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1: アルキビアデス
ポランニー「人間の経済」読んでます。
おもしろい。ペロポネソス戦争の背景に
アテネの生命線、穀物輸入ルートの確保の
問題があることがわかります。ただ、穀物
輸入のための輸出品は何?壺?








14: 世界@名無史さん
何と言ってもワイン(ヒック)、陶器の壷(博物館でよく見かける)。
金属製品はどうなんだろ? 金属製の武器防具の類はありそうだが。
あとは...彫刻? 船?

15: 世界@名無史さん
あと、オリーブ油とかそんなものもありそうですが。

16: 世界@名無史さん
ワイン、オリーブ油などの商品作物、陶器が主要な輸出物。

17:世界@名無史さん  
俺は、ギリシアの穀物輸入先が気になる。

黒海沿岸からボスフォラス海峡を経て輸入していたとは聞くけれど、
じゃあ、黒海沿岸で小麦を作っていたのは誰?


20: 世界@名無史さん
>>17
アテネ(だったか?)は、北アフリカから輸入してなかった?
それで、戦時中に伝染病が流行って人口が激減したとかいう
話を聞いた記憶があります。

21: 世界@名無史さん
基本的に、エジプトが地中海の穀倉地帯であることは間違いと思う。

より近いエジプトという穀倉地帯がありながら、なぜ黒海から小麦を買ったのだろう?

23: 世界@名無史さん
まあ、ギリシアの大地ではまとまった小麦を収穫することは不可能だったから、かなり
早い段階から、商品作物や加工品の輸出で、小麦等を輸入していた。

・ブドウ、ワイン
・陶器
・オリーブ、オリーブ油
が主な輸出物

24: 世界@名無史さん
後に、ローマの支配下に入ると、主な輸出物が、

・ギリシア語
・ギリシア哲学
・修辞学

などになっていく(笑

27: 世界@名無史さん
ギリシア内の覇権が、沿岸部から内陸のマケドニアに移ったのも、農地の荒廃
という理由が大きいんじゃないかな?

28: 世界@名無史さん
>>27
マケドニアからはアテネに船を造るための木材を輸出していました。
それと、パンガイオンで金が採れたのもマケドニアが豊かになった
理由の一つ。

29: 世界@名無史さん
>>28

アテネ近郊で、船を作れるだけの木材資源がなくなってしまったことの証左だね

47: 世界@名無史さん
>>27
>覇権が...マケドニアに移ったのも、農地の荒廃という理由が大きい...

フィリポス王の政治力ではなかったのですか。

50: 世界@名無史さん
>>47
たぶん、農地の荒廃により、農業生産力が低下し、それで経済力の
低下、市民の没落を招いてポリス社会が衰退していった。そして
マケドニアに敗れた、ということ何ではないかと?

31: 世界@名無史さん
少なくとも、マケドニアのフィリップ2世以降、ギリシアが都市国家ポリスとして
再度栄えたことはなかったね。

アレクサンドロスの帝国、マケドニア、ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン・ト
ルコ・・・支配者は変わっても、常に領土型国家の一部としてしか存在しえなかった。

32: 世界@名無史さん
ペロポネーソス戦争では、

・ブドウ畑やオリーブ畑の木を切り取り切り株を掘り起こす。
・小麦畑を荒らす。

といった行為が敵対する陣営間で頻繁に行われました。トゥキュディ
デースやクセノポンなどにその手の記述がしょっちゅう出てきます。

さらに、軍船や輸送船を大量建造するために木を大量に伐採したため
(たしか木材も輸入に頼らざるを得なくなっていたはずです)、保水力も
ひどく低下していたものと思われます。これが土壌の荒廃を促進したこ
とは疑問の余地がありません。加えて急峻な地形であるため、川の
流れが速く、土壌の流出も急だったのでしょう。

アテナイの場合は、さらに保有する銀山で使用される燃料としての木材も
馬鹿にはならなかったはずです。

以上のような自然的・人為的条件によってギリシアの大地は荒廃の度を
深めていったと思われます。

話は変わりますが、ペロポネーソス戦争の最後の数年間は、海上交通線の
維持を図るアテナイと、それを妨害するペロポネーソス同盟軍との海上護衛
戦だったと言っても過言ではないと思います。

