51v0LDw2p9L



1: 名無しさん@おーぷん 2014/07/19(土)22:27:14 ID:HSsggiXZ8
近代まで人類のほとんどはユーラシア大陸に住んでいて、
そのユーラシア大陸の中央部をまとめたのがイスラーム文明だった。
ヨーロッパも中国も、インドも北アジアの遊牧民もイスラームと接触した。

そのわりに中学高校の世界史でも、世間一般の認識でも、
イスラーム世界の歴史についてはよく理解されていないように思う。

そんなイスラーム世界の歴史についてダラダラ語ってみようと思う。

笑い系か真面目系か、どういうスタンスで語るか、いまいち決められてない。









9: 名無しさん@おーぷん 2014/07/19(土)22:38:07 ID:GPGDZX2ED
高校の世界史の資料集はやたらイスラムに対する擁護が多かったな

10: 2014/07/19(土)22:38:27 ID:HSsggiXZ8
おーぷんってほんと簡単にスレ立つんだな。
今んとこ誰も見てないだろうけど、ダラダラ書いていこう。
(ブロットも決めてないから流れ任せで)


まずはイスラームが成立した時代の状況から。

イスラームという宗教は、西暦622年頃にアラビア半島西部の
メッカに住んでいた商人ムハンマドが創始したとされている。

実はその少し前から、ユーラシア大陸の西半分では、
当時のレベルで「世界大戦」と言える規模の大戦争が続いていた。

一方の雄はゾロアスター教を国教とし、インダス川から地中海までの支配を目指すササン朝ペルシア。
もう一方の雄は、これに対抗して古代ローマ帝国の復興、地中海再統一を目指す東ローマ帝国。

アラビア半島は両大国の中間にあったけど、灼熱の砂漠が広がっているので直接戦場にはならない。
その代り、両大国はアラビア周辺の小国を煽って代理戦争をやらせた。

ササン朝ペルシアはアラビア半島東部のオマーンに侵攻し、
南部のイエメンにあった小国群を従属させて、東ローマと東洋を結ぶ紅海航路を遮断しようとした。
それに対して東ローマ帝国はアフリカ島北部のエチオピアを煽って、アラビア半島に侵攻させた。
エチオピアの将軍アブラハはイエメンに渡り、そこからアラビア半島西岸を攻め上った。
ところが、途中のメッカまで来たときに、突然疫病が流行って兵士がバタバタ倒れたので退却した。

メッカの人々はアブラハの軍が見たこともない巨大な動物、象を連れているのを見て驚いた。
そこでアブラハがやって来た年は「象の年」として語り伝えられた。
この年に、メッカの商人アブドゥッラーの子としてムハンマドという子供が生まれた。
西暦570年のことと言われている。

35: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)00:44:36 ID:yqA6b7pRg
>>10
ローマ好きの自分にとってイスラムの番狂わせ感は異常

15: 2014/07/19(土)22:47:23 ID:HSsggiXZ8
ムハンマドは可哀想な子供で、父親は生まれる前に、
母親も生まれて数か月後に死んでしまったので、
爺さんと叔父さんに育ててもらった。

青年になったムハンマドはハディージャという女商人に仕えることになった。
真面目で顔も性格も良かったのでハディージャに非常に気に入られ、ついに婿になる。
この時ムハンマドは25歳、ハディージャは40歳ぐらいだったらしい。
そんな年の差にもかかわらずムハンマドはハディージャをとても大切にした。

610年頃。
結婚生活15年目、40歳を迎えたムハンマドは人生の意味などについていろいろ悩みを生じたらしく、
メッカの近くの岩山の洞窟で瞑想にふけることが多くなった。
仕事をサボっていたのかどうかは知らない。

そんなある日、彼はふと「読め!」という叫び声を聞いて目を上げた。
すると地平線上に巨大な巨大な人影が立っている。東西南北、どの方向にも巨大な人影が立っている。
巨大な人影は「天使ジブリール」(ガブリエル)と名乗り、「神の啓示を読め!」と命令する。
ムハンマドは暑さのあまり頭がやられたかと慌てて家に飛びかえり、
ハディージャ(65)の膝に縋り付いて震えた。

17: 2014/07/19(土)22:53:55 ID:HSsggiXZ8
ところがハディージャ(65)は何故かムハンマドを信じて、「貴方は神に選ばれたのです」と励ました。
そこでムハンマド(40)もだんだん自信を持って、天使が告げる言葉を周囲の人々に述べ伝えるようになった。

その頃アラビア、というか西アジア全体で自称預言者はいくらでもいたとはいえ、
やはり周りから見れば気が触れたとしか見えないので、最初のころは誰も相手にしてくれなかった。
最初の信者になったハディージャを除くと、かろうじて親友中の親友アブー・バクルと従兄弟のアリーだけが信じてくれた。

ときには遠くの町に行って説教もしたけど、相手にされないばかりか石を投げられた。


とはいえ石の上にも三年、石を投げられても三年で、じわじわと彼の言葉に耳を傾ける者も出てくる。
メッカの長老たちはムハンマドを「若者を煽動する危険人物」とみなして暗殺計画を立てた。
それを察知したムハンマドは夜陰に紛れて、支持者のいる北方の町、メディナに逃走した。
なお、暗殺者たちをかわすためにムハンマドの寝床にはアリーが代わりに横になり、
襲ってきた刺客たちを軽く撃退してからムハンマドの借金を全部代わりに返済して、後から師匠を追っかけて行った。
ハディージャはこの時点で亡くなっていた。

これが西暦622年。イスラーム暦の元年になる。

21: 名無しさん@おーぷん 2014/07/19(土)23:09:31 ID:Jgo5oRIGY
>>17
ハディージャ(65) www
その頃はメディナじゃなくてヤスリブだけどね、どうでもいい方向なら別にいいけど

18: 名無しさん@おーぷん 2014/07/19(土)23:02:58 ID:FumV4g6Sj
なんかファンタジー小説のあらすじ見てるみたいだな

19: 2014/07/19(土)23:03:43 ID:HSsggiXZ8
メディナに逃走したムハンマドは、その頃メディナで対立していた二つの部族の争いを
「公平な第三者」として巧みに仲裁し、いつの間にかメディナの指導者になった。
ここから預言者ムハンマドの政治家・軍人モードが発動しはじめる。

まずはメッカの隊商妨害。
メッカと北方シリアをつなぐ隊商ルートを何度も襲撃してメッカの経済力をすり減らす。
襲ってきたメッカの正規軍を迎え撃って見事に撃退。
近隣の遊牧民たちを次々に服従させ、やがてムハンマドの威令はアラビア半島全土に轟くようになる。
その過程では盟友アブー・バクルやアリーも大いに協力した。

そして632年。
苦節10年を経てついにムハンマドはメッカに再入城する。かつて自分を追放した町に、今度は征服者として。

メッカの中心、無数の偶像が祭られたカアバ神殿に入ったムハンマドは弓を構え、
「真理が来た! 真理が来た! 今や暗黒は去った!」と叫びながら、次々に偶像を射倒した。
最後に、神殿中央におかれた真っ黒な隕石だけが残った。
ムハンマドはこれを神アッラーの象徴として永遠に残すことにした。

アラビア全土から様々な部族がメッカに代表を送り、ムハンマドに忠誠を誓った。
ムハンマドは北方でなおも「世界大戦」を続ける東ローマ帝国とササン朝ペルシアにも使節を送り、イスラームへの改宗を勧めた。
ところがササン朝ペルシアに行った使節は「砂漠の蛮族が何をほざくか」と鼻で笑われ、
頭に砂をかけられて舞い戻って来た。

それを聞いたムハンマドは喜んでこう言ったという。
「ペルシア王は我らに返礼として土を贈った。ペルシアの国土が我らの物となる証拠である」

それから2年度、ムハンマドは重病となって、晩年に迎えた幼な妻アーイシャの膝で死んだ。
634年のことだった。

22: 2014/07/19(土)23:12:40 ID:HSsggiXZ8
ところがムハンマドが死ぬと大問題が起こった。

まず、後継者をどうするか。
ムハンマドの生前はどんな問題が起こっても、彼が「神の言葉」で教団を導いた。
ところが彼が世を去った今、「神の言葉」を聞くことができる人物はいない。
ムハンマドには息子もいなかった。ファーティマという娘がおり、その婿が従兄弟のアリーだったが、
アリーは「私はまだ若く、教祖の後継者にはなれない」と遠慮した。
話し合いの結果、ムハンマドの親友だったアブー・バクルが中心となって、合議で教団を運営していくことになった。

もう一つの問題はいっそう深刻だった。
アラビア半島の諸部族はムハンマドという特異なカリスマと軍事的才能を持つ預言者に従っていたのであり、
ムハンマドが死んだとたんに「ほな知らんわ」と一斉に離反してしまったのだ。

アブー・バクルを中心とするイスラーム教団は生き残りのために、
アラビア半島全体をもう一度征服しなおす羽目になった。

このとき、ハーリドという武将が鬼神のような活躍を繰り広げる。
ハーリドは生前のムハンマドに「アッラーの剣」と讃えられた名将だ。


ムハンマドより年上だったアブー・バクルはわずか2年後に病死。
次にウマルという人物が教団の指導者になった。
その頃、ハーリドらの活躍でアラビアの再統一はほぼ成っていた。

前線で戦っている軍団の動きはメッカにコントロールしきれなくなってきた。
彼らはその場その場の状況に応じて、あるいは目先の戦利品を目指してどんどん戦線を拡大した。

その結果、際限なく「世界大戦」を続けていた北の大国、ササン朝ペルシアと東ローマ帝国の国境に
突然砂漠の蜃気楼の彼方からアラブの遊牧民たちが乱入することになる。

25: 2014/07/19(土)23:25:20 ID:HSsggiXZ8
当時、「世界大戦」は絶頂を迎えていた。
東ローマ皇帝ヘラクレイオスはアルメニア・突厥・ハザールといった
周辺国と大連合軍を組んでササン朝ペルシアの本国イラクに侵入し、
首都のクテシフォンを包囲して、灌漑施設を破壊しまくった。
そのせいでメソポタミア文明以来の農業基盤はガタガタになった。

一方、ササン朝ペルシアのホスロー2世は同じタイミングで
東ローマ帝国領のシリア・エジプトを襲撃し、
皇帝不在の首都コンスタンティノープルを急襲した。

大帝国の皇帝二人が最前線に出て、まったく同時に
互いの首都に王手をかけるというカオスな状況。

東ローマ皇帝ヘラクレイオスは慌ててシリア・エジプトからペルシア軍を叩き出し、
なんとか講和が成立したものの、この激闘で両国とも軍事的・財政的に疲弊しきった。

そこに突然第三勢力が湧いて出たからたまらない。
あれよあれよという間に、アラブ・イスラーム軍は南イラクを占領し、シリアに進撃した。
このとき前線の総指揮官だったのが例の名将ハーリド。

ハーリドがシリアに侵攻すると、東ローマ皇帝ヘラクレイオスは
「俺が人生の半分かけて取り戻したものを奪われてなるか」と迎撃に出るが、見事一蹴される。
このときヘラクレイオスは、「シリアよさらば、敵にとってなんと美しい国なのか」と嘆いた。
帰途、彼は落胆のあまり精神を病み、水を見るのが怖いという謎の病気にかかった。
首都コンスタンティノープルに入るときにどうしても海を渡らないといけないので、
四方を板で囲った船を造らせて何とか都に入ることができたという。


ところが、勝者の側にも悲劇が見舞っていた。

勝利の立役者ハーリドは、メッカで教団を指導しているウマルと仲が悪かった。
東ローマ軍との決戦前夜、ハーリドのもとにウマルからの命令書が届いた。
静まり返った天幕の中で、ハーリドは一人その文書を開いた。

そこには、「おまえクビwww」と書いてあった。


ハーリドは何も見なかったふりをして、翌日の決戦で見事大勝利した。

敗走する東ローマ軍が地平の彼方に消えて行った後、ハーリドは部下たちを集めて
無言でウマルの命令書を取り出して見せた。

誰もが声を失うなか、ハーリドは表情ひとつかえずに姿を消したという。

39: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)00:50:34 ID:yqA6b7pRg
>>25
熱い展開が続くな

26: 2014/07/19(土)23:37:46 ID:HSsggiXZ8
言い忘れていたけど、ムハンマド死後に教団を指導することになった
アブー・バクルやウマルは「カリフ」(正確にはハリーファ)と呼ばれる。
アラビア語で「代理人」って意味。



「アラブの大征服」と言われる、世界史を変える戦争は始まったばかりだった。

637年、アラブ軍はササン朝ペルシアの首都クティフォン(バグダッドの近く)を占領した。
王宮の宝物庫には膨大な金銀財宝があったが、アラブの末端の兵士たちは金など見たことがなかったので、
大量の金を自分たちにも価値が分かるちょびっとの銀と取り換えて悦に入っていた。
防虫用の樟脳は塩と間違えて、神妙な顔をして「文明の味」を堪能したという。

シリアではハーリドが去った後、アムルという武将が頭角を現してきた。
「神の剣」ハーリドとは対照的に、知略で勝負するタイプの名将だ。

彼が聖都エルサレムを陥落させると、カリフのウマルが前線に視察に来た。
その頃のカリフたちはとても質素だったので、ウマルは従者も連れずにロバでやって来て、
粗末な皮の服を着たまま地べたに額づいて神に感謝したという。

さて、アムルはウマルをつかまえて、こう進言した。
「なんでもちょっと西の方にエジプトとかいう大変豊かな国があるらしいんですが」
「ああ、じゃあ征服したまえ」とウマルは簡単に許可した。


ところがメッカに帰ったウマルは気が変わってきた。
「エジプトとか、さすがに本国から遠すぎるんじゃね?」


さて、エジプトに向けて進軍を開始したアムルのもとに、
ある夜カリフ・ウマルからの密使がやってきた。

アムルは密使に渡されたウマルの命令書を凝視した。
彼のなかで何かの直感が動いた。
彼は命令書の封を開けずにそのまま進軍を続け、翌日にエジプト国境を越えた。
その夜、彼がウマルの命令書を開封するとこう書いてあった。

「もしお前がこの手紙をエジプトに入る前に開封したなら直ちに引き返せ。
 エジプトに入った後に開封したなら、後は運命をアッラーに任せよ」

彼は運命をアッラーに任せて東ローマ帝国の守備隊を追い払い、エジプトを征服した。

29: 2014/07/19(土)23:51:40 ID:HSsggiXZ8
そんなこんなで細かく書いているとキリがないので(遅い)、
箇条書き的にすると、こんな感じで「アラブの大征服」は怒涛のように進む。

632年 ムハンマド死亡(さっき書いた634年ってのは間違い)
635年 ダマスカス占領
636年 ヤルムークの戦い(シリア征服)
637年 クテシフォン占領
639年 エジプト侵攻
642年 ニハーヴァンドの戦い(ササン朝ペルシア崩壊)

そして644年、ウマルはメッカで死亡する。
次にカリフになったのはウスマーンという老人だった。

ウスマーンは信仰心が深かったが、リーダーシップを取るタイプではなかったので、
何も知らない能天気なカリフのお膝元で汚職が横行し、政治が混乱し始めた。
やがて不満を持った兵士たちがウスマーンを襲って殺害する。
イスラームの歴史上最初に、信者がカリフを殺した事件だった。

ウスマーンの殺害者たちはメッカに残っていた有力者たちのなかで、
いちばん筋目が正しいアリーを次のカリフに担ぎ出した。
ムハンマドの従兄弟かつ娘婿で、世界で2番目にイスラームの信者になった例の豪傑だ。

ところが、その頃シリアを支配していたムアーウィヤという総督がこれに反対する。
「カリフを殺した連中が擁立したカリフなんて認められっかよ。俺は忠誠の誓いを拒否すんよ」
こうして「第一次内乱」といわれる内部紛争が始まった。


アリーは今や前線から遠く離れたメッカを離れ、イラクに拠点を移した。
そこで多くの6万人もの兵士を集めて、シリアの総督ムアーウィヤに戦いを挑む。

戦いはアリー優位に展開したが、突然ムアーウィヤ軍の兵士が
槍の穂先に聖典コーランを結び付けて振りかざした。

「お前たち、アッラーのお言葉が書かれた聖典に向かって武器向けるの?
 バカなの? 死ぬの? 地獄行くの?」

ってわけでなし崩し的に停戦に追い込まれたアリー。

「ばかじゃねーの」と憤慨して出ていった過激派は「あんな無能が諸悪の根源」と逆切れし、
礼拝中のアリーを襲って滅多切りにした。カオスである。
(ムアーウィヤの暗殺も計画したが失敗)

以後、アリーの支持者たちは「シーア派」、それ以外は「スンナ派」と呼ばれて
イスラームの二大宗派を形成する。

30: 2014/07/20(日)00:09:44 ID:JNmKIlnNz
さて、ムハンマドが死んでからここまでで、アブー・バクル、
ウマル、ウスマーン、アリーの4人がカリフとして教団を指導した。
彼らの指導のもとで(と言いながら前線の独走がほとんどだけど)
教団の勢力はアラビア半島西部から、東はイラン、西はエジプトまで拡大した。

彼ら4人を、イスラームがシーア派だのスンナ派だのに分裂する前の
古き良き時代のカリフたちとして、後世「正統カリフ」と呼ぶことになる。


アリー殺害によって正統カリフ時代は終わり、イスラーム世界は大きく動揺した。

敵が勝手に自滅したシリア総督ムアーウィヤはついにカリフを自称し、
シリアのダマスカスを拠点にイスラーム世界を再統合した。

ムアーウィヤはイスラーム史上初めてカリフの座る玉座や謁見の間を用意し
一般人と自分を隔離した。
ここにきてカリフは単なる「教団指導者」から「皇帝」に近い存在になったのだ。

ムアーウィヤは自分の息子ヤズィードを後継者に決めて、世襲の王朝を開いた。
「ウマイヤ朝アラブ帝国」の誕生だ。

正統カリフたちはみんな自分で後継者を指名せず、死後の互選に任せた。
自分の息子を優遇することもなかった。
当然ながら「教団の私物化だ!」と批判する人々も多いだろう。

臨終の際にムアーウィヤはヤズィードを呼んで、こう遺言した。
「いいか、アリーにはフサインという息子が生き残っている。
 フサインには決して手を出すな。もしフサインを殺したりしたら大変なことになる」
ところがヤズィードは遺言を守らなかった。


ウマイヤ朝に反対する人々は多い。
イラクのクーファという町の人々は、アリーの遺児ヤズィードを旗頭に反乱を起こそうとして、
メッカにいたフサインを招いた。
フサインは権力争いを嫌って何度も謝絶したが、とうとう断り切れずに旅立った。
ヤズィードは慌てて3000人の軍隊を派遣してユーフラテス川の畔でフサインたちを包囲した。

フサインと従者は合わせて72名。
目の前に川があるのに周囲を3000人に囲まれ、絶望のデスゲーム。

飢えと渇きの1週間が過ぎたあと、一瞬の虐殺が展開され、ムハンマドの孫は殺された。

これが「カルバラーの悲劇」と言われる事件。
これをもって、アリー支持者のシーア派と、その他多数派のスンナ派の対立は決定的になる。

シーア派はウマイヤ朝の権威を否定し、ムハンマドとアリー、フサインの子孫こそが真の指導者だと主張し、
その後何度も反乱を起こすようになる。

31: 2014/07/20(日)00:26:41 ID:JNmKIlnNz
680年からはアラビア半島を舞台に「第二次内乱」が発生した。
初代正統カリフ、アブー・バクルの孫が「自分こそマジカリフ」と主張し、
イスラーム世界の南半分を制圧。

これに対して、ウマイヤ朝は「ハッジャージュ」という冷酷無比な将軍を送り込む。
ハッジャージュは敵軍の本拠地メッカを包囲し、遠慮会釈なしにガンガン投石した。
聖都はボロボロに破壊され、カアバ神殿も瓦礫になるも反乱は平定された。

ついでハッジャージュはシーア派の拠点、イラクのクーファに乗り込んだ。
黒い覆面で顔を隠し、礼拝の真っ最中に突然モスクに登場。
ズカズカと説教壇に上り、あっけにとられる群衆を前に演説をぶった。

「ターバンの下に血が流れる。我こそはそれを実現する者である!」
ハッジャージュが覆面をはぎ取った瞬間、兵士たちが雪崩れ込んで、
モスクに集まっていた群衆6万人を皆殺しにしたという。


ハッジャージュはウマイヤ朝のカリフに絶賛され、帝国東半分の全権を任された。
そこで彼は「大征服」をさらに進めることにして、腹心の部下二人に命じた。

「クタイバは中央アジアに進め。カーシムはインドに進め。
 どちらかより早く中国に到達した者を中国全土の総督にする」

ちなみに二人ともそこそこの成功はおさめるものの、
カリフが代わると強すぎる力を持ったハッジャージュは危険視されて処刑され、
クタイバとカーシムも巻き添えをくらって終わる。
中国とイスラーム世界の衝突はもう少し先になる。


この頃、西側でも大征服は一段と進む。
エジプトから西へ西へと進んだウマイヤ朝軍は709年についに大西洋に達した。
指揮官はモロッコ西端まで来ると、海に馬を乗りいれて、
「アッラーよ、これより先にもはや征服すべき土地はないのですか!」と絶叫したらしい。

まだあった。
その頃、モロッコの北のイベリア半島(スペイン・ポルトガル)にあったキリスト教の西ゴート王国では
国王ロドリーゴが、国境の要塞を守るフリアン伯爵の娘に一目ぼれして、彼女をレ○プしてしまった。
伯爵は激怒して、復讐のためにウマイヤ朝軍を呼び込んだ。
711年にウマイヤ朝の将軍ターリクはイベリア半島に上陸し、わずか7年でイベリア半島全土を制圧した。

イベリア半島最北端の山岳地帯に辛うじて西ゴートの残党が逃げ込んで、
ここから「7年で奪われたものを700年かけて取り戻す」国土回復戦争が始まることになる。

43: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)00:57:19 ID:yqA6b7pRg
>>31
一人の伯爵が歴史を変えたんだな

32: 2014/07/20(日)00:41:00 ID:JNmKIlnNz
この調子だといつ終わるのか。


繰り返すが、ウマイヤ朝に反対する人々は多い。

大征服は景気よく進んだものの、内政はうまくいかなかった。

アラブの部族同士の対立、先祖代々の信者と新参信者の対立、
戒律をガン無視して酒は飲むは絵は描かせるわ(イスラームは絵画禁止)の
ウマイヤ朝カリフたちに対する感情的な反発。

そんな状況の中、世界の歴史でも稀にみる規模の陰謀劇が始まる。


730年頃、今のヨルダンの近くの砂漠の中に、ムハンマドの叔父の
「アッバース」の子孫たちが隠れ住んでいた。
彼らはウマイヤ朝への不満の高まりを見て、「もしかすると俺らにチャンスが」と直感。
各地に密使を派遣して反乱を煽動することにした。
そんな密使の中に「アブー・ムスリム」という、謎に満ちた人物がいた。

彼のことは本当に分からない。
まず「アブー・ムスリム」は本名ではない。あだ名みたいなもの。
出身地も分からない。前半生も分からないし、民族すら分からない。

とにかくアブー・ムスリムはアッバース一族に命じられ、身一つで中央アジアに潜入した。
そこで彼は、ありとあらゆる反体制勢力を舌先三寸でまとめ上げた。
どの勢力にもいい顔をして、自分の背後にいるアッバース一族の存在は完全に秘密にして、
ただ「皆が満足する者をカリフにしよう」と玉虫色の未来を描いてみせた。

なんとも不思議なことに、それだけでありとあらゆる反体制派が彼のもとに集結し、
たちまち世界を揺るがす大反乱となってイラン、イラクを席巻し、
ついにウマイヤ朝を崩壊させてしまった。

ちなみにこの混乱のなかで、肝心のアッバース一族も巻き添えをくらって殺されてしまう。
アブー・ムスリムは、辛うじて生き残ったアブー・アル・アッバースという人物を探し出し、
突然「皆さん大事な話があります。この人がカリフになります」と宣言した。

それまでアブー・ムスリムに従っていたありとあらゆる反体制派たちは
「なんだそりゃ、聞いてねえ!!」と驚愕したが、なんとなく場の勢いで新カリフが確定。

世にいう「アッバース革命」であり、「アッバース朝イスラーム帝国」の誕生である。
750年のことだった。

34: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)00:43:52 ID:rY8T87n2j
面白くなってきた

40: 2014/07/20(日)00:51:34 ID:JNmKIlnNz
ところで、その頃、大陸のはるか東の方でもう一つの巨大な帝国が繁栄していた。
「唐」である。

時は西暦751年。
アッバース革命の翌年、唐の将軍「高仙芝」は標高5000メートルのパミール高原を突破し、
ウズベキスタンのタシケントを急襲した。

タシケント王はアッバース朝、正確には中央アジアの実質的な支配者だった
アブー・ムスリムに助けを求めた。

そこでアブー・ムスリムは腹心の部下を派遣し、タラス河畔で唐軍と戦わせる。
唐軍は夜更けの戦いで裏切りが出て総崩れとなり、
高仙芝自身も棍棒を振り回して命からがら逃走した。
この時捕虜になった唐軍兵士の中に製紙職人がいて、
漢代に発明された「紙」というものが初めて大陸西方に伝わることになる。

さて、そんなアブー・ムスリムもお約束の通り、
二代目カリフのマンスールに危険視されて殺される。
アブー・ムスリムは「わ、わたしを生かしておけば必ずあなたの敵を滅ぼします!!」と
命乞いするが、マンスールは「おまえ以上に危険な敵がどこにいる」と言い捨てたという。

その通りですね。


マンスールは、今やユーラシア大陸の半分にまで広がった帝国を支配するのに
ふさわしい土地を探し回り、やがてイラクの中央分の「バグダード」という場所に
新しい都を建設する。

バグダードの中心部は円形の城壁に囲まれ、最盛期には100万人もの人々が住む。
ここに世界中の富と情報が集まり、カリフは密偵や郵便制度を使って、
都にいながらにして世界中のことを知っていたという。

ちなみにアッバース朝というのは非常に専制的で、カリフ絶対主義だった。
カリフの横にはいつも死刑執行人が控えており、カリフの命令一下、
誰の首をも即座に切り落としたという。

42: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)00:54:56 ID:UL4M0uuyv
タラス河畔!!
タラス河畔!!

44: 2014/07/20(日)01:08:18 ID:JNmKIlnNz
アッバース朝の最盛期は第5代カリフ、ハールーン・アッラシードの時代。
彼は「アラビアンナイト」に何度も登場するので有名。
ドラ○もんの映画に登場したことさえあるので、多分日本で一番有名なアッバース朝カリフ。

しかし、史実のハールーン・アッラシードは大した名君とは言えない。
治世前半には宰相一族の操り人形に過ぎなかったし、その宰相のジャアファル
(アラビアンナイトの物語ではハールーンと一緒によくお忍びやってる)が
自分の妹に色目を使ったのにキレて突然宰相一族粛清したはいいものの、
ちょうどそのころから各地で反乱祭りとなり、ハールーン自身、イランの反乱鎮圧中に病死する。

ハールーンの子のマアムーンは大変学問好きで、バグダードに「知恵の館」という施設を作った。
これは図書館と研究所と大学と翻訳センターを兼ねていて、ギリシア・ローマやペルシア・インドなど、
イスラームがそれまで接触・征服したあらゆる地域の古典や学問研究の成果を結集し、
アラビア語に翻訳して後世に伝えるという役割を果たした。

今残っている古代ギリシアのプラトンやアリストテレスの哲学書なんかも、
ほとんどはこの頃アラビア語に訳されたものだったりする。
ギリシア本土やヨーロッパでは文献が散逸してしまったのだ。


しかし政治的には(ry

モロッコのイドリース朝、チュニジアのアグラブ朝、イラン東部のターヒル朝。
帝国は広大すぎた。辺境で次々に地方政権が台頭し、名目上はアッバース朝の
主権を認めるものの、実際には好き放題に自治をするようになる。
たとえていえば、戦国初期の室町幕府に近い。

マアムーンの死後、ムタワッキルというカリフは王朝をたてなおそうと、
「マムルーク」を導入した。

これは中央アジアにいたトルコ系の遊牧民の青少年を奴隷として大量に購入し、
みっちりと軍事訓練を施し、カリフへの忠誠心を植え付けて直属軍にしようという試みだった。

しかし結果として、その後の政治はマムルークたちの思うがままとなり、
歴代カリフは完全にマムルークたちの神輿と化す。

その頃、イラク南部では「ザンジュ」と呼ばれた黒人奴隷の大反乱が起こったり、
「カルマト派」という過激派がメッカを襲撃してカアバ神殿の黒い隕石を強奪したりと
実になんとも滅茶苦茶な政治情勢となっていった。

47: 2014/07/20(日)01:26:50 ID:JNmKIlnNz
ところで、そんなアッバース朝中央をよそに、はるか西方で栄える国があった。

750年のアッバース革命のときに、シリアにいたウマイヤ朝の王族は皆殺しにされる。
そのとき、たった一人の青年が身一つで脱出し、装身具を売り払って逃走資金にし、
川を泳ぎ山を越えて危地を掻い潜り、アッバース朝の目の届かない遥か西方に逃れた。

彼の名はアブドゥル・ラフマーン。母親が北アフリカのベルベル族で、金髪に青い目をしていたという。
ベルベル族の土地にたどり着いた彼は、海の向こうに豊かな国があると聞いて、イベリア半島に乗り込んだ。

帝国中心からあまりにも遠く離れ、未開の異教徒が跳梁する
「ヨーロッパ」と隣り合うイベリア半島。

この土地でアブドゥル・ラフマーンはみるみる頭角を現し、
次々に都市を占領し、アッバース朝の支配の及ばない独自の王国を築き上げた。
時のカリフ、マンスールはこれを奪還しようとするが、
アブドゥル・ラフマーンはアッバース朝軍を撃破したばかりか、
その指揮官の首を塩漬けにしてマンスールに送り付けた。
マンスールは
「このように恐ろしい男と自分との間に大海をおいたアッラーに讃えあれ」
と叫ぶとともに、
「ただ一人三大陸を巡り、徒手空拳で王国を築く。
 彼こそはクライシュ族(ムハンマド一族)の鷹である」と称賛した、と言われている。


アブドゥル・ラフマーンの築いた国は「後ウマイヤ朝」と呼ばれ、
その後200年以上に渡ってイベリア半島を支配する。

ローマ帝国崩壊後に文明の衰微した北方ヨーロッパとは対照的に、
無数の図書館や学校、浴場や庭園に満ち溢れ、
キリスト教徒、ムスリム、ユダヤ教徒が平和に共存する豊かな国だったという。


後ウマイヤ朝の後期になると、アッバース朝の衰退を見て、
王は「カリフ」を称する。

末期のカリフ、アル・ハカム2世は生涯に20万冊の書物を読んだとすら言われている。
しかしカリフがあまりにも読書に熱中しているうちに、権力は彼の手から滑り落ちていった。

宰相が実権を奪ったのはまあいい。彼はとても有能だった。
ところが、宰相の息子がいけなかった。まったくの無能で人望の欠片もない。
極め付けは、祖父がキリスト教徒のナバラ国王だったために金髪をしていたことだった。
「異教徒みたいな奴だ」とブーイングを浴びながら、カリフの位を狙って
無茶なクーデターを起こしたので、反対派が沸き起こり、混乱のなかで後ウマイヤ朝自体が崩壊。

以後のイベリア半島は、国土回復を目指すキリスト教諸国と分裂したイスラーム諸国が
くんずほぐれつの泥仕合を繰り広げることになる。

48: 2014/07/20(日)01:36:09 ID:JNmKIlnNz
北アフリカにも新興の勢力が出た。

ムハンマドの娘ファーティマ、そしてその婿であるアリーの末裔を称する
「ファーティマ朝」だ。

ファーティマ朝の起源は、「胡散臭い武装教団」そのものだったが、
10世紀初めに北アフリカ最大の都市チュニスを占領してから爆発的に勢力を拡大。
たちまちエジプトまでを占領し、アッバース朝に残された領土の半分を奪った。
ファーティマ朝はその名前からも察せる通り、シーア派の王朝だった。
それまで日陰の存在だったシーア派が、ついに大国を支配するようになったのだ。


同じ頃、東側でも強力な新興勢力が出た。
イラン北部、カスピ海のほとりに住むダイラム人が建てたブワイフ朝だ。
ダイラム人は早くから精強な歩兵として知られていて、傭兵として暮らしを立てる者が多かった。
そんな傭兵隊長たちのなかに、「ブワイフ」という男から生まれた三人の兄弟がいた。
彼らは協力して自分たちの国を作り、イランを支配した。

権力が確立すれば権威がほしくなる。

945年、三兄弟の一人、ムイッズは大軍を率いてバグダードに「上洛」し、
怯えるカリフから「大アミール」という称号をもぎ取った。

これ以後しばらく、アッバース朝カリフは内にあってはマムルークの神輿、
外にあってはブワイフ朝の傀儡となる。

49: 2014/07/20(日)01:49:58 ID:JNmKIlnNz
さて、それより少し前に大陸の遥か東方で大変動が始まっていた。


アッバース革命の翌年、中国の「唐」とアッバース朝がタラス河畔で交戦したが、
これは唐がもっとも西に伸びた瞬間だった。

ところがそれから僅か4年後の755年、唐の本国で異変が起こる。
現在の北京周辺を任されていた将軍、安禄山が反乱を起こすのだ。
帝国副都の洛陽、そして首都長安はたちまち陥落し、皇帝玄宗は四川に逃れた。
唐はこの反乱を自力で鎮定することが不可能で、遊牧民のウイグル族に支援を求めた。
ウイグルの援助で辛うじて安禄山の乱は鎮定されたが、隙を狙ってチベットの吐蕃が挙兵。
長安を一瞬ながら占領し、シルクロードの喉元である河西に進出し、唐と中央アジアの連絡を絶った。

これ以後、唐の国力は大きく低下し、ウイグルと吐蕃が東ユーラシアの覇者となる。

ところが840年にモンゴル高原を大寒波が襲い、大量の家畜が凍死。
ウイグル帝国は見事に崩壊し、モンゴル高原の遊牧民は四方に散っていった。

こうして、この大陸の歴史上で何度目かの「民族大移動」がはじまる。
西に動いたウイグル族に背中を押されたテュルク族は、アラル海周辺、
現在のウズベキスタンを中心とする肥沃な農耕地帯に侵入し始めた。

これを受けて、このあたりの地方政権はテュルク族を傭兵として盛んに起用する。
そのうちに、主人の政権を乗っ取ってテュルク族自身が政権を運営するようになる。

こうしてウイグル帝国崩壊から約100年後、940年にアフガニスタンで「ガズナ朝」が生まれる。

ガズナ朝が最も栄えたのは第5代マフムードの時代だった。
彼は恐るべき征服者で、13回にわたってインドに遠征。
向かうところ敵なく、ヒンドゥー教の寺院を破壊掠奪してまわった。
グジャラートではマフムードの兵士たちが神像を叩き壊したところ、
中から何百年ものあいだ巡礼者たちが寄付した膨大な金銀財宝があふれ出し、
それを戦利品として持ち帰ったために7年間も税を取る必要が無くなったという。

しかしマフムードが世を去る頃、テュルク族の中でも最も強力な部族が姿を見せつつあった。

50: 2014/07/20(日)01:56:46 ID:JNmKIlnNz
1040年、「ダンダンカーンの戦い」という変な名前の戦いで、
ガズナ朝はこの新興勢力、「セルジューク族」に大敗した。

