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1: 日本@名無史さん 2011/05/21(土) 20:46:57.73 .net
南朝北朝








4: 日本@名無史さん 2011/05/22(日) 22:25:34.92 .net
アンサイクロペディアで南北朝時代の項目に
足利尊氏と北畠親房が天竜寺で密会して脚本を練ってた茶番劇と書かれてて爆笑したw

5: 日本@名無史さん 2011/05/24(火) 22:20:41.62 .net
南朝の公家は誰も日記付けてなかったのか?

37: 日本@名無史さん 2011/12/14(水) 20:21:14.08 .net
>>5
宗良親王が編纂した「新葉和歌集」みたいに
南朝の記録が残ってるものもあるな(日記ではないが)。
南北朝時代の一次史料、「園太暦」は北朝の公家、洞院公賢の手によるものだが、
何度も南朝との交渉役となり、かなり南朝のことが記されている。

8: 日本@名無史さん 2011/06/01(水) 21:36:42.47 .net
義教の時に編まれた『新続古今集』には、
南朝の歌合で詠まれたものも「よみ人しらず」で入っているとか。
日記はともかく、和歌資料はちゃんとチェックしていたみたいだな。

9: 日本@名無史さん 2011/06/05(日) 01:52:40.74 .net
南朝の和歌は花山院長親あたりが持ち込んだんだろう

28: 日本@名無史さん 2011/10/17(月) 19:54:02.08 .net
南北朝研究って、ほとんど前期(建武~観応)に偏ってるよな

30: 日本@名無史さん 2011/10/18(火) 00:33:42.33 .net
後亀山天皇(?~1424)
いいかげん生年確定させろや!

31: 日本@名無史さん 2011/10/18(火) 01:03:52.76 .net
たぶん1350年でいいのでは
明治神宮で見た天皇表でもそうなってた

34: 日本@名無史さん 2011/11/15(火) 21:15:00.13 .net
>>30-31
系図纂要が1347年5月11日生としているのは、南朝編年記略が出典っぽい。
この手の俗書は扱いづらいし、後世に与えた影響を考えると本当に罪深いわ。

35: 日本@名無史さん 2011/11/16(水) 13:13:37.23 .net
そもそも長慶が1343年生というのは正しいのか?
後村上16歳の時に生まれた皇子ということになるが

38: 日本@名無史さん 2011/12/14(水) 23:22:35.59 .net
>>35 
山階宮晃親王は伏見宮邦家親王が満13才の時の子だから、それ考えると十分あり得る。
北陸宮も以仁王14才の時の子だし

39: 日本@名無史さん 2011/12/21(水) 11:52:09.48 .net
>>38
生物学的に可能かどうかということは別にして
南朝の天皇・皇族たちの年齢ははっきりしないのが多いがな

長慶天皇の母親の出自も諸説あって系譜が定かでない

40: 日本@名無史さん 2011/12/22(木) 19:16:16.41 .net
長慶・後亀山の母と推定される嘉喜門院のことだね。
従来、嘉喜門院を阿野実為の女とする村田正志の説が有力だけど、
世代を考慮すると、この説がまず成立しないことは明らかなんだな。

阿野実廉(1288年生) ― 季継 ― 実為 ― 嘉喜門院 ― 長慶(1343年生)

1世代平均=13.75年になってしまう

44: 日本@名無史さん 2011/12/26(月) 21:59:53.77 .net
>>40
阿野実為は阿野廉子(後村上母)の甥で、後村上天皇の従兄弟。
後村上と同年代説があり、嘉喜門院の父とは言い難い説がある。

45: 日本@名無史さん 2011/12/28(水) 20:07:57.15 .net
阿野家は南朝一筋を貫いたイメージがあるだろうが、
実為の子の公為はさっさと北朝に行ってるんだよな。

54: 日本@名無史さん 2012/01/05(木) 00:57:59.77 .net
>>45
合一後、とっとと北朝に出仕したってこと?

