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1: 世界@名無史さん 投稿日:2006/10/15(日) 02:34:48
最大領域を100年以上も維持した3大陸に跨る大帝国(1299年-1922年)。イスラムの盟主。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD










3: 世界@名無史さん 投稿日:2006/10/15(日) 10:31:05
最盛期の人口ってどれくらいですか

8: 世界@名無史さん 投稿日:2006/10/16(月) 21:49:18
>>3
18世紀まで人口調査自体やってないから難しいと思われ。

11: 世界@名無史さん 投稿日:2006/10/19(木) 22:04:59
>>3
永田雄三はスレイマン1世の頃のオスマン朝の総人口は推定三千万としている。
尤も、正確な統計でなく推論で出した数字だが。

5: 世界@名無史さん 投稿日:2006/10/16(月) 17:12:34
オスマン朝を世界帝国にしたのはセリム1世と言ってみるテスト。

Yavuz_Selim


セリム1世

セリム1世(1465年10月10日 - 1520年9月22日)は、オスマン帝国の第9代皇帝(在位:1512年 - 1520年)。

セリム1世の在位はわずか8年に過ぎなかったが、父から受け継いだ領土は230余万平方キロであったのを、650余万平方キロにまで増大させている。
細心な計画と大胆な行動力を持ち合わせ、反対者には酷薄であり、同族や大臣であろうとも容赦なく次々と処刑したが、史家によっては、彼の業績は「征服者」と呼ばれた祖父メフメト2世を凌ぐと評価する者もある。



6: 世界@名無史さん 投稿日:2006/10/16(月) 20:56:42
オスマンによるエジプト・シリア領有-はそれまで決して多数派ではなかった
ムスリムを多数派へとした。

7: 世界@名無史さん 投稿日:2006/10/16(月) 21:03:06
穀倉地帯のエジプトを支配したことによりオスマン朝の食糧問題と
アレクサンドリア経由の地中海貿易を解決・発展させた事は重要だ。

23: 世界@名無史さん 投稿日:2006/10/30(月) 21:18:38
1590年代のイスタンブルか。
暇さえあればコーヒーハウスで世間話に興じて
後は公衆浴場でマターリする生活が想像できる。

28: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/01(水) 23:32:51
>>23
宮廷は女人政治で混乱してても
民間はマターリとしていたのか?

24: 世界@名無史さん 投稿日:2006/10/30(月) 21:36:44
その頃だったら文化的にもヨーロッパよりも上かな

25: 世界@名無史さん 投稿日:2006/10/30(月) 21:39:18
衛生観念&識字率では圧倒的に西欧東欧より上だったろう。

26: 世界@名無史さん 投稿日:2006/10/30(月) 22:48:37
ブダペストのキラーイ温泉は・・・もう出来ている頃か。>1590年代
この頃だったか、もう一度ドイツとかイタリアあたりで銭湯が流行るんだっけ。

27: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/01(水) 23:11:49
1571年のレパントの海戦に敗れて斜陽に
なりはじめた時期?
敗戦の影響はあまり無かったようにも聞くが・・。

300px-Battle_of_Lepanto_1571


レパントの海戦

レパントの海戦(レパントのかいせん)は、1571年10月7日にギリシアのコリント湾口のレパント沖での、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍による海戦である。

スペイン王国は、支配下のジェノヴァやイタリアの諸都市、マルタ騎士団等から最大限の戦力を集めた。この海戦は西ヨーロッパ史において初めての大海戦でのオスマン軍に対する勝利であり、オスマン帝国の地中海での前進を防ぐのに役立った。レパントの海戦は、ガレーが主力を成す大海戦としては最後であることが知られている。


30: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/02(木) 11:42:23
>>27
その後にウイーン包囲をするくらいだから、国力が
そう衰えたとはいえないんじゃない?
ハプスブルク王朝は、その後もずっとオスマントルコ
対策に頭を悩ませていたわけだし。

31: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/02(木) 17:12:55
>>27
影響がないわけじゃなかった
多くの艦隊を損失したんだから、それなりにダメージはあった
とはいえ、冬の間に造船してほぼ復旧できたみたいだけど
以前ほどの力はなくなりつつあったかもしれないけど
その時点ではヨーロッパ諸国に脅かされるほどではなかったと思う

32: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/02(木) 19:45:42
艦隊云々では無く、その頃から交易の重要地としての地中海の存在意義が薄れて
その結果、大西洋航路を支配した西欧諸国に脅かされたと見るべきでは?

