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1: 日本@名無史さん 2011/12/20(火) 19:37:25.25 .net
偉人








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赤松 則村

赤松 則村(あかまつ のりむら)は、日本の鎌倉時代から南北朝時代の武将、守護大名である。播磨守護。法名の円心(えんしん)でも知られている。

後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した元弘の乱において、元弘3年(1333年)1月21日、後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を受けて反幕府勢力として挙兵する。2月11日には早くも六波羅軍2万が攻め寄せてくるが、赤松軍得意の野伏り戦を展開し、これを撃退した。

鎌倉から派遣された追討軍の大将軍名越高家・足利高氏(尊氏)の出陣を知ると迎撃に出陣、久我畷の合戦において一族で家臣の佐用城主の佐用範家が名越高家を討ち取って戦は終わった。この戦の後、高氏は畿内の領地である丹波篠村へ向かい、兵を集めて2万3000騎で反幕府として挙兵した。円心も5月8日に千種忠顕や結城親光、高氏らに合流して京都を包囲、六波羅を陥落させた。六波羅探題北条仲時・北条時益は落ち延びる途中で捕捉され自殺、関東では新田義貞・足利義詮が鎌倉を落とし、元弘の乱は終結した。

鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では、恩賞に播磨守護職を与えられながら、政争に巻き込まれ没収されるなど不遇であった事が知られている。これは朝廷内の権力争いの結果、護良親王派が三位局(阿野廉子)派に敗れた結果といわれる。同じく護良派といわれる楠木正成も戦功に比べ不遇であり、逆に三位局派の名和長年、千種忠顕等は新政の恩賞で厚遇されたという。また、共に倒幕戦争を戦った護良親王が建武元年(1334年)に失脚すると円心の新政における立場は失われた。怒った円心は佐用庄へ帰っている。

以後は足利方として戦い、京都方面から進撃してきた義貞を総大将とする尊氏討伐軍6万騎を、播磨赤松の白旗城で迎え撃った。円心は、則祐を配した城山城などの城郭を播磨各地に築き、市川沿いに書写山を中心とする第一防衛線、揖保川沿いにを城山城を中心とする第二防衛線、そして千種川沿いに白旗城を中心とする第三防衛線をもうけて徹底抗戦を行った。さらに白旗城は、地理的に北方の美作、但馬方面、西方の備前からいくらでも支援が可能という強みを持ち合わせていた。そのため義貞率いる討伐軍は、円心以下2千の兵が立て籠る白旗城を圧倒的な兵力を持ちながら攻めあぐね、3月から5月まで50日以上釘付けにされた。

尊氏及び執事の高師直と弟の足利直義が対立した観応の擾乱においては尊氏に従い、尊氏の庶子で直義の養子である、直義方の直冬を追討するために軍を編成している最中、正平5年/観応元年(1350年)1月11日、京都七条にある邸宅で急死した。享年74。





7: 日本@名無史さん 2011/12/30(金) 21:16:30.47 .net
則村は過大評価気味だと思うがな

8: 忍法帖【Lv=5,xxxP】 2011/12/30(金) 22:43:16.07 .net
むしろ過小やん?

9: 日本@名無史さん 2011/12/31(土) 17:57:34.48 .net
過大過小評価される以前に知名度が低すぎて、あんまり存在知られてないのが現状

10: 日本@名無史さん 2012/01/01(日) 11:07:10.55 .net
足利四天王というものを想定するとするなら
まず間違いなく入る

14: 日本@名無史さん 2012/01/02(月) 16:52:37.39 .net
足利尊氏四天王
佐々木道誉、赤松円心、今川範国、上杉憲房

20: 日本@名無史さん 2012/01/09(月) 08:30:42.49 .net
>>14
佐々木と赤松は元は足利の家臣じゃないから
四天王には入らなくない?