55: 日本@名無史さん 2012/01/05(木) 03:49:27.77 .net
合一前のこと
補任によれば、公為は1382年に北朝で公卿に列している。
しかも元左中将とあるから、相当早くから京都にいたはず。

実為が家の存続を図って、子を京都に帰したのかも知れん

56: 日本@名無史さん 2012/01/05(木) 16:03:05.45 .net
>>55
公為は南朝での補任じゃなかったか。

59: 日本@名無史さん 2012/01/06(金) 22:32:14.04 .net
>>56
公卿補任は北朝の補任しか載せていない(正平一統時を除く)

57: 日本@名無史さん 2012/01/05(木) 17:24:15.16 .net
南朝一筋で分裂しなかったために南朝公家で唯一、合一後も生き残れた(厳密には経忠流近衛→花山院もいますが)と聞いてたんだがやっぱり分裂してたのか

46: 日本@名無史さん 2011/12/29(木) 03:34:55.33 .net
「藤氏一揆」

関白 近衛経忠

坂東管領 小山朝郷



なんかカコイイ!

藤氏一揆

1341年(興国2・暦応4)に起こった事件。東国経営に腐心する北畠親房を中心とする南朝勢力に大きな打撃を与えた。これは、「藤氏の人々一揆して」(伊勢結城文書)、つまり、藤原氏の後裔(こうえい)と称する小山・小田・結城氏らが、前関白(さきのかんぱく)近衛経忠と同盟し、北朝でも南朝でもない独自な政権である「第三王朝」を建設し、成功の暁には、経忠が天下の政権をとり、小山朝郷が坂東管領に就任するというものである。

これに対して親房は、「荒説」であるとか、「御物狂之至」とかいってしきりに否定しようとしたが、実際に朝郷や親房のもとに経忠の使僧がやってきた。しかしこの遠大な計画も実現するまでには至らなかった。[新川武紀]



47: 日本@名無史さん 2011/12/29(木) 21:44:37.25 .net
経忠は南朝では関白になってない

48: 日本@名無史さん 2011/12/30(金) 19:25:30.44 .net
構想段階で終わってしまったからね。
近衛を中心に、小山、白河ら北関東~南奥州に多い藤原氏系武士を糾合して天下の実権を掌握しようとしたもの。
或いは、南朝とも北朝とも違う、第三の勢力を経忠は志向したとも言われる。

49: 日本@名無史さん 2011/12/31(土) 16:14:02.15 .net
天皇なしで第3勢力は難しいと思う。そもそもそんな構想が本当にあったのか疑わしいよ。
小山が白河結城同様一揆を組織して中立勢力になろうとしたことを親房が
被害妄想的に拡大解釈だけしたような気がするがな。
この件で疑われた興良親王や新田義興は気の毒としか言いようがないな。

51: 日本@名無史さん 2012/01/03(火) 22:52:03.39 .net
>>49
北畠親房は興良に対しては冷淡な印象を受ける。
小山が北朝に応じて身柄を拘束されると、「軽率な振る舞いの結果だから、
いまさら惜しくもない」みたいなことを述べているとのこと。
宗良や懐良などは別としても、名前すら伝わらない皇子・孫たちのなかには
使い捨ての消耗品同然の扱いの者もいたようだし

50: 日本@名無史さん 2012/01/01(日) 20:57:24.50 .net
興良も後年何を血迷ったか、賀名生行宮焼いちゃってるけど

52: 日本@名無史さん 2012/01/03(火) 23:43:02.79 .net
宇津峰宮が来たから、興良親王はポイしたんだろ

63: 日本@名無史さん 2012/01/18(水) 21:38:22.80 .net
1365年の南朝左大臣って誰?

