2012年05月16日

議会証言したからという理由でマッカーサーが親日派だと思い込んではいけない(その1)

最近、マッカーサーがアメリカ議会にて日本がなぜ大東亜戦争を始めなければならなかったのかについて証言した記録が東京都の高校教材として採用されたことが話題になった。

「日本は自衛戦争」マッカーサー証言 都立高教材に掲載 贖罪史観に一石
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120330/edc12033008120003-n1.htm


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http://sankei.jp.msn.com/life/news/120330/edc12033008120003-n1.htm

「日本は自衛戦争」マッカーサー証言 都立高教材に掲載 贖罪史観に一石
2012.3.30 08:11
[歴史問題・昭和史]

マッカーサー証言
 日本が対米戦争に踏み切った理由について、連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官だったマッカーサーが1951(昭和26)年、「主に自衛(安全保障)のためだった」と述べた米議会での証言が、東京都立高校独自の地理歴史教材の平成24年度版に新たに掲載される。日本を侵略国家として裁いた東京裁判を、裁判の実質責任者だったマッカーサー自身が否定したものとして知られる同証言を、公教育の教材が取り上げるのは初めて。

 昭和の戦争での日本を「侵略国家だった」と断罪した東京裁判に沿う歴史観は、「日本国民は…政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」で始まる憲法前文にも反映され、「軍隊を持たず」という国際社会でも異質な国家体制の前提となってきた。歴史教育は「贖罪(しょくざい)史観」一辺倒となり、子供たちの愛国心を育んでこなかった。その歴史観が絶対ではないことを示すマッカーサー証言の公教育での教材化は、戦後日本の在り方に一石を投じそうだ。

 証言は、朝鮮戦争で国連軍やGHQの司令官職を解任されたマッカーサーが1951年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公聴会に出席し、朝鮮戦争に介入した中国への対処に関する質疑の中で言及。連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。

 都の教材は、この部分の証言を英文のまま掲載し、《この戦争を日本が安全上の必要に迫られて起こしたととらえる意見もある》としている。

教材は、江戸時代以降の日本の歴史を、東京の歩みとともに紹介する『江戸から東京へ』。都教委が都立高校の全生徒に平成23年度から配布している。都民の意見をもとに改訂した24年度版は、全新入生約4万3千人に配布する予定。

 『江戸から東京へ』に掲載されたマッカーサー証言については、月刊「正論」5月号(3月31日発売)が詳しく紹介している。

 渡部昇一・上智大学名誉教授の話「連合国から東京裁判の全権を委任されたマッカーサー自身が米議会で『日本の自衛戦だった』という趣旨の証言をしたことは、村山談話に象徴されるように東京裁判を背負ったままの日本にとって“超重大”であり、すべての日本人が知るべきことだ」

 ■村山談話 戦後50年の平成7年8月15日、当時の村山富市首相が発表。わが国が「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たとし、「痛切な反省の意」「心からのお詫(わ)びの気持ち」を表明。以後の内閣もこの見解を踏襲してきた。


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この議会証言の事実をこのニュースで初めて知った人は、きっとマッカーサーは親日派に違いないと思われるに違いないのだが、実は、その生涯を辿ると実に意外な側面があることに気づかされるのである。

今回は、マッカーサーが実際、どういう人物だったのかWikipediaから引用する形で考察する。


・父と同様フィリピンに勤務経験があり、父に随行する形でアメリカ大使館に勤務した。
→政治的には父親と同様の思想の持ち主と思われる。

・父は軍人でフイリピン初代軍政総督であった
→父と同じような経歴を持っていることから基本的にはアジア蔑視、植民地支配肯定派であると考えられる。

・フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルらとは遠戚関係
→フランクリン・ルーズベルト大統領時代に、軍の司令官であったことから、フランクリン・ルーズベルトと同様、アジア蔑視で反日だったと考えられる。

