IMG_0004IMG_0012先日は塚坊主古墳が公開されていたようですね。
当古墳は戦時中に京都大学が緊急調査して装飾が確認されて以来埋め戻され、報告書は出されることもなく、したがってその全貌も不明のままに長年経過してきました。

再調査されて美しい装飾が明らかになったのは1990年12月9日のことでした。
緊急公開が2日だけ開催されましたが、インターネットもまだ普及していない当時、私はそのような情報を知る由もありませんでした。

たまたまある週末に、友人連れて弁慶が穴古墳とチブサン古墳に案内しに山鹿市を訪れると、対応してくれた学芸員さんが、

「今日は塚坊主古墳の緊急公開があってますが見ましたか?」
と確認してくれました。 まさに衝撃の瞬間です! 予想だにしない超幸運に体が震えたのをよく覚えています。
好評につき写真追加しました

IMG_0002IMG_0005ダッシュで現地に向かうと、土砂が除かれ、素晴らしい装飾文様が残る壁面を直接見ることができました。

想定を上回る良好な顔料の保存状態で、再び感動しました。天候も小雨の混じる観察にはベストな条件で、極めて良い観察条件で見ることができました。

IMG_0001IMG_0003当時はデジカメもなく、手持ちのフィルムを使い切るまで、何枚でもシャッターを切っていました。
めったに訪れることのない、神が降りてきた幸運だったと思います。

それから何年か経って、立派な古墳の復元と、保存施設が完成しましたが、あの時のような良い環境で見ることは二度と叶いません。その時の画像をようやく紹介したいと思います。

このブログを始めた当初、2枚ほどトピックス的に掲載し、いつか記事を書くと書きましたが、あれからもう10年が過ぎてしまいました。お待たせして申し訳ありませんでした。



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あの幸運な日から、気が付けはいつの間にか四半世紀以上が過ぎています。
昨日のように鮮明に覚えていますが、時の過ぎるのは早いものですね。
同じく年を取るのも早いものです。
私はあの時のことを忘れることはないでしょう。



小さな前室を持つ肥後型石室の上半部は破壊されています。
石棺の面影を強く残す古式の石屋形が奥壁に沿って残っており、
その壁面、奥壁と左壁に赤を基調にした連続三角文、連続菱形文を描き、一部に円文を重ねています。
部分的に白を塗っていますが、奥壁中央近く、一対の円文と三角文は、そこだけは白色が良く残っています。

配列は規則的ではありませんが、敢えてそのような配置をしたことで、かえって神秘的な魅力が増しているように思います。
そして、丸三角四角のみのシンプルさがより美しさを強調します。
右壁にも顔料が残っており、何か描かれていたと思いますが、剥落が進んで良く判らなくなっています。

文様構成としては、チブサン古墳、大坊古墳の壁画に強い関連性を認めますが、
石屋形の構造から言っても、それらよりもより先行する古式の装飾古墳と考えられます。

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最後に一つ感謝の言葉を述べたいと思います。

普通、遺跡に対しては、不要不急の調査は行わないと言うのが暗黙のセオリーになっています。
破壊や開発等、急を要する事情がない限り、敢えて遺跡調査をしないということです。

IMG_0016予算もありますし、トンデモナイものが出た時の大変な対応を考えたら、後の代に先送りしておこうという事情は理解できます。
しかし、それは「学術的探求心の追求」からは後退した処置で、残念至極と私は思ってしまいます。生意気言って申し訳ありません。
究明が待ち望まれているのに、先送りされている残念な遺跡がどれほど多いことでしょう。


当時も風土記の丘を整備するという目的はあったでしょうが、隣の虚空蔵塚のように発掘せずに済ます選択もあったと思います。

当時調査に対して様々な葛藤があったと察しますが、そこをあえて実施に踏み切った菊水町担当者の心意気に、私は大きな喝采を送りたいと思います。

そして立派な保存施設の整備まで勝ち取ってしまわれた、旧菊水町の行動力は、どれだけ称賛しても足りないくらいです。

皆様の勇気のおかげで現在私たちは素晴らしい装飾文様を目にすることができます。有難うございました。