315戦国大名加藤主計頭清正の旧所領、熊本市は本妙寺には清正が日真上人に宛てて出状した手紙がある。

「夢に太閤様が現れた。太閤様は陣立の格好をして、御機嫌が良い様に思われた。他の者の鷹が風に吹かて川に落ちたので、自分がそれを手で取り上げ手に据えた処、太閤様がその自分の姿を見ている。どうやら『のんきな顔で鷹を据えてきたものよ』と思っている様子であったので、『人の鷹が川に入って難儀をしている様子だったので余り可哀相なので看病してやろうと救ってやり、手に据えて参ったのです』と秀吉に申し上げた。」

一見どうでも良い様な夢の内容を、信仰する法華宗の寺の住職にわざわざ書にして伝えている。慶長3年の太閤薨去から相当年月を経た清正晩年の事であろう。

清正は太閤秀吉を敬慕していた。
天正2年清正13歳の春、尾張津島から母親伊都に連れられて秀吉の居城となった今浜にやってきた。秀吉は当時38歳。清正は実の父親を3歳の時に失っていたから丁度年齢的にも相応の秀吉を父と慕った。

武士としての意識も高かった。
清正同様今浜に集まった小姓らに競争意識を炊き付けるのは秀吉の妻寧々であった。寧々は小姓らにいつも誰が一番武者振りの良い男になるかと炊き付けた。清正は何時もわが身を大身に見せようとした。烏帽子兜も他の武将らより少しでも高いものにした。

唐に10数カ国拝領する事を夢見て朝鮮に出立し、現地では鬼将軍と忌み嫌われる程の働きをした。全ては秀吉の命令に従った結果であり、寧々の言う男振りの示し方の筈であった。

彼は兎に角豊臣家に忠実であった。忠実さゆえに苦しむ事も多かった。

このブログでは彼の想いが果たして報われたのかについて検証する。