セルジュークはその頃登場したテュルクの一部族で、
その後みるみる勢力を拡大する。

そして1055年、セルジュークの族長トゥグリル・ベクは
イラン全土を制圧し、ブワイフ朝を蹴散らしてバグダードに「上洛」する。
いわば桶狭間で大国今川を破り、三好一族を蹴散らして上洛した織田信長のごとし。

トゥグリル・ベクはバグダードでアッバース朝カリフに謁見もとい恫喝して娘を嫁に迎え、
「東洋と西洋のスルタン」という厨二病気味な称号を獲得した。
ちなみに「スルタン」とはアラビア語で「支配者」のこと。

ところが、1063年にトゥグリル・ベクは「鼻血が一向に止まらない」という奇病で死亡する。

51: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)02:04:08 ID:UL4M0uuyv
ついにセルジュークまで来たか

52: 2014/07/20(日)02:04:33 ID:JNmKIlnNz
次に甥のアルプ・アルスランがセルジュークのスルタンとなる。

アルプ・アルスランはニザーム・アルムルクというペルシア人の文官を宰相にして、
政治一切を任せた。
もとより当時のテュルク人は戦うことが全てで、おそらく文字の読み書きもできない。
これ以後、「テュルク人が戦い、ペルシア人が政治をする」という分業が定着する。

アルプ・アルスランは名将で、西のアナトリア(現在のトルコ)に遠征し、
東ローマ帝国軍を破って皇帝を捕虜にした。
これ以後、アナトリアに大量のテュルク人が移住し、イスラーム国家「トルコ」の淵源となる。

ところが、それからしばらく後。
中央アジアのサマルカンドを攻撃していたアルプ・アルスランは、
捕えた敵将に「ふんぞり返って威張りくさる女みたいな男めが」と挑発されたのに激昂し、
「そいつの縄を解け! 俺が手ずから射殺してやるわ!!」と命じるも、興奮のあまり矢を外す。
二の矢をつがえる暇もなく敵将が切りかかってきて、あえなく非業の死を遂げたという。


バカである。

54: 2014/07/20(日)02:14:27 ID:JNmKIlnNz
アルプ・アルスランが馬鹿げた死に方をした後、息子のマリク・シャーが即位する。
彼は狩猟が趣味で、政治には全く興味がなかったので、
宰相のニザーム・アルムルクが国政の全権を握ることになった。


ところで、ニザーム・アルムルクにはこんな伝説がある。

彼は若いころ、とある学院で勉学に励んでいた。
その頃、彼には二人の親友がおり、一人はオマル、一人はハサンと言った。
彼らは互いに「いちばん早く出世した者が残り二人を引き立てよう」と約束した。

やがてニザームが宰相となると、約束通り残る二人を招く。
オマルは詩人で学者だったので、天文台の長官となった。
そしてハサンは書記官になったが、彼は実は狂信的なシーア派信徒であり、
シーア派を弾圧するニザームにひそかに敵意を抱いていた。

ある時、王がニザームにある報告書の提出を命じた。
ニザームは「1年かかります」と答えたが、ハサンは「俺なら40日でできますしおすしwwww」と返答。
ハサンは本当に40日で報告書を完成させてしまったので、ニザームは動揺して、
ハサンが発表する直前に原稿をぐちゃぐちゃに入れ替えた。

王の前で発表を開始するもしどろもどろになるハサンに対して、ニザームは「無能wwwww」と嘲笑。
ハサンは憤激して王宮を飛び出し、ひそかに秘密結社を結成。
弟子たちにシーア派の教義と、教敵を暗殺すれば天国へ行けるという洗脳を施し、ニザームを襲撃させた……という。


上記の逸話、検証してみると登場人物たちの年齢差その他からありえないとされているものの、
ニザーム・アルムルクが暗殺されて死んだのは事実。

55: 2014/07/20(日)02:22:58 ID:JNmKIlnNz
さて、セルジューク朝は大帝国を築いたものの、王位継承のルールなどはいたって適当であったので、
マリク・シャーが死んだ頃から、たちまち分裂しまくることになった。

そのなかで一応もっとも有力だったのはマリク・シャーの五男のサンジャル。
彼はどうにか分裂したセルジューク諸国を曲がりなりにもまとめ上げるが、
そんななかで見たことも聞いたこともない敵が東からやって来た。


それより少し前のこと。
ユーラシア大陸の遥か東方では、唐帝国が崩壊したあとに五代十国の戦乱を経て、
北には「遼」、南には「宋」という二大国が成立していた。
そのうち遼のほうが、1125年に新興の「金」に滅ぼされる。

そのとき、まるで後ウマイヤ朝のアブドル・ラフマーンと同じように、
「耶律大石」という王族だけが辛うじて西へ逃走し、やがて態勢を立て直し、
金の力の及ばない西方、中央アジアで新しい国を建設する。
「西遼」または「カラ・キタイ」と呼ばれる、あまりに史料が少なく謎に満ちた国である。

1141年、この耶律大石率いる西遼軍が中央アジアのサマルカンド近郊に出現。
セルジューク朝のサンジャルは戦いを挑むも敗走。
セルジューク諸国の分裂はこれで確定する。

56: 2014/07/20(日)02:30:19 ID:JNmKIlnNz
このようにセルジューク軍の主力が中央アジアに集中している頃、
西側から別の侵略者たちがやってきていた。


発端はセルジューク朝の西方進出で、東ローマ帝国が危機に陥ったことだった。
東ローマ皇帝アレクシオスは、西方の未開な半蛮族連中を傭兵として使おうと思い立ち、
ローマ教皇に「異教徒どもが聖地エルサレムを脅かしてる件」と連絡する。

これを見たローマ教皇は、その頃ヨーロッパ側でもいろいろとノリノリの時代だったこともあり
「ここは景気よく聖都奪還の大遠征なんてどうよ」と思い立つ。

かくてヨーロッパ各地の諸侯を集めて「我らの大地から異教徒どもを一掃すべし」と宣言。
いわゆる「十字軍」の始まりである。


「十字軍」という狂信もとい宗教的情熱に燃えた集団の来襲は
アナトリアやシリア沿岸のセルジューク諸国の全く予期しないところであった。
不意打ちのような感じでシリア沿岸部はキリスト教勢力に占領され、エルサレムも陥落。
これ以後、エルサレム周辺を維持するキリスト教徒と、
彼らを追い出そうとするイスラーム勢力の泥仕合が開始される。

57: 2014/07/20(日)02:36:22 ID:JNmKIlnNz
「十字軍戦争」は150年以上続いた。

第一ラウンドはキリスト教側がひたすら押す。

第二ラウンドではイスラーム側が反撃開始。
クルド人の将軍サラディンがファーティマ朝を滅ぼしてエジプトを掌握し、
シリアに攻め上り、エルサレムを攻略する。

これに対してキリスト教側はドイツ・フランス・イングランドの三王連合軍という
豪勢な布陣で挑むも、まともに戦う気が合ったのはイングランド王リチャードのみ。

リチャードとサラディンの派手で華々しいとはいえ、戦略的にほとんど無意味な対決。

力押しはあかんと悟ったキリスト教側は第三ラウンドとして、搦め手からの攻略を試みる。
シリアの敵前に直接上陸するのではなく、敵の本拠地のエジプトに向かったのだ。
ところが主力のフランス軍がエジプトに上陸したところ、
たちまち敵軍に迎撃され、あっけなく国王が捕虜になる体たらく。


(終わらない件)

58: 2014/07/20(日)02:41:11 ID:JNmKIlnNz
13世紀になった。

この時点のイスラーム世界は分裂を極めていた。
インドに進出したイスラーム勢力は、北インドのデリー周辺を支配。
アフガニスタンからシリアにかけてはテュルク系の大小諸国。
イラクには最早誰の傀儡かもよく分からないながら、傀儡であることは確かなアッバース朝。
エジプトはアイユーブ朝。
北アフリカにはアラブ系のこれまた大小諸国。
イベリア半島は後ウマイヤ朝の崩壊後、キリスト教諸国とイスラーム諸国の慢性戦争真っ最中。

そんな中、新星が中央アジアに上り始めていた。
その国は「ホラズム・シャー国」。国王はアラー・アッディーン。
彼は周辺の西遼、カラ・ハン国、セルジューク、ゴール朝などを次々に破り、
イラン高原の半分以上を支配しようとしていた。
ところがその時、さらに東から魔王がやってきた。

魔王の名前を「チンギス・ハン」という。

60: 2014/07/20(日)02:54:03 ID:JNmKIlnNz
13世紀。

ウイグル崩壊以来、3世紀ものあいだ分裂し続けていたモンゴル高原は、
1206年に統一された。

統一者は「チンギス・ハン」を名乗る。世界を震え上がらせる魔王である。

魔王は西をさし示した。
そこにはホラズムがあった。
ホラズム軍は魔王の軍隊に接触した途端に溶け去った。
国王アッラー・アッディーンは国を捨てて逃走し、魔王の番犬、ジェベとスブタイがこれを追撃した。
二人の番犬は王を見失うも「行けるところまで行ってみようぞ」と結論し、
カスピ海の周りをぐるりと一周し、まったく無関係のグルジアだのロシアだのを荒らしまわって帰った。

魔王が死亡して安心するのもつかの間、魔王の子や孫もやっぱり魔王だった。

二代目魔王のオゴデイは北中国から東欧までを征服。
三代目魔王のグユクは何もしなかったが、四代目魔王のモンケは非常に危険だった。

「世界征服」

世界の歴史上、本気でこれを企図した希少な存在がモンケである。

彼は弟の魔将軍クビライを中国南部、魔将軍フレグをイラン・イラクへ送り出した。

フレグはイランを一瞬で踏み荒らし、バグダードに残っていたアッバース朝をあっさり滅ぼした。
ちなみにこの時、ムスリムの学者たちは「カリフを殺せば世界が滅びます」と脅したが、
キリスト教徒の学者たちは「んなわけないですしwww」と主張したので、後日優遇されたらしい。

魔将軍フレグはそのままシリアに進み、さらにエジプトを窺おうとした。
ところがその時、はるか東の彼方で魔王モンケが急死。
魔将軍フレグは魔風の速さで東へ帰国した。



モンゴル帝国まで来たらイスラーム世界史の半分は消化したことになるので、
とりあえずここまでで、明日残っていたら続けますわ。

最後いい加減ですいませんな。

というか細かすぎるな。

66: うみほー◆rGrfgJ5680gn 2014/07/20(日)08:34:29 ID:uUr3u0EVd
面白い

イスラーム世界で女子供が困るのもわかる
常に戦争で男が国に居ねえwww

67: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)08:36:45 ID:K2of4EsRV
十字軍あっさりーの

68: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)09:11:45 ID:hN3mpgyzt
なんとまぁ暗殺と使い捨ての多いこと

70: 2014/07/20(日)15:14:13 ID:dkU8dQkVy
ダラダラダラと語ってきてしまったので、ここまでの大きな流れを整理してみたい。

まず、7世紀にササン朝ペルシアと東ローマ帝国が大戦争を続けているさなか、
突然アラビア半島で「イスラーム」という宗教が誕生し、「正統カリフ」たちの指導のもとで
アラブ族たちが「大征服」を開始する。ササン朝はあっさり崩壊し、東ローマも領土の半分を失う。

アラブ族たちは内乱を経て「ウマイヤ朝」を立てる。
ウマイヤ朝はさらに拡大し、東は中央アジア、西はイベリア(スペイン)にまで達する。
言い忘れていたけど、中世イスラーム世界の地理認識ではイラク・シリアあたりを中央として、
それより東のイラン・中央アジアを「マシュリク」(東方)、北アフリカ・イベリアを
「マグレブ」(西方)と呼んでいた。

ウマイヤ朝ができて100年ぐらいすると、中央アジアで反乱が起こって「アッバース朝」が誕生する。
このアッバース朝は、アラブ人中心のウマイヤ朝とは違ってペルシア人を重用した。
これ以後、イスラームを生み出したアラブ族は、とくにマシュリクではどちらかというと二線級の存在になる。

ところがアッバース朝は広大すぎる領土を統制しきれず、各地で地方政権が成立。
イベリア(アンダルス)の後ウマイヤ朝、北アフリカ(イフリーキヤ)のファーティマ朝は「カリフ」の称号すら名乗った。

東方では9世紀頃からテュルク系遊牧民が流入開始。
最初は傭兵として、のちには征服者としてイスラーム世界の東半分を制覇する。
12世紀頃までには、マシュリクは武人であるテュルク人と文官であるペルシア人が君臨する世界になった。
エジプトより西のマグレブでは依然アラブ系が主流。

ちなみにこの頃までに、イスラームという宗教はウマイヤ朝やアッバース朝の領土をさらに越えて拡大している。
「イスラーム」というのは聖職者がなく、一般的なイメージに反して異教徒を改宗させることにはあまり熱心ではない。
しかしアッバース朝のもたらした平和のもとでインド洋全域に乗り出した交易商人たちや、砂漠や草原を行く隊商たちは
訪れた各地の人々に「イスラーム」という宗教の存在を印象づけた。
とくに西アジアに比べてあまり文明の進んでいない地域(ほとんどどこでもそうだけど)では、
「イスラーム」は文明の象徴として受容される傾向にあった。


13世紀、モンゴル帝国が成立するころまでに、「イスラーム」はサハラ砂漠の南のニジェール流域、
東アフリカの沿岸部、北インドと南インドの沿岸地域、内陸ユーラシアの大草原、南シベリア、
そして中国南部の沿岸地域にまで伝播していた。

71: 2014/07/20(日)15:27:27 ID:dkU8dQkVy
飛ばしていたところについて追加で説明すると、まずインドの状況。

テュルク系傭兵が建てたガズナ朝のマフムードは13回もインドに遠征したけれど、
これはあくまで一過性の掠奪遠征に過ぎなかった。
しかしインドの豊かさを知った中央アジアのテュルク人たちは、これ以後本格的なインド進出を目指す。

ガズナ朝に取って代わったゴール朝はデリーまで進出。
ゴール朝が衰えると、配下のマムルーク、つまり軍事奴隷が独立して「奴隷王朝」を築く。
この奴隷王朝に始まる5つの王朝を「デリー・スルタン朝」と呼び、デリーを中心に北インドを征服していった。


もう一つはアフリカ。

サハラ砂漠の南の熱帯地方には、早くからガーナ王国という大国があった。
この地方は砂金や岩塩が豊富で、イスラームが北アフリカを征服すると、多くの商人が来るようになった。
ガーナ王国や、その後に成立したマリ王国の支配者たちは徐々にイスラームを受け入れ、
学者を保護し、学院を立てて本格的なイスラーム国家に変化していく。

時は流れて11世紀。
後ウマイヤ朝とファーティマ朝が衰退してマグレブ(西方)が混沌としはじめる頃。
サハラ砂漠西部のセネガルで「イスラーム神秘主義」という宗教運動が広まり、
武装教団のようなものが結成される。
(ファーティマ朝以来、マグレブではしょっちゅうこの手の武装教団が登場する)

彼らは「アル・ムラーヴィト」と自称し、サハラ砂漠の南北を蹂躙し、
北アフリカの沿岸部を制圧し、さらにイベリア半島に乗り込んでキリスト教徒と激闘を繰り広げた。

それからほどなく、今度は「アル・ムワッヒド」という武装教団が出現。
これも全く同じようにサハラ砂漠の南北を蹂躙し、北アフリカの沿岸部を制圧し、
イベリア半島に乗り込んでキリスト教徒と激闘を繰り広げた。


でもこのあたりの歴史については、東方との関わりも少ないのでこのくらいでいいかと思う。

72: 2014/07/20(日)15:47:11 ID:dkU8dQkVy
さて、モンゴル帝国のフレグが西アジア征服を開始したとき、エジプトに一人の英雄が現れる。

彼の名はバイバルス。出身は南ロシア。
モンゴル軍がロシア・東ヨーロッパに遠征したときに少年だったバイバルスは捕虜となって、
奴隷商人に売り飛ばされた。
もともと片目だったのでなかなか買い手がつかなかったが、やがてエジプトを支配するアイユーブ朝
(十字軍と戦ったサラディンが建てた国)のスルタン親衛隊に取り立てられる。
奴隷軍人、この頃イスラーム世界各地で盛んに使われていた「マムルーク」だ。

バイバルスはおそろしく体力があって、鎧を着たまま筏を引っ張ってナイル川を泳ぎ渡ったり、
1日で600キロを駆け抜けたあとに平気でポロの試合に出場したりしたらしい。

そんななか、エジプトにフランスの「十字軍」が来襲する。
そのとき折あしく、スルタンは重病で瀕死の状態だった。
やむなく「シャジャル・ドッル」という王妃が国政をとり、マムルークたちが奮闘してフランス軍を破り、国王を捕虜にした。
ちなみにこの「シャジャル・ドッル」ももともとは奴隷出身だった。

シリアに出陣していた王子が急ぎ帰国して王位につくが、彼は奮闘したシャジャル・ドッルやマムルークたちを蔑ろにした。
不満を持ったマムルークたちは王子を襲って殺害する。

ちなみにこのとき何を思ったか、マムルークたちは閉じ込めていたフランス王を引き出して、
彼の目の前でアイユーブ朝の王子を切り捨てたらしい。
フランス王迷惑www

そんなわけでアイユーブ朝は滅亡し、奴隷軍人マムルークたち自身の王国、「マムルーク朝」が成立する。
初代国王はなんとシャジャル・ドッル。
イスラーム史上稀有の女王になった。

74: 2014/07/20(日)15:57:11 ID:dkU8dQkVy
ところがエジプトでは政変が続く。

シャジャル・ドッルは女王であることに不安を感じたのか、有力なマムルークの武将と結婚し、彼に王位を渡す。
粛清が始まり、ライバルになりそうなマムルークたちは軒並み殺されるか追放された。バイバルスもその一人だった。


1258年。
東方から来た魔将フレグはバグダードを占領し、アッバース朝最後の飾り物のカリフを処刑した。
一説では、カリフが財宝を惜しんで守備兵を雇わなかったことを嘲笑して、宝石庫に閉じ込めて餓死させたとか。
陰険である。

圧倒的に強力な魔軍モンゴルの出現を前に、「十字軍戦争」どころではなくなった。
シリア沿岸で延々叩き合いをやっていたキリスト教徒とムスリムは、揃ってモンゴル軍に降伏。
昨日までの宿敵同士が仲良くエジプトへ進軍を開始することになった。

エジプトが落ちれば北アフリカも落ち、地中海も落ち、世界はモンゴルに征服される。
この危機を前に、祖国を追われたバイバルスは手勢を率いて帰還する。

75: 2014/07/20(日)16:07:40 ID:dkU8dQkVy
ところで当時エジプトを支配していたマムルークというのは、基本的にテュルク系の遊牧民。
要はモンゴル軍と同じく、中央ユーラシアの草原出身で、草原の騎馬戦術を知悉している。
おまけにモンゴル兵は「ふつーの遊牧民」が副業で軍人をやっているだけなのに対して、
マムルークたちは、いずれ現れるであろうモンゴル軍に備えて、職業軍人として軍事訓練を繰り返していた。

それでも、魔軍モンゴルはこの時点でほぼ常勝不敗だった。たぶんマムルークたちは絶望的な心境だっただろう。

ところが、ここで変事が起きる。
遠く中国に出陣していた魔王モンケが急死、魔将フレグは次期魔王決定戦に備えて急ぎイランへ撤退する。
あとにはたった1万2千のモンゴル軍が残された。
が、「それでも俺らは無敵だし」と大胆にもモンゴル軍は更に南下を続けた。

そして両軍は、南パレスチナの「アイン・ジャールート」で激突する。

このとき先鋒の将軍だったバイバルスは、モンゴル軍が得意とする囮戦術を使って、
逆にモンゴル軍を罠に引きずり込んで包囲殲滅した。

無敵モンゴル軍は建国以来半世紀を経て、はじめて、白日の下で、完膚なきまでに惨敗した。
魔法は解けた。モンゴルは魔軍ではなく、単なる人間だったことが証明された。


英雄になったバイバルスは帰りの最中にサクッと邪魔な上司を暗殺して、自分が王位につく。
それ以後バイバルスはものすごい活躍を開始する。


内政を整備しまくり、外交を駆使しまくり、外征しまくって、
ついに「十字軍」を事実上すべて叩き出すことに成功。
その後も繰り返されたモンゴル軍の侵攻もすべて撃退した。
バイバルスはあまりに頻繁に遠征したので、「生涯で地球を七周半した」とも言われている。

これ以後、中央アジアからイランまではモンゴル帝国の勢力圏、
シリア・エジプトはマムルーク朝の勢力圏として、両大国が拮抗する情勢となる。

77: 2014/07/20(日)16:27:22 ID:dkU8dQkVy
14世紀になるとモンゴル帝国は分裂を重ね、イラン高原なんぞ群小豪族と宗教団体が入り乱れる戦国乱世となった。
そんななか、中央アジアで突然、歴史の流れを力づくで逆行させる一大英雄が出現した。

彼の名はティムール。
モンゴル系の小貴族の子で、子供のころは羊泥棒なんぞをやっていたらしい。
捕まって足を散々殴られたせいで生涯片足が使えなくなったともいう。

だがしかし、青年になったティムールは中央アジアに東西から様々な野心家たちが攻め込む中で、
次第に頭角を現し、1360年には中央アジア最大の都市、サマルカンドに入城した。

ティムールは全人類の歴史上で、戦場での指揮能力だけで見れば最強の軍人だったと思われる。
彼はこれから東西南北に息つく間もなく遠征し、たった一人でモンゴル帝国の西半分、ユーラシアの三分の一を再統一してしまう。
峻険な山岳地帯も、灼熱の砂漠も、氷雪の荒野も、荒波の蒼海も彼を阻むことはできなかった。
ティムールは、北はシベリア、南はインド、西は地中海までを征服し、抵抗するすべての都市を破壊し、
抵抗したすべての人間を殺し、至る所で頭蓋骨のピラミッドを建設し、そしてあらゆる職人をサマルカンドに連れ帰った。

世界中の美しいものを破壊し、美しいものを作る人間をサマルカンドに集めて、サマルカンドにその美を再現させた。
そういうわけで、現在のウズベキスタンに位置する古都サマルカンドは「中央アジアの真珠」と言われる美都となった。

ちなみにティムールにはいろいろな逸話がある。

たとえば、彼はチェスの達人だった。戦いの前夜には深夜までひとりチェス盤に向き合って、駒を動かしながら作戦を練ったという。
息子が生まれたときにチェスの勝負をしていて、王と城の駒を取ったところだったので、
「シャー・ルフ」(王・城)なんていうDQNネームをつけている。

文字は読めなかったけど何か国語をも理解し、歴史物語を語らせるのが好きだった。
シリアのダマスカスを包囲したとき、ちょうど城内にいた北アフリカの大歴史家イブン・ハルドゥーンを呼び出し、
延々北アフリカの地理について説明させたあと、古代バビロニアのネブカドネザル王が
どの民族だったかという無意味にアカデミックな議論を吹っかけたらしい。

敵に対しては血も涙もない人物だったけれど、部下はとても大切にしたらしい。
毎回サマルカンドを出陣するときに、城門の脇に兵士一人ひとりに石を投げさせた。
兵士たちが次々に出陣するにつれて、城門の脇には石の山ができた。
軍が凱旋すると、今度は兵士たちに石をひとつひとつ拾わせる。
それでも、戦いで死んでいった者たちの数だけの小さな石の山が最後に残る。
ティムールはそれを見て慟哭したと伝えられている。


そんなティムールはえらく年寄になるまで飽きもせず征服戦争を続け、70歳も過ぎてから「次は中国遠征」と号令。
何十万もの馬や羊や山羊を駆り集め、何年もの遠征の準備を整えて真冬に出陣したは良いものの、
寒さのあまり酒を飲みすぎて心臓発作を起こし、行軍中に急死。

ティムールの死とともに一代で築かれた大帝国は崩壊し、歴史の流れはもとに戻る。
元通り、モンゴル帝国の崩壊と分裂というプロセスが再開する。

78: 2014/07/20(日)16:42:30 ID:dkU8dQkVy
さてこの頃、イスラーム世界の最辺境で新しい勢力が生まれようとしていた。


11世紀後半、セルジューク朝のアルプ・アルスランが東ローマ帝国を破って以来、
アナトリアにテュルク族が続々と移住し始めた話をしたと思う。
当然ながら彼らはムスリムで、セルジューク朝の分裂とともにアナトリア各地にいくつもの小国が成立した。

そんな状況のところ、13世紀の中ごろに遥か東方から「エルトゥルル」という老族長が、
一握りの家畜と一族を連れて流れ着き、「ルーム・セルジューク朝」という地方政権に保護を求めた。
どうやらモンゴル軍の中央アジア侵攻から、命からがら逃げ落ちて来たらしい。

ルーム・セルジューク朝はエルトゥルルに領土の最西端、異教キリスト教の東ローマ帝国と接する地域に小さな領地を与えた。
エルトゥルルは生涯を族長というより羊飼いの長老レベルの人物として過ごした。

エルトゥルルの息子のオスマンはもう少し勢力を拡大した。
時は乱世になりつつあった。
辺境の地では宗教の違いはあまり問題にならない。
その土地ではキリスト教徒もムスリムも混じり合い、気兼ねなく近所づきあいをし、助け合って暮らしていた。
オスマンは冬は平地の町で暮らし、夏に高原に放牧しに行くときは麓のキリスト教の修道院に荷物と女子供を預けたという。

オスマンは夢があった。
彼が知っている世界の中でいちばん大きくて一番輝かしい町、「ブルサ」という丘の上の田舎町を、いつか自分のものにしたい。
オスマンは生涯をかけてこの夢を追い、何年もかけてブルサを包囲し、ブルサ陥落直前に世を去った。
彼が死んだとき、蔵には粗末な衣服と皿と匙、数枚の金貨程度しか残っていなかったという。

このオスマンから、やがて三つの大陸に600年間君臨する「オスマン帝国」が始まる。

80: 2014/07/20(日)16:57:27 ID:dkU8dQkVy
その頃、ルーム・セルジューク朝はもとより、千年続いた東ローマ帝国も滅亡を迎えようとしていた。
東ローマ帝国末期の相次ぐ帝位継承争いのなかで、アナトリアのテュルク系ムスリムたちはしばしば傭兵として使われた。
オスマン一族もその動きに乗って領土を拡大する。

東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルは黒海と地中海を結ぶボスポラス海峡に面する。
海峡の西はヨーロッパ、東はアジア、しかし海峡の幅は泳いで渡れるほどに狭い。
その狭い海峡を隔ててコンスタンティノープルを指呼の間に臨むスクタリがオスマン家の手に落ちた。

ついで帝位継承戦争の援軍として海峡を渡り、ヨーロッパ大陸に進出。勢いに乗って要衝アドリアノープルを占領。
ブルガリアを破り、セルビアを破り、キリスト教徒の騎士たちをも自軍に組み込み、
いつしかオスマン家はちょっとした地域政権になっていた。

1389年、コソヴォの戦いでバルカン半島のキリスト教諸侯連合軍を撃破。
ところがその陣中で、時のスルタン、ムラト1世が刺殺される。
その場に居合わせた王子バヤズィトは直ちに即位し、その後破竹の快進撃を開始した。

バヤズィトは疾風迅雷、神速の用兵を得意とし「雷光王」とあだ名される。
彼の指揮のもとで、オスマン家はバルカン半島の大半、アナトリアの大半を制覇した。
ところが、ここで「第二の魔王」ティムールが登場する。

アナトリア中部のアンカラでオスマン軍とティムール軍が激突。
さしもの雷光王も「第二の魔王」の敵ではなく、大敗を喫する。
バヤズィト自身も捕虜となり、オスマン国家は一時滅亡してしまった。


しかしティムールは遠隔のアナトリアにはあまり興味もなかったうえ、
いずれにせよ間もなく酒の飲みすぎで死亡する。

オスマン家の王子たちは体制を建て直し、国家を再建する。
そして1453年、オスマンの第7代スルタン、わずか21歳のメフメト2世は16万もの大軍を動員し、
一千年間にわたって陥落することがなかった東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルを占領した。

「ローマ帝国」はついに滅亡し、コンスタンティノープルに入城したメフメトは町を「イスタンブル」と改名。
ローマ皇帝の継承者と称した。

オスマン国家は「オスマン帝国」となったのだ。

83: 2014/07/20(日)17:23:48 ID:dkU8dQkVy
メフメト2世は「征服王」と言われるが、実際そこまで戦争がうまかったわけではない。
東ヨーロッパでの勢力拡大には苦労し、モルダビアやワラキア、アルバニアといった小国に最後まで抵抗された。
ちなみに現在のルーマニア南部にあたるワラキア公国を支配していたブラド3世は
オスマン軍の捕虜たちを串刺しにして侵入するオスマン軍を動揺させ、夜襲をかけてメフメト2世の天幕に肉薄した。

のちの「ドラキュラ公」のモデルである。

以上余談。


真に「征服王」というのにふさわしいのは、メフメトの孫のセリム1世だろう。
彼は東のペルシアを破り、シリア・エジプトを征服し、三大陸に広がるオスマン帝国を確立したのだ。
ところでその前に、ティムール帝国崩壊後のペルシア(イラン高原)の情勢を見ておきたい。


イラン高原ではティムール帝国崩壊後、群雄角逐の中で「白羊朝」と「黒羊朝」という二大勢力が台頭していた。
どちらもアゼルバイジャンあたりの遊牧部族で、もちろんイスラームを信じてはいたものの、
昔ながらのシャーマニズムの影響も残っていたのか、白い羊や黒い羊を自部族の象徴としていたらしい。

白羊朝のもとで盛んに蠢動する不穏な教団組織があった。
サフィー・アッディーン・ユースフという修行者が創始したこの教団をサファヴィー教団という。

たびたび白羊朝に弾圧を受けながらも勢力を蓄え、ときに白羊朝と協調して王女を教主の妻に迎えることもあった。

白羊朝が衰えた1499年、わずか12歳だった教主イスマーイールは各地の教徒に檄文を発した。
「今こそ我らの時がきた。決起せよ! 地上の楽園を実現せん!」

天才少年である。

84: 2014/07/20(日)17:24:07 ID:dkU8dQkVy
イスマーイールは天性の詩人であり、世界史上有数の名将であり、おまけに絶世の美少年だった。
でありながら、十代前半。

10代前半でありながら6000人もの教徒を結集したイスマーイールは、美貌と詩才で荒くれ男たちの心を虜にする。
「教主のためなら命をも惜しまじ!」と絶叫する荒くれ男たちの支持を受け、美少年は14歳にしてタブリーズを占領。
この町で「我らはシーア派の国家を建設する」と宣言し、10代のうちにイラン全土を征服した。

パねぇ天才少年である。

1510年、23歳のイスマーイールは中央アジアのメルヴで、南ロシアから大国を築きつつあった
モンゴル系遊牧民のシャイバーニー朝を破り、敵王シャイバーニー・ハーンの髑髏に金箔を貼って酒杯とした。

イスマーイールは幼いころから自分を神の化身と「本気で」信じていたらしく、いろいろと歪んでいるのである。


この天才美青年と、拡大を続けるオスマン帝国のセリム1世が、1514年にアナトリア東部で激突する。
この時、オスマン軍は大量の鉄砲と大砲を動員し、柵を巡らしてサファヴィー軍を待ち受けた。
イスマーイールはオスマン軍に向けて全軍突撃を指令する。

そのとき、地獄の蓋が開いた。
地響き立てて疾走するペルシア騎兵に向けて、オスマン軍の圧倒的な火力が放射され、戦場は虐殺の巷と化した。
サファヴィー軍は建国以来初めて敗北した。それもどうしようもなく決定的な敗北だった。

かくて青年イスマーイールは初めて理解した。

どうやら自分は神の化身ではなく、ただの人間であったらしいと。


天才青年は人生で最初のの挫折を味わい、それを乗り越えることができずに酒に溺れ、37歳で世を去る。
オスマン軍はタブリーズを占拠したものの、それ以上東へ進軍することはできず、転身してシリア、エジプトに進軍。

かつてモンゴル軍を破ったマムルーク朝の騎馬軍団も新時代の火薬兵器の敵ではなかった。

こうしてセリム1世は、ヨーロッパからアジア・アフリカにまたがる大帝国を建設する。

85: 2014/07/20(日)18:38:04 ID:dkU8dQkVy
その頃のこと、中央アジアで解体していくティムール帝国の王族の一人にバーブルという人物がいた。
彼は珍しく「バーブル・ナーマ」という自伝を書き残している。
あるとき風が吹いて一部の原稿が飛んでいってしまったらしいが、それでもとても有益な史料になっている。

さて、バーブルは若いころから中央アジア最大の都市サマルカンドを手に入れようと、同族間の争いを繰り返した。
三度手に入れて三度失い、悟った。
「ムリなもんはムリ」

そのとき、ふと思いついたのが、先祖のティムールが遠征したというインド、山の彼方の豊かな国のことだった。

その頃インドはデリーに首都を置くロディー朝の末期だった。
バーブルは1万程度の軍隊を率いてインドに侵入し、パーニーパットという場所でロディー朝の大軍と遭遇した。
敵軍は小山のような象を大量に動員していた。
バーブルは時代の流行に従って、鉄砲でこれに対抗。象たちは混乱して自軍に突っ込んで自滅。
バーブルは快勝してデリーに乗り込み、北インドの支配者となった。

彼らはティムールの子孫であり、さかのぼればチンギス・ハンの子孫になる。
インドの人々はバーブル一派をモンゴル、訛って「ムガル」と呼んだ。ムガル帝国である。


バーブルは自伝で、インドへの不満を延々と書き記している。
酷熱の気候、長雨と疫病、不潔さ、食べ物、すべてが気に入らなかった。
彼はいつも高燥な中央アジア、サマルカンドのメロンを夢見ていた。

ある時、バーブルの最愛の息子フマーユーンが熱病にかかった。
やはり忌々しいのはインドの気候である。
バーブルは「私の生命を捧げるので息子を救ってください」とアッラーに祈った。
祈りは聞き入れられ、フマーユーンは回復し、建国者バーブルは病死した。

まあ看病中に感染しただけだとも思うが。


フマーユーンはさほど有能ではなかったようで、シェール・シャーという人物に一時王権を奪われて中央アジアに逃げ帰っている。
そこで
ペルシアから来たサファヴィー朝に支援を求め、シーア派への改宗を条件に援軍を得た。
折しもインドではシェール・シャーが大砲の暴発で死亡。
野菜売りから成り上がったヘームーという武将がデリーを押さえるが、こちらはフマーユーンに追い払われた。

デリーを回復したフマーユーンであるが、翌年、書庫の階段で足を滑らせて転落死。息子アクバルが第三代皇帝として即位する。


アクバルはインドに暮らす様々な民族や彼らの宗教を尊重し、融和の姿勢を前面に出した。
異教徒からの徴税を停止し、ヒンドゥー諸王の娘たちを妻とする。
インドではムガル帝国のもとで、イスラームとヒンドゥーの融合した独自の文化が繁栄した。

86: 2014/07/20(日)18:48:28 ID:dkU8dQkVy
アクバルの次に皇帝になったのはジャハーンギール。
ペルシア語で「世界を掌握する者」という意味の名前だが、実際には彼はそんなに覇気のある人物ではなかった。

即位前の彼は反抗的で、二回謀反を起こして二回許されるも、二回目には父アクバルに平手打ちをされたという。
謀反を起こしながら平手打ちで済むとは寛大な話である。
即位後には、ある商人の未亡人(29)に一目惚れし、4年間も求愛を続けてめでたく彼女(33)を手にした。
ジャハーンギールは彼女に「ヌール・ジャハーン」(世界の光)という名前を与え、
彼女が非常に有能だったので、彼女とその一族に国政をすべて任せて毎日昼寝して暮らしたという。

