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1: 日本@名無史さん 2014/08/02(土) 22:06:11.03 .net
大内氏は帰化人とか朝鮮人とかいう何も知らない奴らはスルーで。
盛り上がって行きやしょう‼︎






大内氏

大内氏
(おおうちし)は、日本の氏族の一つ。本姓は多々良氏。百済の聖王(聖明王)の第3王子の後裔と称していた。

周防国府の介を世襲した在庁官人から守護大名、そして戦国大名へと成長し、周防・長門、石見、豊前、筑前各国の守護職に補任されたほか、最盛期には中国地方と北九州の6か国を実効支配した。家紋は「大内菱」。





4: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 03:59:44.69 .net
大内氏って無名だったんだ

8: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 10:08:59.00 .net
>>4
なんか織田とか毛利より無名じゃない?歴史の陰にいる感じ。

7: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 09:59:55.05 .net
南北朝からずっと戦をし続け、足利義満から討伐も受けたのに
代々勢力を拡大してきた奇跡の大名家

9: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 10:32:57.29 .net
義弘、盛見、持世、義隆と横死にした当主が結構多い。
特に義弘から持世までは3代続けて。

11: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 10:42:16.54 .net
>>9
義隆は別ケースの横死にだよね。唯一家臣からやられたって感じ。
そもそも陶を家臣と位置づけるかわかんないけど。
大内 義隆

大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。周防国の在庁官人・大内氏の第31代当主。

義隆の時代には大内文化が爛熟して大内家は全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。


15: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 12:39:27.38 .net
陶晴賢の傀儡かと思いきや晴賢死後2年も持ちこたえた義長も案外すごい

20: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 17:11:37.83 .net
義興の代で義稙を擁立して上洛して短期間だが天下人だった。


大内 義興

大内 義興(おおうち よしおき)は室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。大内氏の第30代当主。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。



21: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 17:28:21.53 .net
管領にもなってたしな

12: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 12:24:57.19 .net
北九州人からすると大内は戦闘民族のように感じる

14: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 12:29:41.68 .net
だって渡来系騎馬民族だからな

16: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 12:47:39.93 .net
>>14
大内氏が百済から来日したのは可能性低いんだよなぁ。
だって聖徳太子から大内県貰ったとかありえんし。
元になったことはあったとしても後世に無理矢理調べた感あるし。
他が藤橘源平ばっかだったから厨二的プライドがあった&貿易有利に進めたかったんじゃないかと

22: 久米評督 2014/08/03(日) 17:41:25.16 .net
>>16
完全に僭称でしょ。
管領細川あたりと対抗するにも、足利支流の細川に対し、賜姓皇族名乗るのは無理だから、渡来系名乗って
家格あげようとしただけでしょう。
長宗我部の始皇帝末裔とかも、一条氏との対抗上のもんで、
本当じゃないでしょうね。

59: 日本@名無史さん 2014/08/28(木) 07:21:23.53 .net
>>22
渡来系名乗って家格を上げるはないと思う。渡来系だっせ~が正直なところ。
平安遺文読んでたら、延喜の頃の周防の文書に「多々良」って姓が出てきてるよ。
大内はあまりに知られすぎて詐称するチャンスがなかったとしか思えん。

102: 日本@名無史さん 2014/09/24(水) 17:19:51.96 .net
>>59
でもそれを強調したのはワケが有りそう
当時は朝鮮は陶磁器や木綿、活字を作る先進国と思っていたとか?

24: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 18:17:43.82 .net
大内本家は滅亡したけど大内氏の分家の山口氏は残ってる

25: 日本@名無史さん 2014/08/03(日) 21:33:37.38 .net
もし、大内氏が大寧寺の変をのりこえて織田と対立してたらどうなったのかめっちゃ気になる

大寧寺の変

大寧寺の変(たいねいじのへん)とは、天文20年8月28日 - 9月1日(1551年9月28日 - 9月30日)にかけて起こった、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた政変。この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。後年の本能寺の変と並ぶ下克上の事例ともいわれる。


