は少ない。
また、戦車を含めた近代戦および近代兵器に関する著作がほとんどないため、司馬遼太郎の乃木将軍愚将説は、軍学者の次元ではなく、単に小説家の意見だと私は判断する。

さらに、軍関係者が、当時の状況に関して反論している文書を読めばわかることだが、

・乃木将軍は無能ではない
http://d.hatena.ne.jp/maroon_lance/20090815/1250299587

司馬説は的外れであり、歴史小説家の評価に惑わされた人は、そのことを恥じるべきなのだ。

なお、司馬遼太郎は、フィクションを事実だと錯覚させるのが得意な歴史小説家だとする指摘がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E

………………………………………………………………………

乃木は無能か?
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/study/nogi.htm

乃木将軍は無能ですか
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1019653500

乃木将軍は愚将でしたか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1664845.html

乃木将軍は当時世界的英雄だった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8

………………………………………………………………………
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8

司馬遼太郎らによる批判

乃木を無能・愚将であるとする主張が広まったのは、日本陸軍従軍経験のある作家司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』及び『殉死』によるところが大きい[131]。 司馬は『坂の上の雲』及び『殉死』において以下のように述べ、旅順における乃木を批判している。

1.旅順攻囲戦当時、要塞攻撃についてはヴォーバンが確立した大原則が世界の陸軍における常識であったが、乃木は第1回総攻撃においてこれを採用しなかった[132]。
2.ヴォーバンの戦術論(近代要塞に対する攻撃方法)に関する書物を読了することは軍人の当然の義務であった。しかし乃木は、近代要塞に関する専門知識を有しなかった[133]。
3.乃木は司令部を過剰に後方へ設置したので、前線の惨状を感覚として知ることができず、児玉源太郎からも非難された[134]。
4.第1回総攻撃は、あえて強靱な盤竜山及び東鶏冠山の中央突破という机上の空論を実行に移したものであった[135]。
5.早期に203高地を攻め、そこからロシア海軍の旅順艦隊を砲撃しさえすれば、要塞全体を陥落させずとも旅順攻囲戦の作戦目的を達成することができ、兵力の損耗も少なくてすんだはずである。しかし、乃木は、203高地の攻略を頑なに拒み[136]、本来不要な旅順要塞全体の陥落にこだわった[137]。
6.旅順要塞は無視してしまうのが正解であり、ロシア軍が旅順要塞から出撃してきた場合に備えて抑えの兵を残しておけば十分であった[138]。
7.乃木は、児玉源太郎に指揮権を委譲し、ようやく、203高地を陥落させることができた。児玉が指揮を執らなかったなら、損害は拡大していた[139]。

………………………………………………………………………


2.乃木将軍は無責任か

乃木将軍無責任説をまき散らす工作員が相当数いるようなので、あえて反論するが、人柄において、殉死事件において、決して無責任な方ではない。

それでも無責任だと言い続けるなら、乃木夫妻と同様の作法で自決できるかどうか問い質すべきである。

なお、私は、乃木将軍無責任説を流布する者は、戦後生まれの多くの日本人が、乃木将軍夫妻の殉死の事実および殉死の作法を知らないことをいいことに、再び、教科書に乃木将軍の記述が載らないことを目的としているのに相違ないのであろう。

………………………………………………………………………
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8

自刃前の乃木

乃木は、大正元年(1912年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)及び光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。当時10歳の裕仁親王は、乃木の様子がいつもとは異なることに気付き、「閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞いたという[109]。

自刃

大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなった[110]。 当時警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況等について詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している[111]。

1.乃木は、大正元年(1912年)9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町自邸居室において明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経及び第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。
2.将軍(乃木)はあらかじめ自刃を覚悟し、12日の夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や辞世等を作成し、心静かに自刃を断行した。
3.夫人(静子)は、将軍が割腹するのとほとんど同時に、護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり、将軍にやや遅れて絶命した。
4.乃木は、いくつかの遺書を残した。そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた[112]。
乃木は、以下のような辞世を残した。

