Rashid-al-Din_Hamadani



1: 世界@名無史さん 投稿日:2005/09/03(土) 19:32:51
イル・ハン国の宰相であり歴史家のラシード・ウッディーンに
ついて語るスレッド。

その著作『集史』の内容やその日本語への翻訳などについて議論
してください。








Rashid-al-Din_Hamadani


ラシードゥッディーン

ラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニー(生没年1249年 - 1318年)はイルハン朝後期、第7代君主ガザンから次代オルジェイトゥ、アブー・サイード治世のもとで活躍した政治家。

ガザンとオルジェイトゥの命によって編纂されたペルシア語による世界史『集史』の編纂責任者であったことでも知られている。また、ユネスコの「世界の記憶」に2007年登録された「ラシード区ワクフ文書補遺写本作成指示書」の大部分(382ページ中の最初の290ページ)を著作している。イランの歴史上、「ハージャ・ラシードゥッディーン」、「医師ラシードゥッディーン」 、などと呼ばれた。






5: 世界@名無史さん 投稿日:2005/09/03(土) 20:53:09
ユダヤ人? ムスリム?

20: 世界@名無史さん 投稿日:2005/09/04(日) 00:50:48
>>5
ラシードゥッディーン・ファズルッラーフ・ハマダーニー

アバカ・ハンの典医のひとりとしてフレグ王家の宮廷に出仕したのが最初だったらしい。
ニスバの通りハマダーンの出身でもとはユダヤ教徒からの改宗者の家系だったようだ。
彼も改宗者との噂があるが、ラシード本人はガザンの治世には間違い無くムスリムだった。
ここら辺の事情はラシード自身1298年に宰相サアドゥッディーン・サーヴェジーと並ぶ形で
宰相職についてから色々宮廷でいわれていたらしく、生前特にオルジェイトゥ・ハンの治世
では『集史』以外にもイスラーム神学や法学についてのいくつか著作を残している。
1312年にこれらに医学関係の著作なども含めて「ラシード著作全集」として刊行している。

この法学書、神学書には当時首都タブリーズの大カーディーら高名な法学者たちの認可署名を
附して自身の法学的神学的正統性を保証してもらっているのだが、これは熾烈な政争が常態化
していたイルハン朝宮廷にあって自らの出自からくる「ムスリム詐称者」との批判を躱すことを
ねらったものだったらしい。

彼の法学や神学的な見解だが、あまり真新しいものは見えず、当時としては「妥当な水準」程度
だったようだ。勿論彼は「医者」だったのでイスラーム神学や法学はあまり得意ではなかったためだ。

「ファズルッラーフ」というイスムはムスリム人名としてはどちらかといえば
「アブドゥッラーフ」などが一般的なイラク、イラン以東の東方イスラーム世界では
やや珍しい名前。ユダヤ家系だったこととなんらかの関係があるかは個人的には不明。

7: 世界@名無史さん 投稿日:2005/09/03(土) 22:45:53
集史編纂に協力したプーラード・チンサンのチンサンは「丞相」で、もとはフビライに仕えていた。
これが元史に「博羅」とかいてあって、昔はマルコ・ポーロのことかという説もあった。

21: 世界@名無史さん 投稿日:2005/09/05(月) 18:58:25
我々は>>1が何故このようなスレッドを立てたのかという
疑問を解決するため、>>1の故郷であるイスファハーン郊外の寒村に向かった。
「まだ我がガザン・ハンの治世にこんなところがあったのか…」
思わず口に出てしまった言葉を同行した兵士に失礼だと咎められた。

小人が住むような小さな家、ツギハギだらけの服を着るタジクたち、
そして土着のキャドホダーは身なりのいい我々を監視する様に見詰めている。
ハンのイスラーム入信だの、集史編纂だの、イクター制施行だので
浮かれていた我々はダウラト・イルハーニーの現状を噛み締めていた。

ボロ屑のような家に居たのは老いた母親一人
我々を見るなり全てを悟ったのか、涙ながらに
>>1が申し訳ありません」と我々に何度も土下座して詫びた。

我々はこの時初めて>>1を許そうと思った。
誰が悪い訳ではない、この村の貧しさが全て悪かったのだ。
我々は母親から貰った干し柿を手に、
打ちひしがれながらタブリーズへと帰路についた

22: 世界@名無史さん 投稿日:2005/09/06(火) 02:15:52
ここでそのコピペを見るとは思わなかった(笑
ネタの端々にイルハン朝史についての造詣の深さを見ることが
出来てついつい感心してしまったが、干し柿とは!w

でも実際当時イスファハーンあたりでいかにも窮乏した寒村となると
十中八九モンゴル軍民やイルチによる苛斂誅求、盗賊化したモンゴル人
などで荒れ果てていたと見て良さそう。ネタ的には整合性はありそうか?

