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バブを抱きしめながら入浴した時の「救えなかった」感は異常

いつかも書いたが、『日本語の誤用』という言葉はおかしい。世界の言語のなかでも日本語は特に流動的で、絶えず変化、いや進化を続けている。

『誤っている』というのなら当然『正解』があるはずなのに、その『正解』の根拠が『自分の時代に使われていたから』なのだからたまらない。とんだエゴイズムだ。

いまや誤用の金字塔ともいえる『役不足』。僧都はこれを使う際いろんなことを注意をしている。まず僧都本人が辞書的意味で使うこと、そして相手がそれを辞書的意味で理解していること、理解していなかった場合、その辞書的意味を説明すること、その指摘を相手を怒らせないように行うこと、知識をひけらかすことで相手に劣等感を与えないこと・・・・。

はっきり言って面倒だ。そういった状況を簡単に説明する記号がその三文字の単語なのに、使用したために返って状況を混乱させている。これでは本末転倒だ。

『役不足』や『確信犯』はおそらく、もともとの意味が変わる時期、過渡期にあったのだと思う。使用頻度の低い言葉はそうやって少しずつ字面や使い勝手のよい解釈、合理的解釈で次世代の人々に伝わっていくものなのだ。

言葉における前時代から次世代への伝達方法は主に音声媒体であった。物を必要としない、裸でも伝えられる音声媒体はもっともファストな手段だ。

だがその弱点として音声は発した直後に霧散する。それを時間的に残すことができないのだ。

もちろん音声は記録されなくとも人に記憶される。それでも人の記憶は曖昧で個人差や経年劣化もある。

太古の昔、当時の大和政権は自分たちの支配の正統性を立証するために、どうしてもその歴史を残さなければならなかった。しかしどうしても人の記憶には限界がある。

ではどうするか。

これは恐らく心理学や脳生理学にも関連してくるのだろうが、彼らは大変な発見をする。


長文であっても歌にすると忘れにくい。


抑揚やリズムや音程を加えると、メモリ的意味でファイル容量は増えているはずなのだが、なぜか人はそちらのほうが覚えやすく忘れない。人体の不思議である。

ともあれそうして彼らは、大王(天皇)政権の正当性を歌にして子々孫々伝え残してきた。

しかし人間である以上オリジナルの完全なるコピーはできない。謡者が死ぬかもわからないし、裏切るかもわからない。忘れるかもしれないし、間違うかもしれない。常に歴史消滅の危機にあることには変わりない。

7世紀に入って隣国で生まれた紙と文字が輸入されるようになる。そこで当代の謡者稗田阿礼は太安万侶とともに歴史の歌を紙へ写し変えることにした。古事記の誕生だ。

紙は1400年経た今でも現役の優れた記録媒体である。存在する限り決して忘れず、裏切らず、間違えることがない。そして、使用者の言葉は読者に対して一方的だ。

そうした理由でいわゆる『日本語の誤用』なるものができた。

隣国ほどではないが、日本も儒学の国。紙媒体で半永久的に残された先人の言葉は問答無用で尊ばれ、信用され、正しいものとされる。

これは国家言語の統一という意味では有意義なものであったのだろう。

だが時代はめまぐるしく移り変わり、文化レベルが発達してくると先代の言葉では表現できないケースも多々あった。

当時の日本は輸入国家であり、隣国は世界の最先端を行くメトロポリスである。次から次へと流れてくる人・モノ・カネに対応すべく、日本語は隣国の言葉にアレンジを加えて独自の進化を遂げるに至った。

言葉の新陳代謝というのか、時代にそぐわないもの、有用と思われるものを取捨選択し、非常に流動的で合理的な形をとり始める日本語。

その遺伝子は現代まで息づいている。今日日本では世界各国の単語が行き交っている。

流動的な言語、というのを良く見るものもいるだろう。そしてそれを悪く見るものも。

前者は若者に多く、後者は老人に多い。

人は老化すると記憶が困難になる。新しいものをなかなか覚えられず、また古いものに思い出補正が入る。新語の有用性や合理性など考えず、ただ古い言葉にしがみつく。

古い言葉を大切にするのはいい。だがそれを若い者に強制するのはやめてもらいたい。言語流動についてこれないのなら直ちにリタイアすればいいのだ。ずっと流動してきた日本語を老人のくだらないこだわりのために止められるのではたまらない。




