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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/15(土) 13:47:58 ID:LCyyw1cM
徳川の奮戦は無かったとか








3: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/15(土) 14:03:14 ID:9f7NjmDi
徳川の出陣は力関係的に半ば強制的なもんだっただろう。

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/15(土) 16:58:31 ID:By06lUtK
織田はやっぱり弱かった

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/15(土) 21:37:48 ID:ENG946g/
>>5
浅井が織田相手に奮戦したという話は創作の可能性が高いよ。
姉川の戦場には13段もの隊列を組むほどの広さがないようだし、典拠とした資料が江戸時代のものばかり。
長政が三代将軍家光と血のつながりがあるので、江戸時代徳川史観によって創作された。
姉川の戦い

一説には「浅井側先鋒磯野員昌率いる浅井家精鋭部隊が織田方先鋒坂井政尚、続いて池田恒興、木下秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家の陣を次々に突破し13段の備のうち実に11段までを打ち破る猛攻を見せた」というが、このエピソードは元禄時代の浅井三代記が初出で、信長公記・三河物語・当代記などには、記述が見えないため、疑問視する声もある。



13: コピペ 投稿日:2006/07/15(土) 21:48:14 ID:9f7NjmDi
員昌の11段崩しの話については諸説ある。

活躍否定説

* 徳川家が長政の娘を娶っている関係上、徳川家の意により後に浅井側の活躍を誇張したもので実際は始めから織田側が圧倒していたとする説。

* 徳川家の活躍により合戦に勝利したことを示すため織田家がおされ気味であったと記述しているとする説。


活躍肯定説

* 本願寺討伐や斉藤討伐でも苦戦していた織田軍であるから浅井軍との戦いに苦戦していても何らおかしくはないとする説。

* 数に劣る浅井・朝倉軍が織田軍に対して夜襲を仕掛け浮き足立っていたが徳川や横山城からの救援により敵軍を撤退させたという説。

* 信長が姉川の合戦後員昌の離間に心血を注いでいたことから員昌に手を焼かされたとみる説。

姉川の合戦の戦況に関する織田家の史料は簡潔な記述にとどまっていることから真実は定かではない。
22: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/17(月) 22:32:52 ID:oKyO+Lff

そもそも織田軍が整然と布陣した状態で戦ったという事自体疑問視されてるしね。

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/15(土) 19:40:38 ID:9f7NjmDi
お市の小豆袋の話は史実なんですかね

32: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/09(土) 13:51:47 ID:g5kOARuh
>>6
小豆袋をお市が信長のもとに届けさせた、という説は「朝倉家記」(だったかな?違ってたらゴメン)とかって記録に書いてあるらしいけど、学者では否定的な見方が強いみたい。


ところで、信長が鉄砲を使うようになったのは、長篠ではなく、姉川の時から使ってた、というのはホント?

39: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/05(日) 20:36:12 ID:32rd6/QK
>>32
少しぐらいは使ってたろうけどさ・・

40: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/06(月) 13:46:18 ID:LS3kAqxA
>>32
記録によると桶狭間よりも更に昔の村木砦攻めで
鉄砲を取り替えながら撃ったという記録があったと
思う。

46: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2007/01/11(木) 19:30:13 ID:njglpYDK
おいおい鉄砲くらい当時、普通に使うだろう。

48: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2007/01/12(金) 08:31:08 ID:+ddNubd8
姉川合戦の前に信長が小谷城に攻め寄せて撤退する際に浅井軍の追撃を受けた
この時、信長軍の殿軍は三百の鉄砲とさらに弓で射撃を加えて追撃を抑えまんまと離脱した
何百もの鉄砲の集中運用という意味でなら姉川前が正解じゃないかな

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/15(土) 21:46:44 ID:h+yc3WJw
4月20日 信長、義景討伐のため出陣
4月25日 信長、越前に入る
4月26日 金ヶ崎城攻略
4月27日 浅井長政謀反
4月30日 信長、金ヶ崎退却
6月19日 信長、岐阜を出発
6月21日 信長、小谷城を攻撃
6月23日 信長、横山城を攻撃
6月27日 援軍の徳川、朝倉到着
6月28日 未明、姉川の戦い始まる