『集史』でのラシードの言葉を借りれば、住人は屋内に閉じこもって
なかなか出てこなかったそうで、兵士を連れたタブリーズからの監察使に、
村落のキャドホダーが会うのはなかなか骨が折れたことだろう。
多分当時のガザンの改革でもしばらくは畏縮した住民たちをハーキムなどに付き
従った兵士たちが笞で追い立てるようなもっと殺伐とした光景だったに違い無い。

幸い、ラシードゥッディーンについては本田先生やドーソンの邦訳があるので
しばらくは誰でもネタをそこそこ投下できそうな予感。

23: 世界@名無史さん 投稿日:2005/09/06(火) 13:44:15
「アリババと40人の盗賊」とかもイル汗国時代の世相を反映した話だとかいうからな・・・

24: 世界@名無史さん 投稿日:2005/09/06(火) 15:28:31
「モンゴルの支配は後世でいわれているほど過酷ではない」とかいう人がいるけど
少なくともイル汗国については蛮族の圧制という印象をぬぐえない

25: 世界@名無史さん 投稿日:2005/09/06(火) 22:11:25
イルハン朝の元となったフレグ西征軍は寄り合い所帯の大軍団で、
しかもイラン高原とホラーサーンは面積が広大なわりにキャビール
塩漠のお蔭で全く人が住めない土地が高原のど真ん中にあるため
遊牧諸族を放牧させるにはチャガタイ家やジュチ家、大元朝よりも
かなり劣悪な条件だったと思う。

本来の遊牧に必要な単位面積あたりの放牧地の割合からすると、
イルハン朝の領域というものは明らかに遊牧人口は過多の状態で、
しかも東方も北方も西南方も敵だらけ。そのせいで都市や村落部の
定住民には、略奪や官吏兵士による苛斂誅求と、そのしわ寄せが
一気に押し寄せた感じが拭えない。

ラシードの言を借りれば、そのため国家が都市部や農耕地の生産力を
遊牧諸部族に効率的に補填できるよう、ちゃんと統制管理しないと
簡単に無法状態に転落していた。「蛮族」といえばそれまでだが、
イルハン朝の場合、むしろ国家の起源的問題と地勢学的な問題などが
からみ合った致命的な構造的欠陥をずっと抱え続けた結果だと思う。
国家が強力な施政で離反勢力を強引に廃滅させなければ、定住民社会
も遊牧勢力のバランスも国家の安定も激烈に弱体化するというか。

本田先生によれば、少なくともガザンからオルジェイト、アブー・
サイードの治世の後半までは美辞麗句ではなくて実際にイルハン朝
国家は繁栄のうちに何とか安定化していたろうと仰っていたが、
やはり自分もそのように感じる。

27: 世界@名無史さん 投稿日:2005/09/07(水) 01:36:55
遊牧民の支配はそれこそ古代以来だし地勢学的条件も変わってない。
イルハン国はたまたまひどい時期がラシードの筆で残ったのでは。

28: 世界@名無史さん 投稿日:2005/09/14(水) 19:49:19
今アン・S・ラムトンの「ペルシアの地主と農民」読んでるんだけど
その中でラシード・アッディーンの財産について出てくる。
何でもイェメンやシリアやインドにも土地を持ってて、それらは
「エジプトやイェメンの支配者、インドのスルタン」から
ソユルガルとして与えられたものだとのこと。
イェメンやインドはともかく、イルハン朝の宰相がマムルーク朝の
スルタンから土地をもらって問題にならなかったのか?

