51QJ6F232PL



1: 世界@名無史さん 2014/03/09(日) 16:52:12.64 0.net
教えてください








2: 忍法帖【Lv=35,xxxPT】(1+0:8) 2014/03/09(日) 16:53:35.77 0.net
ブレスト要塞とか

4: 世界@名無史さん 2014/03/09(日) 18:47:26.63 0.net
コンスタンティヌス11世とか?

200px-ConstantinoXI


コンスタンティノス11世

コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス(1405年2月8日 - 1453年5月29日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1449年 - 1453年)。東ローマ帝国最後、すなわちローマ帝国最後の皇帝である。

コンスタンティノス率いる東ローマ軍は2ヶ月にも渡って抵抗を続けたが、1453年5月29日未明、ついにオスマン軍が城壁を突破し、コンスタンティノスは大剣を抜き払い、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、「神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。都の陥落とともに、われ死なん。逃れんとするものを助け給え。死なんとするものはわれとともに戦い続けよ!」との演説の後、親衛隊とともに市中に渦巻くオスマン軍の中に姿を消した。

こうして、アウグストゥス以来のローマ皇帝の継承者は絶え、紀元前753年に起源を発するローマ帝国は滅亡した(詳細はコンスタンティノープルの陥落の項を参照)。


5: 山野野衾 ◆qDubHAi3S/a/ 2014/03/10(月) 07:44:22.68 0.net
李広
李信の子孫。飛将軍と呼ばれる(呂布の元ネタ)ほどの功績を挙げながら道に迷って戦闘に遅刻し、主将衛青が部下を詰問したので、当時すでに高齢であった彼は征戦七十数回の戦歴を振り返り自刎。
衛青は低い地位から出世し、腰が低すぎて威厳がないくらいの人物であったから、そこまで大事にはならなかったと思われるのだが、そういう問題ではなかったのであろう。
後日、衛青は李広の息子に殴られても黙っている。

公孫賀
前漢の丞相。武帝に任命されるものの、前任の石慶より前の三人が続けざまに罪を得て死んでいたことから、泣いて辞退。
辞退を認められずに拝命するものの、やっぱり最後は獄死した。
なお、石慶も一時は辞任が認められず自殺に追い込まれそうになっており、石慶の息子は太子が罪を得た際(多分冤罪)に挙兵を進め、敗れて殺されている。

25: 世界@名無史さん 2014/04/16(水) 04:49:46.86 0.net
>>5
李広については衛青との価値観の決定的な違いがああいう事件になったんだろうなぁとは思う。

衛青は李広が道を迷ったことについて同情的だったし、自分が後方に配置していたという任命責任もあったので弁解させて口添えしようとしたんだろう。
衛青は名将だが奴隷の生まれもあって温厚でともすれば卑屈な性格をしており、
おそらくその卑屈さは、外戚大将軍となった自分の境遇にイマイチ自信がなく命があれば儲けものという価値観から来ていたものと思う。
ところが李広は衛青とは逆に、現場で戦ってきた軍人としての名誉意識と自負心があるから、
失敗を弁解し保身させようとした行動自体をある種の侮辱のように感じてしまった。

下手を踏んで自害を招いたことを理解した衛青は、李広の息子に対し殴られても受け入れたのだと思う。
そしてそれも逆に今度は上流階級の名誉意識というものを理解していない行動で、
結局生まれながらの貴公子であった霍去病が叔父が殴られても黙っていたことを恥じて、李広の息子を殺害してしまう。

衛青が傲慢な霍去病より兵に嫌われるのもむべなるかな、悪い意味で各階級を縦断的な感じで、
彼は軍事という本分を守り、そこから一歩も踏み出さずに居たから名将で居られたけど
多分霍光のような摂政みたいな立場についてたら酷いことになってたと思う。

26: 山野野衾 ◆qDubHAi3S/a/ 2014/04/16(水) 23:36:21.66 0.net
ある意味空気を読まなかったというか、読むことの出来ない性分の人であったと言うべきか。

>多分霍光のような摂政みたいな立場についてたら酷いことになってたと思う。
本人も辞退したでしょうね。


しかし、李陵といいこの家系は不幸が続く。

7: 世界@名無史さん 2014/03/16(日) 19:43:46.28 0.net
じゃあマイナーな奴を上げよう。

清末の譚嗣同は大改革の戊戌変法を進める有力者の一人だった。
だが西太后のクーデターでこれが挫折すると、変法派は大弾圧を受けた。
その中で日本へ亡命した者も多かった。

その時譚嗣同は日本公使館へ逃げることを勧められ、その時間もあった。
しかし彼はそれを断って言った。
「革命は必ず血を流さねばならない。今それを私の血から始めよう」
こうして譚嗣同は処刑された。

