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1: 公称吉清厨 2010/02/12(金) 12:04:40 ID:hgZ2vkxb.net
吉清の事なら何でも書いてください 
50スレ超えたら奇跡








木村 吉清

木村 吉清(生年不詳 - 慶長3年(1598年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。

はじめ荒木村重に仕えたが、のちに明智光秀の家臣となる。山崎の戦い後に豊臣秀吉に取り立てられ家臣となった。

太閤検地の奉行として功があり、また、天正18年(1590年)の奥州仕置では名淵などの戦いで敵軍を撃破、大将首を取る武功も立てた。この戦功で知行5千石から旧大崎・葛西領12郡約30万石を与えられ、子の清久と共に蒲生氏郷の与力になった。

しかし、検地を実施して年貢を厳しく取り立てたことや旧大崎・葛西家臣の地侍などを家臣に採用せず刀狩を行ったこと、さらには家中の人手不足から大量登用した浪人や俄に侍に出世した足軽・中間などのこれら吉清の家臣が領民に乱暴狼藉を繰り返したことなどから、領内に一揆が起きた(葛西大崎一揆)。

吉清父子はようやく窮地を脱したが、一揆発生の責任を問われて領地は没収された。

その後、吉清は氏郷の客将となり、文禄元年(1592年)に信夫郡(現在の福島市)5万石を与えられた。



2: 人間七七四年 2010/02/12(金) 12:48:31 ID:KCJFDBB+.net
…葛西大崎一揆の人でしたっけ?

3: 公称吉清厨 2010/02/12(金) 12:51:27 ID:hgZ2vkxb.net
そうです 
結構哀れな人生ですよね

4: 人間七七四年 2010/02/12(金) 16:37:23 ID:tJwkDJkH.net
秀吉から「吉」の字をもらう前は、どんな名前だったの?

5: 人間七七四年 2010/02/12(金) 21:26:04 ID:+asYgl6A.net
清久。Wikipediaは間違い。

6: 公称吉清厨 2010/02/13(土) 21:14:00 ID:7Z6bhexS.net
光清じゃなかったのか

10: 人間七七四年 2010/02/15(月) 16:52:37 ID:6R9x6e2u.net
>>5-6
どっちなんだよw
どっちも正しいなら、どっちが先なんだ?

13: 人間七七四年 2010/02/26(金) 10:45:58 ID:TwMEnk9F.net
>>10
書状で確認できるのは清久→吉清の改名のみ。
光清なんてどこから出てきた諱なんだろうか…?

53: 人間七七四年 2010/12/13(月) 01:41:17 ID:ShF/h2/j.net
>>13
実子が同じ諱を名乗ってるのは、何か理由があるのかな?
混同されてたりはないんだろうか?

9: 人間七七四年 2010/02/14(日) 12:08:04 ID:2SDeFXaG.net
5千石から数年後に30万石か・・。何があったんだろうね?

11: 人間七七四年 2010/02/15(月) 21:07:13 ID:HS79H+ag.net
三国志の武将馬謖(バショク)やナポレオンの部下ミュラと被る人だな
組織の人的空隙を埋めるため能力以上の役柄を与えられて失敗、転落していくという
木村吉清の場合、この二人と比べると失敗の幅が小さいが故に知名度も低いという悲しさ
仙石秀久並の復活劇?があればまた違ったんだろうけど

12: 奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2010/02/15(月) 21:13:45 ID:8wJksnmU.net
ミュラは蛮勇の印象があるだけに同意しかねるけどな。

降将で不相応な禄を得て破綻した人物か。孟達ともまた違うかな。

16: 人間七七四年 2010/02/27(土) 01:41:17 ID:MNrW5LGK.net
この人大坂の陣に参加したんだね

18: 人間七七四年 2010/03/04(木) 00:58:14 ID:B9p+lBIp.net
>>16
その頃はもう死んでるって。

19: 人間七七四年 2010/03/04(木) 10:32:10 ID:1j9gpght.net
>>16
息子の清久でしょ
一揆改易後は蒲生の家来になり、蒲生氏郷死後に九州で1万石の大名として復活
そしてすぐ死んで、息子は関ヶ原で西軍に参加して改易
その後、大坂の陣で討ち死に

17: 人間七七四年 2010/03/03(水) 19:14:47 ID:ZmTnNKZp.net
誰?それって感じの印象しかない
なのに30万石、仙石秀久といい
この時代の秀吉軍の人材不足感は強いな

