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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/04/08(日) 15:09:41 ID:KW5filkU0
 荀彧(163年 - 212年)は中国東漢末期に曹操に仕えた政治家。字は文若で、諡は敬。
 曹操の下で数々の献策を行い、曹操の覇業の基を作った。









3: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/04/08(日) 23:59:25 ID:hHA9crCA0
荀という姓の人物ってわりと珍しいかな?

4: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/04/09(月) 13:02:59 ID:pOag7Fkq0
筍子様の子孫だぞ。

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/04/13(金) 19:21:02 ID:LSWLWmH+0
>>4
本当に子孫かどうかは怪しいらしいね

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/04/09(月) 14:33:18 ID:wh7G07+hO
袁紹とかと同じ名門出身ゆえにたくさんの人材を推挙できた

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/04/11(水) 20:54:42 ID:jneFhV8/0
奥さんの唐氏って宦官の一族なんだよね。
つまり濁流出身か。

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/04/13(金) 11:15:56 ID:LYgoeNnc0
宦官と縁続きになったのは何かやむを得ない事情があったと思われ

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/04(金) 00:30:24 ID:Ew5bbp8r0
荀彧って人物は、曹操の配下と言うよりは、
政治面における協力者という色合いが濃いように思う。

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/04(金) 00:35:01 ID:ztB8x+imO
曹操の司馬とか完全に部下だと思うけど

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/12(土) 23:43:43 ID:jQDeE8MMO
三国・戦国板の黒いジュンイクのまとめ


・ジュンイクは穎川荀氏の筆頭ではない
ジュンイクが故郷に戻った時に彼がリーダーになって避難しているが、だからといって彼が荀氏の宗主、筆頭だった訳じゃない
上の世代に荀爽がいるし、近い年代でもジュンユウの方が先に世に知られている
更にジュンイク自身にジュンエン、ジュンシンという兄もいる
避難時にリーダーだったのは、他の者が出仕していて不在だったから
上位の者の不在を狙って帰郷し、自分がリーダーになろうとした可能性もある

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/12(土) 23:55:09 ID:jQDeE8MMO
・ジュンイクが曹操を選んだ理由
袁紹の下にいても、多くの謀臣や名士がいるし兄まで所属しているので、ジュンイクが彼等の上に立って活躍できる可能性は低い
弱小勢力の曹操なら、ジュンイクはいきなり首脳陣の仲間入り

天下の混乱を収めるためなら弱小勢力について袁紹にたてつく必要はない
漢王朝に忠義を尽くすなら、献帝に公然と歯向かう袁紹や曹操の下にいるのはおかしい
ジュンイクの判断基準は自分にとっての有利さだけと言える

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/16(水) 15:01:19 ID:2+jVFeFKO
>>19
荀イクが来る前に曹操の配下で力があった文官は陳宮なのかな?

エン州のほとんどを味方にしたところをみると結構な名士じゃないかと思うんだが

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/16(水) 18:56:58 ID:5SgFDpTKO
>>29
実は陳宮って一貫して「将」と記載されてるんだよね
官位は不明だけど、自前のまとまった兵を持つ小軍閥的な豪族だったんかな

まあそれ言ったら我等がジュンイクも奮武・鎮東司馬なのだが

勝手な推測だが陳宮に立ち位置が一番近い曹操側の人間がテイイクかなと思う

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/13(日) 00:04:51 ID:NAureRk+O
・ジュンイクは漢の忠臣ではない
ジュンイクが漢を長らえさせた忠義の士であると考えるのは裴松之が最初
それまでは纂奪者曹操の重臣という評価が一般的だったらしい
実際、ジュンイクがやったことは献帝の監視であり、漢王朝は生き長らえたといっても死に体の傀儡のままであるし、ジュンイクはその状態を改善しようとしたようには見えない
積極的に漢魏革命を推進した董昭と、大した差はないのである
ジュンイクが曹操の魏公封建に反対したのは、天下に動揺をもたらすという極めて現実的な理由であり、漢への忠義はあまり関係ない

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/13(日) 00:19:45 ID:nhDuCKHH0
>>それまでは纂奪者曹操の重臣という評価が一般的だったらしい

というか、優れた知識人・君子の一人として認識されている。
北魏にはわざわざ名を彧、字を文若と改めた皇族もいるくらいの人気者。
隋末の反乱指導者李密は「曹操が九錫を求めたのを諫めた荀彧のように
疑われてはたまったもんじゃない」と引用しているように、簒奪者曹操の一派
というのからは一歩引いた地位にいたと認識されてもいる。
とはいえ、荀彧が本気で漢の復興を考えるほど鈍感だったとも思えないけど。

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/13(日) 00:39:28 ID:NAureRk+O
>>21
なかなか中英っぽいレスで面白いけど、俺が言ってたのは裴松之までだからね
裴松之の論と後漢書がジュンイクの評価を逆転させてる

あとジュンイクは九錫については諌めてないと思うので、李密は誤解してたのかな?

