【1980年】モスクワ五輪【ソ連】

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1: クーベルタン男爵さん 2014/02/26(水) 20:31:10.34
モスクワ五輪

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【2016年大河ドラマ】 真田丸 ◆三一話◆

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【社会】遺骨は上智大学徒兵 死者数百人を出した第二次大戦末期の激戦地、千島・占守島、初の身元確認

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1: 新規スレッド作成依頼168@チンしたモヤシ ★ 2016/08/07(日) 17:28:33.42 ID:CAP_USER9
遺骨は上智大学徒兵 千島・占守島、初の身元確認
東京新聞 2016年8月7日 朝刊
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201608/CK2016080702000121.html

日ソの部隊がそれぞれ少なくとも死者数百人を出した第二次大戦末期の激戦地、千島列島北東端シュムシュ島(占守島、現ロシア領)で昨年夏に収集された遺骨の一柱が北海道小樽市出身の井戸井重市さん=当時(23)=だとDNA鑑定で確認された。
厚生労働省が五日、遺族に伝えた。
占守島の日本兵遺骨はこれまで四十三柱が収集されたが、身元特定は初めて。

ポツダム宣言受諾後、武装解除を進める中で戦いを強いられた戦没者の遺骨が
戦後七十一年を経て初めて故郷に戻る。九月一日に北海道職員を通じて引き渡される。
妹の湊百合子さん(81)は
「あまりにうれしく、言葉にならない。兄自身も喜んでいるだろう」
と話した。
 
同島での戦闘に参加した元兵士や遺族らは
新たな身元確認につながればと期待している。
井戸井さんは上智大(東京)在学中に出征を命じられた。
両親は既に他界したが、出身地の小樽市など北海道では妹や弟が帰りを待っていた。
遺骨はロシアの調査団が発見、昨年十一月に日本側に引き渡した二十七柱のうちの一柱。
「認識票」と呼ばれる兵士の身元を示す金属札と、「井戸井」名の印鑑と一緒に、塹壕(ざんごう)内で見つかったという。
今年六月三十日に厚労省で行われた戦没者遺骨のDNA鑑定人会議で井戸井重市さんと特定された。
 
印鑑などはロシア側が管理しており、日本政府が返還を求めているが、見通しは立っていない。
日ソ中立条約を破棄し一九四五年八月に対日参戦したソ連軍は十八日未明、当時日本領の占守島に上陸。日本軍守備隊と戦闘になった。二十三日に停戦協定が成立した。
 
占守島の遺骨収集は、南方と比べ遅れている。
冷戦の影響で遺骨収集がソ連末期の九〇年までできなかった上、島に一般住民がおらず遺骨の情報が乏しいことや、上陸が制限されていることなどが原因。(共同)

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【話題】縄文時代の人口減少、食の多様性喪失が原因か…中期の約26万1300人が、晩期には約7万5800人と3分の1以下に

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1: ニカワ ★ \(^o^)/ 2016/07/21(木) 02:40:01.65 ID:CAP_USER9
日本の人口は2008年をピークに減少に転じた。日本列島の人口減少は過去にもあり、最初は縄文時代中期(約5300~4300年前)に起きた。気候の寒冷化による食糧難が原因とする説が有力だが、羽生淳子・総合地球環境学研究所教授(米国カリフォルニア大学教授)は、縄文人の食料調達が木の実などの植物質に偏り、多様性を失ったからではないかという仮説を立てている。

約1万6000年前から約2500年前まで続いた縄文時代の人口は、遺跡の数と規模の変化から、早期・前期に増加し、中期に最大となったが、後期、晩期には減少したと考えられている。小山修三・千里文化財団理事長(国立民族学博物館名誉教授)が1984年の『縄文時代』(中公新書)で示した推計によると、中期に約26万1300人だったのが、晩期には約7万5800人と3分の1以下に落ち込んだとされる。

約4300~約4200年前に起きた気候の寒冷化が原因だと多くの研究者が考えているが、寒冷化と人口減少のどちらが先かはっきりせず、因果関係は明確には説明されていない。