東欧では依然、大国であったけど。

33: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/03(金) 19:42:39
16世紀後半になると押し切れなくなるのは確かだけどね
16世紀末のハプスブルクやペルシャとの10年以上にわたる戦いも不毛な消耗戦で
決着つかなかった

35: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/03(金) 21:10:22
ウイーンがもし陥落していたら、その後の展開も
また変わっていただろう。
どうなっていたんだろうか?

37: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/04(土) 00:06:21
>>35
ウィーンが陥落していたら、フランスあたりがローマ皇帝になってウィーン奪還十字軍を行ったのでは?
オスマントルコは本拠地から遠いから、ウィーンはすぐに奪還されただろう。
それに人口が400万人の大国のハンガリーも独立運動が本格化し、すぐに独立してしまう可能性がある。
ハンガリーが支配されていたのはハプスブルク帝国とオスマン帝国に分割されていたからだし。

38: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/04(土) 17:08:17
>>37
>ウィーンが陥落していたら、フランスあたりがローマ皇帝になってウィーン奪還十字軍を行ったのでは?

フランスはこの当時、オスマンと反ハプスブルク同盟を結んで友好関係にあったのでその可能性は低いと思われ。

41: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/05(日) 00:31:45
>>38
>反ハプスブルク同盟を結んで友好関係にあったのでその可能性は低いと思われ。

まったく脳天気な世界史好きだな。
緩衝地や互いの敵が無くなったら旧来の条約も同盟も自然消滅するのは定石だろ。

39: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/04(土) 21:14:13
コンスタンティノープルが奪還されなかったわけだから、
ウィーンも大丈夫だったかも・・・。

43: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/07(火) 23:17:48
パムクの「わたしの名は紅」を読了しました。とても面白かった。
ヨーロッパ芸術(ルネッサンス絵画)に対するイスタンブルの細密画師
たちの苦悩や葛藤を描いているわけだけど、そもそもイスタンブルには
ビザンツ文化が色濃く残っていたはずなのに、なんで主人公たちはあれほ
どヨーロッパの絵画に衝撃を受けたのだろうか?ちょっと気になる。
ちなみに時代は16世紀末。

47: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/08(水) 13:14:08
>>43
コンスタンティノープルを陥落させたからといっても、
ローマ時代から続くビザンツ文化を吸収しようなんて
考えは微塵も無かったんじゃない?
イスラム文化やペルシャ文化こそが神(アラー)につながる
唯一のものであるという考えだったはずだから・・。

58: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/14(火) 10:37:29
「わたしの名は紅」ちらっと読んだけど、登場するオスマンル達がイタリア絵画に
インパクトを感じていたのは、主に「立体的」という点のようだった。
モスクより巨大な豚を描いて「ただの遠近法です」と言い張るとかいうネタがあったw

あと細密画師が内職で春画を描いてるとかいう話がちらっと出てきたけど
そういうものは実際にあったんでしょうか? 現存するなら見てみたいが・・・

59: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/14(火) 20:05:29
たしかに春画が現存しているのなら見てみたいですね。
その絵だけがやけに立体的で写実的だったりしたら、
ビックリしてしまいますよね。

60: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/22(水) 14:41:48
アタチュルクが登場しなかったら、今でもスルタンがいたのだろうか?
それともトルコという国自体がもう無くなっていたのか・・?
ビザンチンの皇帝やオスマンのスルタンのように、政教一致の元首が
いるような国がこの時代にも一つくらい残っていて欲しかった。

225px-MustafaKemalAtaturk


ムスタファ・ケマル・アタテュルク

ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881年5月19日[注釈 2] - 1938年11月10日)は、オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導したことで知られる。