アテナイは最終的にアイゴスポタモイ沖(黒海に抜けるための要地。現在の
ダーダネルス海峡北岸)の海戦で大敗北を喫し、ペロポネーソス同盟に無条
件降伏することになりました。ペロポネーソス軍は、海戦のあと、ボスポラス
海峡にあった都市であるカルケドンとビュザンティオンを押さえ、封鎖を完全
なものにしています。

33: 世界@名無史さん
>>32
>アイゴスポタモイ沖(黒海に抜けるための要地

やはり、黒海は、ギリシアにとって重要だったのね。

34: 世界@名無史さん
>>33

特にアテナイにとっては致命的だったようです。

「さて夜間パラロス船(伝令用の高速船)がアテナイに到着して
災禍(海戦の敗北)が報じられると、嘆きの声はペイライエウス
から大城壁を通って、人から人へと語り継がれ、アテナイ市外
まで達した」(クセノポン、歴史3.2.3)そうですから。

アテナイ市民は、海戦の敗北が何を意味するかを知っていたものと
思われます。

もっとも、アテナイはこのあと半年近くの攻囲に耐えているので、
それなりの食糧備蓄はされていたのでしょう。

スパルタは、アテナイに比べると、はるかに自給自足的な経済
体制だったと思うのですが、詳しい方いらっしゃいませんか?

35: 世界@名無史さん
>>34
多分そうだと思います。
スパルタは一種鎖国的な政策をしいていましたし、ペロポネソス戦争自体、
ペルシアからの資金援助がなければ最後まで遂行できなかったでしょうし。

36: 世界@名無史さん
やっぱり近代以前の文明は森林資源がネックになるんだね。

37: 世界@名無史さん
>>36

石炭を火力に使うようになるまでは、森林資源の確保は文明の維持にとって、とても
重要だったと言える。

しかも、もともと雨が少なくて日差しも強い地中海沿岸やメソポタミアはなおさら。

38: 世界@名無史さん
ペロポネソス戦争開始直後のアテネの輸入品:

キュレネからはシルピオン(食用・薬用植物)に牡牛の皮、ヘレスポントスからは
鯖に塩漬け魚、テッサリアからは塩に牛の骨、シラクサからは豚とチーズ、
エジプトからは帆にパピルス、シリアからは乳香、クレタからは糸杉、
リビアからは象牙、ロードスからは乾し葡萄と乾し無花果、エウボイアからは
梨とリンゴ、フリュギアからは奴隷、アルカディアからは傭兵、パプラゴニア
からは栗とアーモンド、フェニキアからはなつめ椰子と小麦粉、カルタゴからは
敷物と枕。

72: 例の170 ◆vBOFA0jTOg
クレタ文明では黒曜石がクレタの重要な輸出品だったとか。

オリーブやブドウは荒れ地でもよく育つから、石灰岩質のギリシアでは
最重要の作物だった。
これらは輸出品として高い商品価値があったので自然とギリシア人に
交易を志向させた。
不毛な山がちの麦作に適さないギリシアの大地こそが、海洋民族としての
ギリシア人を作り上げたのだ。

73: 世界@名無史さん
>>72
古代ギリシアでは、戦争や海賊行為も立派な経済行為だったのでせうか?

74: 例の170 ◆vBOFA0jTOg
>73
とりあえず、戦争の方は>>32が説明されてるように”経済の破壊”そのものでした。
さらにポリス間の抗争では、”相手を滅ぼす=略奪”にまで発展することは余り無
かったようなので、文明文化的な経済行為にはならなかったと。

海賊行為は、ギリシア人は交易に従事する当事者だったので、それが彼らにとって
経済行為として社会に組み込まれるのはありえなかったと思います。

77: 世界@名無史さん
>>72
>不毛な山がちの麦作に適さないギリシアの大地...