ある時、冬に狼が遠吠えするのを聞いて、「山の狼が寒がっているから誰か服を持っていってやれ」と命じた逸話が残る。


ジャハーンギールの次はシャー・ジャハーン。「世界の王」を意味する名前だが、彼も似たり寄ったりのヒモ男であった。
最初は娘を政治顧問にし、次には王妃のムムターズ・マハルに政治を任せ、やはり昼寝をして日々を送る。
ムムターズ・マハルが死んだとき、嘆きに嘆いて彼が作らせたのが、かの霊廟「タージ・マハル」である。

87: 2014/07/20(日)19:02:25 ID:dkU8dQkVy
アクバル以降、二人のジャハーンはどちらも成り行き任せの性分でもあり、
アクバルの融和政策を弄ることはなかった。
ところが第5代として即位したアウラングゼーブは父や祖父よりはるかに有能で覇気のある君主だった。
彼は父、シャー・ジャハーンが重病になったとき、いち早く兵をあげ、各地の兄弟たちを尽く打ち破って殺す。

そのとき、父シャー・ジャハーンが奇跡的に重病から回復したという知らせが入った。
今更回復されても困るので、アウラングゼーブは打ち破った兄の生首を父の食卓に送り付ける。
当時デリーに居合わせたイタリア人の記録によれば、シャー・ジャハーンはこれを目にして絶叫し、
頭をテーブルに打ち付けて失神したという。

アウラングゼーブは失神した父を強制退位させて帝位につき、
父が死ぬまで「兄ばかり大事にして俺のことは見向きもせんで許せんわ」とネチネチと手紙を書き送ったという。

このようにしつこく執念深い性格のアウラングゼーブは、同時に狂信的なムスリムで、
インド全土を制覇し、イスラームを徹底することを目指していた。

帝国に従属していたヒンドゥー諸侯たちからの徴税を再開し、異教徒を圧迫し、
反抗する者は圧倒的な力で押しつぶした。

全土制圧のために南インドに大軍を送り、埒が明かないと見るや自ら都を捨てて前線に移る。
ちなみに、インドの人口構成上、その軍隊のほとんどがヒンドゥー教徒だったという事実は
深く追求すべきではないだろう。

1681年以降、アウラングゼーブは死に至るまで26年間も陣頭指揮を執り続け、二度と都に帰らなかった。
その甲斐あって一瞬ムガル帝国はインド亜大陸全土を統一したものの、たちまち各地で反乱が発生。
険しいデカン高原で無数のゲリラをもぐら叩きのように叩いてまわるなかでアウラングゼーブの後半生は過ぎていった。

1707年、アウラングゼーブは88歳という高齢で妄執の生涯を終える。
死の直前、彼は「余は愚かであった」と心底の後悔を書き残しているが、すでに遅かった。

アウラングゼーブが都を遠く離れた辺境の陣営で死去したとき、ムガル帝国はすでに崩壊していた。

88: 2014/07/20(日)19:41:37 ID:dkU8dQkVy
ちょっとまとめると、

ウマイヤ朝の大統一(7~8世紀)
アッバース朝の大統一(8~9世紀)
混乱状態(9~10世紀)
テュルク族の西進(10~12世紀)
モンゴル帝国vsマムルーク朝(13世紀)
ティムール帝国(14世紀)

と来て、15世紀の後半からは

オスマン帝国、サファヴィー朝ペルシア、ムガル帝国

という三大国がイスラーム世界に並立することになる。


書き方としてムガル帝国だけ先に片付けたので、次はオスマンとペルシアの続きか。

もはや見てる人いなさそうだわ。

91: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)19:44:01 ID:Fz8H9R5HA
浪人の俺にかなり役立つ~~www

92: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)19:44:45 ID:XkCJeaMZD
イスラムはごちゃごちゃして苦手(´・ω・`)

95: 2014/07/20(日)20:00:59 ID:dkU8dQkVy
最初に細かく書きすぎると、途中で濃度を薄められないのが問題で、
実は近代はそこまで詳しくないという


さて、オスマン帝国の続き。

セリム1世の後を継いだのはスレイマン1世。後の世では大帝と讃えられる。
といって、彼が何をしたかというのはちょっと難しい。
法典を整備して、十数回遠征したけど、ハンガリー征服以外はセリム以上に目立って領土を広げたわけではない。
地図上では彼の時代にオスマン帝国領は北アフリカをアルジェリアまで大拡大しているんだけど、
これは、このあたりの豪族や海賊が自分から帰順してきただけであり。

スレイマン大帝の事業でいちばん有名なのは第一次ウィーン遠征。
オスマン帝国はハンガリー征服後、中央ヨーロッパの大国ハプスブルク帝国と接触した。
その首都であり、西ヨーロッパの入り口というべき要衝、オーストリアのウィーンは
オスマン帝国の人々にとって「赤い林檎の国」といわれる憧れの場所だった。

なんで赤い林檎なのかは知らん。

スレイマンはウィーンを包囲するも、イスタンブルからここまで来るのに時間がかかりすぎ、
冬が迫ったので雪が降る前に撤退。
オスマン帝国の拡大の限界となった。

それとは別にスレイマンは艦隊をフランスのマルセイユや東南アジアのスマトラまで派遣したり、
中央アジアのブハラに援軍を送ったり、ドイツの宗教改革運動に介入したりしている。

スレイマンが何をしたのかというのは難しいけど、彼の時代のオスマンがまさに全盛期で、
その影響力がユーラシア大陸の多くの地域まで及んだのは間違いない。


休憩。

100: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)22:44:34 ID:JoG0YZDZH
かなり面白いよ

101: 名無しさん@おーぷん 2014/07/20(日)23:25:13 ID:5zbyFEnlI
支援

スレイマンの功績は中央集権化をほぼ完成させたことだね
スレイマン以降スルタンは形骸化し、宮廷出身の軍人政治家が政治の実権を握りそれを官僚機構が支えた

102: 名無しさん@おーぷん 2014/07/21(月)01:14:54 ID:KME5prTcb
保守

オスマントルコで面白いのは、政治の実権を握っていたのがイスラム教徒のトルコ人ではなく、被征服地のキリスト教徒の子弟たちだったこと
彼らは、徴用された被征服地のキリスト教徒の農民の子だったり捕虜となった旧支配者の子で、「スルタンの奴隷」と呼ばれた
イスラムに改修させられたのち徹底したエリート教育を授けられて、スルタン直属の常備軍(イェ二チェリ)を担ったりスルタンの側近として宮廷に入った
大宰相、宰相たちはみなこの「スルタンの奴隷」出身

故郷が征服されたと思ったら、帝国内部で立身出世の道が拓けるんだから人生はわからんもんだね

でも徴用される条件が、身体壮健、頭脳明晰、眉目秀麗だってさ

108: 2014/07/21(月)19:09:59 ID:sHNWsPuFe
>>102
それがこの国の面白いところで、だから中央政権の構成者たちは自分たちを「トルコ人」ではなく
独自の「オスマン人」という民族だと認識していたらしい。
スレイマン大帝晩年の大宰相ソコルル・メフメト・パシャもこのデウシルメ制度で徴用されたんだけど、
彼の実弟は徴用対象にならず、故郷で出征してやがて地元の大主教にまでなっている。

109: 名無しさん@おーぷん 2014/07/21(月)19:16:18 ID:zOCiR8Isk
イクター制

111: 2014/07/21(月)19:27:27 ID:sHNWsPuFe
>>109
それは言及しなかったけどセルジューク朝やマムルーク朝の制度だね。
テュルク系遊牧騎兵に領地と徴税権を与えるかわりに軍役の義務を課す。
まあ大雑把にいえばよくある制度。

前期オスマン帝国はイクター制を発展させたティマール制を導入し、
ムガルは領地ではなく俸禄と軍役を結び付けたマンサブダール制や
ジャーギールダール制が用いられた。
サファヴィー朝はもっといい加減な封建制だったので国家統制に苦労している。

113: 2014/07/21(月)19:37:45 ID:sHNWsPuFe
この時代からは、ユーラシア大陸最西端に成長した「ヨーロッパ」という文明が、
イスラーム世界の前に強大なライバルとして登場することになる。

ローマ帝国崩壊後、古代地中海世界の統一はやぶれ、地中海の北側と南・東側は異なる歴史を歩むことになった。
地中海の南と東は7世紀以降、イスラーム世界に組み込まれ、繁栄した。

北側の文明は衰微した。
激しい民族移動、広大な未開の森林、貧弱な土壌。
地中海の北側はユーラシア大陸のなかでも最も後進的な地域の一つとして、なかば孤立する。
しかし千年の時が過ぎるうちに、徐々に農業生産力が向上し、商業が興隆し、
キリスト教を共通の価値観とする「ヨーロッパ」という文明が芽生える。

イスラーム世界は、なぜか地中海の北側にはほとんど関心を持たずに来たらしい。
あまりに貧しく未開であるとともに、この地域が強く排他的な文化を築いていたからかもしれない。

しかし、そんなヨーロッパとイスラーム世界が直接接触する地域もいくつかあった。

ひとつは東ローマ(ビザンツ帝国)、ひとつは「十字軍」によって占拠されたシリア沿岸、
そしてひとつは地中海中央のシチリア島、そしてひとつはイベリア半島。

115: 2014/07/21(月)19:48:38 ID:sHNWsPuFe
711年、イベリア半島にウマイヤ朝の遠征軍が上陸し、アッバース革命後には後ウマイヤ朝がこの地で成立する。
イスラーム世界では、イベリア半島のことを「アンダルス」と呼んだ。

「アッラーが世界を創造したとき、アンダルスは穏やかな気候、豊かな大地、美しい女性など、
 多くの恵みを願った。アッラーはそれらをすべて与えたが、それではあまりにもアンダルスへの
 恵みが多すぎると思い直し、ただ一つ、「平和」だけを取り上げた」という伝説がある。

アンダルスは大いに栄えたが、後ウマイヤ朝の滅亡後、ここは「タイファ」と呼ばれる
イスラーム系の太守たちと、北から国土回復を目指すキリスト教諸国との長い戦いの舞台になる。
大きく見れば711年から1492年まで続いたこの戦争を、キリスト教側は
「レコンキスタ」(国土再征服戦争)と呼んだ。

キリスト教側は集合離散を繰り返すうちに、やがて「ナバラ」、「レオン」、「アラゴン」、
「カスティーリャ」「ポルトガル」という5つの王国にまとまっていく。

11世紀以降、タイファ諸国はアフリカ大陸から援軍として、
強大なムラーヴィト朝とムワッヒド朝を相次いで呼び込んだ。

窮地に立たされたキリスト教諸国は、「十字軍」の名のもとに大連合軍を組んでこれに挑む。
そして1212年、「ラス・ナバース・デ・トロサの戦い」に圧倒的な勝利をおさめ、
ムワッヒド朝をイベリア半島から撃退することに成功した。

117: 2014/07/21(月)19:59:43 ID:sHNWsPuFe
これ以降は潮目が変わり、はっきりとキリスト教諸国が優位に立つ。
そして15世紀後半になると、数多くのタイファ諸国は淘汰され、
ただ半島南端にグラナダを都とする「ナスル朝」だけが残った。

ナスル朝は何世代もかけて、グラナダに想像を絶するほどに典雅な宮殿を造営した。
夕暮れに赤く染まる丘の上の宮殿は、アラビア語で「赤」を意味する「アルハンブラ宮殿」と呼ばれる。


キリスト教諸国の統合はさらに進んだ。
ナバラはフランス王国に半ば取り込まれ、カスティーリャはレオンを併合して半島中部を押さえた。
そしてカスティーリャ王国の女王イサベルとアラゴン王国の国王フェルナンドが結婚したことで、
イベリア半島の三分の二が事実上ひとつの国になった。

1482年、700年にわたったレコンキスタの最終決戦がはじまった。
北から押し寄せるカスティーリャ・アラゴン連合軍の前にナスル朝の要塞は次々に陥落し、
そして1492年1月1日、最後のグラナダ王ボアブディルはグラナダを開城した。

かくてカスティーリャ・アラゴン両国はイベリア半島からイスラーム勢力を一掃し、
一体化して「スペイン王国」(エスパーニャ王国)となる。

これはイスラーム世界の歴史上で最初の後退だった。

118: 2014/07/21(月)20:07:50 ID:sHNWsPuFe
イベリア半島を統一したスペインは、同じ年のうちにまったく未知の広大な世界への足掛かりを気づいた。

クリストバル・コロンという甚だ胡散臭い詐欺師のような風体の男が、
歴史的大勝利に浮かれるイサベル女王を煽ててうまいこと資金を引き出し、
「西の海を越えていくとアジアに到達する」という自分だけしか信じていないような妄想を実現すべく
船員たちのクーデターをもものともせずに強引に世界の果てに向かって航海した結果、
なんと世界の果ての向こう側に広大な未知の大地があることが判明したのだ。


象徴的でもある。
それまで「世界史」はユーラシア大陸を中心に動いていた。
これからは大洋こそが世界史の軸になる。
であれば、大陸中央部を占めるイスラーム世界から、大洋の岸辺に位置するヨーロッパに
歴史の主導権が移っていくのも当然だったのかもしれない。


さらにスペインは二世代にわたる婚姻政策の結果、イタリア半島を押さえ、
さらにドイツの神聖ローマ帝国と同族化する。

「ハプスブルク帝国」の誕生である。


イベリアからイタリアに及ぶ領土を得たハプスブルク朝スペイン帝国は、
必然的に地中海の残る領域を支配するオスマン帝国にとって最大の敵対者となる。

その形成が完成したのはスレイマン大帝の頃だった。

119: 2014/07/21(月)20:20:00 ID:sHNWsPuFe
最初の決戦、1538年の「プレヴェザの海戦」は、アルジェリアの大海賊ハイレディンを従えたオスマン帝国の勝利となった。
この時期、スレイマン大帝治下のオスマン帝国は宗教の違いを越えて、スペインを共通の敵とするフランスと同盟している。

しかし二度目の決戦、1571年の「レパントの海戦」はヴェネツィア共和国と結んだスペインの大勝となった。
ただし、これをもってオスマン帝国の衰退が始まったというのは正しくない。
この時点では、レパントの敗戦はオスマン帝国にとって僅かなつまづきに過ぎなかった。


スレイマン大帝死後のオスマン帝国が衰退を開始したといわれることも多いが、それも正しくない。
これからしばらく、オスマン帝国は「全盛状態」を維持する、いわば「国力の高原状態」を続ける。

しかしその時代、帝国の実権を握ったのは皇帝ではなく、後宮の女性たちや大宰相たちだった。
たとえば、スレイマン大帝の死後はもはや皇帝が陣頭に立つことは全くなくなる。
次第に御前会議の場からも皇帝の姿は消え、大帝の晩年に完成した精緻な官僚制が半ば自動的に
帝国をスムーズに運営するようになっていく。
当時のヨーロッパ人は、このオスマン帝国の官僚制を驚嘆と憧れの目で見つめていた。


120: 2014/07/21(月)20:30:34 ID:sHNWsPuFe
17世紀には「キョプリュリュ家」という非常に発音しにくい名前の一族が、次々に有能な大宰相を輩出する。
彼らはインフレや民衆反乱、ペルシアの動乱といった危機をうまく乗り越えて、
帝国の政治制度をさらに整備していき、実はオスマン帝国史上で領土が最も広がったのもこの時代だった。

ところが、1676年に大宰相に就任したキョプリュリュ家の一族、カラ・ムスタファ・パシャは、
1683年にハンガリーの反乱を機に、16万の大軍を召集してオーストリアのウィーンを包囲する。
スレイマン大帝の栄光再現を夢見たらしい。

ところが9月13日、突如ウィーン北東のカーレンベルク山から、当時欧州最強をうたわれた
ポーランドの「有翼騎兵軍団」が怒涛のように突撃を開始。
不意を突かれたオスマン軍は総崩れとなり、「第二次ウィーン包囲」は大敗北に終わった。

強権を揮った大宰相も結局のところ皇帝の下僕でしかない。
カラ・ムスタファ・パシャは帰途に絞首刑となった。


これ以後、オーストリアのハプスブルク帝国を中心に、中央ヨーロッパ諸国による
猛反撃が始まる。「大トルコ戦争」である。

16年間にわたる激戦の末、1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約により、
オスマン帝国はハンガリー全土を失った。これこそ、オスマン帝国の長い下り坂の始まりであった。


ちなみにウィーンを包囲していたオスマン軍は陣営の撤収をする余裕もなく敗走していったのだが、
戦後にオスマン軍の陣地を検分していたオーストリア人たちは、ある天幕で謎の黒い塊を発見する。
これがヨーロッパに「コーヒー」が広まるきっかけであった。

もうひとつ。
オスマン軍が敗走していったウィーンでは、奇跡の勝利を祝ってとあるパン屋が
オスマン軍の軍旗をかたどった三日月形のパンを売り出した。
「クロワッサン」の起源である。


休憩。

121: 2014/07/21(月)23:05:00 ID:sHNWsPuFe
再開。

三大帝国の残るひとつ、サファヴィー朝ペルシアは最も存続期間が短く、この頃には滅亡を前にしていた。

1514年、初代シャー(国王)のイスマーイールが東部アナトリアのチャルディラーンで
オスマン帝国のセリム1世に致命的な大敗北を喫して若くして世を去ると、
「キジルバシ」(紅帽の徒)と呼ばれた騎兵軍団が実権を握るようになった。
第2代シャーのタフマースプ1世が死ぬと完全な無政府状態と化し、オスマン帝国やシャイバーニー朝が盛んに侵入した。

この危機のさなか、冷酷非情な王子アッバースが立つ。
彼は即位するとキジルバシ軍団を強制的に解体し、オスマン帝国の親衛隊イェニチェリを参考に
グルジアやアルメニアのキリスト教徒を徴用した「奴隷軍団」や、銃兵・砲兵を整備する。

これでもってアッバースは国土回復のために奔走し、東西の敵国を退けるとともに、
オスマン帝国の背後に位置する西欧諸国との同盟も模索した。
この頃、ロバート・シャーリーというイングランド人の商人がアッバースに軍事顧問として仕えている。

アッバースは旧都タブリーズを捨てて、イラン高原の中央に位置するイスファハーンに遷都した。
イスファハーンは繁栄を極め、「世界の半分に匹敵する」とまでいわれるようになる。
こうした功績から、アッバースはオスマン帝国のスレイマン1世のように「大帝」と称されている。

しかしアッバース大帝がなまじシャー(国王)の権力を絶対化してしまったために、
彼の死後に無能・無気力・アル中・ヤク中なシャーが相次ぐと、サファヴィー朝は急速に衰退する。

オスマン帝国がハンガリーを失ったのと同じ頃から、サファヴィー朝では部族反乱が頻発するようになる。
とくに東方の山岳民族、アフガン人の首領ミール・ヴァイスの反乱には手が付けられなかった。

1722年、ミール・ヴァイスの息子マフムードが率いるアフガン人が来襲した。
彼らはあまりにも貧しかったので軍馬を持たず、牛に乗って攻めてきたらしいw
しかし、サファヴィー朝はそんな連中にすら抵抗する力が残っていなかった。

イスファハーンは開城し、サファヴィー朝ペルシアは事実上滅亡した。

123: 2014/07/21(月)23:17:57 ID:sHNWsPuFe
イスファハーンを占領したアフガン人はペルシア全土の支配を目指すも、各地で抵抗が続いた。
おまけに西のオスマン帝国と北のロシア帝国が介入。
サファヴィー朝の復興を目指す勢力もあり、ペルシアは混沌とした情勢になる。

最終的に勝利を収めたのは「ナーディル・クリー」という一代の英傑だった。
後に「ペルシアのナポレオン」とも、「最後の中世的英雄」ともいわれる、残虐にして勇猛な人物だ。


ナーディルはアフシャール族という小さな遊牧部族の出身で、若いころのことはよくわからない。
奴隷だったという説もある。

イスファハーンの陥落後、アフガン人の追跡から逃れたサファヴィー朝の王族が落ち延びてきた。
ナーディルはこれを利用し、サファヴィー朝復興を唱えてアフガン人を放逐した。
イスファハーンの回復後、彼は摂政の地位に就くが、もともとサファヴィー朝を
真面目に復興させたかったわけではない。

あっさり傀儡のシャーを放り出して、自ら王位について「ナーディル・シャー」を名乗った。
「アフシャール朝ペルシア」の成立となる。

ナーディルを一言で表現すれば「軍事的天才」。
向かうところ敵なく、ロシア、オスマン帝国を撃退してメソポタミアを奪い、
転じてアフガニスタンに攻め込み、勢いにのってインドまで進撃。

アウラングゼーブの圧制を経て弱体化していたムガル帝国の都デリーに突入して、
世界最大のダイヤモンドだのムガル皇帝の玉座だのをかっぱらっていった。
(ちなみにこのダイヤモンドは現在、イギリスの王冠にくっついてる)

ただ、ナーディルは極めて粗暴で冷酷だった。
反乱を起こした者や敵対した者は容赦なく虐殺し、陰謀を企んだ罪で
自分の息子の目を潰して盲目にしたこともある。

常勝不敗の上に残虐非道。
「マジでこいつ、どうにかせんと……」

ナーディルに対する恐怖が広がり、ついに彼は側近の手によって暗殺される。

じゃんじゃん。

125: 名無しさん@おーぷん 2014/07/21(月)23:28:42 ID:HEnvHA5U6
ちらちらとロシアの影が…

126: 2014/07/21(月)23:41:13 ID:sHNWsPuFe
ナーディル・シャーが倒れたあと、再びペルシアは無政府状態になる。
それをある程度まとめたのは、ナーディルの旧臣の「カリーム・ハーン」という人物だった。

彼はイラン南部を統一し、「ザンド朝」という王朝を興す。
アッバース大帝以来の「強くて残虐」パターンの例外で、現代イラン人の歴史認識的には、
わりと心優しい人物だったという評価である。


ちなみに「アフマド・シャー・ドゥッラーニー」という武将がいた。

彼はナーディル・シャーが死んでアフシャール朝の時代が終わると見るや、
沈む船から逃げ出すネズミのごとく、手勢を率いてさっさと故郷に帰った。
そしてアフガニスタン南部のカンダハルを占領して、アフガン諸部族をまとめあげ、
「ドゥッラーニー朝」という王朝を建てる。

「ドゥッラーニー」というのは、当地のパシュトゥーン語で「真珠の時代」を意味するらしい。
アフマド自身は「真珠の中の真珠」という、意味不明な称号を名乗っている。
アフガニスタンは山国だから真珠の希少価値が高いんすかね?

アフマドの直系子孫がずっと続いたわけではないけど、ドゥッラーニー部族連合による王朝という意味では、
この王朝は1973年まで続いていたりする。
「現代」が視野に入りつつある。


>>125
ですな。
北方の雄、当時はピョートル大帝の時代。大国ロシアが目覚めつつある頃合い。

130: 2014/07/21(月)23:59:06 ID:sHNWsPuFe
さて、カリーム・ハーンの建てたザンド朝ではあるが、この王朝も長くは続かなかった。
次なる時代の主役は「アーガー・モハンマド・シャー」。
この男、ナーディル・シャーに倍する残虐非道にして凶悪無比な梟雄と伝えられる。

アーガーはカスピ海南岸の「ガージャール族」という遊牧民の族長の子として生まれた。
が、彼が少年のころ、ガージャール族はアフシャール朝に征服され、彼自身は捕虜として去勢されてしまう。
この恨みが彼の中に世界全般への憎悪を植え込んだとみられる。

カリーム・ハーンの時代が来ると、彼はカリーム・ハーンの宮廷があったシーラーズに連行されたが、
ここではカリーム・ハーンに大変寵愛され、さまざまな学問を授けられたという。
だが、カリーム・ハーンが死ぬと、動乱を見越して翌日に彼はシーラーズから逃亡した。

故郷に戻ったアーガーはガージャール族をまとめあげ、イラン高原の覇権争いに加わった。
1794年にはザンド朝を滅ぼし、ケルマーン地方に逃亡したザンド朝の王を追跡する。

そして、この大恩あるカリーム・ハーンの遺児をひっ捕らえるや、カリーム・ハーンが隠した
(とアーガー・モハンマドが妄想した)財宝の在り処を聞き出すために、
頭の上から煮えたぎった油をぶっ掛けたあとに両目を潰すという挙に出ている。
ついでにケルマーン地方の成年男子2万人もセットということで両目を潰されたらしい。
意味不明なレベルで残虐である。

とはいえアーガー・モハンマドは有能ではあった。
グルジアに進軍してロシアの影響力を排除し、ついでにグルジア人数千人を奴隷にする。

そしてイラン全土を平定した1796年に、イラン高原の新しい政治的中心として選び出した
エルブルーズ山脈南麓のテヘランにて即位する。いうまでもなく現代イランの国都である。


アーガー・モハンマド・シャーは世界の歴史上おそらくただ一人、去勢された王朝建設者であった。
そのため当然ながら実子はない。彼以後のガージャール朝諸王は、彼の甥の子孫である。


さて、アーガー・モハンマド・シャーは即位の翌年、ロシアの南下に対処するため、カフカス地方に遠征した。
その途上、自分の居室で二人の召使が喧嘩をしているのを目撃し、激怒して召使に死刑を宣告するが、
部下のとりなしでその召使を許し、そのまま自分の身の周りの世話を任せた。

残虐にして傍若無人なアーガー・モハンマド・シャーは、弱者の恐怖心というものが想像できなかったのか。
アーガーの気が代わることを恐れた召使は、その夜、眠るアーガーを刺殺した。


もっとも、「ガージャール朝ペルシア」自体はアフシャール朝やザンド朝とは違い、建国者の横死後も続いた。
この王朝は専制的でありながら西洋列強の圧迫には弱腰として、イラン人の歴史的評価は低い。
それでも、ガージャール朝の命運は20世紀まで続くことになる。

ここでもまた、「現代」が視野に。



今夜はここまでで。

133: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)09:47:27 ID:RHNKlDWEo

1800年位っていうと日本の元禄時代か
つい最近のことなんか

134: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)10:16:14 ID:MsVVdng7g
元禄は1700年ぐらい
1800となると寛政年間で、伊能忠敬が蝦夷地を探検してる頃だね
ペルシアと同じように、ロシアの南下に備えて

137: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)17:36:17 ID:UIMvPBJhY
ロシア正教の教会の外観がモスクに似てるのは何か関係あるの?

139: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)17:43:23 ID:BLW1mipTb
>>137
玉ねぎドームのことかな?

ビザンツ様式の影響と思われ

142: 2014/07/22(火)22:03:31 ID:l6OgZMbRm
>>139が有力説だったと思う。あとは雪対策もあるかな。
建築様式としてはビザンツ建築がイスラーム建築とロシア建築の両方に影響を与えているという感じ。

140: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)17:44:10 ID:CqlnxyNT3
フランク王国とウマイヤ朝の戦いの話聞きたい

144: 2014/07/22(火)22:18:12 ID:l6OgZMbRm
>>140
トゥール・ポワティエの戦いとかかな。
歴史的にあまり重要とは思わないので書き落としたけど、
あとから有名な戦いだからやっぱり言及しとけばよかったと思っていたところ。


711年4月29日、ウマイヤ朝の将軍ターリク・イブン・ズィヤードは、のちに「ジェベル・アル・ターリク」
すなわち「ターリクの岩」、訛って「ジブラルタル」と呼ばれることになる場所からイベリア半島に上陸した。

迎え撃つ西ゴート王国最後の王ロドリーゴは、グアダレーテ河畔にて壮烈な戦死を遂げる。
かくてアラブ軍は破竹のごとく進撃し、わずか7年でイベリア全土を制圧した。

その後、ウマイヤ朝のアンダルス総督アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーは、
さらに北方のガリア、後にフランスと呼ばれる地域へも進出を開始した。

彼は最終的に地中海北岸を経由して、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルまで
到達しようと目論んでいたという説もあるが疑わしい。おそらくは大規模な掠奪遠征であったろう。


その頃、ガリアを支配していたのはメロヴィング朝フランク王国。
しかし王家はすでに名目化し、王国はネウストリアとアウストラシアの二地方に分裂する兆しを見せていた。
そしてアウストラシア最大の実力者が、宮宰(マヨール・ドムス)なる役職にあったピピン2世と、
その子カールであった。

732年、ガリア西部に侵攻したガーフィキーはボルドーを破壊し、トゥールのサンマルタン教会に
莫大な財宝があるという噂を聞きつけて、軍をさらに北方へ向けた。

ときにアウストラシアの宮宰であったカールは、報を聞くや直ちに迎撃へ向かう。
両軍はトゥールとポワティエの中間にて遭遇し、1週間にわたって対峙。
ついにアラブ軍が突撃を開始するが、フランク軍の重装騎兵はこれを固く拒んだ。
日没が迫り、利あらぬと悟ったアラブ軍は撤退。翌朝、戦場に指揮官ガーフィキーの遺体が発見された。


カールはこの戦いで大槌をふるって奮戦したというので、槌を意味する「マルテル」を冠して
「カール・マルテル」と尊称され、キリスト教世界防衛の英雄として名声を博する。
彼の孫が、カロリング朝フランク王国のカール大帝である。


とはいえこの戦い自体にどれほどの歴史的意義があったかは疑わしい。
当時、キリスト教側とイスラーム側の小競り合いは絶え間なくあったし、その後もイスラーム側は
南フランス沿岸のナルボンヌやカルカッソンヌを占有し、アルプスの山間やリグリアの岸壁に
「アラブ監視砦」が並ぶ時代がしばらく続くのである。

141: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)17:45:07 ID:G7DCa6uGF
アラビアンナイトの入門書読んでちょっと興味もった。

142: 2014/07/22(火)22:03:31 ID:l6OgZMbRm
>>141
知っている限り、これまで言及してきた人物たちのうちで、ハールーン・アッラシードと宰相ジャアファル、
ウマイヤ朝のハッジャージュとマムルーク朝のバイバルスはアラビアンナイトに登場するよ。

148: 2014/07/22(火)22:34:25 ID:l6OgZMbRm
イスラーム世界の三代帝国が斜陽を迎えるころ、広大なユーラシア大陸の北半に巨大な帝国が誕生しつつあった。
北方の巨人、ロシア。
この帝国の動向は、これより以降のイスラーム世界を語るうえで不可欠となる。


ことの起こりは13世紀中葉、中央ユーラシアをモンゴル帝国の覇権が覆ったこと。

「魔王」チンギス・ハンの孫バトゥはアラル海よりカスピ海、そして黒海北方に続く
カザフステップとウクライナの草原を征服し、その北に広がる暗い森林に兵を進めた。

そこには当時、ビザンツ帝国の影響のもとでキリスト教の東方正教を奉じ、
「ルーシ」と総称される国々があった。

ルーシ諸国はバトゥの猛襲の前に相次いで屈服し、その後長らくバトゥの子孫たちに従属する。

149: 2014/07/22(火)22:46:23 ID:l6OgZMbRm
バトゥ一族は西北ユーラシアに「ジュチ・ウルス」という巨大な国家を建設した。
いわゆる「キプチャク・ハン国」である。
この国の中核を担うカザフステップと南ロシアの遊牧民たちは、その頃すでにイスラームを受け入れていた。

14世紀後半、ジュチ・ウルスは天災と内紛が続き、徐々に分裂を開始する。
クリミア半島のクリム・ハン国、その北方の大ノガイと小ノガイ、ヴォルガ下流域のアストラハン・ハン国、
その北方のカザン・ハン国、さらにウラル山脈東方の極北に位置するシビル・ハン国など。
そして北西においては、ルーシが従属から解き放たれようとしていた。


モンゴルの支配下で数多いルーシ諸国の筆頭とされたのは、「モスクワ大公国」という国であった。
この国は代々の大公が奸智に長け、巧みにジュチ・ウルスのハンに取り入り、
ルーシ全土の徴税代行権を得ていたのである。

ジュチ・ウルス混迷のなかでモスクワは周辺諸国を相次ぎ併合し、急速に浮上する。
そして1380年、「クリコヴォの戦い」の勝利によって事実上の独立を達成。

さらに1453年に東ローマ帝国が滅亡すると、最後の皇帝の姪を妃に迎え、
正教諸国の盟主、「第三のローマ」を自認する。

151: 2014/07/22(火)23:04:04 ID:l6OgZMbRm
1533年、モスクワの君主に「イヴァン4世」が即位する。
彼は苛烈で矛盾に満ちた性格の持ち主で、溢れんばかりの才能と狂気を併せ持っていた。
異称「雷帝」。事実上「ロシア帝国」の創始者である。


1552年、イヴァン雷帝はジュチ・ウルスの後継国家のなかで最強のカザン・ハン国を征服した。
これによって、新生ロシア帝国の前に、東方の大草原と極北シベリアへの門戸が開かれた。
ついで1556年にはヴォルガ下流、カスピ海北岸のアストラハン・ハン国を征服。
これによってロシアはペルシアへの道を手に入れた。


ジュチ・ウルスの後継国家を次々に征服したロシアは、キリスト教の一派ロシア正教を
根幹とする国家でありつつも、旧ジュチ・ウルスのテュルク系ムスリムたち、
いわゆる「タタール」の影響を色濃く受けるようになっていく。

イヴァン雷帝の時代、すでにモスクワの貴族の三割はタタールの血を引いていた。
そのなかにはイスラームの信仰を密かに、あるいは公然と保持し続けるものも少なくなかった。
他ならぬイヴァン自身、母方でジュチ・ウルス支配層の血脈に連なっていたのだ。

東方支配の布石として、イヴァン雷帝は1574年、バトゥの末裔であるタタール貴族
サイン・ブラトに突如譲位をした。
だが翌年、イヴァンは何事もなかったように復位。サイン・ブラトから再度王権を譲られることで
イヴァンは同時に「チンギス・ハン家の継承者」として東方の遊牧民たちに君臨する権威を獲得した。

こののち、ロシア帝国の皇帝たちは東方の遊牧民たちのあいだで「チャガン・ハーン」と尊称される。
「西方の王」という意味である。


イヴァン雷帝の死後、ロシア帝国は王朝が断絶し、次々に偽皇帝が出現し、諸外国の侵攻が相次ぐ。
しかし1613年にロマノフ朝が成立。ロシア帝国は蘇り、いっそう力を強めて北方に君臨することとなる。

153: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)23:12:01 ID:rbDHwhOLY
面白いな

154: 2014/07/22(火)23:17:17 ID:l6OgZMbRm
1682年、ロマノフ朝ロシア帝国に驚嘆すべき支配者が登場した。
彼の名は「ピョートル1世」。
ロシア帝国、そしてヨーロッパとアジアの歴史を大きく変えていく人物である。


その頃、ロシアは大国とはいえ辺境に位置し、文化的にも経済的にも遅れていた。

ピョートルは幼い頃から、勃興しつつあった西方の異端者たち、
カトリックやプロテスタントを奉じる「ヨーロッパ」に魅せられていた。
彼は途轍もなく強引にヨーロッパの文明を導入し、ロシアを西方の異端の国々と並ぶ
名実ともに強大な国家に改造しようとした。


その頃、ヨーロッパ北方の覇権を握っていたのは、今から見れば意外なことにスウェーデンだった。
17世紀前半のドイツ三十年戦争に介入することでスウェーデンはバルト海の制海権を握り、
「バルト帝国」と呼ばれる一大影響圏を作り上げていたのだ。

ピョートルは人生最大の課題として、自国の西に立ちはだかるスウェーデンの壁を打ち破り、
魅惑のヨーロッパと直接結びつこうとした。
かくて「大北方戦争」が開幕する。

155: 2014/07/22(火)23:37:22 ID:l6OgZMbRm
当時、スウェーデンの王位にあったのはカール12世。
世に「北国の流星王」と称せられる戦の天才だった。
常に戦陣に立って戦い、直接指揮した戦いでは敗北を知らなった。そして戦陣のさなかに倒れた。
いわく、「自ら陣頭で戦い、陣頭で死した最後の王」。


カール12世は善戦し連勝したが、1709年、この不敗の王が重傷のために指揮を執ることができなかったとき、
ポルタヴァの戦いでスウェーデンは大敗した。

カール12世は本国への道を遮断され、敗走する兵士たちに紛れて南へ奔った。
その行く末には、カルロヴィッツ条約によってハンガリーを失ったとはいえ、
なお強大な力を保持する異教の大国、オスマン帝国があった。


ピョートルはオスマン帝国にカール12世の身柄引き渡しを要求したが、かねて黒海北岸で
勢力を拡大するロシアに対して強い警戒を抱いていたオスマン帝国側は、これを拒否した。

ついにピョートルはオスマン帝国に侵攻。長い長い「露土戦争」の本格的な開幕である。
後期オスマン帝国にとっての最大の敵国が表舞台に上がったのだった。


1711年、この最初の戦いではオスマン帝国が勝利する。
プルート川で15万のオスマン軍がピョートル自身の率いるロシア軍を包囲し、屈服させたのだ。

ただし亡命者カール12世も間もなくオスマン帝国から放逐される。
帝国は余計な火種を抱え込みたくはなかった。
いまや異教のヨーロッパ諸国の軍事力は、オスマン帝国に底知れない脅威を予感させつつあった。



今夜は短いけど、ここまでで。
イスラーム世界自体についてほとんど書いてないw

156: 名無しさん@おーぷん 2014/07/22(火)23:51:07 ID:yURNMLrNn
おつかれ

ロシアの動向は避けて通れぬ話題だからしょうがない

158: 名無しさん@おーぷん 2014/07/23(水)02:24:22 ID:jUPxmju8b
普通に面白い
イスラーム勉強してこなかったから新鮮

160: 名無しさん@おーぷん 2014/07/23(水)10:20:57 ID:Pc7ptANdM
インドネシアにイスラム教が伝搬したのはいつ?