62: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/22(水) 20:17:49
>>60
「トルコという国自体がもう無くなっていた」でたぶん正しいかと。
当時のアナトリアは列強諸国による分割寸前で、それを救ったのがアタテュルク(と軍隊)だった。
トルコ国民がアタテュルクをいまだに国父(アタテュルク=トルコの父)として崇めているのはこのため。

個人崇拝として批判するのもいいが、彼がいないとトルコ自体がなかったのだから、
崇めてしまうのもそれなりに理解できると俺は思う。

63: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/22(水) 23:33:46
そうだな。確かにアタテュルクは国の英雄だ。
ただイスラムを排斥しようとしたために、最近では
イスラム過激派を産む温床にもなっているようだが。

15~16世紀のオスマン時代は今のトルコ人にとっても
大切な時代だろうからな。そこまで否定してしまうと、
反動も起きよう。

64: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/24(金) 01:30:56
>>63
過激派に関しては、まわりの国に比べたら相当ましだと思うけど。
イスラム原理主義者から見れば、トルコ人てとんでもない偶像崇拝者だろうね。

65: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/29(水) 22:14:16
>>60-64
「雪」が参考になる。オルハン・パムク作。

66: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/30(木) 18:24:03
「雪」はいま読んでいる途中だけど、現代トルコでの
アタチュルク崇拝が強いことがよく分かる。
逆に、オスマン帝国時代に郷愁やを感じているトルコ
人って少ないのかなという印象。
トルコ人はもっとオスマン帝国を誇りに思ったらいいのに。
あれだけの偉業を成し遂げたわけだからね。

71: 世界@名無史さん 投稿日:2006/11/30(木) 23:02:01
オスマン帝国があまり西側に目を向けず、
アナトリアとアラビア半島を中心に内政を
固めていたら、帝国はまだ続いていたかも
しれない。

72: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/01(金) 15:23:01
>>71
それはありえないような・・。
トルコはアラブ系のイスラムではなくて、
ペルシャ系のイスラムなんじゃないの?
そういう区分があるのかどうか、よく分からないけど・・。

73: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/01(金) 18:51:11
収入の面ではルメリ側領地の方が圧倒的に多かった
ハンガリーは肥沃な穀倉地帯だし、ルメリ側がないと
収入面の利点がなくなるからな
むしろ、ウィーンを奪取して、ウィーンを西の拠点として
支配を固められたら続いてかもしれない
ヨーロッパがまとまって対抗してくるかもしれないけど
十字軍みたいにグダグダになる可能性も十分にある
所詮、今となってはどうとでも言えるんだろうが

ペルシア系のイスラームとかアラブ系のイスラームって言い方は
何となくニュアンスはわからないでもないような気はするけど・・・
原初のオスマン朝は中央アジアで主流だったスーフィズムに近い
歴代君主は、スンナ派のハナフィー派を擁護する立場だった
とはいえ、アラビア半島などでは、ハンバル派(後のワッハーブ派の源流)
のカーディーも採用されていた。

オスマン帝国の瓦解の要因としては、宗教よりも民族運動の隆盛が強い気がする
微妙なバランスで保たれていた多民族国家の中で
各民族が強固なナショナリズムを掲げれば瓦解も仕方ない
「オスマン人」としてのナショナリズムが確立されていたとすれば
話は別だったかもしれないが
あと、イェニチェリの増加などによる財政圧迫を解決できなかったことも要因だと思う
ヨーロッパは新大陸・アジア・アフリカ貿易で潤沢な資金を確保できたのに対して
オスマン朝は地中海利権やシルクロード利権の旨みが減っていった
他にも、技術革新の差など色々な要因が複合された結果とするのが無難な答えだろうな

75: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/05(火) 15:53:42
>>72
詳細な説明さんきゅ。
そうか、オスマン帝国内の人々って「オスマン人」と
してのナショナリズムが確立していなかったのか・・。
だったら瓦解も仕方がないな。
ウィーンを支配していたらという話もたしかにあるが、
でも、今現在イスタンブルを死守しているということが
考えてみれば凄いことなのかもしれない。