神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる

うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり

また、妻の静子は、

出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき

という辞世を詠んだ[113]。

なお、乃木の遺書には、遺書に記載されていない事柄については静子に申しつけておく旨の記載等があり、乃木自刃後も妻の静子が生存することを前提とした[114]。

………………………………………………………………………


3.乃木将軍に関する最近の新聞記事比較

まず、乃木将軍にまつわる感動的なエピソードを紹介する。

………………………………………………………………………

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8

日露戦争における自責の念

乃木は、日露戦争において多くの兵を失ったことに自責の念を感じていた。

時間があれば戦死者の遺族を訪問し、『乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい」と述べた[122]。
東郷平八郎及び上村彦之丞とともに長野における戦役講演に招かれた際、勧められても登壇せず、その場に立ったまま、「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した者であります」と言って落涙し、それ以上何も言えなくなってしまったこともあった[123]。


 戦傷病者へのいたわり

癈兵院を再三にわたって見舞い、多くの寄付を行った。乃木は、他者から寄贈を受けた物があると、そのほとんどを癈兵院に寄贈した[124]。そのため、癈兵院の入院者は乃木を強く敬愛し、乃木の死を聞いて号泣する者もあり、特に重体の者以外は皆、乃木の葬儀に参列した。また、癈兵院内には、乃木の肖像画を飾った遥拝所が設けられた[124][125]。
上腕切断者のために自ら設計に参加した乃木式義手を完成させ、自分の年金を担保に製作・配布した。この義手で書いたという負傷兵のお礼を述べる手紙が乃木宛てに届き、乃木は喜んだという[126]。

 辻占売りの少年

乃木大将と辻占売りの少年(旧乃木邸内)少将時代の乃木が訪れた金沢の街で辻占売りの少年を見かけた。その少年が父親を亡くしたために幼くして一家の生計を支えていることを知り、少年に当時としてはかなりの大金である金2円を渡した。少年は感激して努力を重ね、その後金箔加工の世界で名をなしたという逸話によるものである。乃木の人徳をしのばせる逸話であり、後に旅順攻囲戦を絡めた上で脚色され「乃木将軍と辻占売り」という唱歌や講談ダネで有名になった[127]。

………………………………………………………………………

以下は、新たな書簡発見に関する、読売、毎日、産経の記事の転載である。

過去の乃木将軍のエピソードを知っていれば、
今回の書簡の発見は、別に新たな発見といえるほどのことではなく、
読売記事見出しには、乃木将軍を愚鈍で無責任な人と印象づけたい意図があることくらいは、すぐに気づくはずだ。
また、そのような意図がなければ、産経や毎日のような見出しとなったはずだ。

そういう意味で、最近の読売記事は、TPP、女性宮家報道を含め、情報工作機関化しつつあると言ってよい。

もっともこういう手口に引っかからないためにも日頃から歴史に関する情報収集と勉強を怠らないことが必要なのは言うまでもない。

なぜなら、悪いケースに限って、歴史は繰り返すからだ。


………………………………………………………………………

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120208-OYT1T00678.htm?from=navlp

息子2人戦死、面目保てた…乃木大将の手紙発見


日露戦争(1904〜05)で中国・旅順を攻略した陸軍大将、乃木希典(まれすけ)(1849〜1912)の手紙が見つかり、入手した広島市の学校法人修道学園が8日発表した。

 自刃する2年前、かつての部下に宛て、日露戦争で約6万人の死傷者を出すなど多大な犠牲を強いた責任を感じ、「弊家(へいけ)ハ小生共(しょうせいとも)一代(いちだい)」と乃木家を断絶させる決意をつづっている。

 手紙は1910年7月6日の消印。陸軍時代の部下で、同学園の前身の修道中学校総理(理事長)だった佐藤正に宛てた。乃木も後に学習院院長となり、同じ教育者として交流を深めたという。