に、わざわざ海洋民でもないアカイア人やドーリア人が南下してきたのは、何が契機だったんだろ。

79: 例の170 ◆vBOFA0jTOg
>>77
普通に考えれば遊牧民の圧力なんでしょうが(ケンタウルスは、乗馬の術に長けた
遊牧民のことだとも)、彼ら自身が元は牧畜民だったかも?

84: というか
>>77
もともは、ギリシャ半島も緑に覆われ、それなりの地味もあったという
意見もあります。
主として牧畜、羊の放牧によって森林が失われ、表土が流出してしま
ったのだという推測です。

78: 世界@名無史さん
古代の貿易ってどれぐらいの規模なんですか? せいぜい裕福層の奢侈品ぐらいですよね。
まさか庶民が口にする食料まで輸入しているとは思えないのですが。

79: 例の170 ◆vBOFA0jTOg
>>78
とんでもない!アテネなんかは食料の2/3を輸入に頼っていました。
スレからちょっと外れますが、ローマではシチリア島からの安価な小麦の大量輸入の
せいで中層農民が打撃を受け、そのため、かのグラックス兄弟の改革があったとか。

80: 世界@名無史さん
奴隷は?

81: 例の170 ◆vBOFA0jTOg
>>80
アテネになどおける奴隷は、たいてい借金が原因の”債務奴隷”というやつだったみたいです。
ギリシアの黒人奴隷って、ちょっとイメージできませんもんね。
スパルタでは、征服先の住民が奴隷(ヘロット)にされたそうです。

82: 世界@名無史さん
>>81
債務奴隷ってソロンの時代に廃止されてますよ。
その後、アテネの奴隷の多くはどこからきたのかといえば、奴隷としてトラキアあたりから購入してきたものが多かったようです。

83: 例の170 ◆vBOFA0jTOg
>>82
あ、そういえば債務奴隷が増えすぎたことがソロンの改革の原因でした。
トラキア・・・北はうっかり忘れてました。
フォローありが㌧

85: 第20軍団兵
ペリクレスのころまではまだ森林は大丈夫だったようですね。
史料では艦隊を作るのにも人手と財源の確保が主たる関心事だったみたいだし、当時のおかずが海産物が主だったことを考えると。
ペロポネソス戦争後(ソクラテスの頃)にはどうだったんだろう?

87: 世界@名無史さん
トラキアっていつごろまでバルバロイ扱いだったんだろ?

88: 第20軍団兵
板のどこかに、オリンピックに参加した年を指摘して、
"この年からって"教えてくれていた人がいましたが。(残念ながら私もその年が何年か、失念しましたスマソ)

その方によると、オリンピック参加を許されても、やっぱり「対ペルシア用盾」って扱いは変わらなかったそうです。

92: 世界@名無史さん
>>88
今の民俗学や言語学の基準で同じ民族とかいうものでも、当事者の意識もそうなっているとは限らない。
先進地域のアテナイやテーベやなんかからみたら、後進地域のトラキアやマケドニアを同格と認めたく
なかったから外していたというのもあったことだろう。
あとから、文化的に追いついてきたり経済力や軍事力をつけたりして無視できない存在となってくれぱ、
同族を主張してきたときには、仲間に取り込んだ方が得策だし、仲間外れを続けられない。

もともとギリシャとは別系統の種族でも、ギリシャ文明を受容しギリシャの神様を信仰した上で、力を
つけて、同祖同族を主張すれば受け入れられている例もある。イタリア半島の侵略を進めている段階の
ローマがその例の一つだろう。ギリシャ風の神殿を建てて、自分たちの神様とギリシャの神様とを対応
づけて整理し、トロイ戦争の亡命民の子孫を自称し、民主共和制の政治体制と軍事制度を整えて、同祖
同族を主張して、すんなり、受け入れられていた。

93: 世界@名無史さん
>農地の荒廃と森林資源の枯渇...

農地の荒廃は、造船用木材の濫費と商品作物のオリーブ・葡萄の連作が原因だったらしい。
テレビ朝日 5月18日 23:30-24:00 素敵な宇宙船地球号 「神々の大地を守る」


95: Krt
うーん、そのテレビ番組を見ていないので良くわからないのだが、
農地の荒廃の原因として「造船用木材の濫費」はともかく、
「オリーブ・葡萄の連作」というのはどういう意味なんだろう?