30: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/04(火) 18:36:57
最後は政争に負けて処刑
ラシードゥッディーン

ガザンの没後はオルジェイトゥの治世でも引き続き財務全般など国政の大部分掌握したが、政敵のタージェッディーン・アリー・シャー(ペルシア語版)との政争がつづき、アブー・サイードがハーンに即位して間もなく、オルジェイトゥ病没時の診断を誤診と咎められ、1318年、ついにはオルジェイトゥのシャーベット係として近侍していた長男イブラーヒームとともに処刑された。


31: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/04(火) 22:10:17
政敵のタージュッディーン・アリー=シャーは
1318年のラシードゥッディーンの死後に単独のワズィールになり、
大アミール、チョバンとともに新君主アブー・サイード・ハンの
相談役として名実共にイルハン朝の財政を総覧する地位を固めた。

ところが、一般にイルハン朝で唯一「自然死」を遂げたワズィールと
されるアリー=シャーだが、実はこの「自然死」には疑惑がもたれている。
後の『シャイフ・ウワイス史』や『ヤズド史』などによると、チョバンの息子
ティムールタシュ主導で1324年にアブー・サイード・ハンの勅令により、
イルハン朝国家の領域全土で会計監査を行うよう決定が下った。

この時ヤズドから会計学の専門家として高名であったアブドゥル=カーディル
というヤズドの名門出身の人物がタブリーズに招聘されたという。
ところが、彼は調査途上でワズィールのアリー=シャーと対立し、アブドゥル=
カーディルはアリー=シャーが寄進建造物の建立のため王家の財庫から資金を
横領したと上奏した。この問題について会計監査を執行するようアブドゥル=
カーディルに勅が下り、アリー=シャーは進退極まって服毒自殺したというのだ。

32: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/04(火) 22:40:15
ヤズドは、ラシードが勢力の基盤としていた重要な都市の一つで、この時
ティムールタシュの補佐(ナーイブ)に任にあったのはラシードの息子
ギヤースッディーン・ムハンマドだった。つまり、ティムールタシュと
ギヤースッディーン側から政治的に、恐らくギヤースッディーンに組みした
ヤズドの実務家アブドゥル=カーディルがそれぞれ圧力をかけ、アリー=シャー
を自殺に追い込んだようだ。

なぜアリー=シャーの「自然死」説が出てきたのかというと、他の史料では
だいたい「アリー=シャーは天寿を全うした」「彼は自然死だった」的な記述を
行っているからだ。

しかし、主要典拠のひとつである『選史』はそのギヤースッディーンがワズィールの
時に彼に献呈されたものであるし、ハーフェズ=アブルーの『集史続編』やホーンダ
ミールの『伝記の伴侶』にしてもその典拠は『集史』や『選史』などラシード一門に
近い立場の資料を用いて編纂されている。

一方、アリー=シャーの服毒自殺を明記しているのは『ヤズド史』の訂正・加筆版で
ある『新ヤズド史』なのだが、告発を行ったアブドゥル=カーディル本人もアリー=
シャーが自殺したその夜明けにどういう原因か不明だが死んでいたのが発見された
とこの史料は伝えている。

彼の家系は代々ヤズドのワズィールを担った最有力家系でティムール朝時代の
15世紀半ばでもこの地域で第一線で活躍している。おそらく『ヤズド史』編纂に
前後してこの名門の一人に見舞った重大事件についてまだ当事者の子孫たちが記憶
していたため記録されたのだろう。

33: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/05(水) 16:56:21
すると自然死を遂げた宰相がゼロなのか。
昔のニザーム・アルムルクとかも暗殺されてたな。

34: 世界@名無史さん 投稿日:2005/11/01(火) 22:30:05
政治体制に原因があるのでは?

54: 世界@名無史さん 投稿日:2006/03/30(木) 15:55:59
ラシードがイスラムの司馬遷と言ったら
「イブン=アル=アシールだろ」と反論されました。

55: 世界@名無史さん 投稿日:2006/03/30(木) 18:31:07
完史ね、イブン・アル・アシールはイスラムの司馬光ってとこか。

56: 世界@名無史さん 投稿日:2006/03/30(木) 18:40:05
集史はイスラムとモンゴル史以外は記述が曖昧だからな。
完史は完全なイスラム側の視点で書かれた歴史書。

69: ty270410 投稿日:2006/04/25(火) 22:11:27
>>56
集史の中国史の目次を本田実信先生が執筆しておられましたね!

集史のモンゴル以外の歴史も併せた概説書がほしいですね!
当時のイスラム知識人の世界史観がわかると思います.