 手紙では、広島の特産品をもらった礼をつづった後、戦争で跡継ぎの2人の息子を亡くした乃木に養子縁組を勧める佐藤に対し、「小生共一代」と跡継ぎのための養子は考えていないと記した。また、天皇陛下や戦死した将兵の遺族に対し「申譯(もうしわけ)ナク」と謝罪し、息子2人の戦死は「愚父ノ面目ヲ添ヘタル」と、かえって面目を保てたとしている。

(2012年2月8日15時31分  読売新聞)

 

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120209k0000m040022000c.html

乃木希典:「多くの兵を死なせた」自責の手紙
 
乃木希典直筆の手紙=広島市中区で2012年2月8日午前11時14分、寺岡俊撮影 日露戦争で中国・旅順攻略にあたった陸軍大将、乃木希典(のぎ・まれすけ)(1849〜1912年)の直筆の手紙が見つかった。日清・日露戦争で多くの兵を死なせたことに対する自責の念や、乃木家を一代で断絶させる覚悟などがつづられている。

 手紙は、1910年、陸軍で親交のあった佐藤正に宛てて書かれた。佐藤は、学校法人修道学園(広島市)の設立者。同学園の同窓会連合会が今年1月、オークションでこの手紙を落札し、8日発表した。

 
日露戦争で中国・旅順攻略にあたった乃木希典陸軍大将 手紙では、戦争で多くの部下を失ったことについて「申訳ナク」などと、天皇陛下や遺族に対する思いが書かれている。一方で、日露戦争で2人の息子が戦死したことに触れ、愚かな父の面目を保ってくれた、などとする複雑な心情も吐露。乃木に跡継ぎがなくなったため、佐藤から養子を勧められたことに対しては、「弊家ハ小生共一代」と記し、自分の一代で終わらせる決意を示した。乃木直筆の手紙の証明として、荒木貞夫・陸軍大将らの署名があった。

 手紙は、11月4日の同学園創立記念日に、修道中・高校の生徒や一般へ公開する予定。同学園同窓会連合会は「当時の心情がわかり、歴史的価値もある。生徒への教育に生かしてくれれば」としている。【寺岡俊】

毎日新聞 2012年2月8日 18時37分(最終更新 2月8日 19時02分)

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120114/trd12011413500004-n1.htm

「戦死者多く」と自責 乃木希典の直筆手紙、乃木家断絶も覚悟
2012.1.14 13:48 [雑誌・書籍]


 日露戦争の陸軍司令官、乃木希典(嘉永2〜大正元年)の直筆の手紙が札幌市内で見つかった。戦争で跡継ぎをなくし、知人から養子を勧められていた乃木だが、多くの兵士を死なせた自責の念から、養子縁組せずに乃木家を断絶させる覚悟をつづっている。

 手紙は明治43年7月6日の消印で、学習院院長をしていた乃木が広島市の修道中学校校主の佐藤正宛てに送ったもの。

 乃木は日露戦争(明治37〜38年)で中国の旅順攻略を指揮し、約6万人の戦死傷者を出し、息子2人も失った。手紙には、天皇陛下や遺族に申し訳なく、跡継ぎのための養子は考えておらず「小生共一代」で終わると記述。息子の戦死で「面目を保った」との思いも明かしている。

 約20年前に札幌市の男性が市内の骨董店で手に入れた。3年前に伊藤書房(同市厚別区)が購入し、18日に札幌古書籍商組合の競りにかける。

………………………………………………………………………


参考
………………………………………………………………………
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E