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/15(土) 21:41:22 ID:0dPbdeA+
この戦い自体が徳川によって不必要に有名にされているように感じる。
実際はそんなに大した戦でもなかった。

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/15(土) 21:44:40 ID:9f7NjmDi
なお、この戦いのことを
浅井と織田は野村合戦と呼び
朝倉では三田村合戦といい
徳川は姉川の戦いと呼んでいる。


14: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/15(土) 22:20:11 ID:OMZXvQVc
経緯はともかくとして大敗したはずの浅井朝倉軍の軍事活動は衰えを見せないことから、大した規模の戦闘じゃなかった説すらあるな

15: コピペ 投稿日:2006/07/16(日) 00:59:45 ID:neRFsVDe
大軍を誇る織田軍が小谷城も落とせず、大物の首の一つもなく(真柄は侍大将クラス)
引き上げたところをみれば、むしろ浅井朝倉の健闘が光る戦いといえるだろう。
ただし浅井が小谷に籠城した結果織田軍は京への通路を確保できるようになった
ため戦略的には織田軍の勝利は動かない。

だが戦闘で苦戦したことが3ヶ月後の南近江への浅井朝倉乱入へと結びついた
ことを考えればこの戦いの評価は織田にとって辛いものとならざるを得ない。

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/16(日) 14:25:25 ID:Jonh02jk
>>15
つ前波新八郎

25: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/18(火) 19:10:46 ID:eEoVUw2W
真柄直隆はすごい豪傑だな

45: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2007/01/11(木) 18:41:45 ID:0PXtF5nc
>>25
真柄十郎左衛門が使用していたと言われる大太刀『千代鶴太郎』
が熱田神宮の宝物館に展示されているけど
本当にあんな刀振り回していたとしたらスゲー化物だよね。

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/17(月) 12:11:52 ID:44fbUhZF
織田側からも森可成や坂井政尚などの重臣が戦死している事から、双方大きな被害が出た事は間違いないだろう。

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/17(月) 12:17:15 ID:DwLTbqvl
>>19
森や坂井は姉川で死んでない件。

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/17(月) 12:21:21 ID:44fbUhZF
姉川の合戦後の諸戦だった。

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/18(火) 05:01:39 ID:zb2GuJkF
古戦場の碑では戦死者を朝倉・浅井を1700、織田・徳川を800としている。


26: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/18(火) 19:29:22 ID:j/efgnAp
普通に兵数的に信長が勝っただけ
別に徳川の奮戦も浅井の奮戦も無かった

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/21(月) 00:45:31 ID:Koz/Bdk2
「山も川も死骸ばかりにて候、見せたく候」
見せたいって・・・
Ibuki


静かに流れる姉川の流れ。合戦の後、信長は細川藤孝に「山も川も死骸ばかりにて候、見せたく候」を戦勝を知らせています。この河原に、両軍合わせて二千五百もの兵どもが眠っています。

姉川古戦場


36: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/28(木) 00:41:45 ID:CRZHj8lf
先日、野暮用で琵琶湖の北東部に出かけたついでに姉川合戦地とか小谷城跡とか見てきたけど、
あの辺りは平地ばっかりでところどころに盛ったような山が所々にある程度で、小谷城や近隣の山から
織田徳川軍の陣営が丸見えになるね。
そういう意味で磯野の11段崩しは織田軍の各部隊の配置を見て、織田軍の陣形を崩す目的で
もっとも有効な位置に対して突撃を行った結果のような気がする。

42: 姉川厚則 投稿日:2006/12/19(火) 00:44:32 ID:3wK8LwWe
俺の先祖が今でいう滋賀県虎姫町の姉川流域に住んでいたのだが合戦が起きたとき姉川が真っ赤な血で染まっていたと先祖代々語りつがれている

51: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2007/01/12(金) 17:58:45 ID:6iN0kpx4
悪いけど姉川の戦いは徳川の誇張誇大捏造だよ
小規模な戦

52: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2007/01/14(日) 17:33:47 ID:PtZ9B0/g
>>51
「姉川の戦い」って名前も徳川方が言ってた名前だしね。

55: 人間七七四年 投稿日:2007/04/05(木) 16:53:49 ID:rwMEe8yE
遠藤直経を討ち取った竹中重矩の活躍は史実なのかな?