狩猟採集社会には、食べ物があるところを探して転々と住まいを変えながら多種多様な食を取るジェネラリスト(万能家)型と、特定の食料を住まいの近くで採ったり、遠くまで出かけて採ったりして貯蔵もするスペシャリスト(専門家)型の二つのタイプがあると考えられている。

スペシャリスト型は、一カ所に定住して、大勢を養うことができるが、自然災害などで主食となる食べ物が得られなくなると壊滅的な打撃を受ける危険性がある。

羽生さんは、縄文社会がジェネラリスト型からスペシャリスト型に移行して弾力性を失ったのが人口減少の原因ではないかと考え、青森市の三内丸山遺跡で検証を試みた。約5900年前(縄文前期中ごろ)から約4300年前(中期終わりごろ)まで約1600年間続き、最盛期には数百人が住んでいたとみられる大集落だ。

三内丸山遺跡では600軒以上の住居跡が見つかっている。そのうち型式のわかる土器が出土した住居跡の数を土器型式で時期ごとに分けると、約4900年前(中期中ごろ)に70軒以上と最も多くなり、その後、急激に減少する。

それとともに、それまで集落で祭祀(さいし)に使われたと考えられる土偶も姿を消す。この時期に集落の居住者が少なくなり、祭祀も絶えたことがわかる。三内丸山では、気候が寒冷化した時期より約600年早く、人口減少が始まっていた。

時期ごとに使われた石器の種類を調べると、興味深い事実が浮かんだ。三内丸山に人が住み始めたころには、石匙(いしさじ)と呼ばれる取っ手付きの石のナイフが最も多い。狩りで仕留めた獲物や魚を切りさばくのに使ったと考えられている。2番目に多い石錐(いしきり)は、獣皮や樹皮に穴を開ける工具、3番目に多い石鏃(せきぞく)はやじりで、いずれも動物の捕獲や加工に関連する道具だ。

その後、木の実などの植物をすりつぶす磨石(すりいし)が使われるようになり、住居跡の数がピークを迎える直前の時期には、磨石が石器の半数以上を占めるようになる。磨石があまり使われなくなってしばらくすると、住居跡が急減した。

中心となった石器の用途から三内丸山の人々の食料を推測すると、はじめは動物食が主体で、次第に木の実などの植物食が多くなり、人口が増えたが、特定の植物食に頼りすぎた結果、環境変化に対応できず、集落の食料調達システムが崩壊して、大規模集落を維持できなくなったと解釈できる。

羽生さんは引き続き、三内丸山の人々が実際に何を食べていたのか、気候変動の具体的な影響があったのかなどを共同研究で探究している。「一極集中」が原因かもしれない縄文集落の繁栄と衰亡は、現代社会にも問題を投げかける。

http://mainichi.jp/articles/20160720/dde/018/040/068000c
関連記事【考古学】縄文人の人口減は偏食原因か 食の多様性失い変化に弱く

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撤退戦!

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1: 世界@名無史さん 2015/10/24(土) 17:23:03.38 0
撤退戦は難しい。

手取川の戦いのように撤退後に先が見える撤退戦ばかりではない。先が見えない撤退戦はつらい。そんな撤退戦をある程度成功させ、事態をソフトランディングさせた事例を挙げてみよう。

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字(あざな)の起源

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1: 無名武将@お腹せっぷく 2008/07/30(水) 00:23:47
三国志の人物には殆んど字(あざな)があるけど、字(あざな)をつける習慣っていつ頃始まったんだろう

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【国際】英女王エリザベス1世の肖像画、流出阻止=募金14億円集まる

1: 名無しのひみつ@\(^o^)/ 2016/07/31(日) 02:22:23.42 ID:CAP_USER9
英女王エリザベス1世の肖像画「アルマダ・ポートレート」=29日、ロンドン(AFP=時事)
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【ロンドンAFP=時事】英女王エリザベス1世(1533~1603)を描いた油絵の国外流出を阻止するため、王立グリニッジ博物館が中心となって募金活動を実施したところ、1030万ポンド(約14億円)が集まった。博物館側は所有者から絵を買い取り、流出は免れた。競売商クリスティーズが29日明らかにした。