8: 世界@名無史さん 2014/03/16(日) 19:46:50.18 0.net
崇禎帝かなぁ


170px-Ming_Chongzhen


崇禎帝

崇禎帝(すうていてい)は、明朝第17代(最後)の皇帝。諱は由検(ゆうけん)。

崇禎17年(1644年)、李自成の順軍は北京を包囲し、3月19日に北京は陥落した。前夜から、崇禎帝は息子たちを紫禁城から脱出させ、側室と娘たちを自ら手にかけて殺害し、周皇后の自害を見届けた後、危急を知らせる鐘を鳴らしたが、文武諸官はすべて逃亡し、君側に参じたのは宦官の王承恩ただ一人であった。ここにいたって紫禁城の北にある景山で首を吊って自殺した。享年34。



9: 世界@名無史さん 2014/03/16(日) 19:55:23.05 0.net
陳和尚


完顔 陳和尚

完顔 陳和尚(1192年 - 1232年)は、中国、金末の軍人。諱は彝、字は良佐だが、小字(幼名)の陳和尚に姓の完顔を付した名前で知られている。ウイグル、ナイマン、羌、漢人など、モンゴルの支配を避けて金に逃げ込んできた亡命者を集めて忠孝軍と名づけた軍団を編成し、混成部隊をよく統率してモンゴル軍との戦いに活躍した。

しかし、陳和尚の活躍にもかかわらず、1230年から始まったモンゴル帝国の大ハーン、オゴデイ自身が総司令官となって行われた第二次対金戦争によって金は黄河南岸のわずかな領土に追い詰められた。1232年1月(ユリウス暦では1231年末)、開封西南方での三峰山の戦いで、陳和尚も参加する金軍の主力15万の大軍はオゴデイの弟トルイ率いるモンゴルの別働隊に大敗し、鈞州城に逃げ込んだ。さらに鈞州城が破られると陳和尚は逃走したが、逃げ切れないことを悟ってモンゴル軍の陣に赴き、自ら忠孝軍の総領陳和尚であると名乗って処刑された。

のちにモンゴルの元王朝が編纂した金の歴史書『金史』は、陳和尚は刑死するにあたっても堂々とした態度であったのでモンゴル軍に感嘆されたと伝えている。


11: 世界@名無史さん 2014/03/20(木) 23:19:31.09 0.net
丁汝昌
部下の助命と引き換えに自害
しかし西太后はこれを聞き入れず彼の部下を処刑しましたとさ

Di_Ruchang


丁汝昌

丁汝昌(ていじょしょう、1836年11月18日(道光16年10月10日) - 1895年2月12日(光緒21年1月18日)、原名は先達)は清朝末期の軍人である。

光緒21年(1895年)1月20日、日本軍は山東半島の栄成[9]に上陸し日本の連合艦隊司令長官の伊東祐亨は丁汝昌に降伏をすすめるがこれを拒否、日本軍は陸路から威海衛の陸上砲台を攻略し海と陸から北洋艦隊を包囲した。数日の戦闘の後の2月12日、丁汝昌は要員の助命を条件に降伏に応じ自身は「鎮遠」の艦内でそのまま服毒自決を遂げる。享年58。

丁汝昌の死後、北洋艦隊は正式に降伏する。兵員達は許され、残った艦艇は日本軍に鹵獲された。丁汝昌の遺体はジャンク船で後送されることとなったが、伊東祐亨の計らいにより貨物船一隻が鹵獲処分を解かれ兵員とともに本国へ帰還した。しかしながら「北洋艦隊消滅」の知らせを聞いた光緒帝は、丁汝昌の「財産没収」を言い渡し、葬儀を出す事も許さなかった。


12: 世界@名無史さん 2014/03/24(月) 21:40:56.00 0.net
大プリニウス
ウェスウィウス山の噴火から友人を救いに現地へ向かい死亡
でも肖像画のプリニウス痩せすぎじゃね

14: 世界@名無史さん 2014/03/25(火) 19:11:17.25 0.net
東ゴート最後の王、テヤなんかどうでしょう?
東ローマ軍に追い詰められ、王としての最後の責務を果たすべく、
先頭にたって突撃、全身にピルム12本を浴びてハリネズミのように
なりながらも、力尽きるまで奮戦を続けるという、
凄まじい最期を遂げている。

18: 世界@名無史さん 2014/03/28(金) 22:23:37.21 0.net
>>14
壮絶ですね…

16: 世界@名無史さん 2014/03/26(水) 15:13:01.27 0.net
伍子胥。


伍 子胥

伍 子胥(ご ししょ、? - 紀元前484年)は、春秋時代・呉の政治家、軍人である。

夫差は北方の斉が幼少の君主に代替わりし政情が不安定なことを知ると、侵攻を画策した。伍子胥は「斉は皮膚の病、越は内臓の病(目に付き気になるのは皮膚の病気=斉の内乱だが、気づきにくく生命に係わるのは内臓の病気=越の存在である)」などと進言したが、夫差はそれを退けて、かえって呉軍は艾陵において斉軍を撃破したこともあり、以後夫差は伍子胥の進言を軽視するようになった。

