【群馬】「大陸や朝鮮半島から石斧の技術が稲作や交易と共に伝来したことが窺える」 高崎競馬場遺跡 弥生中期の磨製石器、県内初出土



1: ニカワ ★ \(^o^)/ 2016/07/26(火) 00:25:48.90 ID:CAP_USER9
抉入柱状片刃石斧の前面。下部の先端に刃がある=渋川市で
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県埋蔵文化財調査事業団(渋川市)が発掘調査している高崎市岩押町の高崎競馬場遺跡で、弥生時代中期後半(二千年以上前)の磨製石器「抉入柱状片刃石斧(えぐりいりちゅうじょうかたばせきふ)」が県内で初めて出土したことが分かった。石斧は木の棒などにひも状の物で縛り付け、現代の手斧(ちょうな)のように木材の表面を削る道具。事業団は「中国大陸や朝鮮半島から石斧の技術が稲作や交易とともに県内まで伝来したことがうかがえる貴重な発見」とみている。 (菅原洋)

発掘調査は二〇一四年度から、県のコンベンション(集客)施設計画に伴って進めている。石斧は一五年二月ごろに出土し、その後に分析や精査をした結果、希少な石器と判明した。

石斧が出土したのは旧高崎競馬場の北側にあるスタンドの近く。一帯では、周囲に溝を巡らせた「環濠(かんごう)集落」の一部が発掘された。弥生時代中期の環濠集落は県内では数例しかなく、この時代の中核的な集落だったとみられている。

石斧は出土した部分の幅が約二メートルの溝の中から、大量の土器などと一緒に出土した。長さ約十三センチ、幅約三・五センチ、厚さ約三センチの安山岩で、重さは約三百六十五グラム。

完全な形で残り、前面の先端が刃物のように鋭利に加工してある。前面の中央に近い部分はひも状の物で何重にも巻いて縛り付けやすいように抉(えぐ)られ、名称の由来となった。中国大陸が起源という。

石斧は一般的に、稲作の農耕具を加工する際に使ったとみられている。近くの環濠内では、県内では珍しい弥生時代中期の掘っ立て柱建物跡が出土し、石斧はその木材の加工に使った可能性もある。石斧は別のタイプの石斧四点と一括して出土した。

事業団の友廣哲也専門調査役は「一般的に石斧は刃先が欠け、使った跡が残る場合が多いが、出土した石斧は五点ともほぼ完全な形で、刃先がきれいに研いである」と指摘する。

その上で「このような状態で、五点がともに出土したのは、(別々の時期に捨てたのではなく、何らかの理由により)意図的に埋めたことを感じさせる」と推測している。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201607/CK2016072502000183.html

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【兵庫】「後漢時代の中国華南地域で作られた可能性が高い」 淡路島初の中国鏡片確認 弥生時代の集落跡「舟木遺跡」




1: ニカワ ★ \(^o^)/ 2016/07/28(木) 03:22:31.62 ID:CAP_USER9
中国鏡の中央部分「鈕」には穴が開いており、ヒモを通してつるすなどしていたとみられる
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青銅器片は直径10~15センチの鏡の中央にある「鈕」ということが分かった
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舟木遺跡で平成3年に発掘された銅破片。接合すると中国鏡の「鈕」であることが分かった(淡路市市教委提供)
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兵庫県淡路市教委は26日、同市舟木の弥生時代の集落跡とみられる「舟木遺跡」で発掘された青銅器片を再分析した結果、青銅製の中国鏡の一部であることが分かったと発表した。同市教委によると、淡路島内での発掘は初めてで、権威の象徴だった中国鏡が見つかったことは、舟木遺跡が弥生時代後期に急増する山間地集落の中心的役割を担っていた可能性があるとしている。

舟木遺跡は弥生時代後期(1世紀半ば~3世紀初頭)の山の上の集落跡で、南北約800メートル、東西約500メートルに及ぶ。平成3、6年に発掘された遺物を昨年12月から再整理、分析した結果、発掘時に4つに分かれていた青銅器片を接合すると長辺2・35センチ、短辺1・70センチ、厚さ0・9センチの中国鏡の一部であることが分かった。