私は,岡田英弘先生訳の『蒙古源流』を通読してみて,
当時のモンドル知識人の世界史観がよくわかって
楽しかったという経験があるものですから・・・・・

脱線をお許しいただいて・・・・
イブン・ハルドゥーンも序説だけでなく
各国史も見たいですね!

57: 世界@名無史さん 投稿日:2006/03/30(木) 20:25:52
西方のモンゴルがイスラム化するにつれて、アラン・コワの胎内に宿った光の正体はアリーだったとかw
族祖伝承もそういう解釈がされるようになったらしいですね。

58: 世界@名無史さん 投稿日:2006/03/30(木) 22:25:35
1258年のアッバース朝滅亡・バグダードの破壊の際に数多くの史料が
焼失したと思われるのに、よく集史のような大作を編纂できたものだと感心する。

60: 世界@名無史さん 投稿日:2006/03/32(土) 12:12:07
『集史』に載るイスラム側の情報の主要典拠のひとつはイブン・アル=アスィールの
『完史』だけど、彼はこの大著をモースルの領主(バドルッディーン・ルウルウだったと思う)
に献呈している。バグダードはあのアターマリク・ジュヴァイニーの手で陥落後ただちに
戦後復興が開始されているし、陥落前後にウラマーや名士たちも助命されているので
バグダードは完全に壊滅したわけでは無い。またイブン・バットゥータが訪れたアブー・
サイード・ハン時代のバグダードは都市機能も充分活動しモスクやマドラサには学生も
多かったらしいので多分イスラム関係の諸学を学ぶには充分な環境だったのだろう。

ジュヴァイニーはアラムートのイスマーイール・ニザール派保有のものやバグダードに残余の
典籍類などを首都のタブリーズに送付していたようで、『集史』の編纂事業にはそれらの資料が
使われたようだ。勿論、当時の知識人たちは古典文献をまるまる暗記・暗誦できるような人物も
いたが、戦災にあったとはいえアッバース朝時代の実際の資料を目にする機会も多かったろう。

バグダードは確かに戦災を受けたが、ディヤールバクルやファールスなどのアタベク政権などの
宮廷にも書籍は収蔵されていたろうから、そこからの情報もあったかもしれない。

現在トプカプ・サライ博物館にアッバース朝からイルハン朝時代の古典籍が膨大な量保存されて
いるが、これは多分オスマン朝によるイラク統治時代や度重なるアゼルバイジャン遠征で
バグダードやタブリーズあたりから略奪されたものがかなり多いはず。

59: 世界@名無史さん 投稿日:2006/03/31(金) 11:05:02
>>58
仏教関連なんかはカシミール出身の修行者をインフォーマントにして書いたという。

61: 世界@名無史さん 投稿日:2006/04/03(月) 19:59:05
ガーザーンが長生きしていれば、この人も天寿を全うできただろうに。

62: 世界@名無史さん 投稿日:2006/04/03(月) 20:47:39
いずれにしてもすぐあぽーんされる立場

63: 世界@名無史さん 投稿日:2006/04/03(月) 21:47:44
イル=ハン国においての宰相など執事程度の立場だし
何よりユダヤ系というハンデがあったからな。

68: 世界@名無史さん 投稿日:2006/04/23(日) 16:11:27
モンゴルのイスラム土着化に貢献した名宰相。
ガーザーンの判断もあっただろうが。

70: 世界@名無史さん 投稿日:2006/04/27(木) 21:43:18
「集史」のお陰で今の世界史という学問がある訳だ。
その意味では、この人は人類の大恩人にして受験生の敵か?

73: 世界@名無史さん 投稿日:2006/06/04(日) 20:46:28
集史は後のティムール朝やサファヴィー朝でも広く読まれたのだろうか?

74: 世界@名無史さん 投稿日:2006/06/24(土) 21:55:31
あの挿絵はイスラム細密画の流れを汲んでいそうだが、恐らく後代まで書き写されてきたんでは。
イスファハーン派の地域と年代が分かる方、おられます?