131: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/25(月) 15:12:43
>>75
ルメリでの後退が続く中、1900年前後にアラブ諸部族に「オスマン人」としてナショナリズムを認識させるためにイスタンブルに部族学校を作った。
そしてアラブ人側もトルコ人に対して敵対意識でなくある程度は「オスマン人」であるという誇りを持っていた。
ルメリ、アナトリアの人間がアラブ人を見下してはいたが。
結局第一次世界大戦の時にひっかきまわされておじゃんになるのだが
わずかな期間の動きを見逃すと誤認をしてしまうよ。
アラブ側に目を向けるのが遅かったのは確かであるが

76: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/06(水) 04:32:26
ケマルさえ現れなければ今頃コンスタンティノポリスに戻ってたというのに

77: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/06(水) 10:07:05
>>76
(ギリシャ人のつぶやき)

78: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/06(水) 19:37:50
まだギリシャはトルコの諸都市を旧ギリシャ名で呼んでいるんだろうか?
故大島直政氏の著作にギリシャから航空機に乗る時に混乱したと記述があった

79: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/06(水) 23:55:13
アテネから飛行機乗ったが、イスタンブール逝きの逝き先表示が
「ΚΩΝΣΤ.ΠΟΛΗ/ISTANBUL」だった。

80: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/07(木) 16:20:47
>>79
へえ、そうなんだ。
コンスタンティノポリとでも発音するのかな?
ギリシャ人にとっては、1453年以前のままってことなんだね。
もし可能なら、ビザンチン帝国を復古させたいのだろうか?
王朝の血を引く人物が存命しているのかは疑問だが・・・。
逆にオスマン朝なら、血を引く人物がまだいるかもしれないね。
でもケマルに全部消されたかな?

81: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/07(木) 16:39:05
オスマン家の人なら国外追放後、アメリカに亡命して
子孫が在住していると聞いたけど。

パライオロゴス家の子孫は全く情報無し。

82: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/07(木) 18:02:43
ビザンツ帝室の子孫はデヴィ夫人と一緒にパーティーしてたような。

85: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/07(木) 18:49:44
ビザンチン皇室慈善舞踏晩餐会なんてあったのか。
しかもパライオロゴス家の直系の子孫まで居たとは知らなかった。

87: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/07(木) 22:41:17
へえ、よく残ってたな。
この人って、コンスタンティヌス11世の末裔になるの?
それとも別の皇帝の?

88: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/07(木) 23:53:06
>>87
多分モレアにいた傍系の末裔だと思う。
コンスタンティノス11世に子供はいなかったはず。

91: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/08(金) 15:19:33
実はオスマン家はビザンツ帝国から嫁を貰ってるから
一応、オスマン家の血筋=ビザンツ帝国の血筋でもある
第2代のオルハンがヨハネス6世の娘テオドラを嫁に貰ってる
コンスタンティノス11世の祖母ヘレネの姉妹がテオドラ
ヘレネと、コンスタンティノス11世の祖父ヨハネス5世は親同士が再従兄弟の関係
言い換えれば、ヘレネとヨハネス5世は、ミカエル8世を共通の高祖父として持つ関係
または、ミカエル8世にとって、ヘレネとヨハネス5世は両方玄孫になる

92: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/08(金) 19:37:21
>>91
オルハンとテオドラとの間にはハリルという子が生まれているが、オルハンの跡を
継いだのは異母兄弟のムラト(1世、母のニリュフェルはヤルヒサルのギリシア系領主の娘と
言われるが、「ニリュフェル」(蓮の花)という名から女奴隷だった可能性も高い)であって、
オスマン家の主流にはビザンツの支配層との血縁関係はない。
オスマン家の初期にはバルカンやアナトリアの領主たちの家系と数多く婚姻関係を結んでいるが、
多くは全くの政略結婚で、結婚しても子どもがいないか、子どもがいても世継にはならず、
世継の大部分は女奴隷から生まれている。
スルタンの母親が自由身分の女性だったとはっきり分かるのは、セリム1世の母のアイシェ・ハトゥン
(ズルガドゥル侯国の王女)と、スレイマンの母のハフサ・ハトゥン(クリム・ハン国の王女)
ぐらいしかいないのではないかと思われる。