司馬作品の時代性

司馬の歴史観についての議論を見る上で時代性に関しての視点は重要であろう。思想的な流れとしては司馬が小説執筆に専念した当時は、一般に第二次世界大戦の反動から日本の近代史全体に否定的な見解が強かった。そのため第二次世界大戦を痛烈に批判する論者の多い中で、その他の近代史に光をあてたことを評価する向きもある。また、司馬の登場以前、日本の歴史小説はいわゆる史伝ものか大衆娯楽を重んじた講談風の作品が中心だった。しかし司馬は資料収集を重視し、出版社や司馬に肯定的な立場の評論家等は高い実証性を持った歴史小説の形式を確立したことを採り上げ、上質な娯楽として読むに足る物として、知識人(および知識人に憧れを持つ読者)が高く評価してきた。実際には同時代に実証性を重視した小説家が存在しなかった訳ではなく、例えば吉村昭、大岡昇平などは実証性の高い小説やノンフィクションを発表し、それらの多くは「暗い昭和」を対象とし、歴史研究者が二次資料として揚げることもある[10]。司馬が採り上げた時代についての歴史研究やノンフィクションは当時から多数存在していた(司馬は小説執筆にあたり膨大な資料を集めた事で知られるが、その事自体が既存の成果物が多数存在していた傍証とも言える)。

しかし、一般への人気なども相まって、実証性の高さから司馬の小説が小説作品としての枠を超えている、と評価する雰囲気が熱心な支持者により形作られてきた。司馬の影響を受け、自著で司馬の考え方を引用する者、司馬に憧れて小説家や歴史研究者となったことを述べている例も多く、高い視聴率で知られた大河ドラマにも複数回採り上げられている。そのため、司馬は新しい視点と斬新な描写で彼自身の歴史観を作って日本社会に広く影響を与えた国民的作家であると言われている。死後においても司馬の影響力は大きく、礼賛する余り持論を司馬と絡めて預言者のように扱われることもある[11]。

一方で司馬の作り上げた歴史観は、しばしば「司馬史観」として論争の対象となってきた(ただし、司馬自身は「史観」という考え方自体に、そもそも、否定的な見解を述べており、この論争は、司馬の作品をどう解釈するかと言う論争の側面が強い)。批判側の観点は幾つかに分けられる。


 歴史観への批判

歴史観は必然的に思想的な性格を持つ物だが、この点からの批判としては近代合理主義への偏重が一定の限界を与えていたという指摘が代表的である。例えば、同時代の指導者の観点からの把握に重きを置き、民衆の観点や通時的な観点からの把握を怠っている(歴史の切り取りかたの問題)、明治期の戦争を肯定的に描きながら昭和期の戦争を否定的に描いている(いわゆる「明るい明治」と「暗い昭和」の分断)、各時期代の描写が前記の偏向(例えば昭和期の日本軍に対する憎悪)により客観的な分析が欠如している、合理主義への解釈を巡って対立がある、などである。また、司馬が称揚した合理主義自体も西洋哲学の中で発展を遂げる過程で解釈の多様化が起こり、帝国主義、ナチズム、共産主義、或いは過度の資本主義などと関係づけ、その行き過ぎに対して批判がなされることも多い[12]。司馬に限らず提唱者の唱える『合理主義』という言葉がどのような考えを指し、提唱者が言葉通り実践しているかについては慎重に議論する必要があり、批判の中で触れられる事もある。

但し、「明るい明治」は司馬自身の作家としての研究・調査による合理主義からくるもの、「暗い昭和」は自身が徴兵された自己の体験による実証主義によるものであり、作家として個人の主観が影響するのは当然である。

また、歴史教科書問題などの歴史認識をめぐる論争において、自由主義史観派が司馬の歴史観に依拠していると主張していることから、左右を問わず、自由主義史観を批判する立場から上記の諸点を強く批判することがある。中村政則、佐高信などの革新派の流れを汲む者からは「戦争、植民地支配を美化・正当化している」と批判され、西部邁、小林よしのりなどの一部の保守派(主に反米保守派)からは「大東亜戦争を否定する自虐史観」「ポチ保守の史観」と批判される[13]。思想的、史観的な面からの見直しについては新聞でも紹介した例がある[14]。

他に、司馬が、東アジアあるいはヨーロッパの文化的マイノリティに一貫して関心を持ち続けてきたことを評価しながら、彼らを作品中にとりあげたり論じた際に、「彼らを文明化・支配した帝国側」の意味について深く分析せずにやりすごしている、という批判もある[15]。