75: 世界@名無史さん 投稿日:2006/06/25(日) 10:30:25
> ティムール朝、サファヴィー朝


広く読まれたどころか、ティムール朝のシャー・ルフの時代に宮廷史家ハーフェズ・アブルーらが
主体になって『集史』などの大規模な修史編纂事業が行われている。『集史』そのものを(ティムール朝に
都合の良いように)再編集したり、『集史』完成後のジャラーイル朝やシャー・ルフ時代までの
歴史を整理したり、支配地域全体の地誌を編纂したりといろいろ活発に行っている。

現在のカラーの挿し絵で有名な『集史』パリ写本などはこの時代か、もう少し後のスルターン・フサイン
時代の宮廷で作られた原写本の系列の模本ではないかと考えられている。(パリ写本本文の部分はかなり
手が入っているが、少なくても挿し絵部分はそうではないかという説が有力視されているとか)
『集史』のイスタンブール写本がラシードの生前に書写された現存では最も古い写本だということが知られ
ているが、それと比較するとパリ写本やいわゆるレニングラード写本などは、細部で原文の意味がよく
わからなかったところなどいくつか手直し、書き直ししている箇所が随所に見られる。かえって意味が
分らなくなったりしているところも有ったりするが。

ムガール朝ではティムール朝の伝統を受継いで『集史』などの写本がまた新たに作成されている。
サファヴィー朝やオスマン朝でも何かしらの写本が作られていたように聞いているが、『オグズ・ナーマ』
などの『集史』で部分的にしか扱われていなかったモンゴル帝国の中核部族以外のオグズ系のテュルク諸族の
歴史の方が人気があったように記憶している。ティムール朝はモンゴル族の一派であるバルラス部族の
系統だから自分達の出自を語るには『集史』が根本的な典拠になるため、修史事業に『集史』を使うのには
熱心だったようだ。

76: 世界@名無史さん 投稿日:2006/06/25(日) 17:17:14
世界史の教科書なんかでは、モンゴル帝国の部分の参考イラストに
ムガル朝のチンギスハーンナーマ(だったっけ?)の挿画が使われてた。

今でもモンゴルと聞くと大航海時代のインドの軍装が頭に・・・

77: 世界@名無史さん 投稿日:2006/06/26(月) 19:19:50
だとすると、ティムールやバーブルも集史を読んでいた訳ね。
(ティムールは文盲だから家臣に読ませてたと思うが)
後世のイスラーム文化圏に多大な影響を及ぼした大著が
未だに日本語訳で出版されてないのは理不尽だな。

80: 世界@名無史さん 投稿日:2006/06/27(火) 02:54:46
>>77
重訳だったらドーソンの『モンゴル帝国史』なんかが殆ど『集史』の丸写しな内容だから
おおよその構成はわかる。部分訳なら「ジョチ・ハン紀」やネット上の「フレグ・ハン紀」と
「アバカ・ハン紀」が読める。実際の所『集史』はどこも部分訳が多くて、完訳はどこの
国でも出されていない。ただ、「テュルク・モンゴル部族誌」を含む『モンゴル史』の部分の
英訳やロシア語訳などは出ている。『各国史』の部分はドイツ語訳が出ているだけで、英訳
などは出ていない。

イスラーム関係の基本文献の完訳は最近になっていろいろ翻訳やら出版やらがされるように
なったが、『集史』研究は、各国に収蔵されている写本の利用が簡便になったのはここ十五年程で
利用しなければならない文献はペルシア語やアラビア語、漢籍だけでは到底足りない。
本当は校訂本もあわせて作らなければならないが、「 後世のイスラーム文化圏に多大な影響を
及ぼした大著」であるが故に今に至まで完訳は『極めて』難しい。しかも内容はイスラーム
世界だけに留まらないものだ。

近年出た『バーブル・ナーマ』の完訳も間野英二先生がほとんど半生を費やして完成させた
ことを考えれば、『集史』の完訳ももう20年くらいはかかるものと、少なくても自分は
覚悟している。

85: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/01(土) 21:35:41
今のイランでは「集史」は研究されてるのかね?
それともモンゴルの支配時代の歴史書だから黒歴史扱いか?

