◆ 国語

2012年10月07日

「日本人が馬鹿になったのはパソコンと携帯が原因だ」という記事を批判する

新聞記者が社説やコラムを書く立場になると自分が天下をとったかのように錯覚する者が多いようなので、こういう記事について、添削感覚でチェックしてみた。

対象記事として以下を選定した。

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http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012100602000121.html

東京新聞「日本人がバカになったのはパソコンとケータイが原因」

日本人は日本語が苦手になっているらしい。文化庁の国語世論調査の結果はそんな心配を抱かせる。
言葉は物事を考えたり、表現したりする道具だ。錆(さび)付いていないか。顧みる機会としたい。

 八年前、中学生レベルの日本語能力しかない大学一年生が大勢いる実態が明らかにされ、衝撃が走った。記憶に残る出来事だ。
 当時のメディア教育開発センターの調査では、国立大で6%、私立大で20%、短大で35%を占めていた。外国人留学生の方が堪能という逆転現象さえ指摘され、驚かされた。
 国語の授業を削ったゆとり教育や、学力検査を課さない入学試験が要因として挙げられた。
これをきっかけに新入生向けの日本語の補習授業をする大学が急増した。
 ところが、全国の十六歳以上の男女を対象とした国語世論調査の結果は、言葉の衰えが全世代に及んでいる実態をうかがわせる。
 日本人の日本語能力は低下しているか。そう思うと答えた人は書く力で87%、読む力で78%と殊に高く、話す力は70%、聞く力は62%だった。もはや機能不全に陥りそうな危うさが伝わる。
 読む力と話す力は十年前よりもさらに落ちた。図書や新聞を読まない活字離れが進み、家庭や学校、職場での会話や議論が減ったのかもしれない。事態は深刻だ。
 背景としてパソコンや携帯電話の普及は見過ごせない。メールだと漢字を容易に表示できるし、仲間内では言葉を簡略化したり、絵文字で感情を表したりもする。
 揚げ句に漢字が書けない、文字を手で書くのが面倒くさい、人と話すのが煩わしいというような人が増大した。磨き、鍛える手間を惜しめば衰弱するのは道理だ。
 電子メディア漬けの環境に警鐘を鳴らす医学者もいる。平板なメールでコミュニケーションを図る。
考えたり、想像したりする代わりにインターネットを検索する。脳の仕事を“外注”するほど言語能力が鈍るという。
 もっとも、芥川賞作家の金原ひとみさんはワープロの漢字変換のおかげで作家になれた、と父親は言う。
小学四年で不登校になり、中学や高校に通わなかったので漢字は不得手だそうだ。


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以下、認識違いと思う箇所をリストアップしてみた。

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<日本人は日本語が苦手になっているらしい。文化庁の国語世論調査の結果はそんな心配を抱かせる。 言葉は物事を考えたり、表現したりする道具だ。錆(さび)付いていないか。顧みる機会としたい。


大多数の日本人がそうなっているという決めつけで書いている点が気になる。


<八年前、中学生レベルの日本語能力しかない大学一年生が大勢いる実態が明らかにされ、 衝撃が走った。記憶に残る出来事だ。
 当時のメディア教育開発センターの調査では、国立大で6%、私立大で20%、短大で35%を 占めていた。外国人留学生の方が堪能という逆転現象さえ指摘され、驚かされた。


一般的には、大学進学率が上昇すれば予想された結果。こういう主張をするなら、継続的に母集団に関する、劣化状況の分布の変遷状況があれば説得力あるが、それがない。


<国語の授業を削ったゆとり教育や、学力検査を課さない入学試験が要因として挙げられた。 これをきっかけに新入生向けの日本語の補習授業をする大学が急増した。


ゆとり教育は、反日官僚寺脇研が主導した政策である。寺脇研が係わった、在日コリアンの子弟を主な対象とするインターナショナル・スクールコリア国際学園ではかなりの詰め込み型の英才教育を実施している模様。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E8%84%87%E7%A0%94
ゆとり教育推進者が退職後にどういうことに係わってきたのかの説明を省略している点が問題。
学力検査を課さない入学試験については、根拠がはっきりしないので判断を留保したい。


<ところが、全国の十六歳以上の男女を対象とした国語世論調査の結果は、言葉の衰えが全世代に及んでいる実態をうかがわせる。
 日本人の日本語能力は低下しているか。そう思うと答えた人は書く力で87%、読む力で78%と殊に高く、話す力は70%、聞く力は62%だった。もはや機能不全に陥りそうな危うさが伝わる。


世論調査なので、受けとめ方の問題だと思う。
「機能不全に陥りそうな危うさ」と書いているが、試験でもやったのなら、そう書けるが、説得性に乏しい。
記者も他人のことを心配する前に自身の国語力について自己評価すべきだろう。


