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1: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/13(火) 14:52:24
演義関連の小説・漫画作品も含めあまり語られない
夷陵の戦い~呉滅亡までを語るスレです。

呉と言うと一致団結しているイメージがあるけど
孫権時代末期から中央内部で誅殺・賜死・皆殺しの嵐だったんですね。








3: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/13(火) 16:16:34
もともと豪族の力が強かったところに、
二宮の変で孫権が引っかき回しちゃったからねぇ…。
皇族同士が疑心暗鬼状態では、豪族に対処するどころじゃないよね。

二宮事件

二 宮事件(にきゅうじけん)、あるいは二宮の変(にきゅうのへん)は、三国時代の呉における約10年間に及ぶ政治闘争の総称。孫和と孫覇の太子廃立争いであ るが、その裏に江南の貴族社会的性質を見出す向きもある。両者の父親であり、呉の皇帝であった孫権が問題の解決を先延ばしにしていたことがこの事件の一般 的な原因とされる。この事件の結果、呉の国力は大きく衰退することとなった。

裴松之の論評

袁紹・劉表は、それぞれ袁尚・ 劉琮が聡明であると考え、元々彼等に後を嗣がせようとの意思が在った。然し孫権は一度は孫和を立てながら、後に亦た孫覇を寵愛して、みすみす混乱の元を作 り、自ら一族に災いをもたらした。前2者と後者は同一ではない。袁・劉の例と比較しても、孫権の愚鈍で道理にもとる処は、より酷いものであ る。


4: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/13(火) 17:10:42
皆殺しにしても魏のは謀反がからんでるのが多いけど
呉は皇帝の意見に逆らったとかクーデター関連ばっかだな 

5: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/13(火) 21:07:38
呉の人物で一番早死にが痛かったのは、
周瑜でも呂蒙でもなく、孫登なんだよな
こいつが生きてれば、くだらん事で呉の内部が分裂する事もなく、それに準じた大量粛清もなく、孫峻、孫チンといった奸臣の台頭による国力の衰退も無かった
まあ孫権が長生きしすぎたってのもあるが
孫 登

孫 登(そん とう、209年 - 241年)は、中国三国時代の呉の皇太子。字は子高。父は孫権。

幼少の頃から聡明であった。長男として生まれたが、生母の身分が低かったため、孫権の妻の一人である徐夫人に育てられた。当初は後継者の地位も危ぶまれていたが、孫登自身が聡明で人望もあったため、後に皇太子となった。

241年、病のため33歳の若さで死去した。死ぬ直前、孫登は孫権が弟の孫和を愛していることを知り、自身も孫和を愛していたため、自分の死後、孫和を皇太子として採り立てるよう遺書を残した。宣太子と諡された。孫権は孫登の死を聞き悲しんでいたが、死後に遺書が届けられたため、ますます悲しみを募らせた。

孫登の若死は、呉の内紛(二宮事件)を招く大きな一因となってしまった。


6: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/13(火) 22:55:29
呉書でも呉主伝と十五巻だけをみても不服住民や山越の叛乱がいかに多いか
窺い知れる
こんな状態が恒常的に続いて人口密度も高くないんじゃいつまで経っても
江北で大規模で長期の軍事行動なんてとれんのだろうな

7: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/13(火) 23:48:58
呉はインフレしまくってたからな。
国としては相当不安定だったんだろう。

11: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/14(水) 00:25:04
そんな呉を死ぬまで守り抜いた陸抗は凄すぎる。

12: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/14(水) 00:25:44
しかし滅ぶわけだからかなしすぎる。

13: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/14(水) 06:28:58
呉も陸抗が歿して以降は長江のラインに沿った戦線を統轄する司令官を
置かなかったからな
おかげで晋軍の侵攻に対して大局を見極めて有機的な防衛戦を展開する事も
適わずただ各個に防戦するだけで、僅かに徹底抗戦に努めた城もあったが
それを含めても殆どは脆くも落城・降伏するばかりに
陸抗の頃より前線の兵力不足は指摘されていながら呉の首脳というか孫晧も
増強する等の手配は施さんかった様だし

14: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/14(水) 12:24:41
呉主伝の後半の鬱っぷりは異常
家臣がばたばた死んでいく状況と、孫権が徐々に狂っていく過程が淡々と書かれている
麒麟がどうとか白虎がどうとかみたいな記述が更に読む方をゲンナリさせる