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/13(日) 01:15:54 ID:nhDuCKHH0
>>22
よく読んでなかった。すません。
貴族社会の理想の君子像の一人だよなー、と思い立ったので、脊髄反射をやらかした。
元彧も李密も的外れな例ですわな。

董昭の相談が公就任と九錫賜与をセットにしてるので、李密はそれを指してるかと。

25: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/14(月) 09:04:35 ID:T82BhV5CO
・ジュンイクの評判について
ジュンイクが当代随一の名士として周囲に評価されていたのは間違いない
ただ、これは彼が曹操の司馬となった頃からの話ではないと考えるべきだろう
若い頃から海内に広く名の知られた特級の名士だったのはジュンユウの方で、ジュンイクはおそらくその陰に隠れるような感じだったろう
ジュンイクの評価は、曹操の腹心として働き、侍中・尚書令という要職にあり、数多くの人物の挙主になることで積み上がった実績による評価なのだ
抜擢された者にとって挙主はいわば恩人であり、悪く言うわけがない
それ以外の者にとっても、曹操の腹心を悪く言う勇気のある者は少ない
(もちろんこれはジュンイクが賞賛される能力や人格でなかったことは意味しない。高い地位についたからこそ高い評価を受けたということが言いたいのだ)

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/14(月) 12:36:47 ID:T82BhV5CO
・侍中・守尚書令とは
献帝を拉致した曹操はジュンイクを侍中・守尚書令とした
「守」は兼任であり彼は侍中であると同時に尚書令であったことになる
侍中は元は皇帝の身辺の世話役(おまるやたんつぼの管理なんかもやっていた)で、皇帝の政務等に対する相談者や小間使いとして機能した
とはいえ傀儡皇帝にとっては、いつも近くにいて自分の言動を監視し権力者にチクる奴らということだ
尚書令というのは詔の起草や上奏文の管理などの文章管理が仕事
本来は皇帝の言う通り詔を起草する役目だが、細かい内容を一任されたり、詔について皇帝から相談を受けたりといった形で詔の発布に影響力を及ぼせる要職
これも傀儡皇帝にとっては、実質的に詔の起草は尚書令の後ろにいる権力者が握っているようなもの
権力者の意向に沿わない詔は、尚書令が起草してくれないし、権力者にとって都合悪い上奏文等は握り潰されるということ
この二つを兼任したジュンイクは献帝を厳重な監視下に置く重要な役割を曹操から任されたということなのだ

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/15(火) 12:22:21 ID:Ca3a/aOb0
尚書令というのは文官としては重職。
曹操が丞相になっているので当然、三公は廃止され
尚書令は実質的にNo2だ。

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/15(火) 12:25:41 ID:hsgvDQGUO
・ジュンイクの死について
ジュンイクの死は「病死」とされているが、これは極めて疑わしい
彼は孫権を攻める曹操の軍を労う皇帝の名代として曹操の元へ行くが、ここで曹操はジュンイクを軍に留めることを皇帝へ要望する
もちろんその願いは聞き届けられ、ジュンイクは尚書令から「侍中・光禄大夫・持節・参丞相軍事」に転任した
しかしジュンイクは病となり、やがて「憂をもって」死ぬのである
この時の官のうち侍中は変わらないが、皇帝の傍にいない以上は只の身分でしかない
光禄大夫とは実は無任所であり、名目的には政治に対する意見具申が仕事であり、任地が空くまでの人材プールであったり、他の実職別にを与えられていたり、左遷先であったりする
持節は皇帝の使者の証であり、皇帝が持つべき処断権の一部を与えられたことになる
参丞相軍事が一応彼の実職であり、丞相曹操の軍事顧問ということだ(カクがそうであるように)
しかし、ジュンイクは尚書令という二つとない要職を長年勤め、曹操の差し金とはいえ三公の声もあった人物であり、いまさら参軍事というだけで左遷の匂いである
しかも、例の魏公問題で関係は極めて悪化しており、わざわざ近くに置くことがどんな意味を持つのか、分からないジュンイクではないだろう
これから赴く戦場で「不慮の死」を遂げるか、何らかの罪状が発覚し軍法に基づき軍内で処刑されるか
曹操のこの露骨な人事をまのあたりにしたからこそ、ジュンイクは「憂」という状態となったのだ
死因が病死か自殺か毒殺かは実はあまり関係ない
ジュンイクが間近に迫る逃れられない死を悟り、公式には「病死」と扱ってくれるような死に方になるような死を選んだ、という点が重要なのだ
病死なら自分も厚く弔われるし、爵位や財産を子に継がせることもできる

31: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/18(金) 12:25:33 ID:AzjP6czCO
・ジュンイクと三公
ジュンイクは三公就任を打診されたが、固辞したという
三公は当時曹操以外は有名無実化していたのではないかと思われるので、野望と権力の男ジュンイクが断るのも当然…かもしれないが、
実際には「三公にふさわしい人物がいない→三公を廃止し丞相を復活して曹操一人にやらせよう」という流れに誘導するための意図的なものであろう
つまり曹操が三公の権限を独占する丞相になるためのマッチポンプへの荷担である

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/28(月) 01:52:54 ID:yUtxsZlXO
ジュンイクって楊彪助けるために満寵に後ろから手を回して圧力かけてるよね

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/28(月) 03:42:06 ID:IT34ylfr0
満寵閣下は空気読まずにキッチリ拷問したけどな。

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/28(月) 12:27:53 ID:yUtxsZlXO
259:無名武将@お腹せっぷく :2007/05/28(月) 11:16:01 [sage]
そもそも後漢王朝があれだけ荒廃して群雄割拠になった時点で、もう本気で後漢再興を目指す人間なんて皆無でしょう。
統一した人間が誰であれ新王朝を築くに決まってる。
(劉備あたりが新王朝に漢と名付ければ名目上はまだ可能性がゼロではないが、実質的にはこれも新王朝と言っていいだろう。)

