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1: 太武帝 投稿日:2009/02/23(月) 20:08:13
北朝総合スレじゃ!
皆の者、朕を讃えよ!








3: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/23(月) 20:20:32
北斉の文宣帝は正真正銘の気違い暴君。
虐殺を恣にした上、幼い温和な皇太子に囚人を手討にするように命じて
可哀想にその皇太子(廃帝・高殷)はショックで言語障害になった。

史書には「暴崩」(突然崩御した)とあるが
怨恨での暗殺かアル中での卒中死かね。

朝廷では皆毎日「いつ自分が一族皆殺しになるか」と怯え続けていたから
大喪の礼では一人の忠臣のほか臣下で泣く者は
誰一人いなかったそうな。

5: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/23(月) 20:34:03
北斉の高氏には酒乱の気がDNAに組み込まれてるよな。 
北周の宇文氏も酒が入ると基地外化するDNAが組み込まれてるよな。 
真冬にストリーキングとかw 
両氏とも戦争は滅法強いのにな・・・ 

7: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/23(月) 22:19:53
豊かな地方が多く強かった北斉も、内紛で弱ったところを北周に滅ぼされ、
その北周も隋に乗っ取られる…
因果応報というか、ぐだぐだというか…

8: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/24(火) 15:39:27
でも、楊堅は何故あんなに短期間で北周を算奪できたんだろう?

120: 世界@名無史さん 投稿日:2010/05/18(火) 11:32:00
>>8
短期間で西魏→北周→隋と王朝交代してるし、簒奪が常態化してたって事だろ

122: 世界@名無史さん 投稿日:2010/05/28(金) 00:37:07
>>120
西魏の元氏は最初から傀儡だったし、
そうすると北周→隋という流れだけになるから
常態化ってのは結論を急ぎ過ぎだと思う。

123: 世界@名無史さん 投稿日:2010/06/04(金) 22:47:32
>>122
北周の皇帝も最初の二人は宇文護の傀儡だし、
皇帝個人の権力はかなり弱いものだったんだろう。
武帝が長生きしていれば磐石なものになっていただろうけどね。

9: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/24(火) 22:34:43
幼帝の嫡母が楊堅の娘だし簒奪なんて楽勝

10: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/26(木) 14:58:18
そんなに簡単なもんかな?同じ条件でも、算奪できなかった奴はいるよ。
また時代が違うにしろ、曹氏は24年、司馬氏は16年、宇文氏も24年かかっているのに楊堅は実質2年。早すぎるとおもわないか?

12: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/27(金) 00:54:46
曹魏は後漢、北周は旧関西大行台を再建するところから始まったし、
両者には大敵が存在してたわけだから、比較対象にするのはちと可哀想かなとも思う。
でも、晋と他に挙げるなら北斉とかなら比較対象として適切かな的な。

個人的には
北周が国家運営のシステム的には中央集権の比較的進んだ国家で、
中枢を掌握しやすかったこと。
そして、にも関わらず、皇室の権威が相対的に高くなかったこと。
で、北斉は滅亡、陳はもう互角の敵じゃないと、外敵の存在が脆弱だったので
軍事力を掌握してる皇族を抹殺するのに躊躇う必要がなかったこと。
などを挙げたい。
後は宣帝陛下の嫌われっぷりに感謝。
でも、確かに北周は傾き始めてから速攻で死んでるよね。

19: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/01(日) 21:36:59
>>12
西魏も北周も皇帝個人の権力が非常に弱いんだよな。
歴代皇帝で皇帝らしいことができたのは北周武帝だけだし、
その武帝も早死にしてしまったから、権力強化ができなかった。

13: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/27(金) 09:10:08
武帝があれほど偉大な君主だったのに、彼の死後僅かな期間で、楊堅の算奪を許したのは異常なんじゃない?

15: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/27(金) 17:32:11
北周武帝は従兄弟の宇文護に実権を握られてて、
武帝が実権を持っていた時期は6年しかない。

17: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/01(日) 01:12:29
この辺りの時代の各国家について詳しく知ることのできる書籍を教えてください
中国語できないので正史は無理です

18: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/01(日) 02:12:57
>>17
宮崎市定『大唐帝国』
岡崎文夫『魏晋南北朝通史』『隋唐帝国五代史』
布目潮[シ風]『隋唐帝国』
川勝義雄『魏晋南北朝』
川本芳昭『中華の拡大と崩壊』
谷川道雄『世界帝国の形成』
三崎良章『五胡十六国』
以上、購入が困難とは思われないもの