12: 日本@名無史さん 2012/01/02(月) 05:11:07.53 .net
新田義貞を食い止めなければ
室町幕府もなかったのに

13: 日本@名無史さん 2012/01/02(月) 07:48:38.67 .net
六波羅陥落については間違いなく第一の殊勲者だよな。
決定打は高氏の謀反であるけれども。

もう少し恩賞を与えておけばよかったものを。
護良の失脚も痛かったな。

白旗城攻防については義貞を責めるのは酷だ。
あれは他の人間でも抜けない。

17: 日本@名無史さん 2012/01/03(火) 02:50:26.20 .net
円心に限らず護良の組織した武将は後醍醐からは冷遇された
後醍醐と護良の政治思想の違いが影響したか?
護良の没落後反新政を明確にした尊氏側に付くのは当然の帰結

23: 日本@名無史さん 2012/01/18(水) 17:27:05.65 .net
>>17
護良は後醍醐天皇に出家して比叡山の主(天台座主)となることを命じられ
建武の親政時にも当初比叡山に戻るよう言われてたのに無理に還俗した
親の言うことを聞かないドラ息子ほど嫌なものはない
後白河が出家を命じたのに勝手に還俗した以仁王を親王宣下も与えず冷遇したようなもんだ

18: 日本@名無史さん 2012/01/03(火) 03:08:11.08 .net
護良が後醍醐がある意味疎まれたのは
・自分の完全なコントール下に置けない
・阿野廉子の存在

後醍醐は政治的には有能だが一人よがりの事も多く・・・

24: 日本@名無史さん 2012/01/18(水) 18:32:19.77 .net
ただ護良がいなければ後醍醐は後鳥羽のように死ぬまで隠岐で暮らさなければならなかっただろう。
護良が令旨をばらまかなければ畿内の反幕勢力を組織化することはできなかっただろう。

25: 日本@名無史さん 2012/01/18(水) 19:48:52.94 .net
>>24
足利尊氏や新田義貞は護良親王の令旨によって後醍醐に寝返ったわけじゃないからな
後醍醐天皇は護良の力によることなく隠岐を脱出、楠木などもこの時に
直接後醍醐のもとへ臣従している。
護良が動かなければ後醍醐は一生隠岐暮らしで鎌倉幕府は滅亡しなかったというのは
言い過ぎ。

19: 日本@名無史さん 2012/01/03(火) 14:43:12.32 .net
活躍出来たのは悪党(集団)戦術?
ある本に赤松勢の鏃の写真があったが、特別な鉄を製造していたとかなんだろうか?

21: 日本@名無史さん 2012/01/09(月) 23:35:43.12 .net
円心が京都を脅かした頃は
・探題方 騎馬武者主力
・円心  槍持ち歩兵主体

太平記の記述だが

29: 日本@名無史さん 2012/02/28(火) 17:35:12.94 .net
白旗山城跡見たけど
よくあんな小城で大軍防げたな
でもよくできた城だった

これは戦国時代だが
逆に竹田城なんか
よく一日で抜けたなとも思うわ

36: 日本@名無史さん 2012/10/05(金) 01:16:54.25 .net
>>29
今残っている但馬竹田城の遺構は慶長年間に築かれたもので、それ以前は
もっと簡素な城で石垣もなかったそうです。

58: 日本@名無史さん 2013/10/16(水) 22:57:40.77 .net
>>29
城の規模でなくいかに要害かがポイントだから
しかし尾根筋に出るまでの涸沢登りはホント地獄だわ
あんなとこ武具馬具のフル装備だったら絶対登られん
ナンボ兵隊の数頼みで攻めてもムリだわ

31: 日本@名無史さん 2012/05/08(火) 21:56:18.37 .net
範資と則祐って読み方が同じでまぎらわしい

36: 日本@名無史さん 2012/10/05(金) 01:16:54.25 .net
>>31
たしかに紛らわしいですね。
則祐は、太平記の現代語訳付きの本で「そくゆう」と読み仮名が降って振ってあるのを見たような気がします。
そうやって区別するしかないのでしょうかね。

33: 日本@名無史さん 2012/08/25(土) 02:24:53.50 .net
悪党だから後醍醐は冷遇したのか?