言うまでもなくオリーブや葡萄は多年生植物で、荒れ地でもよく育つが
前者は植えてから30-50年、後者は、そこまではいかないものの、
これもかなりの年月が経たないと安定した収穫が出来ない性質を持つ。
そのかわりオリーブなど、木の寿命は数百年にも及ぶし、
葡萄だって寿命は長い、要するに両者とも極めて大器晩成型の果樹なのだ。
はっきり言ってアルカイック期・古典期のギリシャよりずっと寿命が長いわけで
「連作」もなにもあったもんじゃないと思うのだが。

98: 世界@名無史さん
>>95
葡萄は15年、オリーブは25年程度で、収量が落ちて伐られてしまうものだが

101: Krt
>>98
>葡萄は15年、オリーブは25年程度で、収量が落ちて伐られてしまうものだが

これは、果たしてどの時代の、どういう品種の果樹の話なのだろうか?
オリーブは極めて品種の多い果樹だが、地中海の在来種に関しては前記の岩片の本には
次のようなことが述べられている。(p.134f.)
「とはいえ最も注意すべきことは、樹齢が極めて長く長期にわたって収穫できるけれども
結果年齢に達するまでに長期を要することである。ボードマン(The Olive)によれば、
オリーブのの収量が一応の水準に達するのは、樹齢40年ごろからで、このころになって
漸く一本あたり50キロの収量が得られる。幼木の間は10キロの収量を得るのは稀だという」
またそれゆえ「当時の農民がオリーブを植えるのは自分の老後に備えてではなく子孫のため」
だったというのだ。
プリニウスも、今では苗園で育てた苗を移植することでずっと早く結実するようになったが
(ただこのこと自体、極めて恵まれた条件のもとでのみ可能だった)昔は、ヘシオドスが
「誰も自分が植えたオリーブの木から自分で実を採るものはいない」と述べたほど結実が
遅かった、と述べているほどなのである。(Pliny-Natural History:Loeb C.L.,Vol.IV.XV-1)

102: Krt
また現在、古今東西の食文化に関する最も権威あるリファレンスの一つ、といってよい
Davidson,Alan のThe Oxford Companion to Food: OUP: 1999 にも、オリーブの木に関して
次のように述べている箇所がある。
Deep rooted, it is slow to mature and very long-lived: olive-growing regions
can show gnarled old trees reputed to be many hundreds of years old and still
fruiting reliably. (ibid.p.551)

あと葡萄に関しても単純に、当時においても収量が落ちれば刈られた、などとは言えない。
確かにある樹齢を超すと収量は落ちていく。だがワイン用の葡萄は樹齢を重ね、深く根を
張り出してからが高品質葡萄が採れる時期なのである。Googleで「葡萄 ワイン 樹齢」
と検索してみるとわかるが、現在でも長寿の良いワインは樹齢50~100年からのものが多い。
しかもこれは十九世紀後半のフィロキセラ被害により老木が無くなった結果であって、
この害を免れ得た地域は樹齢100年を超える樹から作られたワインを誇っているのである。
 ではこれに対しギリシャ人達は、葡萄の質よりも収量の大きさをとって、頻繁に葡萄の
蔓を引き抜いて新しいのに植え替えるという「連作」をしたのだろうか?
私はこれは考え難いと思う。その理由は葡萄の質だけではなく手間と安全保障に関わる。