26: 日本@名無史さん 2014/08/04(月) 00:41:54.02 .net
北九州を奪還した持世の死に方があっけなさ過ぎ


大内 持世

大内 持世(おおうち もちよ)は、室町時代中期の武将、守護大名。大内氏の第12代当主。

幕府から大友持直・少弐満貞追討命令が出されると九州に下向、安芸・石見・伊予の国人衆や河野通久・大友親綱らと協力して少弐満貞・資嗣父子を討ち取り、大友持直と戦い勝利して勢力を拡大した。翌年に少弐嘉頼・大友持直が再挙兵すると永享7年(1435年)に再び九州に向かい北九州を平定、少弐氏を滅亡寸前までに追い込み、続いて九州千葉氏の内紛にも関与した。

永享11年(1439年)九州遠征を終えた持世は山口に帰還するが、大内氏の勢力が急速に拡大していくことに不安を覚えた足利義教は6月に持世が上洛命令に応じないことを理由に安芸国の所領を没収する。持世は、永享12年(1440年)に将軍・足利義教(義持の弟)に少弐嘉頼・教頼兄弟との和睦を取り持ってもらうことで少弐氏を存続させ、合わせて自身も上洛した。

当時、足利義教によって一色義貫・土岐持頼が殺害される事件があり、持世の身の上も危惧されたが、嘉吉元年(1441年)3月に持世が義教に反抗していた異母弟の義昭を匿っていた薩摩国の島津忠国を持世が説得してその首を差し出させたことが義教に評価されて信頼を得た。だが、この年の6月24日、赤松満祐が結城合戦の戦勝祝いにと祝宴を開いた時、持世も義教に従って臨席していたが、義教は満祐に暗殺され持世も重傷を負い、それがもとで7月28日に死去してしまった(嘉吉の乱)。享年48。



27: 日本@名無史さん 2014/08/04(月) 12:17:28.88 .net
嘉吉の乱は突発的なものだからしょうがない

3: 日本@名無史さん 2014/08/02(土) 23:58:52.16 .net
足利義満は大内義弘を討って大内家の力を削ごうとしたが実はあまり上手くいかず
幕府に反抗的な盛見の大内家継承を認めざるをえなかった


大内 義弘

大内 義弘(おおうち よしひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。大内家の第25代当主。

室町幕府に従って多くの功績を立てた名将で、大内家の守護領国を6か国にまで増加させて大内家最初の全盛期を築く。しかし功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎた事が有力守護大名を危険視する足利義満に目をつけられ、応永の乱を起こすも敗死した。


28: 日本@名無史さん 2014/08/04(月) 16:51:17.52 .net
義満と戦って死んだ義弘カッコよすぎ。しかも最後の晩餐までしとるし。
ただ、義満に従わなかったのは賢くなかったかも

30: 日本@名無史さん 2014/08/04(月) 17:08:26.90 .net
盛見も義弘同様に義満に従わずに
義満が家督相続させる予定だった弘茂を討って家督を認めさせたな

43: 日本@名無史さん 2014/08/06(水) 23:27:49.67 .net
室町時代は面白いネタも沢山あるんだけど
悲しいかな一般的には複雑で判りにくいんだな。

大内家の南北朝から戦国初期まで最も輝いた時期も、
その不人気に割り食らってるな。

57: 日本@名無史さん 2014/08/19(火) 00:34:14.72 .net
こないだ宇部の道沿いに乱刀が鼻っていう地名の説明があって
大内弘世vs厚東氏の戦で厚東側の人が霜降山城から逃げてきて力果てたとこなんだって

60: 日本@名無史さん 2014/08/28(木) 18:01:11.47 .net
多々良=大内氏っていうのがちと厄介

67: 日本@名無史さん 2014/09/15(月) 07:35:32.10 .net
大内氏とはアメノヒボコ集団というより、多々良、鉄工職人を中心とした職人集団だろう?
ツヌダガアラヒトとか角がある高句麗系の兜を作ったのも彼らだろう。
鉄工には、砂鉄や鉄鉱石の買付から多々良での製鉄、上質な炭もいる。
ふいごを作るには木工、皮職人も要る。
鉄鋼から刀や包丁、鎌、ハサミなどの刃物を作るには鍛冶職人、
鍋・釜・ケトルは鋳物職人。
鎧兜を作るには飾りとなる錦もいるので錦織も来た。
デザイナーも重要な役目だし、つのだじろうや越野ヒロコの祖先とかもお越し。
鉄工業は裾野が広い産業集団になる。