<読む力と話す力は十年前よりもさらに落ちた。図書や新聞を読まない活字離れが進み、家庭や学校、職場での会話や議論が減ったのかもしれない。事態は深刻だ。

読む力と話す力が落ちたとする調査の根拠が示されていない。記者が示す原因は、一部でしかないと考える。

新聞を読まない活字離れが進んだのは、朝日新聞などによる偏向報道記事、民主党に都合悪いことを隠蔽し自民党に都合悪いことは捏造する報道姿勢に嫌気がさした購読者が解約、退職などによる経済的理由で新聞購読をやめた人が増えたことなどを考慮していない。
「会話や議論が減った」とあるが、根拠を示していない。
記者の思い込みで書かれている文章ばかりである。
なお、私自身は、新聞記事中にこれといった名文がなく、新聞が悪文だらけだと判断しているので、新聞記事を読まない方が、悪文の影響を受けないという点において国語力が劣化せずに済むとの立場である。


<背景としてパソコンや携帯電話の普及は見過ごせない。メールだと漢字を容易に表示できるし、 仲間内では言葉を簡略化したり、絵文字で感情を表したりもする。


これも決めつけが過ぎる。
背景としては、馬鹿番組の増加、政権交代前後の偏向捏造の激増、韓流ゴリ押しに伴うパソコンへの移行、そしてパソコン、スマートフォンの普及拡大と書くべきだろう。


<揚げ句に漢字が書けない、文字を手で書くのが面倒くさい、人と話すのが煩わしいというような人が 増大した。磨き、鍛える手間を惜しめば衰弱するのは道理だ。


根拠不明。
馬鹿番組の増加がそういう現象に拍車をかけていると私は考える。だから、私は、友人、知人、親戚には、馬鹿番組を見ることだけはやめるように推奨している。新聞記事は、反日・媚中・親韓プロパガンダ記事が多いため、社説、コラム等は読む価値がないことを同時に説明している。
記者は、自社に都合良いシナリオを書いているに過ぎない。

<電子メディア漬けの環境に警鐘を鳴らす医学者もいる。平板なメールでコミュニケーションを図る。 考えたり、想像したりする代わりにインターネットを検索する。脳の仕事を“外注”するほど言語能力が鈍るという。


電子化は世界的現象。日本に限ったことではない。
メールというやり方がおかしいというのであれば、なぜそれが脳を退化させるのか科学的に立証すべきだが、それが示されていない。

<もっとも、芥川賞作家の金原ひとみさんはワープロの漢字変換のおかげで作家になれた、と父親は言う。
小学四年で不登校になり、中学や高校に通わなかったので漢字は不得手だそうだ。


個体の問題。個体の問題を日本人全体に当てはめようとするのは論理の飛躍である。


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一言で言うと、マスコミ業界人が自分達に都合良いシナリオを最初に構築し、そのシナリオに合う、調査レポートを採用し、ゆとり教育推進者のホンネなど不都合な事実を排除、隠蔽して書いた記事だと読み取れる。

私は、産経以外の社説やコラムには何も期待していない。読むだけ時間の無駄だし、書いてあることは多かれ少なかれ、今回紹介させていただいた記事と同程度のものばかりである。

なお、書き手には、必ず書きたい意図が存在する。
それは、私も含めての話である。私は、都合良いことも都合悪いことも並記して書いているつもりだ。
だが、新聞、テレビは違うのだ。彼らにとって都合悪いことはできるだけ書かず、反日・売国活動を進めるうえで都合良いシナリオばかりが、社説やコラムに継続的に書かれてきた。

ちなみに、私の日本語力についてであるが、自己評価として特段自慢するレベルではない。どちらかと言うと、国語を不得意科目と思ってきたが、努力だけはしてきた。
小学校時代は、小説、伝記物、推理小説など、かなり読んだ。中学校時代以降は、受験勉強のせいで伸び悩んだが、それでも小論文が受験科目であるという理由で、慶応のあの学科を受験し、射止めた。
社会人以降は、企画文書を書き発表する機会に恵まれたので年代とともに進化した。最近は、古典を読む時間が増え、こうしてブログ活動させていただいているおかげで、どこをどう補正すれば、どう日本語力が改善されるかはわかってきた。

だから、これは私の経験論となるが、この新聞記事の書いているような問題を意識されている方におかれては、まず、書きたい、表現したいという気持ちを持っていただきたい。アクテイブになるだけで日本語力は相当程度進化するはずだ。書く視点に立てば、辞書を読む機会が飛躍的に増えるし、自分の間違った表現も辞書を読むことで修正することにつながる。また、このような記事の批判記事を書くことで自分の中で論点整理が進むという副次効果もある。

