2015年11月01日

明治時代 対米開戦を意図した人たち

倉山満の「保守の心得」という本にて、明治時代にアメリカに戦争を仕掛けようとした勢力がいたこと、その勢力の一派が猟官運動に熱心で、その頃に採用された官僚等が、大東亜戦争開戦時に政官界の重要ポストに就いている可能性があることを指摘しておきたい。

倉山満のその本には、その勢力の実態、その勢力のその後経緯について書いてはいない。が、その勢力が、昭和期以降の海軍主導の開戦について、どのような影響をもたらしたかについて、調べておく価値があると思う。

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80〜81頁

ここで日本におけるキャリヤ官僚制の成り立ちについて、少し触れておきます。明治初期の議会では板垣退助と大隈重信が野党ではあったものの衆議院の二大勢力でした。板垣退助は徴収、大隈重信は薩摩と組み、彼らのもとにいる連中は、「戦争をしろ!」「でも税金は下げろ!」というような、矛盾したことを次々に要求します。気に入らなければ法律を通さず、予算を潰し、内閣を総辞職に追い込むという、やりたい放題でした。
一番ひどかったのは、日清戦争が起こる二年前の明治二十五年です。「それほど言うなら清国と戦うから軍艦を作らせろ」という政府の予算請求を否決してしまいました。事態を嘆いた明治天皇が両者の間に入り、宮中の経費を削減し、何とか軍艦を建造させたいう信じがたい事件があったのです。
とうとう伊藤博文はサジを投げ、元老も不在状態となります。そして明治三十一年、「ならばお前たちがやってみろ」と、板垣退助と大隈重信による内閣がつくられます。いわゆる隈板内閣です。
すると案の上、内紛が激しすぎて会話にもならず、挙げ句の果てにはアメリカに戦争を仕掛けそうになる大混乱となります。そして、大臣や高級官僚の地位を権力者に働きかけて奪い合う猟官運動が盛んになり、行政そのものが立ちいかなくなるという危機に陥ります


131〜132頁
伊藤博文と山縣有朋、井上馨や松方正義に比して話が通じない男だったからです。彼らに共通していることは、全員が維新の戦塵を潜り抜けているということです。生死に直結したリアリズムを体験している彼らは、いかに生き残れるかを真剣に話し合えるわけです。そこに大隈が交ざれば話がまとまりません。大隈は「対外強硬」と「地租軽減」を同時に要求するような男です。首相のときは、アメリカに戦争を仕掛けそうになったほどです。


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なお、明治三十一年は、米西戦争、ハワイ併合が起きた年である。

1898年
https://ja.wikipedia.org/wiki/1898%E5%B9%B4



waninoosewa at 16:04│Comments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Clip to Evernote ◆◆ 歴史の検証、見直し 

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