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1: ・・
香具師は、英雄だな!! 長岡藩の!!








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河井 継之助

河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。

慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。この慶喜の動きに対し、討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古を発し、幕府などを廃止する。一方長岡藩では、藩主・忠恭は隠居し牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛する。

慶応4年1月3日(1月27日)、鳥羽・伏見において会津・桑名を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。

藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却。その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にイギリス人の武器商人のウォーター、ファブルブラント商会、スネル兄弟などからアームストロング砲とガトリング砲とイギリス製の2,000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。

新政府軍が陸奥会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、世襲家老の首座・稲垣平助、先法家・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。

こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えてモンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした。

5月2日(6月21日)、河井は小千谷の新政府軍本陣に乗り込み、付近の慈眼寺において新政府軍監だった土佐の岩村精一郎と会談した。岩村精一郎によると、河井は奥羽への侵攻停止を訴えたが、岩村に河井の意図が理解できるわけもなく、また岩村が河井を諸藩によくいる我が身がかわいい戦嫌いなだけの門閥家老だと勘違いしたこともあり、降伏して会津藩討伐の先鋒にならなければ認めないという新政府の要求をただ突きつけるだけであった。交渉はわずか30分で決裂。

これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する。

北越戊辰戦争において長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた。

その後6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。これは軍事史に残る快挙であり、石原莞爾の陸軍大学校における卒業論文は河井の戦術を研究したものであった。

外山修造の証言によると、奇襲作戦の最中、新町口にて継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。長岡郷土史によると、新町口では無いところで床机に腰掛けていたところを西軍兵に狙撃された。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた米沢藩兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。長岡藩にはもはやこの新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の7月29日(9月15日)に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。

これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津へと移っていく。

継之助は会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。

峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとる。継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。しかし、この時すでに継之助の傷は破傷風により手遅れな状態にあった。





3: 日本@名無史さん
ガトリングガンを乱射してれば最高の志士認定かね?

何も成し遂げてないに等しいのに?

4: 日本@名無史さん
破綻寸前の財政を、立て直した所は、すごいよね!

5: 日本@名無史さん
最後の最後に自分で台無しにしたのだから、何も成し遂げていないのと同じ。

6: 日本@名無史さん
永世中立国を作ろうとしたのに、無脳の官軍の若い大将が、悪いよ

7: 日本@名無史さん
新政府か旧幕府かってときに武装中立は、ど~考えても無理だったろう。と、言ってみる。

11: 日本@名無史さん
理想に生きた人っぽい。
歴史の敗者に成るべくして成ったかんじ。

15: 日本@名無史さん
今でこそ評価されてるが
地元民には鬼のごとく嫌われてたんだろ?

17: 日本@名無史さん
知っている人は知っている、知らない人は知らないネタです。
司馬先生の「坂の上の雲」を読まれた方は多いと思います。
その小説の中において、日露戦争で秋山好古の部下として
厳しい戦線で耐えに耐えるキャラとして描かれている豊辺大佐
という男がいます。黒溝台の会戦において「沈旦堡」を3個中隊
でロシアの1師団の攻撃を防ぎきって退かなかった将校です。

その豊辺大佐は河井継之助の縁者なんです。

河井継之助の父代右衛門秋紀の弟で豊辺家(80石)に養子に
入った輔三郎の嫡孫が「豊辺大佐」こと豊辺新作なのです。

彼は後に陸軍中将・樺太守備隊司令・騎兵監までなりました。
樺太の守備隊司令って越後出身の「守り屋」らしい役職ですね。

戊辰戦争によって勝利者になった者、様子見で中途半端な立場
になった者、敗者として苦しい立場で歯をくいしばった者、いろ
いろありますよね。その時代に生きた人物はそうした環境なりに
精一杯生きて明治国家建設に関わっていったのでしょう。

18: 日本@名無史さん
>>17
通称「ばか豊辺」
但し、日露戦後は
「騎兵の豊辺」

22: 日本@名無史さん 
司馬の峠でしか知らないから多分フィクションだろーけど
その河井継之助はかなり好きだ。

23: 日本@名無史さん
うん 峠の河井継之助は好き しかし勤皇派ではなかったと思うが・・

42: 日本@名無史さん
阪神ファンは河井継之助様を讃えろ!!

