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1: 爾文揮劃嘉緯陸大王
事情により退位して、再び同じ君主の位に再度登った帝王たち。

ナポレオン1世 1805.5~1814.4  復位 1815.3~1815.6

明の英宗皇帝  1435~1439  復位 1457~1464

※ ハノーバー王からイングランド王へ、ヨーク公からイングランド王へ、
プロイセン王からドイツ帝国皇帝へなどは、退位したわけではないので却下。








2: 爾文揮劃嘉緯陸大王
カンボディア・シアヌーク国王 1941~1955  1993~現在

47: 世界@名無史さん
>>2
即位せずに「シアヌーク殿下」のまま国家元首に就任している時期
(1960~70、75~76、91~93)もありましたね。

3: 世界@名無史さん
近代ギリシアのコンスタンディノス1世とゲオルギオス2世。

ここの王家は亡命したり王制そのものが廃止になったり復古したり母国を占領されたりまた廃止になったり大忙し。

4: 世界@名無史さん
越南の保大皇帝は?
1945年の8月革命で退位したのち、フランスの援助でヴェトナム国元首。

10: 世界@名無史さん
後醍醐天皇は実質的に退位→復位してるな

1318.2~1332.3 復位1333.閏2~1339.8

25: 世界@名無史さん
>>10
>後醍醐天皇は実質的に退位→復位してるな

後醍醐天皇は倒幕の失敗で廃位され隠岐へ流され、のちに脱出して復位した。
当時の天皇玉座の推移の認識は、後醍醐→光厳→後醍醐(復位)だったのが
公家の誰だったかの日記に書かれている。
それを復位後の後醍醐天皇が退位という事実を否定し、長期の行幸だったという
ことにしてしまった。
それ以降、立場によって退位したかしないかの両方の見方が併行し、
退位していないというのが明治政府によって南朝を正統としたときに確定した。

41: 世界@名無史さん
>>25
確定も何も実際に退位させられてるじゃんw

42: 世界@名無史さん
>>41
だから、隠岐を脱出して天皇位に復帰したとき、実は退位していなかったということにして
光厳天皇の存在を抹消したんですよ!
その書き換えを肯定するのが南朝、大日本史ときて、明治政府の公式見解となったんですよ。
一方、北朝側は退位→復位という事実そのままの立場だったのが、
北朝の子孫である明治天皇の政府によってこの説が終わらされたのですよ!

45: 世界@名無史さん
で、後醍醐天皇が「退位した」「退位していない」というのは
室町時代、江戸時代には朝廷や学界を二分するような大論争があったの?

49: >45
朝廷に関してはそれは無い。
北朝系の朝廷なんだから当たり前だが一貫して北朝正統さね。

ちなみに南朝側は光厳上皇については即位自体は否定してるが
上皇としての尊号は贈っている。

学会?は水戸学あたりが南朝正統を唱えていた模様。

20: パシッチ ◆mWYugocC.c
セルビア公。

1815-39 ミロシュ・オブレノヴィチ(退位し息子に公位を譲る)
1839  ミラン・オブレノヴィチ(息子。病死)
1839-42 ミハイロ・オブレノヴィチ(ミランの弟。クーデターで追放される)
1842-58 アレクサンダル・カラジョルジェヴィチ(再開した議会によって廃される)
1858-60 ミロシュ・オブレノヴィチ(復位、病死)
1860-68 ミハイロ・オブレノヴィチ(復位、暗殺される)

ややこしい……

21: 世界@名無史さん
明王朝の英宗も復位してるよ。
最初は正統帝、二度目は天順帝。
1449年の土木の変で、エセン・ハーンの捕虜になって、
北京では弟の景泰帝が即位、一年で返還されるけど幽閉。
その後、奪門の変で復位。

26: 世界@名無史さん
ブルボン家のスペイン王、フェリペ五世が復位してます。本人は早く隠遁したくて
息子に譲位したのに、その子が急死してしまいやむを得ず…という、あまり例の
ないケース。在位1700-1724、1724-1746年。

29: 世界@名無史さん
英国王ヘンリー6世(在位1422-61、1470-71)
いわゆる「ばら戦争」時代の君主。
1461年、ヨーク家のエドワード4世によって位を追われ、ロンドン塔に幽閉。
1470年、ウォリック伯がランカスター派と結んで反乱し、ヘンリーは再び王位に迎えられる。
 
が、勢いを盛り返したエドワードがテュークスベリーの戦いに勝利するとランカスター派は壊滅、ヘンリーも殺害されるに至る。

なお、ウォリック伯リチャード・ネヴィルは先にエドワードの即位にも多大な貢献を成しており、
これら一連の行為により「キング・メーカー」の異名を持つことになった。

31: 世界@名無史さん
【ルーマニア王国】

1914-1927年 フェルディナンド
 フェルディナンドの子カロル、愛人と駆け落ちして王位継承権を失う。
1927-1930年 ミハイ
 フェルディナンド死去によりカロルの子ミハイが即位し、摂政府がこれを後見。
1930-1940年 カロル二世
 宮廷クーデターによりカロル即位。
1940-1947年 ミハイ(復位)
 クーデターによりカロル追放、ミハイ復位。