宮崎市定『九品官人法の研究』
谷川道雄『隋唐帝国形成史論』
大きめの図書館ならある

27: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/02(月) 20:12:17
>>18の人が挙げる書籍にプラスして
三崎良章『五胡十六国の基礎的研究』
松下憲一『北魏胡族体制論』
『図説 中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明』
蘇哲『魏晋南北朝壁画墓の世界』

自分も中国語出来ないアマチュアだけどこれと>>18の人の挙げた本で入手可能な限界かな

20: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/01(日) 23:41:13
隋は漢民族からみたら他民族の国なの?
元とか金とか清みたいな

21: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/01(日) 23:51:37
隋までいくと、もう馴染んでいるんじゃないか。
北魏だったら、なんか征服王朝のはしりみたいには思えるな。
漢化したけど。

28: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/02(月) 23:05:22
隋は高句麗を滅ぼしたら、新羅・百済・倭まで
来たろうか

29: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/02(月) 23:15:30
そこまで行動限界が広いとは思えん。

30: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/02(月) 23:26:35
朝貢の要求くらいは来たかもしれないが、遠征軍は来ないでしょ。
高句麗領まで行くのでさえ難事業なわけなので。
それに高句麗遠征は征服欲や事業達成欲よりも
「どうもあいつら突厥と繋がってやがる」
という明確な理由があるわけで。

31: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/04(水) 15:59:12
孝文帝の改革は結局、北魏の滅亡を早めただけでは?この時点でこれほど急激な改革は必要だったのかな?

孝文帝

孝文帝(こうぶんてい、467年10月13日 - 499年4月26日[1])は、北朝北魏の第6代皇帝(在位:471年9月20日 - 499年4月26日)。

孝文帝は馮太后が手がけた改革を継承し、より一層の漢化政策を推進した。その結果、北魏はそれまでの遊牧民を中心とした国家体制から、より普遍的な国家体制へと変貌を遂げ、後の隋による中国の再統一への大きな足がかりとなった。

だがその一方で、急激な漢化政策の推進が、支配者層であった鮮卑の不満を引き起こすことにもなった。496年には旧都・平城で反乱が勃発し、彼の長男で皇太子であった元恂もこれに参加していた。反乱は短期間で鎮圧され、孝文帝は元恂を廃嫡した上で誅殺した。しかし、この後も不満は消えず、孝文帝の死後に六鎮の乱と北魏の分裂を招くことになる。


32: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/05(木) 00:42:21
>>31
北魏の「滅亡」、というのは短絡的のような。
北魏、北斉、北周、隋、唐は、基本同じ体制の中の政権交代でしょ。

33: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/05(木) 22:43:20
>>31
孝文帝は早死にしたおかげでボロを出さずに済んだ。
長生きしてたら煬帝と同じような評価になってただろう。

34: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/07(土) 18:35:49
>>33
いくらなんでも煬帝と比べるのは・・・

35: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/07(土) 18:58:07
煬帝も評価分かれるからな

36: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/07(土) 22:12:38
煬帝は永楽帝になりそこなった皇帝とイメージが
あるいは永楽帝が成功した煬帝?

両者とも即位時に色々やっているし

38: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/07(土) 23:10:36
>>36
煬帝は始皇帝、漢武帝と同じカテゴリーだと思う。

39: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/08(日) 00:57:10
北魏の皇帝は皆短命だよな
道士に騙されて不老長寿の仙薬を呑んでは早死にしてる
親が早死にだから俺はもっと沢山呑まなきゃと・・・暗愚の連鎖
 
それと北方遊牧民社会はどこもそうだが妻の(実家の)権力が強い
皇后と皇太子生母の争いをなくすため立太子すると生母には死を賜った

40: 世界@名無史さん 投稿日:2009/03/08(日) 13:16:17
我朝の仁明天皇も丹薬を服用して命を縮めたという。
竹取物語の帝のようにはいかなかったようだ。

53: 世界@名無史さん 投稿日:2009/05/06(水) 00:29:24
魏の孝文帝は実母を殺されていたことを知って衝撃をうけたらしいが
それでいて自分も皇太子の母親を殺しているよな。

54: 世界@名無史さん 投稿日:2009/05/06(水) 04:09:52
北周は滅んだけど宇文泰の血筋は唐の皇室にも流れてるんだよな

宇文 泰

宇文 泰(うぶん たい、505年 - 556年)は、北魏・西魏の政治家。字は黒獺(または黒泰とも)。鮮卑の人であり、実質的に北周の基礎を築いた。実際に帝位には就いていないが、廟号は太祖、559年には文帝と追諡されている。