162: 名無しさん@おーぷん 2014/07/23(水)21:27:56 ID:vyntEzX1B
>>160
インドネシアといっても広いから一概には言えないけど、おおむねモンゴル時代(13世紀)以降。
本格的なイスラーム国家が成立し始めるのは15世紀あたりからだね。

164: 2014/07/23(水)21:47:04 ID:vyntEzX1B
さて、昨日の続き。


そもそも何故、欧州諸国の軍事力はとめどなく強大化していったのか。

おそらくその理由のひとつは、モンゴル帝国以降のユーラシア大陸において
ヨーロッパにだけ広域を覆う「帝国」が生まれなかったことにある。

イスラーム世界においてはオスマン帝国、サファヴィー朝ペルシア、ムガル帝国、
そして東方にあっては大明・大清帝国。

これら「近世世界帝国」の成立によって、必然的にユーラシア大陸における戦争の頻度は減少した。
しかしヨーロッパだけは中小国家の乱立が収まることなく、常に戦火が途絶えなかった。

その果てに、16世紀後半より「西欧軍事革命」といわれる動きがはじまる。

イタリア戦争を戦ったフランス・スペイン、八十年戦争を戦ったオランダ、
ドイツ三十年戦争を戦ったスウェーデン、それら諸国はより強く、より効率的な軍隊と戦争を模索する。
圧倒的な動員兵数、膨大な火力の集中、そして数学的にまで研ぎ澄まされた用兵術。

17世紀を通じて欧州諸国の戦争は飛躍的に大規模になっていく。
ひとつの戦役に動員される兵力は中世の数千規模から数万、数十万に増大する。

そして18世紀を迎えると、この大量動員を実現すべく「財政軍事国家」が誕生する。
高度に組織化された徴税機構に基づく国富の確実な回収。
政府の信用に基づく国債発行と中央銀行によるその購入による大動員の実現。


近世ヨーロッパは戦争に継ぐ戦争のなかで発展し、その蓄積のうえで
近代ヨーロッパの世界制覇が開始される。


イスラーム世界にせよ中華世界にせよ、大動員や個々の軍事技術という点を取れば
必ずしも欧州諸国に劣っていたわけではない。
しかしそれらを一体として運用していく技術、それを可能にする社会の在り方という面において
旧来の諸帝国はもはや「西方からの衝撃」に抗することが不可能となる。


以上余談。

165: 2014/07/23(水)22:18:43 ID:vyntEzX1B
大北方戦争は結局のところロシアの勝利に終わった。
ピョートル1世はこの戦争を通じて西欧の文化や技術の導入による自国の近代化にひたすら努力し、
ロシアの立ち位置を「辺境の大国」から「欧州列強の一員」にまでのし上げた。
ゆえに彼もまた「大帝」と呼ばれている。


ピョートル大帝はそれだけでスレ一つ立つレベルの人物で、ちょっと調べるといくらでも
面白い逸話が出てくるのだけど、髭だの歯医者だのは本題に関係ないので省略。


ところで彼は西にだけ目を向けていたわけではなく、東にもちょっかいを出している。

まずペルシア。サファヴィー朝の衰亡に乗じてアゼルバイジャンに出兵するも、
例のナーディル・シャーに追い返されている。

そしてもうひとつはシベリア。
すでにイヴァン雷帝の頃からロシアの勢力はシベリアの密林に拡大しはじめていた。
といってもシベリアはあまりに人口が希薄で、まともな国家もない。
征服うんぬんというよりは、ただ勝手に入り込んで勝手に旗を立てていっただけかもしれないが。
そしてピョートル大帝の頃にはロシアの「支配」なるものはついに太平洋の岸辺と
清朝中国の境界まで到達していた。

ただ、留意点がある。

ロシアはシベリアの密林を東に驀進したが、密林の南に広がる草原には入り込めなかった。

ヴォルガ川の東にはカザフステップがあり、その先に中央アジアのオアシス地帯がある。
当時、カザフステップにはジュチ・ウルスの分かれであるカザフ・ハン国、
中央アジアにはその同族であるシャイバーニー朝があり、いずれもイスラームを奉じていた。

これからまだしばらくの間、ロシアは密林と草原の境に「オレンブルク要塞線」といわれる
長大な監視網を築いて、柵越しに草原を見張っていることしかできない。


当時、内陸アジア西部の情勢はこんな感じだった。

166: 2014/07/23(水)22:40:47 ID:vyntEzX1B
さてプルート川でピョートル大帝を撃退し、カール12世をポイ捨てした後のオスマン帝国である。


オスマン帝国としては近頃不気味に力を増しつつある西の異教徒どもに積極的に関わる気はなかったのだが、
ロシア撃退でそこそこの自信も回復してきたので、地中海でうろちょろするヴェネツィア共和国に対して
大国の威厳というものを軽く教育してくれようという気になった。

ところがヴェネツィアとの小戦は、油断なくオスマン帝国の動向を見張っていた列強の警戒心を刺激したらしく、
再びハプスブルク朝オーストリアとの全面対決となってしまった。


この戦争において、オスマン帝国はとある敵将に無双乱舞を食らわされ、いたるところで敗走する。
その敵将の名は「プリンツ・オイゲン」。

フランスの太陽王ルイ14世の落胤とも噂される不世出の名将であり、そういえば去る大トルコ戦争でも
ハンガリーのゼンタで3万人ものトルコ兵を川に追い詰めて溺死された天敵であった。
今度の戦争ではオイゲンがオーストリア軍の総司令官となり、大宰相を敗死させ、ベオグラードを陥落させた。

167: 2014/07/23(水)22:42:50 ID:vyntEzX1B
華麗なるオイゲン無双の結果、オスマン帝国は大トルコ戦争で失ったハンガリーを回復することはおろか、
セルビアとボスニア北部、ワラキア西部までオーストリアに持っていかれた。
ヨーロッパ大陸のオスマン領は縮小する一方だった。


異教徒どもとの聖戦なんてろくな結果にならないと理解したオスマン人たちは、余計な野望はさっぱり捨てて、
しばらくは庭園建設だのチューリップの栽培だのに熱中していた。世にいう「チューリップ時代」である。


そんなとき、東で衰弱を続けていたサファヴィー朝ペルシアがついに瓦解した。

アジア側なら得手のものだと思ったのか、オスマン帝国は久しぶりにペルシア遠征を断行する。
ところがそこで待ち構えていたのは、かの「ペルシアのナポレオン」である。

この「アフシャール戦役」にすらオスマン帝国は敗北。
だらしない政府と重税とのんきなチューリップブームに怒り心頭に発したイスタンブルの市民たちは
パトロナ・ハリルという元イェニチェリ兵士を先頭に暴動を起こし、
ときの大宰相イブラヒム・パシャを処刑して、スルタン・アフメト3世を廃位したのだった。

168: 名無しさん@おーぷん 2014/07/23(水)23:01:00 ID:MOmC5vf1B
この頃、イェ二チェリは暴走しがちで、兄貴もイェ二チェリのクーデターで廃位させられたよね

170: 2014/07/23(水)23:06:05 ID:vyntEzX1B
>>168
ムスタファ2世だね。この頃は暴動ばっかり。

169: 2014/07/23(水)23:03:19 ID:vyntEzX1B
いまや「オスマン家の崇高なる帝国」は衰退しつつある。


わずかながら、認めたくはない真実を直視する人々も現れた。

たとえば、この頃から少しずつ、宿敵たる西方の異教徒たちからも学ぶべきことは学ぼうという動きも現れる。
アフメト3世ははじめて西欧に視察大使を派遣したし、すこし後にはプリンツ・オイゲンの元部下で
彼と折り合いが悪くなって出奔してきたクロード・ボンヌヴァルなるフランス軍人を雇って、
ヨーロッパ式の軍事改革を試みさせている。

まあ、改革なんてものは最初からうまくいくわけがないので、どれも保守派に潰されたけど。


確かに帝国は組織疲労を起こしていた。

かつてスレイマン大帝のもとで武名を轟かせたイェニチェリ軍団は、なにか気に入らないことがあると
シチューの大鍋をひっくり返して大通りをデモ行進するだけの無駄飯食らいと化していた。

インフレで財政は火の車になっていた。
徴税を民間人に下請けさせたところ、後先考えない請負人たちのせいで農村が荒れ果てた。
徴税請負人たちに責任意識を持たせようと彼らに個々の管轄地域を設定して終身徴税権を与えてみたら
請負人たちは管轄地域を私物化して、土地のご領主様(真面目な歴史用語では「アーヤーン」)と化した。
いくらご領主様が領地の発展に成功しても、政府は何も得をしないのであった。

そんなこんなで、18世紀のオスマン帝国は緩やかに衰えていったのである。


しばらく休憩。

171: 名無しさん@おーぷん 2014/07/23(水)23:16:49 ID:MOmC5vf1B
中央政府にとっては、徴税請負の終身契約制が悪手だったね

173: 2014/07/24(木)01:19:41 ID:HTne1Yfsr
18世紀後半、オスマン帝国は緩やかに衰退し続け、その東ではイラン高原が動乱のさなかにあった。
ところで、1707年にムガル帝国のアウラングゼーブが没した後のインド亜大陸の情勢はどうであったか。


アウラングゼーブの負の遺産はあまりにも巨大だった。
そもそも、彼はあまりにも長生きし過ぎていた。なにしろ享年88歳である。
その死後帝位を継いだバハードゥル・シャー1世は、その時点で65歳である。
寿命尽きるまでにどれほどのことができるやら、暗澹たるものだった。

西北インドのシーク教徒が反乱を起こした。
国庫が破産した。

二つの宜しからぬ治績を残して老皇帝が崩御したあと、ムガル帝国の実質的な支配権は
皇帝の手を離れ、宮廷の高官たちの手に渡った。

宮廷内では高官たちの権力争いが常態化した。
以後の歴代皇帝は有象無象なので固有名詞を出す必要もないと思われる。
何人か、それなりに目端が利いて有能な政治家も出たのだが、前向きなことは何もしない皇帝たちも
有能な大臣の足を引っ張ることだけは積極的だった。

内政は麻痺した。賄賂と陰謀が横行した。閲兵式では同じ兵士が何度も同じ場所を行進し、
軍馬はその筋の業者から自称騎兵にその都度貸し出された。

1724年、ときの帝国宰相ニザームが覚醒した。

「こんなところでグダグダ過ごしているのは人生の無駄遣いやな」
宰相は一族郎党を引き連れて職場を放棄し、はるか南のハイデラバードに去っていった。
「今日からここで新しい国作るわ」

たちまち真似する者が続出した結果、ベンガル、アワド、パンジャーブなどに相次いで太守領が成立。
自称ムガル皇帝の忠実な臣下にして地方長官、実質は独立国家の君主である。


いたるところで領主たち、ヒンドゥー諸侯が反旗を翻した。
南インドのマラータ族が北進を開始した。

そしてそんな中、1738年にあの男、ナーディル・シャーが来襲した。

174: 2014/07/24(木)01:41:59 ID:HTne1Yfsr
「デリーはこの世に選ばれし都たれり
 そこに住まうは選ばれし人たれり
 天はデリーを奪い、荒れ果てさせたれど
 我こそはその荒みし町の住人なり」

この時代を代表する詩人、ミールはこう記した。


アフシャール朝ペルシアのナーディル・シャーはグダグダのムガル帝国正規軍を鎧袖一触で壊滅させ
デリーに入城するや住民の無差別大虐殺を行い、推定7億ルピーの富を略奪した。

この侵略は病み衰えたムガル帝国にとって、止めの一撃になった。


帝国の権威は地に堕ちた。

財政は破綻し、貴族たちはもはや強欲というよりも生存のために争い合った。

デカン高原から北上したマラータ王国が一時インドを圧するかに見えたが、同時にアフガニスタンから
自称「真珠の中の真珠」が来寇し、マラータ王国を敗走させる。
とはいえ、アフマド・シャー・ドゥッラーニーもインドの新しい覇者になるほどの力はない。
ラホールのシーク教徒たちが彼を妨害し、アフガニスタンへの撤退を強いた。


さしあたり、強い国家はどこにもなかった。

夢醒めて、大ムガル帝国はデリー近辺を保持する一王国と化した。
帝国から独立した各地の太守領でも、おおむねの傾向としては、内乱が頻発し腐敗が横行していた。


次なる亜大陸の覇権はいかなる勢力の手に帰すのか。
最後に勝利を収めたのは、舞台の外から乱入してきた大英帝国だった。


今夜はここまで。

175: 名無しさん@おーぷん 2014/07/24(木)02:59:01 ID:l8fMFQMDZ
まさに千夜一夜物語だな

176: 名無しさん@おーぷん 2014/07/24(木)04:08:34 ID:qTT5oIKOU
魔王軍イギリス

183: 名無しさん@おーぷん 2014/07/24(木)16:09:44 ID:9eSf3g1yd
>>176
俺のイメージでは、イギリスはインテリ経済ヤクザだなw

179: 名無しさん@おーぷん 2014/07/24(木)13:00:49 ID:3z8qSjeEY
しかしムハメドやらアハメドやら似たような名前多くて俺の鶏頭には入りきらんし覚えられんなぁ…
近代を除けばアラブの人物はコーエーのゲームに出てきたサラーフッディーン、アル・アーディル、バイバルス位しか知らんしわからん

あ、>>1ちゃんの講義は面白いです
続き楽しみに待ってます

181: 名無しさん@おーぷん 2014/07/24(木)14:07:24 ID:ILdQcf5t5

自分には何の役にもたたない知識だけど、だからこそとても面白いよ

185: 名無しさん@おーぷん 2014/07/24(木)23:00:54 ID:l8fMFQMDZ
大団円まではまだ遠そうだ(来るとは言ってない)


186: 2014/07/24(木)23:13:38 ID:1eNn3de5Z
大きく過去へさかのぼる。


近代ヨーロッパの世界制覇が開始されるよりもはるか昔から、
ユーラシア大陸の南に広がるインド洋は交易の海だった。
そもそもイスラームが生まれたアラビア半島もインド洋交易圏の一端に位置し、
預言者ムハンマド自身も元は交易商人であった。

ゆえにイスラームは富の追求も異邦への旅も大いに奨励する。

西暦8世紀、アッバース朝イスラーム帝国が西ユーラシアの大統一を達成した頃から
アラブやペルシアの商人たちが盛んに海に乗り出した。
彼らのある者はアフリカ大陸東岸を南下し、ある者は南インドへ、さらにその東へと向かった。

10世紀末に成立した「シナ・インド物語」は、中近東から南シナ海に至る旅程を詳細に記述する。
東へ向かう航路は南インドのいくつもの港を経由し、東南アジアの島々の間を抜けて、
ついには中華帝国の不動の外港、広州港に到達する。

「シーン」は絹と陶磁器の故国にして、世界で最も富裕な帝国。
「カーンフー」は東の富が蝟集するところ。

唐末には広州に20万人のアラブ商人が居住し、唐王朝の滅亡後に広東を支配した南漢国も
そんなアラブの商人たちの血をどこかで交えているという説もある。

187: 2014/07/24(木)23:34:21 ID:1eNn3de5Z
13世紀後半、モンゴル帝国第5代皇帝クビライは「世界を征服する」ことに全力を傾けた
先帝モンケとは似て非なる、「世界を支配する」ことに情熱を注いだ。

実利を重視するモンゴル人のなかでもひときわ実際的なこの皇帝は、倫理と統治を結び付ける
儒教官僚に飽き足らず、知識と技術と富を追求するムスリム官僚を重用した。

モンゴル帝国最盛期、東西を問わず最上層の支配者たちはペルシア語を共通言語とした。
大量のイスラーム教徒がクビライのもとで司法や行政を管掌した。
かくて東ユーラシアへのイスラーム浸透はさらに促進される。


とりわけ西方に通じる陸上交易路の起点たる甘粛・陝西、海上交易ルートの起点たる
福建・広東には、西方から来た異民族だけでなく、イスラームに改宗する漢人も少なからず、
彼らは後に「回族」と呼ばれることになる。

また、クビライは帝国の共通貨幣と定めた銀の産地、雲南の統治をサイイド・アジャッルという
ムスリム官僚に委ねたが、彼は類まれな名長官であり、大いに善政を敷いた。
雲南に多くのモンゴル軍が駐留したこともあり、雲南にもイスラームが定着することになった。

188: 2014/07/24(木)23:54:03 ID:1eNn3de5Z
14世紀に入り、例のごとく天災と失政のフルコンボで完全に愛想を尽かされたモンゴル帝国は
漢族によって故郷モンゴル高原に追い払われ、代わって大明帝国なる新王朝が誕生する。

ところが明の第3代皇帝、永楽帝は否定したはずのモンゴル帝国の壮大さに内心魅せられていたのか、
7度にわたって大艦隊をインド洋に派遣し、南海諸国の入貢を促す。

その頃の中国でマラッカ海峡より西の海を知悉している者は当然ながらムスリムばかりである。
艦隊総司令官に任じられたのも、雲南出身のムスリムである鄭和という宦官だった。


鄭和は敬虔なムスリムとして「天方国」、もといメッカ巡礼を悲願としていたようである。
総司令官はたびたびペルシア湾のホルムズまで遠征し、目と鼻の先に聖地を望んでいたのだが、
宮仕えをする人間が「職務中」に私用に時間を割くことはできないので、残念ながら
ついに聖地巡礼を果たすことなくこの世を去った。

その代わりというわけではないが、鄭和は東南アジアのイスラーム化にかなりの貢献をしたらしい。

189: 名無しさん@おーぷん 2014/07/25(金)00:00:29 ID:8ONvuPWtx
鄭和きたこれ!

190: 2014/07/25(金)00:09:16 ID:1oHTKiXil
東南アジアの島々には早くから多くのムスリム商人たちが寄港していた。
当然、それなりにイスラームに改宗する現地人もいただろうし、
仕事に飽きて現地で沈没するムスリム商人も少しはいたであろう。
なにしろ東南アジアは魅力的な土地で、今でもバンコクあたりで沈没する旅人は珍しくない。


が、史料上で東南アジアにイスラーム国家が登場してくるのは13世紀末から、
つまりモンゴル帝国による交易振興が始まってからである。

なんとなれば、基本的にイスラームは異教徒を改宗させることにあまり積極的ではないのだ。
来るものは拒まないが、来ない者を無理に追いかけはしない。

開祖ムハンマドが商人だったせいか妙に実利的で、
「無理に異教徒改宗させるよりそのまま放っといて保護税ふんだくった方が得じゃね?」とか、
「異教徒の土地で無理に戒律守って腹空かすよか、融通きかせて豚肉食っちまえば?」とか、
意外とそんなスタンスだったりするのだ。


だがしかし、モンゴル帝国の成立で来航するムスリム商人の数自体が飛躍的に増えれば、
現地人サイドとしても「とりあえずアッラーフ・アクバル~とか唱えとけば入港税増えるんじゃね?」という
これまた実利的な発想に至るのもむべなるかな。

アラブ人もペルシア人もマレー人も商人なり。
共通言語はカネである。


でもって、鄭和である。

鄭和艦隊はインド洋各地から強引に大量の朝貢使節を中国まで連れて来た。
来てみればなかなかに豊かな土地でもあるし、大国なのでうまく煽てれば何かと得かも知れない。
インド洋各地の支配者たちがそう思ったところで、今度は明朝側が政策を180度転換して鎖国した。

「まあしょうがないか、北の大国が放置プレー始めてフリーダムになった東南アジアで商売するか」と、
こうなるわけである。


俄然、東南アジア島嶼部のイスラーム化が始まった。

192: 2014/07/25(金)00:35:31 ID:1oHTKiXil
ところで、これまで思想史的なことはほとんど省略してきたのだが、
アッバース朝が衰退する頃からイスラーム世界では「スーフィズム」という思想が大流行した。
これを一言で説明するのは難しいのだが、まあ「修行して凄い状態目指そうぜ」ということである。

中にははまりすぎて、街中で突如「我は神なり! 我は神なり!」と絶叫して
タコ殴り殺害された思想家なんぞもいるのだが、それはちょっと例外。

有名どころだと、ひたすらクルクル回転しまくって恍惚状態のうちに神と一体化しましょうという
メフレヴィー教団なんていうのもあって、オスマン帝国で大流行している。


まあ何にせよ、スーフィズムの登場によって「イスラーム」という宗教は、
いろいろな意味で、それまでよりも拡大速度を高めたようである。


スーフィズムの修行者たちは何しろ真剣に「宗教」をやっているので、基本的に異教徒改宗に
消極的なイスラーム世界にあって、比較的熱心にイスラーム思想を宣伝したがる。

異教徒から見れば、豚肉を食べず酒を飲まず毎日礼拝するとかいうよりも、
ひたすらグルグル回転したり、超能力で空に浮かんでみたり、ナゾの煙を吸引してみたり、
修行者の墓に巡礼して健康祈願したりするほうが、分かりやすいし入り込みやすい。


というわけで、テュルク族だのジャワ人だのマレー人だのはスーフィズム経由で
イスラーム世界に入ったので、オーソドックスなアラブ的イスラームのイメージとは
いろいろずれている傾向がある。

マレーやジャワでは今でもイスラーム以前の仏教だのヒンドゥー教だの精霊崇拝だのに
由来する儀礼や信仰はそこらじゅうに残っているし、人名も全然アラブ風ではない。



それはさておき、イスラームは東南アジア最西端のスマトラ島のアチェに始まり、
各地の伝統文化の影響でいろいろと歪みまくりながらもマレー半島やインドネシア諸島に広がっていく。

東へ北へと拡大するイスラームの前線が、モルッカ諸島とフィリピン南部まで到達した頃に
太平洋の向こうからスペイン人がやって来た。

193: 2014/07/25(金)00:43:27 ID:1oHTKiXil
後から大きく見れば、こうも言える。


イスラームは西から入って、東と北に進んでいった。
放っておけば一番東のニューギニアかオーストラリア、一番北のフィリピンか台湾までイスラーム化しただろう。

ところがその最中に東側からスペイン人が現れて、まだイスラームに染まっていなかったモルッカ以東と
フィリピンを先にキリスト教に染め上げた。

そういうわけで、今も東南アジア島嶼部では、マレーシアと西インドネシアがイスラーム、
東インドネシア(一部)とフィリピンがキリスト教の世界になっている。



それはさておき。

インド洋の最東端に太平洋からスペイン人がやってきたのこと時を同じくして、
インド洋の最西端にはポルトガル人が登場している。
1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは史上初めてアフリカ大陸南端を迂回し、
インドのカリカットに到達した。

なんでも東アフリカでは「爺さんが子供の頃に中国から来た船よりだいぶ小さい」と批評され、
インドでは「貢物がガラクタしかなくてテラワロス」とか言われたらしいが、
それでもとにかく結構なお土産を積んでポルトガルに帰ったので、
それ以後ポルトガルではインド洋進出が一大国家事業になった。

194: 2014/07/25(金)01:05:45 ID:1oHTKiXil
ここで登場するのが「アフォンソ・デ・アルブケルケ」という人物。海の大征服者である。
彼は1506年に16隻の艦隊を率いてインド洋に遠征し、東アフリカからインドに至る
沿岸各地に砦を築き、東南アジアの交易中心であったマラッカ王国を占領した。

こうしてポルトガル人はインド洋の制海権を手にして、「エスタード・ダ・インディア」と呼ばれる
海上覇権を築き上げる。


ただし留意すべき点がある。

何故これほど易々とポルトガルがインド洋を制圧できたのか。
答えは簡単で、それまで非ヨーロッパ世界に「海を支配する」という概念は
基本的に存在しなかったからだ。

ポルトガルの主観では「インド洋の支配」。
それはアジア側から見ると、多少大袈裟にいえば「近頃あちこちでポルトガル人の海賊が
砦を構えて交通料を要求してきてウザい」という状況でしかなかった。

まして、当時内陸に繁栄していた諸帝国は「ポルトガルの海上帝国」の存在など
まったく認識していなかったと思われる。


かなり後のことだが、イスラーム世界にも「海の支配」という発想をする勢力が登場したことがある。
19世紀前半、アラビア半島東部のオマーンだ。
当時オマーンの王位にあった「サイイド・サイード」という珍妙な名前の人物が
イギリス製の軍艦を使って東アフリカの沿岸都市を次々に攻略。
一代にしてペルシア湾からタンザニアに及ぶ「オマーン海上帝国」なる代物を築き上げ、
大英帝国とインド洋の覇権を二分していたりする。


いずれにせよ、この時代にあっては未だかくのごとし。

近代以前、海と陸は政治的に無縁だった。
けれどヨーロッパは陸の帝国が気づかないうちに着々と海を支配していった。
そして陸の帝国が予想もしていなかったとき、予想もしていなかった場所から突然大陸に侵入する。

かくて大英帝国のインド進出の伏線となる。



今夜はここまで。

196: 名無しさん@おーぷん 2014/07/25(金)01:15:15 ID:7WeA12Nr7
めっちゃ面白いな

198: 名無しさん@おーぷん 2014/07/25(金)01:21:37 ID:X4LQuzYyp
おつかれ

後々、西アフリカスーダンあたりもお願いします

217: 2014/07/26(土)01:57:30 ID:WkL5zhGd5
>>198
そういえばもうすぐ「サハラに舞う羽根」の時代ですな

204: 2014/07/25(金)23:35:48 ID:utULEuDmC
1596年、ジャワ島のバンテン港に突然オランダ艦隊が入港した。


当時、オランダはハプスブルク朝スペイン帝国からの延々続く独立戦争の真っ最中であった。
ポルトガルもスペインも似たようなものであるし、東洋には富が唸っていた。
オランダ政府は「オランダ東インド会社」なるものを設立し、東南アジア横取り作戦を開始したのだ。

さっそくオランダはそこらじゅうのポルトガル商館を襲撃してまわった。
願わくば喧嘩は身内でだけ片づけてほしいものである。
ポルトガルの海上帝国なんてものは所詮見かけ倒しなので、オランダの横取り作戦はサクサク進行。

1618年、オランダ東インド会社の第4代東インド総督として、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが着任。

なにゆえ単なる一会社が「総督」だの「艦隊」だのを抱えているのかというツッコミは気にしない。
ヤン・ピーテル(以下略)はポルトガルにとってのアルブケルケと同様、オランダ海上帝国の父ともいうべき人物だった。
彼はそれまでのように海上をうろうろしてポルトガルにせこせこと嫌がらせをする戦略を改め、
各地に要塞を建設して確実に交易を支配することにした。

というわけで着任の翌1619年、彼はさっそく艦隊を率いてジャワ島西部のジャカルタを占領し、
ここにバタヴィア城を建設した。
これ以後、このバタヴィアがオランダによる東南アジア支配の中枢となる。

1629年にはジャワ島最強のマタラム王国を破り、同年スマトラ西北端のアチェ王国にも圧勝。
1639年には北の大国日本がポルトガル船の来航を禁止したうえでオランダに独占交易を認めたので、
バタヴィア総督府では大宴会が開かれた。
そして1641年には長らくポルトガルの拠点だったマラッカをついに陥落させ、東南アジア海域の経済覇権を確立。

東南アジア横取り作戦、大成功であった。

205: 2014/07/25(金)23:55:26 ID:utULEuDmC
ところが、残念ながらオランダは横取り作戦に夢中になるあまり、金の卵をぶっ壊しまくっていた。


そこらじゅうの港市を襲撃してはぶっ壊し、そこらじゅうの国々に戦争吹っかけまくり、
商売敵を片っ端から蹴散らしまくった結果、オランダが横取り完成した時点の東南アジアは
国際交易がすっかり閑古鳥になっていたのである。

これじゃあ何のために東南アジア横取りしたのかわからんやんけ。


というわけでオランダ東インド会社は発想転換して、これより内陸征服作戦を開始する。
商売で金儲けするのではなく、税金で金儲けすることにしたのである。

ただしオランダ東インド会社は企業である。艦隊を持とうが総督がいようが企業である。
最小限度のコストで最大限の利益をあげる。
占領した土地の住民に、彼らは会社にとって最も儲かるものを栽培させた。
なんといっても本国の株主たちに配当金を払わなければならんのだ。現地従業員など二の次である。
モルッカ諸島では会社が抑えられなかった香木は全部伐採させ、ジャワでは藍だの木綿だのコーヒーだの
儲かりそうなものを片っ端から持ち込んだ。

とはいえ東南アジアの島々はあまりにも数が多すぎる。
オランダの征服作戦はいつになっても終わりが見えなかった。
とくに東南アジア最古のイスラーム国家であるスマトラ島のアチェの抵抗は長く激しく、
オランダがアチェを完全に征服したのは、なんと20世紀に入ってからである。
ご苦労なことである。

206: 2014/07/26(土)00:11:46 ID:WkL5zhGd5
ところで、実はポルトガルから東南アジアを横取りしようとしたのはオランダだけではなかった。
イングランドという競争相手がいたのである。

イングランドは1600年、「イギリス東インド会社」なるものを設立。
これまた艦隊だの総督だのを抱える謎会社である。

謎会社は1601年に東南アジアに艦隊を派遣。モルッカ諸島の香辛料を狙ってオランダと大いに競争する。
ところが1623年、モルッカ諸島のアンボイナ島で、オランダ東インド会社が雇っていた
七蔵とかいう日本人傭兵がやたらと城壁の高さだの厚さだのを調べまくっていることを不審に思った当局が
七蔵さんを軽く鉄製器具でナデナデしてみたところ、この七蔵氏、実はイギリスのスパイであったと自白。
オランダはキレて、イギリス人を全員東南アジアから追い出した。


そういうわけで以後のオランダは安心して横取り作戦を継続できたのだが、
東南アジアから追い出されたイギリス東インド会社としても、このまま倒産となっては株主に告訴される。

「東インドがだめなら本家インドはどうかのう」と作戦転換し、
南インドの海岸沿いにコツコツと商館など建てながら真面目に商売を続けること百年あまり。

気がつくとインド内部はゴチャゴチャになっていた。

207: 2014/07/26(土)00:33:09 ID:WkL5zhGd5
謎会社は一つではないし二つでもない。


当時、フランスもまた「フランス東以下略」を設立し、南インドで商売をしていた。
艦隊も傭兵も取り揃えていることは言うまでもない。

ときに南インドのカルナータカ王国で内戦が勃発。
ちょうど近場にフランスとイギリスの謎会社が拠点を置いている。
内戦当事者たちは、この異教徒どもを味方に引き入れて相手を圧倒しようと思いつく。


たかが民間企業のガードマン集団とはいえ、ヨーロッパ人の軍事力は半端ない。
この戦争を機に、たちまち謎会社はインド亜大陸覇権争いのなかに参戦することになった。

1757年、イギリス謎会社のガードマンたちはベンガル太守の継承戦争に参戦した。
敵方にはフランス謎会社も参戦。両軍はカルカッタ北方のプラッシーで衝突した。

イギリス謎会社のガードマン主任はロバート・クライヴ。
彼の部下たちと言えば、ヨーロッパ人1000人足らずと現地人が2000人ちょい。
相手方には6万人のベンガル兵たちが居並んでいた。

ところが、敵軍の80パーセントはイギリス謎会社からたっぷり賄賂をもらっていたのか、
何もしないまま突っ立っていた。そして折しも大豪雨。敵軍の火薬は水浸しになった。

何もしないまま突っ立っている5万人のベンガル兵を脇に見て、イギリス謎会社は突撃敢行。
火薬を封じられた1万人は一方的に追いまくられ、結果謎会社はわずか72人の損害で圧勝を収めた。


ここまで弱かったかインド人・・・

謎会社は覚醒した。

208: 2014/07/26(土)00:51:04 ID:WkL5zhGd5
謎会社はベンガル太守を傀儡化した。

突っ立っていた5万人の指揮官、ミール・ジャアファルをベンガル太守に擁立。
ブクサールにて逆襲してきた前ベンガル太守とアワド太守、
そして何故か顔を見せていたムガル皇帝の連合軍を撃破。

恐れをなしたムガル皇帝は、謎会社に北インド一帯の徴税権を認可した。
正確にいうと「ムガル帝国ベンガル・ビハール・オリッサ財務長官にしてベンガル太守」。
これが謎会社の称号である。ミール・ジャアファルはお払い箱行きとなった。

それにしても、これのどこが民間企業であるのか謎は深まるばかりである。


ところが世の中うまくいかないもので、不動産経営ならぬ領地経営に手を出した謎会社は、利益急落する。
まずもって、「ベンガル太守」などという称号を得た謎会社はロンドンシティ株式市場で一大投機の的となり、
煽られまくった結果、株主配当金が急増。

同時並行でマイソール王国だのマラータ王国だのと戦争していたせいで軍費が会社経営を圧迫。

ていうか、そもそも民間企業に2000万人のベンガル人をどうやって統治しろというんかい。

209: 2014/07/26(土)01:14:56 ID:WkL5zhGd5
ここで「ウォーレン・ヘイスティングズ」という大物取締役がイギリス政府から押し込まれた。

彼は「やあ紳士淑女の皆さん、リアルに考えましょう。弊社は国家になりました」と現実を認め、
徴税組織だの法制度だのを軍隊だのをどんどん整備した。
それにあたって、なんとも真面目に古代インド以来の風俗習慣だの法慣行だの社会組織だのを
研究しまくって統治に活用しているあたり、なんというか、近代西洋オーラ溢れる。


その頃、デカン高原のマイソール王国では、「マイソールの虎」と呼ばれた英傑が対英抗戦を続けていた。
彼の名は「ティプー・スルタン」。
フランスの軍事顧問を雇って統治の近代化を進め、精強無比な国軍を整備した。

「余は羊として一生を過ごすより、ライオンとして一日を生きたい」

オスマン帝国をはじめとするイスラーム諸国、遠く大清帝国、またフランスとも通好し、
ヨーロッパにもなかったロケット兵器を大量導入してイギリス軍に連勝した。

誇り高く視野広く才能あふれ、近世インドの末期を飾る英雄である。

だが、そんな彼も1799年、シュリーランガパトナの戦いでイギリス軍に追い詰められ、
降伏をあくまで拒否して壮絶な戦死を遂げた。

このマイソールの虎の最後の闘いにおいて甚大な被害を受けたイギリス軍のなかに一人の若き大佐がいた。
彼の名はアーサー・ウェルズリー。
やがてこの若者はヨーロッパにおいてもう一人の偉大な英雄と戦い、その没落を決定づけることになるだろう。

213: 名無しさん@おーぷん 2014/07/26(土)01:40:46 ID:yS9JvMVib
>>209
お、アイアン・デューク登場。
お兄ちゃんもインド総督だったんだよね?