43: 日本@名無史さん
>>42
何故

46: 日本@名無史さん
河井の遺言が阪神タイガースのきっかけになった。

47: 日本@名無史さん
>>46
その辺詳しくオセーテ

49: 日本@名無史さん
河井が会津の只見で死ぬ直前に弟子の外山寅太に「もうすぐ武士の時代は終わる
これからは商人になれ」と言い残した。
その外山寅太(のちの修造)が阪神電鉄の創始者になった。
阪神タイガースの「タイガース」は創始者の旧名が由来である。
ついでに素プロテニスプレイヤーの松岡修造の「修造」も外山氏の名が由来である。

494: 日本@名無史さん
>>49
>阪神タイガースの「タイガース」は創始者の旧名が由来である。
>ついでに素プロテニスプレイヤーの松岡修造の「修造」も外山氏の名が由来である。

タイガースの由来は社員からの公募。
外山脩造氏とは関係ないらしい。 lk
阪急の総帥小林一三も今西や片岡など歴代の阪神電鉄社長とは喧嘩してたみたいだけど
外山氏には一目おいてたんだな。

51: 日本@名無史さん
おれは長岡出身だが、河井好きですよ。でもさ、彼は軍人つーより商人とか
おーくら大臣みたいな印象がつえーな。武士ってかんじもしないな。
よく山中しかのすけ←変換メンドクね?と、比べられたりする美談を聞くんだが
俺はそうおもわねーなあ。彼は長岡の番頭さんなかんじ?そこは有能だった。

52: 日本@名無史さん
>>51
なんで比較の対象が山中鹿助なのかわからん?

54: 日本@名無史さん
>>52
お家すべての忠君の志って意味でですよ。

56: 日本@名無史さん
河井にしろ、山中鹿之助にしろ表の業績は皆無だが隠れた業績は多いに評価すべきだ。

57: 日本@名無史さん
二人とも評価は高いが知名度が低いだけでは?
山中鹿助の地元での知名度ってどーなんだろ?

62: 日本@名無史さん
河井継之助は弟子の外山修造を介して阪神電鉄に功績を残し
山中鹿之助は子孫を介して鴻池財閥に功績を残した。
ちなみに私の故郷(兵庫県伊丹市)では山中鹿之助の評価は高い。

67: 日本@名無史さん
河井継之助の墓は、地元民によって破壊され、
未亡人は、北海道へ逃亡したそうですな。

なぜ、そうなったかを考えてみよう

73: 日本@名無史さん
河井は負けたけど長岡藩の名誉は守ったことについては評価をするべきだ!!
小林の米百俵精神も北越戦争を薩長と互角に戦えたこそ達成できたのだ。

94: 日本@名無史さん
河井の実績なんか語っても意味なんかないよ。実績なんか日本って意味ではないだろ?
そうじゃなくて、彼が描いた絵を評価する人は多いだろ?中立である事で時代のイニシアチブ
を得ようとした考えは先見の目はあっただろうに。財務的才能も有能だろうしね。
彼が生きたまま、榎本のように官軍に取り込まれていたら、大きな足跡を残したかもしれない。
時代においてこういった人材を失った事が日本の痛手にもなってるだろうしな。

88: 日本@名無史さん
薩長も岩村のような小僧を出さずに
もう少し理解がある人物を派遣してしてくれば
河井の意見も軟化してたのにな。

90: 日本@名無史さん
小栗と河井を失ったことは明治維新最大の汚点だね。

95: 日本@名無史さん
河井の考え方は先進的過ぎて岩村や長岡市民には理解出来なかった。

98: 日本@名無史さん
>>95
徳川家の”御恩”に殉じることのどこが先進的なんだべ?

本人はとにかく、長岡市民にとっては大迷惑。

96: 日本@名無史さん
先進的なら薩長に楯突く理由がない。
戦いになったら負けるだけの奴に中立を宣言する資格が無い事にも気づいてない阿呆。

97: 日本@名無史さん
1868年5月の段階では長岡藩が勝てるチャンスはあった。
榎本艦隊の一部を新潟に派遣できてたら勝ち目はなくとも長期戦に持ち込み
長岡藩の有利な講和に持ち込めることができた。

99: 日本@名無史さん
>>97
そのイフには仮定が何個あるんだ?