そうするとあとは
①一応最後まで漢朝に忠義を尽くす形を取りつつ、王朝の交代を見届ける。(その後大半は新王朝に仕える)
②むしろ自分達で積極的に新王朝設立を目指す。(当然新王朝に仕える)

この二種類に大別されてくると思う。

あとは掲げる看板をどうするかだけど、呉の場合は赤壁にモロに出てる。
①曹操は逆賊だけど漢の威光には逆らいがたい、降伏しよう。
②曹操こそが逆賊なんだから、我々の手でこれを排除しなくてはいけない。

①ですら曹操がその実叛意があることを認めつつ、これに降伏しようと言うのだから漢室復興なんて諦めてるも同然。
②も「孫家こそ漢室の忠臣」という大義名分を使ってるだけで、非公式的には「孫家こそ次の天子」とか言ってる。

呉の士大夫層に「漢室復興」なんて幻想を本気で追い



携帯でやったら一部切れたが、個人的には完全同意なのでコピペ

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/30(水) 08:28:24 ID:jgTPYoxpO
ジュンイクもそうだが、後漢のいわゆる清流派、名士ってそもそもが漢の皇帝に弾圧された反体制派だよね
漢末~魏の歴史はその反体制派が政権を乗っ取って体制側になる過程だと言えるよ

70: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/12(火) 00:31:47 ID:FbjGRy5f0
止まってるのでネタ振り

鍾ヨウ、陳羣、荀彧は肉刑復活論者だったという
しかし王朗、孔融をはじめとする諸官の多くは肉刑に反対し、曹操、曹丕ともに肉刑に賛同の意を示すも結局沙汰止みとなっている。

肉刑の復活を唱えたのが穎川名士だったことに何か意味はあるのだろうか


というか荀彧って肉刑復活論者だった…よな?
ちょっと調べたら自信なくなってきた

71: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/12(火) 12:25:26 ID:8yzAeoJDO
>>70
ジュンイクがどうだったか忘れたけど、ショウヨウの家は法学を家学にしてるよね
法学畑では肉刑を肯定的に評価してたのかな

実のところ肉刑、丞相の復活、巨大な異姓諸侯の誕生と、曹操のやった(やろうとした)政策は復古的なものも多かったりするよね

73: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/18(月) 02:10:58 ID:gBU9Q/iR0
>>71
魏公就任と言い、悉く王莽の轍を踏んでるのがアレだなぁ。

74: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/18(月) 12:30:08 ID:UKESG9lLO
>>73
ま、基本的に王莽の手法の模倣だからね

王莽は「宰衡」という古を典拠とする官に就き、皇帝の「外戚」(娘を皇后にする)になり、「九錫」を貰い、「安漢公」となり、禅譲の道を開いてる
曹操は「丞相」という古の官を復活させ、皇帝の「外戚」(娘を皇后に)になり、「九錫」を貰い、「魏公」となっている
もちろん偶然の一致ではなく、王莽の手法を真似たものに間違いない
だからジュンイクは魏公と九錫を得ることで纂奪の意思を天下に知らしめ、動揺を与えるのに反対したんだろう

余談だが董卓が相国や太師を称したり、李厳が諸葛亮に九錫を進呈しようと考えたというのも同じように解釈するべきだと思う

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/18(月) 23:11:36 ID:gBU9Q/iR0
>>74
荀彧伝によると、荀彧はそれに対して反対の立場だったようにもとれる。
しかし、荀彧の成業そのものは曹操の簒奪を後押ししてるよね。
曹操を皇帝の後見人にしたり、荀彧自身皇帝を監視したり…

76: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/18(月) 23:40:42 ID:UKESG9lLO
>>75
うん、だから俺はジュンイクが反対した理由は「纂奪の意思を露わにするのは『まだ』早い」だったと思うんだよね
多少なりとも曹操を忠臣とか誤解してる奴がいるから、政情不安な今はまだ誤解させて利用しとけ、と
言い換えたら、関中平定して荊・楊にリベンジ果たしてから本性見せろ、という意味だ

77: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/18(月) 23:46:38 ID:gBU9Q/iR0
>>76
時期尚早だったために天下が3つに定まってしまった。か。
袁紹・袁術と同じ轍をふんだんだなぁ。

78: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/18(月) 23:55:56 ID:UKESG9lLO
>>77
そこの評価は微妙だよ
魏公国を得て冀州領有を合法化できたお陰で二代目になっても大勢力を維持できたとも考えられる
魏公にならず禅譲のお膳だてもしなかったら、曹操が死んだら一気に勢力が瓦解分散しかねない
曹操は「俺ももう若くないから天下狙いより安定志向でいくよ。だから邪魔するジュンイクウザス」って感じだったんだろう

79: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/19(火) 00:00:13 ID:KutuDoZp0
>>78
それもまたそれで夢の無い選択だのぅw

80: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/19(火) 00:17:15 ID:JCoskdLzO
>>79
そこはやはり赤壁とか荊州での一連の敗戦が被害という意味でも曹操の自信という意味でも大打撃を与えてたんだと思う
逆にジュンイクは敗戦の打撃があるからこそ天下統一のためには漢シンパを刺激する真似を避けたかったんだろう、と思う

85: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/22(金) 03:20:27 ID:89tkmqL80
そう反対したら勘違いしてる連中に
「荀彧さまこそ本当の忠臣だ。彼を担いで贅閹の遺醜と対峙しよう」となり、
曹操「おい、文若。おまい俺に逆らおうっていうのか?」
荀彧「いえ、滅相も無い。主公の思い違いです。反対したのは確かですが、こんなはずでは…」
曹操「じゃあ、どうケジメをつけるんだよ、ええ!」
と、こんな感じで延々いびられ続け憤死させられたのでは?