ところで1ちゃんは神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世には触れたっけか?

215: 2014/07/26(土)01:48:23 ID:WkL5zhGd5
>>213
ウェリントン公アーサー・ウェルズリー、あっさり正体発覚の件。

ああ、「スルタン・フェデリーコ」に言及するの忘れてましたわ。
中世シチリアも完全スルーしたし、十字軍も最低限しか書いてないし。

210: 2014/07/26(土)01:25:37 ID:WkL5zhGd5
さておき。

1767年から1799年に及んだ四度のマイソール戦争に勝利。
1803年にはマラータ同盟を追ってデリー占領。
1817年、グジャラート獲得。
1840年よりアフガニスタン侵攻開始。
1849年にシーク教国を滅ぼす。


イギリス東インド謎会社は、あくまで民間企業の顔をしたまま16万もの軍隊を抱えて、
ムガル帝国崩壊後のインド諸王国を次々に破りあるいは従属させ、
いまや紛れもなくインド亜大陸全土の覇者となった。


大英帝国のインド征服は、ユーラシア大陸においてかつて見られなかった奇妙な物語である。

211: 名無しさん@おーぷん 2014/07/26(土)01:27:55 ID:ar1whSAjP
もう少しで日本も出てくるのか

212: 名無しさん@おーぷん 2014/07/26(土)01:29:07 ID:N6C5nYMKs
おつ

ティプーさんカッケーっす(`・ω・´)ゞ

215: 2014/07/26(土)01:48:23 ID:WkL5zhGd5
>>212
御尊顔は微妙
no title


214: 2014/07/26(土)01:41:39 ID:WkL5zhGd5
こうして、世界は19世紀を迎えた。

このとき、オスマン帝国は緩やかな衰退の果てに「ヨーロッパの病人」と呼ばれる末期衰亡の秋を迎えつつある。

ペルシアでは暴虐なるアーガー・モハンマドによってガージャール朝が成立するも、その前途はすでに暗い。

インドにあってはムガル帝国はまったく形骸化し(いちおうまだ滅亡はしていない)、
南アジア世界はユーラシアの諸文明においていち早く西洋の直接支配に屈した。

東南アジアでは蘭領東インドの植民地化が完成へ向かう。

中央アジア・・・・・・はまだ解説してないのでネタ晴らししない(←

東方世界にあっては大清帝国最後の大帝、乾隆帝弘暦が1799年に没した。
極東だけは、なお今しばらく夢の名残に生きることを許されるだろう。
40年後、広東に英国の艦隊が姿を見せる日まで。


近代軍事革命、財政軍事国家体制の確立を終え、産業革命前夜を迎えた西欧は、
いまや世界制覇を視野に収めつつある。
急速に地球はひとつに統合されようとしていた。


1500年以上にわたって東の中華世界とともにユーラシア大陸の歴史を牽引してきたイスラーム世界は
これ以後完全なる敗北と悲惨の味を知る。
惑乱と諦念、退廃と覚醒、変革と退行、融和と拒絶。
「現代」が近づく。


今夜はここまでとシャハラザード王女は申します。

216: 名無しさん@おーぷん 2014/07/26(土)01:49:17 ID:N6C5nYMKs
おつかれ

荒波の19世紀まで来ましたな

217: 2014/07/26(土)01:57:30 ID:WkL5zhGd5
>>216
イスラームの第13世紀が開幕・・・・・・あ、>>214の「1500年以上」ってのは引き算間違えてたorz

218: 名無しさん@おーぷん 2014/07/26(土)06:23:51 ID:4dnCiD2rQ
東南アジアにあった日本人町ってイスラームと交流あったの?

223: 2014/07/26(土)23:13:53 ID:1U3wYIOQ9
>>218
すでにイスラーム化した地域にも日本人町はたくさんあったし、
それ以外でもムスリムは珍しくなかったから、当然接点はあったはず。
ただ、当時の日本人が「イスラーム」という宗教の全体像を把握していたとはおもえない。
仏教の一種程度の認識だったんじゃないかな。

東南アジア側の史料では、ちょっと具体例は覚えてないけど、
豊臣秀吉を「日本のラージャ」とか、徳川家康を「日本のスルタン」とか書いているものもあるよ。

なお、すでに室町時代に「楠葉西忍」というムスリムと思われる商人が日本にいた記録もある。

219: 名無しさん@おーぷん 2014/07/26(土)09:37:32 ID:ovWWk37nX
「羊として一生を過ごすよりライオンとして一日を生きたい」
一度でもいいから言ってみたいねぇ

223: 2014/07/26(土)23:13:53 ID:1U3wYIOQ9
>>219
ティプー・スルタンが最後の戦いで降伏を勧められたときの言葉も有名。
「余は年金を受給するラージャやナワーブの名簿に名を連ね、
不信心者どもの情けにすがって惨めな余生を送ることなど望みはせぬ。
戦のなかに生き、戦のうちに果てることこそが我が望みなり」

230: 2014/07/27(日)21:42:42 ID:x0dRjz4tl
墺土戦争とアフシャール戦役で連敗して以後、長らくヒキコモリ主義を優先してきたオスマン帝国は、
1768年に久しぶりに本格戦争に巻き込まれる。
運悪く、黒海北方のポーランド領ウクライナで起こった民衆反乱に巻き込まれたのであった。

ピョートル大帝から半世紀以上を経て、ロシアは女帝エカチェリーナ2世の時代になっていた。
衰亡期に入ったオスマン帝国軍は黒海西岸を順当に敗走し続けた。

1768年に「キュチュク・カイナルジ条約」という例のごとく発音困難な条約が締結された。
その結果、長らくオスマンの従属国だった黒海北岸のイスラーム国家、クリミア・ハン国が独立もといロシアの属国化。
そしてワラキア・モルダビア二国もロシアの保護領となった結果、オスマン帝国は現在のルーマニア全土を喪失し、
ドナウ川以北がすべてロシアの影響圏となった。


ちなみにクリミア・ハン国というのは、14世紀に分裂解体したジュチ・ウルスの最後の名残にあたる。
首都はクリミア半島南部のバフチサライ。
狭隘な地峡で本土ウクライナと隔てられたクリミア半島は、守るに易く攻めるに難い。
イヴァン雷帝の頃までは、クリミア・ハン国の騎兵はしばしば北上してロシアの町々を急襲し、
時に首都モスクワをすら焼き払ったものだった。

その後もクリミア・ハン国は南の海の向こうにあるオスマン帝国による無言の支援を受けて
北のかたロシアに降ることなく、ロシアはクリミア騎兵の脅威を恐れて、長らく「ハンへの貢納」をすら続けていた。

オスマン帝国の庇護を失ったクリミア・ハン国はわずか9年後、ロシアに強制的に併合される。
自国を奪われたクリミア最後のハンは遠くエーゲ海の岸辺で生涯を終え、チンギス・ハン直系子孫の王国は
地上から永遠に消滅することとなる。

231: 2014/07/27(日)22:05:17 ID:x0dRjz4tl
だが、キュチュク・カイナルジ条約にはそれ以上に重要な条項があった。

「ロシア皇帝はオスマン帝国領内に居住する正教徒の保護権を持つ」
「オスマン皇帝はクリミア半島に居住するムスリムに対する精神的な権威を持つ」

という2項目である。


ロシア帝国もオスマン帝国も領内に複数の宗教を抱える多民族帝国だったが、
どの宗教の信徒であっても死後はいざ知らず、さしあたり揺り籠から墓場までの期間の間は
現に暮らしている国の支配者に忠誠を誓うのが常識だった。

オスマン帝国ではムスリム以外の住民は「ミレット」という単位に組織され、
基本的には裁判その他の自治が許されていたが、税金はたっぷり徴収された。
ロシア帝国ではムスリムやユダヤ人、ごく僅か存在した仏教徒は二級市民扱いだった。

支配者が異教徒で何かと不利を被ったとしても、それは仕方ないことだった。
所詮、神から遠く離れた地上では力が正義。負けた先祖が悪いのだ。


だが、キュチュク・カイナルジ条約の2つの条項は、全く別の可能性を開いて見せた。

ロシア帝国はこれ以後、オスマン帝国領内でキリスト教の東方正教に属する人々が
当局によって「迫害を受けている」と見なされる場合は、合法的にオスマン帝国に介入する権利を得た。

一方オスマン帝国についても、クリミア限定のはずの「精神的権威」という条文が
これ以後どんどん拡大解釈され、やがて居住する国を問わず、全世界のムスリムに対して
オスマン皇帝の権威が及ぶという理論が一人歩きするようになる。

それはまるで、かつての「カリフ」が復活したかのようだった。


「国家」という枠と「宗教」という枠が微妙に食い違いはじめる。
まことに面倒で厄介な時代が来たものだった。

233: 2014/07/27(日)22:17:41 ID:x0dRjz4tl
北方の大国ロシア。

ロシアには二つの夢があった。

一つは一年中凍らない海を手に入れること。
北極海に面するアルハンゲリスク、バルト海に面するサンクトペテルブルク。
ロシア帝国の2つの外港はいずれも一年の半分が冷たい氷に閉ざされ、完全に麻痺する。

青に緑に煌めく地中海へ! 真珠豊かなペルシア湾へ!
邪魔な異教徒どもを駆逐して暖かな南の海に到達することを、冷たい冬のなかでロシアはいつも夢見ていたのだ。


そしてもう一つ。
ロシアはイヴァン雷帝の時代から自国を「第三のローマ」だと考えていた。
第一のローマ、古代ローマ帝国は蛮族に滅ぼされた。
第二のローマ、東ローマ(ビザンツ)帝国は異端の跳梁の結果、ついに異教徒トルコ人に征服された。
いまや真のキリスト教、「正教」の教えはロシアだけに残された。
ロシアは異教オスマン帝国の圧制のもとで苦しむ正教の同胞たちを救いだし、いつの日か
トルコ人どもに占領された東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルを回復するのだ!!

234: 名無しさん@おーぷん 2014/07/27(日)22:18:39 ID:kXM3wImox
もうこんな時代まで

235: 2014/07/27(日)22:29:45 ID:x0dRjz4tl
激しく厨二病的な匂いを漂わせる主張ではあるが、力は正義である。
繰り返す。力は正義である。
(大切なことなので二度言った)


さしあたり、クリミア半島の獲得と、もうひとつイスタンブル直下の
ダーダネルス・ボスポラス海峡自由通行権も押さえておいたので、第一目標はまあまあ達成できたとしよう。

じゃ、二つ目である。厨二病とかいったら怒る(byロシア)

エカチェリーナ2世は「ギリシア計画」なるイスタンブル征服大作戦をひそかに発動し、オーストリアと秘密協定を結んだ。
「バルカン半島山分けしようぜ、じゃなかった、いたしませう」(エカチェリーナは女性)

その頃、オスマン帝国側でも世論が激昂していた。
異教徒どもへの言い訳しようがない大敗北に大譲渡、ありえねえというわけである。
なにしろオスマン帝国は半世紀のあいだ現実逃避のヒキコモリ政策をやっていたわけで、今更ながらショックも大きい。
まして目と鼻の先のボスポラス海峡を毎日ロシアの軍艦だの商船だのが我が物顔で往来しているので。


1787年、最初に宣戦布告をしたのはオスマン帝国側だった。
どうせ負けるのに自分から始めなくてもいいような気がするが、そうしたところで遅かれ早かれ
ロシア側から宣戦布告されていただろうから、結果は同じことであろう。


「前回は何かの間違いだ!」と確信するオスマン帝国愛国者各位の願望にも関わらず、
今度もオスマン軍は連戦連敗した。
もうスレイマン大帝の時代じゃないのである。偉い人たちにはわからんのだね。


ところが1791年、突然戦争は中止された。
いくつか理由があるが、ロシアもオーストリアも
へたれな異教大国などをイジメている余裕がなくなったというのが大きい。

西方でフランス革命が始まっていた。

236: 2014/07/27(日)22:53:21 ID:x0dRjz4tl
何やら異教徒どもの国で暴動が起こって、当地のスルタンが廃位されたあげく処刑されたらしい。
でもって周りの異教徒どもの国々では、暴動が自国に波及しないように大同盟を組んで戦争開始したらしい。
異教徒どもの国々で異変が起こっているのは大変結構なこと。
我が国がこの異教徒どもの内輪もめに関わる必要などない。
アッラーよ、願わくばこの「フランク人(ヨーロッパ人)の疫病」をさらにさらに蔓延させたまえ。
オスマン家の崇高なる国家は永遠にして、アッラーは偉大なり!!


オスマン帝国知識人たちはおおむね上記のような感想を共有したうえで、敗北の原因分析と改善に取り掛かった。

当時のオスマン皇帝はセリム3世だった。
彼はオスマン帝国の偉い人たちのなかで例外的に「クールな現実」が見えていたようで、
停戦翌年に早くもオーストリアに調査団を派遣して西洋諸国の実情を調査するとともに、
帝国内の「その他の偉い人たち」に改革案を提出させた。


改革案のほとんどはトイレットペーパー程度の価値もない戯言であったが、
有益と思われる共通見解がひとつだけあった。

「イェニチェリはあかん」

237: 2014/07/27(日)22:54:05 ID:x0dRjz4tl
オスマン帝国皇帝親衛隊にして、最強の歩兵軍団イェニチェリ。
だがその軍規はとうに失われ、なにか不満があるとシチューの大鍋をひっくり返して
大通りをデモ行進するだけの無駄飯食らいと化して、すでに長い年月が経っていた。

セリムとしては役にも立たないイェニチェリなど即刻解散したかったのだが、既得権益の壁は大きい。
そこでまず、西洋式の新軍隊を創設することにした。

役所も改革が必要だった。
不満があろうがなかろうが一日中机で昼寝してるだけの無駄飯食らいがいたるところに生息しており、
行政機構はなかば麻痺して久しい。
セリム3世はこれら無駄飯食らいを一掃し(同じ既得権益でも腕力がないので楽だった)、
重要案件はすべて新設の「枢密局」で一括決済することにした。

最後に外交面。
セリム3世はオーストリアへの調査団の成果に満足したのか、欧州各国に大使館の設置を決定。
常駐の外交官たちを異国に派遣し、そこで大いに勉強してくるように命じたのだ。


だが、これらの改革はオスマン帝国人民の99パーセントに不評をもって迎えられた。
なんだって異教徒どもを打ち破るために異教徒どもの悪習を真似して帝国の威厳を損ねるのか。
イエニチェリは当然不満だし、イスラーム法学者も不満だし、
民衆も改革費用を賄うためとやらで、タバコだのコーヒーだのが増税されたので大変不満であった。


遠からずこれらの反感が火を噴くのでは。
そんな時限爆弾を抱え込んだイスタンブルを、南からの思わぬ急報が震撼させる。


1798年、フランク人のパシャ(将軍)が異教徒の大軍を率いて、エジプトを襲った。

238: 2014/07/27(日)23:09:17 ID:x0dRjz4tl
いまはむかし、ユーラシア大陸の西半に巨大な翼を広げた「ダール・アル・イスラーム」
(イスラーム世界)の中心はアッバース朝の首都バグダードであり、アッバース朝が衰亡した後は
北アフリカのナイル下流に位置するアル・カーヒラ、すなわちカイロに移った。

オスマン帝国が東地中海を制し、マムルーク朝を征服してからはイスラーム世界の諸力の重点は
帝都イスタンブルに移行したといえよう。

とはいえ、今なおカイロはイスラーム世界屈指の重要都市であり、エジプトは帝国最大の穀倉だった。

そこに異教徒が侵入した。
13世紀、アイユーブ朝末期にフランス王ルイ9世が率いた「十字軍」が侵攻して以来のこと。
そして今度の異教徒どもを率いるのもフランスの将軍。
その名を「ナポレオン・ボナパルト」という。


フランス革命後期の内乱のなかで次第に頭角を現し、イタリア半島に派遣されてオーストリア軍に連戦連勝、
ついに第一回対仏大同盟を崩壊に追い込んで国民的英雄となったナポレオン将軍は、
かねて持論の通りフランス最大の敵国であるイギリスと植民地インドとの連携を絶つべく、
エジプト遠征を敢行したのである。


なお、この論のなかでエジプトを現に領有するオスマン帝国の立場はまったく考慮されていないどころか、
イギリスはとにかくオスマン帝国に撃退される可能性などまるで顧慮されていないあたり、もの悲しい。

239: 2014/07/27(日)23:25:30 ID:x0dRjz4tl
とはいっても、実際オスマン帝国はすでに欧州列強から対等扱いされるレベルでなくなっていたのが事実。
知らぬはオスマン人ばかりである。まして対露戦線から遠く離れたエジプトなど、時代の流れに取り残されて久しい。

エジプトはむろんオスマン帝国の支配下にあったが、実際にエジプトを統治していたのは、
その頃でもまだ昔ながらのマムルークだった。
オスマン帝国はマムルーク朝を滅ぼしたが、エジプト社会に深く食い込んだマムルークという集団自体を解体したわけではない。

マムルークは世襲ではなく、一代限りの「奴隷軍人」なので、オスマン帝国にエジプトが支配されるようになっても、
すでにマムルークをやっている連中は自分らの後継者として奴隷市場で有能そうな若者を購入しては
軍事訓練と教育を施して次世代マムルークとして育成していった。


アレクサンドリア付近に上陸したナポレオンは、さっそくアラビア語で布告を出した。
「諸君に告ぐ! 私は圧制を敷くマムルークからエジプト民衆を解放するために来た。アッラーは偉大なり!」

イスラーム圏を占領しようというなら現地住民の宗教的感情を尊重すべきであろうと、大量の学者を従軍させ、
航海中もイスラーム文化の研究を怠らなかったナポレオンである。
こういう発想が出てくるあたり、すでに近代西欧はいろいろと毛色が違う。


マムルークたちは敵軍の実態など何も分からないまま、根拠なき勝利の確信とともに迎撃に出たが、
いわゆる「ピラミッドの戦い」で近代フランス軍の前に完全無欠壊滅致命的大敗北を蒙った。
わずか3週間でナポレオンはエジプト征服に成功した。


だが、付け焼刃の軍政はさっそく綻びを見せた。
わずか3か月後にはカイロで異教徒支配に対する暴動が発生。
ナポレオンはエジプト統治のために現地知識人を強引にかき集めて「ディーワーン」(評議会)を設置したが、
その一員であった歴史家ジャーバルディーも「異教徒ボナパルト逝ってよし!」と書いている始末である。


エジプト回復のためにオスマン軍が南下を開始。ナポレオンはシリアに迎撃に出るも、慣れぬ砂漠の戦いに利あらず撤退。
背後ではイギリス艦隊が策動し、本国でも周辺諸国が再度対仏戦争を開始。


「すまんが兵士諸君、祖国が私を必要としているのだ。さらば麗しのオリエントよ」


一夜、ナポレオンは軍のほとんどを現地に放置したままエジプトを脱出した。
ひどすぎるだろ。

240: 2014/07/27(日)23:46:49 ID:x0dRjz4tl
ある朝、目が覚めたら最高指揮官が消えていた。


将兵は唖然として憤然としたが、何はともあれ今日を生き延び明日も生き延び、明後日も生存せねばならぬ。
ナポレオンが残した将軍ドゼーと兵士たちは疫病と暴動に悩まされながら、耐えて耐えて耐えた。
ドゼーは有能だった。
ゲリラ戦を続けるマムルークの首領ムラード・ベイを追跡して上エジプトで降伏させ、
おそらくナポレオンよりも善政を敷いた結果、現地農民たちに「正義のスルタン」という異称を奉られたらしい。

ほんとかね。


しかし2年が限界だった。
フランス軍はイギリスとオスマン帝国に降伏し、あとには混乱したエジプトが残された。



エジプトから不名誉に脱出したナポレオンであるが、彼はやはり世界史上屈指の天才ではあった。
これ以後彼は着々と栄光の階梯をのぼり、全ヨーロッパに覇をとなえる。
二度目の惨憺たる遠征と不名誉な逃走に至るまで。
そして1815年、ベルギー、ワーテルロー。
若き日に南インドのシュリーランガパトナでマイソール王ティプー・スルタンと戦った
ウェリントン公アーサー・ウェルズリーが彼の野望に止めを刺すのだが、
それはまた別の物語である。



エジプトでは、オスマン帝国中央より派遣された正規軍とアルバニア人からなる非正規部隊、
現地のマムルーク各派が入り乱れて泥沼の内乱を展開した。
その中で最後に勝ち残ったのは、マムルーク各派の内輪もめを煽り、巧みにカイロ市民からの支持を集めた
アルバニア非正規部隊の指揮官、「ムハンマド・アリー」だった。

1805年、彼はエジプト総督に就任。こうして新しい時代の主役が登場する。



今夜はここまで。

241: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)00:04:55 ID:WVaaZ40vE
おつかれ

ナポレオンは混乱とともに厄介なものを帝国内にもたらしたね

242: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)00:27:31 ID:YuQsZlDoD

この面白さはなんだろう

243: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)00:32:20 ID:F3nT8YwgH
全盛期のオスマン帝国ってイスラム版アメリカって印象持った
海洋の覇権を握り世界に君臨するアメリカに対し、大陸の覇権により君臨したオスマン
既存の他国と比べ異常に合理的な国家運営システム
雑多な民族の寄り集まり

247: 2014/07/28(月)22:37:50 ID:iq5GEPu2z
お待たせしました。今夜はあまり長居できないけど。

>>243
世界帝国は必然的に似たような国制になるんだと思う。
ローマもモンゴルもイギリスも、アメリカと似ている感じがするな。

248: 2014/07/28(月)22:58:15 ID:iq5GEPu2z
ムハンマド・アリーがエジプト総督に就任したころ、オスマン帝国本国では、
セリム3世の改革に対する不満がますます広がっていた。


セリム3世が新設した西洋式軍隊は「ニザーム・ジェディード」と呼ばれる。
トルコ語で「新制軍」。まあ芸のない命名ではある。

1805年、セリム3世はニザーム・ジェディードを増員するため、バルカン半島各地で兵士を集めることを発表した。
これを聞いて色めき立ったのはバルカン地方のアーヤーン、例の徴税請負人から進化した「ご領主様」たちである。

貴重な領地の人手が訳のわからん新制軍とやらに持ってかれる。
いや、よく考えてみれば皇帝直属の軍が強くなったら、自分たちが抱えている領地も取り上げられちまうんじゃね?

というわけでアーヤーンたちは皇帝を脅迫した。

「陛下、つまらん真似をなさったら我々みんなでイスタンブルに押しかけますぜ」

というわけで、バルカン半島での兵士徴募は中止。皇帝は脅迫に屈した。


この一件で、セリム3世もニザーム・ジェディットも舐められた。
まもなくイスタンブルの郊外で、イェニチェリ兵士がニザーム・ジェディットの将校を殺害する事件が起きる。
腰が引けた皇帝はニザーム・ジェディットに兵舎に引き上げるように命じたが、
ビビるどころか勢いづいたイェニチェリはそのままイスタンブルに進撃開始。こりゃもう反乱である。

セリム3世は完全降伏のていでニザーム・ジェディット解散を宣言したが、今更その程度で事は終わらない。

ここで、イスラーム法学者たちの最高権威である「シェイヒュル・イスラーム」が登場する。
要は最高裁長官みたいなものである。

「皇帝セリムの改革はことごとくイスラーム法に違反する。皇帝は廃位されるべし」


これで決着がついた。

セリム3世は帝位から引きずりおろされ、改革はすべてご破算。
ニザーム・ジェディットは解散し、各国の大使館も閉鎖される。
セリム3世の支持者たちはブルガリアの改革派アーヤーン、「アレムダール・パシャ」のもとに集まり、
皇帝救出のために出陣した。
しかしイェニチェリたちはこれを知ると救出軍が到着する直前に、哀れ廃帝セリムを殺害してしまった。

251: 2014/07/28(月)23:17:47 ID:iq5GEPu2z
帝都に入ったアレムダール・パシャたちは、お救い申し上げるつもりだったセリム3世が
血の海の中に倒れ伏しているのを発見してガックリきたが、このまま帰っても意味がない。

アレムダール・パシャはイェニチェリたちに擁立されていたムスタファ3世を廃位させ、
その弟のマフムトを新帝に擁立した。

皇帝マフムト2世、このとき23歳。

セリム3世を引きずりおろしたムスタファの弟というのはちと気に入らんが、
マフムト自身はまだ若くて頭も柔らかいだろうから、今のうちに洗脳じゃなかった教育すれば
きっとセリム3世の志を継いでくれるであろうよ。

アレムダール・パシャは自ら大宰相に就任し、中断された改革を再開する。
まず、帝国全土のアーヤーンたちにイスタンブル上京を命令。
面倒くさかったのであろう。
命令を無視するアーヤーンも大勢いたが、それでも三分の二ぐらいは上京してきた。

そこでアレムダール・パシャは中央政府の高官たちと地方アーヤーンたちの大会議を開催し、
アーヤーンたちが皇帝と大宰相に忠誠を誓うこと、公正に徴税して中央に送付すること、
そして新しい軍隊への徴兵に協力することを誓約させた。

そこはかとなく西洋諸国が導入しはじめていた議会政治的な気配を漂わせる新機軸である。


だが、セリム3世同様、アレムダールの改革も時代を先取りしすぎていた。
帝国人民の99パーセントは改革なんて反対に決まっているのだ。

わずか4か月後。
アレムダール・パシャが手勢をブルガリアの領地に帰した隙にイェニチェリたちが蜂起した。
乱入するイェニチェリたちに追われた大宰相は火薬庫に逃げ込み、
追いかけてきた何百人ものイェニチェリを道連れに壮絶な自爆を遂げた。


時代の荒波に翻弄される皇帝マフムト2世は何を思うのか。
セリム3世、兄ムスタファ3世、そして自らを帝位につけた大宰相アレムダール・パシャ。
相次ぐ浮沈を間近に見つめていた青年皇帝は、じっと黙して己の心のうちを覗かせなかった。

252: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)23:19:39 ID:cqkzQoGt0
イスラムじゃなくてイスラームなの?、

253: 2014/07/28(月)23:21:28 ID:iq5GEPu2z
>>252
アラビア語の発音的にはその方が正しいんで、最近はそう表記することが多いよ。
アラビア語は長母音と短母音を区別するから、どっちでも同じってもんではない。

254: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)23:26:28 ID:7qrVmZSvy
イェ二チェリの腐敗はちょっとシャレにならんな

256: 2014/07/28(月)23:37:12 ID:iq5GEPu2z
黄昏の19世紀オスマン帝国。帝都イスタンブルには陰謀が渦巻く。
その都を遠く離れたエジプトの地では、総督ムハンマド・アリーが次の時代を切り開こうとしていた。


1805年にエジプト総督に就任したムハンマド・アリーであるが、ナポレオンの侵入以来のエジプトの混乱は
依然収まる気配を見せていない。

1811年。
ムハンマド・アリーはカイロの城塞に有力マムルークたちを多数呼び寄せた。
理由は、こたびイスタンブルより命じられたアラビア遠征につき、次男の遠征軍指揮官就任式を執り行うため。

のうのうとやってきたマムルークたちが城塞の中に入った直後、城門が轟音とともに落とされる。
何事かと訝るマムルークたち。
そのとき、四方の城壁の上に無数の銃兵が姿を現した。
一段高いバルコニーから物憂げに見下ろす総督ムハンマド・アリー。
彼が手を振り下ろした瞬間、銃兵たちが一斉に射撃を開始した。

世にいう「シタデル(城塞)の虐殺」である。


というわけで、シャジャル・ドッル以来600年間エジプトを実質的に支配してきたマムルークの時代は終わった。
やってみたら意外と簡単じゃん。

257: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)23:43:39 ID:J2ntjlotV
なんでもやってみるもんだな

258: 名無しさん@おーぷん 2014/07/28(月)23:49:17 ID:7qrVmZSvy
山内一豊「わしも同じようなことしたことあるわ」

259: 2014/07/28(月)23:49:51 ID:iq5GEPu2z
ところでイスタンブルから命じられたアラビア遠征の件。
これは別に嘘ではない。この頃、アラビア半島では半島中部の豪族サウード家が急速に勢力を拡大し、
聖都メッカとメディナを落とし、シリアやイラクにまで猛威を及ぼしていたのだ。

メッカを落とされたのは大変なことだった。
オスマン帝国はセリム1世のエジプト征服のときに、ついでにアラビア半島西岸にも支配を確立し、
「二つの聖都の守護者」として全イスラーム世界に対してドヤ顔を続けてきたのだ。
成り上がりのサウード家ごときに聖都を強奪されては帝国の威信に関わる。


マムルークを粛清したムハンマド・アリーは苦戦しつつも聖都メッカとメディナを奪還し、
灼熱のアラビア砂漠心臓部に進撃し、サウード王家を滅ぼした。

帝国のドヤ顔は回復された。
だが、その一方でドヤ顔回復に多大な貢献をしたムハンマド・アリーは日増しに独立色を強めていく。
アレムダール・パシャのアーヤーン召集なんて鼻から無視したことは言うまでもない。


アラビア遠征で苦戦したムハンマド・アリーは軍制改革に着手する。
エジプトは嫌というほど近代西欧軍の威力を理解している。
新制エジプト軍はフランス軍に倣って組織され、海軍の整備も進められた。

だんだんみんな、気づいてくる。
たぶん、オスマン帝国正規軍よりこっちの方が強い。

260: 2014/07/29(火)00:07:25 ID:kX236u1xS
1822年。
オスマン帝国領ギリシアで独立運動が起こった。
帝国はエジプト総督ムハンマド・アリーに鎮圧のための出兵を命じた。

自分の抱える新軍隊の価値が分かっているムハンマド・アリーは、この機会を最大限に利用しようとした。

出兵を散々渋り、とうとうイスタンブルから「兵を出してくれればシリア総督に任命する」という
言質を引き出してようやく出動。
その一方で、ギリシアを支援するイギリスに勝手に接触し、こんなことを囁いた。

「わしもそろそろ腐れたイスタンブルとは手を切りたいと思っとるんじゃ。
 協力してくれるならギリシア攻めは手抜きしてもよいぞよ」

実際手抜きをし始めたムハンマド・アリー。
打つ手がないイスタンブルは、とうとうオスマン帝国軍の全指揮権をムハンマド・アリーに委任する。

イギリスは喰えないエジプト総督の言うことなど信用していなかった。
フランス、ロシアの海軍と合流し、オスマン帝国・エジプト海軍を迎撃。

いかに軍制改革を進めたエジプト海軍とて、モノホンの近代西欧軍と正面から当たって勝てるわけはなかった。
1827年10月、ナヴァリノの海戦でエジプト海軍は壊滅した。

261: 2014/07/29(火)00:33:46 ID:kX236u1xS
「あのブタ頭の皇帝マフムトと、頓馬な宰相が戦争を滅茶苦茶にしおって!」
ムハンマド・アリーは逆切れしつつオスマン帝国にシリア総督任命を催促した。
「勝とうが負けようが、出兵したらわしをシリア総督にしてくれるんじゃろ」

イスタンブルは却下した。

ここをもってエジプト総督は公然とオスマン帝国に叛旗を翻し、反故にされた約束を実力で実現させるべく
シリア侵攻を開始した。1831年のことである。


中近東にあってエジプト軍はやはり強かった。
たちまちシリアを制圧し、北上してオスマン帝国本国たるアナトリアに侵攻。
帝都イスタンブル攻略も目前となった。


オスマン帝国、ついに滅亡か。
異なる時代であれば、ムハンマド・アリーはここで新たな帝国の建設者になっていただろう。

しかし、時はすでにそれを許さなかった。
ムハンマド・アリーは諸国の均衡を崩した。この局面に至って西欧列強が介入を開始した。
英仏がオスマン帝国とエジプトの講和を強制し、以後、この危険なエジプトの君主への監視を強める。

262: 2014/07/29(火)00:34:19 ID:kX236u1xS
イギリスはムハンマド・アリーを掣肘するためにイエメンのアデンを占領し、交易の利権を奪った。
アラビア半島以東への勢力拡大を断固阻止した。
シリアの軍政改革を妨害し、宗教反乱を煽動した。

1838年、再びオスマン帝国とエジプトの間に戦端が開かれ、ムハンマド・アリーはついに帝国からの独立を宣言した。
エジプトはオスマン帝国軍を次々に破り、オスマン海軍はすべてエジプトに降伏した。
だが、ここでついに列強が介入する。


イギリスを中心とする西欧諸国はまずオスマン帝国に対して、列強の承認なしにエジプトに対して
一切の妥協をすることを「禁じた」。
もはやオスマン帝国は自由な外交をする力すら失っていた。

そしてエジプトへ。
列強とオスマン帝国の連合軍はシリアに上陸し、圧倒的な力でもって沿岸の諸都市を次々に再占領していった。
梟雄ムハンマド・アリーの眼前で、彼がこれまでに積み上げてきたものはすべて失われようとしていた。


1841年。
エジプトは降伏した。
エジプトとスーダンの総督世襲こそ認められたものの、軍備は大幅に縮小され、高官の人事権を奪われ、
専売制は廃止され、関税自主権も奪われ、治外法権を強制された。


衰退するオスマン帝国に代わって新たな時代を切り開こうとした梟雄は、こうして挫折した。
イスラーム世界の歴史はもはや固有のリズムを刻む力を失った。
圧倒的な外力によって帝国の交代は中途で強制停止され、覇者になりえた者は屈服を強いられたのだった。



今夜はここまで。

264: 2014/07/29(火)00:40:30 ID:kX236u1xS
中世近世のほうがタイムスパンとしては長いのに、近代のほうが書く内容が細かくなるという謎。

265: 名無しさん@おーぷん 2014/07/29(火)00:47:57 ID:kn03mziOX
おつかれ

ほんとに無理矢理延命させられてる感じだな、オスマン帝国

268: 2014/07/29(火)22:05:14 ID:OFl5C8ll0
>>265
オスマン帝国はムハンマド・アリーの北上で滅亡してもおかしくなかったし、
東の清も太平天国の乱かアロー戦争で滅亡してもおかしくなかったはず。
近代ヨーロッパの覇権はユーラシア大陸の歴史法則すら捻じ曲げる。

266: 名無しさん@おーぷん 2014/07/29(火)01:16:29 ID:jej2HXHqR

キリスト教っつうか西欧人はろくでもないな
やりたい放題かww

268: 2014/07/29(火)22:05:14 ID:OFl5C8ll0
>>266
彼らも彼らで自分たちの社会の中にいろいろ問題を抱えていたから
何としても自分たちにとっての平和と繁栄を維持したかったんだろうね。
そのこと自体を非難するいわれはないけど、非ヨーロッパ世界を対等な他者として見る認識が
まるでなかったことがイカンのだろね。