と、大して若くもないのに『日本語の誤用(笑)』を非難してきたが、だからといって新しく作られた言葉全てを問答無用で受け入れてようと提言しているわけではない。

古い言葉でも合理的有用的なものは残すべきだし、新しい言葉でもコミュニケーションを行ううえで混乱を招くようならそれは即時排除すべきだと思う。


『偽善者ぶる』

がまさにそれだ。僧都の好きなアニメでも使われるし、歌詞にも登場することがある。

他愛もない発言の一つなら聞き流す。だが『善』というのはその作品のテーマであることが多く、そこを曖昧にされると非常にもやもやするのだ。


まず偽善者というのを考えてみる。

これは読んで字のごとく、偽の善人のことである。もっと言えば、善人の演じるもの、『善人ぶるもの』である。

では偽善者ぶるとは。


善人ぶるものぶるもの。

善人ぶるぶる。

昔サンキストというお菓子会社のゼリーの広告で、アイドルがゼリーを人差し指で突きながら『つんつん、ぶるぶるー!』と微笑むというものがあり、僧都はなぜか性的な意味で興奮したことがあったのだが、それは今どうでもいい。


『善人のふりをする者』というのはまぁ極論だがざっくり言えば『悪人』だろう。

では『善人のふりをする者』のふりをする者というのは、『悪人』のふりをする者ということになる。

なんだ善人じゃないか。

しかしこの俗語の意味は『善人のふりをするもの』なのだ。

すなわち『善人ぶる』と同じ意味。じゃあ『偽』いらねーだろ。なんでつけた。

あるいは『偽善者』だけでいいだろ。なんで『ぶる』つけた。



『偽』という言葉はもちろんだが、『ふりをする・ぶる』という言葉にはあまりいいニュアンスはない。

もったいぶる、いい子ぶる、偉ぶる、通ぶる、金持ちぶる

『かわい子ぶる』から派生した『ぶりっ子』なんかはもはや悪口だ。

『ふりをする』というのは、演じることであり、振舞うこと。それはそれで悪いことではないのだが、本質を隠して人に違う姿を見せる、というのは正義大好き日本人からしてみると、やはり卑怯で堂々としてない気がするのだろう。

古い文献において『ふる・ぶる』という古語は主に神の性格を表現するのに用いられていた。

『荒ぶる』『ちはやぶる』『益荒男ぶる』

そこに『演じる・振舞う』という意味はない。『神』を形容するもの、『神』を畏敬した表現である。『神』と使う時は当時(今でもそうだが)最上級表現であり、それにちなんだ形容はもちろん最大規模の誉め言葉である。

『もののあはれ』文化が発達するにつれて、表現が大げさ、と言ったらちょっと言葉が悪いが、本来『神』にしか使われない形容が自然のもの、果ては人物への形容にも濫用されるようになり、

『神の振る舞いのような○○』→『神懸っている○○』→『神を彷彿とさせるような○○』→『神ではないがそれに近しい○○』→『最上級な何かっぽい○○』→『優れているっぽい○○』→『すごいっぽい○○』→『(ポジティブな形容詞』)っぽい』

となり、だんだんと大衆化、俗化、されて『とてもよい何かを演じる人(でも演者そのものは大したことない)』を『~ぶる』と表現するようになったのではないだろうか。
※僧都の私見です。