86: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/01(土) 21:40:20
別にイルハン朝は黒歴史でもないと思うけど・・・

87: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/01(土) 22:15:15
>>86
中公新書の「物語イランの歴史」ではフラグ・ウルスは僅かな記述で
ラシードの名前すら出て来なかった。
今のイスラム体制では黒とまでは行かなくても重要視されてないようだ。

88: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/01(土) 22:25:56
スレの最初の方で話題になってたけど、ドーソンのモンゴル帝国史とか読んでも
ガザン以前の飛脚や徴税官の滅茶苦茶ぶりがインパクトあり過ぎるからなあ。
イブン・バトゥータの旅行記を読んだ限りでは、アブー・サイードの頃のイランは
結構落ち着いた印象だけど、それからすぐ群雄割拠になっちゃうし。

89: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/01(土) 22:33:38
ジャライール朝・白羊朝・黒羊朝・ティムール朝・サファヴィー朝と
目まぐるしく入れ替わるペルシャの15世紀。
研究する方も大変だろうが、それを一般通史で出せなど無理だ。

99: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/08(土) 22:21:48
集史もそうだが、中世イスラームの良質な史書は邦訳出版されないな。
されたのはせいぜい、歴史序説くらいか。
集史や完史もどうせなら岩波文庫辺りで出してほしいよ。

101: 世界@名無史さん 投稿日:2006/07/13(木) 21:06:56
完史を一部抜粋した本なら「アラブが見た十字軍」が名著。

105: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/08(水) 19:22:34
よくユダヤ人なんかが宰相になれたね

106: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/12(日) 14:39:30
その前に血統を重視するイランでモンゴル人が王だと言うのが、どうも…

107: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/12(日) 20:44:10
軍事力が強大で自分達の生活を保証してくれる勢力であれば、地元の住民たちは
基本的にその支配を認証した。ホラズムシャ-朝もサルグル朝なども後世では奴隷出身の
「卑賎な出自の一門」と称されたが、当時は当該の地域の政権が認証して帰順するか
否定して抗戦し撃退するか敗北して征服されるか、が普通だった。

セルジュ-ク朝前後のテュルク系の政権は、詩文や『シャーナーメ』などイラン的文化を
すでに享受して中央アジアやホラ-サ-ン以西へ侵攻してその地での支配を確立した。

モンゴル帝国軍は、イランの地にあっては異教徒であったし、何よりも彼ら強大すぎ、
苛斂誅求に対抗できる勢力がホラズムシャ-朝のジャラールッディーンが横死してから
絶無の状態だったため、地元の住民たちは有無を言わせぬその支配に抗うすべが全く無かった。

ガザンの改宗云々があるが、彼の政策はモンゴル軍民と地元の都市民や村落民などとの棲み分けを
明確にし、それによって税収を確実にし、モンゴル軍民内部からの余計な干渉を排除することで
それぞれの農地や牧畜や商工業などの全体的な経済発展を促進して国力を充実させることだった。
そのためにまず彼は自らを頂点とするチンギス・ハン家の威光と、それによる秩序だった軍政の
引締めを強力に押し進めた。彼の政策の主眼はチンギス家の権威の元にモンゴル軍民と定住民
双方の中央集権化を促進することによってイルハン朝国家を「国家」たらしめる事にあったわけだが、
イスラムへの改宗もその一環と位置付けていたと考えられる。(勿論前近代的な「国家」ではあるが)

それと、ラシードゥッディーン自身は改宗者かその家系の人物だからユダヤ教徒ではない。
ユダヤ教徒だったのはアルグン・ハンの時代に活躍したワズィール、サアドゥッダウラ。
もっともワズィールが非イスラム教徒であった政権はファ-ティマ朝やザンギ-朝などかなり多いが。

110: 世界@名無史さん 投稿日:2007/02/13(火) 16:38:13
宗教色の薄い現代日本でさえ、
異教徒の高官登用が奇異なものと受け止められる

宗教色の強い文化圏ならどんな反応になるんだろう?

111: 世界@名無史さん 投稿日:2007/02/13(火) 23:23:56
>>110
モンゴル時代以前のイスラム政権の高級官僚は、どの地域でもムスリムだけで無くて
キリスト教徒やユダヤ教徒も多かった。勿論、たいがい高級官僚になるのは王朝のあった
首都やその周辺の名士層の出自だったが、ムスリム以外の官僚の場合も王朝統治下の庇護民の
コミュニティーから君主や他の政府高官となんらかの関係を持って登用されるのが常だった。

イスラム政権で活躍した異教徒の官僚というと、例えば8世紀にイベリア半島の後ウマイヤ朝の
君主アブドゥッラフマーン三世に使えた宮廷医で、カスピ海北部のハザル王国に遣使した事でも
有名なハスダイ・イブン・シャプルートはユダヤ教徒であったし、12世紀にエルサレム王国や
十字軍との戦争で活躍したシリアのザンギー朝の君主ヌールッディーン・マフムードに宰相
(ワズィール)として仕えたアブドゥル=マスィーフは、「アブドゥル=マスィーフ」名前自体が
「メシアの下僕」という意味であることからも明らかなようにシリア在来のキリスト教徒だった。

