51q1+1L26qL (2)



1: 世界@名無史さん
後漢末に限られたことではありませんが、ザハーロフの「支那人口の歴史的考察」(正史を典拠)によると、中国史では王朝が交代する大動乱がある都度に、大陸人口が半数から酷い時には数分の一に激減したとされています。

ことに、黄巾の乱後に纏わる人口激減は際立って顕著であったようで、後漢末永寿三年(156年)に5006万人を数えた十三州の総人口が、三国期242年頃には三国合わせても僅か762万人となるにまで減っており、明帝(曹叡)年間の杜恕・陳群・蒋済それぞれの意見書、及び以後の皇輔弼・朱照日らの発言録にも、十三州併せても後漢末の二州に満たない、などとした、いかにも人口問題の深刻さを示唆する記述がみられることなどから、俄な信憑性を感じるのですが、もしこれらが本当であるとしたら、往時はホロコーストやロシア革命以上に戦々恐々とした時代であったという、「三国志」などからは到底垣間見ることのできない非情で陰惨な一面を持っていたことになります。

果たして、この「後漢末・三国時代の人口大激減」は信じてもよいのでしょうか。








2: 世界@名無史さん
中国の王朝交代期に勃発する戦乱は、陳勝・呉広~楚漢の攻防、赤眉・緑林~光武帝即位、隋末の乱~李世民の大陸統一など、大抵のものがいずれもあしかけ5年足らずで終息しているのに、三国期に限って黄巾から晋統一まで前後100年と異様に長引いていたり(端例を挙げると、曹操は官渡に大勝して大勢が決めたにも関わらず、その後の袁兄弟討伐に7年を要するなど、他の時代の戦乱平定ペースからはおよそ考えられない不可解な点が多い)、この頃から漢字発音の伝統が危殆に瀕して韻書が制定されたり、あるいは魏呉蜀がそれぞれ競って辺境異民族を、中華地帯に移住させる政策を始めたり、またはその後異民族が、一たび漢族に勝利するや大陸に無数の独自の国家を築いてしまったりと(西周、前漢、新時代にも周辺異民族が中華国家に大勝を収める事件は幾度もあったが、いずれもが漢土に国家を設けるには至っていない)、人口の大激減を仮定すれば簡単に説明のつく事実が無数に目に付くのですが、いかがでしょうか。

以前から、三国志に深い興味を寄せていた私ですが、先日(山川出版)「漢民族と中国社会」をきっかけに幾点かの関連した文献を読みだすに及び、既成の三国志観が大きく揺らいでいます。歴史に未知な私ですが他の方の後学にもなると思いますゆえ、少しでも知識をお持ちの方、どうかご意見、お願したいと思います。

7: 世界@名無史さん
ただ単に、戸籍に載ってる数が減っただけでしょ?

10: 世界@名無史さん
>>7
多額の出費を要する移住政策まで推し進めた、あの有能な魏・晋王朝がそうした人たちを放置しておいたはずがないと思います。
統計が取られたのは、242年、流民の大半は戸籍に編入されていたはずです。

11: 世界@名無史さん
それでも、なおあの数値だったから、頭を痛めたのでしょう。
本当に十分の一強に激減したとは思いませんが、半減することくらいはあったと思われます。その後の、五胡十六国の到来を見ても。

13: 世界@名無史さん
豪族による囲い込み

15: 世界@名無史さん
>>13
それなら、後漢時代からあったような。
なのに、あまりにも差が顕著。

14: 世界@名無史さん
「繁栄」は歴史に残るけど、「衰退」や「滅亡」は書かれないことが多いからねぇ。
史書に残らずに、いつの間にか消えている国、文明は沢山あるね。

19: 世界@名無史さん
戸籍外の人間が増えたのは間違い無いと思うけど、少なくとも魏王朝の支配地域では漢と同程度の戸籍調査は行われただろうと思う。

その結果で物凄い人口激減だから、実際に相当数の減少があったと思う。
まさか、新の名前二文字制度の影響で同姓同名が多くて減ったとかそういう事はないだろう(w

20: 世界@名無史さん
国家が人口を把握出来なくなった、というレベルの他に、生物学的に激減したという次元も確かにあるように思うな。

前近代の農業社会はある意味生存ギリギリのところでやってるから、戦乱などでシステムが壊れると、二次的に起こる飢饉・疫病には脆弱だったんじゃないか。近世ヨーロッパでも1割程度なら考え得ると思う。
高度な福祉社会に生きてる我々にはいまいちピンと来ない点かもしれないが。