その一方、受け手としての読み手の立場だけでは、書く能力が伸びず、せっかく持っている語学力という道具が錆びること、洗脳目的の記事を受けやすくなる。

そういう意味で、学生以外の方については、読むよりは書くことを大切にすべきだと思うし、それが日本語力を磨く最強の選択だと私は信じている。

今回、紹介した新聞記事では、「図書や新聞を読まず、パソコン、携帯に依存した生活が日本語が退化した原因だという趣旨の内容だった」が、私は、「読むこと一辺倒ではなく、書くことで、語学力がアップし、批判的に読み論点整理される副次効果がある」ことを提案したつもりである。

だから、新聞記事を読みながら、おかしいと感じたら、ブログなどで批判記事を書くことで、日本語力が磨かれるし、そういう日本人が増えることで、新聞記者がおかしな記事や洗脳記事を書きにくくなるのは確かだろう。



waninoosewa at 16:15|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Clip to Evernote

2011年01月28日

若者の活字離れを指摘する知識人こそ、己の未熟さを恥じるべきだ

まず最初に、私の読書体験を簡単に述べさせていただく。

若い頃は、普通の読書家だった。自称知識人と称する佐高や本多なる評論家の本を読んだ時期もあるが、文章が難しいだけで得るものはなかった。そして、彼らの大半が反日自虐であることを最近になって知り、ますます知識人が書いた本が洗脳目的で書かれたとんでもない本だと思うと同時に、クダラナイ読書ならするべきではないとの結論に達した。つまり、私も活字離れ?状態に移行しつつあるのだ。最近は、これはと思える本以外は読まなくなった。

昨今、若者の活字離れを指摘する知識人やマスコミのコメントに出くわすことが多い。
以下のサイトはほんの一例である。

http://www.yomiuri.co.jp/adv/agu2010/opinion/vol3/

彼らの論調は、活字を読まないという理由だけで若者を問答無用で馬鹿扱いしているのであるが、私は、この点を特に問題視したい。

その考えは少なくとも半分は間違っていると考えるからだ。

一例をあげるとすれば、モーツアルトが生きていた時代、モーツアルトよりも評価され、社会的名誉ある地位を与えられた宮廷作曲家にサりエリという人がいたことがご存じの方が多いと思う。
実は、サリエリの曲を一度聴いたことがあり、聴いた感想として、宮廷音楽家らしい心地よさは確かにあったが、芸術的価値があるとは思えなかった。
そして、サリエリは時代とともに忘れ去られ、モーツアルトが評価されるようになったのであるが、それは作品の芸術的素晴らしさを万人が認めた結果だと考えている。

この考え方を、今の活字の世界に当てはめてみよう。
もし、彼らが読むべきだとする活字本の大半がニセモノであるならば、その時代の愚民や反日自虐者(特に、大学時代勉強せず、学生運動に明け暮れた全共闘世代)には高く評価されたとしても時代とともに忘れ去られる宿命にあり、その一端が活字離れとして現われたに過ぎないと見るべきなのだ。

さらに、世の中は活字であふれ、さながら情報洪水のようである。が、若者たちに読むべきだと薦めたい本は数えるほどしかないことを私は指摘したい。

若者の活字離れは、若者のせいばかりではない。知識人の勉強不足、自虐的な歴史観、誤った国家間、捻じ曲がった倫理観などにより、著述の内容が本質から外れ、ニセモノばかりとなり、そのことを若者が感じ取った結果から起きた当然の帰結かもしれないのである。そして、多くの知識人、ひょっとすると似非知識人かもしれないのだが、彼らが読むべきだと主張する本の大半が「現代のサリエリ状態」である可能性が強いのだ。

それでは、私の見解に反論したい方のために、世の知識人が読むべきだと主張するであろう、二人の代表的知識人として梅原猛、司馬遼太郎を例としてあげさせていただくが、結論から言えば私はどちらも読む気がしない。自分が探し、必要としている知識や思想、価値観の発見がないからである。

また、ノーベル賞作家である大江健三郎については、裁判で伝聞で書いた著作を事実だと主張していることを問題視しているのでまったく読まない。伝聞を事実だと主張するのは、知識人以前の問題であるからだ。伝聞はあくまで伝聞に過ぎないことくらいは知識人から教わらなくても中学校程度の知識で理解できることだ。

下記は、なぜ私が梅原猛と司馬遼太郎を読まないのか、読むのをやめたかに関する私なりの見解である。


1.梅原猛について

下記引用箇所の最近の活動のところを読んでほしい。
なんと、最近は神道と仏教を研究しているのだそうだ。
つまり、神道も仏教も知らずして西洋哲学を専攻したかもしれないのだ。勉強する順番が違っていたかもしれないのだ。