95: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/10(日) 02:33:00
>>92
スレイマン1世の母アイシェ・ハフサ・ハトゥンが
クリミア王女の出自という説はよく見る気がしますが、
どうも万人の支持を受けていないようで、
王女のほうはアイシェ・ハフサと別人のアイシェ・ハトゥンいう王妃だったという説もあります。
そうであれば、やっぱり奴隷身分出自ということらしい。

関係して、手元の本と関係するサイトをいくつか見てみましたが、
メフメット1世の母デヴレット・ハトゥン(デヴレットシャー・ハトゥン)がゲルミヤン君侯国、
ムラト2世の母エミネ・ハトゥンがドゥルカドゥル君侯国の王女、という説もある模様。
ただ異教徒出身としている本もあったので、よくわからない。

結局、諸書一致して自由身分出自としているのは
セリム1世の母(アイシェ・ハトゥンまたはギュルバハル・ハトゥン)だけでした。


105: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/16(土) 18:07:01
ムスタファ皇子死後のスレイマン大帝の後継者争いについて
詳細をご存知の方の書き込みキボン

106: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/16(土) 23:48:31
>>105
バヤジット皇子が無頼の徒に武器弾薬をばら撒いて
軍団を作ろうとしたというのは読んだことがありますが

107: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/17(日) 01:05:32
>>105
スレイマン大帝の後継者争いはビュスベックの『トルコ書簡』に詳しい

108: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/18(月) 09:05:29
何故かムスタファ皇子のそっくりさんを探し出し
そいつを旗印にしてスレイマン大帝に対する謀反を起こしたんだよね>バャジット皇子
セリム皇子相手に挙兵するならまだ理解できんるだが・・・。
「オスマン・トルコの栄光とスレイマン大帝」は
偽皇子ムスタファ事件を簡単に記しているだけで
詳細が不明なのが歯がゆい

154: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/15(月) 14:07:57
>>105-108
ムスタファが後継者になっていれば、レパントで負けることも
なかっただろう。もうちょっと、帝国の繁栄は続いていたので
はないだろうか。
ロッサーナがスレイマンをやりこめなかったら、と想像してしまう。

220px-Khourrem


ロクセラーナ

ロクセラーナ  (1506年[- 1558年4月17日) は、オスマン帝国のスレイマン1世の后である。

オスマン帝国の慣習を破ってスレイマン1世との間に複数の男子をもうけ、法的な婚姻関係を結び、事実上の一夫一婦の関係を築いた。スレイマン1世の後継争いに策動し、ハレムの住人が権謀術数を巡らせオスマン帝国の政治を支配する先駆けとなった。


155: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/15(月) 22:11:38
スレイマンをやりこめたとは?

159: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/17(水) 12:27:14
>>155
ロッサーナにほれ込んだスレイマンは
彼女の要求に従って他の愛妾を臣下に払い下げた
子供を産んだ女性は臣下にやれないが
性交渉を絶った
周囲の反感を押し切ってロッサーナと正式な結婚もした
後継者問題に関してはスレイマンはロッサーナの言いなりで
彼女の陰謀を見破れずムスタファの処刑した

スレイマン1世の後継争いに策動

ロクセラーナは、スレイマン1世との間にもうけた4人の皇子(メフメト、セリム、バヤズィト、ジハンギル)のいずれかを次期スルタンとするべく策動したといわれている。

一時メフメトが有力となったが1543年に天然痘に罹って早世し、マヒデヴランの子ムスタファが有力となった。しかしムスタファは1553年、イラン遠征軍の陣中で処刑された。ムスタファは軍人として名声が高く、とりわけイェニチェリから強く支持されており、突然の処刑にイェニチェリは怒り反乱を起こす寸前にまで至った。

スレイマン1世がムスタファを処刑した動機は不明だが、政権内を含む世論はロクセラーナが娘のミフリマーとその婿で大宰相のリュステム・パシャとともに「徳の高いスルタンの目をくもらせた」と考えた。


167: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/19(金) 22:43:05
>>159
サンクス!やっぱり、女は歴史を動かすんだな。

