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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/28(土) 18:59:59 ID:kPKUGExN0
呂母の乱から天下統一まで語ってください








Han_Guangwu_Di


光武帝

光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。南陽蔡陽の人。王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。

「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上で唯一、一度滅亡した王朝の復興を旗印としてこれに成功した君主である。



6: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/29(日) 11:15:14 ID:3brh4kkB0
光武二十八将って誰がいたっけ?
鄧禹、馮異、岑彭、呉漢…
馬援は入ってなかった希ガス

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/29(日) 11:54:56 ID:Ys3lDyyvO
携帯からなので一部使えない漢字があるので申し訳無いけども
雲台二十八将は順位ごとに挙げて行くと

トウ禹、呉漢、賈復、耿エン、寇恂、岑彭、馮異、朱祐、祭遵、景丹、
蓋延、銚期、耿純、藏宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂
傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、万修、ヒトウ、劉植の二十八人です
さらにこれに王常、李通、竇融、卓茂の四人を加えて三十二将とすることもあります

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/01(水) 00:22:40 ID:Pki4I+tpO
光武帝は地味だけど中国史上の中でも屈指の名君だね

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/01(水) 20:46:46 ID:v057zx5z0
禍の芽をたくさん残していったけどね。

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/02(木) 14:56:40 ID:YS7sdrJHO
>>9
禍の芽とは例えばどんなもの?
劉秀は歴代創業の皇帝の中では後世に禍根を残さなかった方だと思うけどね

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/02(木) 15:51:08 ID:io3NFqnX0
>>10
粛清を嫌ったために、豪族が力を保持したままで後年の動乱につながったとかはいわれている
ただ、これは全てのことは長短が表裏一体というクチで、なら粛清しまくればよかったのか?というとノーだな

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/02(木) 16:13:59 ID:nrXcAcAA0
功臣の粛清を行わずに、後にそれら豪族が外戚となった事と
死刑囚を一律、死一等を減じて宦官にした事が非難されてるが
本人としては善政のつもりだったのがな。

後、子孫が短命が多くて、それで皇帝権が著しく損なわれたのもあるが
これを光武帝のせいにするのは酷だ。

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/02(木) 16:22:07 ID:+5mbtggQ0
光武帝にまつわる諺とか慣用句でいろいろ残ってるよね
向うところ敵なし、とか矍鑠とか烏合の衆とか
曹操も光武帝の行為(有力な敵を倒した時、内通文書があるかもしれない文箱を見ずに焼き払った)を真似ている

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/02(木) 22:15:10 ID:Y098VP7W0
隴を得て蜀を望む

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/15(水) 00:53:53 ID:T4ruAg3pO
朝飯前の語源ってやはり賈復の故事なのかな?
参考いつか書きたい『三国志』  11) 漢中王の七光、朝飯前の賈復


42: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/16(木) 19:45:58 ID:XfNdpy+10
「烏合の衆」は
始めて使った人    酈食其
現在の意味で使った人 邳彤
それを広めた人    耿弇

ということなのかな?

16: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/02(木) 22:37:07 ID:i5NbPt+/0
前漢が外戚に乗っ取られて滅亡したため、外戚の専横には
相当に苦慮したはずだよ。その代わりに用いた宦官が問題
だったわけだが。

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/03(金) 00:05:46 ID:eo4CPdb8O
光武帝は統一後、功臣達の軍権を奪い重要な役職も与えないようにして豪族の影響力をできる限り排除しようとしてるけどね

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/03(金) 00:06:49 ID:0aTQ9DxL0
節度使を無力化した趙匡胤みたいなものか。

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/03(金) 00:34:37 ID:rHDi+Vh10
後漢は能力主義ではなく、人物重視で官僚を採用したのがダメだったとか。

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/04(土) 22:03:30 ID:CfrBlHat0
たとえ能力があっても権力者の顔色をうかがい簒奪に対し抵抗しない人物より、
能力は平凡でも人格的に優れ気骨のある人物が官僚ならば王朝に尽くしてくれる
と考えたんだろう。
しかし官僚登用の基準で親孝行を重視したため、猫も杓子も孝行息子を装うよう
になり結局似非人格者が官僚になる例が多かった。
幼帝が続いたので建国期の方針がそのまま続いたのがいけなかったんだろうな。