4章「ルーマニア王室史」より

子から父への譲位は他に例のないことと思いますが、
ほかにこのケースを知っている人がいたら教えて下さい。

32: 世界@名無史さん
カンボジア シアヌーク国王。
1955年 退位して父に譲位。

34: 世界@名無史さん
ユスティニアヌス2世を一押し。

37: 世界@名無史さん
>>34
「鼻そがれ帝」だね。
最初の失脚時に、鼻を削がれて流刑にされた。
(鼻を削ぐのは、公式の場に出られなくする、つまり公人と
して活動できなくするため。)
が、つくりものの鼻をつけ、不屈の闘志で亡命をくり返し
ブルガリア軍をバックにつけて、ついに皇帝の座に返り咲いた。
そこまではいいんだけど、その後がよくないな。
ひたすら、復讐に明け暮れるだけで、何一つ国家のためになる
ことをしていない。権力を追われた人間がまた権力を手にしても
ろくなことがないという典型というか……。

38: 世界@名無史さん
>>37
東ローマ帝国皇帝ユスティアヌス2世は、そがれた鼻の代わりに
黄金で作った付け鼻をつけていたそうですが、黄金の鼻を皮膚に直に
付けて、金属アレルギーは大丈夫だったんでしょうか?

40: 世界@名無史さん
歯に金冠をかぶせるのには金ぴか趣味ではなく、それなりの必然性があるということ。

35: 世界@名無史さん
復位に失敗したのはクリスティナ女王。
20代後半の時には惜しまれながら退位。
30代半ばの画策は失敗。40のときはさらに冷たくあしらわれる。
ポーランド王の座を狙いポーランドに行くが、そこでも失敗。

48: 世界@名無史さん
ローマ教皇ベネディクトゥス9世(在位1032~44、45、47~48)
三度も教皇に就任した珍しい例。(二度就任した例はない)
教皇ヨハネス19世の甥で、12歳で教皇に初就任。
二度目の在位期間は僅か20日だったとか。

52: :世界@名無史さん世界@名無史さん
室町幕府10代将軍足利義殖はいかがでしょう。追放後、大内義興と
ともに上京し、船岡山の戦いに勝利して復位したといえなくもない
とは思います。王で無いという意見もあるかと思いますが、一応
曽祖父は「日本国王」でしたので・・・

56: 東ローマ皇帝ゼノン
おいおい、漏れを忘れてもらっては困るじゃない?
蛮族出身のローマ皇帝だよ。
474年、レオ1世の後を継いだが、一時バシリスコスに帝位を追われていました。

57: クレオパトラ7世
あの~、超有名で美人なプトレマイオス家の才姫をわすれてないかな~?
弟に宮廷追われて実質、カエサルパパに復位させてもらった私をわすれちゃ、ダメじゃない。

59: 世界@名無史さん
ルイ18世。
ナポレオンがエルバ島に流されたのでフランス王位に就く。
ナポレオンの百日天下の間は王位を失い、亡命。
ナポレオンがセントヘレナ島に流されて復位。

63: 世界@名無史さん
オスマン帝国のムラト2世は2回復位してるよ
引退嗜好が強かったが反乱が起こるたびに大宰相に乞われて
だから息子のメフメット2世も2回復位してる
ムラト2世の死後メフメット2世は宰相たちを殺しまくった

71: 世界@名無史さん
雷帝イヴァン4世もそうだね。
1574年ツァーリの位をモンゴル貴族のシメオン・ベクブラトヴィッチ(ジョチの後裔)
に譲り、翌年シメオンから禅譲される形で復位している。
この奇妙な行動については、モンゴル王家を利用してイヴァンの権威を高める意図が
あったのではないかという指摘がある。

72: シュレーディンガーの猫
グローヴァー・クリーヴランド
在任1885~89、93~97
連続当選ではなく、いったん政権を失ってから再び
当選した、唯一のアメリカ大統領。

73: 世界@名無史さん
溥儀も復位でしょう

74: 世界@名無史さん
日本だと結構いるねえ。
天皇だが。

75: 世界@名無史さん
>>74
二人だけど、それを「結構いる」?

76: パシッチ ◆mWYugocC.c
2人だけでしたっけ?
将軍職に復位したのは多分一人だけ。足利義材(1490-94)=義稙(1508-21)。

78: 世界@名無史さん
>>76
うろ覚えだが、足利義持は違ったっけ?1394~1423に将軍をつとめた後、
一度義量に将軍職を譲り、1425に義量が死ぬと再度将軍になったような
気が・・・それとも正式には復位してなかったのかな?スレ違いスマソ

79: パシッチ ◆mWYugocC.c
義持は復位してませんな。
義量が死んだ1425年から義持が死んで義教が将軍になる1429年までは将軍がいない時期です。
もちろん、実際に政治を動かしていたのは義持ですけど。

しかもこのやろ、後継者決めようとしないもんだから結局くじ引きとか変な方法で選ぶことに……


引用元: ・復位した王、皇帝など







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