1: ちくわ ★ 2019/12/29(日) 11:19:30.95 ID:C6oPs28+9

1944年12月、ドイツ軍は追い詰められていた。同年6月のノルマンディー上陸以降、連合軍はヨーロッパで快進撃を続け、ドイツ国境まであと一歩というところへ迫っていたが、その頃はもう何週間もヒトラーの軍と本格的な戦闘を交えていなかった。
ベルギーのアルデンヌの森で、仲間とともにいた米軍歩兵のクリス・カラワン氏は、道に迷ったと思われる2人のドイツ兵を捕らえた。そのうちのひとりは、ほぼ完璧な英語を話した。
「今すぐここを撤退した方が身のためだぞ」。そのドイツ人はカラワン氏に警告した。「お前らを海へ追い落とそうと準備中なんだ」
カラワン氏らはこの警告を上官に伝えたが、取り合ってもらえなかったという。負け犬が大きな口を叩いているだけだと、鼻で笑われた。国境の向こうの森で機械音が鳴り響いていたが、それは第三帝国(ナチス・ドイツ)が退却する音であり、ヒトラーはもう終わったと考えていたのだ。
そして迎えた12月16日の朝のこと。
「まず、強烈な迫撃砲弾の雨が降ってきました」。カラワン氏はそう振り返る。木々の向こうに隠されていた1900台の迫撃砲による猛攻撃が、90分間続いたという。
「第2次世界大戦のなかでも、最も激しい集中砲火だったと思います」と語るのは、75年前に起こったバルジの戦いを記録した『The Longest Winter(最も長い冬)』の著者アレックス・カーショウ氏だ。「大地を揺るがす、衝撃的な戦いでした」
今年94歳になったカラワン氏は、米サウスカロライナ州コロンビアにある自宅のソファーに座り、反対側に座る74歳の妻アルマさんへ向かって小さく微笑んだ。しかし、その時カラワン氏の目に映っていたのは、20歳のあの日に目にした光景だったのだろう。近代戦上、最大規模の激戦を前にして、若い兵士は恐怖に打ち震えていただろう。
「その次は、機関銃掃射の嵐です。ヒトラーの全軍が一斉に森から飛び出してきたように感じました」
「機関銃掃射の嵐」というカラワン氏の表現は、あながち間違いではない。森の向こうには、実際に40万人以上のドイツ兵と約1400台の戦車が潜んでいたからだ。ソビエト戦線が敗色濃厚となった当時、ヒトラーはアルデンヌで奇襲攻撃を仕掛けて連合軍を分断し、アントワープの港までの道を確保しようとする賭けに出たのだ。
港まで到達すれば、崖っぷちにあったドイツ軍にとって一番必要な物資が手に入る。事実、戦車の燃料が底を尽きかけていた。作戦がうまく行って連合軍を包囲できれば、ドイツに有利な平和条約が引き出せると考えていたのだ。
油断していた連合軍は、このとき戦闘準備がまるで整っていなかった。
「このときの西部戦線は、イギリス海峡からイタリアまで伸びる長いものでした。連合国側も人員から装備まで何もかも不足していたのです」と、カーショウ氏は言う。
前線の中央に配備されていた第106歩兵師団の2連隊は、あっという間に壊滅し、生き残った兵士は捕虜として捕らえられた。このとき捕虜となった兵士のなかには、若き日の作家カート・ヴォネガットもいる。当時の過酷な体験から生まれたのが、有名な『スローターハウス5』という小説だ。
※略
翌45年1月1日までに戦いの流れは変わったが、戦闘は1月24日まで続いた。この戦いで、米軍には1万9000人の死者が出ている。ドイツ軍は、連合軍の戦線を一部突破したものの、それ以上前進することはなかった。ナチスの勢いは、連合軍の反撃で失速し、アントワープで手に入れたかった物資を得ることもできず、最後の力を使い果たした。
バルジの戦いは、追い詰められて土壇場で巻き返しを狙ったヒトラーの最大の抵抗だったと、著者のカーショウ氏は語る。
「戦争とは、次に何が起こるのか予想ができないものです。でも、ナチスの作戦はリスクの高い賭けでした。賭けが成功するためには運が味方する必要もありましたが、結局ナチスの命運は尽きたのです」
文=BILL NEWCOTT/訳=ルーバー荒井ハンナ
※全文はソースで
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191229-00010000-nknatiogeo-eurp
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