遠藤 直経

遠藤 直経(えんどう なおつね、享禄4年(1531年) - 元亀元年6月28日(1570年8月9日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井長政の家臣で、知勇兼備の謀将として知られる。

元亀元年(1570年)の姉川の戦いで、浅井軍総崩れとなって大敗が濃厚となった後、直経は味方武将三田村左衛門の首級を掲げて織田の武将に成りすまして敵陣に入り、信長の暗殺を謀った。しかし本陣の信長まで手前数十メートルのところで竹中重治の弟・竹中久作(重矩)またはその後見として参加していた不破矢足に見抜かれてしまい、捕らえられ斬首され、その首は竹中久作の手柄となった。竹中兄弟は以前美濃国の斎藤家を離れた後、客分として浅井家中にあった時期があり、浅井家の重臣である直経の風貌を知っていたためといわれている。
16: 人間七七四年 投稿日:2007/09/02(日) 19:04:32 ID:aWIv7uup
取りあえず、このスレが分かれた元スレからコピペ(入力したのは自分)。

※以下、「衆[→者]」とあるのは「衆」をミセケチで「者」に訂正している
ことを表す。また〔 〕内は割注。

織田信長書状案
(細川藤孝宛、羽前津田文書、『増訂織田信長文書の研究』241号)

今日巳時越前衆[→者]并浅井備前守、横山為後詰、野村与申所迄
執出、両所備人数、越前衆[→者]壱万五千計・浅井衆[→者]五六千
も可有之候歟、同刻従此方切懸、両口一統ニ遂合戦、得大利候、
首之事更不知校量候間、不及注候、野も田畠も死骸計候、誠為天下
大慶不過之候、小谷之城雖可攻崩、山景之由候間、先相抱候、畢竟
落居不可有程候、両国共ニ武篇之一儀、非物之数候、江北之事者
属平均候、横山楯籠候(者ヵ)共種々詫言申候へ共、可討果覚悟候、
可為今明日之間候、即佐和山之儀申付、直ニ可致上洛候、此等之趣
可有御披露候、恐々謹言、
                  織田弾正忠
   六月廿八日            信長
    細川兵部大輔殿
  今度岡崎家康出陣、我等手廻之者共、一番合戦之儀論之間、
  家康被申付候、池田勝三郎・丹羽五郎左衛門相加、越前衆ニ懸
  候而、切崩候、浅井衆ニハ手廻之者共ニ、其外相加相果候、何も
  以抽粉骨候、過御察候、以上、

【要点】信長の手廻りは浅井に、徳川軍は池田恒興・丹羽長秀を加えて
朝倉軍に当たる。

17: 人間七七四年 投稿日:2007/09/02(日) 19:05:18 ID:aWIv7uup
『当代記』巻一(『史籍雑纂』二)

「(元亀元年六月)十九日、信長北近江へ進発、小谷町中悉放火、敵
防戦及度々、浅井人数八千有之、此時退口を被掛大事、左右に土手を
築、佐々内蔵助簗田出羽守中条将監に仰付、各大身の者可為殿之由
雖言上無承引、此小身之衆殿也、諸手より鉄炮五百挺、信長之弓之衆
五十人被相添、敵聚相慕之間、度々及合戦、無異儀被引取、簗田少
手負、信長横山城被取巻、越前より浅井為加勢、朝倉孫三郎〔義景甥、
又聟也〕為大将一万の人数指立る、浅井父子同六月廿六日、大寄山に
陣取、信長龍鼻に陣取給、其間五十町也、家康依信長仰出馬し給、
廿四日に、彼所に着給、信長快悦不斜、廿七日、北敵野村三田村江移、
終夜相催、未明に打出、於姉川及合戦、初合戦信長家康之方被押立、
左は家康自旗本押直之間、越前衆敗北、右は信長幡本へ相合へきところ
に、稲葉伊予守よこ鑓に懸、浅井敗北、敵数多被討捕、茲に越前の侍に
真柄十郎左衛門と云者、大太刀を以無類に働、家康家中匂坂式部、并
息六郎五郎得之、横山城退散之間、被移木下藤吉、磯丹波自合戦場
直に佐和山へ移相籠之間、丹羽五郎左衛門、百々か屋敷に被指置、
彦根山に川尻与兵衛、北の山に市橋、南山に水野下野守被置、信長
家康有上洛、義昭賀し被申、さて美濃へ被相下、此姉川合戦之悦として、
信長より家康へ長光の刀被進、是を後三川長篠の城開運し時、家康より
奥平九八郎信昌へ被下、此刀は元三好下野守刀、其後光源院殿の御物
なりしを、信長御手に入、」