15: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/14(水) 14:14:34
早死にが惜しまれる人物が多い呉にあって、孫権の長生きのありがたみの無さは異常

20: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/16(金) 08:09:06
>>15
孫権よりも長生きした呂岱のありがたみの無さは微妙

18: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/14(水) 16:17:32
淮南三叛の残りふたつがよりにもよって孫峻・孫リンがのさばる五年間の
時代に起こるという…

22: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/16(金) 13:31:23
孫登の早死にが一番キツいというのには同意。

次は朱拠かも、とも思う(賜死だけど)。
朱拠みたいなうるさ型の重鎮がいれば
諸葛恪暴走~孫家傍流の台頭は無かったかなとも思う。
でも250年代の政争のせいで滅んだわけじゃないから関係ないか。

孫登の早死を回避不可とするなら、
孫和即位が一番マシだったと思う。
孫和が継いだら結局は孫皓に行くじゃんという意見もあるが
孫和が長生きして、さらに後継を別の皇子に指名すれば問題ない。
あるいは孫皓をスパルタ教育。

30: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/24(土) 09:24:12
皇帝が早死にし過ぎて衰退した魏
皇帝が長生きし過ぎて衰退した呉

バランスが大事って事ですね

>>22
朱拠が死ななければおそらく丞相にはなれただろうから、その後の流れも変わって滅亡も遅れたかも知れんね
まあ二宮が起こらない事が大前提な訳だから結局は孫登か…

23: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/16(金) 15:14:39
孫皓はエピソードの端々を見る限り有能だったんだと思うよ。
あの暴虐ぶりが自暴自棄のなせる業だったのか、持って生まれた気性だったのか…


孫 皓

孫 皓(そん こう)は、三国時代の呉の第4代皇帝。祖父は、初代皇帝孫権。父は孫権の第3子で皇太子に立てられていたが廃された南陽王孫和。

いわゆる「暴君」であり、無理やり群臣達に飲酒を強要した上で、監視の役人を側に置き、酩酊状態でわずかでも問題のある言動があれば処罰を加えた。また後宮に何千もの女性を入侍させ、意にそぐわない宮女を殺害し、宮殿内に引き込んだ川にその死体を遺棄したという。

一方で、降伏に際して孫皓は家臣たちに書簡を送り、呉滅亡の責任を一身に負い、家臣には晋に仕官し才能を発揮するようと伝えている(『江表伝』)。元の侍中であった李仁は、孫皓の残虐な刑罰について弁明したという。また、呉の滅亡後に晋に仕えた吾彦は晋の武帝の前で、孫皓は英明であったと弁明している(『晋書』「吾彦伝」)。


44: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/18(金) 02:58:01
>>23
呉は豪族の連合政権という色合いが強い。
そういう意味では、最も「後漢の後継王朝」と言えるかもしれない。
孫家自体は張陸朱顧などの豪族内の第一人者に過ぎず、皇帝権力は比較的弱かった。
豪族たちも、国家より自家の安泰を優先する傾向にあった。


孫皓は皇帝権力の絶対化を目指したんだと思う。彼の数々のワガママは、臣下どもに皇帝のエラさを認識させるため。
ただ孫皓の時代にはそれを言語化して臣下に伝える理論がなかったのと、ちょっぴりオイタが過ぎた。


北斉末期のぐだぐだっぷりとは、全然質が異なると思う。
孫皓は(あくまで彼なりにだが)「あるべき国家の姿」を目指して孤軍奮闘していたんだと思う。
その空回りぶりは、どちらかと言えば、明末の崇禎帝に似かよう。と思う。

48: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/20(日) 20:33:02
>>44
張陸朱顧の朱と張は誰?
それと孫権の暴れっぷりを見ても皇帝権力は弱いなんてとても言えない。
群臣が反対を押し切って遼東と手を組んだり、功臣を粛清したり。

豪族じゃなくて権臣・功臣と皇帝が綱引きしたというなら、まだしも。
張昭も諸葛親子も歩シツも、地元の豪族じゃないよ。

50: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/22(火) 17:43:46
張陸朱顧というのは呉の四姓といって、呉でも最も有力だった四つの氏族のことを指すんだが

52: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/22(火) 18:08:57
>>50
呉書見聞というサイトで色々と考察されているが、
呉の四姓というのは呉郡の呉県の四姓というのが正解っぽいよ。