また伍子胥を疎ましく思っていた宰相伯嚭への越からの贈賄工作も重なって、様々な手段で伍子胥が夫差の不興を買うよう仕向けられたことも、両者の不仲を増大させた。 その後も夫差は越など眼中になく、中原へ進出し覇者になろうとした。諸侯との覇を巡っての戦費や外交費は呉の財政を逼迫させ、度重なる出兵や重税は民を疲弊させ、呉はその国力を急速に消耗させていった。

これではいつか越に呉は滅ぼされるだろうと見切った伍子胥は、斉に使者に行った際に息子[3]を斉に預けた。しかし先王から多大な恩を受けた自らは呉を見捨てられないと戻り、この事が本国に帰った後に問題になって、伍子胥は夫差から剣を渡され自害するようにと命令された。

その際、伍子胥は「自分の墓の上に梓の木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と言い、自ら首をはねて死んだ。

その後、国力を蓄えた越に呉は滅ぼされた。


17: 山野野衾 ◆qDubHAi3S/a/ 2014/03/26(水) 21:56:15.56 0.net
前秦の苻堅
皇位に就くべきでないところから皇位に就き、名宰相王猛を得て名だたる強敵を配下に加え、
華北を統一した男がたった一度の敗戦で転げ落ち、かつて情をかけた面々は相次いで離反。
遂にはかつての臣に一族郎党もろとも縊り殺されるとは……。

19: 世界@名無史さん 2014/03/29(土) 03:43:46.57 0.net
しかも、口囲軍に苻堅の死が知らされると
敵軍の中に嗚咽の声が広がったと

20: 山野野衾 ◆qDubHAi3S/a/ 2014/03/29(土) 13:44:14.32 0.net
苻堅は敗戦後も慕われていた描写がたまに出て来るので余計に悲劇性が増しますね。
沈慶之も酷い。あれだけ長生きして地位を築きながら、暗殺計画を伝えた廃帝に粛清されるとは。
廃帝も功臣相手なので粛清したとは公表出来ず、病死扱いにしている。

21: 山野野衾 ◆qDubHAi3S/a/ 2014/03/30(日) 11:53:18.89 0.net
潘岳、字は安仁は晋の文人で、才気があふれていたが慎もうとしなかった。
また権勢家におもねったことから「後塵を拝す」という言葉を生んでいる。

中書令孫秀はかつて潘岳に仕えていたが、性質が悪かったために嫌われ、たま
に鞭打たれた(これ自体は当時よくあること)過去があった。
出世した孫秀に対し、潘岳が「昔のことを憶えておいででしょうか」訊ねたと
ころ、孫秀は『詩経』を引用し、「何れの日にかこれを忘れん」と答えたので、
潘岳は己の運命を悟る。
はたして、遠からずして潘岳は友人石崇らと共に謀反の罪をきせられ、一族も
ろともに処刑されることになる。

潘岳は日頃から慎まない性格を母に叱られ、「目の前の利に目を捕われて後の
ことを考えない」と言われていたが、最後まで改めることが出来なかった。
刑に望んだ日、母に対し「母君に背いてしまいました」と言ったという。

また友人の石崇と刑場で会い、「安仁、やはり君もこうなったか」と言われて、
「『白首まで帰する所を同じくせん』と言った通りさ」と答えた。
かつて石崇に対して作った詩の一節を引用したのである。

潘岳の母、兄弟、甥や姪に至るまで殺されたが、兄の子は生き延び、また姪と
その母は抱き合って泣いて離れずにいたので処刑が遅れたところ、恩赦が下り
生き延びることが出来たという。

処刑直前の友人に対する態度が好きです。

22: 世界@名無史さん 2014/04/16(水) 00:46:51.55 0.net
エフゲニー・ボトキン
https://ja.wikipedia.org/wiki/エフゲニー・ボトキン

自分から皇帝一家と一緒に監禁されることを望み、
最後は皇帝の盾になって銃弾を浴びるとか
こういうのって中々出来るもんじゃないよな

23: 世界@名無史さん 2014/04/16(水) 00:48:42.18 0.net
ルイ17世
https://ja.wikipedia.org/wiki/ルイ17世

これはあまりに可哀想過ぎる
生まれた時代と環境が悪過ぎたな

27: 世界@名無史さん 2014/04/17(木) 22:17:25.71 0.net

32: 世界@名無史さん 2014/04/21(月) 20:55:12.39 0.net
>>27
マリアを慕い続けたマウントバッテン卿の最期は対照的に呆気ないな。