市教委によると、鏡は直径10~15センチとみられ、今回確認されたのは「鈕(ちゅう)」と呼ばれる中央部分。穴が開いており、ヒモを通してつるすなどして使っていた可能性があるという。鏡のほかの部分は見つかっていない。鉛の成分分析から後漢時代の1世紀中頃から後半にかけて中国華南地域で作られた可能性が高い。同時に出土した土器の年代などから、生産されて比較的早い時期に淡路島に伝えられたとみられる。県内の集落遺跡で中国鏡は「播磨大中遺跡」など3点発掘されている。

昨年南あわじ市で見つかった松帆銅鐸は弥生時代前期~中期(紀元前3~紀元前2世紀)で、舟木遺跡から6~7キロ離れた山間部にある「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」(同市黒谷)では弥生時代後期(1世紀~2世紀)の鉄器製造跡が見つかっている。銅鐸の時代に平地にあった集落はその後急速に淡路北部の山上に移っており、舟木遺跡はその中心的存在だった可能性が高いという。

市教委は「舟木遺跡、五斗長垣内遺跡と周辺遺跡との関係が分かれば、古代国家形成に淡路が果たした役割がみえてくる」とし、弥生時代の淡路島の歴史を調べる「淡路市国生み研究プロジェクト」として今年8~9月に舟木遺跡の発掘調査を実施する。

今回調査された中国鏡片は同市浅野南の「市立北淡歴史民俗資料館」((電)0799・70・4135)で公開されている。

奈良県立橿原考古学研究所共同研究員・森岡秀人氏 「今回の発見は淡路島が有する弥生青銅器文化の特異性や地域性がさらに見直される契機となる。中国大陸での生産年代に比較的近いストレートな流入を示唆しており、近畿中枢部でもこの段階で入手可能な集落は限られた存在。中国文物の日本列島流入の契機や拡散過程を知る上で大変貴重なものといえる」

http://www.sankei.com/west/news/160727/wst1607270046-n1.html

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◆VIP◆近代世界史か国際政治に詳しい人来て。歴代最悪のアメリカ合衆国大統領って誰なの?

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1: 名無しさん@おーぷん 2016/03/03(木)20:21:59 ID:RH1
個人的には
ハーディング(博打が大好きな怠け者)
カーター(弱腰外交の代表格)
ブッシュJr.(ハリケーンへの杜撰な対応、リーマンショック)
あたりだと思う。

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【東播磨】別所氏を語る【三木城】

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1: 人間七七四年 2009/10/23(金) 01:37:58 ID:uXI/5g0i
東播磨の三木城を本拠とし覇を競ったものの毛利と織田の間に揺れ、
最後は秀吉に兵糧攻めされて滅んだ別所氏について語りましょう。

別所長治 辞世の句
「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」
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【考古】マヤ文明のピラミッドの下に水路発見、死者の国への通路か


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1: 白夜φ ★@\(^o^)/2016/07/27(水) 09:50:08.64 ID:CAP_USER
マヤ文明のピラミッドの下に水路発見、死者の国への通路か

【7月26日 AFP】メキシコの考古学者らはこのたび、古代マヤ文明の国王の墳墓があるピラミッドの下に水路があることを発見した。
この水路は死者の国へと続く象徴的な通路を表していた可能性があるという。

国立人類学歴史学研究所(INAH)の25日の発表によると、水路が発見されたのは、 同国南部チアパス(Chiapas)州の古代マヤ都市、パレンケ(Palenque)にある碑銘の神殿(Temple of the Inscriptions)の下。この神殿には7世紀のパカル大王(Pakal the Great)の墳墓がある。

墓碑銘には、死者の国に受け入れられるには、死者はチャク(Chaac)神の水に身を沈めなければならないと書かれている。

INAHによると、この地下水路は、さまざまな水位で多方向に延びており、ピラミッドよりも「かなり以前に」建設されたものだという。
発見当時、主要な水路にまだ水の流れがあったことから、水源は天然の湧き水の可能性もある。
地下水路の全長や起点となる場所は明らかになっていない。

パレンケの考古学専門家のアルノルド・ゴンザレス(Arnoldo Gonzalez)氏は、水路が給排水施設の一部であった可能性も排除していないが、古代パレンケの住民らが、パカル大王を死者の国の池へと導く通路を作るため、象徴的にこうした水路を設計した可能性も検討しなければならないとしている。