以前、ある人に薦められ、この方の「新しい哲学を語る」という本を読んでみたが、私は何も得るものがなく、途中で読むのを打ち切った。
新しい哲学の定義と内容に関する明確な記述がないからである。
たとえ、文化勲章をもらっている著名人だとしても、新しい哲学と銘打っているのであれば、新しい哲学とは何かを一頁目から、誰が見てもわかるように記述するのは当然の義務のはずだ。
もったいぶって、どこに書いてあるのかわからないようにする意義はどこにあるのか私には理解できないし、本心を言えば、どこにも書いてないような気がしてしょうがないのであるが。言葉遊びの対談なら、する意味もないのかもしれない。

また、この本の対談で登場する経済界の方は、民主党売国政権を支持しあの小沢という売国議員を担ぎ出した人でもある。この点においてももはや読む価値がない本だと言ってもよいのであるが。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B

梅原 猛(うめはら たけし、1925年3月20日 - )は、日本の哲学者。京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。京都市名誉市民。文化勲章受章者。梅原日本学と呼ばれる独自の世界を開拓し、またスーパー歌舞伎を創作するなど、幅広い活動を行っている。 

宮城県仙台市で生まれ、愛知県知多郡で育つ。実父は当時東北大学の学生だった梅原半二。実母は石川千代。ともに学生だった実父母の結婚を梅原家、石川家が認めなかったため、私生児として誕生した。乳児期に実母を亡くし、生後一年九ヶ月で伯父夫婦(梅原半兵衛・俊)に引き取られ養子となる。小学校の頃は遊んでばかりいて空想好きのために勉強に身が入らず、愛知一中の入試に失敗している。

私立東海中学に辛うじて入学。南知多町(当時は内海町)の実家から2時間半をかけて通学した。1942年、広島高等師範学校に入学するが二ヶ月で退学、翌年第八高等学校入学。

青年期には西田幾多郎・田辺元の哲学に強く惹かれて、大学進学に際しては東大倫理学科の和辻哲郎(東大赴任前は京大哲学科の西田の下で助教授であった)の下で学ぶか、あるいは京大哲学科の西田の下で学ぶかの選択に迷ったが、結局、1945年、京都帝国大学文学部哲学科に入学する。が、その年田辺は退官していた。西田も、すでに1928年に京大を退職していたが、京大哲学科には西田の影響が存在すると考えた。父親は哲学科への進学を歓迎しなかったが、梅原の熱意が強いため許可した。入学直後、徴兵され、9月復学。1948年、同大を卒業。

大学院では山内得立、田中美知太郎に師事、ハイデッガー哲学に惹かれつつもギリシャ哲学を専攻、しかし二度にわたって田中と対立した。最初の論文「闇のパトス」(1951年)は、哲学論文の体裁をとっておらず甚だ不評だったが、のちに著作集第一巻の表題となる。二十代後半、強い虚無感に襲われて、賭博にのめりこむような破滅的な日々を送り、1951年、養母・俊の勧めでピアニストの夫人と結婚、同年、長女が生まれた時、ヘラクレイトスについての論文を書いており、「日の満ちる里」という意味でひまりと名づける。のちヴァイオリニストとなった。そしてハイデッガーの虚無思想を乗り越えるべく「笑い」の研究に入り、いくつかの論文を発表したが、これは完成しなかった。30代後半から日本の古典美学への関心を強め、「壬生忠岑『和歌体十種』について」(1963年)という論文を書く。

最近は精力的に神道・仏教を研究している。NHKテレビの生放送中に薬師寺管長の橋本凝胤と「唯識」をめぐり、大激論を交わす。

京都若王子(京都市左京区、哲学の道近辺)の和辻哲郎旧邸に住む。

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2.司馬遼太郎について

司馬遼太郎は、小説家である。が、実際にはフィクションとして歴史小説を書いていたそうだ。
極端に言うと、歴史を題材にした、架空の作り話だということだ。
ウイスキーに例えると、スコットランドの樽のモルトをブレンドした、ウイスキーと名はついているものの本場のスコッチウイスキーとまったく別の味の、あの有名国産ウイスキーのようなものにしか見えないのである。
そこで私はお聞きしたい。
フイクション感覚の架空の歴史を扱う書物を有難がって読む必要がどこにあるのだろうか?
歴史なら事実を積み重ねてほしい。架空の話などどうでもいいのだ。

ちなみに、私は、司馬遼太郎の本をまったく読んだことがないが、例外的に「この国のかたち」という本を試しに読んでみたが、断片的な知識をひけらかしているようにしかみえず、私が探し求めるこの国のかたちというタイトルの知識ニーズと一致するものは書いてないと判断したので、途中で読むのを打ち切った。

本は読み始めたら、最後まで読むのが義務だと教師や知識人たちは主張したがるはずだが、タイトルどおりのことを整理して書いてない本を、読む進める価値がないと判断し、読むのをやめただけなのだ。


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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E

司馬遼太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
司馬 遼太郎(しば りょうたろう、1923年(大正12年)8月7日 - 1996年(平成8年)2月12日)は、日本の小説家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。筆名は「司馬遷に遼に及ばず」からきている。