近代ヨーロッパ人にとって非ヨーロッパ世界は野蛮かエキゾチックかの両極端でしかなかったようで。
このへん突っ込みだすとエドワード・サイードのオリエンタリズム論がどうこうとかって話になるな。

269: 2014/07/29(火)22:40:50 ID:OFl5C8ll0
マムルークたちが姿を消したので、イェニチェリたちにもそろそろご退場願おう。


少し時代を巻き戻す。


アレムダール・パシャに擁立されたオスマン帝国皇帝マフムト2世は、アレムダールが倒れた直後
実の兄である廃帝ムスタファの命を絶った。
非情で非道な措置だったが、これによってオスマン家の帝位継承権者は皇帝マフムトただ一人となる。
オスマン帝国の存続を前提とする限り、誰もマフムトを殺せない。
この手を打ったうえで、彼はひたすら雌伏した。


マフムト2世は聡明だった。
セリム3世は正しい。帝国は衰えつつあり、否応なしに西方の異教徒たちの流儀を取り入れる以外、
もはやこの帝国を守る方法はない。

巧妙に巧妙に、マフムトは一人思案をめぐらし人事を操り、宮廷の要職を徐々に改革派で固めていった。
目立たないところから少しずつ、軍の近代化を進め始めた。
そしてアーヤーンたちを討伐。地方で気ままに振る舞う領主たちの土地を没収し、再び国庫に組み込む。
こうして機は次第に熟していく。

270: 2014/07/29(火)22:42:48 ID:OFl5C8ll0
雌伏18年、1826年春。
マフムト2世は剣を抜いた。新制軍の設立を宣言したのである。

セリムの改革再びというわけか。
イェニチェリたちはまたしても蜂起したが、20年近くも前からこの日のために
あらゆるところに手をまわしてきたマフムト2世の敵ではなかった。

6月14日。
マフムトは長年鍛えてきた砲兵隊に動員をかけ、全イェニチェリの殲滅を命じた。
帝都イスタンブルで激烈な市街戦が展開され、翌日に至ってイェニチェリ軍団はついに壊滅した。


そして6月16日。
マフムト2世は宣言通り、「ムハンマド常勝軍」なる新制軍の設立を宣言した。
イェニチェリを打倒して勢いづいた皇帝は、それまでとは別人のように次々と命令を下す。
大宰相は総理大臣、御前会議は閣議、シェイヒュル・イスラームは宗教長官に改名する。
大学を創設せよ。大使館を再開せよ。郵便制度を創設せよ。文官武官は西洋服を取り入れよ。

この日この時から、オスマン帝国は怒涛のような「近代化」を開始した。
依然として不満が渦を巻くとはいえ、マフムト2世という強力な専制君主のもと、帝国の改革はもはや止まらない。
いや、皇帝マフムトの死後もその後継者たちによって近代化はさらに推進される。
ギュルハネ勅令、タンジマート改革、ミドハド憲法。
それは滅びゆく帝国の最後の賭け、最後の足掻き、最後の苦闘となるだろう。

271: 2014/07/29(火)23:00:38 ID:OFl5C8ll0
だが、時はすでに遅きに失した。
帝国は西方から来た姿なき猛毒に深く蝕まれつつあった。


かつてフランス革命が勃発したとき、オスマン帝国の支配者たちははるか西国の異教徒たちの
王を殺し闇雲な対外戦争を繰り広げる狂熱を「フランク人の疫病」と呼んだものだった。
ところがいつしかその「疫病」はヨーロッパのいたるところに蔓延し、ついに帝国をも冒しはじめた。


オスマン帝国は前近代のすべての帝国と同じように、多民族と他宗教が当たり前のように共存する国家だった。
ムスリムを中心としつつも、異教徒にも相応の権利が与えられ、その信仰と自治が尊重されていた。
帝国の中枢には多様な出自の人々が参画し、対等な立場で国家を運営していた。
ところが、そんな旧来の心温まる社会は急速に崩れ始める。
すべてはこの「疫病」のせいだった。


疫病を運んできたのは、帝国から見れば実に迷惑なロマンチスト野郎たちだった。

多民族の世界帝国、オスマン。
この国は深く思い知るだろう。

ロマンチックは敵だと。

272: 名無しさん@おーぷん 2014/07/29(火)23:16:04 ID:puOVy4XeD
>ムスリムを中心としつつも異教徒にも相応の権利が与えられ、その信仰と自治が尊重されていた

今の日本って宗教的にはどうなんだろ?
寛容なのか、排他的なのか、無関心なのか

275: 2014/07/29(火)23:37:44 ID:OFl5C8ll0
>>272
どれも正しいけど、いちばんは無関心じゃないかな

277: 名無しさん@おーぷん 2014/07/30(水)00:08:26 ID:cQdS1EuH9
>>272
表面上は寛容を装いつつ底では無関心
オウムのせいで怪しげな新興宗教に対しては排他的ってとこだと想う

273: 2014/07/29(火)23:33:07 ID:OFl5C8ll0
第一のロマンチストは「アレクサンドル・イプシランディ」。
こいつは北からやってきた。
思えば帝国の厄介ごとは昔から北から来ることが多かった。最近は西から来ることも多いけど。

1821年。
ロシア国境から白馬に乗って颯爽と姿を現したイプシランディは、そこらじゅうにチラシをばら撒いた。
「ギリシア人よ思い出せ、諸君の誇りと信仰を思い出せ。圧制を続ける帝国に反逆の狼煙をあげよ・・・」

その頃、混乱を続ける帝国にうんざりしていたバルカン半島のギリシア正教徒たちは、
いつかどっかからイケメンで有能な王様が現れて世の中を良くしてくんねえかなあ、などと日々妄想していた。
イプシランディはさほどイケメンでも有能でもなかったが、一部正教徒には彼こそが明日の希望に見えたらしい。

「そういえばここ何百年か忘れてたけど、俺らもともと正教徒で、昔は東ローマ帝国っていう
 立派な国も持っていたような気がするんだが」

ギリシア独立戦争、勃発。


第二のロマンチストは「ジョージ・ゴードン・バイロン」。こいつは海の向こうからやって来た。
こいつは本職の詩人であった。それも大変な天才詩人であった。

天才詩人は1824年、ギリシア独立戦争に義勇軍として参戦した。
なにゆえかといえば、詩人は古代ギリシアおたくであった。
古代ギリシアと現ギリシアはビフォーアフター的別存在であるのだが、詩人はあまり気にしなかった。
詩人が熱情的にギリシア独立運動を歌い上げたので、ヨーロッパからわんさか義勇軍がやってきた。


この後の経緯についてはすでに語っている通り。
西欧列強がギリシア支援にまわり、オスマン帝国はまたしても国土ダイエットに成功するのだ。

274: 2014/07/29(火)23:36:13 ID:OFl5C8ll0
疫病は「ナショナリズム」と呼ばれる。
この疫病にかかった者は多民族ごちゃまぜの帝国を整理整頓して
自分と親戚とそのまた親戚だけから成る独立国を建設することを人生の使命だと確信するようになる。

オスマン帝国にとってこれほど相性の悪い疫病はなかった。
そもそもオスマン帝国には中心になる民族がない。トルコ人がオスマン国家を動かしていたのははるか建国の昔。
いまでは皇帝も大宰相も血が混ざりすぎてどの民族だかよくわからんし、政府の高官も軍の将兵も同じこと。

帝国各地で次から次に民族国家が生まれていけば、帝国中枢から串の歯が抜けるように人が消えていくだろう。
最後に誰が残るのか。誰も残らないのか。やがて帝国は融けてしまうのではないか。
その答えが分かるまで残るは半世紀余り。


ロマンチストたちの時代は始まったばかりだった。
これから後、多くのロマンチストたちがオスマン帝国各地で歌って踊って剣を取り、
いずれ彼らの中でも最大級の威力を誇るエンヴェル・パシャだのトーマス・ロレンスだのによって
帝国は完全にぶっ壊されることになるだろう。



今夜はここまで(短い)

276: 名無しさん@おーぷん 2014/07/29(火)23:58:38 ID:kCuDPEXa0
おつかれ

時代の変わり目が来たか

278: 名無しさん@おーぷん 2014/07/30(水)00:14:11 ID:1BstCWnjQ

ロレンス来るか

283: 2014/07/30(水)22:16:26 ID:C0hH1WGlG
>>278
ロレンスを出すためには前提としてあれを書かなきゃいけなくて、その前提としてこれを書かなきゃry
近代に入った途端に動きが遅くなりますなあ
ビンラディンやカダフィやバグダーディーが出てくるのはいつになるんだろう(いちおうそこまで行くつもりではある)

281: 名無しさん@おーぷん 2014/07/30(水)11:38:42 ID:ymfFgpkmN
ナショナリズムはある種の熱病だね
熱に浮かれて夢を見るのはいいが、夢から醒めれば待っているのは厳しい現実

288: 2014/07/31(木)20:43:58 ID:7HOUPYN3c
19世紀の三分の一が過ぎようとする頃、西欧主導による世界の一体化はますます速度を速めつつある。
この時代を生きる多くの者には、その全貌こそ把握できてはいなかったが、地域を問わずイスラーム世界が
未曾有の危機にあるという認識は広く共有されていた。

その危機というのは、単なる政治や経済のレベルだけの問題ではない。

預言者ムハンマド(またはその後ろにいるアッラーと天使ジブリール)はガチで有能だったので、
教団がどんな問題に直面してもその都度見事な解決策を啓示して見せた。

その後イスラーム世界がアラビアの砂漠を越えて広大な世界に広がると、さすがに想定外の難問が次々に登場するが、
そこは賢明なイスラーム法学者の皆さんが、預言者の言行と初期の信者たちの言行記録と首っ引きで
縦横無尽な類推解釈や拡大解釈の限りを尽くして、およそどこの土地でも人間が直面する大抵の問題は
イスラームという宗教の枠の中で対応できる仕組みを作り上げた。

その結果、イスラームは単なる宗教の枠を超えて、政治・経済・司法・軍事・科学・芸術など
社会のありとあらゆる規範の中心になった。

その規範でもってイスラームはユーラシア大陸の半分を覆うほどに広がった。
こんだけ凄いことになるんだからイスラームは真理なんだろうと、みんな思っていたわけだ。

ところが、近頃は雲行きがなんだか怪しい。
メッカに集まる巡礼たちの誰に聞いても、広大なイスラーム世界のいたるところは危機にあり、
西欧の異教徒どもが次々に勝利を収めつつあるようだ。


要するにさ。


イスラームってオワコンなんじゃね?

という疑惑が浮上しはじめたのである。

289: 2014/07/31(木)21:00:30 ID:7HOUPYN3c
一方、「イスラームはオワコンじゃないよ、おまえがオワコンなんだよ」派も登場した。

彼らによると、現状の危機は「真の教え」がないがしろにされ、ムスリムたちが堕落したためであり、
預言者ムハンマドや正統カリフたちの時代の正しいイスラームを復興することができれば
異教徒どもなどチリ紙のように飛んでいくであろうというのである。

たとえばスーフィズムってのはなんだ。
コーランのどこを読んでも、クルクル回転しまくって恍惚状態になれとか、怪しい煙を吸えとか、
いわんや空中浮揚する方法とか一言も書いてないではないか。
それどころかスーフィー信者どもは「聖者崇拝」とか称して修行者たちの墓に巡礼したりしているが
おまえら、イスラームが一神教だっていう大前提忘れてんのか。
こんだけ堕落しまくってれば、そりゃ神の怒りと試練が下るのも当然だろと。

スーフィズム以前にシーア派だっておかしい。
アリーだのフサインだのとその子孫たちをやたらに持ち上げて、同じように巡礼だのなんだのやってるし、
「アリーの子孫は絶対正義」とか「アリーの子孫が世の中治めるべき」とか、それ偶像崇拝とちゃうんかと。

もっといえば、預言者ムハンマドはただの人間なんだから、ムハンマドを崇敬するのだっていかんだろと。


この頃からのイスラーム世界では、この「イスラームはオワコン派」と「イスラームはオワコンじゃないよ派」、
そして両派の中間のどっかに答えがあるだろうと考える中道派の激しい議論と対立が展開される。
そしてその対立は今なお収まる気配がまったくない。


「イスラームはオワコンじゃないよ派」は、まだ西欧列強の拡大が本格化していない18世紀に
すでに激しく盛り上がり、イスラームの原点復帰を唱えて各地で荒れ狂っていた。

そのなかで最も派手で影響力も凄まじかったのが、アラビア半島のワッハーブ派だった。

290: 2014/07/31(木)21:20:56 ID:7HOUPYN3c
アラビア半島というのはイスラーム発祥の地だが、なにぶんにもほとんど砂しかない。
砂の下に膨大な地下水層と莫大な黒くて粘っこい代物が埋まっていることが発覚したのはつい最近だ。
そういうわけで、預言者死去から百年も経たないうちにアラビアは元通りの辺境モードに回帰した。

それから幾百年。
中東に興亡した諸大国はアラビア半島西岸のメッカとメディナを押さえることは相当重視したし、
沿岸のイエメンやオマーンにはそれなりの中小国家も栄えたが、半島中央の砂漠では、
ベドウィン族がラクダと剣を友として、彼ら以外の誰にも興味のない戦いの歳月を過ごしていた。


そんななか、1703年にアラビア半島のど真ん中で「アブドゥル・ワッハーブ」なる人物が誕生した。
その頃、アラビアの砂漠では例のごとく聖者崇拝や、聖木の崇拝が盛んだった。

聖木崇拝というのはイスラーム以前のアラビアにもあったらしい。
砂しかない世界のなかで樹木はオアシスの象徴だから、拝みたくなるのも人情であろう。

だが、アブドゥル・ワッハーブは違った。
彼は何故かは知らないが、断固として「イスラームは一神教だ!」と演説してまわり、
近所一帯から総スカンを食らって旅に出た。
旅に出たワッハーブは各地で宗教学を学んだ結果、さらに頑固に、じゃなかった堅固な理論家となって帰国。
弟子たちを集めて聖木を切り倒し、聖者廟を打ちこわしてまわった。

当然彼は周りに敵視され、ついには命すら狙われるようになる。

あれ、どこかで見たような展開。

292: 2014/07/31(木)21:27:44 ID:7HOUPYN3c
王道パターンというべきか。

捨てる神あれば拾う神ありで(なんていう比喩表現をワッハーブが聞いたら激怒するだろう)
1744年にワッハーブは庇護者を得た。

それはアラビア砂漠で最も強大なベドウィン族長、ディルイーヤを治めるサウード家の当主、アブドゥッラー。
二人は盟約を結んだ。
ワッハーブは正しき教えを説き、サウード家はそれを守護する。

アブドゥッラー、そしてその後継者であるアブドゥルアズィーズは、ワッハーブの説く「正しき教え」のもと
砂漠の王としての権威を獲得し、アラビア半島全土に支配を拡大していった。


あれ、やっぱりどっかで見たような展開。



だが、時代が違う。

サウード王家の覇権はすでに解説した通り、ムハンマド・アリーに潰される。


だが、ワッハーブの思想は残った。
ワッハーブ本人がいかに周囲に迫害されようと、イスラーム世界全体を見れば時代がそれを求めていたのだろう。
ワッハーブの思想はイスラーム世界に広く伝わり、「イスラームはオワコンじゃないよ派」もとい
「イスラーム復興運動」の種子となる。


ちなみに滅び去ったサウード王家の子孫も砂漠のどっかで生き残り、やがて王国の復興に成功するのだが、
それはもう少し後の時代のこと。

293: 2014/07/31(木)21:49:15 ID:7HOUPYN3c
同じ頃、はるか西アフリカでも同じような動きがあった。


アフリカ大陸の北部はほとんどサハラ砂漠に覆われ、北の地中海沿岸と、南のいわゆる「ブラックアフリカ」を隔てているが
サハラ砂漠南縁には「サヘル」と呼ばれる草原地帯が東西に延びている。
サヘルとは「岸辺」を意味するアラビア語に由来する。砂の大海の岸辺というわけだ。

サヘル西部にはニジェール川という大河が流れており、流域には豊かな金鉱山と岩塩鉱が点在するので、
古くから諸王国が栄え、サハラ砂漠の北から訪れる交易商人たちの影響で次第にイスラーム化していった。

主なものとしては、いつからあったのかよくわからないガーナ帝国、
呪術に長けたマリンケ族の英雄スンジャータ・ケイタが建てたマリ帝国、
そしてやっぱり呪術に長けたスンニ・アリ・ベルが確立したソンガイ帝国。

やたら呪術が頻出するあたり、この地域のイスラーム化のレベルが知れるというものではある。


相次いで興亡した三つの帝国はいずれもニジェール流域を中心に、サヘルの西部を広く支配した。
ところが、1591年にサハラの北側からモロッコ軍が攻め込んできた。

彼らは無謀なサハラ越えで軍のほとんどを失っていたが、この地域では初登場となる火縄銃を携えていたので
ソンガイ帝国は簡単に滅ぼされ、その後の西アフリカは群雄割拠の状態となっていた。

イスラームはそれまでのような国家の庇護を失うが、それはかえってイスラームの拡大につながった。
ムスリム商人たちは大胆にサヘルの東西を往来し、南の密林の奥深く、ベニンやイフェの諸都市にまで旅し、
行く先々の民衆にイスラームを伝えて回ったのだ。

やたら呪術っぽいイスラームではあるが。


そんな状況のなかで、ワッハーブより少し遅れて「ウスマン・ダン・フォディオ」という
聖戦士が登場する。

294: 2014/07/31(木)22:05:43 ID:7HOUPYN3c
ウスマン・ダン・フォディオは牛を追って各地を旅するフルベ人のスーフィーだった。
ただしクルクル回転したり空中浮揚したりはせず、禁欲的な修行に打ち込み、
コーランをじっくりと研究して人々に講義するスーフィーだった。
スーフィズムといってもいろいろあるので、こういうのならワッハーブもきっと満足することだろう。

ウスマンは各地の王たちがムスリムを自称するわりに、やたら異教的な統治を続けていることを批判し、
ついでにフルベ人に課せられている重税の軽減も主張した。

なにしろ説教がうまかったようで、次第に彼の支持者が増え、1804年には信徒たちから「カリフ」に推される。
こんなイスラーム世界の辺境でカリフなどと自称してもという気はするが、
アッバース朝の滅亡以来、イスラーム世界に誰もが公認するカリフはいないので、文句を言われる筋合いはない。

ウスマンは長年「言葉の聖戦」と称して諸国の支配者や民衆にイスラームを説いていたが、世の中は一向に変わらない。
カリフとなった頃、ウスマンはある夜、夢のなかで聖者に「真理の剣」なるものを授けられる夢を見た。
目覚めたウスマンは「言葉の聖戦はオワコン、これからは剣の聖戦」と宣言。
たちまちのうちにニジェール流域からカメルーンにまで達する大帝国、「ソコト帝国」を築くことになった。

これを「ソコトの聖戦」という。

295: 2014/07/31(木)22:16:39 ID:7HOUPYN3c
「ソコトの聖戦」がきっかけになったのか、その後の西アフリカでは津々浦々までイスラームが浸透し
禁欲系スーフィー教団が「聖戦」によってイスラーム国家を建設することが大ブームとなる。

1810年代にはニジェール中流でシェイク・アマドゥの聖戦。

1830年代からはエル・ハジ・オマールの聖戦。
彼はサヘル最西端のセネガルから出発したが、しょっぱなでフランスにぶち当たったので東に方向転換し、
サヘルの西半分を統一した。

1850年代にはウマール・タルの聖戦。

そして最後に「黒いナポレオン」と呼ばれるサモリ・トゥーレが西部サヘルを席巻する。

戦争の連続と奴隷狩りの横行によって西アフリカは深く疲弊し、結局イギリスとフランスに
すべて征服されることになるのだが、この頃の西アフリカで
ある種のイスラーム復興運動が非常に盛り上がったことは間違いない。

296: 2014/07/31(木)22:28:15 ID:7HOUPYN3c
このサヘルを東へ東へと進んでいくと、やがてワニがうようよ昼寝している絶望の大湿地帯と、
大湿地帯の北側に延々広がる砂埃と赤土だらけの不毛の砂漠にたどり着く。
スーダンなう。現在スーダンと呼ばれている地域である。

ここは古代エジプト文明の頃にはヌビアという王国が栄え、その後はエチオピアの影響を受けたり
マムルーク朝の影響を受けたりしながらなんとなくイスラーム化していったのだが、
19世紀に入ると北のエジプトに登場したムハンマド・アリー朝に征服される。


ワニと赤土のスーダンはどこからどう見ても不毛の地なので、おそらくムハンマド・アリーは
単なる軍事訓練の延長程度のつもりでスーダンを征服したのであろう。

とはいえスーダンの砂漠にも誇り高い遊牧民たちが若干暮らしているので、
彼らは北からの征服者たちに抵抗を繰り広げた。

やがてその中から「救世主」を名乗ってエジプト、さらにはイギリスをも打ち破る人物が現れるのだが、
これはただの予告編。

297: 2014/07/31(木)23:10:57 ID:7HOUPYN3c
イスラーム世界の東側ではロシア帝国がいよいよ中央ユーラシアに本格的に踏み込もうとしていた。


ジュチ・ウルス解体後、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、シビル・ハン国などは相次いでロシアに吸い込まれたが
ヴォルガ川より東の広大な草原には「カザフ・ハン国」が栄え、その向こうにある中央アジアのオアシス地帯では
カザフ・ハン国と同族ながら喧嘩別れしたシャイバーニー朝が繁栄していた。

ロシアは本格的な草原に踏み込んでいくのにはためらいがあったので、長いあいだ北から
草原をチラチラ眺めているだけだった。


だが、転機が来る。
1723年、はるか東方から仏教徒であるジュンガル族が大侵攻してきたのだ。
カザフの遊牧民たちは慌てふためいて、もうひとつの異教国家であるロシアの助けを求めた。
これ以後、ロシアは徐々に内陸アジアへの南下を開始する。

東に目を向けたロシアは、19世紀に入るとオスマン帝国のみならずペルシアや中央アジア、
そして極東にいたる全国境から本格的な南下政策を開始する。
一方、大陸の南岸ではイギリスがロシアの南進に対する警戒を強め、迎撃のために北進する。

「グレート・ゲーム」と呼ばれるこの抗争は、東方イスラーム世界の諸民族が
異教徒の帝国に徐々に飲み込まれていく物語でもある。



どうもまとまりがないけど、今夜はここまでで。

298: 名無しさん@おーぷん 2014/07/31(木)23:13:02 ID:pEHnTJPnd
おつです

299: 名無しさん@おーぷん 2014/07/31(木)23:19:17 ID:J1pJ0SwsZ
おつかれ

「聖戦士」とか「救世主」とか聞くと、なんかソワソワする

301: 名無しさん@おーぷん 2014/08/01(金)11:50:11 ID:2m3av9va1
うーん、面白いなあ

303: 名無しさん@おーぷん 2014/08/01(金)16:48:51 ID:ZdpbvKHP1
そういや数日前、池上彰の番組で言っとったが
世界で4人に1人はイスラム教徒らしいな
やっぱイスラム教最高だわ

304: 2014/08/01(金)22:35:37 ID:wbUNju4Kk
パソコンが調子悪いので本日休憩ながら、
「第二次シリア戦争で屈服を強いられた70歳のムハンマド・アリーは絨毯に身を投げ出して嗚咽した」とか
「イスラーム復興に燃えまくるアブドゥル・ワッハーブは預言者ムハンマド本人の墓まで叩き壊した」とか
面白げな逸話を書き落としていたことに気づいた件。

明日はクリミア戦争あたりですかね。

305: 名無しさん@おーぷん 2014/08/01(金)22:44:03 ID:cmIuSyCZh
何それ面白そう

306: 2014/08/01(金)22:51:43 ID:wbUNju4Kk
>>305
ワッハーブ派はいろいろ極端なので、
現在ですら(いちおう)ワッハーブ主義のサウジアラビアでは
男女交際が違法とかわけわからんことに。

てわけで若者は女子生徒たちのそばを車で駆け抜けながら
窓から恋人募集のビラをばらまいて警察の取り締まりをかわすそーです。

309: 名無しさん@おーぷん 2014/08/01(金)23:54:11 ID:3qfy4Z7j0
アラビア世界も大変なんだなww

315: 2014/08/03(日)00:58:23 ID:bhCxUjweB
時系列がややこしくなるけど、北方の巨人ロシアの視点に立って19世紀の初頭まで戻ってみたい。

18世紀の末、ロシアはオスマン帝国からクリミア半島とルーマニアを奪い、
キュチュク・カイナルジ条約でオスマン領内の正教徒に対する保護権までも獲得した。
その勢いのまま再度の戦端を開いたところでフランス革命が勃発。
ロシアはオスマン帝国との対決を一時中断して西に備える。

が。

ロシアはもう一個の異教帝国、ペルシアに対してはオスマン帝国よりもはるかに舐めていた。


>>130以来放置していたガージャール朝ペルシアにおいては、1797年に残虐非道な建国者
アーガー・モハンマド・シャーが召使に刺殺されてみんなが胸を撫で下ろしたわけだが、
そもそもごく少数の遊牧民ガージャール族がイラン全土を支配するという体制に無理があったわけで、
アーガー・モハンマドが生きていようが死んでいようが、国制はやたらと抑圧的なままだった。

316: 2014/08/03(日)00:59:27 ID:bhCxUjweB



一方、サファヴィー朝の成立以来イランはシーア派に染まっている。

シーア派は第4代正統カリフ、アリーの子孫だけがイスラーム世界を正しく導く力を持つ「イマーム」だと信じているのだが
残念ながら歴代イマームはウマイヤ朝やアッバース朝から迫害されまくった挙句、第12代にして行方不明となった。

というか、後期のイマームは迫害を避けたり幽閉されたりほとんど世間に姿を現さず、
12代目なんて父親の葬式で半日姿を現した以外は一切消息不明なんで、
そもそも実在したのかどうかすら(以下検閲により削除)

ま、いずれにせよイマームが行方不明という遺憾な事態により、シーア派(の大多数)は、
イマーム再臨までのあいだ、最も有能なイスラーム法学者がイマーム代行として信徒を指導するという
妥協案でもって合意した。

まあ何が言いたいかというと。

1.イスラーム法学者がやたら偉そうである
2.民衆は「いつか真のイマームが再臨して世直ししてくれんかのう」と常に期待している。


そういうわけで、ガージャール朝ペルシアでは誰もが明後日の方向を向いてる状態だった。

国王は少数の同族で国民を支配するために圧制に走る。
法学者はことあるごとに政治に首を突っ込んで騒ぎ立てる。
民衆は「どっかの小瓶の中に老人が閉じ込められていて、そのうち救世主になって飛び出すらしい」とか
どこのアラビアンナイトだと言いたいくなるような噂を語り合っている。

そしてもうひとつ軍隊。

これがまた使えない集団で、戦果報告書ひとつ取っても、
「戦死者少数とか報告すると王の威厳に関わるから、とりあえず景気よくしとこう」などと余計な気を回し、
「大地は流れる鮮血もて洪水となり、全アジアの奴隷市場は夥しい捕虜によって価格暴落したり」などと
誰が見ても嘘だろうというレベルで内容を膨らましまくる始末。


舐められるのも無理はないわけで、ロシアはナポレオン戦争の真っ只中も含めて何度もイランに攻め込み、そのたびに勝利。
1828年のトルコマンチャーイ条約でカフカス地方をまるごともぎ取り、治外法権を押し付けることに成功した。

要するに、ガージャール朝はとことんヘタレであった。
この一言に尽きる。

318: 名無しさん@おーぷん 2014/08/03(日)01:09:53 ID:hKvAjugwq
ロシアもロシアだが斜陽のイスラームも大概なんだな

320: 2014/08/03(日)01:34:56 ID:bhCxUjweB
>>318
イスラーム世界自体もいろいろと衰退・退廃局面に入っていたようで、とある有名研究者は象徴的な例として
「中世イスラーム世界の公衆浴場は清潔だったけど、近代の旅行記にある公衆浴場は不潔そのもの」と書いてる。
この話については、果たして中世の公衆浴場が本当に清潔だったのかっていうのも疑おうと思えば疑えるけどね・・・

319: 2014/08/03(日)01:23:06 ID:bhCxUjweB
ところがガージャール朝とは対照的に、もぎ取ったはずのカフカス地方の住民はまったくヘタレでなかった。


黒海とカスピ海のあいだに横たわる、標高5千メートル級の峻険なカフカス山脈。
ここは古来、無数の山岳民族が蟠踞しており、その数は「神さえいくつあるか分からない」と言われている。
あのモンゴル軍もカフカス平定には苦労しているし、常勝不敗のはずのティムールですらグルジア軍に負けたらしい
(翌日すぐに雪辱したので無かったことにされているw)

ロシア帝国は18世紀後半に本格的にカフカス山脈北麓に取り付いたが、長らくイスラーム化していたカフカスの諸部族は
「聖戦キタコレ」と抵抗しまくったので、山脈南側のペルシアを属国同然にしたあとですら
途中の山岳地帯はろくに実効支配できていない状態だった。

とくに執拗な抵抗を繰り返したのはカフカス山脈北西の一角、ダゲスタンからチェチェンにかけてを支配した
「シャーミル」という族長だった。

シャーミルはただの鍛冶屋の息子だったが、たまたまメッカ巡礼に行ったときにゲリラ戦なるものの存在を知る。
のちほどロシアの脅威が迫ると村の寄合で戦士任命され、いろいろ中略の結果、最終的にこの地方一帯の軍事指導者へ。

シャーミル率いる山の民は砦に籠り、女性も男装して頑強に抗戦した。
砦が落ちればさらに山奥深くへ退却し、谷にロシア軍を引きずり込んでは殲滅する。

延々シャーミルに苦しめられたロシア軍は、こういう場合の常道というべき手段、買収工作に出る。

部下たちが次々にロシアに買収されて継戦不能に追い込まれたシャーミルは1859年に降伏。
ロシア皇帝アレクサンドル2世は彼の勇気を称賛し、ロシア各地を巡回させたというが、うん、晒し者ですね。


ダゲスタンからチェチェンにかけて。
今でもシャーミルの子孫たちが似たようなことを続けている。

322: 2014/08/03(日)01:50:58 ID:bhCxUjweB
ロシアが対オスマン戦線において再び戦端を開いたのは、ナポレオンが既に没落し、
オスマン帝国がギリシア独立の危機に直面した時だった。
時は1828年、およそ30年ぶりの露土戦争再開となる。

この時ロシア軍は疾風のごとく南侵し、イスタンブルから200キロしか離れていない帝国副都、
エディルネ(アドリアノープル)に入城した。
とおくオスマン帝国草創の昔より、ここまで敵国の侵攻を許したことなど一度もなかった。
帝都イスタンブルのオスマン人たちは、おそらくこの時初めて西洋列強の脅威を骨の髄まで理解したことだろう。

しかしオスマン帝国は滅びない。
バルカン半島と中近東の勢力均衡を優先する列強の思惑が、ギリシアの独立は許してもオスマン帝国の滅亡は許さない。

1840年。
ムハンマド・アリーの北進に狼狽したロシアを含む列強四国は再び帝国に介入し、
強圧をもって帝国を再度延命させ、アラビア帝国建設を目指した老雄ムハンマド・アリーを屈服に追い込む。

323: 2014/08/03(日)02:06:25 ID:bhCxUjweB
一方、オスマン帝国では1839年に改革の旗手マフムト2世が憂悶のうちに世を去り、
その子「アブデュルメジト1世」が第31代オスマン帝国皇帝として即位していた。
彼の前半生における政治的伴侶となるのが大宰相の「ムスタファ・レシト・パシャ」。
この2人はマフムト2世の遺志を継いで、帝国の命運をかけた改革をさらに推進する。


というわけで即位早々、有名な「ギュルハネ勅令」が発布された。
訳すと「薔薇宮勅令」。妙に妖しい。

この勅令で画期的なのは、「ムスリムと非ムスリムとを問わず、国民は法の前で平等なり」という一節だった。

2人の改革者は、キリスト教徒への不平等を理由に内政干渉を図る西欧列強を牽制するために
新治世の大方針としてこれを打ち出したらしい。
しかし、この宣言は帝国の国制を根底から揺るがす。


従来オスマン帝国は多民族・他宗教が共存する世界帝国として君臨してきたが、帝国がイスラーム国家である限り、
結局のところその共存はあくまで「ムスリム優位での共存」だった。

イスラーム世界において、良き統治が行われている限り異教徒は庇護の対象となり、信仰を尊重される。
とはいっても、庇護の代償として税は徴収されるし、ムスリムと非ムスリムの裁判では後者が圧倒的に不利。
それが古来のイスラーム法の大原則だった。

それが覆されるということはつまり。


「イスラームはオワコン」ということらしい。

324: 2014/08/03(日)02:14:09 ID:bhCxUjweB
ギュルハネ勅令に始まる一連の近代化政策は歴史上の用語として「タンジマート改革」と呼ばれている。
これを訳すと「恩恵改革」。
その名の通り、皇帝の恩恵として下々の者どもに与えられる、典型的な「上からの改革」だった。


究極において「イスラームはオワコン」という思考に基づく上からの改革は、
なおイスラームを信奉する一般庶民や保守的官僚たちの猛反発を招いた。
なので、1852年にムスタファ・レシト・パシャが引退すると改革はすぐに停止する。
それどころか、平等を保障された非ムスリムにたいして、当然ながら「異教徒のくせに生意気だ」という
ムスリムたちの反感が沸き起こる。

世の中なかなかうまくいかないものである。


そんななか、またしてもロシアとオスマン帝国の戦端が開かれた。
これで何度目なんだ、露土対決。
ところが驚くべきことに、今度はオスマン帝国がなんと勝利してしまう。

クリミア戦争である。

325: 2014/08/03(日)02:46:35 ID:bhCxUjweB
この戦争はとある元祖看護師(最近は看護婦と言わないらしい)さんによってものすごく有名なのだが、
それは今回あまり関係ない。


今回の戦争は、ロシア側が最初に仕掛けた。それで負けているのだから自業自得というものであろう。
いろいろ複雑な背景があるのだけど、直接の発端になったのはオスマン帝国がフランスに聖地エルサレムの管理権を与えたこと。
同じキリスト教でもフランスはカトリック、ロシアは正教である。
ここでキュチュク・カイナルジ条約の「ロシア皇帝はオスマン帝国領内の正教徒に対する保護権を持つ」という条項が発動した。

「ロシア皇帝はエルサレムにおける正教徒の権利を保護するため、オスマン帝国に対して開戦する」

これはもう、どこをどう見ても言い掛かりとしか。


経緯が経緯なのもあり、この戦争は単なる露土対決だけでなく、英仏両国を巻き込む大戦争になった。
陣容としては、英仏あんどオスマン帝国の3カ国連合VSロシア帝国。
うん、そりゃ当時のオスマン帝国単独でロシアに勝てるわけがない。


3カ国連合はろくに現地の地理も気候も分かっていないままクリミア半島に侵攻し、
バラクラヴァではスコットランド軽騎兵がロシア軍の真正面に騎乗突撃かけて全滅したり
セヴァストポリでは13万人近い戦死者を出したりとさんざん苦戦するが、最終的にはどうにか勝利。


そこまで苦労してなんだが、実際のところヨーロッパ視点から見るとこの戦争にはほとんど意味がなかった。
講和条約の結論を思いっきり大雑把にいえば、「戦前の状況を維持しましょう」というだけだし。
せいぜい看護師制度と英文学の発展に影響を与えたぐらいである。