103: Krt
例えば>>32でも出ていたように、古代ギリシャでは戦時において麦畑や葡萄畑やオリーブ畑
の木を切り取り、切り株を掘り起こす、という行為が敵対する陣営間で頻繁に行われた、
という話がある。だが確かにトゥキュディデースやクセノポンなどにその手の記述が
しょっちゅう出てくるとはいえ、現在では、これらの破壊行為は、環境や農業生産に
長期的な悪影響を及ぼすほどの結果にはつながらなかった、という説が有力なのである。
例えば、Victor Davis Hanson はその著作、Warfare & Agriculture in Classical Greece
Rev.ed.: Univ. of California Pr.:1998:において、資料の詳細な読みと植物に関する知識
の両面から、当時の戦争で行われた「農地の破壊」は農業そのものを破壊するためではなく
むしろ相手を侮辱、挑発し、戦闘に駆り立てるための手段であったと主張する。
 なぜならオリーブや葡萄は極端に根が深かったり、横に広がったりしていて人力でこれを
効率的に根こそぎにするのは難しく、トゥキュディデスやクセノフォンが戦闘の度ごとに
(一度やられると育つのに長期間かかる)オリーブや葡萄の被害を記録しているのは、
むしろこれらがいかに頑強であり、効率的な破壊が困難なのかという証拠でもあるのだ。
逆をいえば、当時のギリシャにおける葡萄やオリーブは、こういう根が深く、破壊しにくい
老樹(?)がかなりの部分を占めていたとも言えるのである。だがこれは両刃の剣であって
所有者も容易に若木に植え替えることが出来ない状態だったことは想像に難くないだろう。

96: 世界@名無史さん
>>95
むしろ山羊とか羊によって林業が盛んになるまえに、
樹の芽が摘まれちまったのがでかいとおもう。
羊と山羊は確かに荒地でも一定の草があれば育つ。
だが注意しないと、せっかく発芽した木の芽も食べてしまう。
また樹が育たないとなると、そもそも輸入ができなくなってしまう。
船が作ることができないからね。

この場合ではオリーブと葡萄しか作ることができないという意味じゃないのかな?
船を作るとなると別の樹が必要だとおもうから。

100: Krt
>>96
まあ、実際に番組を見てないんだからどうのこうの言っても仕方がないね(苦笑)。
確かに山羊や羊の導入は文明にとってリスク要因なのだと思う。
消化器の能力もあるのだろうが、羊は口唇部の解剖学的構造により短い草でも根本から
たべることが出来るし、山羊は殆どどんな場所にも移動でき、粗剛な茎や葉をも食べる
ことができるため、放っておくと何でも食べてしまい森林破壊、環境破壊のもとになる。
たしかカスティリヤの環境破壊も羊や山羊の大規模な移牧が原因の一つだったはずである。

ただ、農学者岩片磯雄が「古代ギリシャの農業と経済」(大明堂)で書いていることを
少しアレンジして言うと、畑作には家畜由来の厩肥が必要だし羊や山羊は粗悪な飼料
でも育ちうるというメリットはあるわけで、環境に対して無配慮な放牧、移牧にさえ
注意すれば、即ち大切な樹木の若芽を食べさせてしまったり、あるいは畑に還元すべき
糞をそれ以外の場所にばらまいてしまうことさえなければ森林、畑、牧畜という三者の
バランスも取りえたらしい。要するに山羊も羊も飼い方次第だったのだろう。
それと当時においても、特にアッティカの環境破壊が顕著だったのは陶器の製造のため
燃料として大量に木材を伐採したことも原因だったそうだ。これは景徳鎮と同じだね。

104: 世界@名無史さん
なんか、農業経済中心の話になっていますが…

当時の貨幣について、よくわかんないんですが、銀がメイン
らしいけど、銅貨とかは、無かったんでしょうか??

日常の買い物とかって、全部銀でしたの??
アテーナイ人の日当が銀1ドラクマ(約4グラム)で、
これを、現代の1万円(ちょっと多いか)と考えると、
最小貨幣が4ドラクマ銀貨だから、要するに、最小貨幣単位が4万円!!
実際どういう貨幣経済だったか、どうもイメージできない。

それから、銀経済が成立するためには、よほど銀が流通してないと、
無理なわけですよね。ローマの貨幣も、最初は銀貨だったのが、
だんだん、銅貨に銀メッキしただけのものになって、
信用崩壊、商工業崩壊を招いたという。

中国だと、最初は、銅貨で(従って貨幣の価値が安定しなかった。
また、盗鋳も絶えなかった)、後に銀になるけど、これは
どこだったか(雲南??後には日本)の銀が大量に出回った結果ですよね。