ともあれ、現代の『~ぶる』も古代からみれば『誤用』ということになる。神を表現するものであって決して現代のようなネガティブな意味はなかったのだ。

大概『~ぶる』の~の部分にはポジティブな言葉が入り、その上でその言葉はネガティブな意味を持つ。

例えば『悪ぶる』という言葉もある。つまり『悪い人』を演じる良い人ということだ。あまりにも良い子ちゃん至上主義の日本を危惧した、ちょっとロケンロールで中二で尾崎な子供が警鐘をならすために『悪ぶる』のである。この場合は例外的に『悪』は彼の中だけにおいて『善』でありポジティブである。だが『ぶる』がついているので意味は逆転、尾崎っぽいという意味でネガティブ表現される。

『(ポジティブ表現)・ぶる』はそのポジティブ値が高ければ高いほど、そのぶんネガティブ値も高くなる。

人気者・ぶる、とか聞くととても悲しくなる。人気者のポジティブ値が高すぎて、その落差があまりに大きいのだ。


人を誉めるに当たって、もっともシンプルでナチュラルな言葉はやはり『いい人』だろう。つまり『善人』。

僧都もよく『いい人』だと言われる。あまり悪いこともしないし、人助けもよくする。

その『いい人』から言わせてもらうが、



この世に善人などいない。



僧都が悪いことをしないのは、それで得られるメリットがその見返りにあわないからだ

僧都が善行をするのは、そのほうがあとあと助けてもらったり色々メリットがあるからだ。

メリットとデメリットを天秤にかけて、傾いた方向がたまたま善行なだけだ。

その意味で僧都こそ偽善者である。

だから僧都は否定されても構わない。


だがメリットとデメリットを天秤にかけたからといって善行が否定される、そして悪扱いされるのは極論だと思う。

動機がどうあれ、それによって喜ぶ人間、助かる人間がいる以上、それは善行なのだ。そこを否定してはいけないと思う。

誰かを助けることで『自分に利益があること』それを偽善だという。

じゃあ誰かを助けることで『自分に利益がないこと』が善なる証なのか。利益云々で善悪が決まるのか。


『罪を憎んで人を憎まず』ということわざがある。人間は血が通っている以上それぞれ事情があり、その彼の判断で罪を犯した。その人間性も組むべきだ、という性善説に由来する考え方である。


これの逆の考え方もあっていいのではないか。すなわち


『善行を誉めて人を誉めず』



性悪説に基づき元来人は悪い考えをしてしまうものであるとする。だが悪人の事情がどうあったとすれ、善行が行われたのならそれは評価する。そういう考え方。

善人はいない。だが善行を行うものはいる。それでいいではないか。なぜその人の人間性にまで善を求めるのか。

例えば島田紳助がよくネットで偽善者と罵倒されていた。僧都もあまり好きではないが、別に偽善者だから好きなわけではない。その性格が嫌いなだけだ。報道を見る限り悪人なのだろうと思う。

だが偽善者とは思わない。

島田はよくお涙頂戴系のバラエティの司会をしていた。そして涙をぼろぼろ流して『素敵やん』と言いながらカンボジアかどっかに番組の金で学校を建てたりしていた。

これは善行だと思う。たとえ島田の脳裏に好感度タレント、視聴率、スポンサーの金、ゲストのグラドルのおっぱいもんでやろう、とかあったとしても、コレは善行だ。それは否定できない。

グラドルのおっぱい揉みたいから学校を建てた、ではない。グラドルのおっぱいと学校は島田の中で因果関係はあっても、各個別々の事象である。妻のある身でグラドルのおっぱいを揉んだことには断固糾弾すべきだが、学校はそれとは別に評価すべきだと思う。