イルハン朝の宮廷人としてサアドゥッダウラは『集史』をはじめ後年のイルハン朝系統の歴史書では
かなり悪し様に書かれているが、それは彼がユダヤ教徒だったからというよりも、陰謀を巡らして
アバカ、アルグン両君主に取入り、王朝の財務行政の功臣筆頭であった宰相シャムスッディーンと
バグダードをはじめとするイラーク地方のハーキムだったアターマリクらジュヴァイニー家の人々を
執拗な讒訴で破滅させたことに集中し、その性根の卑しさを批難されている。ユダヤ教徒云々は
あまり問題になっていない。

多分これはラシードゥッディーン自身がアバカに仕えていた時代からジュヴァイニー家の人々に
恩顧を受けていたからだと思うが、ラシード自身はそれとはまた別に改宗者の出自からくる讒謗の
数々に対処するため、イスラム法学や神学関係の著作を残しそれに当時首都タブリーズ周辺の
高名な法学者たちに認可証明を書いてもらっていたりする。

112: 世界@名無史さん 投稿日:2007/02/14(水) 13:12:56
イルハン朝には西欧人の官僚もいたはず

113: 世界@名無史さん 投稿日:2007/02/26(月) 04:35:59
ビザンツが好きなのですが集史の諸種族史のなかにはビザンツは無いのでしょうか?
確実に国交があったのでのってるはずなんですが、フランク史みたいにまとめ
られなかったのかなぁ

弱っちいから扱いが小さかったのか・・・
三国同盟の一つなのに・・・

118: 世界@名無史さん 投稿日:2007/02/27(火) 06:31:01
>>113
イルハン朝におけるビザンツ帝国の位置付けがどうだったかはあまり知らないが、
『集史』の「フランク史」には歴代ローマ教皇と歴代ローマ皇帝の肖像が対面して
描かれている。

ローマ教皇位の始祖はイエス・キリストで次代はペテロ。ローマ皇帝はアウグストゥス、
ティベリウス、ガイウス某、クラウディウスと続く。

以降は、
ローマ教皇      ローマ皇帝
アナクレトゥス    ドミティアヌス
エヴァリストゥス   ネルヴァ
アレクサンデル1世  トライアヌス
スィクストゥス1世  ハドリアヌス
・・・
となり、ローマ教皇はベネディクトゥス6世で終わるが、ローマ皇帝はそのまま
コンスタンティヌス1世以降の東ローマ皇帝に遷移し、ヘラクレイオス1世、
イサウリア朝のエイレーネー、コンスタンティノス6世に至る。

ところが、この人物の次のローマ皇帝(qaysar)にはフランク王国のカール大帝が
来ている。そのままオットー1世の神聖ローマ皇帝位に遷移し、オットー4世、
フリードリヒ2世と来て、ティーリンゲンのハインリヒ・ラスペを経て、大空位時代で
カイサル部分を欠いたまま、ナッサウのアドルフ、ハプスブルグ家のアルブレヒト1世
で終わる。

115: 世界@名無史さん 投稿日:2007/02/26(月) 21:22:01
まあ、ラシードの時代のビザンツはコンスタンチノープル周辺と
今のギリシャの版図しか持ってない斜陽の時期だったから無視されても仕方ない。

116: 世界@名無史さん 投稿日:2007/02/27(火) 02:18:46
お嫁さんの話は出てくるよ

おれはモンゴルに詳しく無いんだけど、君主のお嫁さんは結婚してた君主
が死んだら基本的にどうなるの?
集史には部下に払い下げられた例が一杯載ってたんだけど、身分が高くても
基本的には払い下げ?