21: 世界@名無史さん
>2が言うように、東漢末~三国期の戦乱は長期に渡っている。
中国の兵は古来、(例外もあるが)規律が悪く、下手すれば討伐すべき流賊のたぐいよりも、討伐に来た官軍の方が民衆に対して略奪暴行が激しかったりすることも珍しくない。
兵による略奪が激しければ、民衆は食っていけなくなるので、流賊となり、その流賊がまた別の地域を襲う。その討伐のためにまた兵が送られ、その兵が略奪をするという悪循環に陥る。

結局、そういう地域の民衆は、殺されるか、餓死するか、自分が略奪する側に回るか、さもなくば安全な地を求めて大移動するほかはない。三国志で民衆が劉備についていったのは、別に劉備という人間を慕ってのことではなく、単に戦火と略奪を嫌って移動しようとしたのにすぎないのだ。

死亡した者が多いのも事実だろうが、こうした移動によって戸籍調査にとらえきれなくなった者も多いはずである。魏晋の戸籍調査は充分信用できるというのが>1氏の意見のようだが、呉、蜀漢に関してはどうか? 中原にいられなくなった民が目指したのは、こういった当時の辺境のはずである。特に、江南は、豪族の力が強く、流民を自分の領地の労働者として吸収しただろう。この頃から江南が発展していくのも見逃せない。
戸籍の数字に載らない民衆が主に南へのがれたのが、後の南朝諸朝の繁栄の基盤となったのではあるまいか。

23: 世界@名無史さん
>>21
だとすると南朝が常に北朝に対して軍事的に劣勢であったのはどういう事なんだろ?
当時は人口=軍事力だから南が北を併呑できると思うのだが、間違ってる?

それと蜀や呉は常に兵力不足に悩まされていて、異民族を攫いに出かけたりしてるけど、王朝の正規軍を遥かに超える流民を豪族が隠し持っていたら討伐の対象になるだろうし、なによりその豪族が中原を狙うと思うのだが?

25: 世界@名無史さん
>>21
この頃の江南の発展ぐあいはまだ微々たるもんだと思います。 

>>23
氏の言うように、人攫いなどを行っていた事実から移住した人口はそこまで多かったとは思えませんが。

27: 世界@名無史さん
拉致は兵員増強目的じゃなかったか?
呉の豪族なんかは外征消極派が多数だったし、取り込んだ流民を兵役で消耗させたものかな。

29: 世界@名無史さん
民が死んだにせよ移住したにせよ、黄巾の乱以降、戦乱で漢魏晋の国土が荒廃していたのは間違いない。
曹操が屯田で多数の兵を養うことができた、ということは、それだけの農地が、本来そこを耕すべき農民がいなくなって放置されていたということを意味する。

33: 世界@名無史さん
参考までに。

日本の場合、江戸中期から幕末にかけて、人口は2500万人~3000万人の幅で増減を繰り返したと言われる。500万人程度は、飢饉で死んでいったらしい。

また、長期の戦乱による略奪や土地の荒廃その他による人口減の有名な例としては、三十年戦争期のドイツが挙げられる。2200万人から800万人にまで減ったとか。
ただ、ヨーロッパの場合、難民などの形で他の国に移住した例が多そうなので、どれだけが実際に殺されたかは判断しづらい。ルイ十四世の唱えた、ライン川西岸をフランス領とする自然国境説も、この辺とも関係があるのかも知れない。

35: 世界@名無史さん
人口激減と言えば、14世紀ヨーロッパのペスト大流行やヨーロッパの航海者が持ち込んだはしかなどの疫病による南北アメリカ大陸原住民の激減が思い浮かぶ。
この頃の中国も、何か伝染病が流行したのだろうか?
単純に考えても、戦乱で軍が東西南北に奔走すれば、それだけ他の土地の風土病に接する機会が多くなり、病原体を本国に持ち帰るケースも多くなると思われるが。

36: 世界@名無史さん
>>35
アテネも籠城戦で鬼のように人口が激減しているよ。
戦争と疫病の関係で一番古い歴史だったはず。

37: 世界@名無史さん
>>36 
死んで減ったの? 逃げて減ったの?