56: 世界@名無史さん 投稿日:2009/06/05(金) 22:04:02
>>54
宇文泰-襄陽長公主-竇皇后-李世民という流れだな

57: 世界@名無史さん 投稿日:2009/06/06(土) 00:31:17
宇文泰の国は滅んだけど
血筋が繁栄してよかったね

59: 世界@名無史さん 投稿日:2009/06/16(火) 00:40:43
李世民の嫁に隋の煬帝の娘がいるよね

63: 世界@名無史さん 投稿日:2009/06/28(日) 15:42:26
世界史なんでも質問スレッドより

864 :世界@名無史さん:2009/06/27(土) 12:24:28 0
中国史において、北魏の後継国家である隋・唐は、本当は漢民族ではなくて
北魏と同様の鮮卑系王朝であるという話を聞いたのですが、それでは北魏と隋の
間に挟まる北斉や北周はどうなのでしょうか?
北周の宇文氏は鮮卑っぽい名前ですが、北斉の高氏は漢字一字姓からして
漢民族でしょうか?

865 :世界@名無史さん:2009/06/27(土) 12:31:51 0
鮮卑の流れを汲んでいますよ。

といってもね、鮮卑族を先祖に持つ人々も、大部分は既に漢民族化していた。
であるから、鮮卑系=非漢民族と杓子定規に当てはめようとする考え方はナンセンス。

868 :世界@名無史さん:2009/06/27(土) 14:23:21 0
>>865
北斉の高氏には鮮卑姓はあるのですか?
隋の楊氏には普六如氏、唐の李氏には大野氏という鮮卑姓があるようですが。

874 :世界@名無史さん:2009/06/28(日) 01:59:41 0
864-868
北魏・東魏・西魏・・・・・・漢姓:元氏、鮮卑姓:拓跋氏
北斉・・・・・・漢姓:高氏、鮮卑姓:???
北周・・・・・・漢姓:???、鮮卑姓:宇文氏
隋・・・・・・漢姓:楊氏、鮮卑姓:普六茹氏
唐・・・・・・漢姓:李氏、鮮卑姓:大野氏

北斉の鮮卑姓と北周の漢姓がわからん。

87: 世界@名無史さん 投稿日:2009/08/23(日) 19:47:54
何故宇文護が自分で皇帝にならずに宇文覚に簒奪させたのか不思議だ

宇文 護

宇文 護(うぶん ご、513年 - 572年)は、中国・北周の皇族、政治家。代郡武川の人。北周の実質的な創始者・宇文泰の兄である宇文顥の息子、宇文訓、宇文会、宇文至、宇文静、宇文深、宇文乾嘉、宇文乾基、宇文乾光、宇文乾蔚、宇文乾祖、宇文乾威らの父。

叔父の宇文泰の死後に権力を握り専横を極めたが、従弟の武帝によって暗殺された。


孝閔帝

孝閔帝(こうびんてい)は、北朝北周の初代天王。姓は宇文、諱は覚。北周の創始者とされるものの、実質は従兄である宇文護の傀儡であった。


88: 世界@名無史さん 投稿日:2009/08/28(金) 00:06:47
北周成立時だと宇文護の権力がそれほど絶大だったとは思えないなあ
それに先代に後事を託されたのにいきなり本家の乗っ取りはやらんと思う
もめて、下手すりゃ国家崩壊
他にも宇文護は自分が即位しないで三人も首のすげ替えやってるし、
宇文憲には目をかけてたりと、皇帝という地位を狙ってたかどうかは?

89: 世界@名無史さん 投稿日:2009/09/21(月) 19:26:35
宇文憲も最後は宣帝に殺されたな。
内部抗争で殺しあった挙句、最後は楊堅に族滅。
南北朝にありがちな末路だ。

90: 世界@名無史さん 投稿日:2009/09/21(月) 19:52:16
族滅された人たちが、獄中で死を待つ間に記した日記や詩文は
残ってないのかな。刑場での最期の様子とか。
正史を読むと、他ではあれだけ詳しく皇族貴族の言動を記しているのに
その最期の描写はひどく恬淡としたものに終わっている。
「伏誅」とか「皆死」とか。

91: 世界@名無史さん 投稿日:2009/10/11(日) 12:25:24
>>90
謀殺されたとか、不当な賜死だとかいうような場合とかはそれなりに残ってないかな。
とはいえ一言、二言のことだったりなので、そちらの期待とは違うかもしれないけど。