産経新聞社在職中、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。また、『街道をゆく』をはじめとするエッセイなどで活発な文明批評を行った。

生い立ち
1923年(大正12年)8月7日、大阪府大阪市浪速区西神田町(現・塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。父方の祖父母は兵庫県出身であり、祖父・惣八は現在の姫路市広畑の農家に生まれ明治の初め上阪して菓子製造で成功した人物。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。

1930年(昭和5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草小学校)に入学。学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。1936年(昭和11年)、私立上宮中学校に進学。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。3年生から御蔵跡町の図書館に通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。

1940年(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。1942年(昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現在の大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学。ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。2年上に庄野潤三(英語学科)、1年上に陳舜臣(印度語学科)、同期に赤尾兜子(中国語学科)らの「文学グループ」がいたが、その輪には入れなかった。

1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。翌年4月、満州四平の四平陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。さらに翌年、本土決戦のため新潟県、さらに栃木県佐野市に入り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。またアメリカが東京に攻撃に来た場合に栃木から東京に移動して攻撃を行うという作戦に「市民と兵士が混乱します。そういった場合どうすればいいのでしょうか。」とある将校が大本営からきた東北人の少佐参謀に聞いたところ、参謀は「轢き殺してゆく」といい[1](ただし、この問答の存在自体に当事者から疑念が呈されている[2])、22歳だった司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。佐野での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあったと考えられる。その後すぐに図書館通いを始める。

 記者時代 [編集]
戦地からの復員後、生野区猪飼野東五丁目8にあった在日朝鮮人経営の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。1946年(昭和21年)、ふたたび大竹とともに新日本新聞京都本社に入社。同僚に青木幸次郎がいた[3]。このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、産経新聞社から「外語大卒だから英語くらい出来るだろう」と誘われ、英語が全く出来ないにもかかわらず「出来ます」と応じて京都支局に入る。入社して1か月も経たない1948年(昭和23年)6月28日午後、福井地震が発生し、その日のうちに福井の取材に行く。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる。

翌年大阪本社に異動。1950年(昭和25年)には金閣寺放火事件の記事を書いた。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫、貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬遼太郎が考えたこと』に所収)に記されている。その後文化部長、出版局次長を勤めた。

同年に最初の結婚。1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、公的には一切公表されず、司馬にとって「隠したい過去」であったのではと、思われる。

1955年(昭和30年)、『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表。この作品は本名で発表したが、このほかにも「饅頭伝来記」など数作本名で発表した作品があるといわれる。さらに、当時親しくなっていた成田有恒(寺内大吉)に勧められて小説を書くようになる。1956年(昭和31年)5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞に応募(「司馬遼太郎」の名で投稿)、海音寺潮五郎の絶賛を受け同賞を受賞し、出世作となる。この「司馬遼太郎」というペンネームは、「(史家の)司馬遷に遼(はるか)に及ばず」という意味であるという。また、寺内とともに雑誌『近代説話』を創刊した。『近代説話』『面白倶楽部』『小説倶楽部』に作品を発表し続け、1958年(昭和33年)7月、「司馬遼太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。さらに「梟のいる都城」(のち「梟の城」に改題)の連載を開始。

1959年(昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居。同じアパートに南海ホークス時代の野村克也がいた。『大坂侍』『梟の城』を発表。1960年(昭和35年)、『梟の城』で第42回直木賞を受賞し、翌年に産経新聞社を退職し、作家生活に入る[4] 。

 小説家時代 [編集]
初期は直木賞を受賞した『梟の城』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代・伝奇小説が多い。推理小説も書き、『豚と薔薇』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。だが、1962年(昭和37年)より「竜馬がゆく」「燃えよ剣」、1963年(昭和38年)より「国盗り物語」を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を始めた。この辺りの作品から、作者みずからが作中で随筆風に解説する手法が完成している。1964年(昭和39年)には、終の棲家となる布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居しているが、「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と記している。1966年(昭和41年)、菊池寛賞を受ける。その後も『国盗り物語』に続く『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓。1971年(昭和46年)から、紀行随筆「街道をゆく」の連載も始めた。1972年(昭和47年)には明治時代を扱った「坂の上の雲」の連載が終了。また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』(日本芸術院賞)に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。

『翔ぶが如く』『胡蝶の夢』『菜の花の沖』『箱根の坂』などを書いた後、『韃靼疾風録』を最後に小説から遠ざかる。エッセイ「風塵抄」「この国のかたち」「街道をゆく」の連載に絞り、日本とは、日本人とはなにかを問うた文明批評を行った。1981年(昭和56年)に日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者に選ばれ、1993年(平成5年)に文化勲章を受章した。このころから腰に痛みを覚えるようになる。坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となる腹部大動脈瘤であった。それでも、台湾に渡り李登輝との会談を行ったり、青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続ける。また、晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった[5]。