戦国大名としての大内氏が滅ぶと職工集団の一部は山形にも招聘されて、
だっちゃ豆食って、だっちゃとか方言も使ってるちゃ。

68: 日本@名無史さん 2014/09/18(木) 20:12:46.75 .net
面白い説だが、多々良氏の由来は防府にある地名からや。
今でも残っとる地名やで。ただその多々良の地名の由来は鉄やらに関係しとるやろな。海沿いやし、渡来人が住み着いた可能性は高い。

243: 日本@名無史さん 2015/11/23(月) 08:47:26.30 .net
多々良姓大内氏が百済の聖明王の第三王子琳聖太子であると説いたのは大内氏二十五代にあたる義弘から。

新撰姓氏録には多々良公は「出自御間名国主尓利久牟王也」と百済の王ではなく任那日本府の王と書いてある。

多々良は百済王の子孫ではなく日本人支配者層が濃厚であった任那日本府の王の子孫である可能性が高い。

246: 日本@名無史さん 2015/11/25(水) 11:56:53.83 .net
>>243
任那でも、一応、諸蕃の家だから
帰化系で間違いないと思うぞ、多々良氏は。

任那王家は倭人ではなく、あくまでも半島系の出自の王家だが
倭国の軍事的な支配下にはいっていた。

71: 日本@名無史さん 2014/09/20(土) 07:06:54.40 .net
大内って元々は薩摩島津みたいに鎌倉からくだってきたのか
京からくだってきたのか
こくじんあがりなのか
実際のとこはどの線がこいの?

72: 日本@名無史さん 2014/09/20(土) 23:14:22.20 .net
スーパー土着上がり。古より周防国府にて活動しており、
いつのまにか武士化。よって源平橘藤を名乗ることなく
百済国聖明王第三皇子琳聖太子が周防多々良浜に流れ着いたことから
元は多々良氏を名乗った。異質の出自であり現代なら右翼団体と喧嘩しそう。
その後住いを吉敷郡大内に移したため大内氏を名乗った。その後弘世の時代
には山口に住いを移し、西の京山口として発展していくのである。

長くなったが結局東国武士などでは全くない。それ故、現代においても山口の人々に大内氏が親しまれているのかもしれない。

76: 日本@名無史さん 2014/09/21(日) 14:05:02.91 .net
大内教弘はガチ売国奴。
大内氏に代わって、対馬宗氏が日朝貿易の窓口になったとき、自分の利権を守るため、
一緒に対馬を攻めてくれればプレゼントしますよ、と朝鮮に申し出てる。
対馬を攻めると倭寇が活発になるから、と朝鮮は断ったが…。

ttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no81_04.pdf

80: 日本@名無史さん 2014/09/21(日) 18:35:47.73 .net
>>76
当時は「国家」という概念が薄かったのでは?
それよりも自分が治めてる国を如何に上手く経営するかを主眼に置いてるからそうなるんじゃないかな

81: 日本@名無史さん 2014/09/21(日) 23:09:39.86 .net
宗は不倶戴天の敵である少弐の被官でしつこく少弐を支援してるので
大内からしたら気を見て攻め滅ぼしたかった

83: 日本@名無史さん 2014/09/22(月) 21:37:31.21 .net
>>81
大内氏はわざわざ少弐氏を倒すために官位を取ったからな。大宰大弐だったっけ?なんか違うな。

90: 日本@名無史さん 2014/09/23(火) 20:19:11.45 .net
大内の勢力崩壊も山名や細川とは違ってあっという間に済んだ所が守護大名的ではないね
戦国大名的な信用崩壊パターン

91: 日本@名無史さん 2014/09/23(火) 21:55:02.08 .net
>>90
冷泉隆豊を始めとする最期まで義隆についた家臣達もいてだな…あと、陶家にも関わらず法泉寺に残って義隆一行を逃がしたやつもいたな。名前忘れたが。大寧寺の変はもっと有名になるべき。いろんなドラマがあって俺は本能寺の変より興味深く思う。

