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1: 日本@名無史さん 2006/04/19 15:18:07
例えば、武田信玄の上洛作戦での織田信長絶体絶命説とか、
考えてみると、思い当たることいろいろあるだろ。

3: 日本@名無史さん 2006/04/19 16:30:17
家康腹黒説かな
権謀術数を使ったと解釈できるようなの晩年に少々だし、配下が集まってからだから。
集まるまでは戦以外では真っ向勝負というか定石ばかり行ってる感じだし

4: 日本@名無史さん 2006/04/19 17:26:08
武田騎馬隊の存在

豪族よせあつめの武田家でそんな編制は無理。

5: 日本@名無史さん 2006/04/19 18:49:46
そりゃ明智光秀だろ。
三日天下でソッコー秀吉に敗北、
そんなに馬鹿じゃないっつうの。
桔梗紋は生き続けてた

6: 日本@名無史さん 2006/04/19 20:48:41
戦国時代の幕府・朝廷無力説
有名無実とか言われてるけど近畿以外の地域ではまだ利用されてるし。
関東なんて古河公方が付いた方が人が集まったり、士気が上がったという話もある。

7: 日本@名無史さん 2006/04/20 13:02:28
今川義元無能説

12: 日本@名無史さん 2006/04/20 17:08:39
>>7
今川は有能だけどデブ

9: 日本@名無史さん 2006/04/20 14:39:06
倭の五王が大和朝廷に繋がっているという説
ばらばらな気がするし、単に中国伝説の帝を真似ているように思えるので

14: 日本@名無史さん 2006/04/20 18:11:09
聖徳太子の有能説、主導改革説
蘇我氏の力と影響力を考慮し、また当時の朝廷の構造を考えるとほぼ不可能と思われるから

26: 日本@名無史さん 2006/04/21 23:44:59
>>14
権力構造のバランス感覚に優れていて、有能であった推古天皇が聖徳太子の
後見人でなかったら、聖徳太子の改革は不可能だったと思う。

31: 日本@名無史さん 2006/04/22 03:10:38
>>26 当時の朝廷の構造を考えると推古天皇が後見人として働いていたかも疑わしい。
大豪族の蘇我氏が聖徳太子を引き立て改革を断行したと。
その際に推古天皇は蘇我氏の賛同者で名分的に協力した程度に思われるので

15: 日本@名無史さん 2006/04/20 18:24:29
平将門の乱の主犯が将門であること
朝廷の対応が攻勢的だったり、朝廷内部に主犯が居て隠そうとしたように思うので
増して将門の都での働きとか調べると勝手にあんな大事起こせそうに無いから

33: 日本@名無史さん 2006/04/22 17:24:32
>>15かなり前に話題に出てた奴か?藤原忠平陰謀説とかの。

真田幸村名将説
父や兄の逸話は残っているが、幸村については皆無。
後世の物語でしか語られていないから、

10: 日本@名無史さん 2006/04/20 15:45:22
小説やドラマでよく源義経が軍神のように扱われているが、
明らかにただのばくち打ちです。

11: 日本@名無史さん 2006/04/20 16:16:59
藤原不比等は本当に中臣鎌足の子供なのか?
鎌足は本当に大化の改新の立役者なのか?そもそも実在したのか?
中大兄皇子はほんとうに皇太子なのか?
大海部などは本当に皇族なのか?
道教は悪い野心家で巨根だったのか?

19: 日本@名無史さん 2006/04/20 22:07:54
天皇家が明治までは仏教徒だったってこと
2ちゃんで気づかされたが言われてみれば仏・法・僧を尊び大仏に国の安全を託し寺を建てて仏に仕えてる。
法王は寺で政務をとり頭を丸めてる。
明治になるまでは仏教は一向宗などの巨大な勢力を築いたが神道(古神道)では自然信仰の習俗でしかなく小さな勢力にもならない。
みんな明治からできた国家神道が日本古来のものと勘違いしてるし神道は本来、山や動物などの自然の中に神が宿るもので昔話に残るその土地での神。
天照なんて中央集権的な存在は日本の歴史と人々が明治までは受け入れなかったのだという事。

