http://mimizun.com/log/2ch/psy/1147678360/
772 : ◆JBLfMwCXhY :2006/05/20(土) 00:25:52 ID:nmMBqFgr
トマスモアの造語ですが、仏国土ユートピアは信次の造語です。
「高級霊が法を説くため地上に下生する」とか、「魂の兄弟」、「霊道を開く」、「想念帯
の曇りを取る」・・・。これらは皆、極めて信次的な教義です。
初期のKK教義は、これらを釣り針から釣り竿まで飲み込むほど、丸ごと踏襲してます。
「影響を受けた」というような表現は当たりません。アッケラカンと丸写しでした。
その後、大川総裁は仏教を一生懸命に勉強して、信次的な教義から脱却し、仏教用語だらけの本
「悟りの挑戦」を書きました。ヤサ氏がコピペしている「悟りの挑戦を書いて、仙人の
呪縛から離れた」というのは、そういうことなのです。
当惑しました。当時、当方は知人のKK信者から「この本は難しくて、わけわかめだ。
これを読んで解説してくれないか」と頼まれたほど。
字面の意味を追っ掛けて、通り一遍の講義をすることは、優秀な講師ならできたでしょう。
しかし、それではあの本の本質がつかめません。「信次流の仏教理論を丸写しにしてたら、
仏教学者などの専門家から、多数の誤りを指摘された。すでに信次が大嫌いになっていた大川総裁は、
脱・信次を目指してこれを書いたのである」という背景を知らなければ、理解できないのです。
例えば「無我とは、永遠不変の魂など存在しない、という意味ではない」というような、
KK信者にとっては自明と言えることに何故こだわるのか、を理解するためには、
「仏教への無理解を散々批判された」という背景を知る必要がありました。
しかし、「仏陀意識の本体」ともあろう者が、どうして仏教を猛勉強しなければならないのか、
という別の矛盾が発生した。それ以上に、小難しい仏教解説は、信者の受けが悪かった。
かといって、いまさら信次の丸写しには戻れない。
こうして、KKの教義体系は崩壊の一途をたどっていきました。
「光の天使たちが神理を広めることにより、地上の現象界を仏国土ユートピアに変える」という
思想内容が、信次そのものなのです。
また、「無我とは我執を断つことを意味する」という大川流の仏教解説は、やはり間違っています。
その理由は、「無我」はサンスクリット語でアナートマン、つまり「我」とはアートマン
(輪廻転生する、個人の実体)なわけですが、「我執」という意味での「我」という単語も、
「アハム」といって、インド哲学の用語には別にあるということです(この方面の専門家
から聞いた話だが)。
というような見方は、やはりキリスト教徒の色メガネで見たが故の、極論ということのようだ。
真実は、「当時のインドでは輪廻が当たり前の常識だったため、敢えて語るまでもなかった」
ということらしい。
釈尊は、大川的な「○○は××の生まれ変わりであるぞ」といった、霊能者のご託宣をひどく嫌ってた。
だが、そのテの連中と議論すると、果てしない不毛な論争に陥ってしまう。だからいっそのこと、
形而上的なことについては一切語らないことにした。
真意は、「アートマンでないものを、アートマンであると誤認するな」という、「非我」にありました。
「高橋信次のエセ仏教にだまされた」、「仏典を読んで一生懸命に勉強した」、
「仏教の知識がついてきたので原型に戻します」、「仙人の呪縛を脱した」・・・。
これらのことは、みんな大川総裁自身が著書に書いたり、講義で語ったことです。
これを読めば、大川総裁自身が一人の人間として、迷ったり悩んだりしながら勉強してきたことが
はっきりと伝わってきます。それなのに、どうして彼の言説を「神の啓示」の如く絶対視するのか。
これはむしろ、「マジメに読んでいない」ということなんじゃないの?
ヤサ氏は大変な読書家だそうだが、全然そうは見えない。むしろ、大川本以外は読んだことがない
人に見えます。
これは、いくらKK信者とはいえ、さすがにおかしいのではないか。
全編にわたって「○○は××の生まれ変わりであり、△次元です」を延々と羅列した
精神世界史上・前代未聞の奇書「黄金の法・エルカンターレの歴史観」を書いたのは、
アンタのとこの教祖様じゃないの。過去世や次元にこだわるのが仙人なら、これは仙人書(仙書?)の
見本です。
高橋信次の著書では、「○○は××の生まれ変わり」という話の頻度、意外と高くないですよ。
KKで言うところの「心の教え」に類する説教が大半です。