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/08(水) 23:58:25 ID:2oZUK+PUO
一般的に後漢朝は、皇帝権が弱く豪族連合政権としての性格が強かったと思われがちだが
章帝期まではかなり豪族の力を押さえ込むことが出来ていた。
まあこれは豪族の側も中央政府に対してかなり遠慮してたってこともあるんだろうけど。やはり章帝以降長命の皇帝が出現しなかったのが惜しまれる。

25: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/09(木) 14:09:00 ID:rV22lpDs0
小説十八史略だと、初期は聡明な皇后が続いてて外戚に専横させなかったから良かったとしている

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/10(金) 04:37:05 ID:jedoNW/Q0
それも一因だろう
それに後漢の衰退は外戚の専横に始まるから
対比でそう見えるってのもあるか

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/10(金) 07:04:58 ID:xIahw+RG0
後漢は幼少で即位したうえ短命な皇帝が多かったのに王朝の寿命は長いね。
よほど基礎がしっかりしていたのかそれとも中級クラスの官僚はまじめだったのか。
前漢はあっさり新に乗っ取られた印象があるのに、後漢は実際は魏であっても
一応続いてはいたね。
そういえば献帝は長命だったね、本人は早く死にたいとか思っていたかもしれないけど。

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/11(土) 22:20:44 ID:K2olZbxQ0
後漢皇帝の死亡年齢
光武帝 63歳(一位) 明帝 48歳(三位) 章帝 33歳 和帝 27歳 殤帝 1歳 

安帝 32歳 順帝 30歳 沖帝 3歳 質帝 9歳(毒殺) 桓帝 36歳(四位) 

霊帝 34歳(五位) 少帝 15歳(毒殺) 献帝 54歳(二位) 

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/11(土) 23:14:30 ID:x3eLmSkQ0
光武帝が結局一番の長寿か

32: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/11(土) 23:32:43 ID:vdUOFeEe0
在位期間で計ると献帝の方が長そうだな。

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/11(土) 23:51:03 ID:K2olZbxQ0
東漢皇帝の在位期間の長さ
光武帝33年(第一位) 明帝18年 章帝13年 和帝17年
殤帝1年 安帝19年 順帝19年 沖帝1年 質帝1年
桓帝21年(第四位) 霊帝22年(第三位) 少帝1年 献帝32年(第二位)

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/13(月) 04:11:53 ID:aAMTbK+b0
光武28将ってかっこいいな、どっかのサイトで説明してたよ
中国の星座28宿に当て嵌めて28人だってよ

{東方蒼竜7宿}-角宿、亢宿、てい(低から人偏を引いた字)宿、房宿、心宿、尾宿、其(+竹冠)宿

{北方玄武7宿}-斗宿、牛宿、女宿、虚宿、危宿、室宿、壁宿

{西方白虎7宿}-奎宿、螻(から虫偏を除く)宿、胃宿、昴宿、畢宿、觜宿、参宿

{南方朱雀7宿}-井宿、鬼宿、柳宿、星宿、張宿、翼宿、診(言偏じゃなくて車偏)宿

本当は凡庸な人間もいるんだろうな

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/13(月) 09:25:04 ID:AKj75wogO
雲台二十八将と言ってもピンからキリまでいる。
ほんと少ししか記述がないやつもいるし。

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/13(月) 23:20:12 ID:FJ8E+6/D0
鄧禹みたいにどこがすごいのかわからんのが首席だしね。
馮異や耿弇のほうが功があるのになんでだろ?。


鄧 禹

鄧 禹(とう う、2年 - 58年)は後漢の武将。字は仲華 (ちゅうか)、南陽新野(河南省南陽市新野県)の人(『後漢書』列伝6・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の筆頭に序せられる。