この油絵は、英海軍によるスペイン無敵艦隊(アルマダ)撃破を祝い、1590年ごろ描かれた女王の等身大の肖像画で、「アルマダ・ポートレート」と呼ばれている。金色の刺しゅうや宝石で飾られたドレス姿で地球儀に手を置く女王の後方には、嵐で難破する無敵艦隊も描かれている。作者は不明。

無敵艦隊との海戦を勝利へ導いた英海軍のドレーク提督の子孫が絵を所有してきたが、売却を決めたところ、募金活動が始まった。絵は同博物館の一角を占めるロンドンのクイーンズ・ハウスに展示される見通し。

アルマダ・ポートレートは今回の絵を含め3枚が現存し、いずれも英国内にある。(2016/07/30-06:02)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016073000057

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◆小ネタ◆子供に世界史ゆかりの命名をしたいのですが

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1: 世界@名無史さん 2006/09/18(月) 21:55:35 0
どんな名前がいいでしょうか。

働き者に ⇒ 康熙(やすひろ)
無敵の漢 ⇒ 鉄(テムジンとティムールの訳で)

募る、名案!

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もし関ヶ原の戦いで西軍が勝っていたら・・・

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1: 人間七七四年 2015/03/16(月) 00:54:40.54 ID:cUQ9nX1P
西軍総大将の毛利輝元が天下をとって“毛利幕府”になっていたと思う?
あと、徳川家康の処分はどうなっていた?
処刑?切腹?戦死?
豊臣家の行く末はどうなるのか

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【愛知】「近世日本の礎を築いたという自負が強かった」 旧刈谷藩主8家当主ら集結 単行本出版記念、先祖の逸話など語る

1: ニカワ ★ \(^o^)/2016/08/05(金) 04:08:19.46 ID:CAP_USER9
出版記念会で顔をそろえた旧刈谷藩主8家の当主ら=刈谷市で
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 江戸時代に刈谷藩主を務めた9家のうち8家の当主らが全国から刈谷市に集まり、旧刈谷藩への思いや先祖の逸話を語り合った。旧刈谷藩士の末裔(まつえい)でつくる「刈谷頌和(しょうわ)会」が開いた、単行本「シリーズ藩物語・刈谷藩」(舟久保藍著、現代書館発行)の出版記念会の一コマで、市民ら約200人が耳を傾けた。

 8家は徳川家康の生母・於大の出身家で、初代藩主を務めた家康のいとこ・水野勝成の水野宗家をはじめ、江戸中期から明治初期まで約120年間治めた土井家、家康と異父兄弟だった久松松平家、さらに深溝(ふこうず)松平家や山形水野家、稲垣家、阿部家、本多家。各当主とも30~70代で各家の20代目前後にあたる。

 当主らは旧刈谷藩について、「於大の方の在所であり、江戸幕府への心遣いは想像以上」「刈谷藩を経て出世する子孫が目立った」「近世日本の礎を築いたという自負が強かった」などと指摘。先祖にまつわる逸話として「戦での勇み足から家康公に前へ出るなとしかられた」「酒が入ると、人前で踊る癖があった」「時代の風潮に従わない反骨精神が旺盛だった」などを披露した。また、著者の舟久保さんが「歴史からみる刈谷の地域性」をテーマに講演し、「乱世を生き抜いた三河の質実剛健の精神が残り、時代の変化に敏感で、ぶれない1本の筋がある」と述べた。

 会場には徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんから「刈谷藩は徳川幕府の重要地点だった」というメッセージが寄せられた。竹中良則市長も同席し、「旧刈谷藩の歴史を誇りに、今後の新しい街づくりに努めたい」と強調した。【安間教雄】

http://mainichi.jp/articles/20160804/ddl/k23/040/186000c

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