828: 日本@名無史さん 2009/07/11 18:43:02
>>19
>天照なんて中央集権的な存在は日本の歴史と人々が明治までは受け入れなかったのだという事。
江戸時代の人はお伊勢参りなんかしなかった訳だ。



23: 邪馬台国侍 ◆G5PYesuXOc 2006/04/21 08:07:40
戦前には国家神道なる不思議な宗教が存在したというデマ。
権力による神社の管理監督は太古から続いているし、
諸外国でも最大勢力の宗教は国家の統制下にあるものだが、
そんな本来、精緻な審議比較の必要なトピックについて、
国家神道なる造語で解った気になってる思考停止君が多い。

24: 日本@名無史さん 2006/04/21 10:10:49
当時は国家神道は宗教ではないという建前になってたんだよな。

30: 日本@名無史さん 2006/04/22 01:49:30
ともかく、天皇の神道専修回帰は明治維新後。
ただし、大教宣布が行われた明治天皇の時代でも
天皇の仏寺行幸とか頻繁に行われており、まだ仏教とは切れていません。
昭和天皇の話では大正天皇は漢籍に強く、
仏典の一節なども諳んじていたとのことなので、
実際に神道純粋培養の天皇は今の代からとも言えますね。

35: 32 2006/04/22 20:04:35
今川義元上洛説

織田信長、武田信玄のように、大義名分たる将軍からの上洛要請がない。
今川家の出陣関係資料にも上洛に関する文言が見当たらない。

36: 32 2006/04/22 20:11:54
今、思い出したけど、足利一族内では、
「足利が倒れた時は、吉良が立て、吉良が倒れた時は、今川が立て。」
と言われていた。当時、将軍家、吉良家も没落していたことも、
今川義元上洛説の根拠になったのかも。

37: 日本@名無史さん 2006/04/23 22:01:50
足利将軍家に次いで家格が高かったのは斯波氏。
斯波氏は鎌倉時代は本家の代理も務めていたしな

41: 日本@名無史さん 2006/04/24 10:25:06
>>37
理由はわからないが、室町時代に足利一門内で、家格順位が逆転
したんじゃないかな。斯波は管領家になる時、「そんな仕事は、家臣
である細川や畠山の仕事だ。」って、愚痴をこぼしたって本で読んだけどな。

44: 日本@名無史さん 2006/04/24 20:08:54
楽市楽座など、信長の政策。
鶴の一声でがらっと世の中変わるほど簡単じゃない。

54: 日本@名無史さん 2006/04/25 14:24:40
豊臣秀吉の存在。
複数の人間が、相まって豊臣秀吉になってしまったのでは
ないか? と今でも疑っている。
学生時代に真剣に調べ初めて早20年・・・
確証が掴めない。

55: 日本@名無史さん 2006/04/25 17:41:16
それよか石田三成の軍師島左近の存在の方が疑わしいわな。
三成って意外にも戦闘能力は優れていたほうだったというけど、
その理由に島左近がいたことに江戸幕府が捏造したんじゃないか。
だから左近の出自も名前もその後も全く不明になっている。

56: 日本@名無史さん 2006/04/25 19:30:25
>>55
左近の出自?
筒井家臣の大和平群谷の島家だろ?違うのか?

59: 世界@名無史さん 2006/04/26 12:46:11
>>56
ごめん「経歴」だった
本によっては筒井以外の家臣になり活躍した話が出てきたような気がするんで

57: 日本@名無史さん 2006/04/25 21:21:34
源平時代の戦作法
戦前に名乗りを上げるくらいならともかく、矢戦をしといて一騎打ちで決めるなんてあり得ん
恩賞の報告システム上、武将クラスに戦功を集めるための形式としか思えない

63: 平民バカ 2006/04/30 00:45:01
日本が近代に至るまで中国より遅れていたという説。
俺は菅公の頃ぐらいになるとチャイニーズを見下してすらいたと思う。

64: 平民バカ 2006/04/30 00:48:11
邪馬台国の存在
魏志東夷伝はファンタジー小説。

68: 日本@名無史さん 2006/04/30 02:45:52
大和が沖縄へ片道燃料で行ったとかタンクに半分しか燃料が入ってなかった。という与太話。
タンクに半分あれば布哇迄行けるし、経済航行と戦闘航行では燃費が全く違う。