 実証性(ないし創作的行為の混入)への批判 [編集]より学究的な立場からは実証性の面からも批判されることがある。特定の事実への重きを置いた記述に留まるならば一応は史実の範疇に留まるが、司馬の場合は実証性を謳っているにもかかわらず、小説の一部に創作した場面が存在する事、資料の誤読や資料批判の不徹底等による事実誤認などが問題点として批判者より指摘される(思想的批判と合せて書かれた場合、評論が評価の対象となった場合には歴史修正主義の亜種と批判される)。この立場の代表的論客は別宮暖朗、福井雄三などである。また、一坂太郎は司馬の価値観を基本的には否定してないが、実証性については検討を行っている。また、坂本龍馬の幕末維新史での過剰評価や、乃木希典に対する否定的な記述など、政治家以外の歴史上の人物に対する評価でも、司馬の小説によって一般に広まったと認識されている例がある。

作品中に出典を記さないことに対する批判もある。これは実証性を謳う姿勢に合致していない。すべてを根本資料から調べ上げたように錯覚を生じさせるような表現もみられる。

戦史研究者にも創作物の価値を認めつつ、特定個人の歴史観を事実であるかのように錯覚させる手法の危険性を指摘し、司馬と絡めて述べる者などがいる[16]。後年設定考証のレベルの高さを前面に売り出された一部の架空戦記ほどではないにせよ、真実性については同質の問題を抱えていると言える(なお、架空戦記のヒットメーカーとなり、代表的存在となった佐藤大輔は、作品内に司馬を登場させ、記述法の類似性や乃木等の歴史上の人物への否定的評価で司馬を髣髴とさせる表現があり、司馬の歴史観を継承した影響が高梨俊一などにより指摘されている)。

反論を行なう者は、司馬(ないし小説家)の社会的影響力については触れないか、受け手の問題であるとする場合が多い。


司馬の価値観の敷衍

司馬への批判に対して、「司馬史観」という名称は司馬自身が名付けたものではないという指摘がある。一方で出版社や司馬を好意的に評価する者までが「司馬史観」という言葉を敷衍させているという事実もある[17]。

また、「司馬は自身の著作を、"フィクションである"とはっきり言明している」ことを実証性の問題に対して持ち出されることがあるが、一方、司馬は晩年を中心に歴史評論的な性格の強いルポルタージュ、エッセイを多く発表し、加えて雑誌等でのインタビューにも応じ、新潮社から販売されているような講演活動も行い、新聞にも寄稿している。これらの著述物が蓄積され、司馬の歴史観・価値観は小説以外の手段でも読者に提供された。『街道をゆく』のように小説以外の作品が映像化された例もある。また小説以外の作品の幾つかも、小説同様に現在でも容易に入手が可能であり、雑誌のバックナンバーなどは公共図書館で閲覧出来る。

また、司馬に限ったことではないが、たとえ実証性の高さを売り物にしていたとしても、時事評論などは別として小説のような創作物については“歴史の真実を記述した史書”と考えることは適切とは(通常は)言えない。これは歴史学では基礎的な認識として教育されることである。

従って司馬史観という言葉を利用しているのは批判派だけではない。フィクションの内容を歴史の真実であるかのように読者が錯覚してしまうのは、それだけ司馬の作家としての手腕が優れていることの証明でもあるとも言えるが、上記のように批判側にとってはその錯覚させる手腕自体が問題となる。

このように、司馬に関する議論の場合には、受容の様態も対象となる。擁護派は司馬の言葉から教訓を汲み取ろうとする傾向があり、批判派は神格化を行っている者を信者のように捉えての批判は、司馬本人への賛否にかかわらずなされる。

………………………………………………………………………



waninoosewa at 18:00│Comments(10) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Clip to Evernote ◆◆ 健全な愛国教育 