36: 日本@名無史さん 2012/10/05(金) 01:16:54.25 .net
>>33
昔は地方豪族のことを「悪党」と読んでいたらしいです。
何も悪人だからではないらしいです。

歴史の「たら・れば」を語る時、よく本能寺の変が起きなかったらとか、
関ヶ原で小早川秀秋が西軍についていたらとか言われますが、
建武の新政が続いていたらとは、あまり言われませんね。

37: 日本@名無史さん 2012/10/06(土) 09:24:29.90 .net
>>36
結局建武政府崩壊後の足利幕府は本拠地を京にしたように基本的に継続しているからな。
「たら・れば」を語るのは観応の擾乱だろ。幕府の基本理念を打ち立てた直義がいなくなって
これ以後義満まで内ゲバが続くんだからな。

34: 日本@名無史さん 2012/08/31(金) 00:23:03.69 .net
んー
後醍醐天皇は赤松や佐々木だけでなく、楠木あたりも冷遇してますから
結局のところ、古代律令制への回帰が目的であり、
それ以降に出てきた階層はすべて排除するつもりだったんではないでしょうか

35: 日本@名無史さん 2012/08/31(金) 01:23:32.72 .net
名和とか結城は厚遇されてるだろ
やはり護良と関係が深かったのが一番だと思うよ

38: 日本@名無史さん 2012/10/29(月) 14:39:28.60 .net
子孫が将軍殺したんだっけ

40: 日本@名無史さん 2012/12/01(土) 23:42:43.02 .net
赤松満祐:将軍義教を自邸に招いて殺害した人。その後どうなるのかよく考
えてなかったため討伐されてアボーン。

赤松則繁:将軍が逃げないように腕をつかんでいた人。事後あちこち逃げ回った
あげく朝鮮に渡り倭寇の棟梁になって大陸の沿岸を荒らしまわる。清水将軍
と呼ばれて自己満足。ホームシックになってこっそり帰国したところを捕まっ
て処刑される。日本の恥さらし。

赤松政則:自分に能力が無いくせに他人の力で赤松家を再興したために、
歴史の教科書の試験に出ないから誰も見ない守護大名の勢力分布図に登場する人。
鷹狩りに行った寺で若くして急死。暗殺嗅がプンプンするのにそれを疑う声が
皆無。他力本願の人生だったため、いてもいなくても良かった人。

赤松義村:養子のため養母の洞松院に頭が上がらず。戦乱で逃げてきた将軍の子を
匿ったりといい人なんだけど家臣を統制できず、暗殺されてアボーン。

赤松政村:美作と備前を没収された人。いろいろな災難があってあっちこっち
逃げ回ったあげく周囲の信用を完全に失ったため、将軍の名前の一字をもらっ
て「晴政」と改名してみたが効果無し。息子に追い出されてアボーン。

41: 日本@名無史さん 2012/12/02(日) 02:06:18.57 .net
はりまのキャラクター特集 > 円心くん・エイトちゃん

円心くん
上郡町の歴史的な英傑「赤松円心」の木像をもとい描かれたもので、昔の童を表現することにより、
上郡町の歴史をアピールするキャラクター。
no title

http://harimarche.com/kikaku/characters/enshinkun_eightchan.html

これはw

44: 日本@名無史さん 2013/01/27(日) 17:38:42.95 .net
楠木は冷遇されてるっつっても河内やらいろいろもらってるのに対して、
赤松は恩賞もらうどころか持ってる権益すら奪われたわけだからねぇ。
赤松の倒幕における功績は正成に勝るとも劣らないものなので、
まあ、建武新政で一番の不遇でしょう。


71: 日本@名無史さん 2014/06/10(火) 21:32:01.85 .net
>>44
楠木は 河内守兼左衛門尉 摂津 和泉 の 守護。赤松は、播磨守護を取
りあげられて佐用庄の地頭にのみ。

45: 日本@名無史さん 2013/02/23(土) 22:19:16.82 .net
 
円心こと赤松則村が後醍醐一派の倒幕運動に加担した契機は、何だったの?

46: 日本@名無史さん 2013/02/24(日) 01:25:53.37 .net
三男ののりすけが比叡山延暦寺で僧になってて、その時の天台座主が護良親王という縁

48: 日本@名無史さん 2013/03/15(金) 21:07:11.42 .net
北方謙三『悪党の裔』読んだ。面白かったが、ちと円心が老成しすぎのような…

50: 日本@名無史さん 2013/05/28(火) 16:13:23.88 .net
元弘の乱まで何してたかもよくわからん

51: 日本@名無史さん 2013/05/28(火) 20:02:24.15 .net
赤松氏が春日社を信仰してるのが謎
村上源氏は後付けで、実は藤原氏の後裔だったのか?