僧都もグラドルのおっぱいを揉みたいと思うし、善行も行う。僧都の場合たまたまそこに因果関係がないだけだ。

善行は独立して賞賛されるべきである。そして悪事は独立して罰せられるべきだ。

この世に善人はいないのだ。だから善行の理由まで追及するとこの世の全ての善行は否定される。


その意味での偽善はあっていいと思う。無償で尽くさないと善じゃないないなんて審査が厳しすぎる。



僧都の中での『偽善』という言葉はもっと濃い闇を持っている。たとえそれが『偽善』の誤用であっても



先月の27日、声優の永井一郎さんが逝去された。

みんな永井さんというと波平とかガンダムのナレーションとかを思い浮かべるのだろうが、僧都が真っ先思いつくのが『天空の城ラピュタ』の将軍だ。

ムスカからの通信を一方的に切られての『もしもしもぉしもしぃ(↑)!?』と、ラピュタの宝を発見したときの『くぉらああああネ・コ・バ・バ・するするなぁあああ!!』

が子供心にツボでかなり笑った覚えがある。よくこれのものまね練習してたし、今でも脳内再生余裕だ。

逆に波平はなんか良く出来たお父さん過ぎてそれほど好きではなかった。永井さんの演技の真骨頂は威厳がある立場なのに人間くさく慌てふためいたり、お茶目だったりする小悪党の役だと思う。ばっかもーん、よりも裏声の『ヤワラーーーー!!!』の方が頭に残る。


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あと地味に猫の吹き替えがとても合う。じゃりん子チエの小鉄とかDBのカリン様がそうなのだが、これは永井さんというか当時の音響監督の人のセンスがすごい思う。普通あの声を聞いて『あ、ねこっぽい』とは思わないよ。でも永井さんが演じるとそういうねこがいそうな気もする。裏声でもそもそ話してる声なんか特に発情期のねこのうめき声っぽいし。





本当に演じるのが上手な人だったんだと思う。それこそ神懸りの演技。誉め言葉になるのかわからないけど、ねこぶる、小悪党ぶる、教師生活25年ぶる、波平ぶる、そんな人はこの人置いてほかにいないと思う。

あまり声優の身辺を調べると、余計な偏見が身について作品に集中できないので声優ラジオや本を読んだりしないのだが、訃報の記事とともに彼の半生が書かれていたのでずっと読んでいた。

京大卒で電通に入社したどエリートなのに、二年で辞めて食うや食わずやの声優業、大御所東野英治郎から声優は芝居じゃないと言われたことに真っ向反論したエピソードや、『波平ただいま年収164万円』を執筆して声優の地位向上のために戦ったり、かなり波乱万丈破天荒な人生を送っていたようだ。だがそんな裏を一切見せず、かなりのイケメンなのにテレビ露出も避けて、声の仕事に全力を注ぐ無骨で不器用な一俳優を貫き通す。波平とはまた違った意味で日本のお父さんだったようだ。



永井さんがなくなった翌日、こんな『ボケて』を見た。

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心底ぞっとした。

ジョジョじゃないが吐き気を催すような悪意というものが本当にするのだと実感した。


なんなんだこれは。



波平が笑顔で彼岸の地に立っている。

そして磯野家に感謝の言葉を述べている。

そして決め台詞であるバッカもんと叱っている。




なんでこの投稿者が波平の言葉を代弁しているのか。

お前は誰だ。波平の何だ。長谷川町子か。朝日新聞の担当者か。



この状況で一体誰が波平の言葉の代弁を許されたのか。

そしてなんでおまえが3534名もの支持を受けているのか。

永井さんの44年間、色んなものと戦いながら演じてきた波平を、日本の父を、善行を、なぜお前は今掻っ攫ったんだ。

なぜ波平を演じた。なぜ波平ぶった。

『永井さん44年間ありがとう』でいいだろう。

なぜ『永井さん側』にたった。永井さんぶった。なぜ賞賛される側に立とうと思った。

僧都は永井さんのことなど記事を読むまで知らなかった。だから永井さんが『いい人』なのかは知らない。だが少なくとも永井さんの演技は『善行』だった。多くの人を楽しませてくれた。彼は『善行』を成した人なのだ。

その善行を、さも自分の行動のように攫い、そして3500名から賞賛された。

『人の褌で相撲をとる』どころか『人の善行で相撲をとった上に勝って賞賛を浴びる』だ。

例のゴーストライター事件のような、『歌ってみた』の歌い手のような、『折り紙はわが国の文化ニダ』のような、『善行』を横から掻っ攫うもの、それらに対して怒りを禁じえない。