23: 人間七七四年 2010/04/02(金) 11:02:41 ID:PsptJC7X.net
この人は政宗のせいでヘタレで統治能力すらないアホキャラな印象にされてしまって可哀想だ。

24: 仙台藩百姓 2010/04/02(金) 12:46:37 ID:PaMbsgcM.net
実際能力なかったから政宗公の謀略にまんまとかかったんじゃんお( ^ω^)
能力あれば蒲生みたいに回避してるお( ^ω^)
葛西大崎一揆

葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)は、天正18年(1590年)に発生した、豊臣秀吉の奥州仕置により改易された葛西氏・大崎氏らの旧臣による新領主・木村吉清・清久父子に対する反乱である。

野長吉は、滞在していた白河城でこの知らせを受けると二本松城へと引き返し、蒲生氏郷と伊達政宗に木村親子の救出を命じた。10月26日に氏郷と政宗は伊達領の黒川郡下草城にて会談し、11月16日より共同で一揆鎮圧にあたることで合意した。ところが鎮圧を始める予定の前日の15日に、氏郷の陣に政宗家臣・須田伯耆が一揆を扇動したのは政宗であると訴え出て、さらには政宗の祐筆であった曾根四郎助が、政宗が一揆に与えた密書を持参した。また政宗の軍勢が撃っている鉄砲が空砲であるとの報告もあり、16日に氏郷は単独で一揆勢に落とされていた名生城を占領し、籠城して一揆及び政宗に備えるとともに、秀吉に使者を遣わして情勢を報告し、氏郷からの報告を受けた秀吉は石田三成を派遣して対策を命じた。

2月4日、上洛した政宗に対する査問が行われると、政宗は一揆を煽動した証拠とされる密書は偽造されたものであり、本物の自分の書状は花押の鶺鴒の目の部分に針で穴を開けていると主張した。秀吉はこの主張を認め、政宗に改めて一揆を鎮圧するように命じ、援軍として豊臣秀次・徳川家康にも出陣を命じた。


25: 人間七七四年 2010/04/10(土) 08:28:59 ID:iDOHC/bn.net
>>24
それは違う。
当時の大崎葛西領は改易された大名の遺臣やその主従が失業し政治的に不安定なだけでなく
超絶不作で大飢饉だったからちょっと煽れば一揆が起きるのはあたり前な状況だった。
木村の能力でどうすることもできない。
蒲生の会津が飢饉だったなんて聞いたことがない。
飢饉で収穫のほとんどない大崎葛西領へ転封させられた政宗が涙目なだけ。
政宗も米沢から転封になったら家臣を抑えられる自信ないし伊達はおしまいだと言ってたくらいだし。
さらに自分で煽った一揆軍に褒美をやると呼び出して大虐殺したり卑怯かつ腹黒い政宗の姿を決定的にしちまうしな。

41: 人間七七四年 2010/12/09(木) 10:40:43 ID:exNxDjFx.net
いきなりの大抜擢されるって事は、それなりに優秀な証だろうけど、
大抜擢すぎたんだろうね・・・・

氏郷の与力大名のような格好で10万石程度とかならよかったのに・・・・

58: 人間七七四年 2010/12/18(土) 10:55:19 ID:yQDzX8T6.net
木村は実力で叩き上げられた名将ですよ。文武両道だったから秀吉が重宝して引き上げてる。
秀吉子飼いや織田派閥にいたわけじゃないのに蒲生や浅野や前田や佐々と同じくらいの評価を得ていた。

61: 人間七七四年 2010/12/20(月) 22:28:10 ID:n2y5dJB0.net
武人としては蒲生より上だろ。
関東牽制と奥羽の鎮守として蒲生より先には木村は任されたんだし。
政治家としても少なくとも浅野や大谷と同等な立場だったろ。
それに検地施行ができる行政能力もあるし
福島の城下町を計画したので縄張り設計力もある万能タイプだからこそ
佐々みたいに責任取らされ自刃に追い込まれなかった。
そもそも改易牢人国人達の現地採用禁止命令とかキツすぎる。

62: 人間七七四年 2010/12/20(月) 22:33:06 ID:OkWgEA7Q.net
政治能力はお前の言うとおりだと思うが、蒲生のような武功は木村には無いだろ?
大きな武功とか、勇名が高いとかいう話は聞いた事が無い。

63: 人間七七四年 2010/12/21(火) 00:44:01 ID:PEdhLYSD.net
明智配下だったから武功があっても伝わってないだけだろ。
じゃなければ実力でのし上がってきた秀吉から高く評価されたりしてないだろう。
評価も無く引き上げて奥羽の鎮護役になったら武功命な秀吉古参の山内一豊らや秀吉子飼いらの武将たちが怒るだろ。