168: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/20(土) 19:36:29
ムスタファ処刑直後
ロクセラーナの息子ジハンギル皇子が
後継者争いのプレッシャーに耐えられず自殺あるいはショック死した
生き残ったセリムとバヤジットもロクセラーナの息子で
2人が後継者の地位をめぐって激しく対立するなかロクセラーナは病死した
ロクセラーナが生きていれば後継者争いに敗れた
バヤジット皇子とその息子たちが処刑されるのは少なくとも阻止されたろう
ロクセラーナは最も死にたくない時期に苦しみながら死んだ

109: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/18(月) 20:56:01
オスマン朝は軍事力だけが取り柄で文化面では他のイスラーム王朝に
(例・アッバース朝、後ウマイヤ朝)
大きく劣ると大学の教授が言っていたけど、その点どう思います?

111: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/18(月) 22:09:53
>>109
細密画はペルシャに比べるとなんか雑なような・・・

112: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/19(火) 20:36:19
トプカプ宮殿はアル・ハンブラ宮殿に比べると見劣りするな。
モスクは他のイスラム帝国並みの傑作がたくさんあるが。
アッバース朝や後ウマイヤ朝の方が、
ギリシャ・ローマ文明を保存・伝達してルネサンスの元を作った功績がある分
輝かしく見えるのかもな。
Topkapi_Palace_Seen_From_Harem
トプカプ宮殿


Vista_de_la_Alhambra
アル・ハンブラ宮殿


116: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/21(木) 12:30:08
細密画はペルシャの伝統を受けて、かなりの
高レベルであったはずだが・・。

117: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/21(木) 17:10:52
日本じゃオスマン=コンスタンチノープル陥落のイメージが強いからね。
文化面だと余程の専門書じゃないと人名すら出てこない。

119: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/23(土) 12:43:10
オスマントルコの祖先って突厥とはつながりあるの?

120: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/23(土) 15:46:59
>>119
基本的に同じ言語(テュルク語)を話す人たちです。

121: 120 投稿日:2006/12/23(土) 15:51:14
補足
テュルク諸語ってのは、おおざっぱに言えばトルコ語の方言みたいなもんです。
どちらも文字史料を多く残しているので、少なくとも支配階級は同じ系統の言語を使っていたことがわかります。

125: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/23(土) 18:51:46
>>119-121
マラーズギルドの戦い以降にアナトリアに入植したセルジューク朝傘下のオグズ系の
諸集団が起源だというのはまず間違い無い。>オスマン家その他

ただ、『セルジューク・ナーメ』やカーシュガリーの『テュルク語事典』で
語られるトゥグズグズこと中央アジアのオグズ系諸集団と突厥やウイグル碑文群で
語られるトグズ=オグズがイコールなのかは疑問視されている。
特にカーシュガリーの伝える伝説的始祖であるオグズ・ハンから分岐した24の部族集団の
リストとウイグル碑文の部族リストとでは殆ど一致しないのが問題で、両者は音が似かよった
全く違う集団ではないかとも言われる。

オスマン朝の祖先である「オグズ」と突厥時代のテュルク系諸部族との接点については
実は中央ユーラシアの古代史では大問題のひとつだったりするけど、結局の所今に至るまで
その関係については結論が出ていない。ともにテュルク系だということは間違い無いけど。
つまるところ、オスマン朝など(セルジューク朝含む)オグズ系集団と突厥との関係は、
「直接的な関係があるのかも知れないけど、よく分らない」というのが実情のようだ。

129: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/24(日) 01:03:23
他の君候国やビザンツ領の土着勢力も上納すれば温存されたのですか?

138: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/30(土) 03:23:19
>>129
征服当初において在地の支配層がそのままオスマン朝に服属した形跡はみられますが、
時代が下るとバルカン、アナトリアの大部分はティマール制が施行され、
オスマン朝の支配体制に統合されています。
こうした地域では在地の支配層もティマールを授与され、
外来のトルコ系支配層に統合されていったようです。
それでもラグーザ、モンテネグロ、ワラキア、
モルダヴィア、トランシルヴァニアなどは
後の時代まで、在来の支配体制が温存されていましたが、
これらは最前線だったり辺境だったりしたため残ったものと思います。