92: 日本@名無史さん 2014/09/23(火) 22:04:03.94 .net
ちなみに大内家は早くから戦国大名化が進んだという解釈もできる。
分国法はめちゃ早く出してたし、山城はもともと持ってなかったし。
政治体制も評定衆があったりと幕府のような独自の領国経営をしてた。
ただ信長とは違いあくまで幕府の支配下のもと成長した感がある。
んで戦国大名化してすぐに倒されたから守護大名としての印象が強い。

93: 日本@名無史さん 2014/09/23(火) 22:27:01.00 .net
大内家は痴情の縺れで扱った方が、ドラマにはなる

97: 日本@名無史さん 2014/09/23(火) 22:53:50.83 .net
大内義隆をドラマ化できんのは腐女子御用達だから?まぁそんなわきゃないか。描きづらいからかな?
他にも男色大名ていないの?

101: 日本@名無史さん 2014/09/24(水) 02:57:33.47 .net
寵愛してた陶に反乱おこされたせいで、男色大名みたいに言われてるのが惜しいわ
実際は男も女も関係ない両刀だし、地元の言い伝えレベルだけど
「美しい者は老若男女問わず大内様に連れてかれる」という風だったらしい

陶隆房にしても、当時の男色の感覚としては、
筆頭家老の息子だったら目を掛けないわけにもいかないし
マウンティングして上下意識を植え込ませなきゃいけないもんな

103: 日本@名無史さん 2014/09/24(水) 17:22:47.26 .net
ほんとにそんな伝承があるのか?w

111: 日本@名無史さん 2014/09/24(水) 21:01:01.61 .net
別に男色だからと言って嫌いになるわきゃない。
この時代じゃ珍しくはなかろう。義隆の相手として隆房以外にも安富源内っていうやつがいてだな。そりゃイケメンだったらしい。
義隆と死す時は同じという桃園の誓い的な約束をしたが、大寧寺の変の時には内藤家に逃れていたという野郎。

121: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 20:06:44.50 .net
大寧寺の変に巻き込まれて死亡した公卿を見てると小京都と呼ばれたのも納得できる。


120: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 19:49:07.34 .net
大内氏って実は滅亡してないんだよね
江戸時代に庶流が山口という名字で大名として残っている。
名門大族は滅びずってやつです。

132: 日本@名無史さん 2014/11/30(日) 19:25:47.35 .net
>>120
あの山口は尾張の地侍で、織田の家臣だったって時点で限りなく仮冒、僭称に近い。
ていうか確実に仮冒レベル。

130: 日本@名無史さん 2014/11/28(金) 07:56:16.85 .net
江戸時代も大内氏の一族は小大名では残れたんだな。
微妙に運が良い。

142: 日本@名無史さん 2014/12/17(水) 02:55:00.02 .net
官位は妙に高いよね

143: 日本@名無史さん 2014/12/17(水) 08:28:43.13 .net
管領の極官よりも上位の官位、それが大内氏

朝廷に参内したら
細川・斯波・畠山の上座は
大内さまで確定

144: 日本@名無史さん 2014/12/17(水) 12:19:02.02 .net
大内は足利一門ばかりの大守護の中でほぼ唯一の完全外様だからな。
山名といえども足利と関係なくはない家なわけで。
赤松は積極的に足利配下になってのし上がった家だし。
そんなわけで遠慮も会釈もなく金にまかせて高い官位を買い取ったんだろうね。

145: 日本@名無史さん 2014/12/18(木) 19:38:53.07 .net
対外称号 日本国王(対外貿易の総責任者)

朝廷での最高官位
従二位兵部卿(親王の任官が多い軍事の重職)
  太宰大弐(遠の朝廷である太宰府の実質最高権力職)
  左京大夫(幕府管領格のステータスもゲット)

幕府での最高役職
  山城守護・管領代(京の実権も掌握)

応仁の乱後の山口は公卿も逃れてきたという文化都市

准天下人グループの 細川・三好・織田を超えていると思う
大内こそ隠れ天下人ww

154: 日本@名無史さん 2015/04/23(木) 19:29:53.23 .net
大内氏は西国一の大名で防州山口を
当時、日本一の人口(4万人)にまで
膨れ上がらせ、京都など並び
日本の主要都市として海外の新聞に
紹介されたり、宣教に来たキリスト教徒が
西の京都と呼ぶほど繁栄させたやり手。