劉秀は部将の人選を鄧禹に諮ることが多く、彼に推挙された者(賈復、銚期、呉漢、寇恂)はみな有能であり、劉秀は鄧禹に人を見る目があるとした。また劉秀が鄧禹に関中攻めの別働隊の指揮を任せるにあたり、その沈着で度量の大きいことを理由とした。大司徒を拝命した際の劉秀の詔に「朕とともに帷幄で謀を巡らし、勝利を千里に決す」とあることから、鄧禹は漢初の張良に擬せられたとみられる。


39: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/14(火) 01:23:02 ID:sczrkyRy0
>>37
まあ劉秀の学生時代からの親友だから。

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/14(火) 00:33:46 ID:PZU+Kc9zO
確かにトウ禹って何が凄いのかよく分からないとこがあるね。
正直名将とは言い難いし、名軍師かというとなんか違和感あるし。
じゃあ彼が貢献した一番の功績は何かというとやはり人材推挙だと思う。
呉漢、寇恂、賈復、銚期等彼が見出だした人物はいずれも後に光武帝にとって欠かすことの出来ない名将となっており、
トウ禹の人物鑑識眼が非常に確かなものだったことを証明してる。

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/18(土) 23:59:29 ID:Ujv9SlfE0
この時代光武帝以外で目立つのは王莽と馬援ぐらいだね。
少し後だが班兄弟もいたか。

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/19(日) 01:30:40 ID:Ki586nPRO
光武帝が目立ち過ぎて他の人物が霞んじゃうんだよね
更始帝とかカイゴウ、公孫述はそこそこ有名な方かもしれない

45: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/19(日) 11:10:43 ID:VMqaZFwA0
だからあんまり人気ないのかなこの時代。
調べると結構おもしろいのに。

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/19(日) 11:21:46 ID:0DIPoqbK0
それもあるけど英雄らしくない英雄である光武帝は
小説の主人公としては書きづらい存在だからメジャーになれないんだろう。
駄洒落好きの光武帝は歴史小説よりラノベ向きだし、ラノベで仮に出ても
変な話になるだろうしね。

47: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/19(日) 11:29:48 ID:+Bl/h7Mh0
皇帝になっても毎日政治に熱心に取り組んで苦労しまくりの劉秀
見かねてみんなが休んでと頼んだら
「私は仕事を楽しんでいるのさ(意訳)」と答えて平然としていた
やっぱり農民的だよな、業を楽しむとか

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/19(日) 11:36:26 ID:0DIPoqbK0
劉秀っていかなるときも緊張感のない人間のような印象を受けるな。
なんか綿のような柔らかさの持ち主というか、その言葉も生き方も。

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/19(日) 12:25:27 ID:/m0nm0ym0
目立つ人物が光武帝の配下に集中しまくってるのも地味な要員かも知れない

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/19(日) 12:38:36 ID:0DIPoqbK0
また相手側の目立ちそうな連中が簡単にやられてるからよけいにね。
(厳尤とか延岑とか。)

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/22(水) 20:57:49 ID:lwp9gOS/O
延岑はかなり根性あるけどね
何度敗れても挫ける事無く反光武帝の姿勢を最後まで貫き通した
赤眉やトウ禹・呉漢等の名将を破ったこともある

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/22(水) 21:02:47 ID:Ih3aQjV20
王朗って詐欺師みたいな印象だけど意外と有能かも。
劉秀の首に十万戸の価値つけてるし、時代が違うけど項羽の十倍。
あと劉秀一行が昆陽の戦友任光のいる信都に向かわずあちこちうろうろしていたのは、
王朗が劉秀は必ず信都に向かうと予想して網を張っていたためかもしれない。

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/22(水) 21:51:08 ID:lYP8weru0
この時期を舞台に、三国演義みたいな物語って作れるかな。

54: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/22(水) 22:12:27 ID:Ih3aQjV20
天下分け目の戦いがないから難しいだろ
昆陽は見せ場だけど天下わ賭けた戦いじゃないし、
宜陽は赤眉ガ戦わず下ったから完勝だけど戦いじゃないし
公孫述と隗ゴウが連合して長安あたりで戦いが起これば最終決戦になっていたけど・・・