古代・中世の貨幣システムって、実にわかりにくい。

105: 世界@名無史さん
>>104
わかりにくいというか、要するに貨幣経済だったのは都市部を中心とする
ごく一部の地帯だけで、それ以外では貨幣を使わない経済で成り立っていたという
だけのことでは。

106: 世界@名無史さん
ギリシアでも青銅の貨幣はあったはずですよ。

107: 第20軍団兵
アテネでは"オボロス"が銅貨の単位だったと思うのですが。

125: ACE ◆Z7a1IZ9GTI
スパルタは、リュクルゴスの改革により金貨と銀貨を廃止して,鉄貨のみとした。
鉄貨は他国の商人が嫌うため,必要な物資の交易がすすまなくなり,必要物資は
自給自足の体制が強化された。貯蓄がすすまなくなり,貧富の差が小さくなった
ため平等となった。ゆえに泥棒さえいないとされたと言われている。
最後の一文は個人的には疑問。

127: 例の170 ◆vBOFA0jTOg
>ゆえに泥棒さえいないとされたと言われている。

ラケダイモンの子供の教育で、泥棒を奨励されていたシナー。

131: 世界@名無史さん
古代ギリシャの連中が黒色火薬を発明できてたら
世界はどうなっていたんだろう?

132: 世界@名無史さん
都市国家はどんなに頑張っても、領土(勢力)が広がるにつれて、
国家体制に限界があるような。

133: ハリネズミ ◆qBLXpo7Q9Y
だれもクレロースに言及していないですね。
古代ギリシアの世襲農地を指し、もとはくじ引きで分配された土地という意味らしい。
で、ポリスの市民はこのクレロースの所有者であることが前提。よって、かってに処分
することもできなかった。都市国家(ポリス)というイメージからすると、その後の封建的
国家と較べて土地に依存してなさそうだが、結局はそうかわりがないのかもしれない。
だから、領土の拡大がすなわち国家体制の限界なのかは疑問かも?

134: 世界@名無史さん
今の日本の農村社会と同じだな。
農協の正組合員(神社の氏子、村の寄合の発言権 etc)は、村内の農地の所有者で
あることが前提。
勝手に処分できないのは、農政委員会に諮って合意を得ないと、村外の物や村内でも
非農家には土地を譲渡できないのと似ている。

幕末~明治初期の洋書の訳ではcivilやdemosの訳は「市民」ではなく「士」となっている。
これは、土地支配権=土地所有権が参政の条件であり、士分は勝手に他者へ譲渡できない
(実質的には上位の支配者の承認を要する)ことから、そう訳されているのではないか?

136: 世界@名無史さん
なるほど、古代ギリシャの国家というのは、
農地組合や森林組合のような、
土地所有者の結合体、対物的集団だったのですね。
だとすると、日本なんて場所によっては明治になっても
ギリシャ的な意味で「国」や「社会」をつくることができていませんでしたね。

164: 世界@名無史さん
アンフォラってなんであんなに座りの悪い形しているの?
船の中で転がっちゃうじゃない・・・
Amphorae


165: 世界@名無史さん
>>164
トンガリコーンみたいなヤツかい?
アレは船倉内に横にして交互に積み重ねるっぽい。
立てとくよりは楽だったそうな。
先細りになってるのは色んなとこにブッさす為。
陸揚げしたら穴掘って立てとくか横にして放置。
普通のツボ使うよりは安定してたんでしょうな。

167: 世界@名無史さん
すごく基本的な質問なんだと思いますが。
周藤芳幸さんの『物語古代ギリシア人』(光文社新書)に次のようなくだりがありました。

>私たちはつい無意識のうちに平野の方が土地が肥沃で、山のなかの方が痩せていると考えがちであるが、実は、ギリシア(少なくとも、古典期に有力な都市国家があった南ギリシア)では事情は正反対である。
>〔中略〕平野部の土地が石ころだらけで荒涼としているのに対して、丘陵地帯には肥沃な段段畑が広がっている。
>そして、現在では交通の便が悪いために放棄されているような山間部の内陸盆地でも、たんねんに地表面を観察すれば、しばしな古代にはそこが叩けとして利用されていた痕跡が残されていることに気づくだろう。


具体的には、どういう事情で引用のような風土になってるのでしょうか?