1996年(平成8年)1月、「街道をゆく」のシリーズ「濃尾参州記」取材を終える。直後の2月10日深夜、吐血して倒れ国立大阪病院に入院、12日の午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去。72歳だった。同日は「菜の花忌」と呼ばれている。死去した国立大阪病院(現:大阪医療センター)は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆の「濃尾参州記」は未完となった。3月10日に「司馬遼太郎さんを送る会」が開かれ、3000人が参列した。法名は、「遼望院釋淨定」。また従三位を追賜される。翌年には司馬遼太郎記念財団ができ、司馬遼太郎賞が創設された。2001年(平成13年)に司馬遼太郎記念館が開館。司馬遼太郎記念室がある姫路文学館では毎年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬遼太郎メモリアル・デー」を開催している。なお、NHK大河ドラマの原作となった作品数は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」(後にNHKスペシャルドラマと変更)と称する「坂の上の雲」を含めると7作品である。

 作家評 [編集]
この項目で書く評価的記述については主に下記の参考文献欄に拠る。しかしこれら文献の他にも、司馬の著作物に付与された解説、新聞、雑誌での批評記事、更に『週刊朝日』が没後発表した『未公開講演録 愛蔵版 司馬遼太郎が語る日本』シリーズに続けて連載された「司馬遼太郎からの手紙」シリーズや「週刊司馬遼太郎」などの宣伝記事、PHP文庫の『文蔵』や文藝春秋の企画記事など、出版社による企画広告やその流れを汲む記事などで様々に司馬の作品、司馬の価値観は語られてきた。

 作風 [編集]
歴史小説家としてはスコット以来の人物中心主義の流れを汲んでおり、直接には司馬遷における『史記』列伝の形式を範にした作家とみることができる。

特徴としては、常に登場人物や主人公に対して好意的であり、作者が好意を持つ人物しか取りあげない。それによって作者が主人公に対して持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長し、ストーリーの中に読者を巻きこんでゆく手法をとることが多い。また歴史の大局的な叙述とともにゴシップを多用して登場人物を素描し、やや突き放した客観的な描写によって乾いたユーモアや余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本の歴史小説の伝統から見れば異質なものであり、その作品が与えた影響は大きい。「余談だが……」の言葉に代表されるように、物語とは直接関係ないエピソードや司馬自身の経験談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語内にちりばめていく随筆のような手法も司馬小説の特徴の一つであり、そこに魅了されている読者も多い。

評論家の川本三郎からは「一平二太郎」(藤沢周平、司馬遼太郎、池波正太郎)の一人として、「大人の日本人男子」の嗜みとして読むべき作家と評されている。

そのユニークな文体は、のちに、渡部直己や清水義範のパステーシュの対象になったり[6][7]、あるいは酒見賢一『後宮小説』のようにリスペクトした作品が現れたりした。

作品中の人物の内面描写にはそれほど深入りしないため“浅薄である”とされたり、長編では主題が破綻しているとの批判がある。しかし多くの登場人物を一筆書きにしながら物語を展開してゆく司馬の手法においては、ある程度仕方のないことという反論もなされる。特に内面描写を避けることは、人間を外部から把握し単純化(典型化)して示す18世紀ヨーロッパ小説や漢籍の史書の影響によるところが大きく、「典型としての人間」か「典型からそれようとする内面描写か」という問題は、小説の流儀の問題(18世紀型小説か、19世紀型小説か)であると捉える見方もある。長編の構成力が弱いことも指摘され、前述した「余談だが…」といった言葉で話が脇道にそれることもあるように、たとえば丸谷才一の「全体の五分の三あたりのところから雑になる」「最初の伏線が後半で生かされない」という評がある。ただし、こうした「雑さ」「とりとめのなさ」が磨かれた結果、様々な人物が次々に登場し、ゴシップを振りまいては消えてゆくというグランド・ホテル形式の小説として成功していると評される作品もある(例:『ひとびとの跫音』)。

後年は小説から遠ざかり随想や批評を主としたが、抽象的な思索や哲学性よりも具体的な歴史評論や文明批評を主にし、合理的思考を掲げて考証を行ったところに特徴がある。

 人物イメージの影響 [編集]
司馬の作品はベストセラーかつロングセラーとなり、また多くが映像化された。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、西郷隆盛らは多くの作品に重複して登場しており、現代の日本人が持つ「彼等の人物イメージ」は司馬の小説に大きく影響をうけている。

また、幕末の越後長岡藩家老・河井継之助のような本来はマイナーな人物が、一般の人々の間に人気が高いのは、あきらかに司馬の小説の影響であり、他にも、江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛や、幕末の軍政家・大村益次郎、幕末明治の政治家・江藤新平等々も、司馬小説以外ではあまり描かれない人物にもかかわらず、司馬小説の影響で知名度の高い人物となった。人々は「歴史的人物としての彼等」ではなく「司馬作品の登場人物としての彼等」を愛しているとも言える。