66: 人間七七四年 2010/12/21(火) 20:15:10 ID:ZiGtonfb.net
>>63
政治的業績に関しては記録が多いのに、軍事的功績だけ旧明智配下だからって伝わって無いってことも無いだろう。
仮に木村吉清の地位で、秀吉の天下統一戦で軍事的功績があったなら、伝わってるはず。
明智時代の武功が伝わらなくても、秀吉時代の武功なら伝わってない方がおかしい。
そういう事も名将としての評判も無いなら、やはり政治能力はあっても、軍事能力はさほどでもないと考えた方が適切。

64: 人間七七四年 2010/12/21(火) 01:11:40 ID:Qtq2h7Mh.net
丹波の城の明け渡しで秀吉に目を付けられて、取り立てられたんだっけ?

67: 人間七七四年 2010/12/21(火) 20:37:47 ID:PEdhLYSD.net
いやいや
現代わかる武功はほとんどは軍記や家譜や藩公式記録だよ。
だから武功がよくわからんのに当時、高い評価をあげてる人物は少なくない。

68: 人間七七四年 2010/12/21(火) 22:32:32 ID:TaevmD1E.net
木村は小牧長久手や小田原征伐や奥州仕置でそれなりに武功もある。
大将首を取ったり、敵を撃破したり、城を落としたりも。
数年間でこれだけ武功があったら、明智家臣時代にもそれなりの武功があったことも想像できるぐらいには、
武勇は優れていたと思われる。

69: 人間七七四年 2010/12/27(月) 20:58:41 ID:WwnFpB58.net
大坂で秀頼に殉死

70: 人間七七四年 2010/12/27(月) 21:09:27 ID:JswZ0kam.net
それは吉清じゃなくて、定光の息子だ。

103: 人間七七四年 2011/01/24(月) 21:51:39 ID:DQ9FcGmN.net
>>70
なんかいろいろと混同してるね…。
秀頼の唯一の幼なじみと言われ大坂夏の陣で玉砕した木村重成の父は誰だか確定してないよ。
まぁ木村定重やその子の定光と木村吉清はあるいは兄弟か親類同士かも知れないね。
だからその縁で光秀から秀吉に仕えることができた可能性はある。

もし定光の子が重成と仮定すると、
定光は秀次事件に連座して子供まで皆殺しにされてるから、
子がなぜ生き残っているのか?
秀頼に殉死する理由があるのか?と言う疑問が出てくるね。

木村吉清の子の清久(秀望)は蒲生の下野転封の際に、豊後1万4000石に転封になった父の遺領を継ぎ、
大坂冬の陣では兵を率いて丹波田辺城攻撃に参加後に改易。
夏の陣では大坂城に籠城して戦死してるよ。
まあ織田サラブレット蒲生氏郷並みの評価を父が受けたと思えば、清久には秀頼に殉死する理由はあるしね。
同じ最後を遂げた事から、あるいは清久と重成は兄弟なのかも…

72: 人間七七四年 2011/01/14(金) 22:46:37 ID:5J8ldWeC.net
可哀想な武将。
当時の陸中は伊達や南部といった有力者達の間者も数多く入り
結構カオスな状況だった。
能力が無いと言えばそこまでだけど大変な地域だったのも事実だよ。

74: 人間七七四年 2011/01/14(金) 22:52:10 ID:5J8ldWeC.net
あと伊達ばかり批判されてるけど南部も結構悪い事してる。
当時の南部は津軽奪還を諦めて南に領土を広げることを
画策し実行してた。

75: 人間七七四年 2011/01/15(土) 03:53:50 ID:EWwo5Iom.net
それはどうだろう。南部は九戸対策で頭がいっぱいで
葛西大崎方面どころじゃないと思うよ。

1590年10月岩手沢城で一揆が発生するや瞬く間に広がる。
11月16日蒲生と伊達が共同で一揆鎮圧にあたることで合意
1591年2月4日謀反の嫌疑で上洛した政宗に対する査問
5月に米沢へ戻り伊達も討伐へ向かい8月中旬頃にほぼ鎮圧
9月23日家康は仕置を終えて政宗に新領土を引き渡した。