70: 日本@名無史さん 2006/04/30 12:14:00
特攻隊美談
曽祖父が特攻隊員だったけど
出撃後みんなと打ち合わせて不時着して米軍に投降した。
見送り機というのがついて来るんだけど不時着しても見てみぬふり。
特攻隊の生き残りって実は案外多い。出撃したが無念の不時着と言うが大半は自発的投降みたいだ
でも曽祖父がそこで【生】を選んでくれなかったら俺の今は無いわけだから正しい決断。
一億玉砕していたら今の日本が無いのと同じ。

78: 日本@名無史さん 2006/04/30 14:03:27
戦争美談といえば
ラッパ手の木口小平の話

銃弾を受けて即死してもラッパを口から放さずというのは、医学的ありえないと結論が出ていたらしいね
木口小平自身も実はラッパ手でなかったという分析もでている
木口 小平

木口 小平(きぐち こへい、明治5年8月8日(1872年9月10日) - 1894年(明治27年)7月29日)は、日清戦争で戦死した日本陸軍兵士。

ラッパ手として、死しても口からラッパを離さなかったとされた。
その逸話は明治35年から昭和20年まで小学校の修身教科書に掲載され、戦前の日本においては広く知られた英雄であった。



94: 日本@名無史さん 2006/05/05 14:11:14
木口小兵太の美談については俺も疑っている
そこらへんの生存兵が
死後硬直した死体に転がっていたラッパをつけて美談にしたてたとか
あるいは、そもそも話し自体が美談なのか。
ラッパ手自体がはっきりしていないし、二転三転もするから疑わしいんだよね

79: 日本@名無史さん 2006/04/30 14:05:26
ついでに弁慶の立ち往生も医学的にありえん

91: 日本@名無史さん 2006/05/02 13:51:38
赤穂浪士での吉良悪人説
業績や他での評判見るととても信じられん。

99: 日本@名無史さん 2006/05/05 21:24:13
>>91
一応マジレスすると
吉良の業績も結構捏造が多い
特に、この人、江戸に単身赴任している時期が多くて
地元の政治には殆ど関わってないので、地元では良政だったとかそういった話は同情的な作り話とみていいかも

93: 日本@名無史さん 2006/05/05 01:25:22
赤穂浪士の討ち入りを昔から怪しいと思っていました。
どう考えても義士などでなく、老人へのリンチにしか思えなかった。

97: 日本@名無史さん 2006/05/05 14:40:07
五公五民

計算が合わん。

武士は農民の8倍くらい飯を食わないといけない。成人病になる。

102: 日本@名無史さん 2006/05/06 01:26:41
>>97
武士は徴収した米を全部食ってるわけでなく金に替えて生活費等にしてるわけだが

122: 日本@名無史さん 2006/06/01 15:22:34
鎌倉幕府に活躍した北条氏。
先祖は近畿地方から流れてきた素性のしれない者。
桓武平氏高望流の平直方を祖とすると称するが、ウソだろう。
その流れ者が伊豆地方の農民を組織して、沼地や森林を開拓していった。
土地を開発し、経済力も蓄え、だんだんと大きくなっていった。
そこに転がってきたのが、源氏の貴種「源頼朝」。
北条時政はこの「源頼朝」という駒をどう利用するか考えた。
この「頼朝」という駒を使って関東を支配できるのかと考えた。
時政が頼朝に協力したのは、優れた先見性があったからであると言われている。

135: 日本@名無史さん 2006/06/02 22:21:38
昔の日本人はナンバ歩きしていた説
近代になって西洋式軍隊行進するようになってから今のように歩けるようになったって説だが
軍隊式行進なんて習っていない赤ちゃんでもハイハイする時に右左交互にしているから絶対に嘘だろ
ナンバ走り

ナンバ走り(ナンバばしり)は、「ナンバ」をもとに研究された走り方である。なんば走りとも表記される。

日本の江戸時代飛脚の走り方といわれており、これにより飛脚は1日に数十km、場合によって100km以上を走ることが出来たとされるが、その走法は失伝しているためその真偽は不明である。

ナンバ走りの走り方の基本は「右手と右足、左手と左足を同時に出す」ところであるが、飛脚の走り方は当然映像などは残っていないため推測することしかできず、実際に飛脚がそのように走っていたのかについては見解が分かれている。



136: 日本@名無史さん 2006/06/02 22:24:06
>>135

知ってる!!
江戸時代の日本人はナンバ歩きで、走る時は両手を挙げていたんだろ!!