52: 日本@名無史さん 2013/05/31(金) 19:31:08.81 .net
別に村上源氏でも春日神社の氏子やってて不思議ではない

55: 日本@名無史さん 2013/06/05(水) 08:48:58.64 .net
そもそも村上源氏はその出自からして摂関家の一門といっていいほど藤原摂関家と関係が深い。
村上源氏を名乗る以上春日社を尊崇して当然。

60: 日本@名無史さん 2014/02/02(日) 17:49:30.86 .net
龍野赤松氏は赤松氏の直系支族ではなく、宇野氏が赤松姓を賜姓した家系
宇野氏自体は赤松氏の本来の宗家筋らしい

61: 日本@名無史さん 2014/02/02(日) 22:42:56.83 .net
龍野赤松氏は、嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主 赤松政則の
実子が始祖と言われているから血筋的には総領家より、正統と言える。

赤松政則の子の村秀は、庶子であったために一族の支持を得られず家督相続することができなかったため
赤松家は娘婿の赤松義村が継ぐこととなり、村秀は塩屋城主・宇野政秀の養子となり、後に宇野政秀が龍野城を
築城すると、その城主となったという物である。

62: 日本@名無史さん 2014/02/03(月) 12:59:39.80 .net
神戸の小さな城の主の名前みたら、ほとんど赤松氏族だな

64: 日本@名無史さん 2014/02/08(土) 22:13:11.33 .net
>>62
御着の小寺氏も赤松の支流だしな

黒田氏はよく姫路の領主になれたもんだw

89: 日本@名無史さん 2015/11/01(日) 09:30:51.59 .net
>>64
黒田が姫路城に入城した頃は赤松家臣が播磨各地の土地を牛耳っていて赤松の威光は風前の灯火だったからねえ

68: 日本@名無史さん 2014/05/20(火) 02:00:06.41 .net
赤松のりすけ

69: 日本@名無史さん 2014/05/20(火) 02:32:51.34 .net
そくゆうとも

70: 日本@名無史さん 2014/05/31(土) 23:51:31.39 .net
>>69
範資(のりすけ)=円心の長男
則祐(そくゆう)=円心の三男

則祐を「のりすけ」と呼ぶ辞書や書物がけっこうあるが
二人は兄弟で生きている時代がモロかぶりなので「のりすけ」といえば範資の方をいい、
則祐は「そくゆう」と呼ばれていたと考えるのが自然。

79: 日本@名無史さん 2014/09/29(月) 00:23:42.34 .net
>>70
大内義隆と大内義尊とか

80: 日本@名無史さん 2014/11/01(土) 08:21:43.90 .net
宮本武蔵も赤松なの?

88: 日本@名無史さん 2015/10/24(土) 09:06:43.52 .net
>>80
確か違うんじゃないかな
生まれが佐用町に近い美作・大原で初めての決闘場所が佐用町平福
大原と平福は鎌坂峠を挟んで隣同士なのでよく行き来していたらしい
ちなみに播磨と備前・美作の往来には船坂峠や杉坂峠など厳しい峠ばかりなので
言語・文化が完全に分断され現代に至っているという
その境界の中で鎌坂峠は比較的穏やかな峠だったためよく往来されていた
そのため佐用町はかつて美作国に属していた時期もあった

91: 日本@名無史さん 2015/11/03(火) 23:03:10.27 .net
考えれば赤松って出世頭だな

92: 日本@名無史さん 2015/11/04(水) 13:28:35.52 .net
赤松と楠木、どっちが身代でかい?

93: 日本@名無史さん 2015/11/05(木) 02:54:18.08 .net
凄く微妙なところだが、最近の研究だと楠木の方がほんの少し上かな?

94: 日本@名無史さん 2015/11/08(日) 06:31:01.90 .net
>>93
だが、正成と一緒に千早に篭ったのは700余。円心は京都に到達した時10000
を超えていた。

95: 日本@名無史さん 2015/11/25(水) 16:41:43.24 .net
兵糧の問題もあるし、篭るのは少数精鋭で外部に撹乱用や連絡用の人員を残しておいたって事はないかな


引用元: ・赤松円心





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