101: 日本@名無史さん
河井が榎本艦隊に期待していたとは
とても思えないね

118: 日本@名無史さん
河井の場合は先進過ぎただけだろ。
小栗ぐらいしか理解できないと釣ってみる。

119: 日本@名無史さん
>>118
仮に河井が先進的だとしたなら、実際に先進的だった薩長に逆らう理由が無い。
つまり現実には、藩に対する帰属意識から脱却できない時代遅れの人間だったという事だよ。

120: 日本@名無史さん
オレはこう考えている。
河井は東国の小藩には珍しく先進的な考えの持ち主だったと思っている、薩長におとなしく恭順するのが長岡藩にとっても日本にとっても最良だと考えていたと思う、しかし、心の隅に「外様の薩長に譜代の長岡が頭を下げるのはイヤだ」「会津を撃つのは私闘だ、加担したくない」「十分戦えるだけの戦力はある。一戦交えれば薩長も俺の存在に気が付き、長岡を新政府
の片隅にでも参加させることができるかも?」という考えが小千谷会談の直前まであり、岩村の態度で冷静さを失いぶち切れたのだと思う。

現代のオレ達には、ばかげた事をやったと河井を笑うだろうが、実際河井の立場になってみればいくら先進的な考えの持ち主でも抵抗勢力になる可能性はあったと思う

長岡に生まれたのが河井の不幸、河井を生んだのが長岡の不幸

127: 日本@名無史さん
>>120
あの時代に先進的であるという事は、日本の存亡を視野に捉えて行動する事に他ならない。
結局河井は藩レヴェルの存亡という観点から脱却出来なかったのだが、そういう所が薩長ほどには先進的ではなかった事を意味する。

129: 日本@名無史さん
>>127
藩閥を展開した薩長だって、藩レベルじゃないの?

134: 日本@名無史さん
>>129
薩長の人間は藩の利害からは脱却していた。
藩閥というのは、藩の利権とは関係なく、
単に政治的発言力を確保するの為の人脈構築に過ぎない。

日本の存亡よりも藩の存亡を重んじた河井とは次元が異なる。

135: 日本@名無史さん
>>134
>薩長の人間は藩の利害からは脱却していた

そう考えていたのは一部の上層部だけだよ

137: 日本@名無史さん
>>135
藩閥の指導者が藩の利害から脱却していれば、日本の存亡を第一に考える政策は実現する。
長岡は指導者が藩の利害から脱却できなかった事が、悲劇の結末に至る原因となった。

149: 日本@名無史さん
>>137
西郷隆盛の場合はどうなんでしょう?
脱却していた?していなかった?

156: 日本@名無史さん
>>149
朝鮮に維新を輸出する為に死のうとしていたんだから、藩とは関係なかろう。

133: 日本@名無史さん
河井は小千谷会談じゃかなり高飛車な態度だったそうだ。
岩村がキレるのも無理はない。
俺は河井の行動には彼の武士としての美学がかなり反映してると考えている。

155: 日本@名無史さん
藩の利益を考えていたから戦ったんだろ。
特権階級でなくなるのは嫌だからな。死んでも守りたかったんだろう。

159: 日本@名無史さん
西郷なんか鹿児島で英雄扱いされていてしかも誰も悪口言わないのか?
結局河井と同じような死に方をしてるのに・・・

167: 日本@名無史さん
>>159
藩の利害だけの為に決起した訳ではないからな。
戊辰戦争で敵だった庄内藩士が、私学校軍に加勢した事でもそれが分かる。

176: 日本@名無史さん
会津や西郷は地元で英雄になってるのに河井だけ不当な扱いを受けてるのか
納得できない。
長岡駅前に銅像を設立すべきである。
あと長岡市にも河井記念館を設立すべきである。
郷土資料館程度じゃ納得できない。
河井関連の土産を増やせ!!

283: 日本@名無史さん
領民にとっては武士の勝手な理由で街を火の海にした河井はどう考えても悪。

286: 日本@名無史さん
ガトリング2門だけでは、屁の突っ張りみたいなものだ。

たとえ百連発の新式銃でも、単発銃を撃つ歩兵百人の斉射には勝てない。
百人の歩兵は同時に100発の弾丸を浴びせる事が出来るが、
一挺の百連発銃が一度に発射出来るのは、一発ずつだからだ。

河井は、長岡の兵力を過信する愚を犯した。

288: 日本@名無史さん
ガトリング砲よりも全藩士にミニエー銃を配備させた事を評価すべきだ

298: 日本@名無史さん
「薩長の姦賊、暴威を逞うし、幼沖の天子を欺奉り、
私意を縦にし、不正の乱を起し、万民を塗炭に苦しめ…」
「今に於て決せずんば国内の形勢、困難に至るべし。
不倶戴天の難敵眼前に至り、直ちに賊軍を追討し、
御城下を回復し、両者を奉迎し、万民の塗炭を救うの外、
吾輩今日の勤め他事これなく候」
…長岡城奪回の際に河井継之助が全軍に送った書き付け。