呉王朝で有力だったとするなら
張氏(張昭)・全氏・諸葛氏・歩氏・朱氏(朱治)・呂氏(呂範)なんかもいるし。

24: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/16(金) 16:16:50
孫権死後の呉の酷さは中国の王朝の歴史でも最悪クラスに思える
特に奸臣の暴れっぷりは北斉や劉宋と比べても遜色無いくらい酷い

27: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/17(土) 12:47:17
>>24
さすがに北斉よりは酷くないだろう

28: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/17(土) 21:38:59
北斉は唯一他国より優れていた軍事力を自ら潰したので滅びた
孫呉は何一つ魏(晋)より優れていた点が無かったのでジリ貧になって滅びた

皇帝は北斉の方が圧倒的に酷いが‥‥

31: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/24(土) 14:18:11
孫登の死因は?

32: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/10/24(土) 14:48:11
病死
せめて孫登の息子が生きてれば孫皓即位は避けれたかもね

38: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/11/13(金) 23:25:22
孫皓って
知能は高いが知性的ではない

46: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/19(土) 01:31:21
自分を擁立してくれた連中まで皆殺しにする孫皓は高緯以下のクズ

47: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/19(土) 08:25:42
でもその擁立した当事者、濮陽興と張布は即位たった三か月で、孫皓廃位を考えたんだぞ。
主も主なら臣も臣。

58: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/24(木) 19:48:41
孫皓じゃなくて孫奉が即位していれば

59: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/24(木) 20:29:09
孫皓は糞だが、孫皓を廃せなかったその他大勢も無能すぎる

60: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/24(木) 22:22:59
孫休が孫皓はだめっていってたのに

62: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/25(金) 06:10:34
孫皓も即位当時はやる気満々で、改革やら減税やらで部下や民衆の支持を得ていたんだがな
すぐに政務に飽きて化けの皮が剥がれた

67: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/25(金) 20:39:46
駱統は張温の擁護をしてるんだが、孫権は聴き入れなかったんだっけ
張温にしろ陸績にしろ、孫権は下らん理由で優秀な人材を手放しすぎ

68: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/25(金) 20:48:51
朱拠とか吾粲みたいなうるさ型が処刑されてしまっていたから
諸葛恪の暴走を誰も止められなかった。
張休・顧譚・陳表のうち一人でも生き残っていたらなぁ

69: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/25(金) 21:32:03
孫権だけでなく、それに乗っかって暴れてた奴が山ほどいたのがタチが悪い
二宮~孫チンの台頭位までの流れはマジで狂ってるぜ…

70: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/27(日) 23:01:48
http://d.hatena.ne.jp/mujin/20091227
>ときおり「二宮の変は孫権晩年の失策」という前提で語られているのを聞くと、ちょっと待ってよーと思ってしまう。
>あれは太子にたかり私党を形成した呉の四姓を初めとする重臣を粛正するために孫権が意図的に起こした事件でしょ。
>孫権は若いころから重臣の放縦を警戒してことあるごとに牽制してきてるので、その延長線上のできごとだと片付けていい。

この人は通ぶって、たまにマヌケなこと書くよなー

71: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/27(日) 23:23:07
霊帝晩年の治世でさえ皇帝集権と軍制改革の面から再評価されている現在だから、
孫権晩年や孫皓の「暴走」も類似の視点から再検討が必要になってきてはいるだろう。

しかし、息子二人を犠牲にして幼少の息子に帝位を継がせるはめになる事件を
「意図的に起こした」とするにはちょっと大きな飛躍が必要だろうね。
孫呉期の呉四姓の実力については
「呉県出身の陸機のお国自慢」>>52でアンサーだろうし。

74: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/28(月) 01:53:15
>>71
全てが孫権の意図どおりとは限らないからな
大姓の勢力を削ぐことは目論見どおりだとしても、息子を犠牲にするのまでは計算外だったのかもしれない

75: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/28(月) 01:57:44
権力と名声を持つ外戚二人を排除出来たのは計算通りだったのかも知れん。

76: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/28(月) 02:40:38
孫峻変死から呂拠と滕胤の自滅の流れを見ると、孫?って手際いいなぁとは思う
危機感があるときだけは高い能力を発揮できるタイプなのかな

78: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/28(月) 11:02:22
孫休は孫チンを排除するところまでは格好良かったが、
その後はプチ万暦帝化しちゃったのがなあ

80: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/30(水) 01:44:39
がっかり豪族連合の末路は哀れだな