この記事へのトラックバック

1. 北関東横断の旅 ?軍神ゆかりの湯  [ 熱湯浴の右回りは続く ]   2015年06月21日 13:51
  JUGEMテーマ:温泉   本日3カ所目の温泉で、宿泊地である、奥那須温泉 -那須の最奥地にある秘湯-「大丸温泉旅館」に到着しました。 秘湯であり、純和風の高級旅館。 チェックイン前に到着出来たので、広くはないフロントに有るギャラリーを見学。 そこには

この記事へのコメント

11. Posted by 774   2018年01月04日 16:59
ブログの著者は乃木氏を信奉しているようだが、
ならば本当に彼の意を理解しているのか?
すさまじい6万以上の量の自責の念に駆られているという意味を本当に理解してあげるべきだろう。
人間的には共感能力、反省する姿勢は素晴らしい。
しかし、将軍として将兵の損耗を可能な限り少なくする能力や、用兵の能力、戦略戦術の能力と行為の結果が、後世と本人の主たる問題なのだ。
それを彼は認識してそのような殉職までの態度だった
その態度を否定して、状況の事実を無視するのがブログの著者の態度なのだろうか?
彼の認識することと同じそれを認識し、
彼のような轍を踏まずにそういう姿勢を顕した彼を評価する、それは私もおおいに評価するものであります。
9. Posted by 暇な奴等だな   2016年07月14日 21:12
名将云々言うなら実績だろうに。
当時基準として未曾有の犠牲を払い初期の勝機を掴めずだらだら自国民の命を浪費させたのは事実。明治天皇に殉じた姿勢が過度に持ち上げられており、さらに実子を作戦中に亡くしている事が物語性の好きな国民に受けているだけで。
私は司馬史感に共感するものではありませんが司令部として出来ることをやったか?と言えば出来ていません。
主力満州軍より協力な火砲め提供されており、海軍の支援もある。
兵員の不足は無駄に死なせたせい、弾薬の不足は全軍の悩みでありましたが目標なくばらまいたせいでの不足が目立つのが乃木司令部。旅順を落とす戦略意義を見いだせていない乃木司令部。乃木大将は百歩譲っても名将ではありません。


将軍と言うのは必ずしも準備された上に軍を率いるのではありません。
まかされた手の内で最大の実績を上げるのが仕事です。
8. Posted by 一斎   2015年01月29日 06:47
乃木将軍の伝記の中では、一応「乃木希典―高貴なる明治」がいいだろうとは思っております。
司馬遼太郎のものの考え方を否定する視点で出稿したものです。




7. Posted by ゆうれい将軍   2015年01月29日 03:54
私個人は…乃木将軍は『世界の偉人』の1人と認識しています。
ですから…このサイト、スレに於いて『乃木将軍は有能か無能か』と議論なさる事が、やや滑稽に思えます。

あなた方が本当に乃木将軍を尊敬なさるなら、最初からこのような議論をなさるべきではないでしょう。司馬某などの左翼主義者ならああいう評価をするのは当然であり、その程度の人間の意見を引き合いに出す事自体が誤りかと。

司馬は『そういう連中』の1人です。
6. Posted by 一斎   2014年12月02日 06:57
<一部の海軍上層部を除き日本軍はよく闘ってくれた。      英霊と皇国日本に栄光あれ!

海軍上層部を除き、本当に良く戦ったと思います。
歴史の真実がどんどん暴かれる時代になったことに感謝しつつ、在野の研究がさらに進むことを期待する一人です。
5. Posted by pink coral   2014年12月02日 00:20
 --福田氏については、執筆時すでに敵の影響下にあったかもしれません。

 大東亜戦争緒戦において、乃木将軍の信奉者で同じく堅固な要塞を陥落させ、武功も匹敵する将軍がいました。 シンガポール要塞の陥落は、(アセアン諸国独立の端緒であり世界に波及)それまでの白人の数百年の侵略史を根底から引っ繰り返す出来事でした。 

 アングロユダヤから見ると忘れたい悪夢で、内通隠蔽組とも利害が一致します。このような背景で陸軍悪説は流布され、大東亜戦争における山下奉文を含む日本将兵のアジアに対する貢献と戦争の真義に光が当たらないようしているのだと観ています。