薩長なんて天皇を欺いて私欲のために乱を起こした賊軍じゃん!
河井がこのような情勢認識をもっていたことがわかる。
そして河井は正しい。

300: 日本@名無史さん
共に正しくなかったんだよ。っつーか、正しい行動って何さw

304: 日本@名無史さん
思想の数だけ正義あり。

305: 日本@名無史さん
つーか正義の為とはいえ、戦火に見舞われた長岡民にとっちゃ迷惑な話だよ。

307: 日本@名無史さん
会津よりも武装度が高かったし、河井という有能な指揮官がいた長岡藩だから戦闘経験が低くても三ヶ月も薩長相手にねばれた。確かに会津や桑名の増援もねばれた一因だが長岡藩の実力を示せたのよかった。

308: 日本@名無史さん
三ヶ月粘ったっつーか、
あっさり長岡城落とされてトンズラ→奇襲で奪還→あっさり取り返される
じゃなかった?

309: 日本@名無史さん
>>308
今町の戦いを知らんのか?
長岡城の落城後、いったんは加茂まで撤退した後
今町で陽動作戦で勝利したのち一長一短の膠着状態が2ヶ月近く続いた。
そのあとに伝説の長岡城奪還作戦が決行された。
長岡城が再び取られたのは河井の負傷で戦線離脱後だろ
河井さえ無事ならあと1ヶ月は粘れていた。

318: 日本@名無史さん
>>309
城を攻略したその日に城を捨てているから、それはないかと。
つか意地で取り返したんじゃないかな?
気持ちはよく分かる。

負傷といえば、長岡城を奇襲により落した三好が、
その後すぐの六月一日に負傷したのは政府軍としては痛手だったろうなあ。
二人とも五体満足なら、戦いがもっと面白くなったかもしれない。

320: 日本@名無史さん
「峠」が司馬作品の中で一番面白いっていう意見多いよね。
そんなに面白いの?

321: 日本@名無史さん
>>320
面白いよ、ただ前半がダルイ!だるすぎる!もー、読むのイヤになるほどダルイ。
そんで後半ものすげー加速度で面白くなるわけだが、その後半の為にはあの前半
のダルイ説明がないと面白くないようですと、司馬が言ってました。

322: 日本@名無史さん
河井は直接的には何も残していないが
間接的には弟子の外山修造氏を通じて
大阪の経済界に多大なる功績を残している。
河井が臨終時に外山修造氏に
「武士の時代は終わったこれからは商人になれ!!」
と遺言を残した。
その後、外山修造氏は遺言どうりに実業家になり
大阪経済界のトップになった。

323: 阪神優勝は河井継之助のおかげです
河井が外山修造氏に「商人になれ」と遺言
        ↓
外山修造氏が遺言どうりに大阪経済界の
重鎮になり、阪神電鉄を設立
        ↓
   阪神タイガース設立 
        ↓
       阪神優勝

324: 日本@名無史さん
外山が有能な商人だったという話で、河井は関係ないべよ。

325: 日本@名無史さん
外山修三氏が河井にかなりの影響を受けたのは事実だし、会わなければ栃尾の庄屋で終わっていたはずだ。そうなると阪神タイガースは存在していない事を考えると河井の偉大さを再評価しなければならない。

326: 日本@名無史さん
とりあえず阪神タイガースを応援しようよ。
しかし、阪神の産みの親が栃尾出身てのは以外だったなあ、
ヤパーリ油あげ食って育ったのかなあ?

331: 日本@名無史さん
ひさしぶりに覗いてみたら結構な展開ですな。
現代の我々とは思想も教育も生活も違うし一概には言えないでしょう。
動乱の時代によくもまああそこまで懸命に行動したのは
評価出きると思います。結果は悲惨でしたが、身分制度の崩壊を
予測しておりながら、自らは滅び行く武士としての気概を
みせたところがかっこいいのでは?
一般市民の犠牲が酷いのは何時の時代もですね。
その点と切り離して考えられないゆえに
彼の評価が決まらない。まだまだ後の世に問いますか?


引用元: ・河井継之助は最高の志士だよな?







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