しかしオスマン帝国視点で見ると、そうではない。

オスマン帝国はとんでもない金額の戦費の調達に苦しみ、1854年から外債を発行する。
要は借金に他ならない。

借金は癖になる。
これ以後のオスマン帝国はタンジマート改革の推進や頻発する戦争への対応のため
列強に金を借りまくった結果、貸し手の列強に全く頭が上がらなくなったうえ、
1875年にはとうとう破産した。

326: 2014/08/03(日)03:45:35 ID:bhCxUjweB
さてクリミア戦争で英仏に痛撃を食らったロシア帝国は南下政策を東部戦線で進めることにした。

いまや機は熟した。
長年カザフ草原への浸透を続けてきた結果、その彼方に続くトランスオクシアナ、
つまり中央アジアのオアシス地帯はロシアの射程範囲に入った。

その頃中央アジアではシャイバーニー朝がブハラ・ヒヴァ・コーカンドの3カ国に分裂して
際限ない内輪もめを続けていたが、ヒヴァには中央アジア最大の奴隷市場があって
栄えあるロシア帝国の人民すらが不運にもこの地に拉致されることは珍しくなかった。
実に目障りである。

また、ブハラは東方イスラーム世界に名高いイスラーム諸学の拠点であり、ロシアが長年支配している
ヴォルガ流域のタタール人たちのなかからもブハラに留学する者が後を絶たない。
いくらロシア正教を布教しても全く聞く耳もたずに腹立たしいことである。

そういう事情もあり、1864年からロシアは一挙に中央アジアに侵攻開始し、
3年後にはコーカンド・ハン国のタシケントを陥落させてトルキスタン総督府を設置した。

なお、中央アジアは10世紀以来テュルク系諸民族が多数派となっているので、ペルシア語で
「テュルクの土地」を意味するトルキスタンと呼ばれており、パミール高原の西側が西トルキスタン、
東側が東トルキスタンとなる。
東トルキスタンは当時清朝中国の支配下にあり、このたびロシアが征服を目指すのは西トルキスタンである。


まもなくブハラ・ヒヴァの両ハン国もロシアの軍門に下り、保護国化。
ロシア帝国はトルキスタンのムスリムたちの信仰については放任主義を取った。何しろ遠い。
だが、その遠さは行政の腐敗を生む。
トルキスタン総督府の支配は乱脈を極め、中央アジアのムスリムたちは
異教徒ロシアの支配に多大な不満を抱き続けた。


それはさておき、ロシア帝国のこうした南進はユーラシア大陸南岸に蟠踞するもうひとつの列強国家、
すなわち大英帝国の強い警戒を呼び起こした。


大英帝国の力の源泉はインドである。
インドは個々の民は豊かではないかもしれないが、インド亜大陸の総体が生み出す富は比類ない。
全盛期大英帝国のGDPの半分はインド植民地が占めるとも言われており、18世紀後半以降
大英帝国は地中海からエジプト、中近東を経てインドに至るラインの死守を至上命題とした。


ロシア帝国がトランスオクシアナの3ハン国を降したいま、そのすぐ南にはアフガニスタンがあり、
アフガニスタンの南は直ちに大英帝国領インドに他ならない。

ロシアのこれ以上の南下は容認しがたい。
かくて19世紀ユーラシア大陸全土を盤上とする二大列強の大いなる闘戯、
「クレートゲーム」が本格的に開幕することになる。


今夜はここまで。

327: 2014/08/03(日)03:50:28 ID:bhCxUjweB
「19世紀はイスラームの一番長い世紀」と山内某教授は書いている。

ほんとに長い。いつ抜け出せるんだろう。

329: 名無しさん@おーぷん 2014/08/03(日)18:08:35 ID:s0VeenMhP
ようやく日本が世界史に登場しそうな時代になってきたか


331: 2014/08/03(日)21:56:10 ID:GIzkFpnK8
英露両国の覇権角逐の舞台が中央アジアとなることは地政学上の必然だったが、
実のところ両国ともこの地域の地理や政治情勢がほとんど分かっていなかった。
というわけで幾度となく両国の冒険的な密偵が中央アジア一帯を探索し、現地王侯の懐柔を試みる。
その動きは実際に両国の勢力圏が接近するよりもずっと以前から始まっていた。
そんななかで、ひとつの珍事が起こった。


ガージャール朝ペルシアがロシアの軍事圧力に屈するのと同時期、大英帝国もこの国に士官を派遣して軍の訓練を施したり、
不平等条約を押し付けて各地に領事館を開いたり、支援も干渉も取り混ぜた手段でペルシアを影響下に置こうと画策していた。

1837年秋のこと。
ヘンリー・ローリンソンという、後に古代ペルシア文字を解読して世界史の教科書に名前が載ることになる
27歳になる英軍士官がペルシア東部を旅していたとき、まったくの偶然から、
一団のコサック騎兵を引き連れたロシアの将校と遭遇した。
いろいろと探りを入れた結果、このロシア人たちはアフガニスタンの新王ドースト・ムハンマドに
誼を通じるべく遣わされた密使であるらしいと判明した。

なんとしてもロシアより先にアフガニスタンを影響下に収めなければ。
英国側に焦りが広がった。

332: 2014/08/03(日)21:58:34 ID:GIzkFpnK8
その頃、インダス上流を支配する大英帝国保護国のシーク教国と、アフガニスタンとのあいだに紛争が起こった。
シーク教国の国王ランジート・シングが国境の要衝ペシャワールを奪取。
ドースト・ムハンマドは英国の密使を迎えると、ロシアカードをチラ見せしながらペシャワール返還を要求した。


英国は苛立ち、国外逃亡していたアフガン王族シャー・シュジャーを担いでアフガニスタンに軍事侵攻することにした。
第一次アフガン戦争である。

シャー・シュジャーはニート同然の無能無気力な人物だったが、英国としてはそんなことはどうでもいい。
大英帝国軍が迫るとドースト・ムハンマドは首都カブールを放棄して逃亡し、この町は無血占領された。
将兵は妻子を呼び寄せ、テニスコートや競馬場を作ってどっかりとカブールに腰を据えた。
そのうち前王ドースト・ムハンマドも亡命先の居心地が悪かったらしく、自分から出頭してきた。
万事順調であるかに見えた。
ところが間もなく、イギリス人たちはアフガニスタン人の抵抗精神を見くびっていたことに気付く。

333: 2014/08/03(日)22:07:58 ID:GIzkFpnK8
1841年の晩秋に突如大暴動が発生。
アフガン人の大軍がどこからともなく現れ、英軍の7倍もの兵力でもってカブール城を重包囲した。
アフガニスタンは山国である。援軍は雪に閉ざされて到着の見込み無く、英国人たちは餓死寸前に追い込まれた。
年が明けて間もなく、英国人たちはついに降伏した。

世界最強の大英帝国が、アジアの山奥の未開人たちに負けた。なんたる屈辱。


ところが、地獄はここからだった。

猛烈な雪の中、ヒンドゥークシュ山脈を撤退する英国軍と民間人をアフガン人たちの銃撃が見舞う。
左右の断崖の上から執拗に狙撃が繰り返され、幾度となく略奪が行われる。
イギリスの隊列はたちまち無秩序な敗走と化した。

そこにアフガニスタンの指揮官が登場。
英国人たちが彼の率いる護衛軍を待たずに勝手に出発したからこんなことになるのだと非難し、
「勝手な行動をするな!」と世界最強の大英帝国軍に「命令」をする。


世界最強の軍隊はすごすごと「土人の首領」に人質を出して指示に従った。

でもって一行がとある峠に差し掛かったとき、ついに大虐殺が始まった。
最終的な犠牲者は、軍人4700人、民間人1万2千人。
一方でアフガニスタン側の死者はわずか500名。


第一次アフガン戦争は大英帝国の歴史上、最も悲惨な敗北に終わった。

334: 2014/08/03(日)22:16:37 ID:GIzkFpnK8
当然イギリスの朝野は憤激してアフガニスタンへの制裁を叫ぶ。
翌年、英軍はカイバル峠を突破してカブールを再占領し、少数の人質を救出して傀儡の新王を据え、
市場を爆弾で吹っ飛ばしたが、できることはそれだけだった。

アフガニスタンは古来「大国の墓場」である。
二度目の冬が来る前に英軍はインドに帰還した。
英軍が消えると同時に、英国が擁立した新王は廃位され、国内は無秩序状態になる。

結局のところアフガニスタンを落ち着かせる力量を持つのはただ一人、英国が最初に放逐し
その後インドで拘留していたドースト・ムハンマドだけだということが明白になったので
ドーストは無条件で釈放され、悠悠と自国へ戻っていった。


何のためにアフガニスタンに攻め込んだのか。
この国は以来、大英帝国の鬼門となった。

335: 名無しさん@おーぷん 2014/08/03(日)22:18:27 ID:B0fuXyqLN
アフガニスタン恐ろしす

336: 2014/08/03(日)22:37:00 ID:GIzkFpnK8
南アジアでの英国の痛手はさらに続き、1857年には有名なインド大反乱が勃発する。
昔の教科書や歴史書だと「セポイの乱」と書いてあった例の有名事件である。

直接の原因はイギリス東インド会社がインド人傭兵たちに支給した銃の薬包に牛と豚の脂が
使われているという噂が流れたこと。

実際に使っていたのかどうかはよくわからないが、噂が流れた時点で世の中は動く。

薬包というのは火薬の紙包みで、銃に弾薬を装填するときにはこれを噛み切る必要がある。
その紙に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂と、ムスリムが不浄視する豚の脂が
塗ってあるというのだから堪らない。

イギリス東インド会社の傭兵たちは未だに名目的に存在していたムガル皇帝を担ぎ、
インド全土で大反乱を起こした。一般民衆も地方王侯たちもこれに呼応。
英国のインド支配は崩壊瀬戸際に追い込まれた。


世界最強の大英帝国軍は今回は全力で頑張ったので、なんとかかんとか反乱を抑え込むことには成功したが、
英国政府は反乱の全責任をイギリス東インド会社におっ被せ、会社解散を命じた。

これ以後、インドの統治は英国政府の「インド省」が管轄することになり、インドには「副王」の地位を持つ
「インド総督」が置かれる。
ムガル帝国は完全に滅亡し、英国女王がインド皇帝を兼ねる形で「インド帝国」が成立した。


近世イスラーム世界三大帝国の一角とイギリス謎会社、これにてようやく退場となる。

337: 名無しさん@おーぷん 2014/08/03(日)22:41:03 ID:yIoIknRAx
怒りのアフガン・・・

338: 2014/08/03(日)23:04:59 ID:GIzkFpnK8
次にグレートゲームの盤面が大きく動くのは1860年代。
この時期、内陸アジアで二つの大事件が発生した。
一つはロシア帝国のトランスオクシアナ征服、そしてもう一つは清朝治下にあった東トルキスタンでの「回民蜂起」である。


長らく東ユーラシアに君臨してきた大清帝国は、歴代中華帝国の完成態というべきものだった。
偉大なる康熙帝、雍正帝、乾隆帝という稀代の名君たちのもと、この帝国は古来中華世界の宿敵であった
北方の遊牧民をも同じ国家のもとに取り込み、中央アジア・東南アジア諸国をも緩やかに従属させ、
多数の民族・宗教・言語を緩やかに統合し、繁栄を極めていた。

だが、19世紀に入るとともに帝国は徐々に老衰症状を呈し始める。

そして1840年、貿易をめぐる対立から南シナ海に四隻の英国艦隊が姿を現し、アヘン戦争が勃発。
地大物博にして強大無比な大清は、この新しい夷狄にあっけなく敗れた。

こうして大混乱が始まる。

太平天国の乱が勃発し、捻軍が蜂起し、アロー戦争では列強の帝都進駐を許す。

雲南の大理では回族の杜文秀が「スルタン・スレイマン」を称して独立国を築く。

そして陝西省で勃発した中国系ムスリムと漢人との争いがたちまち東トルキスタンに拡大し、
ウイグル人のムスリムもこれに呼応し、中央アジアのオアシス諸都市が次々に離反したのである。

この東トルキスタンのムスリム反乱もまた、同時期のロシア南進とともにグレートゲームの重要ファクターとなる。


今夜はここまで。

339: 2014/08/03(日)23:11:44 ID:GIzkFpnK8
>>338
あ、いちおう確認したらアヘン戦争が本格化した時点の英国艦隊は47隻でした。
4隻はペリー艦隊か。

340: 名無しさん@おーぷん 2014/08/04(月)00:38:06 ID:oTMVemR3j

為にならんけど(から?)面白い

341: 名無しさん@おーぷん 2014/08/04(月)00:59:31 ID:9PURQjkPc
おつかれ

アフガニスタンに東トルキスタンか
今でも問題を抱えている地域だね

350: 2014/08/05(火)22:15:57 ID:TX01Skygg
混乱を極める東トルキスタンに一人の梟雄が姿を現した。彼の名をヤークーブ・ベクという。

ヤークーブ・ベクの前半生には謎が多い。一説では、若い頃にはコーカンドで歌手をしていたともいう。
彼が歴史の表舞台に躍り出たのは1865年、コーカンド・ハン国が東トルキスタンに介入しようとして
パミール高原の東側に位置するカシュガルに遠征軍を送り込んだ時だった。

ヤークーブ・ベクはこの遠征軍の副官あたりのポストにいたらしいが、ちょうど彼らの出立と入れ替わるように
ロシア軍がコーカンドに殺到し、あとから7千人ばかりの亡命軍人たちが追いかけてきた。

ヤークーブは彼らをまとめて軍の実権を掌握し、本国の危機なんぞ放置して勝手に東進開始、
たちまちカシュガル、ヤルカンド、アクスー、クチャなどタリム盆地西部のオアシス諸都市を降し、
「七城市」といわれる独立政権を築き上げた。


当時の清朝は多事多難を極め、東トルキスタン奪還の余裕などない。
そのままヤークーブ・ベクの政権は10年ばかり放置された。

351: 2014/08/05(火)22:35:39 ID:TX01Skygg
一方、ロシアの動向。


ロシアの西トルキスタン進出は英領インド帝国を震撼させた。
あまり手を突っ込みたくはないけど、やはりアフガニスタンを緩衝国にするしかないだろう。

ところが、いささか間抜けなことにイギリスは当時アフガニスタンの北の国境が
どこまで伸びているのかがよく分からなかった。
急いでいろいろと探検隊を出してみたところ、予想外に不愉快なことが発覚した。

これまでインドへの入り口は西のヒンドゥークシュ山脈だけだと思っていたところ、
北のパミール高原やカラコルム山脈にもいくつか峠があって、どうやら軍隊も通れるっぽい。
探検家たちは「たぶん大砲引きずり上げて行軍できるんじゃないすか、たぶん」と報告してきている。
標高4000メートル越えてる峠だけど、ロシア人ならやりかねん。

カラコルム山脈の北側は東トルキスタンで、ここにはヤークーブ・ベクがいる。
ロシアがヤークーブ・ベクを抱き込んだら一大事。

そんなこんなで、イギリスは急いで二つの戦略を立てた。

ヤークーブ・ベクを味方に引き入れることと、もう一度アフガニスタンを押さえること。

352: 2014/08/05(火)22:45:14 ID:TX01Skygg
イギリスがヤークーブ・ベクに密使を出したところ、やはりというべきか、
ロシアもヤークーブ・ベクに密使を出していた。考えることは同じである。

ところが、ヤークーブがロシアに返礼使を送ったところ、ロシア皇帝は何をビビったのか土壇場で会見キャンセル。
どうもヤークーブの使者と謁見することで清朝を刺激するのを危惧したらしい。
それなら最初から密使なんて送るなという話である。

当然ながらヤークーブは激怒してイギリス側についたので、この方面についてはひとまず懸念はなくなった。


で、もうひとつはアフガニスタンである。


この方面で状況が大きく動いたきっかけは、1877年にまたしても開始された露土戦争だった。

353: 2014/08/05(火)23:01:45 ID:TX01Skygg
今度の露土戦争のきっかけは、バルカン半島でスラブ系諸民族がオスマン帝国に対して次々に蜂起したことだった。
ナショナリズムという「疫病」は順調に蔓延しつつある。
オスマン帝国はブルガリアの反乱を力づくで抑え込もうとし、4万人を虐殺した。
事ここに至り、ロシアが同胞たるスラブ系諸民族の保護を大義名分としてオスマン帝国に宣戦布告。

ロシア帝国はクリミア戦争の敗北を教訓に徴兵制を導入し、軍の近代化を進めていた。
その成果を見せつけるがごとくロシア軍は怒涛のように南へ進撃し、1878年2月には
イスタンブルを目と鼻の先に望むサンステファノまで到達した。

どのくらい目と鼻の先かというと、ここ、現在ではイスタンブルの空の玄関である
アタテュルク国際空港がある場所になる。
バスか電車で30分もしないうちにイスタンブル市街に到着できるというレベル。

が、この瞬間、それまで静観していた大英帝国が重大な警告を発した。

「それ以上一歩も進むな! 一歩でも進めば戦争だ!」


大英帝国はオスマン帝国存続による勢力均衡の維持を大方針とし、それ以上にロシアが地中海に進出し
自国の東洋植民地を脅かすことを極度に警戒していたから、これは当然だった。

英露両大国の全面戦争必至。

この状況のなか、ロシア帝国のトルキスタン総督カウフマンは3万の軍勢を召集してインド侵攻に備え、
同時にアフガニスタンに使者を送って軍事同盟を迫ったのだ。

354: 2014/08/05(火)23:25:38 ID:TX01Skygg
結果からいうと、この時はロシアが退いてオスマン帝国と和平締結した。
ロシア軍のインド侵攻も沙汰やみとなったが、ロシアがカブールに使者を送ったことは
英領インドに波紋を起こさずにすまない。


アフガニスタン国王シェール・アリーは何度も英国の使節団訪問を拒否してきたのに、
何故かこのロシアの使節団はあっさり入国させたばかりは、友好条約締結と軍事顧問団の駐留まで認めた。

たぶんイギリスよりロシアの方が強面だったんだろう。


英国としては「ふざけんな」という話になる。
キレたイギリスはついに3万5千の軍をもってアフガニスタンに侵攻開始。
こうして1878年冬、「第二次アフガン戦争」が始まった。


英軍がカンダハルやカイバル峠を占領すると、シェール・アリーは泡を食って
さっそくカウフマンにロシアの援軍を要請したが、カウフマンの返答はにべもなかった。

「アホか、この真冬に援軍なんて出したら凍死するわ」

シェール・アリーは仰天し、自らペテルブルクまで行ってロシア皇帝に直訴することを考えるが、
国境まで着いたところでカウフマンに入国を拒否され、失意のあまりハンガーストライキをして死亡した。

その頃イギリス軍もとんでもない大雪で身動き取れない状況だったが、アフガニスタン側は
王が死んでロシアの援軍も来ないとなれば他に選択肢もないので、そのままイギリスに降伏した。


その後、初代駐在官が駐在した途端に王の給料遅配に怒った兵士たちに八つ当たり的に殺されたりと
波乱が続いたものの、結局のところドースト・ムハンマドの息子のアブドゥル・ラーマンが
イギリスによる暗黙の支援のもとにアフガニスタン全土を統一し、この国は英国の傘の下に入ったのだった。

356: 2014/08/05(火)23:58:01 ID:TX01Skygg
アフガニスタンについてはこうしてひとまず勝負がついた。
ところがその頃、東トルキスタンの情勢がまた大きく変化していた。

第二次アフガン戦争の前年、1877年にやっとこさ大清帝国がヤークーブ・ベクの存在を思い出し、
左宗棠将軍率いる大軍がやって来たのだ。ヤークーブ・ベクはトルファンで惨敗し、毒を仰いで自殺した。

東トルキスタンを回復した清朝は、以後こんなことが起こらないようにこの地域を本国同様に直轄化することにした。
名付けて「新疆省」。新しい領土という意味になる。

ヤークーブ・ベクとうまくいかず、アフガニスタンもイギリスに取られたロシアは、この新疆を狙う。
1881年、イリ条約でロシアは新疆のどこでも好きなところに領事を置く権利をもぎ取った。


グレートゲームの主戦場はこれ以後、さらに東へ移る。
東に移りすぎて、これより先はイスラーム世界の歴史自体にあまり関わりはなくなってくるのだけど
話の都合上いちおうグレートゲームに決着がつくまで解説しておくと、こんな流れになる。


イギリスはロシアが東トルキスタンを押さえたのを見て、その南のチベットに介入する。

それに対して、ロシアはまったく予想もしなかった手を打った。シベリア鉄道の建設開始である。
1894年に即位したロシアの新帝ニコライ2世は陸路モスクワから黄海と日本海まで至る鉄道を敷設し、
グレートゲームの前提たる大英帝国の東洋権益を根こそぎ奪い取ろうとしたのだ。

1900年、中国で発生した義和団の乱に際して列強は北京に駐屯した。
ところがロシアだけは乱の鎮圧後も兵を退かず、そのまま満州に居座る気配を見せた。

この動きに対して、英国は東洋の新興国家、日本を抱き込んでロシアを牽制させることにした。
ところが日本は英国の予想や期待をはるかに超え、1905年の日露戦争でロシア帝国を真っ向から撃破してしまう。

このさなかにロシア帝国心臓部で民衆暴動が起き、帝国は一気に動揺を始める。
イギリスもまた新たに勃興してきた強国、ドイツへの警戒を強めつつあった。

1907年、内外の新たな脅威を前にして英露協商が締結され、英露両国はユーラシア大陸における
勢力範囲を画定し、グレートゲームは勝負をつけることなくひとまず終了する。


このドイツという新勢力の台頭は、イスラーム世界にも様々な波紋を投げかけることになる。

今夜はここまで。

357: 2014/08/06(水)00:01:22 ID:brM7SaFJr
19世紀に入ってから進んだり戻ったりで時系列がゴチャゴチャしてる。
書いてる方は分かってるけど、読んでる方は混乱しそうだ。
オスマン帝国とペルシアとエジプトを放置していたから、また少し戻らないとだし。

359: 名無しさん@おーぷん 2014/08/06(水)00:41:40 ID:D8lrxdSJV
おつかれ

グレートゲーム複雑だなあ
ロシアの脅威が止んだと思ったら次はドイツか

361: 名無しさん@おーぷん 2014/08/06(水)14:18:14 ID:Yb4aRK8sr
アフガニスタンって帝国の墓場なのか・・・w

362: 名無しさん@おーぷん 2014/08/06(水)19:08:21 ID:SmVbHDIS2
名探偵シャーロック・ホームズの相棒ワトスンは第二次アフガン戦争の傷病兵

375: 名無しさん@おーぷん 2014/08/07(木)13:50:48 ID:YFTf95rlV
>>362
ほほう、スレに沿った豆知識ですな

銭ってのはほんまに恐ろしいもんやで

363: 2014/08/06(水)22:42:16 ID:kwtYBggtr
アフガニスタンに手を出すと碌なことにならない。
いわば中央アジアのベトナムかな。

364: 2014/08/06(水)22:57:25 ID:kwtYBggtr
19世紀後半、中央アジアで熾烈なグレートゲームが展開されている頃。
イスラーム世界中央部ではオスマン帝国・エジプト・ペルシアが揃って借金地獄に落ちつつあった。


オスマン帝国がクリミア戦争とタンジマート改革の経費がかさんで外債を乱発したことは既に軽く触れたけど、
マクロな経済のレベルで見れば、産業革命を達成した西洋諸国の生産力に太刀打ちできなかったことが経済危機の根本原因。
これはオスマン帝国に限らない。

近代まで周知のようにトルコやイランは華麗な絨毯をはじめ毛織物生産が盛んだったし、
インドは世界一の木綿産地で、インド洋交易でもっとも盛んに取引されたのはインド産綿布だった。

ところがそこに蒸気仕掛けの自動織機で大量生産されるイギリス産の布だの糸だのが、
丁寧に梱包されて安値で流入してくれば、西南アジアの何百万もの人々は飯の食い上げに追い込まれる。

各国で近代化政策が進められ、港が整備され、鉄道が敷設されれば、その傾向はますます強まる。
イスラーム世界の大部分の人々にとって近代化は財布と胃袋を擦り減らすものだった。

税収も減るけど一度始まった近代化政策は止めるわけにはいかないし、何より軍を整備しなければ
列強にいつ滅ぼされるか分からない。この危機感。

365: 2014/08/06(水)23:11:36 ID:kwtYBggtr
イスラーム諸国は近代化できるものは何でも近代化し、売れるものは何でも売った。


オスマン帝国は1863年に英仏の銀行家たちに紙幣発行権を売り飛ばし、それでも足りず、
75年には債務不履行宣言を発出した。
これつまり、「帝国破産」である。


一方ムハンマド・アリー死後のエジプトは、しばらくは好景気に恵まれた。

第3代国主のサイド・パシャは子供時代に自分の家庭教師を務め、
孫のメタボ化を心配するムハンマド・アリーの目を盗んでマカロニを食わせまくってくれた
フランス人の元外交官レセップスを招き、どーんとスエズ運河を開削した。
運河建設を自国の権益に対するフランスの挑戦と見なしたイギリスが散々妨害したが、
1869年、第4代イスマイルの時代になって地中海と紅海は無事開通。

イスマイルはフランスのパリで青年時代を過ごしナポレオン3世の妃のウージェニーに横恋慕していたらしい。
この美貌の人妻を靡かせるべく西洋文化の導入に燃えまくり、公式の場ではフランス語しかしゃべらず、
オペラハウスだの工場だのガス灯だのを建てまくった。

ところが運河完成直後からエジプトの国家財政が急速に傾く。
なんとなれば、遥か大西洋の彼方でアメリカ南北戦争が終結し、しばらく消えていた
アメリカ南部産の綿花が大量に雪崩れ込んでエジプトの綿花を駆逐したのである。

というわけで運河完成からわずか6年後の1875年、せっかくのスエズ運河も
イギリス政府に売り飛ばされたのだった。

366: 2014/08/06(水)23:31:01 ID:kwtYBggtr
このときいち早くスエズ運河会社の株が大売出しされる情報を察知した英国首相ディズレイリは
議会の承認なんぞ取ってる時間がないので、独断でロスチャイルド銀行から400万ポンドを現ナマ借金し、
売りに出された株券を即刻丸ごと買い取ったという。

この決断によって英国はヨーロッパからインドにいたる要衝中の要衝を握り、大英帝国は絶頂期を迎える。


エジプトのその後の運命は対照的である。

イスマイルはスエズ運河を売り飛ばしても利息1回分を払うことしかできず、借金は膨らむ一方。
カイロの町には政府相手の多国籍高利貸し集団が溢れかえり、農民たちも土地を借金取りに取り上げられた。

運河売却の翌年には宗主国様の後を追うように国庫破産を宣言。
そして宗主国様のほうは、懐具合が悪くなって金製ナイフだの札束だのをよこさなくなった
属国の王に愛想を尽かしたらしく、1879年6月に一通の電報をよこした。

「『前』エジプト副王・イスマイル殿へ」

イスマイルは退位した。

367: 名無しさん@おーぷん 2014/08/06(水)23:34:39 ID:FpTy4HGDt
世の中カネやで

368: 名無しさん@おーぷん 2014/08/06(水)23:45:48 ID:BGfGPMMB3
うん、カネや

369: 2014/08/06(水)23:48:35 ID:kwtYBggtr
エジプト政府は、イスタンブルを首都とする名ばかりの宗主国様をさしおき、
最大の債権者たる英仏両政府の共同管理下に入った。
この情けない状況のなかで、軍のエジプト人将校たちが秘密結社を結成し、政府打倒を企てた。


ここで注目すべきは、ムハンマド・アリー朝が元はといえばイスタンブルから派遣された、
アルバニア系の国主を戴く外国人支配の王朝だったこと。

もっと言えば、そもそもエジプトは紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシアによる征服以来、
一度も切れ目なく外国人の支配者を戴いてきたという、ある意味「逆に凄い」国である。

おそらく古代エジプト人の遺伝子をいちばん濃厚に受け継いでいるであろう、
先祖代々ナイル流域で暮らしてきた人々が国権を握ったことなど久しくなかったのだが、
ムハンマド・アリー朝のあまりの惨状に、この歴史的伝統も途絶えることと相成った。


1881年9月。
軍は反乱を起こし、ナイルデルタの農民出身のウラービー大佐が陸軍大臣となって政府を掌握した。

ところが列強は自分たちにコントロールできない新勢力の台頭をこれっぽちも歓迎しなかったので、
お約束のようにアレクサンドリア沖に英国艦隊が展開し、砲撃開始。

押し込められていた太守のテウフィークが「あいつら叛徒、わしが正統国主」と英国軍に逃げ込んだので
英国軍は中立地帯のはずのスエズ運河から上陸し、ウラービーをひっ捕らえてスリランカに流罪にした。

こうしてエジプトは事実上、大英帝国の属領と化した。

370: 名無しさん@おーぷん 2014/08/07(木)00:01:41 ID:c4lhv9dDd
>一度も切れ目なく外国人の支配者を戴いてきたという、ある意味「逆に凄い」国
歴史って面白いな

371: 2014/08/07(木)00:15:54 ID:wGRYaNI9L
イランのガージャール朝ももちろん借金地獄に墜落していった。


1828年のトルコマンチャーイ条約で治外法権と南カフカスの領土とカスピ海の制海権(制湖権?)と
莫大な賠償金をロシアに持っていかれたガージャール朝は、さすがに「このままではいかん」と悟る。

いちおうアッバース・ミルザーだのアミール・キャービルだのと改革政治家が出てくるのだが、
アッバース・ミルザーは早死にし、アミール・キャビールは有能な部下を嫌った国王に暗殺される。

1834年に第2代国王のファトフ・アリー・シャーが死去。
ファトフ・アリー・シャーは稀によくいる「昼間は無能、夜は有能」とか「治世の暗君、後宮の名君」とかいう類の王で
100人以上も子供がいたらしい。

というわけで誰が王位を継ぐかが問題になるのだが、ここで呼ばれもしない大英帝国がくちばしを突っ込み、
100人の子供たちのなかでいちばん無能そうなモハンマド・シャーを王位に押し上げた。
もちろん無能だからである。わかりますね?

モハンマド・シャーはロシアに与えたのと同じ利権を英国にもプレゼントした。


以後、北のロシアと南の英国がグレートゲームの西側の草刈り場としてイランを食い荒らすなか、
イラン国内ではイスマーイール派だのバーブ教だのの宗教反乱が続々発生。

日増しに財政が悪化するなかで政府の官職が売りに出され、農民からは絞れるだけ税を絞りまくる。
民衆反乱を押さえるためには遊牧部族の族長たちに地方支配を丸投げし、それでも抑えきれない時には
英露両軍がサポートしてくれるという約束を取り付けた。


これ、世間では「保護国」というわけだが。

372: 2014/08/07(木)00:28:11 ID:wGRYaNI9L
要するにガージャール朝ペルシアの支配者たちは総じて無責任でその場しのぎで過ごしていたっぽい。

1872年、カネがないのでイギリス人のジュリウス・ロイター男爵なる実業家に、
イラン全土の鉱山採掘権と未開拓地の開発権と鉄道敷設権と関税利権をセットで売り飛ばした。

これにロシアが横槍を入れる。イギリス人を優遇し過ぎだろうというわけだ。
ところが当のイギリス政府もロイター男爵を助けてくれない。ユダヤ人だしドイツの爵位を持つのが気に入らないらしい。

進退窮まったロイター男爵はほとんどの利権を放棄するが、その代わりに「ペルシア帝国銀行」の設立を認められ、
イラン国内で流通するオカネは全部自由に作れるようになった。

373: 2014/08/07(木)00:47:23 ID:wGRYaNI9L
この事件をきっかけに「イランは利権をたたき売りしている」というのが定評となり、
世界中(=ヨーロッパ中)の強欲連中がイランに殺到して利権を争奪した。
そのひとつとして、1890年にイギリス人のタルボットなる人物に、
イランにおけるタバコの生産・販売・輸出の権利一切を今後50年間一括売却する契約を結んだ。
これがイスタンブルのペルシア語新聞にすっぱ抜かれて大騒動になった。

イラン人はタバコ、正確にいうと水タバコが大好きである。
鉱山だの関税だのにはピンと来なくても、身近なタバコが異教徒の商人の思うがままになるというのは
イラン人たちを激しく憤激させたらしい。

イランの事実上の国教はシーア派だが、シーア派の中心はイランではなく、イマーム・フサインの墓廟たる
南イラクのナジャフである。このナジャフが動いた。

当時シーア派聖職者の最高位にあったナジャフの法学者、ハサン・シーラーズィーは名前の通り、
イランのシーラーズ地方出身で、このあたりの農民たちの気持ちをいたく理解していた。

彼はタバコ利権を激烈に非難し、イラン全土のシーア派信徒たちにストライキを呼びかけたのだ。
「帝国タバコの契約が破棄されるまで、一人としてタバコを吸うなかれ!」


水タバコが三度の飯より好きなイランの髭親父たちも、このファトワー(法勅)には喜んで従った。
全国のバザールの商人たちは店を閉鎖し、法学者たちは「タバコは異教徒が触っているから不潔」と新説を発表した。

かくて国王ナッセロディーン・シャーは、やむなくタバコ利権の付与を撤回する。

違約金50万ポンド。

払えるわけがないガージャール朝はペルシア帝国銀行から金を借り、底なしの借金地獄へ落ち込んでいく。


この世にいう「タバコ・ボイコット運動」が広まるなか、とある人物が活躍する。
彼の名は「ジャマールディーン・アフガーニー」。
19世紀末イスラーム世界における最大の思想家であり、その影響は今日なお巨大である。


今夜はここまで。

374: 名無しさん@おーぷん 2014/08/07(木)01:05:37 ID:p9J3OiJEP
おつかれ

お金が無いとつらいのう

376: 2014/08/07(木)23:56:39 ID:YpHpOAzgC
ジャマールディーン・アフガーニー。
19世紀末のイスラーム世界全土を遍歴し、いたるところでムスリムの団結を呼びかけ、革命の火を点けた怪人。
この稀代の思想家の生涯、とくに前半生は謎に包まれている。

その名の通りアフガニスタン出身かと思えば、実はイランの出自であるともいう。

彼の足跡が明確になり始めるのは1860年代。
このとき彼はインドに留学し、インド大反乱の決起と敗北をつぶさに見つめ、西欧列強の力と脅威に慄いた。

これ以後、アフガーニーは世界各地をめぐり、列強からの独立を説いた。
そのために不可欠なのはイスラーム世界の団結と復興、そして列強と結んで保身に走る専制君主たちの打倒!