【要点】はじめ信長・家康とも押されたが、左方は家康の旗本が押し返して
朝倉軍が敗北、右方は稲葉一鉄の横槍で浅井軍が敗北。

18: 人間七七四年 投稿日:2007/09/02(日) 19:07:23 ID:aWIv7uup
『三河物語』(日本思想大系『三河物語・葉隠』)

「然ば、信長、北之郡え御〓(ハタラキ)被成候ハント思召処に、越前衆ハ出、
方々に取出を取、都え之行通ヲ止メントテ、三万余にて出けれバ、
(中略、軍議で家康が一番合戦を担当することが決まる)
家康之仰ニハ、「明日廿八日之合戦に、今日廿七日に是え付て、一番陣を
請取事、天道之与なり」と被仰、御喜説カギリ無。
 元亀元年庚午六月廿八日の曙に押出給えバ、越前衆も三万余にて押出ス。
信長之一万余、家康之人数三千余にて、互に押出て、北風南風、責〓(タタカ
ウ)処に、家康之御手より切崩シテ、追打に打取給えバ、信長之御手ハ旗本
近ク迄切被立、各々爰ハの衆ガ打レケレ共、家康之御前ガ勝て奥ヱ切入給
えバ、敵モ即敗軍シテ、不被残打取給ひて、「今日之合戦ハ、家康之御手柄
故、天下之誉ヲ取」ト、信長モ御感なり。
 信長、其より此方彼方押詰サせ給ふナラバ、近江之儀ハ申に不及、越前迄
モ切取せ給ハンに、惣別、信長ハ「勝て〓(カブト)之緒ヲ締メヨ」トテ、其儘、
岐阜ヱ引入給ふ。」

【要点】家康の手勢が敵を切り崩した。信長は旗本近くまで敵に切り立てられて
いたが、徳川軍が敵軍の奥まで切り入ったため敵は敗北。

この3つを比べると、
●戦った相手……信長が浅井勢に、家康が朝倉勢に当たったとする点で信長書状と
当代記は一致。
●信長軍のピンチ……信長書状は触れず。当代記は信長・家康とも最初押されたと
する。三河物語は信長が押され、家康が勝ったため敵が崩れて信長が救われたように
記す。

なお織田の13段の備えの11段まで浅井が突き破ったという話は『浅井三代記』が
最初らしい。

20: 人間七七四年 投稿日:2007/09/27(木) 03:50:44 ID:ppzTSM4W
家康「稲葉殿を是非に」

は創作だろうな。

21: 人間七七四年 投稿日:2007/10/16(火) 05:04:44 ID:T3rlLfiC
織田家康勢の動員兵力2万8千から3万4千
浅井朝倉は1万8千から2万
もっと朝倉勢は兵力を動員できたはず

22: 人間七七四年 投稿日:2007/10/16(火) 13:08:50 ID:fhRhN0T1
少しずつ義景の統制力はほころび始めていたからな。
のち刀根坂の合戦で派手に瓦解してしまう兆しが少し垣間見える。

義景本人が出馬しなかった、もしくは出来なかった。この辺興味深い

24: 人間七七四年 投稿日:2007/10/16(火) 19:53:45 ID:oaz3GiVz
>>22
加賀の一向門徒とは和議がなってるんだっけ?
和議無しだと、空の越前を衝かれるよ。

23: 人間七七四年 投稿日:2007/10/16(火) 19:07:32 ID:YZhtOCTc
早いところ研究が進んで戦の実像がはっきりして欲しいね。
史料が疑わしいから、徳川勢の活躍は全部捏造ですって風潮がちょっとな~