42: 第20軍団兵
>>37
トゥキディアス「戦史」?
それならば死んで減った。

ペロポネソス戦争時、アテネ軍はスパルタの陸軍力を抑えるため。
陸では篭城し海では穀物封鎖を行って敵同盟の切り崩しを狙ったけど、そこに疫病が発生してペリクレスをはじめ多くの人がアボーンした。

38: 世界@名無史さん
中国の場合、必ずしも死んで減ったばかりじゃないんじゃねえかな。地主の小作人になったり奴婢になったり、最も多いのは流民化して国として把握できなくなった連中じゃねえかな。
何しろ今でも正確な人口がわからねんだから。

39: 世界@名無史さん
第一次・第二次世界大戦の時の欧州でも全土が戦場になった国は1~3割死んだ例がある。(例えばセルビア)

検疫とかないに等しい前近代なら半分以上死んでもおかしくないな。

44: 世界@名無史さん
ナポレオンのロシア遠征では、野戦病院を最初から用意していたにもかかわらず、伝染病で大勢が死んだ。その数は戦死者よりも多かったとか。

当時の中国でどのような疫病があったかは知らないが、栄養状態が悪く体力が落ちている上、戦争により集団行動が多くなれば相当な被害が出てもおかしくないと思うな。

45: 世界@名無史さん
近代以前の戦争では戦闘で死ぬよりも病死の方がはるかに多い。
だって、数万人が一箇所に固まって食事、排泄、その他を行なうわけだし現代から見れば不衛生極まりない状態だよ。

46: 世界@名無史さん
この頃の中国の戸籍って、小作農とか奴卑とかまで網羅してたの? 
よく知らないので私の勝手な想像だが、土地を持ってる農民は把握していても、自分の土地を持たない小作農のたぐいまでは記載されていなかったのでは。もしそうだとすれば、戸籍上の人口激減は必ずしも死んだのではなく、地主階級の農民が自分の土地にいられなくなり、流亡した末に行った先の土地で小作農や奴卑に落ちぶれた、とも思われる。

47: 世界@名無史さん
>>46
小作人は国家によって把握されたりされなかったりでいたちごっこだった。亡命の徒(含流民)はもちろん奴婢も戸籍には記載されていない。亡命の徒についても国家は把握しようとしていたみてえだけどね。
てことで、中国の人口大激減は死亡より亡命の徒の増大によるものだろうね。
清末の太平天国革命及びその他の内戦により一億人以上が死んだと平気で言ってる学者がいたけど、おそらくその殆どは亡命の徒になっただけなんじゃねえかな。

53: 金魚
三国志時代の人口減はあくまで公民の数。大部分の人々は、公民たる事をやめて荘園の隷属民になった。これは、脱税の手口だから、史書に明記されにくかったのだろう。
 
そして、荘園領主とは、三国志の人材の事。人材募集とは、人材配下の私兵を求めたのが本音。公民が少ないので、曹操は自分の私兵を軍の中核としたわけだが、それでも足らないので人材という名目で、荘園領主が私兵を連れてくるのを期待したのだ。

ちなみに、江戸時代中期以降の人口変動はゆるやか。飢饉なんかで一挙に五百万人も死なない。

54: 世界@名無史さん
>>53
だとしたら兵数が膨大でとても農民だけで食わせる数じゃなくなってると思うが?
戸籍から離脱し、流民や農奴状態になって追跡できなくなった人口もそうとう多いだろうが、それだけだと断定するのは如何なものか?

55: 金魚
日本の封建制に似て、荘園領主は領内のほんの一部を兵として率いるだけですから、食料の問題は輸送の問題だけでしょう。
日本の江戸時代の文書もそうなんだが、人々は、脱税のために、実際以上に、貧しい・苦しい・飢饉で死んだと書いてきた。それにだまされてはいかんと思うのレス。

61: 世界@名無史さん
>>55
江戸時代と紀元前を比較するのもどうかと思うが。
もし戸籍から消えた大部分の人口が豪族の私有民となっていたとするならばそのあまりの多さに国家が成り立たないだろう。

63: 世界@名無史さん
>>61
>もし戸籍から消えた大部分の人口が豪族の私有民となっていたとするならば
>そのあまりの多さに国家が成り立たないだろう。


奈良時代に始まった公地公民制はそういう結末だったんじゃない?