日本人は『ぶる』ものが大嫌いだ。なぜなら我々は虚偽が嫌いだからだ。

メリットを考えて善行を行う者を僧都は糾弾しない。だが『善行を行なった自分ではない誰か』ぶるのだけは決して許せない。そこに善意は介在しない。それだけはまごうかたなき悪だと断言できる。

誤用なのかもしれない、辞書にそんな意味はないのかもしれない。

だが、あえて言わせもらう。




この偽善者が。

ドラクエとFF、どちらが好きかと問われると、まぁドラクエを選ぶ。

正直あんまりゲームはやらないほうなので、ゲーム性がどうのプレイヤーの自由度がどうのグラフィックがどうの言われてもあまりぴんとこない。

じゃあなんでドラクエか。

FFシリーズは各々ストーリーが独立していて、世界観や設定をいちいち理解するのがめんどくさい。

対してドラクエはロト編と天空編までのことではあるが、ストーリーが一応繋がっている。僧都はゲームを物語として楽しむ方なので、前作の主人公がちょっとストーリーに絡んでたり、前作の何気ないイベントが実はとんでもない伏線だった、とかあるととても興奮する。

とここまでドラクエ推ししといてアレだが、実は生まれて初めてやったRPGはFF4。こればっかりは大好きで今でも時々やりたくなる。

僧都の年代で、SFC序盤の作品であるFF4がデビュー作というものはあまりいまい。なんのことはない、僧都はファミコンもSFCも持ってなかったから友達の鍵っ子の家に入り浸って、人ん家のソフトをやり倒しただけ。人ん家のソフトでセーブデータを作りラストまでクリアするというずうずうしさ。

どういう風の吹き回しか、突然僧都家でゲーム戒厳令が緩和され、家にファミコンがやってきた。もうそのころには時代はSFCに移り始めていたが、僧都はそれでもうれしかった。

ただ父親はファミコンの概念をさっぱり理解してなく、ファミコンだけを買ってきた。本体があれば遊べるのだろうと思っていたらしい。

ここまで漕ぎ付けてまさかのおあずけ。まず父親にソフトの概念を教え、それからなんのソフトを買うか思案した。

父親はソフトの概念は理解したものの、若干めんどくさく思い始めたのかイライラしているのが子供心にも見て取れた。恐らく買ってもらえるソフト数は一本、奇跡が起きて二本といったところだろう。今回何か購入したとして、次回の購入は半年先か、一年先か。

ならば長期で繰りかえし遊べるものを購入するしかない。一週間で飽きてのこり11ヶ月三週間を指くわえているなんていやだ。これは慎重なチョイスを要する。

やはり知名度の高い人気作を買うべきだろう。実は僧都は『いっき』『ドラえもん』が地味に好きだったのだが、当時から友達の間でも酷評だったのでこれはチョイスから外さなければならない。

やはり・・・

『スーパーマリオとかいうのにしたらいいんじゃないのか』

と、父親からまさかのアシスト。朴念仁で堅物父の脳内ボキャブラリーに『スーパー』なんてハイカラなものがあったことにも驚いたが、まさかのマリオ推し。

これは・・・・使える・・・!(悪人の笑み)

『うん、スーパーマリオはクラスでは大人気だから欲しいんだけどねー。クラスでも持ってないのは僕だけなんだけどねー。ホント持ってるのが当たり前なんだけどねー。(チラチラ)』

『ふうん(イラッ)』

『絶対おもしろいのは間違いないんだけど、すぐ飽きちゃうかもしれないんだよねー。んで本命があるんだけどー、それはマリオよりずーっと長く出来ると思うんだー。でもマリオよりはおもしろくないから、案外すぐ飽きちゃうかもねー。そうするとやっぱりマリオがよかったーってなるかもしれない。』