64: 日本@名無史さん 2012/01/20(金) 19:19:24.53 .net
南朝公卿補任だと二条冬実、
南朝編年記略だと西園寺公重だけど、
そんなはずはないわね

65: 日本@名無史さん 2012/01/23(月) 22:26:38.40 .net
皇后や関白の名前すら分からないのが南朝クオリティ

67: 日本@名無史さん 2012/01/25(水) 23:12:39.09 .net
>>65
名前すら判らない宮が何人もいるからなあ。

68: 日本@名無史さん 2012/01/26(木) 06:59:30.07 .net
>>67
室町時代には北朝であっても名前のわからない宮
(とうかそもそも親王・内親王宣下をうけず
諱が付けられなかった皇子・皇女)
は大勢いいる

70: 日本@名無史さん 2012/02/22(水) 00:50:00.44 .net
>>68 
それなんだけど、後小松の第二皇子や第一皇女、称光の第一、第二皇女が親王宣下されなかったのはなぜ?

73: 日本@名無史さん 2012/02/23(木) 13:01:05.72 .net
>>70
称光の第一皇女に関しては称光自身が自分の胤ではないと言い出して
認知を拒んだ
室町時代の天皇家は困窮して中宮も立てられない状態
かろうじて即位した皇子だけが即位と同時に親王宣下を受け
残りは皆寺行きという例も多かった

74: 日本@名無史さん 2012/02/23(木) 21:55:12.60 .net
>>73
鎌倉期から既に中宮は立てられ無くなってるな

79: 日本@名無史さん 2012/04/23(月) 08:41:40.75 .net
>>74
鎌倉時代には中宮は立っていた。
(大覚寺統は後醍醐天皇まで(即位したのは鎌倉時代)、持明院統は伏見天皇まで中宮が立っている。
後伏見天皇・光厳天皇は即位したとき若く上皇になってから正妃が入内、正妃は女院にしかなれなかった)

75: 日本@名無史さん 2012/02/24(金) 00:45:34.31 .net
でも、北朝以上に困窮していた南朝でさえ、
中宮・親王がいたじゃない。実体はともかく

76: 日本@名無史さん 2012/02/24(金) 18:25:15.42 .net
中宮が立てられ無くなったのは、困窮と言うより、社会全体で女性の地位が低下したことが
大きいと思うぞ?
だいたい中宮が立てられ無くなった頃から、女性の輩行名が見られなくなり幼名で通されるようになる。
つまり女性の相続権が制限されるようになったということ。

79: 日本@名無史さん 2012/04/23(月) 08:41:40.75 .net
>>76
やはり貴族が困窮し、摂家など大貴族の姫が入内しなくなったためだよ。
天皇は手軽な近辺に仕える女官を妾にし、妾の子が天皇になった。
官位を受けるためにつけられるのが輩行名であるため、
室町時代以降にも叙位した女性には勿論輩行名を付けてるよ。
皇女の名が幼名しか残らないということなら天皇以外の皇子の名も幼名しか残ってない。


77: 日本@名無史さん 2012/02/26(日) 18:48:16.53 .net
皇位に魅力が無くなったんだよ。複数の皇子がある時に、時期天皇を決定する要素は
長幼ではなく妃腹か否か。中宮所生の皇子であることが重要な意味を持つ。
時代が下って来ると天皇の権力が無になってしまい、長幼の順を飛び越えてまで
天皇になる利益が外戚に無かった。

平安時代の例として、村上帝の第一皇子広平親王と第二皇子憲平親王が挙げられる。
憲平親王の母は中宮藤原安子。憲平は即位して冷泉帝。

80: 日本@名無史さん 2012/04/25(水) 10:11:53.04 .net
なんで明治に南朝が正しいとされたのか
全く理解できない。
水戸黄門に従う必要ないだろうに。

82: 日本@名無史さん 2012/04/25(水) 23:38:11.77 .net
>>80
討幕運動の主導者達が南朝正統論を信じ込んでたから。
ヤツらの信仰で事実をねじ曲げちゃったんだよ。

83: 日本@名無史さん 2012/04/26(木) 10:11:23.77 .net
>>82
子供でもわかる理屈なのに、
誰も突っ込まなかったのか。

84: 日本@名無史さん 2012/04/26(木) 11:13:10.53 .net
それは、大日本史を直に批判することになるんでね
成島筑山・鹿持雅澄は両朝並立を唱えていたけど。