62: 世界@名無史さん
「戸籍から逃亡してただけで人口そのものは減っていない」という説は宮崎市定もいってた。
ただし、宮崎市定は研究結果として出したのではなく、
「ということもあるかも知れないので研究の必要がある」といってただけ。
具体的な根拠はなく印象論の域を出ない。

「実際の大減少があった、十分の一になった」という説を積極的に主張してるのは岡田英弘とか安本美典とか。安本はかなり以前『東アジアの古代文化』だったか『季刊邪馬台国』だったかで、誰かとこの件で大論争してたな。

65: 世界@名無史さん
安本美典はなんでも極端な主張するw

魏・晋朝の「民衆を直接把握する能力」は漢朝に比べて極端に弱かったと思われ有名な九品官人法も実体の伴わないものだったと聞いたことある
中国特有の「王朝の交代の連鎖で歴史を著述する方法」のために正式な「政府」と認められただけで、実質「クーデター後の暫定政権」レベルの貧弱な組織だったんじゃないか
だとすると当時の人口減は実際はもっと小さなものだったと漏れは思ふ

66: 世界@名無史さん
ってことは歴代王朝の人口調査に数千万を付け足して考えるべきだという事か。
王朝による調査で前漢末の人口に回復するのは宋代だったっけ?
その間にも相当数が増えてるだろうから、実際はその当時から一億は突破してそうだな。

67:
民族の世界史5 山川出版  「漢民族と中国社会」より
北族の時代 中国史の第一後期 (著者 岡田英弘)

184年の黄巾の乱とともに、秦の始皇帝で始まった前期が終わって後期が始まる。
後期の特徴は、古い漢族の事実上の絶滅と、北アジアからの新しい血液の流入による、新しい漢族の成長である。黄巾の乱後、中国の人口は極端に少なくなった。
ことに河北の平野部ははなはだしく、千里、人煙を絶つという有様であったという。
黄巾の乱から50年を経た230年代に、当時の魏の高官三人が明帝に提出した意見書から、当時の魏の人口が推計できる。杜怨は、「今、大魏は十州の地を奄有しているが、喪乱の幣を承けて、その戸口を計れば、往昔の一州の民にも満たない。」といっている。
十州というのは、後漢の十三州から、呉が支配する、揚州、交州、蜀が支配する益州を除いた数である。後漢の中国の総人口は、140年の統計では、4915万220人だった。これから揚州、交州、益州の人口を差し引くと、残りの十州は3635万5210人となる。魏の人口はその十分の一にも足りないというのだから、360万人よりも少なかったわけである。
また、陳羣は「今は葬乱の後で、人民は至って少なく、漢の文帝、景帝の時に比べれば、一大郡に過ぎない」といい
蒋済も、「今は十二州あるけれども、民の数に至っては、漢のときの一大郡に過ぎない」といっている。
十二州というのは、魏が雍州から涼州、秦州をわけたからであって、杜怨のいう「十州」と同じ地域を意味する。

68:
とにかく前漢の最大の郡は、紀元二年の統計では、汝南郡の259万6148人、それに次ぐのは頴川郡の221万923人であり、後漢では最大が南陽郡の243万961人、その次が汝南郡の210万788人となっている。要するに三国時代初期の魏の人口は、約250万人ということになる。
華北を支配した魏に対して、長江中流の武漢を中心とした地方と、下流の南京を中心とした地方だけを支配した呉の人口は、魏よりずっと少なく、約150万人というところであろう。
皇甫謐(215ー282)のいうところでは、244年に将軍朱照日が、呉の領するところの兵戸は13万2千であると魏に報告している。兵戸というのは軍人の戸籍に登録されている家族のことで、一戸から一人が兵士になるとして、これをそのまま軍隊の定員と考えれば、後に呉が晋に併合された280年の数字では、呉の全人口の9%が兵士となっている。
この比率を適用すると、三国時代初期の呉の人口は、約150万人になるのである。四川盆地を支配した蜀については、90万人とも、100万人ともいわれているから、三国の合計は500万人ということになる。これを傍証するように、皇甫謐は140年の後漢の南陽郡、汝南郡の戸口統計を引用して、
「これを今に比べるに、三帝(魏・呉・蜀)が鼎石して、二群を超えない」といっている。
これは、450万人以下、ということである。つまり、184年の黄巾の乱から半世紀の後、中国の人口は十分の一以下に激減したわけで、これは、事実上、漢族の絶滅である。