『じゃあどちらにしろすぐ飽きるってことだろ。(イライラ)』

『かもねー。でもー、両方を順番に交代でやったら飽きるのはだいぶ遅れるんじゃないかなーって思うんだ。マリオ飽きたらそれ、それ飽きたらマリオって感じで。そしたら来年までは次のソフトいらないんじゃないかなって思うんだー。』

『じゃあ両方買ってやるからぐちゃぐちゃ言うな!めんどくさい!』


完全に釣れた。

父は自分のことに関してちまちまやるのは好きだが、他の者がうじうじ決断に迷うと途端に面倒になり、時間最優先で問題解決しようとする。そういう人間であることを年齢一桁にして僧都は理解していた。

この気まぐれな父が次回もソフトを買ってくれるとは限らない。それどころか買ったファミコンさえ自由にやらせてもらえないかもしれない(実際よく禁止令がでた)。ならば千載一遇のこのチャンスに可能な限り自分の要求を通すっ!あるかもわからん未来などに期待するな、実を取れ。現在できうる最高の条件を交渉相手の方から引き出す!これこそプロネゴシエイターの仕事ッッ!

我ながら狡猾に頭の回る嫌なこどもだった。自分の子がここまで考えてたらちょっと引く。


というわけで二本のゲームは確約できた。一本はマリオ3として、もう一本はRPGが妥当だろう。

さて何を買うか。普通に考えればドラクエだろう。ただ僧都はドラクエをやったことがない。誰からもおもしろいとは聞いているが、それが僧都に当てはまるのだろうか。

そして現在ドラクエは3まで出ている。いきなりドラクエというゲームを3から始めて良いものなのか。1・2をやっていないがために全然意味が通じなかったらどうしよう。

かといって今更1から始めるか。

バカな。3という最新作が出ているのに今更システムが劣る1をやるというのか。それに1からやり始めてどうする。多分来年までソフトを買ってもらえるチャンスはない。翌年に2をやるにしても、最新作の3は二年後じゃないか。どんな気の長い計画だ。

となるとライバルのFFか。FF4っておもしろかったな。そういえばなんでFF4が出来たのだろう。四作目だぞ。1・2・3やったことないのに。

そうか、話が繋がってないんだ。今いきなりFF3を始めても問題ないわけだ。

ドラクエに比べると若干斜に構えた子らの間で人気だったFF3。悪い噂は聞かない。

よし、FF3にしよう!


というこども脳内会議が終え、僧都の生涯初めてのファミコンソフトはマリオ3とFF3という今でも人気の二作品となったのである。

やはり何であれ初体験というのは思い出深い。その後どんなソフトを買ってもらえたかさっぱり思い出せないが、FF3のストーリーは思ってた以上に今でもはっきりしている。

先にFF4をやったというのは、それはそれで結構いい経験だった。

FF3はシリーズで初めてジョブの概念が出てきた作品だ。そのせいか、モンクと空手家、戦士とナイトというほぼモロかぶりなジョブがあったり、吟遊詩人とか風水士といういつ使えばいいのかわからないイロモノがあったり、学者という魔導士ハイン戦以外使えない一発屋がいたりして、いい方に解釈すれば自由度が高い、悪く言えば設定というか方向性が固まっていなくて迷走している感が出ている。

何気なく4でのキャラたちの職業、例えばシドは3のジョブ『バイキング』の武器・ハンマー系を使いこなすが、『学者』の特殊コマンド『みやぶる』も使える。いまいち不人気だった二つのジョブが4で統一されたのだ。こういった無駄贅肉の切り落としが随所に見られる。

その3の時代の試行錯誤を、すでに4を経験している未来人である僧都がうんうん、あのハナタレががんばったじゃねえか。よしよし、という謎の上から目線で見る。そういう楽しみながらゲームをしてた覚えがある。ほんとに嫌な子供だ。

余談だがその逆もある。3では『16回ヒット!』みたいなヒット数表示というものがあったのだが、それが4ではマイナーチェンジされている。所詮ファミコンのちゃちなドット動画ではあったが、僧都はあの『シャカシャカ(×8)』という軽快な音とともに出される高速の動きが大好きだった。しかもレベルが上がると回数が増えて攻撃力が倍加する。アレはやばい。脳内からへんな汁でるわ、マジで。