昆陽の戦い

昆陽の戦い(こんようのたたかい、中国語:昆陽之戰)は、中国の新代の地皇4年(西暦23年、または更始1年)昆陽(豫州頴川郡。現:河南省平頂山市)における新軍と緑林軍との間の戦いである。

新は、地皇4年(23年)3月、劉兄弟ら更始軍を討伐するために、大司空王邑、大司徒王尋が100万と号した兵(実数は40万程度とされる)を率いて出陣した。対する劉秀軍は数千の兵しかなく、成国上公王鳳、廷尉大将軍王常ら他の更始軍と共に、いったん昆陽城に逃げ込んだ。それでも城内には、8千から9千の兵しかなかった。この危地に劉秀は周囲から策を委ねられると、王鳳・王常に昆陽城の守備を任せ、驃騎大将軍宋佻、五威将軍李軼ら13騎で城外へ脱出し、郾・定陵で兵を集めた。

一方、新の陣営では、荘尤が、劉縯を討ち取ることが重要であるとして宛への進軍を進言したが、王邑らは聞かず、まず昆陽を包囲した。

昆陽攻略に梃子摺っている間に、5月末に宛は劉縯により陥落し、さらに6月、劉秀が数千の援軍を引き連れて昆陽へ戻り、劉秀自ら歩兵・騎兵1千人余りを率いて、新の大軍の陣営から4,5里のところまで進軍してきた。王邑・王尋はこれを甘く見て、自ら1万人余りの軍を率いると、味方の軍勢に軽挙妄動を禁じた上で単独で劉秀軍に挑みかかった。しかし劉秀の果敢な戦いぶりの前に、王邑・王尋の軍は撃破されてしまう。さらに劉秀は、宛が落ちたことを知らずに偽って「(劉縯らの)宛からの援軍が到着した」との知らせを昆陽に届けさせ、城内の士気を高めさせるとともに、王邑らを動揺させようと謀る。

そして劉秀は、決死隊3千を率い、昆陽城西の川を渡って、新の陣営の中核へ突撃した。新軍は大軍ゆえにかえって対応できず、ここで王尋は戦死した。そこへ城内の漢軍も劉秀軍に呼応して出撃したため、挟撃された新軍は大混乱に陥り、王邑は指揮を放棄して逃走した。また、折からの強風豪雨に巻き込まれて、新軍は完全に崩壊・散乱し、王邑はわずか数千の兵で洛陽へたどり着いている。

昆陽の戦いでの結果は、当時の中国に於けるパワーバランスを一変させ、同じ年の内に更始軍の攻撃を受けて、王莽は殺害されて新は建国から僅か15年で滅亡することとなった。



55: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/22(水) 23:13:04 ID:lwp9gOS/O
カイゴウがもう少し早い段階ではっきりと反光武の方針を取ってたらねぇ…
光武帝との戦いでは諸戦に呉漢や耿エン等を退ける等なかなか光武帝を苦しめていただけに
優柔不断な態度がなんとも悔やまれる

56: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/22(水) 23:22:04 ID:Ih3aQjV20
まあ隗ゴウは天下とる野心なかったしね
問題は公孫述、皇帝名乗っていながら蜀に引き篭って・・・

公孫 述

公孫 述(こうそん じゅつ)は、扶風茂陵の人。新末後漢初に四川(巴蜀)に地方王朝「成」(成家とも)を建てた。

赤眉の乱の混乱の中、更始帝が立つと漢中から四川にかけて、宗成と王岑が漢軍の将を称して挙兵した。当初、公孫述は成都に招くも、掠奪を行う賊兵と知ると、公孫述はこれを討たんものと県内の豪傑を募って、自分は輔漢将軍・蜀郡太守兼益州牧の印綬を預けられたと称し、宗成らを討って、この地に割拠する。

更始2年(24年)秋、長安の更始帝(劉玄)は巴蜀の地を平定せんと李宝・張忠ら軍を派遣するも、公孫述は弟公孫恢を遣って綿竹で撃退した。建武元年(25年)には蜀王を号し、国号を「成家」とした(王朝名は成都を首都としたことによる)。また年号を建てて龍興元年とした。