・アメリカ陸軍士官学校史上抜群で、ダグラス以上の成績で卒業した者はこれまで二名しかいない
→英雄指向の人間である。

・マッカーサーはウィルソン大統領に「欧州に送り込む最初の師団は全州の州民から徴募して創設した師団にしたい」と提案、マッカーサーはウィルソン大統領に「虹のように様々なカラー(気風)を持った各州住民が、大西洋にかかる虹のように戦場に向かうのです」と提案
→政治的野心を持った人間である

・戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。
→出世意欲旺盛

・フランクリン・ルーズベルト大統領は不況対策と称して軍事予算削減の方針であったが、マッカーサーは「共産主義者の陰謀である」と考え、大統領をあからさまに批判した事で大統領の怒りを買った。
→共産主義を徹底的に嫌っていた。

・1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。
→フリーメイソンの立場で行動、発言した。

・日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じ、報告した。
→人種差別主義者だった。

・日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。
→自尊心が強く、日本に対し復讐心を抱いていた。

・1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キング作戦部長をはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。
→過去の汚名の挽回

・マッカーサーは昭和天皇を出迎えはしなかったが、昭和天皇の話に感銘を受けたマッカーサーは玄関まで昭和天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。
→植民地主義を肯定する人種差別主義者がとった行動としては、異常である。何らかの意図を感じる。

・マッカーサーは略装を好み、重要な場でも略装で臨むことが多かった
→支配者であることを印象づけるための行動。植民地主義者、人種差別主義者だから略装だった。

・東條は、重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。
→結果的には東京裁判のための下見に過ぎない。

・マッカーサーは、日本統治を、「政治家、経済学者、産業人、神学者」として行いたいという信条があった。
→神学者という言葉から強く宗教的影響を受けている。


・大統領選出馬
→名誉欲、権力欲の塊

・「日本の占領統治は非常にうまく行っている」、「日本が軍事国家になる心配はない」というメッセージを発表
→自らが大統領になるための宣伝工作


・町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。
→日本人を利用して大統領になろうとした。


・北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから一人にさせてくれ」と言って日本の降伏から5年で、平和が破られたことに衝撃を受けていた。
→アジア軍事情勢のこれまでの分析が根本的に間違っていた。

・マッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境まで迫った。
→独断専行の男である。

・マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには同国への核攻撃の必要性を主張した。
→アジア蔑視、人種差別主義者

・科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングロ・サクソン民族が 45 歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほぼ同年齢である。しかし、日本人はまだ生徒の時代で、まだ 12 歳の少年である。
→日本人を根拠なく馬鹿にしている。

・マッカーサーは、広島長崎への原爆投下を批判している。
→戦略的に無意味である趣旨からの批判であるが、自分の功績が霞むことを危惧しての発言と考えられる。

・一回もマッカーサーは朝鮮に宿泊することがなかった。
→朝鮮嫌いと考えられる。


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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC


生涯

 生い立ち

1880年、軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵営内の宿舎で生まれ、基地内で育った。父のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり、名誉勲章を受章している。フィリピンでは初代軍政総督も勤めた人物であり、ダグラスは親子二代でフィリピンに縁があった。

母のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーはヴァージニア州ノーフォーク生まれである。兄のアーサーはアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大尉として 1923年に死亡。弟マルコムは 1883年に死亡。甥のダグラス・マッカーサー2世は在日本アメリカ合衆国大使となる。

フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルらとは遠戚関係にある。これは祖父のアーサー・マッカーサー卿が元々はイギリス貴族からの移民であり、祖父はサーの称号を持っており、マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であるためである。

幼少期は、母ピンキー・マッカーサーによってフランスの風習に倣い女子の格好をさせられていた。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって陸軍士官学校に入学させられることとなる。