86: 日本@名無史さん 2012/04/26(木) 16:59:48.91 .net
>>83
理屈よりも政策が優先されたからだろ。
天皇機関説論争とか、その直前に再燃したときの南北朝正閏論争と同じく。

85: 日本@名無史さん 2012/04/26(木) 12:40:19.32 .net
楠木正成は敵のはずだが、何故だか像がある。

87: 日本@名無史さん 2012/04/27(金) 00:19:27.70 .net
いくら南朝が正統だと主張しても、
年表は北朝の記事で埋めるという現実

90: 日本@名無史さん 2012/04/27(金) 12:12:14.61 .net
>>87
そのような実態がありながら、
なぜか即位順序・即位期間に限って南朝優先で書き記す異常事態。

実態に即して考えるなら、

96 後醍醐天皇→97 光厳天皇→98 後醍醐天皇(重祚)→99 光明天皇→100 崇光天皇

→101 後村上天皇(正平一統)→102 後光厳天皇→103 後円融天皇→104 後小松天皇

南1 後醍醐天皇→南2 後村上天皇→南3 長慶天皇→南4 後亀山天皇

と書かないとおかしいんだよな。
いまだ明治期の新興宗教の影響が払拭できてない。

91: 日本@名無史さん 2012/04/27(金) 15:06:30.97 .net
もしかしたら戦前の教科書や一般向けの歴史書の系図では
昭和天皇までの天皇は南朝の子孫になってたりして。

92: 日本@名無史さん 2012/04/27(金) 16:15:05.69 .net
>>91
それはない。
だからこそ熊沢天皇みたいなのが出てくるわけで・・・

94: 日本@名無史さん 2012/04/27(金) 18:46:46.16 .net
南朝正統論というのは、
南朝から足利氏への易姓革命を考える説から発生したんじゃないか?

95: 日本@名無史さん 2012/04/27(金) 22:51:42.06 .net
>>94
それはないと思う。

可能性があるとしたら、徳川家の祖先が新田氏(新田氏支流得川氏)という看板(偽系図)との関連の方が
どちらかと言えば可能性は高いだろ。

それが逆転して、討幕運動の精神的支柱になってしまうのは皮肉と言うほかない。

114: 日本@名無史さん 2012/07/19(木) 22:03:53.96 .net
南朝、北朝の両方を認める両統並立論ってのも明治にあったらしいけど
その場合、天皇の代数はどうなるんだろ。
今上天皇が北朝の天皇も数に入れて130代目になっていたんだろうか

116: 日本@名無史さん 2012/07/20(金) 09:05:50.58 .net
>>114
南朝から数えた代数と北朝から数えた代数を併記
南朝125代・北朝128代みたいに

115: 日本@名無史さん 2012/07/20(金) 07:35:41.39 .net
質問です。
今、BSフジの「三国志three-kingdom」にはまってるんですが、「玉璽」が重要な役割を果たす物となってます。最近も漢の献帝が曹丕に上げました。
似たような物で日本では「御璽」があります。昭和天皇の仕事風景で大きなハンコをついてた写真を見たことがあるから多分それだと思う。
さて、南北朝時代。「皇室が2つある」時代と考えればだいたいあってると思うのですが、「御璽」はどっちが所有していたのでしょうか?