皇族・皇族級の場合は身近な親族や妻妾などと最後の対面の後、自害・処刑という感じのようね。
現場に呼べないような場合は手紙を書くことも許可されてる模様。
西魏文帝の皇后乙弗氏の列伝によれば死ぬ様子は見せないように、幕中で自害してる

92: 世界@名無史さん 投稿日:2009/12/11(金) 12:35:19
北斉高一族はキチガイだけど戦闘だけには強いな
まあ最後は滅んだけどさ

94: 世界@名無史さん 投稿日:2009/12/11(金) 22:30:13
北斉皇帝の酷さは南北朝でも最低クラスだな。
他の王朝なら一人くらいは名君がいるはずなのに。

95: 世界@名無史さん 投稿日:2009/12/13(日) 05:39:38
田中芳樹の蘭陵王読んだけど
北斉の皇帝ヤバくね?
DNAに欠陥あるとしか

96: 世界@名無史さん 投稿日:2009/12/14(月) 22:27:31
むしろ蘭陵王がまともなのが不思議なくらい

99: 世界@名無史さん 投稿日:2009/12/15(火) 22:57:11
北斉が戦闘に強かったのは斛律光のおかげ
高緯が斛律光を殺したせいで滅亡一直線

100: 世界@名無史さん 投稿日:2009/12/15(火) 23:27:23
段韶忘れてるよ

105: 世界@名無史さん 投稿日:2009/12/19(土) 01:12:51
李密と楊玄感ってたいした武将じゃないの?

李 密

李 密(り みつ、582年(開皇2年) - 618年(武徳元年))は、中国の隋末に割拠した群雄の一人である。

613年(大業9年)に反乱を起こした楊玄感と交流があり、その乱に合流した。反乱が失敗に終わると、名を変えて民間に隠れたが、翟譲たちが東郡で反乱を起こすと、再び表舞台に現れて、州県を奪取した。617年(義寧元年)、興洛倉を破り、貯蔵物資を民間に散財し、そこに拠って魏公を名乗り、永平と改元した。翟譲を廃して実権を掌握し、一時的には、本拠とする河南はもとより、山東省から江蘇省までを勢力下に収めた。

618年(義寧2年)、宇文化及が煬帝を殺害して秦王を擁立して江都に拠り、洛陽では王世充らによって恭帝侗が擁立され、長安に拠る李淵が恭帝侑の譲りを受けて唐を建国すると、それまで自ら尊号を名乗る事も隋朝に従う事も拒否してきた李密は一転して恭帝侗に恭順して太尉・尚書令・東南道大行台・行軍元帥・魏公を授けられる。これは、李淵や宇文化及に対抗するために自らも恭帝侗からの禅譲による新国家建国を目指したものと考えられている。だが、同じく禅譲を狙っていた王世充との会戦に敗れ、長安に拠る李淵のもとに降った。

唐朝からは光禄卿、邢国公を授けられたが、最期は、唐朝への謀反を誣告され、斬られた。


107: 世界@名無史さん 投稿日:2009/12/19(土) 18:59:40
どう「たいした」なのかはどう説明していいやらだけれども
やったことの結果を見る限り李密は当時の指導者連中の中では
別格扱いできる一人なんじゃないですか。
政情不安からきた散発的な(にしては規模が大きいけれど)暴動や反乱を
政治的な意味をもったものに変えた一人。

楊玄感と絡みで処刑された人たちは行動や言い分を見てると
学生運動にのめり込んだ人たちと同レベルな感じがするので
個人的には超低評価してます。
反乱起こして失敗しても赦されるとか思ってたんじゃないでしょうか。

124: 世界@名無史さん 投稿日:2010/06/04(金) 23:01:43
北周の初代皇帝というか「天王」はまだ少年だったけど
やはり西魏皇帝の殺害には同意していたのかね。
れっきとした簒奪者なのか、宇文護に全くいいように動かされていた人間なんだろうか。

北周の宣帝はなんであんなに好き放題できたんだろう?

125: 世界@名無史さん 投稿日:2010/06/10(木) 01:21:24
>>124
短期的になら北朝・南朝問わず無茶する皇帝は多いわけで、
北周宣帝は殺される前に死んだから、
そんな印象が強いのかもなあとか思わんでもない。
後数年でも生きてたら、元凶の刑か東昏侯の刑に処されてただろうし。

126: 世界@名無史さん 投稿日:2010/06/10(木) 22:46:00
北周宣帝は楊堅に毒殺されたんじゃないの?