このスレでも古代ポリス文明による環境破壊の話題は何度も出てますけど。
破壊を被った基層の風土にも「平野の方が荒地」という特徴があるのだとしたら、それはどういう要因によるのでしょうか?

土壌とか、気候とか、あるいは水系の性質とか、いろいろあるのでしょうけど。どんなふうなのでしょうか??

168: アクィラ ◆0fUIPC892c
>>167
周藤氏の「孤立農場論」が学会的に受け入れられているのかは、
門外漢なので分かりません。
という前提をした上で、昔読んだ記憶によると...

農業の収穫は毎年の気候に左右されるので、
農民は、リスクコントロールをするために、
複数の穀物を栽培するという(ポリカルチャー)戦略を採ります。
この戦略を実行するためには、
それぞれの穀物に適した環境を利用する必要があるのですが、
平地では、間隔の離れた土地を複数、耕作する必要があります
他方、山間地には多様な環境が併存するので、
この戦略に都合が良いとのことだったかと。

隔靴掻痒なので、
周藤氏の論文「孤立農場論の射程」他を読んでみては、
岩波世界講座4巻に所収の筈です。

でも平地の環境については、
書いてあったかどうかは失念。
他の論文かもしれません。

169: 世界@名無史さん
古代ギリシア世界は、基本的に銀本位の貨幣経済。
アテネは産銀国なので銀決済上、ものすごく有利だった。
その上、デロス同盟でアテネ以外の諸国が軍備の代わりに銀を支払うことが多くなっていったから、
アテネが輸入の代償にばら撒いた銀が再びアテネに還流した。
アテネが軍備を担当に、同盟諸国が銀を払う「アテネ帝国」の構図がこうして成立。
一方のスパルタは、リュクルゴスの改革以降、何と金銀の貨幣を禁止していた。
アテネが金満のポリスになっていったのに対し、スパルタはポリスの原理主義を貫いたといえるんじゃないか。
金満と原理主義の戦いは、結局原理主義の勝利(ペロポンネソス戦争)。

172: アクィラ ◆0fUIPC892c
>>169
拡張主義のアテナイが、
戦略的に重要でないシチリアにまで、
手を出そうとして、
勝手に自滅した気がするのですが。

何せ、原理主義のスパルタも、
最終的にギリシアの覇権を取ったわけではないですから。
有る意味、分断作戦に成功したペルシアの勝利。
         ∴専制国家の勝利

194: 世界@名無史さん
ギリシャが地中海の北半分と黒海を支配していた同時代に、地中海の南側のかなりの
部分を支配していたフェニキア系都市群との関係はどんなものだったんだろう?

195: 世界@名無史さん
不信感は抱いてたけどそれなりに関係はあったみたい
クレタにはフェニキアの中継港が建設されてたし
ゲラやアル=ミナ、ナウクラティスといった主要植民市でも接触する機会は多かった

196: アクィラ ◆0fUIPC892c
交易相手の場合も有れば、
競争相手になる場合もある、と思います。

シチリアを巡っては、
カルタゴとの対立の局面の方が目につきますね。

197: 世界@名無史さん
ローマのシチリア属州獲得がシチリアのギリシャ系都市とフェニキア系都市との
争いにギリシャ方をローマ支援、フェニキア方をカルタゴが支援という形で派兵
介入、第三次ポエニ戦争の発端が今のカタロニアでのこれまたギリシャ系都市と
フェニキア系都市との境界争いにローマとカルタゴが介入

209: 世界@名無史さん 投稿日:2005/08/05(金) 04:34:44
   ∩___∩
   | ノ      ヽ
  /  ●   ● | 欧州統合でそのドラクマも絶滅
  |    ( _●_)  ミ
 彡、   |∪|  、`\
/ __  ヽノ /´>  )
(___)   / (_/
 |       /
 |  /\ \
 | /    )  )
 ∪    (  \
       \_)


引用元: ・古代ギリシャの経済






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