一部の海軍上層部を除き日本軍はよく闘ってくれた。  
 
       英霊と皇国日本に栄光あれ!
4. Posted by 一斎   2014年11月30日 06:32
pink coral様
素晴らしい考察です。まったく同感です。人物鑑定的に眺めれば、そういう評価となるのは自然だと思います。pink coralさんは、本を書かれているレベルの方と思います。
もし、書かれているとおりであれば、水交会が、戦前戦後、どのような役割を担ったのか、気になるところです。
3. Posted by pink coral   2014年11月29日 20:04
司馬遼太郎こと福田氏は陸軍戦車隊?だっとと思いますが、おそらく福田氏の上官と馬があわず(ウルトラ体育会系なので)その上官(長州閥?複数かも?)が理想的な陸軍軍人として尊敬信奉していた乃木将軍の小説を書くときにその鬱積した感情を乃木将軍を批判的に書くことにより溜飲を下げていたのではないかと想像します。

  つまり福田氏の描く乃木像は上官(組織?)への不満感情が投影されているのではないでしょうか(同一視)? ところがそれを目にした戦後利得者や海軍上層の内通組が接触し次第に感化され海軍賛美にまわり阿川弘之、半藤利一(GHQ史観、資料的価値は低い)などのように御用小説家化していったのではないでしょうか。

 海軍上層部が敵国に篭絡され内通して敗戦に導いたことを隠蔽するために、ことさらに福田に海軍賛美をさせたのだと思います。 福田氏はその大きな謀略や意図に気がつかずに個人的な感情で敵を利する記事や発言をしたのではないかと思います。 実際は海軍も同じでどっちもどっちなのですが隣の芝生は青く見えたのでしょう。  

 福田氏の小説は、これが歴史上の人物だとある程度対象の距離が離れているので客観視ができているし、感情も抑えられ淡々と描写されているように思います。(一部を読んだだけですが)  福田氏がもし戦国期や幕末に存在し対象の軍などに属していたら、もっと罵詈雑言、怨嗟のこもった小説になっていた可能性もあると思います。
2. Posted by 一斎   2014年10月04日 10:33
コメントありがとうございます。
私は、司馬遼太郎の本をすべて読んでいる訳ではありません。たまたま読んだ何冊かの本の中に、私程度の者にも問題であるとがわかるほどの雑文であることから、(その反対に素晴らしい原稿もところどころある)、このブログにて、その一部を書いたに過ぎません。
司馬遼太郎の困るところは、良いところと悪いところが混在しすぎているのではないかと思っております。
その他、ご指摘いただいていることについては、基本的に賛同しております。が、佐藤晃著の「帝国海軍が日本を破滅させた」という本の上巻に、日本海海戦から、帝国海軍は勘違いを始めたのではないかという指摘があります。
言い換えますと、乃木希典愚将説は、司馬遼太郎個人だけでなく、海軍善玉説を構築するために、用意周到に準備されたかもしれないと思いつつあり、そういう視点から、日露戦争と真珠湾攻撃開始に至る海軍の動向について、歴史検証が必要ではないかと考えているところです。
1. Posted by 砂   2014年10月04日 05:33
仰るとおり司馬遼太郎氏の小説は、あくまで小説であります。しかし事実だけを考証していくと、日露戦争で第三軍の乃木希典氏は、当時、第三軍の目的と陸軍の命令、海軍の要請、大本営の決定に従わず、犠牲を増やした事は確か。

自刃や 戦傷病者へのいたわり、辻占売りの少年を取り上げておられますが、これらは乃木希典氏の性格や心情を表しているだけで、将としての能力を物語るものでは一切ない。そのようなエピソードは否定されておらず、歴史の捏造に関係ない。

大切なのは、乃木希典氏の能力を悪戯に問う事ではなく、次なる失敗を繰り返さないように、考証し、そこから学び取る事でありましょう。

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