86: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/22(金) 12:46:57 ID:duVtBf22O
>>85
ストーリー的には面白い
ただ裴注見ると、その頃まではジュンイクはあくまでも曹操が漢を纂奪するのを助けたと評されてたみたいだからなあ
伏皇后の密書を隠してたって異説はあるけど、その異説でもジュンイクは最後には密書を曹操にチクってる
チクるのが遅かったから疑われたことになってるけど

88: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/29(金) 12:27:42 ID:5N+wcWQGO
本人も周囲も、健康に不安を感じてたのかもな
道半ばで死ぬと覇業も一気に後退してしまうというのは袁紹や劉表や孫策の例の通りだから、覇業を多少後退させてでも現勢力の次代への継承を確実にする曹操の判断は間違いとは言えない
ただ、覇業が後退し、敵に時間を与えることになるのもまた確かで、曹操に天下をマジで平定するという覇気があればジュンイクの言葉に従っていたかもしれないな

89: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/29(金) 22:15:45 ID:YIqDUlI/0
荀彧漢臣論のはしりが裴松之であることは何度も触れられてるけど、
なんで彼はそういう結論に達したんだろうね?

歴史解釈というのはその時代のイデオロギーに左右されるものだと思うんだが、
荀彧が漢臣である方が都合がいい南宋の政治状況なんてよく分からん…三国志厨でサーセンw

それか国家のイデオロギーより裴松之自身の信条に関わりのあることなのだろうか
前スレでは「痛いアイドルオタ」呼ばわりされていたが…

90: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/30(土) 17:27:31 ID:Or7t+ftjO
>>89
南宋じゃなく劉宋やん

推測でしかないんだけど、後漢末以来実質的には分裂期が続いてる時代だから、長期統一政権だった漢への思慕みたいなものがあったんだろう
そして、「曹操が纂奪ではなく本気で漢を再興してたら乱は早く収まっただろうし、そうしたら今みたいな分裂時代はなかった筈だ」
といった彼なりの分析から、漢の皇帝を立てて統一を目指したジュンイクを高く評価するんじゃないかな
漢マンセーと統一マンセーを裴松之の中で矛盾なくするためには、統一を優先した発言のあるジュンイクは漢臣でないといけなかったわけやね

有名なカク嫌いも漢マンセー統一マンセーから導かれるね
「カクがあんなこと言わなければ天下は混乱せず、今も漢だったのに」みたいな

91: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/30(土) 19:37:37 ID:A2C9JNWE0
>>90
なるほど、うなずけますね。
しかしそれなら、裴松之は天下三分の劉備・諸葛亮や二分の周瑜・魯粛も叩かなけりゃ
ならないような。

93: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/30(土) 23:52:00 ID:Or7t+ftjO
>>91
それらは世が乱れてからの話だからね
裴松之的には世を乱した元凶のカクとか、一気に世を統一に導くことができた(筈の)ジュンイクの戦略と比べたら、良くも悪くも大したことないんだろう
あくまでも松っちゃん基準での話だが

94: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/01(日) 08:04:23 ID:ZnxEjpWz0
>>90
南宋じゃ1000年くらいずれてるよな…すいませんorz

凄く参考になりました
確かに賈クに突っかかってるのも謎だったんだが、そういう考え方なら納得できる気がした
賈クが李カクたちにどんな献策をしようと、それより前から漢はほとんど滅びてるようなものだったと思うが、
裴松之はそうじゃないと思いたかったってことかな

107: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/23(月) 21:05:09 ID:afH7TbL6O
むじん氏が取り上げた王允論はジュンイク漢忠臣論に似てる気がする

108: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/26(木) 02:56:20 ID:QGGcHnTWO
>>107
詳しく頼む

109: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/26(木) 12:20:31 ID:DNsTQAuSO
晋の華キョウが王允を弁護してるという話
つまり逆臣董卓に従った上に後から反逆したことを不忠で不義だという世論に対して、董卓を打倒するためやむなく従ったんだから不義不忠じゃないんだよ、って弁護した

当時王允が不義不忠であるとみなす世論があったことがわかる
ジュンイク漢臣論とソックリじゃないか?