117: 日本@名無史さん 2012/07/20(金) 17:18:29.72 .net
>>115
中世には、ハンコをおす文化というものは廃れています。

本来の形式で言えば草案・下書きみたいな位置づけであるべき内々の文書を公文書代わりに使う感じでしょうか。

奈良時代には権力の象徴として、ときに争奪戦まで展開された「御璽」(のようなもの)は、中世にはおそらく利用されていません。

ところで、中国の玉璽は単一じゃないようですね。

118: 日本@名無史さん 2012/07/20(金) 17:40:59.01 .net
単一になるほうがおかしい

119: 日本@名無史さん 2012/07/21(土) 02:04:58.11 .net
>>118
いや、交替・変遷って意味じゃなくて、
用途によって使い分ける多種の皇帝印があったって意味で。
たしか10種類ぐらいを使い分けてたとか。

そして、それとは別に、伝国璽ってのがあったと。

125: 日本@名無史さん 2013/06/18(火) 12:25:58.71 .net
このスレみてびっくりした
南朝だと宮様ですら名前すら分からないのか・・・

なら長慶天皇に付き従って一緒に全国行脚した
家臣とか公家か何かがいても、分かるわけないね

126: 日本@名無史さん 2013/06/18(火) 19:56:56.91 .net
長慶天皇ってたしか、退位以後は消息さえ不明なんだよね 
後南朝ってって蜂起した際に担ぎ上げられる皇子にも長慶天皇の子孫はいなかったはず 



127: 日本@名無史さん 2013/06/18(火) 22:25:41.40 .net
>>126
森先生の皇子たちの南北朝によると、大乗院日記目録に
「大覚寺法皇崩ず 五十二。長慶院と号す」
という記事があるらしいね。
長慶院の院宣も残っているという話だから、退位後もなに
がしかの活動はしていたんでしょう。

137: 日本@名無史さん 2014/09/01(月) 14:18:31.46 .net
伊達氏が北朝方になったのっていつ頃だろう

138: 日本@名無史さん 2014/09/01(月) 14:57:26.20 .net
伊達行朝が死んで伊達宗遠が継いだあたり
表向きは北朝に帰順しつつ、周りの北朝勢力の国人たち戦って勢力拡大して
割と自由気ままに振る舞ってたけど

139: 日本@名無史さん 2014/09/01(月) 17:34:59.66 .net
>>138
ありがとう
周りと戦ってるのに将軍と縁戚になったりしててよく分かんなかったわ
上手いなあ

140: 日本@名無史さん 2014/09/03(水) 07:43:59.45 .net
NHKの太平記評判いいので全巻見たけど
最初の倒幕はわかる。けど入京後尊氏は将軍なのに政にノータッチ
次第に、弟と高野師直兄弟に権力やりすぎ

幕府開いたのにここまで、オセロのような動乱になったのは尊氏に責任あるわ

143: 日本@名無史さん 2014/10/06(月) 18:45:43.83 .net
>>140
正直 後醍醐様抹殺しても 誰も文句は言わなかったのに しなかったあたりは甘いかな

ただ 頼朝も北条に 権力やりすぎだし

だから家康は 頼朝と尊氏の制度は踏襲して
変わりに 永年の部下を大粛清したんだし

144: 日本@名無史さん 2014/10/06(月) 23:46:58.78 .net
>>143
頼朝の場合はしかたない、最初から直属の部下ゼロで、挙兵当初は北条の部下ぐらいしか兵がいない状態からスタートしてるんだしな

それと比べたら尊氏は甘々だ
相手は尊氏を不倶戴天の敵あつかいして、妥協の余地なしと言ってるのに、それを武力討伐せず話し合おうとか、狂気の沙汰だ

149: 日本@名無史さん 2015/06/11(木) 16:52:44.96 .net
>>140
遅レスだが、将軍の仕事は軍事であって内政じゃない
武士たちの所領争いだって仲裁の責任は天皇で将軍じゃない、ように後醍醐天皇が制度設計したから、将軍は多少意見を言えるだけ、それも自分の口じゃなくて、担当部局に部下を参加させるだけしかできない

他に何をしろと?

145: 日本@名無史さん 2014/10/13(月) 09:12:48.62 .net
尊氏は新田の軍勢が迫ってるのに出家しようとしたり一騎打ちに応じようとしたりするあたりのアバウトさと
直義を追いつめて毒殺しちゃうまでの黒さが極端


引用元: ・南北朝時代を研究するスレ




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