29: 世界@名無史さん 2014/04/20(日) 09:32:18.55 0.net
アレクサンドル3世とピョートル大帝はなかなか良い死に方してるがな
3世は自業自得か

30: 世界@名無史さん 2014/04/20(日) 13:41:35.59 0.net
アケメネス朝のダリウス3世だろ
アレクサンドロスの東征軍に敗走したあと自分の部下によって殺害される
伝承では死の間際にアレクサンドロスに自分の仇を討ってくれと言い残したとされるけど
まあ都合の良い創作なんだろう

36: 世界@名無史さん 2014/10/03(金) 02:58:38.23 O.net
チャン朝ベトナムの皇族で将軍、チャン・ビン・チョン(陳平仲)

1284年の第二回元寇で首都タンロンが陥落した際、皇帝ニャントン(仁宗)を無事落ち延びさせるが、
本人は元軍の捕虜になる
現地での傀儡がほしい元が、この猛将を歓待し帰順と服従を求めるが
「むしろ南鬼となるとも、北王とはならじ」と拒否し斬首される

37: 世界@名無史さん 2014/11/09(日) 17:28:41.86 0.net
元朝秘史のジャムカ
モンゴルでは袋に入れて馬で踏み殺すのが名誉の死
ってそっちの方がやだ

38: 世界@名無史さん 2014/11/09(日) 22:18:57.53 0.net
テムジンのライバルだっけ
学習漫画でその場面見たことある

39: 世界@名無史さん 2015/05/05(火) 10:05:17.90 0.net
スパルタ王レオニダス

43: 世界@名無史さん 2015/07/02(木) 18:22:22.67 0.net
中先代北条時行の生涯はカッコいい


47: 世界@名無史さん 2015/07/22(水) 18:18:21.52 0.net
アレクサンドリアのヒュパティア

225px-Hypatia


ヒュパティア

ヒュパティア(350年~370年頃 - 415年3月)は、ローマ帝国アエギュプトゥスの数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者。ハイパティアともヒパティアとも呼ばれる。

新プラトン主義の他の学校の教義より、彼女の哲学はより学術的で、その関心のためか科学的で神秘主義を廃し、しかも妥協しない点では、キリスト教徒からすると全く異端であった。

それでも、「考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです」とか「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」という彼女のものであると考えられている言動は、当時のキリスト教徒を激怒させた。

415年、四旬節のある日、総司教キュリロスの部下である修道士たちは、馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキの貝殻で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した。


48: 世界@名無史さん 2015/08/18(火) 07:54:33.19 0.net
冒頓単于とその部下たちに惨殺された父の頭曼単于

頭曼 単于

頭曼 単于(とうまん ぜんう、拼音:Touman Chanyu ? - 紀元前209年)は、中国秦代の匈奴の単于。史書に初めて名前が出た単于。冒頓単于の父。

頭曼の太子は名を冒頓といったが、のちに頭曼の寵愛する閼氏(えんし:単于の妻)が末子を生んだので、頭曼は冒頓を廃してその末子を太子に立てたいと考え、冒頓を月氏へ人質として送った。冒頓が人質となった後、頭曼は突然月氏を攻撃した。月氏は激怒し冒頓を殺そうとしたが、冒頓は馬を盗んでなんとか逃げかえった。頭曼は彼の勇気に感心し、一万の騎兵を統率させた。

冒頓はその一万の騎兵からさらに自分の命令に忠実な者だけを選出し、頭曼と狩猟に出かけた際、冒頓の指示で一斉に頭曼を射殺させた。これにより冒頓が単于となり、近隣諸国を併合し、匈奴の大帝国を築くこととなる。


50: 世界@名無史さん 2015/09/19(土) 19:26:44.66 0.net
イングランド最大の魔女摘発者ホプキンズ
最後は、当の本人が妖術師として処刑される。

51: 世界@名無史さん 2015/10/07(水) 20:59:19.91 0.net
第一次世界大戦直前に暗殺されたジャン・ジョレスさん


Jean-Jaures01


ジャン・レオン・ジョレス

ジャン・レオン・ジョレス(1859年9月3日 - 1914年7月31日)は、フランスの社会主義者、政治家。修正主義を主張し、教条主義派とは対立した。また、圧倒的な大衆の人気を誇る雄弁家として知られた。第一次世界大戦に反対するが、狂信的な国家主義者に暗殺された。


引用元: ・かっこいい・悲しい最期の歴史の人物





死の歴史―死はどのように受けいれられてきたのか (「知の再発見」双書)
ミシェル ヴォヴェル
創元社
売り上げランキング: 215,870