25: 人間七七四年 投稿日:2007/10/17(水) 06:31:59 ID:jgR5+MSl
朝倉家では、当主の出陣自体が異例だったんじゃないかな?
軍奉行にまかせるのが普通で、父孝景は確か出陣したことが
ない筈。後の義景の出陣は朝倉家内部では軽率だという声も
あったと思う。

26: 人間七七四年 投稿日:2007/10/17(水) 07:54:00 ID:wAF8EG8G
弱い織田を徳川が助けて姉川を勝利に導いたというのは
徳川の威信を高めるための俗説。

浅井が最初は織田を攻撃してたわけだが、
別に織田は崩れたわけではない。
浅井の攻撃はいくら続けても織田は崩れなかっただろう。
遅かれ早かれ寡兵の浅井は疲弊して負けていた。
そして美濃勢が頃合を見て浅井に横槍を入れて織田が勝利したわけだが、
序盤で相手の攻撃に耐え相手を疲弊させ、反撃と予備兵投入で一気に勝つというのは
むしろ理想的な勝ち方と言える。

実を言うと長篠もそうだった。武田が攻めまくって疲弊して
攻撃能力がなくなったところを一揆に反撃して勝利した。
序盤、攻撃している側が有利と見るのは軽率。

27: 人間七七四年 投稿日:2007/10/17(水) 10:49:58 ID:SJfTkH6/
個人的な想像だが、おそらく第一陣の坂井隊は結構崩れたのではないかと思う。
息子久蔵の戦死とか。もちろん十一段突破はないだろうが。

28: 人間七七四年 投稿日:2007/10/18(木) 18:10:11 ID:KW2NhLNv
そもそも姉川の戦いが大規模なものだったら志賀の陣なんて起きないわけだから大規模な戦いだったということ自体が徳川の創作である可能性が高い

29: 人間七七四年 投稿日:2007/10/19(金) 22:19:09 ID:LCXggdGY
>>28
横山城の重要性考えるとそれはそれでムリがあると思うが

31: 人間七七四年 投稿日:2007/10/20(土) 07:00:28 ID:HnHiX4n+
浅井、朝倉って姉川の戦いで負けた後もけっこう活発な軍事行動してるよね。
姉川の敗北ってたいして打撃受けなかったんじゃないか?

32: 人間七七四年 投稿日:2007/10/20(土) 11:48:39 ID:Qa7IMHLe
軍事的にはあまり。
ただ、姉川合戦というのは小谷城よりも横山城の後詰として惹起した合戦で、
この戦の結果横山城は降服。信長は岐阜から京への江南回廊の掌握に成功。
一方浅井は湖東を押えられ、江北に押し込められる端緒となってしまった。

ちなみに、湖西が押えられるのは志賀の陣以降。講和して朝倉軍が越前に退き
挙げられた結果、放棄された堅田に織田軍が進駐。さらに高島郡南部まで進出。
浅井、そして朝倉は完全に封じ込められることになる。以後滅亡まで、朝倉浅井
の軍が江南に進出することはなくなる。

33: 人間七七四年 投稿日:2007/10/23(火) 22:47:15 ID:/rEjbwmP
志賀の陣で講和せずに京まで攻めたら朝倉天下というのもあったんだろうか。

34: 人間七七四年 投稿日:2007/10/24(水) 18:36:26 ID:HZpvaq/x
あそこで攻めたら朝敵になって朝倉家滅亡だぞ

35: 人間七七四年 投稿日:2007/10/27(土) 23:09:50 ID:R8Xl6Ina
朝倉方は親類衆筆頭の景鏡じゃなくて景健が大将だったんだっけ。

36: 人間七七四年 投稿日:2007/10/28(日) 00:14:48 ID:bwfTKws3
そうです。
景鏡は直前まで近江・美濃境まで進出して焼き討ちなど
してたけど、織田方の反応がなく、兵も疲れたので帰国。
待ってましたと信長出陣で第2陣の景健が出陣しますた。

引用元: ・【織田・徳川】姉川の戦い議論スレ【朝倉・浅井】
引用元: ・姉川の戦いを語るスレ







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