June 18, 2009
7/26 (Sun) 14:00 「箱庭2丁目」 @ 茶箱

『タイガーをあなたの車に』
前の時と同じように、彼は側壁と左車線の車のあいだを抜けるようにして、早稲田の方向に歩いていた。その距離は五十メートルばかりだった。人々は車の中から信じられないという目で彼の姿を見守っていた。しかし今北はそんなものは気にもかけず、コミック・マーケットの壁サークルの列の最後尾に並んだAボーイのように、背中を丸めてノソノソと歩みを運んだ。風が彼の髪を揺らせた。空いた対向車線をスピードをあげて通り過ぎていく大型車が、路面を煽るように揺らせていた。サイゼリヤの看板がだんだん大きくなり、やがて見覚えのある地下へと続く階段の入口に今北はたどり着いた。
あたりの風景は前に来たときと変わりはなかった。ビール樽があり、その隣には青色の煙草の自動販売機があった。
ここが200Q年の出発点だった、と今北は思った。
この地下へと続く階段を使って、下にある茶箱に降りたときから、私にとって世界が入れ替わってしまった。だから私はもう一度この階段を下りてみようと思う。この前この階段を降りたのは十二月の終わりで、コートを脱ぐには寒いぎる。しかしコートをべつにすれば、そのときとまったく同じものを私は身につけている。早稲田のホテルで、あの音楽関係の仕事をしているろくでもない男を殺したときと同じ服装だ。青山のスーツにアディダスのスニーカー。コスパのTシャツ。靴下に、ゴムの緩んだトランクス。私はビール樽を越え、ここから地下へと続く階段を降りた。
もう一度おなじことをやってみる。それはあくまで純粋な好奇心からなされることだ。あのときと同じ場所に、同じ服装で行き、同じことをして、どんなことが持ち上がるのか、私はただそれが知りたい。助かりたいと思っているのではない。死ぬのはとくに怖くない。そのときがくれば躊躇はしない。私は微笑みを浮かべて死んでいける。しかし今北は、ものごとの成り立ちを理解しないまま、無知な人間として死にたくはなかった。自分に試せるだけのことは試してみたい。もし駄目ならそこであきらめればいい。でも最後の最後まで、やれるだけのことはやる。それが私の生き方なのだ。
今北はビール樽から身を乗り出すようにして地下へと続く階段を探した。しかしそこに地下へと続く階段はなかった。
何度見ても同じだった。地下へと続く階段は消えていた。
今北は唇を噛み、顔を歪めた。
場所を間違えているのではない。たしかにこの場所だった。あたりの風景も同じだし、サイゼリヤの広告看板が目の前にある。2009年の世界では、地下へと続く階段がそこに存在していた。あの奇妙なタクシーの運転手が教えてくれたとおり、今北はその階段を容易に見つけることができた。そしてビール樽を乗り越え、その階段を降りていくことができた。しかし200Q年の世界には地下へと続く階段はもう存在していない。
出口はふさがれてしまったのだ。
今北は歪めた顔をもとに戻してから、注意深くあたりを見回し、もう一度サイゼリヤの広告看板を見上げた。
当然のことだ、と今北は思った。
そう、そんなことは最初からわかっていた。AKIBA PLACEビルの多目的スペースで、彼の手にかかって死んでいく前に、リーダーははっきりとそう言った。200Q年から2009年に戻るための道はない。その世界に入るドアは一方にしか開かないのだ、と。
それでもやはり今北は、自分のふたつの目でその事実を確かめないわけにはいかなかった。それが彼のネイチャーなのだ。そして彼はその事実を確かめた。おしまい。証明は終わり。Q.E.D.
今北はビール樽にもたれ、空を見上げた。申し分ない天気だ。深い青を背景に、まっすぐな細長い雲が何本も浮かんでいた。ずっと遠くまで空を見通すことができる。都会の空ではないみたいだ。しかし月はどこにも見えない。月はどこへ行ってしまったのだろう?まあいい。月は月だ。私は私だ。我々にはそれぞれの生き方があり、それぞれの予定がある。
quarta330ならおそらく、ここで細身の煙草をとり出して、その先端にライターでクールに火をつけるところだろう。優雅に目を細めて。しかし今北は煙草を吸うが、あいにく煙草もライターも持ち合わせていなかった。彼のバックの中にあるのは今週号のジャンプくらいだ。それプラス、ソニー製のCDウォークマンと、これまで何人かのDJ達の鼓膜に打ち込まれてきた特製の携帯型低音ブースター。どちらも煙草よりいくぶん致死的かもしれない。
彼は渋滞中の車の列に目をやった。人々はそれぞれ車の中から熱心に今北を見ていた。当然だ。諏訪通りを歩いている一般市民の姿を目にするのは、そうしょっちゅうあることではない。それが中年一歩手前のオッサンともなればなおさらだ。おまけにユニクロのジーンズに、アディダスのスニーカーというかっこうで、アニメ絵の描かれたシャツを着て、口元に微笑みを浮かべている。見ない方がどうかしている。
路上に停まっている車の大半は大型輸送トラックだった。多くの物資がいろんな場所から東京に運び込まれていた。彼らはおそらく夜を徹して運転してきたのだろう。そして今、朝の宿命的な渋滞に巻き込まれている。運転手たちは退屈し、うんざりし、疲れていた。風呂に入って、髭を剃って、横になって眠りたいと思っていた。それだけが彼らの望んでいることだった。彼らは見慣れない珍しい動物でも見るみたいに、ただぼんやりと今北の姿を見ていた。何かと積極的に関わり合いになるには、あまりにも疲れてすぎていた。