111: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/02(木) 23:34:03 ID:0ptKeOr20
>>109
実際は不義不忠ではないという主張=不義不忠であったという世論が一般的であった、とは限らないんじゃないか、
自分の論の斬新さを引き立てるための決まり文句のようなものなのではないか

と思っていたんだが、三国志研究第二号の世説新語と三国名士の研究の論考を読んだら考え方が変わった
後漢書、裴註と同時代か少し前に書かれた世説の中で、荀彧は少なくとも
「君主の意に反して何事かをなそうとした人物」とは描かれていないように思える

この論考は他にも考えるところが多かったのでおすすめ。
荀彧の起家官である守宮令が元は宦官の仕事だったこととか、もう少しちゃんと調べたい

長文スマソ

112: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/03(金) 00:07:16 ID:GG4SNv370
>>111
情報乙

>荀彧の起家官である守宮令が元は宦官の仕事だったこと

ああ、そういや宦官が全滅してからの話だもんねあれ

113: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/03(金) 22:37:52 ID:dnce8ZGT0
なんか難しい話してんな。 

尚書体制てのは皇帝主導主義。荀彧は守尚書令、特に侍中に拘ったのは
やはり皇帝主導の尚書体制、後漢皇帝の中央集権化を意識していたんじゃない
か。 そうすれば相対的に曹氏や袁紹という逆賊の力が落ちることになる。

そのためには侍中、尚書という位置は必要不可欠だったが、
曹操から皇帝との距離を置かせる為光禄大夫に任命され、曹操は丞相制を
導入しだした。 
だから荀彧は死ぬことになった。 と考えたほうがやはり自然だ。

が荀彧が漢王朝復興を本気で目指して行動したとは思わない。

荀彧にとっても最も重要なのは清流派の名声。 荀彧にとって能力以上に
価値があるものだ。

荀彧は、家が後発であり自分の現状もよく理解していた。そのため自身の
声望を維持する事が最優先事項だった。 それが荀彧の行動方針になって
いた思うし、彼の失敗だったと思う。 

結果が同じでも動機が違うって感じ。

173: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/23(木) 20:47:25 ID:oZtPJHoZ0
誰が書いてたか忘れたが、曹操とジュンイクは主君と家臣ってより
共同経営者って性格が強かったのが悲劇だったって言ってたな。

174: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/23(木) 23:01:03 ID:hRZTRU6c0
>>173
孫権は周瑜を共同経営者として尊重したが周瑜は徹底して孫権を立てた
孫権にとって張昭は自分より偉い「目の上のたんこぶ」だが張昭は共同経営者ではない(実権はない)から排除する必要はなかった

曹操は荀彧を最高の腹心として信用したが荀彧は自分を曹操の共同経営者と思い曹操との温度差を生んだ

175: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/26(日) 11:05:20 ID:gAhYfgcL0
曹操の後継者問題では、どっち側だったんだろう?
長男が曹植と仲がよかったらしいけど

176: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/30(木) 16:39:12 ID:T1Ta49cU0
息子が曹植と仲がよくても、荀彧本人自体は直接的に
どちらが・・・という記述はない様に思われるが、
直接的ではないにしろ、父の腹心だからと遜った曹ヒに
んな必要ネーヨとか言ったりしてるよね。>大まかに言うと。
それ以外にも曹ヒをたててる記述があるのを文学スレでみた。

183: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/15(土) 03:49:41 ID:+UvLZgUN0
行動自体は王允と似ているが、旬イクは漢の忠臣か否かを盛んに論議されるよな。
やはり齎した結果が結果だけに、ということか?

184: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/18(火) 07:55:59 ID:IoOHKoZs0
こうして見てみると
純粋に天下泰平の志をもった人物っていたのだろうか
悪いとはいわないが皆保身が転じた志のように思える

所詮私達が漫画や小説で触れる志は絵空事なのかな

185: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/18(火) 11:36:17 ID:UtD0P9k50
あくまで「天下泰平」に拘るなら、曹操、孫堅あたりは確実にそういう志を持っていたとは思う。
ただ、漢朝輔翼という点では断言できないけど。
この二人は関東の諸軍が立ち上がった時に、敢えて自ら董卓を討伐しに行った者たちだからね。

186: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/18(火) 12:28:02 ID:uvNkcWFTO
そもそも後漢末の状況から天下統一(泰平)をもたらすことと、漢朝を輔翼することは、矛盾を孕んでいるからね
あの状況から天下を統一した者の方が、天下の混乱をもたらした劉氏より天子にふさわしいという世論になって当然で、そうならないとしたら統一を果たした者が粛清されているという事態くらいしかない
皇帝の血筋は実力主義で、決定的な問題があれば交替してしかるべきというのが基本だから

当時、天下を統一しようという高邁な志を持った者は少なくなかったと思うけど、漢を復権させようと本気で考えていた者は幾人いたことやら

188: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/18(火) 18:55:51 ID:HYj6Bp/x0
>あの状況から天下を統一した者の方が、天下の混乱をもたらした劉氏より天子にふさわしいという世論になって当然で、

そういう考えは200年前後、つまり袁紹が消えたあたりから顕在化するのであって、少なくとも李カク等が牛耳ってたときは
まだ漢再興を志す者が多かったはず。曹操然り劉表然り。
だから「後漢末」の群雄とその臣下の心の多くは、ある時期まではかなり親漢派だったと思うね。

189: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/18(火) 19:43:44 ID:uvNkcWFTO
袁紹以前は統一しそうな勢力自体がなかったからなあ

ただ、皇甫嵩を推す者がいたり、袁術が即位したり、漢の天下が終わったという認識は李カク時代あたりにはけっこう広まりつつあったと思うよ

190: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/18(火) 20:55:56 ID:h7SRG6bC0
もっとも、この王朝も長くないと感じていた者もそれなりにいたようだけどね。
曹操の若い頃のエピソードにもある。
ただそれが一般認識になるまでは少なくとも黄巾まではまたないとないだろうな。