宣帝

宣帝(せんてい)は、北朝北周の第4代皇帝。武帝の長男。

皇太子ではあったものの周囲からはその資質を疑問視されており、父武帝から厳しい教育を受けた。その内容は杖で激しく殴打されるなど厳しいもので、武帝が崩御した際に杖で打たれた痕を撫でながらその死が遅すぎると嘆いたと史書に残されている。
酒色遊興のため政治を天元皇后の父親である楊堅に一任し、楊堅の専制を招いたことが北周の滅亡の要因となる。


127: 世界@名無史さん 投稿日:2010/06/11(金) 18:30:54
>>126
静帝が殺されたことは史料上に記録として残ってるけれど、
宣帝については公式には無いっす。非公式にあるのかどうかは知らないが。

でも、殺されていたとしても驚くほどのことでもないけれど、
宣帝をなんとしてでも排除しなければならない理由と
それができるような環境が楊堅にあったとも
思えないというところですか。まだまだ政敵もいっぱい残ってましたし。

128: 世界@名無史さん 投稿日:2010/06/11(金) 23:04:47
宣帝は皇后を五人も立てたり、静帝生母が宣帝より12歳も年上だったり
かなりの好色家だよな。

129: 世界@名無史さん 投稿日:2010/06/12(土) 15:05:56
宣帝は欲望のままに、自分の気持ちいい事だけやって死んだ皇帝だと思う。
他人への配慮や想像力は皆無。

131: 世界@名無史さん 投稿日:2010/06/13(日) 22:11:51
>>129
事跡は各々、後継政権に誇張されたとしても、
実際の所、劉宋後廃帝や南斉東昏侯、北斉後主と
そう変わらんだろうというのが個人的な考えなんだけど、
宣帝は上皇ポジションに逃げることで長生きと報復回避を図ろうとする程度に
知恵が働く辺り、悪質さは感じるよね。

130: 世界@名無史さん 投稿日:2010/06/12(土) 16:49:04
でも同時代に高緯というもっと酷い皇帝がいるのが恐ろしい。

132: 世界@名無史さん 投稿日:2010/06/13(日) 22:56:19
武帝が死んだときに「死ぬのが遅い」と罵った話は、
東昏侯が明帝の葬儀で大笑いした話にそっくりだ。
酔った勢いで殺戮とかしない分だけマシだが。

133: 世界@名無史さん 投稿日:2010/07/26(月) 11:06:51
南朝スレも劉宋スレもなかったのでこちらで質問させて下さい。
東晋以来、宋が領有していた山東半島が北魏に奪われた詳しい経緯を教えて下さい。
またその年代について、ネットのサイトでは5年か6年ずれた別の年次があげられており、どっちが間違いとすれば何を誤ったのか?
あるいは宋書と北魏書とで記述が違うのか?
あるいは5、6年に渡る長い経緯があったのでしょうか?

134: 133 投稿日:2010/07/26(月) 14:17:30
5、6年じゃなくて4年でした。
ネットで拾った情報では
469年と472年の両説みつかりましたが
どっちも典拠は明示されてませんでした。

135: 世界@名無史さん 投稿日:2010/07/28(水) 23:13:48
>>134
469年については
『資治通鑑』泰始五年(469)正月条
乙丑、魏人抜東陽、~(略:沈文秀が北魏に帰順するくだり)。於是青・冀之地尽入於魏矣。
なんだと思う。他にも
『魏書』皇興三年(469)四月条 に 「劉彧遣使朝貢」
『宋書』泰始五年(469)十一月条 に 「索虜遣使献方物」
とあるのは、上記の停戦後の外交処理ではないかなーと。

136: 世界@名無史さん 投稿日:2010/07/28(水) 23:22:16
上追記
『魏書』皇興三年五月条 「徙青州民於京師」も。
こういうように、三長制・俸禄制の確立以前の北魏って
「土地を支配する」って感覚、もしくは地方行政への意識に
まだ伝統的な漢族とずれがあると思う。
だからどこそこを制圧したみたいな記述があっても、
現代的な感覚での国境線が引けないというか。

137: 世界@名無史さん 投稿日:2010/07/28(水) 23:50:19
ついでに472年までだけど、これといった記述は見当たらないなー。
宋は明帝崩御前後のごたごた粛正人事、北魏は二重朝廷の状態でそれどころじゃなさそうな。
前年末に垣崇祖が北魏の東?州(多分、山東半島の南部)に侵攻してるけど、撤退してるくらい。
これを山東奪回の最後の機会と見たとかかも?
その後、戦線はどんどん南下していきますし。



引用元: ・【北魏・北斉】北朝総合スレッド【北周・隋】






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