もちろんストーリーもおもしろいと思った。

古代人、失われた文明、浮遊大陸、光と闇、人類の愚かしさ、そして歴史は繰り返す・・・何も知らない少年たちの冒険が世界を大きく動かす!やはり男の子はこういうのが好きだ。

そして3のラスボスと言えば『くらやみのくも』

助詞が入ってるって結構斬新だと思う。これじゃ彼(彼女?)の正式な名前じゃなくて見た人の感想だ。これって言ってみれば『たった今誕生したラスボスだから』という証左に他ならない。いきなりの圧倒的存在の出現に形容する言葉がこれしか思いつかなかった、それだけ緊迫した状態だった感がビンビン伝わってくるいい名前だ。

実際この『くらやみのくも』は中ボスが発生させた『それまで無かった者』であり。その中ボス自身もそいつが何なのかあまり結局最後まで把握できていなかった。世界を滅ぼすヤバイ何か、くらいにしか思ってなかったはずである。

『くらやみのくも』については、そのビジュアルもうまく説明できない。男のような顔をしているが乳が少し膨らんでおり、下半身はもううにょうにょとしていてよくわからない。『名状しがたい何か』のグラフィック化が見事。

それ以降、4・5・6のラスボスも名状しがたいのは間違いないのだが、『くらやみのくも』は変に人間ぽいので、あ、説明できそうかな?と思わせておいて、ああ、やっぱ無理!と匙を投げる、なんともいやらしい形をしているのだ。

ベタ誉めしまくっているが、僧都はそのビジュアルといいネーミングセンスといい『くらやみのくも』が大好きなのだ。僧都の中ではネーミングセンス第一位、僅差で二位の『獣の槍』を抑えている。

んでこちらのラスボスに次ぐ第二位、あの『くらやみのくも』を発生させるに至った中ボス。名前はザンデ。戦闘コマンドでは『まおうザンデ』と書かれている。

FFのシリーズを通して『魔王』を冠するのは彼だけなのだそうだ。結果論とはいえ『魔王』を名乗っておきながらラスボスじゃないて結構恥ずかしい。居酒屋で『俺さぁ地元じゃ結構ヤンチャしてたんだよねぇwwww』って嘯いてたら当時彼をパシリに使ってたDQNが来店してきたときみたいな気分だろう。『あっれーザンネン君じゃんwwww何してんのwwww』『あ、あの、ちーっす』『ちょわりwwwヤングアニマル買って来てくんね?wwww』的なね。

20100207102305












 




実際筋肉ハゲの中年だしね。ドラゴンとかキマイラとか出てくるなかで、ただの筋肉ハゲ中年だしね。

実はこのザンデが主人公たちの村を滅ぼしたとか、討伐に行った親父を殺した・・・とかそういった因縁はない。主人公たちが行き掛かり上倒すことになった魔王である。世界を滅ぼすって言うし殺っとく?みたいな。