81: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/31(木) 05:14:57
むじん氏のブログ、コメントついたが…

当初は「孫権がけしかけた」と言っていたのが、いつの間にか「派閥争い」になってる。
その二つは全然違うでしょ。
後宮の話にも触れてるけど、魯班の意見に左右されたのだとしたら
それこそ孫権の愚を示すことにしかならないと思うんだけど。

さらに、まだ四姓という言葉に頼って説明してるのも残念だけど

>そしてその抗争が次世代の陸抗、歩闡の内訌につながっていくわけです。

え?陸抗と歩闡の戦いって派閥争いだったの?と、これはちょっと唖然。

http://d.hatena.ne.jp/mujin/20070903/p1
過去記事では楊脩と全奇・楊竺を比較してるけど
どちらが太子になるか争った曹丕兄弟と太子が立てられた後の孫和兄弟とじゃ全然違うと思うんだけどな。

そもそも、「孫和派」言うけど、これって変なんだよ。すでに太子なんだから。
群臣が太子に取り入っても、太子を守っても、何の問題もない。
逆に、太子を蔑ろにして諸王を支持する奴が出てくる状況が狂ってるわけで。
「孫和派vs孫覇派」というフレームで眺めてる限り、それこそ「お話にならない。」

82: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/31(木) 09:08:49
>>81
直接ブログに書いてくればいいのに
むじんも喜ぶよ

それはそれとして、


>群臣が太子に取り入っても、太子を守っても、何の問題もない。

はそこまで単純とは思わないよ
なぜなら、群臣が太子に接近することは、それだけ皇帝との距離が離れることになるから
皇太子は皇帝にとって潜在的なライバルだから、もし「群臣が太子に取り入る」ような状況になってくれば、皇帝は何らかの手を打たないといけない

それと、
>どちらが太子になるか争った曹丕兄弟と太子が立てられた後の孫和兄弟とじゃ全然違うと思うんだけどな。
 
だけど、もちろん同一じゃないけど、曹丕は曹操が魏公になる前から公式に世子とされているし、副丞相の職にもあったからね
実質は太子と変わらないでしょう

83: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/31(木) 12:36:53
曹操の場合は正式に太子とするのが遅れたから
曹丕派と曹植派が対立したけど
二宮の変は孫和を太子に立てた後に起きたから
余計にダメージが大きかったのではないかと

あと孫権は陸遜に孫登の輔佐をさせてるのだから
派閥云々いうならこの時から問題にしないといけないのでは

85: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/31(木) 23:38:32
それから
>実質は太子と変わらないでしょう

問題は立太子の儀を経ているか否か。
厳格な礼教によって維持されたこの時代の国政にとって、礼制上の拘束力は極めて大きい。

86: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 00:41:07
後宮も一枚岩じゃなくて、孫和の母親の王夫人は寵愛を受けてるし
孫和を擁護した朱拠の嫁は歩氏の生んだ魯育なんだよな。

派閥争いにしても、もともとあった派閥によって孫和派と孫覇派に分かれたんじゃなく、
二宮の変によって派閥が出来上がったと見るほうが自然だと思う。
もちろん241年の北伐の論功行賞を発端とした全氏と顧氏の諍いはあったが、
陸遜と全ソウが険悪になるのは二宮の変以後のことだと陸遜伝に書いてある。

87: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 01:02:27
曹丕が五官中郎将になると賓客が雲のごとく集ったが
ヘイ原だけはそれに与しなかったという。
君主の後継ぎに人が集まるのは自然なことなんだ。
だが曹操はその後、後継ぎを迷って、二子の資質を諸将に尋ねるようになり
これによって曹植の派閥が出来上がっていく。(派閥というより支持派と言ったほうが正確か)
そしてそれは曹丕が太子になることで終息する。

二宮の変を色々と解釈する人は、口には出さないものの
「孫和派を忠臣と言っていいのか。むしろこちらこそ佞臣じゃないのか?」という意識があると思う。
だけどそれは是儀の言った「太子と王の区別をせよ」というのが正論なんだから、当たらない。
あと、「孫権は愚かじゃない。呉の弱い君主権を強化しようと頑張ったんだ」という意識もどこかにあるんだろう。
それもちょっと変で、呉の君主権が弱いと言えるのかどうか。
曹叡は宮殿造営を盛んに諌められたけど、やめなかった。
孫権は遼東との同盟を盛んに諌められたけど、やめなかった。
孫権はトータルとしては名君だし、若い頃は非常に優秀だったが、ポカも時々ある。
その時に臣下が諌めるのは当然で、諌められたから君主権が弱いなどということはあり得ない。