193: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/21(金) 20:37:14 ID:bZK4d3C+0
>>190
黄巾の乱を待つまでもなく、僭号の賊は桓帝の辺りから結構ちょくちょく出てきてたし、
黄巾の乱の後でも、士大夫層はまだ漢朝の復興を本気で考えてたと思うよ。
本格的に漢朝もうダメぽの論調になったのは董卓のころじゃないかな。
黄巾の乱だと、まだちょっと中途半端な感じがする。

191: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/18(火) 21:20:46 ID:4nT5tXdt0
司馬懿も曹操の呼び出しを最初に拒んだ理由として
漢朝の命運が尽きそうだから、と言ってたな

これだと当時の司馬懿は曹操をあくまで漢臣と見ていた事になる
忠臣かどうかはともかく

194: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/01(月) 14:40:58 ID:lIjTFCWk0
董卓も十常侍に投獄されてた清流派の名士らを解放してるしな。
その瞬間までは董卓ですらも漢の復興を考えていたろう。
そいつらが董卓を下賎の者と扱い冷遇さえしなければ、或いは。

196: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/02(火) 21:45:12 ID:ssOLGis9O
>>194
漢の復興を考えたというか、新王朝を考えるほど乱れてなかったというか…

その意味で関東の蜂起勢がgdgdになったのと関中が王允と李・郭の戦いでメタメタになったのが「漢だめぽ」を天下全体に示してしまったという点では大きいと思う
関東については、劉虞が皇帝として立っていたら統率が取れていた気がするんだがな

198: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/04(木) 05:02:43 ID:MgWGRG98O
まったく些細なことだが後漢書読んでいて気付いたので書き込み

後漢書の方では建安12年の加封に伴って曹操が荀イクに与えようとした地位は『正式な(尚書令の)地位』(原文『正司』)となっている
だが魏書の方では『三公』(原文も『三公』)になっている


尚書令と三公って全然違うと思うんだが

単に後漢書の和訳の間違いかと思いきや李賢注にも
「守尚書令から尚書令に正式に叙任させようとした」
と書いてある


12年間も「尚書令代理」だったというのも変な話だとは思うが、
確かに正式に尚書令になったのがいつかはどこにも書いてない

尚書令代理から正式な尚書令になりたがらない理由もよくわからん

なんとなく腑におちないなあ、というだけの話なんですが

199: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/04(木) 05:52:36 ID:kaE5WIQD0
『魏志』には「太祖欲表彧為三公、彧使荀攸深譲、至于十数、太祖乃止。」とあって、
荀彧は三公にはなっていない。だから尚書令にしたのかも。
ただそれでも、
>12年間も「尚書令代理」だったというのも変な話だとは思うが、
これの理由は分からん。

200: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/04(木) 12:16:28 ID:cihYbVK9O
「正司」は元々は「三司」だったのかもなあ
それなら三公のことだ

尚書令の「守」を取るのを辞退するというのも一応謙譲を表してはいるが、あまりに微妙過ぎる
ずっと一名空席だった三公にしようとした、というほうがすっきりするよね、ジュンイクが辞退した理由も含めて

201: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/04(木) 17:50:31 ID:GNWiDQ/M0
曹操の、荀彧以外の人物への配慮じゃない?
曹操が荀彧べったりでは他の士気に関わる。だからあくまで「参謀」の形を保ち続けた。

202: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/12(金) 14:32:43 ID:JqtUiG8GO
やっぱり後漢書の記述が間違ってる可能性の方が高そうですね

しかし李賢は疑問に思わなかったんだろうか?

203: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/12(金) 20:38:09 ID:MMVzox7FO
正司って一般的な用法じゃないみたいだしね
李賢は自分の時代の「尚書=宰相」みたいなイメージに引きずられたのかもね、もしかしたらだけど

204: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/18(木) 20:57:02 ID:gdSsV1oYO
中国のサイトで蘇轍と蘇軾が荀イクについて書いた文章を見たのだが…中国語で読めなかった

どこかで和訳されてるのかな?

機械翻訳したところでは単純に漢臣論で語ってはないように見えた

220: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/11(火) 19:04:45 ID:c9qU4ElP0
>>204のはこれかな?
蘇軾
http://mem.netor.com/m/jours/adindex.asp?boardid=43572&joursid=50595
漢末大乱,豪杰并起。荀文若,聖人之徒也,以為非曹操莫与定海内,故起而佐之。
所以与操謀者,皆王者之事也,文若豈教操反者哉?以仁義救天下,天下既平,
神器自至,将不得已而受之,不至不取也,此文王之道,文若之心也。
及操謀九錫,則文若死之,故吾嘗以文若為聖人之徒者,以其才似張子房而道似伯夷也。

(珍訳)
漢末の大乱に群雄が蜂起した。荀彧は聖人の徒であって、曹操でなければ
ともに天下を定めることができないと考えたので、彼を補佐した。
荀彧が曹操とともに謀ったのは全て王者の事業であった。
どうして荀彧は曹操に叛をなさしめる者といえようか?仁・義をもって天下を救い、
天下がすでに定まって帝位がおのずからやってくれば止むを得ずこれを受け、
やってこなければ取らない、これは周の文王の道であり、荀彧の心である。
曹操が九錫を得ようとした際に荀彧は殉じた。私が荀彧を聖人の徒と讃えるのは
彼の才能が張良に似、道が伯夷に似ているからだ。

230: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/11(火) 23:10:26 ID:70/DwtsE0
>>220
乙。面白いな。俺の持論は蘇轍説に一番近い。

205: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/18(木) 21:57:42 ID:R3amaimX0
日本でも何人かの研究者が荀彧の立場を論じていたっけな。
それでも結局のところ、忠臣か非忠臣のどちらかしかないって感じだけど。

206: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/18(木) 21:58:35 ID:R3amaimX0
漢王朝に対して、ね。

210: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/10(月) 12:11:10 ID:wwp+7Q14O
某Wikiに書いてある杜牧の意見はどこで読めるんだ?