1591年1月九戸政実が南部氏の正月参賀を拒絶し
3月に挙兵
9月1日秀次の討伐軍が九戸氏所領への攻撃

77: 人間七七四年 2011/01/15(土) 19:28:35 ID:5UQa4dhB.net
葛西大崎一揆はその北の旧和賀や稗貫、斯波辺りの
旧領主たちも呼応した。
その中には南部の謀略によって所領を失った和賀氏もいる。

79: 人間七七四年 2011/01/16(日) 03:35:33 ID:ZcY+V041.net
>>77>>74
南部が悪巧みした根拠があるのか?
そもそも当時の南部は九戸と八戸を組下の位置づけに成功したなど
豊臣政権が安定してくれた方が得なはずで、
木村は九戸や八戸の不満に対する南からの牽制である。
さらに南部は三戸と八戸だったか?のどちらに本拠を移すか
悩んでいたようなところがあり
豊臣政権からは妻子を三戸に置けと命じられ、その後は大坂へ送れと命じられている。
また盛岡城計画すらない時代で九戸問題もあり
さらに南方に目を向ける余裕はない。
しかも大崎葛西の乱の拡大を見て好機到来とばかりに
九戸まで挙兵しちまうし・・・

80: 人間七七四年 2011/01/16(日) 21:57:12 ID:KWmHsfCc.net
秀吉に人身御供にされたって説もある。
中央の威光が届きにくい辺境の地で
中央の力を誇示する名目を作る為にわざと派遣されたのかもしれない。

82: 人間七七四年 2011/01/17(月) 02:42:11 ID:YDckX+6+.net
浅野長勝の養女のねねと同じで長勝の養子に入ってのちに
信長の命で秀吉の与力になった古株の奉行畑の浅野長政でさえ
若狭国小浜8万石レベルだったし
吉清の12郡30万石の加増から考えて武も優れていたと考えるべきだろう。
武功を挙げずに奉行仕事だけでは大きな加増機会はなかなかない。

83: 人間七七四年 2011/01/17(月) 09:30:38 ID:UGRJdrcA.net
証拠が第一だよ、歴史は。妄想だけで突っ走るのは良くない。

85: 人間七七四年 2011/01/17(月) 14:37:47 ID:+e/9TBi9.net
秀吉から一文字もらってるし、気に入られていたことは間違いない。

86: 人間七七四年 2011/01/17(月) 19:38:51 ID:YDckX+6+.net
証拠はその加増された石高そのものが証拠だろ。
小田原陣が終わったあたりでの奉行は前野長康や大谷吉継らで
平均して5万石前後だし
武功でのし上がった武功組で
中村一氏や長谷川秀一ランクですら15万石前後。
木村の30万石は改易だらけの難しい場所での
奥羽の鎮護役と期待されてのことだから
文武に優れていたから派遣されたとみるのが自然。
たまたま荒木村重や明智光秀ら信長への謀反組に仕官してたから
業績がちゃんと現在まで残ってないだけだろ。
葛西大崎一揆に関しても大谷が出羽国の検地で失敗して
藤島一揆を引き起こして上杉軍の援軍で平定したり
九戸一揆も豊臣秀次の支援で鎮圧したりと
奥羽の一揆はかなり激しかったから仕方が無い。

97: 人間七七四年 2011/01/21(金) 19:07:40 ID:Ova0mFmq.net
力量以上の役目与えられて没落した良い例としか語れん。

98: 人間七七四年 2011/01/21(金) 19:10:05 ID:Wx3bWfdU.net
武勇があったら、
一揆軍なんて三十万石に物言わせて大軍集めて、
軽く蹴散らしてるんじゃないか?

100: 人間七七四年 2011/01/21(金) 22:18:58 ID:Ova0mFmq.net
>>98
一揆に加わってる人間はその30万石の中の人たちなので集められん。
直轄領は善政を行わないとならないのにまるで逆のことをやってしまったのが最大の失敗。

101: 人間七七四年 2011/01/21(金) 22:50:01 ID:Wx3bWfdU.net
>>100
木村は葛西や大崎の旧臣召し抱えないで、
金にあかせて浪人を集めたり、小者を侍に取り立てたりしたじゃない。
もっとやってれば、一万ぐらいは集まったと思うが。

113: 人間七七四年 2011/08/30(火) 01:01:32.58 ID:Wd5iu2xX.net
このひと出身地や家系不明だよね?
どういった経路で荒木村重に仕えたんだろう

121: 人間七七四年 2014/03/15(土) 18:06:03.68 ID:V9tI5wVw.net
葛西大崎一揆って、政宗が仕立て上げたってイメージだけどどうなの?


引用元: ・木村吉清を語れ




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