137: 世界@名無史さん 投稿日:2006/12/28(木) 10:20:30
オスマン朝の隆盛期には、版図内の多様な民族に対して
宗教面も含めて非常に寛容だったというイメージがある。
いい意味での合衆国だったんだろうな。見習うべき点が
多いのではと思う。

158: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/17(水) 09:46:18
【105】我々はフランス人の千倍もビザンチンの子孫である【ラディカル紙】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00105.html

【105】我々はフランス人の千倍もビザンチンの子孫である【ラディカル紙】【2004.12.30】

12月27日のラディカル紙よりネシェ・ドュゼル氏のコラム。フランスのシラク大統領が、「我々は全てビザンチンの子孫である」と述べたことが、トルコでは反発を招きました。この問題について、ドュゼル氏はバフチェシェヒル大学で文明論を教えている経済史の専門家ムラット・チザクチャ教授にインタビューしています。


Q:フランスのシラク大統領は、トルコがヨーロッパから縁遠いものではない ことを強調するために、「我々は全てビザンチンの子孫である」と言いました。私たちはこれに反発し、一部の閣僚はこの発言に罵声を浴びせているほどです。 何故、世界史上の重要な帝国と関連付けられることが、私たちを立腹させたのでしょう?

A:それは、私たちの歴史教育に原因がある。つまり、私たちには、ローマ・ビザンチン帝国を倒したことが誇りとなっているからだ。ローマ・ビザンチンは、世界史上の最も偉大な文明であるにも拘らず、私たちの歴史認識によれば、「我々は、諸々の帝国・文明を打ち倒した英雄的な民 族」ということになっている。私たちは、この歴史認識により、自らを野蛮人(バーバリアン)にしてしまった。文明を破壊するものは即ち野蛮人であり、彼ら は私たちのことを野蛮人と呼んでいる。

161: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/17(水) 22:33:13
>>158
興味深い記事だな
でも、トルコ人を頑なにさせたのは、
ビザンツ復興を目指したギリシア人のせいでもあるんじゃないか・・・

162: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/17(水) 23:29:30
>>158
これは面白い!よく見つけました。
たしかにケマルの改革からはもう80年が経過している。
そろそろ、「トルコはビザンチンの後継者」であるという
教育を始めてもいいのではと思う。メフメト2世が本当に
そう思っていたのかどうかは興味があるところだ。

164: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/18(木) 17:52:05
十字軍とラテン帝国で散々ビザンツ荒らしたフランスに言われたくないな。

173: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/25(木) 16:07:57
「オスマン 世界帝国の野望」というようなタイトルの
本に書いてあったが、ギリシャ正教はオスマン帝国の保護
があったからこそ生き延びたのであって、もしそれがなかっ
たら、今ではギリシャ正教もギリシャ語も無くなっていただ
ろうとのこと。
本当ですか?もしそうだとすれば、ギリシャ人はそんなに
トルコを怨めないのでは?

184: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/27(土) 08:39:50
>>173
そんな強引なイスラム化政策したら
反乱だらけで世界帝国作れなくなる
世界帝国はだいたい宗教には寛容、民族の自主性をある程度認めないと
国は大きくならない
逆に帝国の欠点は近代化には不向きということだ

175: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/25(木) 16:13:11
まあメフメト2世が正教保護しなかったらギリシャ正教は埋没して
ロシア正教が正統になっただろう。

176: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/25(木) 21:01:04
シャルル・ダンジューまがいの
ローマ・カトリックの基地外にやられるよりは良かったかもな。


実際「カトリックの帽子見るぐらいならターバン見るほうがマシ」なんてことを宰相が言ってるぐらいだったし。

180: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/26(金) 14:31:47
スレイマン後に優秀なスルタンが登場していたら、
ギリシャは今でもトルコの領土だったかもしれない。

逆に言うと、スレイマン以降は駄目なスルタンばかり
だったのに、いまだにトルコという国が存続している
ことも驚きだ。

181: 世界@名無史さん 投稿日:2007/01/26(金) 15:00:23
歴代宰相がどえらく優秀だったからな。

キョプリュリュ一族は ネ申


引用元: ・オスマン朝・オスマン帝国(02)