137: 日本@名無史さん 2006/06/02 22:28:03
>>136
歩くときに右腕と右足が前に出て、次に左腕と左足を前に出すという歩き方らしいけどね
そんな器用な事できるかよw?
走る時は聞いてなかった

155: 日本@名無史さん 2006/06/03 02:20:04
>>135
着物(和服)だとナンバ歩きのほうが歩きやすいからじゃなかったっけ?

179: 日本@名無史さん 2006/06/03 18:15:54
否定する日本史の通説

長篠の戦いとは大まかに言って織田軍と徳川軍の連合軍の鉄砲隊が3000挺の鉄砲で三段打ちを行い、勇猛で知られる甲斐(山梨県)の武田軍の騎馬隊を壊滅させた戦いといわれている。

しかし、「鉄砲で三段打ち」も「武田騎馬隊」も存在しなかったというのは通説らしいですが、どうでしょうか?

192: 日本@名無史さん 2006/06/03 19:17:35
>>179

まず鉄砲三千なのだが、これは現在では一千丁程度だったのではないかというのが定説になっている。
鉄砲の数を三千と記しているのは小瀬補安が江戸時代に書いた『信長記』だけである。
信頼に足る資料には鉄砲衆一千がかき集められたと書かれているのである。
つまり鉄砲衆は諸国の大名からかき集められた混成部隊であり、交代で射撃するなどという戦法の訓練を受けられたはずがないのである。

そして長篠の戦いが実は八時間に及ぶ激闘だった事も重要なポイントである。
例えば、八時間の戦いの内の半分の四時間射撃をしていたとして弾丸の数と火薬の量はいったいどれほどになるのだろう。
1分で一発発射したとして四時間で240発。
火薬の量も半端ではないだろう。
それだけの弾丸を鉄砲足軽ひとりひとりが持っていたとは考えづらいのではないだろうか。
しかも銃身そのものも、当時の鉄砲の銃身がそれだけの長時間射撃に耐えられたとは思えない。
そう考えると鉄砲はピンポイントで使用されただけであって、戦いそのものはオーソドックスな白兵戦が行われていたのではないだろうか。
つまり戦いの経緯は『長篠合戦図屏風』で描かれている通り、槍兵が馬防柵の前で武田軍と一定の戦いを行い柵の近くに誘い込んだ後鉄砲隊が射撃を行い武田軍が退却、
というのが延々と八時間繰り返されたのではないだろうか。

194: 日本@名無史さん 2006/06/03 19:21:34
そういえば一斉射撃は意味が無いというのも聞いたことがある
一斉射撃にすると準備の一番遅い射撃手に合わせる必要があるので非合理的だというのだ

202: 日本@名無史さん 2006/06/03 19:53:20
>>194

弾幕射撃(一斉射撃)というのは確かに効果的で世界史的にみても長城の戦いの15年後にオランダで使用されそれなりに効果があったらしいですが、
但し実用化するにはまず大量の鉄砲、そして統一的な訓練が必要なわけで、オランダの例はそれらを行えるだけの資金的・時間的な余裕があったからです。

一方信長の場合は、鉄砲それ自体は早くから注目していたようで(但しこれはどの戦国大名も同じ)資金も豊富ですから数も多く所有していたようですが、
当時の信長にはそちらにまわせるだけの余裕はなかったと言われており
最近の定説では1000挺ぐらいとされています。
実際の使われ方については、鉄砲の上手い兵士に従者を何人かつけて、撃つ人、弾込める人、火薬詰める人と役割を分けることで少しでも効率を良くしようとしていたようではありますが、
これは雑賀衆など従来から行われていた方法です。

197: 日本@名無史さん 2006/06/03 19:27:53
長篠の戦いで勝敗を決したのは、戦術面では鉄砲より野戦築城が大きいと思います。
織田・徳川軍が野戦築城したため、防御力が上がったのです。

ちなみに、このことを学習したのは、豊臣秀吉と徳川家康です。
後の小牧・長久手の戦いでは、双方とも野戦築城したため、正面決戦ができなくなりました。
(しびれを切らした秀吉が陣地を出て迂回攻撃に出ますが、それを見破った徳川家康に、あっけなく撃破されています)