57: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/23(木) 10:48:42 ID:fuUi1iovO
公孫述もそうだけど、基本的に蜀に基盤を置いた政権は専守防衛に徹する事が多くてあまり外に撃って出ようとしない
守り易い地形ではあるけれど逆に言えば外に攻めて行きづらい
そう考えると毎年の如く北伐を敢行していた蜀漢は特異な存在だと思う

62: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/23(木) 20:14:26 ID:AS8l8Mp50
蜀の土着勢力にしてみれば、治安維持さえできればどんな勢力でも
かまわないって考えなんだろう。だから外征に積極的に協力しない。
外から来た政権は自分達を守る警察力と考えている節がある。

63: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/23(木) 22:47:59 ID:uT7wtS330
独立の気風はあんまりなかったのかな?

64: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/23(木) 22:57:47 ID:fuUi1iovO
少なくとも公孫述は独立しようとする意思は持ってたよ
実際独自の国号を定めたり貨幣を発行したりしてる

66: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/23(木) 23:25:21 ID:AS8l8Mp50
当時の豪族にとって最も重要なことは自分達一族の財産を守ること。
そのため多くの豪族が武装して自衛し、「真主」が天下を治めるのを待った。
特に蜀のように比較的平和な土地ではその傾向が強いと思う。
自分達の損になる事はしたくないから、公孫述が外征を望んでも反対する。
蜀漢と異なり公孫述には、それら豪族を抑えるだけの軍事力(自分の軍隊)
がなかったんじゃないか。その軍隊をつくっているうちに滅亡したのでは。

69: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/26(日) 05:39:32 ID:qKCgO7DbO
光武帝って二人の兄貴に対して、顕彰するような諡号とか贈ってますか?

孫権と孫策の関係において前例として影響がないのか気になりましたんで。

70: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/26(日) 11:33:18 ID:ajltY8zY0
劉エンは斉王に劉仲は魯王に封じられています。諡号はエンは武王、仲は哀王です。
仲には子供がいないので名前だけですが、斉王家はエンの子孫が代々受け継いでいます。

71: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/26(日) 13:47:07 ID:hdTBs7lO0
>>70
少し違う。劉縯には章・興という子供がいたので、建武二年に劉章を太原王
として劉縯を継がせ、劉興を魯王として劉仲を継がせる。
建武十一年に、劉章を斉王に遷し、十五年に劉縯を斉武王に諡し、劉仲を魯
哀王に諡す。
(蛇足であるが、少しややこしいのは途中、古に王に封じるは無しと、王を
全て侯に替えることがあり、その後、劉氏の侯を再び王に替えている。その
侯時代が紛らわしいので、ここでは省いて全て王とした)

72: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/26(日) 14:21:56 ID:qKCgO7DbO
なるほど、単純に劉兄弟と孫兄弟を一緒には出来ませんが、王号は贈って子孫に継がせてたわけですね。

ところで、塚本青史の小説では劉秀と兄達の仲が悪く書かれていて意外な感じがしたのですが、劉秀の兄弟関係は悪かったんですかね。

73: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/26(日) 16:31:11 ID:68ZKo3dL0
兄弟仲は良かったと思う。
兄が死んだ後、涙を流して馮異に諌められているし。

74: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/27(月) 23:55:56 ID:OE/Lc3tCO
ただあんまり生前仲が良かったようなエピソードが無いんだよねぇ…
性格も全然違うし

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/28(火) 00:12:23 ID:BwSjLbX30
特にエピソードを残すようなこともない
普通の兄弟だったんじゃない?