アフガーニーの説くイスラーム復興とは何か。
彼はそれを「ジハード」、つまり「聖戦」という言葉で表現する。
彼の語るジハードとは単に異教徒との戦争だけを指すのではない。
それ以上に大切なことは「内なるジハード」、つまり全イスラーム世界が一致団結して
知識を発展させ思想を深め、公正な社会を築くことだという。


アフガーニーの胸は熱く燃えていた。
「いかなる危機の時代にあっても、真のイスラームは断じてオワコンではないのだ!」と。

377: 2014/08/07(木)23:59:28 ID:YpHpOAzgC
1870年代のアフガーニはエジプトで過ごし、この地で多くの弟子を得た。
そのなかで最も知られているのはムハンマド・アブドゥフ。
農民の子として生まれながらアズハル大学で学問を究めた俊英だった。

二人は影と形のごとく寄り添い、帝国主義への抵抗と専制打倒のために煽動も陰謀もテロリズムも辞さない。
彼ら二人のエジプトにおける最高傑作がウラービーの反乱に他ならない。


1880年代、エジプトを追われた師弟は英国を経てパリに赴き、ここで『固き絆』という雑誌を発行した。
これによって広大なイスラーム世界のあらゆる知識人たちに二人の存在と思想が知れ渡る。

ここで弟子と別れたアフガーニーはロシアに移り、多くの政治家たちと接触する。
この地で彼が試みたのはグレートゲームの全面戦争化。
英露対立の火種を掻き立てるだけ掻き立てて二大列強の全面戦争を引き起こし、
その混乱に乗じて東方諸民族の独立を達成しようという大胆不敵な術策だった。

だが、あいにく当時のロシアにもカネに余裕がなかったので陰謀は不発に終わる。


かくてアフガーニーはイランへ向かい、ここでタバコ・ボイコット運動を燃え上がらせた。

379: 2014/08/08(金)00:14:45 ID:1z5dKWKYR
ガージャール朝のナッセロディーン・シャーは当初、高名なアフガーニーの滞在を歓迎していた。
しかしアフガーニーは手元に飼うには危険すぎ、歯に衣着せなさすぎる。
タバコ・ボイコット運動でそれを思い知らされたナッセロディーンはアフガーニーを追放した。


こうしてアフガーニーは終焉の地、イスタンブルへたどり着く。
ここで彼は、この時代のもう一人の巨人たるオスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世と出会い、軟禁された。

アブデュルハミトによってガージャール朝への批判を禁じられたアフガーニーは、それでも屈しない。
軟禁される師を訪ねた弟子のひとりに、ひそかに示唆する。

「あれだ、分かるな? 察しろ」

1896年5月。
ガージャール朝ペルシアのナッセロディーン・シャーはアフガーニーの弟子によって射殺された。

かようにまことにきな臭い思想家アフガーニーは翌年癌によって、一説では毒殺によって世を去るが、
彼の説いた思想は20世紀のイスラーム世界に多大な影響を残した。

380: 2014/08/08(金)00:23:11 ID:1z5dKWKYR
帝国主義への飽くなき抵抗。
イスラーム世界の大同団結。
近代の現実に合わせたイスラームの再解釈。


アフガーニーの愛弟子アブドゥフは、「イジュティハードの門は開放された」と宣言した。
カッコいい。

「イジュティハード」とはイスラーム法の解釈のこと。
かつてイスラーム世界の草創期、急速に拡大する世界のなかで多様な難問に直面した法学者たちは
預言者ムハンマドや初期の信徒たちの言行を柔軟無碍に再解釈してイスラーム法を整備していった。
これを「イジュティハード」という。

やがてイスラーム世界の拡大が一息つくと、「イジュティハードの門は閉じられた」というのが定説となる。
もはやイスラーム法は完成した。これ以上余計な手を加える必要はないのだと。

だが、今やイスラーム世界は未曾有の危機に直面し、予想もしない事象に溢れている。
イジュティハードの門を再び開き、現実に合わせて柔軟にイスラーム法を解釈し直すべきなのだと。


後半生のアブドゥフは陰謀だのテロだのからは足を洗い、イスラーム法の再解釈と教育に専念する。
たぶん毒気が強すぎる師匠がいなくなったせいだろう。
アブドゥフ、さらにその弟子であるラシード・リダーらによってイスラーム復興運動は大きなうねりを見せる。


その一方で、アフガーニーの思想と行動のうち、力による帝国主義への抵抗という側面に強く影響される者も多くいる。
それをひたすら突き詰めれば2001年9月11日の某大事件まで行きつくわけで、やはりアフガーニーのインパクトは大きい。


今夜はここまでで。(超短い)

381: 2014/08/08(金)00:33:23 ID:1z5dKWKYR
(思想史より政治史のほうが面白いんだけどなあ、面倒な時代に入ったわ)

(小並感)

382: 名無しさん@おーぷん 2014/08/08(金)13:07:20 ID:Q2qr1LL7g

ジハードか

384: 2014/08/08(金)23:05:33 ID:Eog4Hakhk
>>382
ジハードですな。
ちなみにジハードは本来「努力」というような意味で、必ずしも「聖戦」とイコールではないんだけど
どうしても「宗教戦争」のイメージが強くて誤解を招きやすいので、これまで用語として使わなかった次第。

386: 2014/08/09(土)21:26:03 ID:q3czdMq1p
さて、19世紀に入ってから時系列が複雑になっているので、ここでちょっと整理してみようと思う。

書いてる順番としては「オスマン帝国とエジプトの近代化開始」→「アラビア半島のワッハーブ派と西アフリカの聖戦」
→「グレートゲームを軸に東方イスラーム世界の動向」→「オスマン帝国とエジプトとイランの近代化継続と借金地獄」という感じで、
行ったり来たりしているのを、ものすごく大雑把に年表化すると以下の通り。

1790年代
中近東:露土戦争、セリム3世の改革  イラン:ガージャール朝初期  インド:ティプー・スルタンの没落  中央アジア:?

1800年代
中近東:ナポレオン侵入、ムハンマド・アリーの登場、サウード家のアラビア平定  イラン:ロシアと戦争  インド:?  
中央アジア:?

1810年代
中近東:マフムト2世登場、ムハンマド・アリーの台頭、アラビア半島再征服  イラン:ロシアと戦争  インド:?  
中央アジア:?

1820年代
中近東:ギリシア独立戦争、イェニチェリ壊滅  イラン:トルコマンチャーイ条約  インド:?  中央アジア:?

1830年代
中近東:エジプト・シリア戦争、ムハンマド・アリーの屈服  イラン:腐ってる  インド:?  中央アジア:?

1840年代
中近東:?  イラン:腐ってる  インド&中央アジア:第一次アフガン戦争

1850年代
中近東:クリミア戦争  イラン:腐ってる  インド:大反乱  中央アジア:東トルキスタンの回民蜂起

1860年代
中近東:スエズ運河建設中、借金増大中  イラン:腐ってる  インド:まだ書いてない  
中央アジア:ロシアの西トルキスタン征服、ヤークーブ・ベクの東トルキスタン支配

1870年代
中近東:オスマン帝国破産、エジプト破産、スエズ運河売却  イラン:ロイター利権  インド:まだ書いてない
中央アジア:ヤークーブ・ベクの没落、新疆省成立

1880年代
中近東:オスマン帝国はまだ書いてない、エジプトはウラービーの反乱を経てイギリスの属国化、アフガーニー暗躍
イラン:利権大売出し中  インド:まだ書いてない  中央アジア:ロシアの新疆進出、第二次アフガン戦争

1890年代
中近東:まだ書いてない  イラン:タバコ・ボイコット運動、アフガーニー暗躍  インド:まだ書いてない
中央アジア:グレートゲーム終盤へ

1900年代
中近東:まだ書いてない  イラン:まだ書いてない  インド:まだ書いてない  中央アジア;グレートゲーム終盤へ

387: 2014/08/09(土)21:49:07 ID:q3czdMq1p
年表書いてみたら非常に見づらい・・・

とりあえず、1875年にオスマン帝国が破産したあたりから再開。


このとき、帝国は危機に直面していた。
もちろんここ数十年ずっと危機に直面し続けているのだけど、それにももちろん波があって、
75年頃はとくに危機の波が高いタイミングだった。

具体的にいうと、バルカン半島でまたしても正教徒の反乱。
ボスニア・ヘルツェゴビナで減税を求める蜂起が発生し、余裕がない帝国はてっとり早く虐殺で対応。
それに対して毎度のことながら列強が武力介入するという噂が立ち、帝都で学生デモが発生。

ときの皇帝アブデュルアズィズはマッチョのミリオタで、オスマン帝国歴代皇帝としてはじめて西欧を訪れたとき
そこで見かけた軍艦に熱狂し、帝国の財政状況を無視して使いもしない軍艦を大量に買い漁っていた。
その一方、内政面では父のマフムト2世とは逆に保守的な政策を取り、若手の改革派官僚から嫌われていたので、
改革派は学生デモを煽りたててドルマバフチェ宮殿を包囲し、アブデュルアズィズは退位に追い込んだ。


ところが新たに帝位についたムラト5世は精神に異常をきたしていた。

もともと彼はタンジマート改革による新教育制度のもとで育って若手の改革者たちと親しく、新世代の期待の星だった。
だが、それだけに先帝アブデュルアズィズの警戒を受け、長く先帝のスパイに監視されながら軟禁されていた。
見えざる眼と耳への怯えがムラトの精神を蝕み、酒に走らせた。
(ムスリムが酒飲んでいいのかってことについて論じると長くなるのでry)

てわけでめでたく即位したムラトも当初から挙動不審で、入れ替わりに幽閉された先帝アブデュルアズィズが
翌年に怪死(自殺臭が漂う)したことで完全に発狂し、廃位された。


帝国の国庫は枯渇。
地方は反乱、都ではわずか2年で2人の皇帝が廃位される。
そしてムラト5世廃位の前にはセルビアとモンテネグロが帝国に宣戦を布告し、列強の本格介入の気配が漂いつつある。

1876年9月。
ムラト5世の後を継ぎ、第34代皇帝アブデュルハミト2世が即位したのは、こんな状況のときだった。

389: 名無しさん@おーぷん 2014/08/09(土)22:06:45 ID:2nHZCtZeA
>イラン:腐ってる

うーんw

391: 2014/08/09(土)22:20:14 ID:q3czdMq1p
>>389
イラン、腐ってること実に40年間www

いや、そのあいだにもアッバース・ミルザーの改革とかイスマーイール派の反乱とか
ヘラート紛争とかバーブ教徒の反乱とかいろいろあるんだけどね。
(と言いつつ半分は反乱である)

390: 2014/08/09(土)22:16:38 ID:q3czdMq1p
アブデュルハミト2世はオスマン帝国末期を飾る、良くも悪くも(どっちかというと悪く)大物皇帝なのだが、
この時点ではその実力も思想もほとんど未知数だった。

彼が即位した時点で、セルビア・モンテネグロがオスマン帝国と開戦。
相手がバルカンの小国に過ぎないのでさすがに帝国側が勝利するが、正教諸国の盟主を自認するロシアが
ここで圧力をかけ、休戦を強要。
情勢がややっこしくなってきたので列強が介入し、イスタンブルでバルカン問題を整理する国際会議が予定されていた。

内紛状態の帝国側としては会議で有利な立場を確保するためにも、近代化改革を再開し、
列強に対して「いい子」のフリをする必要がある。

そこで勅令発布。
改革派官僚たちの中心だった大宰相の「ミドハト・パシャ」に命じて、憲法を制定させたのだ。
これがアジアで最初の憲法として知られる「ミドハト憲法」である。

ミドハト憲法のなかで、帝国の全臣民は信じる宗教に関係なく「オスマン人」と呼ばれることになっており、
選挙によって議会を開くことが規定されていた。

憲法はあらゆる国法の頂点に立ち、支配者をも拘束する。

絶対専制君主だったオスマン皇帝も遅ればせながら西欧風の「立憲君主」に宗旨替えし、
時代遅れのイスラーム法に変えて西欧風の近代法体系が整備される・・・かに見えた。


しかしアブデュルハミト2世はさりげなく、こんな一節を憲法に追加させた。
「非常事態の際には戒厳令を発布し法律と文民統治を一時的に停止する。治安当局の調査によって
 政府の安全を破壊する者が明らかになった場合、皇帝はその者を国外に追放する権利を有する」


アブデュルハミト2世はこの条項に基づき、第一回議会招集を前にミドハト・パシャを国外追放とした。
どうやら新帝は立憲君主制などお気に召さない様子。


「ミドハト憲法」の制定を持っても列強は納得してくれなかったので国際会議は間もなく決裂し、
翌1877年にはロシア帝国が宣戦布告した。

バルカン半島では上から押し付けられた「オスマン人」などという概念に何の実感も持てなかった
正教徒たちが続々蜂起し、怒涛のように南下したロシア軍は、1878年2月に帝都イスタンブルから
10キロしか離れていないサンステファノ、現アタテュルク国際空港の一帯まで到達して終戦。

この危機の中、アブデュルハミトは議会を「一時休止」し、憲法を「一時停止」した。
以後、30年間にわたってアブデュルハミト2世の専制政治が続くことになる。

392: 2014/08/09(土)22:40:57 ID:q3czdMq1p
たぶん、アブデュルハミト2世は先立つ2人の皇帝が「改革派」によって次々に廃位されたのを見て、
何よりもまず「改革派」から身を守ることを優先したのだろう。

憲法停止後、アブデュルハミトは秘密警察を組織し密告を奨励して権力強化に努めた。
その成果はすぐに現れる。
没落した改革派たちが廃帝ムラト5世が幽閉されるチュアラン宮殿を襲撃し、彼の復位を企てたのだ。
この事件を機にアブデュルハミトは国外追放したミドハト・パシャらを含む改革派官僚たちを一掃し、
宮殿の奥深くに引きこもって絶対支配を開始する。


とはいえ、彼は彼なりに有能な統治者だった。
彼のもとで中央集権化は著しく進み、道路・鉄道・海運・郵便・電信・各種産業も大いに発達した。
財政再建にも努力し、政府と宮廷の支出を切り詰めるだけ切り詰める。

一方で教育の振興にも尽力した。
全国民の初等教育が義務化され、各種専門学校や大学も整備。
財政破綻の中でも教育分野には惜しみなくカネが注ぎ込まれた。
カリキュラムも昔ながらのコーラン暗唱大会は取りやめにして、西欧的な実学を奨励した。

改革派官僚たちを嫌悪したアブデュルハミトだが、帝国の未来のために近代教育が欠かせないことは
理解していたのだろう。

その肖像は同時代、清朝末期に国権を握った西太后を彷彿させる。
帝国末期の独裁者は権力保持を優先して改革派の官僚たちを粛清するが、実は誰よりも改革の必要性を理解し、
一人孤独にその努力を続けるのだ。

393: 2014/08/09(土)23:06:52 ID:q3czdMq1p
けれどその営みは孤独で誰にも理解されず、報われることもない。
たった一人、歴史の殿軍にたって終わりなき敗走を続ける末世の皇帝。
懸命に滅びゆく国家を支えようとしても、その周囲であらゆるものは音立てて崩壊し続ける。


オスマン帝国の領土は減り続ける。
アブデュルハミト即位早々の露土戦争敗北の結果、バルカン山脈以北のブルガリアとボスニア・ヘルツェゴビナを喪失。
これによってオスマン帝国は領土の4割と550万の人口を失った。

その時すでにエジプトは事実上帝国の手を離れ、シリアも列強の影響下にある。
エジプトより先に続くアルジェリアやモロッコなど北アフリカ地域も、19世紀初期からフランスに蚕食されつつある。
三大陸に君臨したスレイマン大帝の時代は遠い夢の幻と化している。

失われた領土から大量のムスリムが帝国領に流れ込む。
難民になった彼らは帝都イスタンブルの人々に、自分たちを故郷から追い出した「異教徒ども」の暴虐を語って聞かせる。
残された領土にあってもナショナリズムという「疫病」の蔓延はやむことを知らない。

ムスリムと非ムスリムの平等をうたう理念とは裏腹に、帝国各地で異なる宗教、異なる民族間の紛争、
暴力と抑圧が広がっていく。

アルメニア人たちは政府高官を標的とする爆弾テロに走り、ムスリムたちはこれに報復し、
1894年には東部アナトリアとクルディスタンでアルメニア人とムスリムの大規模な衝突が発生。

マケドニアではブルガリア人、ギリシア人、セルビア人、ワラキア人、アルバニア人など、
混在する諸民族が対立し、それを各民族の「本国」が支援し、裏では列強が自国の影響力拡張を図る。
げに、バルカン半島は「世界の火薬庫」と化していく。


帝国を侵す暴力の渦の中で、二つの機運が生まれる。

ひとつは、いまあらためてオスマン帝国がイスラーム世界の盟主であるという誇りを取り戻そうというもの。

そしてもう一つは、異教諸民族の海に包囲された帝国中心部のムスリムたちもまた、ひとつの「民族」であるという主張。
久しく忘れられていた「トルコ人」という概念が蘇る。
オスマン帝国は諸民族の融合にあらず、トルコ人が三大陸を支配した栄光の国家なのだ、と。
要するに、ついに帝国中枢までもが「疫病」に感染しはじめたということになる。

394: 2014/08/09(土)23:28:47 ID:q3czdMq1p
帝都イスタンブルにイスラーム世界復興を説く思想家アフガーニーが姿を現したのもこの頃だが、
アフガーニーを幽閉し毒殺したアブデュルハミト2世もまた、イスラーム世界の大同団結を図ろうとしていた。

ただし一つだけ譲れない条件がある。
大同団結したイスラーム世界に君臨するのは、この自分である。


この頃、「オスマン帝国の皇帝は実はカリフでもあるんだぞー」という宣伝が大々的になされた。
なんでも16世紀にセリム1世がマムルーク朝エジプトを征服したとき、マムルーク朝が保護していた
アッバース朝カリフの末裔をイスタンブルに連れ帰り、カリフの地位も譲られたのだという。

そんな話は当時の記録のどこにも一言も書いてないし、そもそもイスラーム法の多数意見では
預言者ムハンマドの一族、クライシュ族の血を引いていないとカリフに就任する資格がないはずなので
中央アジアから来た遊牧民の子孫がカリフなんぞになるのはおかしいのだが。

最盛期オスマン帝国は本当に超大国だったので、18世紀あたりからなんとなく語り伝えられていた伝説が
ここにきて一躍表舞台に。
オスマン皇帝は「スルタンカリフ」なのだと宣伝される。


カリフを兼任するのであれば、オスマン帝国皇帝の権威は帝国の領土を越えて、スンナ派イスラーム世界の全土に及ぶ。

ここで今更持ち出されるのが19世紀初頭のキュチュク・カイナルジ条約にさりげなく入っていた一節。

「ロシア皇帝はオスマン領内の正教徒の保護権を持つ。オスマン皇帝はクリミア半島のムスリムに対する精神的な権威を持つ」

これまで前半ばっかりやたら援用されてきたわけだが、ここにきて後半が俄然脚光を浴びる。
クリミア半島のみならず、世界中のムスリムはみんなオスマン皇帝の精神的権威のもとにあるという後付け設定。


アブデュルハミト2世はこういう方向で帝国の権威を復活させようとした。
これを「汎イスラーム主義」という。

実際、列強の侵略・圧制に苦しむインドや東南アジア、中央アジアやロシアのムスリムたちは
こぞってオスマン皇帝に使者を送って(あまり期待はしていないにせよ)助けを求めてきた。


アブデュルハミト2世は「イスラームの連帯が続く限り、イギリス・フランス・ロシア・オランダは
余の掌中にある。余が一言発すれば、たちまち全世界で聖戦が起こる」とまで豪語した。


その虚しさは彼自身が誰よりも分かっていただろう。
世界各地のムスリムたちは確かに今なお列強に抗して地中海の一角を支配する老大国に敬愛を示したが、
それは所詮、敬愛でしかなかった。

アブデュルハミト2世はこうも言う。
「聖戦はいわば伝家の宝刀。時が来るまでこれを用いてはならぬ」

そんな時などきっと永遠に来るわけがないのだから。

396: 2014/08/09(土)23:42:00 ID:q3czdMq1p
もっとも、イスラーム世界の連帯を説く思想は色合いを微妙に変えつつ、19世紀末の世界各地で唱えられていた。

アフガーニーとその弟子アブドゥフもその一人。
アブドゥフのさらなる弟子、シリア人のラシード・リダーは1897年に『マナール』という雑誌を発行した。
このタイトルはアラビア語で「灯台」を意味する。
暗黒時代のなかで輝く灯台のように、イスラーム世界の団結と復興を宣べ伝えようという趣旨だ。

『マナール』は「イスラームの原点に立ち返ろう!」と主張した。
これを「サラフィー主義」という。「サラフ」とは「父祖」を意味する。

そんな『マナール』の思想に強く影響を受けた人物の一人に「ハサン・アルバンナー」というエジプト人がいる。
やがて彼が築き上げることになる「ムスリム同胞団」という政治団体は20世紀、さらに21世紀にまで
強烈な存在感を示し続ける。

そう、パレスティナのハマスも、イラクのISISも、元はといえば同胞団の分派だし。


話が飛び過ぎたけど、当時の汎イスラーム主義の思想家としては、ほかにクリミア半島のガスプリンスキーなんかも有名。


なお、アブデュルハミト2世はオスマン帝国の権威を世界中のムスリムたちの目に見せようと思い、
最新式の軍艦に世界一周を命じる。
ところが残念ながら、このエルトゥールル号という軍艦は地球を半周して
極東の新興国日本の沖合に差し掛かったところで、嵐に遭遇して難破してしまう。

熊野灘の波は荒い。

398: 名無しさん@おーぷん 2014/08/09(土)23:52:26 ID:JRJbFdHkR
スルタンカリフを言い出したのはそういうことなのね

今はもう否定されてるけど、一昔前までは教科書にも載るくらい認められていたんだよね

399: 2014/08/10(日)00:01:43 ID:6bwQqc9HF
>>398
まあスレは単純化して書いてるから、実際はもう少し前からスルタンカリフ制が唱えられていたようだけど、
脚光浴びたのはやっぱりアブデュルハミト2世の時代じゃないかな。

ちなみにスレではカタカナ用語をなるべく減らしたくて、オスマン帝国の支配者を基本的に
「皇帝」と書いてるけど、同時代では「パディシャー」と呼ぶことがいちばん一般的で、
他には単純に「スルタン」とか、アラビア語・ペルシア語・モンゴル語をハイブリッドした
「スルタン・シャー・ハン」、時にはローマ皇帝に由来する「カイサリ」という称号が使われることもあったらしいね。

401: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)00:13:14 ID:mMe6boPMc
そういえば、スルタン位と言ったらメフメト2世の「兄弟殺し」があったな

402: 2014/08/10(日)00:17:04 ID:6bwQqc9HF
>>401
兄弟殺しや幽閉をしている皇帝は結構いるよ。
初期のバヤズィット雷光王なんか、コソヴォの戦いの最中に父王が捕虜に刺殺されると
前線指揮中だったけどすぐに本陣に駆け戻って陣中即位を宣言し、
同じ戦場で戦っていた兄弟たちを即刻ヌッ殺して帝位を安泰ならしめたw

ただし一部の本に書いてある「オスマン帝国が兄弟殺しを制度化していた」ってのはネタだと思うけどね。

スレイマン大帝は最初から兄弟がいなかったのでラッキーだった。

404: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)00:20:57 ID:ZebivsH36
ここでエルトゥールル号が出てくるのか

405: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)01:23:26 ID:9SQieWzvu
何かイランって他の国に比べてどうにも国家統治体制が未成熟なんばっかだな

406: 2014/08/10(日)01:33:45 ID:6bwQqc9HF
>>405
うーん確かに。
と言っても、かつてアケメネス朝ペルシアやササン朝ペルシアを築き、アッバース朝全盛期や
モンゴル帝国時代に有能な文人官僚を輩出したイラン人は政治的に無能だとは思えないんだよね。
セルジューク朝以降、絶え間なく遊牧民に国内引っ掻き回されていっぱいいっぱいだったのかな。
今もイランの政治状況はゴチャゴチャしてるけど、イラン人一般の教育レベルとかは凄く高い(らしい)。

407: 2014/08/10(日)02:01:30 ID:6bwQqc9HF
19世紀の終わりが近づくころ、世界を支配する列強のなかにドイツ、イタリア、日本といった新勢力が台頭し始めた。
とくに1871年に成立したドイツ帝国はオーストリアとフランスという二大強国を破り、19世紀末ヨーロッパの政局を
自在にコントロールしてみせた。

新興のドイツ帝国は海外植民地をほとんど持たず、帝国主義の戦場では後発だった。
イスラーム世界では、この新興勢力が旧来の列強を押さえ、新しい時代を開いてくれるのではないかという期待が広まった。
オスマン帝国からは多くの青年がドイツに留学して政治や軍事を学び、ドイツの軍人や政治家たちと人脈を築いた。

ドイツもまた野心を育んでいる。
1888年、29歳でこの新興国の帝位を継承したヴィルヘルム2世は辣腕の宰相ビスマルクを疎んじ、対外膨張論者を集めだした。

「ドイツ、世界に冠たるドイツ!」

ヴィルヘルム2世は1898年、イスタンブルに来訪。
皇帝アブデュルハミト2世や陸相エンヴェル・パシャをはじめ、上下の人士に熱烈な歓迎を受けた。

オスマン帝国と誼を通じたヴィルヘルム2世は遠大な東方計画を実現に移す。
それは目の上の瘤、大英帝国が抑えるアジアの富を奪うべく、ベルリンからペルシアに至る鉄道を敷設することだった。

このときベルリンからイスタンブルまでの鉄道路線はすでに完成していた。いわゆるオリエント鉄道である。

ドイツはオスマン帝国の認可を受けて鉄路をさらに東へ延伸し、アナトリアの山間を越えてメソポタミアに抜け、
イラクのバグダードを経てペルシア湾頭のバスラとクウェートまでを結ぶことを画策した。

これによって英国が握るスエズ運河を経由することなく、直接東洋へのアクセスが可能となる。
一朝事あらば大軍を直ちにオリエントへ展開することもできよう。

アブデュルハミト2世はこの申し出を快諾した。
もちろんアブデュルハミトにも思惑はある。鉄道が完成したら適当な口実を設けてすぐに国有化するつもりだった。

加えてドイツ諜報部は中近東一帯に「カイザー・ヴィルヘルムはイスラームに改宗した」という奇妙な噂を流す。
イスラーム世界にドイツへの好感を広めれば、いずれ大英帝国統治下のムスリムたちを一斉蜂起させられるのではないか。

ヴィルヘルム2世の野望はとどまるところを知らない。

408: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)02:02:52 ID:cQ3W09oGL
ボコハラムはイスラム教徒からどう思われてるの?

409: 2014/08/10(日)02:04:45 ID:6bwQqc9HF
>>408
イスラム教徒と言っても一枚岩じゃないから地域や個人個人でいろいろ見解はあるだろうけど、
大多数のムスリムには基地外認識されているのでは。

410: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)02:07:22 ID:cQ3W09oGL
「アラーが売れといった」とかギャグなら笑えるけど、
悪魔の詩の作者みたいに死刑宣告は出さないのかね。

411: 2014/08/10(日)02:12:46 ID:6bwQqc9HF
>>410
イスラームにキリスト教のような教会組織はないから、サルマン・ラシュディの「死刑宣告」っていうのも
イランのシーア派法学者の最高権威が「あいつは殺すべき」と「法的見解」を発表しただけで、
「世界中のムスリムに対してサルマン・ラシュディの殺害を命じた」というような性格のものではないよ。

ボコ・ハラムに対してもどこかの法学者が「滅ぼすべき」とか見解発表しているのかも知れないけど
今のところそういう報道はないね。
まあ、仮にそういう見解を出したとして、実際その通りに動く人がいるかどうかは全然別問題だし。

412: 2014/08/10(日)02:31:18 ID:6bwQqc9HF
さて、ヴィルヘルム2世にロックオンされてしまった大英帝国の側だが、こちらはそろそろ足腰に衰えを感じる頃合いとなっていた。
それを象徴するのは1881年に始まるマフデイー戦争と1899年のボーア戦争での大苦戦、そしてヴィクトリア女王の崩御。
長年七つの海に君臨し、ロシア帝国とユーラシアを二分するグレートゲームを展開してきた英国も、ドイツに追い上げを食らいはじめる。


マフディー戦争というのは、スーダンでエジプトの支配への抵抗として始まったもので、スーダン人指導者のムハンマド・アフマドが
「マフディー」、つまり「救世主」を自称したことが名前の由来。

スーダンは1819年からムハンマド・アリー朝のエジプトに支配され、重税を課されていた。
加えて伝統的な奴隷貿易を禁止されたことがスーダン人の怒りに火をつけた。
奴隷貿易なんぞ無いほうがいいと思うけど。


イスラーム復興主義を標榜する武装教団で修行を積んでいたムハンマド・アフマドは、イスラーム暦の13世紀が終わろうとする1881年、
イスラーム的世紀末ムードの波に乗って突如宣言した。
「我はマフディー、終末の世に遣わされた救世主なるぞ!」と。


ムハンマド・アフマドに関する記録は敵対していたエジプトやイギリスによるものが多く、その実像はおそらく歪められている。
だから彼がどのようにして台頭したのか、確かなことはよく分からない。
いずれにせよ、彼のメッセージはスーダン人たちの心を掴み、「救世主」のもとでエジプトに対する独立戦争が始まった。

413: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)02:35:44 ID:9gfTjh0oO
怒濤の近代イスラーム世界…
同時代の日本がよく西欧列強の食い物にされなかったもんだ

この差はやはり地理的条件かな?

416: 2014/08/10(日)02:42:17 ID:6bwQqc9HF
>>413
最大の理由は、西洋列強が東ユーラシアに進出するまで時間的余裕があったことじゃないかな。
そのあいだに日本は西洋と渡り合うだけの基礎力を養い、列強を観察して学ぶことができた。

420: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)10:24:41 ID:9SQieWzvu
>>416
地理的条件だけじゃ説明できんと思うな
俺は
・日本も封建時代を経験し、リアリストである軍人(=サムライ)が支配していたため、思考回路が西洋人のそれと比較的近かった
・偶然にも「ナショナリズム」という疫病に対する耐性を持っていた、それどころか自らの結束に大いに役立てた
・朝廷と幕府、権威と権力の分離ができていたため権力体制の再構築がスムーズに出来た
これらが特に重要だと思うな
特にナショナリズムの観点でオスマン帝国と比較すると日本の恵まれぶりが半端じゃない

423: 2014/08/11(月)00:06:33 ID:2kxjvoO5i
>>420
うん、確かに。
日本は単一民族国家ではないけど、限りなく単一民族国家に近い状態になっていたし
武士階級の資質も優れていたし、そのへんの内在的な要因も凄く重要だろうね。
個々の要素だけなら他にも当てはまる国はあるだろうけど、
これほどいい条件が重なっていた国は日本だけかも知れない。


さて、今夜は少しだけ続けるよー。

420: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)10:24:41 ID:9SQieWzvu
>>416
地理的条件だけじゃ説明できんと思うな
俺は
・日本も封建時代を経験し、リアリストである軍人(=サムライ)が支配していたため、思考回路が西洋人のそれと比較的近かった
・偶然にも「ナショナリズム」という疫病に対する耐性を持っていた、それどころか自らの結束に大いに役立てた
・朝廷と幕府、権威と権力の分離ができていたため権力体制の再構築がスムーズに出来た
これらが特に重要だと思うな
特にナショナリズムの観点でオスマン帝国と比較すると日本の恵まれぶりが半端じゃない

415: 2014/08/10(日)02:36:57 ID:6bwQqc9HF
この救世主は人々の宗教的情熱を煽る才能に長けていた。
戦略的後退を預言者ムハンマドの「聖遷」(メッカで迫害されたのでメディナに逃げた例の事件)に
なぞらえて信徒の戦意を掻き立てつつ、南の砂漠の奥深くエジプト軍を誘い込む。

スーダン人たちは装備に乏しく、棒や石を武器にしていた。
エジプト軍は、まあ無理もないと言わざるを得ないけど、それを見てスーダン人を完全に舐めてかかり、
見張りも立てずに野営したところ、マフディー軍の総攻撃を受けて壊滅した。

こうしてマフディー軍は大量の武器弾薬から軍服までをゲット。
一夜にして軍の近代化が達成されたのだった。

418: 2014/08/10(日)03:04:51 ID:6bwQqc9HF
1883年、エジプトは本腰を入れてマフディー討伐を図り、再度スーダンに遠征軍を送り込む。
この軍はヨーロッパ人士官が指揮する精強部隊、のはずだったが何しろ国庫にカネがないので兵士の給料すら払われない。

マフディー軍は総勢4万に達する。彼らは救世主の下で聖戦の情熱に燃え、過酷な訓練を繰り返し、死を恐れない。
そして敵将ムハンマド・アフマドは戦術の天才だった。

意気上がらぬエジプト軍は、エル・オベイドの戦いで大敗した。


この頃、財政破綻しているエジプト政府は英国の完全統制化にある。
英国の経理官は属国エジプトにムダ金は一文の支出も認めない。
「スーダンの狂信土人ども」との戦争継続などもってのほかである。
どうせスーダン自体がろくに収益も上がらない砂漠と沼地で、ワニとラクダと遊牧民しか住んでない。
いい機会だからあんな土地捨ててしまえ、ということになった。

とはいえスーダンには未だエジプトの駐屯軍が残り、責任ある宗主国としては彼らの撤退をサポートせねばならない。
そこで大英帝国は、伝説の男を投入。「チャールズ・ゴードン」である。


今ではほとんど忘れ去られた人物だが、当時七つの海に君臨する大英帝国では知らぬ者の無い名将だった。
彼の軍歴は東洋で積まれた。アロー戦争、太平天国の乱で活躍し、清朝皇帝から勲章を授与されたこともある。
ゴードンは英国の誇りでありヒーローであったのだが、ひとつだけ弱点があった。
プライドが高すぎたのだ。


スーダンのハルツームに入ったゴードンはマフディー軍5万に包囲される。(いつの間にか1万増えてる)

彼はスーダン各地に散らばる駐留軍たちが全て撤退するまでハルツームを去ることを拒絶。
名誉の命じるところに従って自ら囮を買ってでたのか、単純にニゲルノカッコワルイと思ったのかは不明である。


で、手遅れに。

救援が派遣されるもギリギリで間に合わず、ゴードンと将兵たちはことごとくマフディー軍に虐殺されてしまった。

ヴィクトリア女王以下、大英帝国の全国民は計り知れない衝撃を受け、グラッドストーン内閣は国中から罵倒を食らって退陣。
そして英国はスーダンから完全に手を引いたのだった。

419: 2014/08/10(日)03:24:10 ID:6bwQqc9HF
それから十数年の歳月が流れた。
この間にムハンマド・アフマドが世を去り、人々は動揺した。救世主が救世する前に死んでしまうとは!

エチオピア、イタリア、ベルギーとの戦争もあり、スーダンは疲弊。
マフディー国家は何しろ周囲の全勢力に敵視されているのだ。

大英帝国はエジプトの軍と財政を再建し、機が熟したことを悟るとスーダン再征服に乗り出した。
英国軍は前回の轍は踏まない。
砂漠深く引きずり込まれることもなく、ナイル川に沿って鉄道を敷設しながら慎重に慎重に南下する。

スーダン側の兵の数は圧倒的に多いが、万全の装備を整えてきた大英帝国の敵ではない。
すでに救世主はおらず、彼が掻き立てた情熱も衰えつつあった。
1898年、ハルツーム近郊のマフディー国家の中枢、オムドゥルマンの戦いでマフディー軍は惨敗した。


なお、残党が南部スーダンに逃走したので英国軍はこれを追跡するが、翌年ナイル河畔のとある村で
予想もしなかったものを見出す。
村の小屋の上に高々と翻るフランス国旗。

「なんでこんなところにおまえ等がいんのや!」
「あんたらこそ、なんでこんなところに出てくるんや!」

あわや全面戦争になりかけるところだったが、落ち着いて状況を確認すると事態が判明した。
かねて西アフリカから大陸横断政策を進めていたフランスが、ちょうどこの時ナイル川まで達しており、
そこにたまたまマフディー残党を追跡する英国軍も登場したというわけだった。

世にいう「ファショダ事件」である。

かくのごとく列強の世界制覇は完成しつつあったが、かくのごとく大英帝国ももはや全盛の勢いはなかったのだ。


今夜はここまで。

421: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)10:59:18 ID:CDM9WbXPT

422: 名無しさん@おーぷん 2014/08/10(日)21:44:53 ID:RILF2jyse

引用元: ・1がイスラーム世界の歴史についてダラダラ解説





イスラームから見た「世界史」
タミム・アンサーリー
紀伊國屋書店
売り上げランキング: 36,777