88: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 01:45:28
太子派に野心のある者は状況を利用しようとする者がいなかったわけではなかろうし、
孫覇派が佞臣だったと一方的に断定することはできないし、
呉志は孫和の子の孫晧が編纂を命じた呉書を引き写して書かれたとされているし
陸議らが晋に仕えているわけだから、孫和派が実態以上に「善玉」に書かれてはいるのだろう。

しかしそれでも、太子という政治的正当性を有したことは、政治の世界ではほとんど決定的な
価値を持つだろうね。

92: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 07:36:24
>>88
呉書の編纂は孫権時代の末期に始まっているから
もともと孫和(や孫覇)がよく書かれていたとは思えない
元部下の韋昭が潤色した可能性はあるけど

ただ孫和が後継者としてふさわしくない
とする記事は他の史書にもないから

89: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 02:26:51
太子派・孫覇派の顔並びを見ても、後者は佞臣が多かったと思うけどな。
前者は功臣が多く、位階も高い。
後者の楊竺だの呉安だの全寄だのは佞臣の可能性は高い。
顧承や張休が流されたのは誣告と見て不自然ではないし。


>呉志は孫和の子の孫晧が編纂を命じた呉書を引き写して書かれたとされているし

呉書については、偏見を持って見られすぎな気もする。
孫和が本紀に立てられたこともなかったようだし、三国志の全ソウ伝なども悪く書かれてはいない。


>陸議らが晋に仕えているわけだから、孫和派が実態以上に「善玉」に書かれてはいるのだろう。

三国志の編纂時期を考えても、それはないだろう。

94: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 21:07:01
どれだけ部下が一致して推薦しようとも
断固として張昭を丞相に就けなかったように
孫登が死んだ時点で孫覇を太子にしてしまっていれば
ここまで大騒ぎにはならなかっただろうけどね

95: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 21:12:18
>>94
そんなことしたら「佞臣」は孫和を皇太子にするよう働きかけるだろ

陸遜が死んでも孫覇を皇太子に立てず、孫和を廃位した時にも孫覇も自殺させてるから、孫権は孫覇をぜひとも皇太子にしたい、というわけでもなかったんだと思う

つまり孫覇派や孫権にとっては、孫和以外になることが重要であって孫覇になることは二の次だった
孫覇の能力や父の寵愛ありきの皇太子廃立じゃなくて、それ以外の要素による廃立ということだろう

97: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 21:30:46
>>95
>孫権は孫覇をぜひとも皇太子にしたい、というわけでもなかったんだと思う

その優柔不断が問題だが、それだけでなく孫権が潘夫人(孫亮母)を寵愛し始めたことも大きいだろう。


>孫覇の能力や父の寵愛ありきの皇太子廃立じゃなくて、それ以外の要素による廃立ということだろう

孫覇が父の寵愛を受けていたのは大きいだろ

98: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 21:39:28
そういえばなんで楊竺の企みが失敗して殺されるのはいいとしてなんで孫覇まで自殺させられるんだろう
寵愛してたんじゃないのか?

100: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 22:13:41
>>98
楊竺処刑は孫覇の自殺の5年くらい前だろうから
あまり関連はないんじゃないか?
もっとも楊竺の企みの話は呉録が出典で、どの程度信憑性があるのか分からないけど。

101: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 22:21:27
>>100
誤解させたようだが楊竺の企みとは讒言とか全般のつもりだった
楊竺を殺してるから孫和派が勝ったのかというとそうでもなくて朱拠とか退けられているし、
寵愛していたっていう孫覇を自殺させてる割に孫和も廃位している
この辺の展開がよく分からないんだよな、呉録を抜きに考えると

103: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 22:58:53
>>101
その呉録を信じる限り、楊竺の死は「事故」の類だろう。
孫覇の能力を賛美していながら、皇帝との密議を漏洩し、よりにもよって陸遜が孫和を擁護する上言を行うことに至ってしまった。
という罪。漏洩だけでもかなりの重罪。呉録は冤罪としているけども。

この時点で後継争いが一方に傾いたために、楊竺が処断されたわけではない。依然として係争中。
しかし、孫権の側近で孫覇を強力に押す楊竺がいなくなったために、
孫権の孫覇に対する評価が数年掛けて減少していった、というようなことはあったかもしれない。

