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1: 日本@名無史さん 投稿日:2006/03/11(土) 19:59:35
大坂の陣で豊臣方として奮戦するも、敗北し捕らえられ引き回しのうえ斬首。
息子5人全員も皆殺しにされた悲劇の武将・長曽我部盛親について語ろう。








3: 日本@名無史さん 投稿日:2006/03/11(土) 20:02:16
自分の無能さで改易されたクズ

7: 日本@名無史さん 投稿日:2006/03/16(木) 23:56:49
藤堂高虎に圧勝したのは、さすがだ。

8: 日本@名無史さん 投稿日:2006/03/17(金) 00:06:34
どう見ても腑抜け。

中国の覇者・毛利も九州の覇者・島津も
関が原で西方についたというのは一緒なんだが、
こいつだけむざむざ改易されてやがる。

10: 日本@名無史さん 投稿日:2006/03/17(金) 01:10:37
>>8
長曽我部が改易になったのは関ヶ原ではなく
津野孫次郎を殺害した理由によるものだよ

9: 日本@名無史さん 投稿日:2006/03/17(金) 00:14:07
毛利も改易されたろ。
120万石から30万石に大減封。

13: 日本@名無史さん 投稿日:2006/03/18(土) 20:50:04
烏帽子親がどうして増田になったのだろう?
信親は信長だったし、それなりの大名は秀吉や家康がなっているに、奉行
では明らかに格下だと思うのでつが

19: 日本@名無史さん 投稿日:2006/04/28(金) 13:17:48
>>13
長男じゃないから。

おまけに、「長宗我部はひとつ格下」的なところがあった。
つまり、名目上一条家の陪臣扱い。官位も抑え気味。
鍋島とかと一緒。

14: 日本@名無史さん 投稿日:2006/03/18(土) 22:16:54
秀吉が死後のことを考えたからじゃない?

蛇足。
信親の烏帽子親をやった頃の信長って、
増田より格下だと思うが・・・

25: 日本@名無史さん 投稿日:2006/05/13(土) 00:08:33
盛親って有能だったの?

37: 日本@名無史さん 投稿日:2006/08/05(土) 21:16:22
>>25
遅咲きの上、親父殿の猫可愛がりで自立遅し、政治的手腕無し!

28: 日本@名無史さん 投稿日:2006/06/16(金) 21:05:02
ちょうそかべって苗字が珍しいな。
日本人というより鮮卑とか匈奴、西夏、女真人みたいな名前。
由来はなんだろう

29: 日本@名無史さん 投稿日:2006/06/17(土) 00:50:01
元は曽我部を名乗っていて土佐に来たとき既に別の曽我部氏がいたので
それぞれ領地の名をとって長曽我部と香曽我部と改めたらしい。
それ以前のことはよく分からないが蘇我氏の流れを受けるとか、始皇帝の流れをくむとも言われている。

32: 日本@名無史さん 投稿日:2006/06/29(木) 20:33:04
長岡郡の曽我部が長曽我部、香我美群の曽我部が香曽我部
四国には曽我部姓は多い

34: 日本@名無史さん 投稿日:2006/07/08(土) 22:27:41
「曽」でなくて「宗」じゃなかったか?

35: 日本@名無史さん 投稿日:2006/07/08(土) 23:11:49
寺子屋ヽ(`Д´)ノ

38: 日本@名無史さん 投稿日:2006/08/05(土) 21:25:25
寺子屋で子供に習字を教えていたのって
この人だったっけ。
変な野心を起こさなければ市井の人として一生を終えたんだろうなあ。

36: 日本@名無史さん 投稿日:2006/07/20(木) 01:08:57
盛親の墓とか大坂の陣での陣跡なりなにか残されたりするものある?

43: 日本@名無史さん 投稿日:2006/10/20(金) 09:32:18
本当の読みはちょうすがめ。

墓は京都にある。

先斗町に斬首された場所がある。

45: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/16(木) 01:47:13
本当は関が原では東軍に味方するつもりだったらしいが
家康への使者が三成方の兵に見つかり土佐弁でばれてしまって
役目を果たせずしかたなく西軍について何もしないで
負けてしまった。

46: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/16(木) 01:54:16
何でか分からないけど俺の中で盛親って「残虐非道」ってイメージがある
なんでだろ?

47: 日本@名無史さん 投稿日:2006/12/12(火) 08:38:23
残虐非道は『土佐人は排他的』なイメージから作り上げてしまったもの。
一領具足をいいように使っていたからあれでは話し合いも通用しない、
力ずくでやるやられるからきているのではないかな。実際、『草木も生えぬ~』
と称され後々の高知の発展に悪名残したし、産業、経済の低迷は本州からの
有力な企業が進出するの躊躇したから(一豊のした苦労は味わいたく無いとね)

48: 日本@名無史さん 投稿日:2006/12/12(火) 09:15:32
もし信親が生きていたら歴史も変わっていただろう

50: 日本@名無史さん 投稿日:2007/01/24(水) 13:01:18
大阪城では大将だよね。
唯一の大大名。

52: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/26(月) 06:29:09
司馬遼さんの「戦雲の夢」読むとちょっと好きになっちゃうな。
あくまで司馬史観だけど。

53: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/26(月) 17:20:17
現代でチョウソカベ氏の末裔っているの?

54: 日本@名無史さん 投稿日:2007/02/26(月) 22:46:47
盛親の兄(元親の次男)の島親益の子孫が長曽我部に改姓して残ってるという話を聞いたことがある
それとの関連は不明だが、長曽我部姓の知人ならいるよ

56: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/13(火) 20:02:24
関ヶ原では6000の兵を持って南宮山にいたんだよなぁ
島津みたいに東軍へ突っ込んで欲しかったなあ。
長曽我部盛親が歴史を変えたかもしれない。

57: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/14(水) 00:06:06
6000じゃ無理でしょう。家康本隊だけで3万いたし、
浅野・山内・中村らも総勢1万程度が南宮山方面に
睨みをきかせていたし。

58: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/25(日) 14:39:32
混乱に陥れる事はできただろ。

59: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/26(月) 22:05:03
15日早朝、陣を張ってる南宮山山麓から関ヶ原へ密かに移動して欲しかった。

午前10時頃東西激闘真っ只中の関ヶ原へ突如あらわれて
大谷隊と戦っている藤堂、京極隊を突く。
一挙に東軍は崩れ、小早川、脇坂等も裏切りをする間もなく
東軍は敗れ去っていたであろう

60: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/26(月) 22:51:10
しかしながら「徳川本隊」は中仙道を疾走・現場急行中なのであった。

IFまで言い出したらきりがないぞ。


引用元: ・■ 長曽我部盛親について語るスレ ■







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