 歴史観 [編集]
 司馬の考え方 [編集]
司馬の歴史観を考える上で無視できない問題は、合理主義への信頼である。第二次世界大戦における日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた、という述懐からもわかるように、司馬の考え方は狂信的なもの、非論理的なもの、非合理なもの、神秘主義、いたずらに形而上学的なもの、前近代的な発想、神がかり主義、左右双方の極端な思想、理論にあわせて現実を解釈して切り取ろうとするなどの帝国陸軍的な発想の対極に位置するものであり、司馬はこれらを否定的に書くか、エッセイなどで否定している。司馬は近代合理主義がこれらに対局するものと考え、その体現者こそが司馬の愛する人物像であった。例えば『燃えよ剣』では最後まで尊王と佐幕の思想的対立に悩みつづけた近藤勇ではなく、徹底して有能な実務家であったとされる土方歳三をとりあげたのは、こうした理由によるものであると言われる。

 司馬作品の時代性 [編集]
司馬の歴史観についての議論を見る上で時代性に関しての視点は重要であろう。思想的な流れとしては司馬が小説執筆に専念した当時は、一般に第二次世界大戦の反動から日本の近代史全体に否定的な見解が強かった。そのため第二次世界大戦を痛烈に批判する論者の多い中で、その他の近代史に光をあてたことを評価する向きもある。また、司馬の登場以前、日本の歴史小説はいわゆる史伝ものか大衆娯楽を重んじた講談風の作品が中心だった。しかし司馬は資料収集を重視し、出版社や司馬に肯定的な立場の評論家等は高い実証性を持った歴史小説の形式を確立したことを採り上げ、上質な娯楽として読むに足る物として、知識人(および知識人に憧れを持つ読者)が高く評価してきた。実際には同時代に実証性を重視した小説家が存在しなかった訳ではなく、例えば吉村昭、大岡昇平などは実証性の高い小説やノンフィクションを発表し、それらの多くは「暗い昭和」を対象とし、歴史研究者が二次資料として揚げることもある[8]。司馬が採り上げた時代についての歴史研究やノンフィクションは当時から多数存在していた(司馬は小説執筆にあたり膨大な資料を集めた事で知られるが、その事自体が既存の成果物が多数存在していた傍証とも言える)。

しかし、一般への人気なども相まって、実証性の高さから司馬の小説が小説作品としての枠を超えている、と評価する雰囲気が熱心な支持者により形作られてきた。司馬の影響を受け、自著で司馬の考え方を引用する者、司馬に憧れて小説家や歴史研究者となったことを述べている例も多く、高い視聴率で知られた大河ドラマにも複数回採り上げられている。そのため、司馬は新しい視点と斬新な描写で彼自身の歴史観を作って日本社会に広く影響を与えた国民的作家であると言われている。死後においても司馬の影響力は大きく、礼賛する余り持論を司馬と絡めて預言者のように扱われることもある[9]。

一方で司馬の作り上げた歴史観は、しばしば「司馬史観」として論争の対象となってきた(ただし、司馬自身は「史観」という考え方自体に、そもそも、否定的な見解を述べており、この論争は、司馬の作品をどう解釈するかと言う論争の側面が強い)。批判側の観点は幾つかに分けられる。

 歴史観への批判 [編集]
歴史観は必然的に思想的な性格を持つ物だが、この点からの批判としては近代合理主義への偏重が一定の限界を与えていたという指摘が代表的である。例えば、同時代の指導者の観点からの把握に重きを置き、民衆の観点や通時的な観点からの把握を怠っている(歴史の切り取りかたの問題)、明治期の戦争を肯定的に描きながら昭和期の戦争を否定的に描いている(いわゆる「明るい明治」と「暗い昭和」の分断)、各時期代の描写が前記の偏向(例えば昭和期の日本軍に対する憎悪)により客観的な分析が欠如している、合理主義への解釈を巡って対立がある、などである。また、司馬が称揚した合理主義自体も西洋哲学の中で発展を遂げる過程で解釈の多様化が起こり、帝国主義、ナチズム、共産主義、或いは過度の資本主義などと関係づけ、その行き過ぎに対して批判がなされることも多い[10]。司馬に限らず提唱者の唱える『合理主義』という言葉がどのような考えを指し、提唱者が言葉通り実践しているかについては慎重に議論する必要があり、批判の中で触れられる事もある。

但し、「明るい明治」は司馬自身の作家としての研究・調査による合理主義からくるもの、「暗い昭和」は自身が徴兵された自己の体験による実証主義によるものであり、作家として個人の主観が影響するのは当然である。