211: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/10(月) 17:03:54 ID:rEAvWpil0
資治通鑑・建安17年の条で司馬光が杜牧の意見を引用している

 而杜牧乃以為「彧之勸魏武取エン州則比之高、光,官渡不令還許則比之楚、漢, 及事就功畢,乃欲邀名於漢代,譬之教盜穴牆發匱而不與同挈,得不為盜乎?」

杜牧が荀彧を論じた文章は他にあるかも知れない しかし少なくとも通鑑の文章をウィキのようには訳出できないよね これを書き足した奴はウィキスレで地雷扱いされている奴だという事を付言しておく

212: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/10(月) 21:00:06 ID:C+tEk/zS0
さっきはコピペしただけだったが、これって要するに
曹操に盗みを教唆しながら曹操と袂を分かったら盗人にならずに済むんですか?
って意味で、痛烈な荀彧批判だろ?

213: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/10(月) 22:46:49 ID:1Cyy1wEN0
>>212
そうだね
でも「荀彧は曹操と手を切ったから盗人にならずに済んだ」と解釈してるのは裴松之や後世の人間なのかもしれないわけで、
痛烈な裴松之批判とも言える

214: 211,212 投稿日:2007/12/10(月) 23:00:39 ID:kYgnJVTE0
さっき杜牧が荀彧を批判した事にして書き直してしまった
ダメ出しよろしく

215: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/10(月) 23:23:14 ID:1Cyy1wEN0
>>214
乙。

臣光曰:孔子之言仁也重矣,自子路、冉求、公西赤門人之高第,令尹子文、陳文
子諸侯之賢大夫,皆不足以當之,而獨稱管仲之仁,豈非以其輔佐齊桓,大濟生民乎!
齊桓之行若狗?,管仲不羞而相之,其志蓋以非桓公則生民不可得而濟也,漢末大亂,
群生塗炭,自非高世之才不能濟也。然則荀彧捨魏武將誰事哉!齊桓之時,周室雖衰,
未若建安之初也。建安之初,四海蕩覆,尺土一民,皆非漢有。荀彧佐魏武而興之,舉
賢用能,訓卒厲兵,決機發策,征伐四克,遂能以弱為強,化亂為治,十分天下而有其
八,其功豈在管仲之後乎!管仲不死子糾而荀彧死漢室,其仁復居管仲之先矣!而杜牧
乃以為「彧之勸魏武取?州則比之高、光,官渡不令還許則比之楚、漢,及事就功畢,
乃欲邀名於漢代,譬之教盜穴牆發匱而不與同挈,得不為盜乎?」臣以為孔子稱「文勝
質則史」,凡為史者記人之言,必有以文之。然則比魏武於高、光、楚、漢者,史氏之
文也,豈皆彧口所言邪!用是貶彧,非其罪矣。且使魏武為帝,則彧為佐命元功,與蕭
何同賞矣;彧不利此而利於殺身以邀名,豈人情乎!

司馬光は典型的な「天下を平和に導こうとした上に漢に殉じた荀彧マンセー」だね

216: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/10(月) 23:38:04 ID:1Cyy1wEN0
孔子はめったに仁と評価しなかったが、管仲の仁を称えたのは、管仲が多くの民を救ったから。
でも管仲のときよりふざけた時代に天下統一寸前までにした荀彧はもっとSUGEEEEEEE!!!!
しかも漢王朝に殉じるなんてもっともっとSUGEEEEEEE!!!!!!!!!!
でも杜牧の野郎は「ぬすっとに盗み方を教えておいて後から手を切ったって、盗みの責任を逃れられないだろ?」とかほざいてるが、大体ボクたちの荀彧タンがあんなこと言うわけ無いじゃん。
あれは史家のでっち上げ。史家ってそういうことするんだよね。
曹操が皇帝になってたら荀彧は蕭何にも匹敵する大功臣だったはずなのに利益を捨てて名を取ったんだぜ?ホント凄いよね~


荀彧擁護のあまり自分の書の信憑性をも揺るがす発言をしてしまう司馬光は凄いな

218: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/11(火) 00:16:56 ID:K7FhXz/U0
ああ、司馬光のはそういう意味か。さすがに曹操は帝位にはついてないし
しかし昔っから荀彧論にはみんな熱心なんだね

221: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/11(火) 19:05:52 ID:c9qU4ElP0
蘇轍
http://mem.netor.com/m/jours/adindex.asp?boardid=43572&joursid=50596
荀文若之于曹公,則高帝之子房也。董昭建九錫之議,文若不欲,曹公心不能平,以致其死,君子惜之。
或以為文若先識之未究,或以為文若欲終致節于漢氏。二者皆非文若之心也。
文若始従曹公于東郡,致其算略,以摧滅群雄,固以帝王之業許之矣,豈其晩節復疑而不予哉!
方是時,中原略定,中外之望属于曹公矣,雖不加九錫,天下不帰曹氏而将安往?
文若之意,以為劫而取之,則我有力争之嫌,人懐不忍之志,徐而俟之,我則無嫌而人亦無憾。
要之必得而免争奪之累,此文若之本心也。惜乎曹公志于速得,不忍数年之頃,以致文若之死。
九錫雖至,而禅代之事,至子乃遂。此則曹公之陋,而非文若之過也。