108: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/21(木) 19:40:44
皇帝になってからは身近に取り巻きが悪すぎ孫権

110: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/02/07(日) 01:23:43
孫弘に孫峻だし・・・。
最悪なのは娘の孫魯斑だけど。

111: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/02/07(日) 15:11:43
兄貴の遺臣の影響力が薄れてからはその程度ということかな
これほど大物と小物の二面性を含んだのは珍しい

112: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/02/08(月) 15:27:22
孫権の寿命を10年ほど孫策か孫登に分けられればな

115: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/02/21(日) 22:51:43
老害になる前に孫権死んだ方が

ってのもあるんじゃね?

116: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/02/21(日) 23:13:49
呂岱も晩年は孫権と同じく老害だな
二宮の変も孫覇側に付いて混乱の一端を担いでいる
既に八十余歳なんだから権力欲持たないで隠居してろよ

117: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/02/21(日) 23:28:38
呂岱て100歳近くまで生きてたような

118: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/02/22(月) 15:39:49
161年~256年
96歳

122: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/03/08(月) 23:51:52
一回り上の呂岱に後事を託す孫権て

123: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/03/14(日) 11:06:02
現に生きてて重鎮として居座っている以上託さざるをえない

125: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/03/23(火) 12:15:23
自分も71歳というかなりの高齢にもかかわらず父親世代92歳の呂岱に後事を託すというのもなんか嫌だね

128: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/03/26(金) 20:01:08
呂岱、張昭の長命と周喩、呂蒙、魯粛の短命と両極端だな

130: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/05/08(土) 20:29:30
呉の人の短命さは過労もあるけど、
揚州特有の風土病にも原因がありそうだ、みたいな内容の本を読んだぞ

131: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/05/09(日) 01:31:59
過労説よりむしろ風土病のほうがよく聞く気がするがw

137: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/06/10(木) 18:29:07
吾粲って、二宮以外では何してたの?と疑わしくなるぐらい実績ないな
なんでこんな人に重職任せちゃったんだか

138: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/06/21(月) 11:42:25
吾粲は身分の低い家の出であるだけで
それなりに下働きで実績重ねて順調に出世している

139: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/06/21(月) 12:16:06
この時代の少府は九卿の中でも権力の中枢とは言えない職のようだ。
吾粲はむしろ宮廷に入る前の方が活躍している。
老境に入ってからその恩典で少府、太子太傅まで昇ったところで二宮の変に遭ってしまった、
ってとこだね。

140: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/06/26(土) 12:18:47
呉は結構寒門出身でも身分が低くても才能あれば上に行けそうなイメージで

142: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/06/26(土) 18:57:43
>>140
創業に関わった連中はそうだろうけど、孫権以下の世代はそうでもないような……

141: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/06/26(土) 14:12:18
丁奉や吾彦は生まれは良いのだろうか

143: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/06/26(土) 20:07:41
>>141
丁奉は寒門の出身
ごげんはしらん

144: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/06/26(土) 20:47:42
吾彦も寒門だね。「出自寒微」とあり、「小將」という武門の出身から
陸抗に抜擢を受けて太守までなった人物。

145: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/06/26(土) 21:10:04
吾彦は吾粲の縁戚じゃなかったのか・・・

146: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/06/26(土) 21:27:08
二人とも呉郡出身だけど、吾彦は呉県人で、吾粲は烏程人
吾粲も「孤微」という後ろ盾のない出身だったから、
たまたま姓が同じだけなのだろう。

まあ、と言って二人ともまったくの庶民の出とも断定できないし、
史書に書かれるほどではない遠縁だったりする可能性は
あるのかもしれないけど。

154: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/08/22(日) 05:21:36
孫皓という史上最悪の暗君が居なければ
呉は4世紀まで残れたと思う

156: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/12/11(土) 19:58:06
>>154
誰が皇帝になろうとも、どのみちアウトだろ。
敵対してた晋がでかすぎる。

155: 源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt 投稿日:2010/08/22(日) 21:24:16
まあ呉滅亡の際に自決しようとしたからまだいいか
未遂だったのが残念だが

41: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2009/12/04(金) 19:14:22
何この、語れば語るほどウツになりそうなスレ


引用元: ・【諸葛恪】三国時代の呉末期を語るスレ【孫皓】






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