そのような多くの輸送トラックのあいだに、まるで無骨なサイの群れに紛れ込んでしまったしなやかなレイヨウのように、銀色のメルセデス・ベンツ・クーペが一台混じっていた。おろしたての新車らしく、その美しい車体はのぼったばかりの朝日を輝かしく反射させている。ハブキャップも車体の色に合わせられている。運転席の窓ガラスが降ろされ、ハンドルに置かれた手も見える。指輪が光っている。
彼女は見るからに嫌そうだった。そしてどうやら今北のことを気味悪がっているようだった。諏訪通りの路上で身なりの貧しいオッサンが一人、いったい何をしているのだろう、何があったのだろう、彼女はそういぶかっている。今北とはなるべく距離をおきたそうにしている。今北が少しでも声をかけるそぶりを見せれば逃げていくかもしれない。
今北はかけていた眼鏡をはずし、上着の胸ポケットに入れた。鮮やかな朝の光に目を細めながら、鼻の両脇についた眼鏡のあとを指でひとしきりこすった。舌先で乾いた唇をなめた。晴れ上がった空を見上げ、それから念のために一度足下を見た。
彼はショルダーバッグを開け、おもむろにソニー製のCDウォークマンを取り出した。ショルダーバッグを足下にすとんと落とし、両手を自由にした。左手で本体のホールドをはずし、蓋を開けて、CDを内部へと送り込んだ。その一連の動作は素早く、的確だった。小気味の良い音があたりに響いた。彼は手の中で軽く振って、ウォークマンの重さを確かめた。ウォークマン自体の重さが二五〇グラム、それにCD一枚の重さがプラスされる。大丈夫、間違いなくCDは装填されている。彼にはその重みの違いが感じとれる。今北のまっすぐな口元はまだ微笑みを浮かべている。人々は今北のそんな動作を見守っていた。彼がバッグからCDウォークマンを取り出すのを見ても、誰も驚かなかった。少なくとも驚きを顔には出さなかった。それを本物のCDウォークマンだとは思っていないのかもしれない。でもこれは本物のCDウォークマンなんだよ、と今北は思った。
それから今北はイヤホンを摘み上げ、耳の中に突っ込んだ。イヤホンはまっすぐに大脳に向けられていた。意識が宿る灰色の迷宮に。
祈りの文句は考える必要もなく、自動的に出てきた。イヤホンを耳に突っ込んだまま、彼は早口でそれを唱えた。何を言っているのか、誰にも聞き取れないだろう。でもかまわない。神様に聞こえればいい。自分が口にしている文言の内容は、幼い今北にはほとんど理解できなかった。しかしその一連の言葉は、彼の身体の芯まで染みこんでいた。学校での給食の前にも必ずお祈りをしなくてはならない。ひとりぼっちで、しかし大きな声で、まわりの人々の好奇の目や嘲笑を気にかけることはない。大事なのは、神様があなたをみているということだ。誰もその目から逃れることはできない。
リチャード・D・ジェームスはあなたを見ている。
We are the music-makers, And we are the dreamers of dreams, Wandering by lone sea-breakers, And sitting by desolate streams. World-losers and world-forsakers, Upon whom the pale moon gleams; Yet we are the movers and shakers, Of the world forever, it seems.
真新しいメルセデス・ベンツのハンドルを握っている顔立ちの良い中年女性は、まだ今北の顔をじっと見つめていた。彼女には――まわりのほかの人々と同じように――今北が手にしているCDウォークマンの意味がよく理解できていないみたいだった。もし理解できていたら、彼女は私から目をそらしているはずだ。今北はそう思った。脳味噌があたりに飛び散る光景を目の前にしたら、今日の昼食も夕食もおそらく口にできなくなってしまうだろうから。だから悪いことは言わない、目をそらしないさい、と今北は彼女に向かって無言で語りかけた。私は耳を掃除しているわけじゃない。ソニー製のCDウォークマンから伸びたKOSSのカナルタイプヘッドホンを耳の中に突っ込んでいるの。お祈りだって済ませた。その意味はわかっているはずだろ。
私からの忠告。大事な忠告。目をそらし、何も見ないで、できたての銀色のメルセデス・クーペを運転して、そのままうちに帰りなさい。あなたの大事なご主人や子供たちが待つきれいなおうちに、そしてあなたの穏やかな生活を続けなさい。これはあなたのような人が目にするべきものじゃないんだよ。これは本者の醜いCDウォークマンなんだ。1枚の醜いCDがここに装填されている。そしてジョン・ピェールも言っているように、物語の中にいったんCDウォークマンが登場したら、それはどこかで音楽を鳴らされなくてはならないんだ。それが物語というものの意味なんだ。
しかしその中年の女性は、どうしても今北から目をそらさなかった。今北はあきらめて小さく首を振った。悪いけどこれ以上は待てない。タイムアップ。そろそろショーを始めましょう。
タイガーをあなたの車に。
「ほうほう」とはやし役のリチャード・D・ジェームスが言った。
「ほうほう」と残りの六人が声を合わせた。
「マソくん」と今北は言った。そして再生ボタンにあてた指に力を入れた。
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箱庭2丁目
2009年7月26日(日) 14:00〜20:00 @ 茶箱
■お題
楽曲,ジャンル・シーン,楽器・テクノロジー
■講師(予定)
quarta330, saitone, hizumi, 今北産業◆/dFyE/icpQ