水路は、超音波探知機で発見され、小型車に搭載されたカメラが、巨大な石でできた水路の存在を確認した。(c)AFP

▽引用元:AFPBBNews 2016年07月26日 11:07 発信地:メキシコ市/メキシコ
http://www.afpbb.com/articles/-/3095241

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【社会】二条城に天守閣復元案浮上 1750年に落雷で焼失 市の有識者会議が提案 「100億はかかる」と関係者

1: あしだまな ★ 2016/07/27(水) 20:45:08.76 ID:CAP_USER9
世界遺産・二条城(京都市中京区)の価値を生かし、文化や観光資源など積極的な活用策を探る有識者会議が27日、行われた。
会議では天守閣の復元や寛永時代の行幸行列の再現などの案が浮上しており、これらをとりまとめ、8月中に市長に提案する。

この日の会議には、二条城事務所特別顧問のデービッド・アトキンソン(小西美術工藝社社長)氏らが出席。
過去2回の会議で委員から出された活用策を文化・観光資源としての向上策や文化財の維持管理経費の確保策など6項目としてとりまとめた。

活用策のなかには、伏見城から移設され、寛延3(1750)年に落雷によって焼失した天守閣の復元も。関係者によると、「復元には100億円ぐらいはかかるだろう」という大きな事業になるが、有識者会議としては新しい二条城の価値を創造する目標を設定する必要があると考えたという。

天守閣については、CGで再現するなど目に見える形にして募金を集めたり、10年後に寛永時代の行幸行列が400年を迎えることから、京都御所から二条城までの行幸行列を再現する計画も提案している。

提案には、文化庁の京都への全面移転に向けた調整も進んでいることを受け、国公賓への迎賓機能の強化や、二の丸御殿から庭園の眺めを楽しめる障子の一部開放なども盛り込んだ。

また、増加する外国人観光客に対応する案内板の充実やガイドスタッフの配備や、小中学生対象の二条城探検といった歴史学習の場として活用することも提案している。

こうした案は「二条城の価値を生かし、未来に創造するために」として8月中に門川大作市長に提案する。

二条城の天守閣跡=京都市中京区
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二条城の二の丸御殿=京都市中京区
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http://www.sankei.com/west/news/160727/wst1607270069-n1.html

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【黒田長政】福岡藩【平野国臣】

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1: 日本@名無史さん 2011/09/21(水) 02:55:53.87
福岡藩について意見しろ

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◆短レス◆●中国策謀史●歴史に残る七つの策略・謀略

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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/12/18(木) 20:52:13 ID:1fx3Synt0
楽毅を失脚させた田単の策略、
項羽と范増を離間させた陳平の策略や
中国の歴史上では多くの戦いが繰り広げられてきたが
その背後には数多くの策略、謀略もあったはず。
三国志でも二虎競食の計や美人計のように
戦いの背後では数多くの策略、謀略も
繰返されました。
歴史上において特質すべき策略、謀略を
選んでみましょう。

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【社会】近畿で唯一世界遺産の無い大阪府、「三度目の正直」はなりませんでした

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1: あしだまな ★ 2016/07/26(火) 13:54:42.35 ID:CAP_USER9
近畿で唯一世界遺産の無い大阪府。

 「三度目の正直」はなりませんでした。

2018年の世界文化遺産登録を目指し国内候補として推薦する一枠について、国の文化審議会は7月25日、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に決定しました。

「百舌鳥・古市古墳群」は、大阪初の世界遺産を目指して、3度目の挑戦でしたが、候補から外れました。

「結果を聞いた時には頭が割れそうで土にかえろうと思っていたのですが、皆さんと一緒に改めて頑張っていこうと」(はにわ課長)

地元では来年も引き続き登録を目指すことにしています。

映像
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160725-00000045-mbsnewsv-soci

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【歴史/軍事】日本刀が戦場で「主要な武器」になったことは一度もない  殺傷率は「投石」以下 知られざる意外な真実

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1: 的井 圭一 ★ 【特別重大報道】\(^o^)/2016/07/24(日) 17:14:19.28 ID:CAP_USER9