(珍訳)
曹操にとっての荀彧は、高祖にとっての張良に同じである。
董昭が九錫を受けることを曹操に建議したとき荀彧は反対し、
曹操は心おだやかならず荀彧を死なせてしまい、君子はこれを惜しんだ。
ある人は荀彧は曹操が天下を平定できないと予想していた(←?)からだと言い、
ある人は荀彧は節を漢朝に全うしようとしたからだと言うが、どちらも荀彧の本心ではない。
荀彧は曹操が東郡にいた頃からつき従い、計略をきわめて群雄を討ったのであり、
初めから曹操に帝王の事業をさせていたのであって、どうして晩節に至って曹操を疑うのか?(←?)
当時、中原はほぼ平定され、朝野の望みは曹操にそそがれていたのであって、
九錫を得られずとも、天下が曹氏に帰さなければどこに帰しただろうか?
荀彧の意図は、九錫を力ずくで取る場合は自身も強奪について嫌悪する上に
世人からも「曹操は我慢できない奴だ」と思われるが、
時機をじっくり待って九錫を受ければ自身も嫌悪感を覚えないし、世人も恨まないという点にあった。
要するに九錫を受けるべくして受ければ強奪の批判を免れるというのが荀彧の本心であった。
惜しい事に曹操は急いで九錫を欲しがり、数年我慢することをしなかったため、
荀彧を死に至らしめたのである。
九錫を受けたといえども、禅譲は曹丕の代にやっと実現した。
これは曹操が浅はかだったのであり、荀彧の失敗ではない。

223: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/11(火) 20:25:54 ID:TQKuM2+N0
>>221
しっくりいく。いい評だなあ

227: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/11(火) 21:26:52 ID:bG77ZiHt0

>>221の蘇轍の論とか結構説得力有って面白いんだけど
このスレ内で荀彧漢臣説が「後世の人が勝手にそうあって欲しいと思っただけ」って感じに扱われるとちょっと寂しい。

裴松之が漢臣説の発端だとしても、裴松之が陳寿の記述から洞察した一個の推理としてそれなりに尊重できると思うんだけどなあ。

229: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/11(火) 21:52:22 ID:TQKuM2+N0
>>227
文帝が即位したときの華キンや鍾ヨウの態度を思うと、
単純に割り切れていた人間ばかりじゃないだろうね。ポーズもあったにせよ。
400年続いた漢を終わらせるには罪悪感もある。
現実にこの時代を治めるには曹氏以外にはない。
これまで担いできてここまで来てしまった責任もある。
勿論自分だって歴史に名前を残したい。
色々。

230: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/11(火) 23:10:26 ID:70/DwtsE0
>>227
漢への思慕や複雑な思いを持っていた者も多かったとは思うんだけど、俺はどうしても荀彧はそういうタイプには思えないんだよなあ。
むしろ思想的には魯粛に近いんじゃないかと思う。

224: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/11(火) 20:32:29 ID:dwuLCER10
蘇軾→荀イクは漢臣だよ派(だから伯夷みたく旧朝に殉じたんだよ)
蘇轍→荀イクは魏臣だよ派(九錫が時期尚早と言ってるだけだよ)

蘇轍は蘇軾と兄弟なんだが荀イクに関しては評価が正反対だな。
まあ蘇軾もやむをえず受けるのは構わないと言ってるわけだけど。

225: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/11(火) 20:33:26 ID:TQKuM2+N0
しかし二人の齟齬がその時期の早い遅い程度の差でしかなかったとすると、
毒殺説などは説得力は少なくなるな
荀彧があくまで魏の官位を受けることを拒む気だったなら別かもしれないが

230: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/11(火) 23:10:26 ID:70/DwtsE0
>>225
それは違うと思うんだ。
袁紹の死後勢力が分裂し力を失ったことなんかを考えれば、曹操や首脳陣たちが早急に勢力基盤を確固たるものにしたい(=魏公・九錫から即位まで)と考えても不思議じゃない。
というかむしろそう考えるのが人情だし、安全策としては当然とも言える。
ただ、荀彧は「確固たる基盤の整備は後回しにしてまず天下を統一しようぜ!統一しちゃえばそんなの関係ねえ!」っていう趣旨だったから、曹操との心理的距離は近いようで凄く遠い。
曹操が「俺が先に死んだら子孫や部下はどうすんだよ?」って疑問には答えないわけだから。
それでも荀彧が単なる一謀臣なら無視すれば済むが、荀彧は強大な権力を握るナンバー2だから、曹操への反対を貫かれると勢力分裂の危機。
曹操にしてみれば、荀彧が反対した時点で殺すしかなかったんだと思うよ。

240: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/12(水) 09:57:47 ID:BlfRises0
渡辺精一が
荀彧=曹植派 で、魏公に就任するとその時点で太子を決めないといけない。
でもまだ曹植側の多数派工作が終わってなかったから時間稼ぎのために反対した、
っていう仮説(?)をまとめてたらしいけど、その元ネタ本を読んだことないから詳細は分からない。

引用元: ・【曹操覇業の功臣】荀彧について語る







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