69:
これより先、220年、後漢の最後の皇帝から帝位を禅られた魏の曹丕(文帝)はその翌年の221年、西は宣陽(河北省宣陽県、洛陽の西南)、北は太行山脈、東北は陽平(河北省大名県、洛陽の西南)、南は魯陽(伏牛山脈)、東はタン(山東省タン城県、江蘇省との境)までの範囲を限って石碑を立て、その内側を「中都の地」、すなわち「中国」として指定し、生き残った中国人をその中に移住させた。これはほぼ河南省の全部と、山東省の西南部に当たる。 この狭い範囲に中国人が立てこもることになり、その外側は、軍隊の駐屯以外にはほとんど住民がいなくなったのである。

こうして真空状態となった中国の周辺地帯には、北方から鮮卑、匈奴、羯、氐、羌などの、いわゆる「五胡」が移住してきて定着した。やがて、魏は蜀を併合し、魏をのっとった晋が呉を併合して、280年には黄巾の乱以来ほとんど100年にして中国の再統一が成り、人口は一時、順調に回復し始めたが、わずか20年にして皇族の将軍たちの権力争いから八王の乱と呼ばれる全面内戦となり、人口は再び減少した。

それに乗じて、匈奴など、内地に定着した諸部族の軍閥もおこり、305年に匈奴の劉淵が漢王と称して独立してから、いわゆる16国の乱となり、これは439年に隋が陳を滅ぼして中国を統一するまで150年続くわけだから、結局中国の分裂は、たった20年間の晋の統一をはさんで、黄巾の乱から400年以上も回復できなかったわけだが、その原因は人口の過少によって、農業生産の復興がままならず、食糧の余剰がなくて、統一のための戦争の余力に乏しかったためであろう。
この人口過少が中国史の第一期の後期である。

70:
中国人と中国語の変質

黄巾の乱から400年間に目立った減少は、中国人と中国語の変質である。
既に述べたように、黄巾の乱に際して、中国の人口は十分の一以下に激減し、しかもその減少の大部分は、それまで中国の都市文明の中心であった華北の平野部で起こった。そして、それに続いておこった五胡の移住と、16国の乱、南北朝の時代を通じて、河北の支配者が多くアルタイ系の民族であったことから、漢語を話す人々ももはや漢族ではなく、しかもその話す漢語も秦・漢時代の言語と同じではなくなった。後期における漢語の発達史上、見逃す事の出来ない現象は、「反切」と「韻書」の出現である。

儒教が国教であり、その経典の知識に基づいて官吏が選ばれた後漢時代においては、漢字の読み方は公用のものが規定され、洛陽の太学において伝授されていたはずである。ところが黄巾の乱後、洛陽が荒廃して無人の地となり、しかも文人官僚の時代が去って軍閥の内戦時代となると、漢字とその読み方の知識は、危うく難を逃れて地方に亡命した、ごく少数の学者によって後世に伝えられなければならなかった。
そこでこれまで師から弟子へ口伝口授によって伝えられるだけであった漢字の伝統的な発音を記録し、知識の亡逸を防ぐ為に考案されたのが「反切」である。
これは例えば「東」の発音を「徳」と「紅」の組み合わせで示すやり方で・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(以後延々と人口減少が当時の中国文化に与えた影響についての説明が続く。 発言者の名前などソースが明示されていて判りやすいので、参考になればと、そのまま引用しました)

72: 世界@名無史さん
なるほど、わかりやすいですね。
印象的なのは、やはり、漢族の絶滅ということだな。
そこから周辺民族との混血を経て、再度、中国の歴史は立ち上がったという感じか。
漢語を話す人が漢族ではなく、その漢語も違う言語になったのならこれは正しく絶滅したと言っていいだろう。中国文化はここで一度断絶したと考えていいわけだ。

73: 世界@名無史さん
実際に、五胡十六国以前を「秦漢民族」または「周漢民族」、以後を「唐宋民族」と別扱いにする説があったね。

74: 世界@名無史さん
推定人口の方はどうなの?