■佐々木小次郎「物干竿」のウソ
天下泰平の世上は、日本刀のブームだという。とりわけ女子中高生が、ゲームの影響をうけて刀剣美術館に列をなしているとか。

筆者はこれこそが、日本刀の正常な姿だ、と思う。日本刀はつまるところ、鑑賞のためにしか存在しないのだから。

刀剣女子(? のみならず、日本刀愛好家の方々に尋ねたい。

侍が腰に差した刀を、どうすれば抜けるか。これはかんたん、鞘走らせれば誰でも抜ける(腕の長さ、腰などチェックポイントはあるが)。

では、どうやって鞘の中に本身(俗にいう真剣のこと)を納刀するのか。
鋒(刃物の先端)は切れる。鞘口(その形状から鯉口ともいう)をおそるおそるのぞき込みながら、右腕を前につき出すようにして、刀を納める時代劇などみたことがない。

剣には残心というものがあり、敵を倒したとしても、注意力は前方にむけられていなければならなかった。鞘口をのぞき込んでいては、ふいに倒れた者に斬りつけられるかもしれない。

東軍流十七代宗家、タイ捨流の免許皆伝として古流剣術を稽古し、真剣を実際に扱い、歴史学の分野においても、『日本武術・武道大事典』を編纂するなど、武術と刀剣との関わりを深く研究・理解してきた著者が、刀剣のおこり・発達、武人・文人に関するさまざまなエピソードを披瀝する類書なき新書である。

顔を正面にすえたまま、鞘口をみないで、鋒で手や指、腕を傷つけないように、どうすれば納刀できるのか。

時代劇の場数をふんでいない役者の場合は、鞘に納める途中から映す。チャリン、と音をさせて。

すこしキャリアの積んだ役者ならば、左手の親指と人差し指をつかって鋒を手挟み、棟=峰(刃の反対側の部分)が手前になるように、鞘口から刀身を入れていく。

これならば、前を向いていてもできる。

ただ、本当に修行した手練れは、刀身を汗のついた指でさわったりはしない。後の手入れが、日本刀は大変なのだ。

指で挟まずに鞘口に峰の部分をあて、静かに感覚で中へ入れていくのだが、これができる使い手はきわめて少ない。

つまり、剣豪・佐々木小次郎の「物干竿」と呼ばれる刀――あの長い刀を肩にしょって、抜くことはできないし、ましてや、納めることは不可能であった。

いつも思う。日本伝来の古武術と日本刀は実によく似た宿命を負っている、と。

■戦場でもほとんど役に立たない
“一朝ことあるときのために”――武術は日々、鍛錬されるのだが、今の世の中にはまずもって、身辺に迫るあやうい事態など、そうそう出くわすものではない。

実践のなかで技を使えば、逮捕され、相手の治療費を請求される。日本刀も同じだ。第一、腰に刀を差して歩けば、それだけでつかまってしまう。

というよりも、この日本独特の武器=日本刀は、一度として戦場で主要の武器になったことはなかった。

圧倒的殺傷性をもつのが弓(のちには鉄砲)で、これが戦場全体の60%となる。それに次いだのは薙刀(のち槍)で20%、では次にこそ刀が来るかと思えば、残念ながら3位は投石であった。

日本刀の戦場における殺傷率は、10%にもとどいていない。切腹や斬首のイメージが強いから、よほど活躍したように思われてきたのだろうが……。

江戸時代、弓や鉄砲はむろん、槍までもが往来を規制され、刀も定寸が定められた。つまり、泰平の時代の日本刀は、日本刀と対決するだけで良く、異種の武器を想定する必要がなくなってしまう。

しかも、一度鞘走れば最後は、斬られなくとも切腹に追い込まれるのが、江戸時代の無言の合意であった(仇討ちは別)。
だから、普段は誰も、日本刀を抜かなかった。無礼討ち=斬り捨て御免、は絵空事でしかなかったのである。

では、この日本刀に神が宿り、日本人の魂などという大それたイメージが定着したのはなぜ、であったのだろうか。すべては歴史の変遷の中に、具体的な答えがあった。

その答えをうけて結論めかしていえば、日本刀は刀身の美しさを、もとの持ち主、刀匠をしのびつつ、時代を思い浮かべながら鑑賞するのが、一番無難で正しい接し方なのかもしれない。

文/加来耕三(歴史家・作家)

日本刀が戦場で「主要な武器」になったことは一度もない! 殺傷率は「投石」以下 知られざる意外な真実 (現代ビジネス) - Yahoo!ニュース 7月24日(日)11時31分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160724-00049214-gendaibiz-soci

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