んで何でその彼が世界を滅ぼすとか言い出したのか。もちろん彼には彼の動機がある。

その昔、大魔導師だか大賢者だかがいた。たしか名前はノア。

全知全能に近い能力を持った彼にはドーガ、ウネ、ザンデという三人の弟子がおりそれぞれ修行に励んでいた。

その大賢者が何らかの理由で死の淵に隣することになり、三人の弟子たちを呼んでこう告げた。

『ドーガには私の魔術の全てを授ける。後世に残し役立ててくれ。』

『うぃ』

『ウネには夢の世界の全てを授ける。この世界の番人として人々を守ってくれ。』

『おk』

『さて、ザンデ。お前は本当に優れた弟子だった。だから私のもっとも尊び、大切にしているものをやろう』

『wktkwwwwwwwwwwwwww』

『それは人としての心だ。』

『・・・・』

『では・・・さらばだ・・・・』

『ちょwwwww意味わかんないんスけどwwwwwwwお師様wwwwwお師様wwwww』

『へいてーんwwwwwwがらがらがらwwwwww』

『いや、ちょ、え?wwwwwwwww』

『やったじゃんザンデwwwwwちょーうらやましいわwwwwwwwww』

『うわーほしかったわー人としての心マジ欲しかったわー(棒)』

『ちょwwwwおまえらじゃあ変えろよwwwww』

『うっわ魔術とかマジしょぼいわwwwwwいらないわwwwww(そそくさー)』

『夢wのw世w界wwwww誰得wwwwww(そそくさー)』

『ちょwwwマジでマジでwwwwwwww待てってwwwwwww待てよぉ・・・・・』

 

こうしてノアの遺産に不服だったザンデは世界を滅ぼすことにした。


ホントこれさ


ばwかw賢w者wwwwwwww


たぶん大賢者は、全ての魔術や夢の世界の支配よりも、人の心はとても尊いものなんだよ、という道徳的なことを弟子たちを通して、ユーザーである小学生に伝えたかったんだと思うんだ。

そしてこの後もシリーズに継承されていくんだけど、FFのリアルさというか、敵にも敵の動機があってドラマがあるんだというのを詰め込んだわけじゃない。

でもそれらが合わさった結果、穿った見方をすれば、ザンデは人の心を与えられたからこそ他の弟子と比べてしまい、嫉妬に狂ってしまったって話にも解釈できちゃうわけじゃない。結局人間の心の醜さが前面に表れた話に帰結されてしまうんだよ。

これ絶対未然に防げた悲劇だよね。大賢者なのにそこんとこ予想できなかったわけ?

だめじゃん、諸悪の根源大賢者じゃん。弟子と小学生たちに何伝えてんの。

そしてザンデ。わかるよ、そりゃ他の人と比べられたやだもんね。あんなにがんばったのに他の弟子より劣るものもらったらやだよね。


でも全人類皆殺しはやりすぎ


この話全人類は関係ないからね。完全にとばっちりだからね。百歩譲って他の弟子に怒りをぶつけるのはわかるよ。でもその怒りは即世界に向けれたかんね。何これ中二病?中年二年目の中二病?自分のこと魔王とか言っちゃう系?

ホント失われた古代兵器とか世界観はとてもいいのに、ハゲ中年の醜い嫉妬と八つ当たりがこの話の本質なのがとても悲しい。






カナダの生活もあと一ヶ月ということで、僧都も荷物整理をしている。

来た時はトランク一個で十分だった。恐らく成人男性一人が生きるのに必要なものというのはそんなもんなのだろう。

服も精々5・6着、下着は全部捨てていいだろう。その他のものは日本で購入できる。大体カナダでしか購入できない生活用品なんてない。カナダにしかないものは景色と経験だけだ。それは全てHDDに入っている。結局服数着とPCしか持って帰るものはないのだ。

僧都の家の物のほとんどはリサイクルショップで二束三文で買ったものばかりだ。中古品の中からお宝発見するのは半分趣味のようなものなので割りといいものはそろえていると思う。

そのままリサイクルに出してもいいのだが、一応後輩たちに聞いてみたら思ったより欲しがる人が多かった。

死に瀕した老富豪の前に現れる六人の処女たち、みたいな情景が思い浮かぶ。時代設定は大正かな。つっても全員30近いし誰一人処女はいないのだろうけど。

元ヤンの彼氏はてんぷらが好きらしいから、この揚げ物機は元ヤンに。

ひろちゃんは料理が好きだからキッチン用品一式

ことちゃん(進撃)は筋肉バカだから腹筋ローラーほか自宅トレグッズ

京都はこんど隣町の彼氏の家に住むから車をお手ごろ価格で

下町はスノボを始めたいらしいから板を

岡山は・・・・・


何も思い浮かばない。

じゃあ人としての心を。


これで世界を滅ぼそうとしないかな。これぞファイナル僧都ファンタジー。
 
 

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