75: 世界@名無史さん
>>74
華北に関しては河北省、山東省、陜西省、などから生き残った人間を河南省に強制移住させているから、耕作面積は、昔の少なくとも数分の1以下になっているだろう。
人口統計がもし信用できないとしても、人口が激減したことは間違いないということかな。

76: 世界@名無史さん
印象論ですまんが、遊牧民マンセーの岡田英弘の言うことはどうも信用できん。
(研究の切り口は悪くないし、これまでの歴史の見方に対するアンチテーゼとしては面白いと思うのだが、言うことが極端で好きになれん。)

82: 世界@名無史さん
中国の正史の記述を、しかも数字をあまり当てにするのは危険だと思われ

ただ、本当に人口が減少したかどうかは置いておくとしても、この時代に漢人社会の中に何かが起こり、社会システムが崩壊したのだろうとは思う。
それが新しいシステムに落ち着くまでに400年もの時間がかかったのではないかな?

88: 世界@名無史さん
もし本当に90%も死んでいたら中華文明は消滅していたと思われ

89: 世界@名無史さん
>>88
だから、大きく変質したんじゃないの?
清末の中国人と、春秋戦国の中国人とではまるで別人種のような感じがしない?
私はこういうアクシデントが中国の長い歴史の中で、一二度起こっていたと考えたい。

中華文明の維持そのものは、一割でもデータベースさえ残っていれば、可能のように思える。
渡来人の割合が極めて稀少(だったと推測する)な半島でも、物まねだけで鏡写しの中華風王朝が成立・存続し得たことなどから考えて。

90: 世界@名無史さん
人口統計に格段の差がある。
さらに、当時の知識人が史書の中で、そうと証言している。
だから、おそらく激減したのではないか、というのが岡田氏の主張ですね。

91: 世界@名無史さん
>>90
さらには、そうと思わせる傍証が沢山あると。

94: 世界@名無史さん
大幅な減少が無いと主張してる奴はどの程度なら妥当だと考えているのか知りたい。
それとどの時代からなら調査内容がある程度正確だと考えていいと思っているのか。

これを提示してくれないと単なる解釈のお遊びにしかならない。

102: 82
>>94
>大幅な減少が無いと主張してる奴はどの程度なら妥当だと考えているのか知りたい。

どの位ならあり得るのかは正直分からない。ただ、考え方の出発点が違うんだよ。
数千万人クラスの大量の死者を出した第2次世界大戦は、原爆など大量破壊兵器やナチスによるユダヤ人虐殺(社会システムとして効率よく人を殺した)があってのもの。
剣による戦争や自然災害しか人の大量死がないはずの漢代に第2次大戦と同程度の大量死があったとは考えにくい。

よって漢末の人口減は「死」ではなく「登録漏れ」ではないかと考えるわけだ。

110:  
>>102
>戦争や自然災害しか人の大量死がないはずの

疾病はどうした? 動乱があれば、当然、直接的な戦死者に倍加する病気の流行が起こるのはよく知られている。
疫病による大量死も当然考慮に入れるべき。

115: 世界@名無史さん
>>102
疾病や飢饉を舐めすぎてないか?それと当時の寿命なんかも。
城塞都市である中国では一旦病気が広まったらそれでアウトだぞ。
それに華北から華南に移動するだけでも風土病でバタバタ死ぬ時代だぞ。

むしろ、漢代の人口調査が治世を喧伝する為に過大過ぎたのではないかとも。
半分くらいに見積もって考えると後漢末期の人口減でも、充分に有り得ると思うが。

95: 世界@名無史さん
戦乱に伴う人口の増減については、近年の例では、天安門事件や、すこし前なら南京入城など、近代に至っても誇張が甚だしく、中国史での数字で信頼できるのは、年代のみ。

96: 世界@名無史さん
↑歴代の正史の地理志に郡ごとの人口統計の一覧がのってたりするけど、これは戦乱とは軍事報告(戦功の過大報告や損害の過小報告)とは関係ない、平常時の人口統計だろ?