また、歴史教科書問題などの歴史認識をめぐる論争において、自由主義史観派が司馬の歴史観に依拠していると主張していることから、左右を問わず、自由主義史観を批判する立場から上記の諸点を強く批判することがある。中村政則、佐高信などの革新派の流れを汲む者からは「戦争、植民地支配を美化・正当化している」と批判され、西部邁、小林よしのりなどの一部の保守派(主に反米保守派)からは「大東亜戦争を否定する自虐史観」「ポチ保守の史観」と批判される[11]。思想的、史観的な面からの見直しについては新聞でも紹介した例がある[12]。

他に、司馬が、東アジアあるいはヨーロッパの文化的マイノリティに一貫して関心を持ち続けてきたことを評価しながら、彼らを作品中にとりあげたり論じた際に、「彼らを文明化・支配した帝国側」の意味について深く分析せずにやりすごしている、という批判もある[13]。

 実証性(ないし創作的行為の混入)への批判 [編集]
より学究的な立場からは実証性の面からも批判されることがある。特定の事実への重きを置いた記述に留まるならば一応は史実の範疇に留まるが、司馬の場合は実証性を謳っているにもかかわらず、小説の一部に創作した場面が存在する事、資料の誤読や資料批判の不徹底等による事実誤認などが問題点として批判者より指摘される(思想的批判と合せて書かれた場合、評論が評価の対象となった場合には歴史修正主義の亜種と批判される)。この立場の代表的論客は別宮暖朗、福井雄三などである。また、一坂太郎は司馬の価値観を基本的には否定してないが、実証性については検討を行っている。また、坂本竜馬の幕末維新史での過剰評価や、乃木希典に対する否定的な記述など、政治家以外の歴史上の人物に対する評価でも、司馬の小説によって一般に広まったと認識されている例がある。

作品中に出典を記さないことに対する批判もある。これは実証性を謳う姿勢に合致していない。すべてを根本資料から調べ上げたように錯覚を生じさせるような表現もみられる。

戦史研究者にも創作物の価値を認めつつ、特定個人の歴史観を事実であるかのように錯覚させる手法の危険性を指摘し、司馬と絡めて述べる者などがいる[14]。後年設定考証のレベルの高さを前面に売り出された一部の架空戦記ほどではないにせよ、真実性については同質の問題を抱えていると言える(なお、架空戦記のヒットメーカーとなり、代表的存在となった佐藤大輔は、作品内に司馬を登場させ、記述法の類似性や乃木等の歴史上の人物への否定的評価で司馬を髣髴とさせる表現があり、司馬の歴史観を継承した影響が高梨俊一などにより指摘されている)。

これに対して反論側からは、歴史という素材から虚構の小説を生み出すことは、ある程度作者に許される裁量権の問題であって、的を射ているとはいいがたいという指摘がなされる[要出典]。反論を行なう者は、司馬(ないし小説家)の社会的影響力については触れないか、受け手の問題であるとする場合が多い。

 司馬の価値観の敷衍 [編集]
司馬への批判に対して、「司馬史観」という名称は司馬自身が名付けたものではないという指摘がある。一方で出版社や司馬を好意的に評価する者までが「司馬史観」という言葉を敷衍させているという事実もある[15]。

また、司馬は自身の著作を、「フィクションである」とはっきり言明していることを実証性の問題に対して持ち出されることがあるが、一方、司馬は晩年を中心に歴史評論的な性格の強いルポルタージュ、エッセイを多く発表し、加えて雑誌等でのインタビューにも応じ、新潮社から販売されているような講演活動も行い、新聞にも寄稿している。これらの著述物が蓄積され、司馬の歴史観・価値観は小説以外の手段でも読者に提供された。『街道をゆく』のように小説以外の作品が映像化された例もある。また小説以外の作品の幾つかも、小説同様に現在でも容易に入手が可能であり、雑誌のバックナンバーなどは公共図書館で閲覧出来る。

このように司馬の歴史への考え方には一貫性があり、小説以外の形でも表出され、ひとつの史観として確立され、広汎に敷衍していることは事実であろう。

また、司馬に限ったことではないが、たとえ実証性の高さを売り物にしていたとしても、時事評論などは別として小説のような創作物については“歴史の真実を記述した史書”と考えることは適切とは(通常は)言えない。これは歴史学では基礎的な認識として教育されることである。

従って司馬史観という言葉を利用しているのは批判派だけではない。フィクションの内容を歴史の真実であるかのように読者が錯覚してしまうのは、それだけ司馬の作家としての手腕が優れていることの証明でもあるとも言えるが、上記のように批判側にとってはその錯覚させる手腕自体が問題となる。

このように、司馬に関する議論の場合には、受容の様態も対象となる。擁護派は司馬の言葉から教訓を汲み取ろうとする傾向があり、批判派は神格化を行っている者を信者のように捉えての批判は、司馬本人への賛否にかかわらずなされる。

以下省略

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waninoosewa at 17:15|PermalinkComments(4)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Clip to Evernote