あと作戦面では、鳶ノ巣砦の攻略が大きかったと思われます。

342: 日本@名無史さん 2006/06/15 23:53:45
織田信長革命家説
織田信長優秀説

ただ運の良い癇癪持ちで、組織作りがまるでダメな凡将だと思う

351: 日本@名無史さん 2006/06/20 16:16:02
武功夜話の問題性と偽書説
しかしながら、前野家文書の史料性については、疑問が提示されている。
例えば、昭和29年の町村合併で初めてできた合成地名のような、明治以前には存在しなかった地名が散見されるなど、
用語・固有名詞や記述などに時代を超越した言葉が現れること、
当事者である前野一族の覚書をもとにしているにも関わらず、他の同時代に書かれた複数の根本的な史料と致命的な食い違いがみられることなどの矛盾点がある。

また、前野家文書は非公開とされ、原文はおろか、その写真さえ公開されず、発見以来40年以上経過しているにもかかわらず専門家による検証がなされておらず、
現在ではほぼ偽書と断定されている。

学会からは完全に無視されており、学術論文等に使用することは避けるべきである。

357: 日本@名無史さん 2006/06/25 19:58:59
武功夜話は昭和になって書かれたことが最近わかってきている。

369: 日本@名無史さん 2006/07/02 11:03:56
昭和ってことはないだろうねぇ。
だが、偽書である事は間違いない事だろうねぇ。

451: 日本@名無史さん 2006/08/20 22:24:44
昔からではないが、ふと、清正とか浅野幸長とかあの辺は全員暗殺じゃないの?と思った。
歴史上、病死ということになってる暗殺毒殺のケースって一体どれくらいあるんだろうな。

478: 日本@名無史さん 2006/11/18 04:01:16
秀頼が秀吉の息子

486: 日本@名無史さん 2006/12/10 21:35:59
田沼意次

田沼恋しき

って有名な狂歌が残ってるのに
一昔前までは汚職侍の代名詞


なんだかね

487: 日本@名無史さん 2006/12/11 06:00:03
もとの濁りの田沼

濁っていたんだから汚職だろ

491: 日本@名無史さん 2006/12/11 11:36:00
>>487
田沼=汚職政治家ってのは松平定信が田沼一派を失脚させる際に
プロパガンダとして流布させたもので、一般庶民もそう思ってたってこと。

それを元に、辻善之助が田沼に批判的な論文を書いたことでイメージが定着した。

490: 日本@名無史さん 2006/12/11 11:24:17
一般庶民の狂歌なんだから、どっちの側ってこともないと思いますが

492: 日本@名無史さん 2006/12/11 14:19:47
要するに一般庶民の生活的には田沼治世のが気楽に暮らせたってこったろ

それが全てとは思わないがさ

514: 日本@名無史さん 2007/02/26 01:22:53
大昔の貴人は空を飛んだ

556: 日本@名無史さん 2007/09/08 06:32:40
>>514
役小角のことか?
役小角


役 小角


役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。
姓は君。修験道の開祖とされている。後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになった。
 
実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。




553: 日本@名無史さん 2007/09/07 04:30:31
佐賀藩製造のアームストロング砲。

555: 日本@名無史さん 2007/09/08 04:46:24
士農工商だな。
豪商が百姓に分類されていたりする。

557: 日本@名無史さん 2007/09/08 11:40:41
>>555
ここでいう百姓ってのは農民のこと?
農民が豪商でも特に不思議は感じないが

558: 日本@名無史さん 2007/09/08 14:31:07
>>557
全然農業をしない豪商の身分が「百姓」になっていた例があるから、
士農工商制度って実は無かったのではないかと

559: 日本@名無史さん 2007/09/08 16:38:50
幕府や藩という呼称や 士農工商制度は 明治になってから徳川時代の
呼称や制度を指して言うようになったと聞いたことがある。

566: 日本@名無史さん 2007/09/08 19:57:42
戦国時代の戦
俺が兵士ならビビって逃げる
よって戦なんてしてない



引用http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1145427487/l50


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ストックが尽きれば更新が停止するかもしれません。



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