105: 世界@名無史さん
>>96
だから、中国はその平時の記録自体が信憑性に欠ける上に、後代に盛んに改竄もされている。
そんなもの検証もなしに信用するな。

136: 世界@名無史さん
>>104
改竄というのがイヤなら、正史の編纂。
正史を編纂するたびに、その都度、都合の悪い部分は切り捨てられ、都合の良いよい部分は誇張され加筆されてきた。
ハムラビ法典のような、書いた当時の原本が丸々出てきたわけでなく、書写どころか孫引き資料ばかりではないか。

141: 世界@名無史さん
>>136
正史が二次史料であるのは認めるが
その言い方では、正史がはじめ書かれた当初より大幅な変形を経ているように聞こえる。
そうだとすれば、大きな勘違い。

142: 世界@名無史さん
>>136
ひとたび完成して献上され公にされたものは改竄はしていないだろう。

「旧五代史」。
これは「新五代史」を編纂後、使用されなくなって散逸してしまった。
それを清の時代だったか、残巻や引用されているものをかき集めて再編纂した。
現在見ることのできる「旧五代史」は、やむをえないけど当初とは異なっている。
これを改竄というか。

108: 82
漢代はそもそも文献資料が少ない。まあ存在してるだけすごいんだが。
人口も○○郡何万人とかの正史の記述をいきなりどう評価するかの話をせざるを得ない。明朝位までは似たり寄ったり。
これが清朝雍正帝以降くらいになると地方の史料が充実してきてその集積がものをいってくるわけだが・・・

よって、こと人口問題については
「平時の記録に基づいた膨大な中国史研究の蓄積と成果」
を全否定まではしないけど、信用しない。

109: 第20軍団兵
後代に資料を改竄することは考えにくいと思うんですけど。
中国史については暗いのですが、現代の研究は租税記録等をもとに人口を弾くんでしょう?
当時の官僚を考えるなら、そのような基礎資料はまず膨大だし、それを後代の資料批判に耐えるように矛盾無く改ざんする。

--考えにくいな。

112: 世界@名無史さん
動員兵数から推定できないの?

113: 世界@名無史さん
>112
兵力の記録なんて誇張だらけで、人口の記録より信用できないよ。

116: 世界@名無史さん
岡田説、どうも怪しいな。実は手元に陶元珍『三国食貨志』なる三国時代の経済について調べた基礎資料があるんだが、この本を読むと岡田氏の計算及び調べ方がずさんだというのがわかる。

「魏の人口はその十分の一にも足りないというのだから、360万人よりも少なかったわけである。

→魏の景元4年の人口統計では537万2891人。これは魏が蜀を亡ぼした
後の統計なので、蜀の人口を引いて魏本土のみで数えると443万2881人。
その上、この統計には司馬氏が私有していた屯田の人口は含まれない。
屯田の人口について調べた本も以前読んだが、200万程度の人口を抱えていたようだ。
従って、360万人よりも少なかったということはあり得ない。
なお人口統計は『続漢書』郡国志注に引く『帝王世紀』に記載有り。
蜀の人口を引いて計算をしたのは『通典』。

131: 世界@名無史さん
>>116

岡田英弘は中公新書「倭国」では以下のように記してあり、屯田の人口云々を別にすれば、一応辻褄をあわしている。

「黄巾の乱から50年を経た230年代に、当時の魏の高官三人が明帝に提出した意見書から、当時の華北の人口が推算できる。

魏の人口はその十分の一にも足りないというのだから、360万人よりも
少なかったわけである。

要するに三国時代初期の魏の人口は、約250万人ということになる。

人口の回復は魏が一番早くて増加率年2%…

263年に儀が蜀を併合した時、蜀の人口は108万2000人であった。
これを加えて魏の人口は537万2891人になったというから
(魏本土のみでは429万891人)
魏だけでは30年前の約1.8倍に増加していたことになる。これは年2%の増加率である。」