76: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/28(火) 08:26:22 ID:iRsa70g60
妹とは仲良かったんじゃない?
逃げる時わざわざ一頭の馬に乗せて一緒に逃げてる
劉邦なら息子でも蹴落とした場面だ

77: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/28(火) 20:37:03 ID:UL6SOU4/0
妹の名前(伯姫)って姉達の名前(黄・元)とくらべると浮いてるよな。
兄弟姉妹とも母親同じだっけ?。

78: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/29(水) 00:15:22 ID:is5Ss6W10
>>77
そうだよ。
劉欽(父・南頓君)、樊嫺都(母・樊重の娘)
後漢書・北海靖王興伝に見える

79: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/29(水) 00:36:51 ID:18jojZQb0
劉秀の家族は三男三女。男は縯、仲、秀、女は黄、元、伯姫の順。
劉秀から見て、黄、元は姉、伯姫は妹。ここまでは良い。
では、縯と黄ではどっちが年上だろうか?
誰か分かる史料とか誰か知ってる?
というのは、縯、仲、黄、元、秀、伯姫の順だと、劉縯は劉秀の4つ
以上年上で、劉秀にとって十分目上の落ち着いた兄という感じがする。
もし、黄、元、縯、仲、秀、伯姫の順だと、2つ、少し年長なだけな
兄ということになるかも知れないから。

80: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/29(水) 08:26:18 ID:CBFmcldw0
長女・劉黄、次女・劉元、長男・劉糸寅、次男・劉仲、三男・劉秀、末女・劉伯姫
とあるところではなってるね

81: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/29(水) 22:10:52 ID:cr1MbnGy0
劉黄・湖陽公主、劉元・新野公主、劉伯姫・寧平公主になってるけど、
小長安で劉元と一緒に死んだ彼女の娘たちも公主になったの?

82: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/29(水) 23:33:51 ID:QbnNdMNI0
>>81
公主が嫁ぎ先で生んだ娘が公主になるということになる。
これはありえない。元の子は房子侯鄧晨の娘、それだけ。

83: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/29(水) 23:54:35 ID:ey5SslPaO
湖陽公主からの結婚の申し出を「糟糠の妻は堂より下さず」と言って断ったのは誰だったっけ?

84: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/30(木) 00:34:35 ID:PCXTx78v0
宋弘の妻の話?

85: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/30(木) 08:36:13 ID:NYIq79nX0
そうだね

89: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/30(木) 23:38:43 ID:DdmkQtlU0
湖陽公主(劉黄)が夫である騎都尉胡珍を亡くして、劉秀が湖陽公主の意中の人
が誰かを探らせれば、宋弘らしいので、公主を屏風の後ろに隠して、宋弘を呼
んで「裕福となれば妻を替えると言うのは人情かのう」と尋ねた。
で、宋弘、件の名言を吐く。その結果、光武帝は「駄目だった」と公主に言っ
た。

この話、続きが無くもない。寇恂が汝南太守であったころ(建武三年から七年)、
孝簾に挙げられて尚書侍郎となった周嘉の、王莽末の頃の太守を守った逸話を
聞いて、「これは長者だ」と、公主を娶らせようとした。しかし、周嘉は病気
が重いのでと断った。
 公主としか書かれていないが、この年代で対象となるのは湖陽公主しかいな
い。よって光武帝は、湖陽公主の婿探しを続けていたと分かる。

90: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/30(木) 23:48:36 ID:SalJAk9+O
>>89
湖陽公主ってよっぽど醜女だったのかな
それにしても劉秀は結構シスコンっぽいよね

91: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/01(金) 00:16:27 ID:LSn8paIk0
>>90
湖陽公主の出てくる逸話には、白昼、奴隷が人を殺したが、それを主人である湖陽公主
が匿ったというものがあり(酷吏列伝の「強項の令」董宣伝、(蔡茂伝にも同じことが記載))、
権威を笠に着る性格のようです。
夫がいなくて、暇だから都度都度光武帝に会いに来て、光武帝も持て余し気味だったの
かも。

86: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/30(木) 11:31:46 ID:SalJAk9+O
宋弘だけに糟糠の妻という訳か

87: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2006/11/30(木) 23:09:19 ID:EKe9v2/40
オチが・・・

88: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/30(木) 23:31:49 ID:SalJAk9+O
ごめん…

引用元: ・【王莽】新~後漢初【光武帝】





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