もちろん百済王の末裔なんて嘘。
百済人でもなければ朝鮮人でもない。
朝鮮との貿易を対馬と争ってた時に
突然、百済王の末裔を自称しただけ。

大内氏が現代であまりフューチャーされないのは
武人の色が薄いからだと個人的に考えている。
大内氏は現代人から見ると文化人、商人に見えてしまうから
戦乱好きな戦国ファンからすると興味が湧かないのかと。

京都、明、朝鮮、西洋の文化を受け入れ
大内文化を形成したり、長州や筑州を領地にして
貿易に精を出し、公家とも付き合う
大内氏は部下の陶氏(字あってる?)に下克上され
最後は芸州広島の毛利氏に討たれて滅亡。

しかし、完全に滅亡したわけではなく
大内氏の親類の一部は今の茨城県牛久に
辿り着き、山口氏と名乗り、牛久で大名になったのであった。

155: 日本@名無史さん 2015/04/23(木) 23:00:53.98 .net
>>154
八幡和郎のおかげで、ある程度注目されるようになったけどね、大内氏。
ちなみに、八幡和郎は、大内義興を、秀吉、信長に次ぐと言って高評価した。

157: 日本@名無史さん 2015/04/24(金) 19:35:32.43 .net
>>155
西国を制覇してた大名だしね。
大内氏が制覇した所を横取りできたのが毛利氏(笑)

197: 日本@名無史さん 2015/08/19(水) 00:45:28.46 .net
ほんと大内は貿易で、資金力はあったからな
ともかく資金力はあった

198: 日本@名無史さん 2015/08/20(木) 06:47:04.71 .net
大内vs細川のライバル関係とか面白い。室町時代の華

200: 日本@名無史さん 2015/08/20(木) 19:12:04.67 .net
大内の時代って世界地図に山口が載ってた
日本の中で京都や博多と並んで表記
それでどれだけ栄えてたかわかる
今は見る影もない

204: 日本@名無史さん 2015/09/20(日) 20:32:35.31 .net
戦国時代ニワカのやつが
毛利元就って周りに大内とか尼子みたいなマイナーな大名しかいなくてラッキーだよねって
本気で思ってるのがマジで許せない
当時の中国地方の重要性を理解してないやつ多すぎる

205: 日本@名無史さん 2015/09/20(日) 22:07:43.04 .net
両国共にカリスマ指導者が死んで、馬鹿殿がトップに就いたのは運がいいね。
ああじゃなきゃ両方倒すなんて離れ技は難しいよ。

207: 日本@名無史さん 2015/09/20(日) 23:29:09.55 .net
大内義興
no title

no title

208: 日本@名無史さん 2015/09/20(日) 23:32:47.69 .net
上の香山公園の銅像は大内弘世だったorz

大内義興
no title

212: 日本@名無史さん 2015/09/21(月) 03:16:05.21 .net
山口で大内氏ってどういう扱いなの?

213: 日本@名無史さん 2015/09/21(月) 03:29:31.17 .net
大内氏は山口市ではもてはやされてる
県内のそれ以外の地域だと、やはり毛利氏が優勢(例外で岩国市は吉川氏)

県外だと、広島県に大内氏関連の史跡が点在してて、
そこそこ取り上げてくれてる

214: 日本@名無史さん 2015/09/21(月) 10:58:24.45 .net
山口市はその街並みを整えた大内色が強い感じだけど
それ以外、萩や下関や岩国は、毛利って感じ

227: 日本@名無史さん 2015/09/21(月) 21:09:11.75 .net
勘合貿易か私貿易でぼろもうけして博多商人とは仲がよろしく
なかったのかねー

228: 日本@名無史さん 2015/09/21(月) 21:41:43.11 .net
>>227
網野善彦によると
大内氏は博多商人と、細川氏は堺の商人と癒着してたみたいだが



引用元: ・☆無名の大大名 大内氏について語るスレ★





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