118: 116
>こうして真空状態となった中国の周辺地帯には、北方から鮮卑、匈奴、羯、氐、羌などの、いわゆる「五胡」が移住してきて定着した。

これも間違い。後漢時代から鮮卑、匈奴、羯、氐、羌といった異民族はどんどん中国本土に入ってきており、民族対立が問題になっていた。
山西には曹操の時から南匈奴が定住しているし、そこには漢族も来ているようだ(匈奴の劉淵には漢族の友人が多い)また、漢族との混血も進んでいる。
混血の例としては、後漢末の群雄・馬騰の母親は羌族だと『三国志』の注にある。
ここらへんは中国中世史のイロハで、まぁ谷川道雄の『世界帝国の形成』みたいな手軽に買える新書でも触れられて居るんで、学士院賞を取った岡田氏 程の人が勘違いしているのは少々驚きだ。

121: 116
まぁ、岡田説最大の弱点は史書の美文を鵜呑みにしすぎたこと。
この当時の史料は内容よりも表現の技巧を重視しており、白髪三千丈式の誇大表現がとても多い。
凄いのになると「万有一存」(一万人に一人しか残っていない、『続漢書』郡国志に引く『帝王世紀』)なんて表現まであるんだ。
こういう美文を真面目に取ってしまったのがいけなかったんだよ。後、戸籍からこぼれ落ちた人も多いんだよ。
前に書いたように豪族が大量に人を抱えていても、私有の民であるときには戸籍に記録しないし、異民族へ入ったら記録できない
まぁ、これらのことを考慮に入れると人口は精々半減くらいではなかろうか。
およそ絶滅とはいえないと思う。

123: 世界@名無史さん
岡田さんの本は乱読してるんだが、細かいとこは本によって微妙にくいちがってる。
おそらく口述筆記で弟子にリライトさせてるんだろう。
で具体的に出典は引けないが、漏れの記憶では岡田説の要点は
「人口大減少のきっかけは黄巾の乱、その後、異民族流入」ってことで別に論争しなくても北魏の南遷まで北方民族の南下流入は長期断続的に続いたとみている。
221年の中域設定もいくつかある山場のひとつぐらいでいいんじゃないか。
論旨の全体を左右するほど重要なポイントだろうか。

149: 世界@名無史さん
「十州之地」と「一州之民」
「一州之民」と「九州之地」

なんかこういうのって文章表現の一つなんじゃないの?
要するに、ほんの一部でしかない、って意味じゃない?
秦有十失,其一尚存
とかさ。
戸籍調査ではない、意見を述べることを目的とした意見書の内容をそのまま受け取るってのはどうなんでしょう?
わからんけど。

201: 82
三国時代は有名な「医聖」華陀の出現や、疫病に倒れた自分の一族の病状記録をのこした張なんとか(名前忘れた)等があり、直接ではないにしろ新種の疫病の流行を推測することは可能だと思う。
しかし、元々どんな悪疫でも数千万クラスの集団の人口の90%を死に至らしめる病気は人類史上存在したことがないと思うんだが。

208: 世界@名無史さん
たしか建安の七子のうち、5人ぐらいが一度に疫病で死んでるだろ。
あれなんか庶民はどれぐらいの規模で死んだか解らんの?

211: 世界@名無史さん
>たしか建安の七子のうち、5人ぐらいが一度に疫病で死んでるだろ。

「建安二十二年の大疫」のことですね。
後漢末建安二十二年に、大疫病が流行し、呉を攻めていた魏の将軍・兵卒が多く病に倒れ、関中でも死者が多く、建安七子のうち徐幹・陳琳・王粲・劉テイの4人が病没しています。
ただし、この時の庶民の実数は不明です。
相当死者が出たようではありますが・・

221: 世界@名無史さん
「ヨーロッパ、アジア、北アフリカのあいだで交易がおこなわれるようになったローマ時代には、それらの地域が一つに結ばれ、病原菌の一大繁殖地が出来上がる。そのため、西暦165年から180年にかけて、天然痘がローマに広がり、アントニウスの斑点として猛威をふるい、何百万ものローマ市民が犠牲となっている。」          
「銃・病原菌・鉄」より引用

時期が「建安二十二年の大疫」と近いんですよね。流行した疫病が天然痘だったという可能性はどうなんでしょう。もしそうだとしたらと人口が半減してもおかしくないかも。

225: 世界@名無史さん
当時は土葬の習慣だったから、あるはずの地層に死体が発掘できないか、または少しの死体しか見つからないので考古学的に人口減がなかったはずだと結論付けられないかな。

引用元: ・黄巾の乱後の中華人口大激減 




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