117: 世界@名無史さん 投稿日:2007/02/27(火) 05:51:04
>>116
ビザンツの皇女でイルハン朝の君主に嫁入りした人物というと、アバカ・ハンに嫁いだ
デスピナ・ハトゥンが有名だけど、彼女はモンゴル系の有力部族長家の子女が多数いた
アバカの正妃のうち末席に加わった。(側室では無い)
デスピナ・ハトゥンはアバカが大変寵愛したブルガン・ハトゥンの許にコンギラト部族出身の
ミリタイ・ハトゥンとともに置かれたそうなので、正妃としての待遇はまずまず良好だった
ように思われる。デスピナ・ハトゥンはアバカが没した後は実家のコンスタンティノープルへ
退去したらしい。

他のハトゥンたちは、先君が他界後も存命の場合、次代の君主へそのままオルドごと婚姻という
かたちで引継がれる例は多い。例えばフレグの第四正妃だったオルジェイ・ハトゥンはフレグの
死後、アバカのオルドで正妃筆頭として尊重されたし、アバカの寵妃だったボルガン・ハトゥンは
同じくアルグンに再婚したアバカの正妃のひとりであるミリタイ・ハトゥンが没した後、ミリタイの
後任としてアルグンのオルドの管理を任されている。

側室たちなどは先君が没したとは、家臣に払い下げられる者も居たようだが、そのまま次代の君主の
オルドに留め置かれる例もまた多い。その時の政情も絡むのでケースバイケースだと思う。

121: 世界@名無史さん 投稿日:2007/03/26(月) 18:45:29
ウッディーンてモンゴル人?

125: 世界@名無史さん 投稿日:2007/04/12(木) 22:51:07
>>121
初歩的な説明になるが、「サラディン」でも同じ問題があるけども「ウッディーン」はちとまずい。

「ラシード(Rashid)」+「アル=ディーン(al-Din:アッディーンorウッディーン)」
で一つの名前。「宗教(ディーン、つまりイスラーム)に正しき者」の意味。
「ディーン」で略するのは「アブドゥッラー(アブド=アッラーフ)」を「アッラーフ」で略する
のに近く、「ラシード」のように「宗教or神の『~である者』」の部分で略す方がより一般的。

正則アラビア語では、定冠詞 al-にd、s、t などの特定の子音が頭に来る単語が後に続くと、
al-は後接の子音に吸収されて促音化するという特徴がある。そのため Rashid al-din と書いて
実際はラシードゥッディーン Rashidu-d-din- と発音するのだが、日本語の仮名や英語などの
表記で、Rashidu-d-dinと書いてはこの一続きの単語が「ラシード」と「アル=」と「ディーン」
という都合3つの部分からなることが分りづらい。

そのため表記方法としては
「ラシード」・「アル=」・「ディーン」と3つそのまま繋げて「ラシード・アル=ディーン」としたり、
「ラシード」・「アル=」+「ディーン」で「ラシード・アッ(=)ディーン」とかにする。
スレタイの「ラシード・ウッディーン」は、 Rashid-ud-din というラテン文字表記を仮名に写し代えた
ものだが、この「ウ」というのは本来「ラシード」の主格語尾 -u なので「ディーン」の方に前接させる
のは実はあまり良くないやり方だったりする。

人名に良く有る「なになに・アル=ディーン」の「ディーン」の部分は、日本語で言えば、足利義満とか
足利義教、足利義政などの「義」みたいな物。「義満」のように二文字で人名として成り立つように、
「ラシードゥッディーン」で一つの人名となる。
ただ、論文だと「ラシードゥッディーン」などでは書いていると冗長に感じるので「ラシード」などと
略される。

122: 世界@名無史さん 投稿日:2007/03/26(月) 20:39:54
>>121
当時のモンゴル人ってラカブ使ってたっけ?

124: 世界@名無史さん 投稿日:2007/04/06(金) 09:40:36
>>122
いいえ

126: 世界@名無史さん 投稿日:2007/04/12(木) 23:03:14
>>122-124
「ラカブ(laqab)」は「あだな、尊称」の意味なので、『集史』では例えば
トルイの「ウルグ・ノヤン」やクビライの「セチェン・カアン」、他にも
バトゥの「サイン・ハン」、オルダの「エチゲ・ハン」なども『ラカブ』として
説明されている。

ただ、マムルーク朝などのアラビア語資料だと、ムスリムとなったモンゴル王族には
ムスリムとしての「なになに・アル=ディーン」みたいな「ラカブ」も記録されていたりする。
代表的な例だと、ウズベク・ハンの「ギヤースッディーン・ウズベク」など。
(イルハン朝は忘れたが、ベルケやモンケ・テムルなども同じようなものがあったはず)

引用元: ・【ラシード・ウッディーン】