 陸軍入隊
1899年にウェストポイントアメリカ陸軍士官学校にトップ入学し、1903年に陸軍少尉で卒業した。この時期、マッカーサーの母は学校の近くのホテルに移り住んでいた。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上抜群で、ダグラス以上の成績で卒業した者はこれまで二名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)。

卒業後、アメリカ陸軍の工兵隊少尉としてアメリカの植民地であったフィリピンに配属された。彼の長いフィリピン生活の始まりであった。1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本の東京で勤務した。

 第一次世界大戦

1918年、第一次世界大戦中のフランス。レインボー師団司令部で。その後に陸軍省に戻り、陸軍長官副官・広報班長という要職についた。1917年(大正6年)4月にアメリカが第一次世界大戦に参戦することが決まった際、マッカーサーはウィルソン大統領に「欧州に送り込む最初の師団は全州の州民から徴募して創設した師団にしたい」と提案した。「アメリカ人は一丸となって戦いぬく」という姿勢を示すことでアメリカ国民の戦意を鼓舞するためであった。

ウィルソン大統領はマッカーサーの提案を採用し、各州の州兵からなる第42師団を立ち上げた。マッカーサーはウィルソン大統領に「虹のように様々なカラー(気風)を持った各州住民が、大西洋にかかる虹のように戦場に向かうのです」と説明し、これに感銘を受けたウィルソン大統領は第42師団に「レインボー師団」の名前を与えた。

マッカーサーは第42師団「レインボー師団」の参謀長・旅団長に就任した。同師団は1918年(大正7年)2月に西部戦線に動員され、アメリカ軍で第一次世界大戦の実戦に参加した最初の部隊の一つとなった。マッカーサーは雨のような銃弾にもひるまず、突撃隊を率いて果敢に敵の陣地を強襲した。戦場において二回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章した。

このヨーロッパ派遣軍(AEF)の総司令官はジョン・パーシングであったが、パーシングは前線から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦指揮官の具申をしばしば退けたことから、部下との間に軋轢が生じることもあったといわれ、特にマッカーサーはこれが原因でパーシングに批判的態度をとるようになる。

戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた彼は「我々は勝つためにやって来た」と答えた。

 陸軍参謀総長 [編集]1930年、アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任した。このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。1933年から副官には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付いた。

1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座った事件(ボーナスアーミー)で、陸軍による武力排除が行われた。これは、「退役軍人たちは、共産党の支援を受けてデモを起こしたのではないか」と疑念を抱いた政府が、マッカーサーの計画案を許可して行われたものである。マッカーサー自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。

フランクリン・ルーズベルト大統領は不況対策と称して軍事予算削減の方針であったが、マッカーサーは「共産主義者の陰謀である」と考え、大統領をあからさまに批判した事で大統領の怒りを買った。

 フィリピン生活
1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。

マッカーサーがアメリカ陸軍でする仕事はほとんど無くなり、ケソンの求めに応えてフィリピンへ赴いた。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。なおこの頃もアイゼンハワーはマッカーサーの副官を務めていた。

マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。また1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した[1]。

1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。1937年12月にアメリカ陸軍を退役。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。



その2に続く



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この記事へのコメント

2. Posted by 一斎   2012年07月05日 11:13

> あの証言は、親日派ではないマッカーサーの発言だからこそ客観的事実の証言として価値があると考えるべきですね。

証言の意義はご指摘のとおりと思います。

マッカー証言を記述する本や記事で、マッカーサーがあたかも親日派であるように書いているのが気になり、マッカーサーとはどういう人物だったのかについて分析を試みる必要があると思い立ち、原稿にしました。

だから、マッカーサー証言記事を書く人は、「必ずしも親日家でなく植民地支配主義で復讐目的で占領政策を実施したあのマッカーサーがああいう証言をしてくれた」ことを前置きに書くべきだと思います。
1. Posted by ednakano   2012年07月05日 09:19
あの証言は、親日派ではないマッカーサーの発言だからこそ客観的事実の証言として価値があると考えるべきですね。

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