51OO252WfeL



1: 世界@名無史さん
中国皇帝やイスラム スルタンなどはハーレムに女を数百人
~数千人かこっていたらしいですが、そういう女達て、どこから
連れてこられたんでしょうか・・・美女狩りとかされたんですかね
ちなにに僕はオスマントルコ ムラト3世の母キョセムが好きなの
ですが








10: 世界@名無史さん
ハーレムの女性は、スルタンと交渉をもつのは一度きり、それで妊娠すればよし、しなければ・・・
というのを何かで読みかじった記憶があるのですが、そんなことありませんよね

14: 世界@名無史さん
>>10
そのとおりだよ。まぁ、ディスカバリーch.で得た知識だけど(w
ただ、妊娠しなければ・・・単にほったらかしだったらしい。

15: 世界@名無史さん
西晉の武帝(司馬炎)は後宮に何千人美女を抱えていたんだけど
いちいち選ぶのも面倒だから、車を引っ張る牛の赴くに任せて
たどり着いた女の所で夜を過ごした。
それを知った女官らは、自分の部屋の入り口に
牛の好物である塩を盛り、武帝が自分の所に来るように計った。
現代でも、水商売で店の入り口に塩を盛るのは
これに由来している。と田中芳樹の本で読みました。
ホントかどうか知らないけど。

309: 世界@名無史さん 投稿日:2006/05/07(日) 01:14:23
>>15
>西晉の武帝(司馬炎)は後宮に何千人美女を抱えていた・・・・

280年呉を討滅した折、武帝は呉の後宮数千人を接収帰還したので、西晉後宮は
1万人を超えたとあるが(井波律子の酒池肉林より)。
なお武帝の生没年は、236-290だから、53、4歳で死去。死後幾ばくもなく西晉は
瓦解。暗愚で史上に名を馳せる後継恵帝は、誰の子だったのかな。

318: 世界@名無史さん 投稿日:2006/05/24(水) 11:00:34
>>309
晋が傾いたのは北方民族の侵入以外に後宮の負担もあるような希ガス。
日本史板でも大奥スレで幕府予算の三分の一が大奥関係の予算で飛ぶ女卿で、
吉宗の時代にようやく改革できたんだとか。

17: 世界@名無史さん
1000人の美女がいたとしても、毎日一人と相手して3年かかるからね。その間にも
新しい美女は入ってくるだろうし、気に入った美女には何度か通っただろうから。
まあ、皇帝も早くさっさと寝たいこともあったろうし。

いつ来るか分からない皇帝をただじっと待ち、来ない可能性もかなり高いし、しかし、
それしか自分の将来は無く、狭い場所にじっといるだけだと、頭がおかしくなりそうだ。

18: 世界@名無史さん
オスマン朝のハレムでは、黒人宦官長が選んで皇帝の寝室に連れていったり、
皇帝自身が気に入った娘を選んだりしていたらしい。
お手つきは子供を産まなくても皇帝の気にとまれば
ギョズデ(お気に入り)とかイクバル(幸運な者)と称されて部屋を与えられた。
しかし幸運なお手つきもそのまま子供を産まなかったり失寵したりすれば
臣下に下げ渡されることもままあった。

19: 世界@名無史さん
女1000人を食わしていくのって相当に大変だと思うのだが。
結局それほどでもない女は臣下や周りの豪族に下げ渡されたりするための
道具として使われてたのかなあ?
または宮廷の家事全般を請け負ってたとかの仕事があったのかな?

20: 世界@名無史さん
トプカプ宮殿のハレムは意外なほど狭い
しかも皇帝の母親や正妃たちの部屋が多いから
いわゆるハレムの美女たちの居場所はほとんどない
イスタンブル市内には美女たち専用の宮殿がいくつもあった
その中から選ばれた者だけがトプカプ宮殿に上がれた
使い捨てなのも当たり前ですよ

21: 世界@名無史さん
でも、女が生きてる限り、その家族には国から年金が出る。

25: 世界@名無史さん
皇帝の寵を受けない女達って普段は皇后とか后の身の回りの世話
してたんじゃないかなァと思う。

131: 世界@名無史さん
>>25
オスマン帝国のハレムは手芸品生産工場としても機能してたそうで
ハレムに入った女が真っ先に叩き込まれたのは手芸品の作成技術だったそうな

133: 世界@名無史さん
トプカプ宮殿のハレム見たけど全然狭くて大奥とは大違い
ハマム(トルコ風呂)も小さなものだし
市内にあと2つ後宮の女が住む宮殿があって
トプカプには皇帝の母と第1夫人とあと何人かの寵姫がいただけみたい
もちろん手工芸工場が作れそうな部屋もない

29: 世界@名無史さん
オスマン帝国のハレムにいた多くの美女は女官のような
仕事をしていたようですよ。寵妃、母妃の世話など。能力の
あるものは後宮内での出世もあったとか。ハレムの女性は美しさ
だけでなく、能力、性格のよさも求めれて、性格の悪いもの、
能力のないものは、奴隷市場に送り返されたらしい。日本の大奥の
ようなものだったんでしょ。

30: 世界@名無史さん
>>29
大奥はハレムだね。
DNA判定などがない時代、為政者が確実に自分の子孫であることを確信できる
子供を作るための施設だからね。

34: 名無し
大規模なハーレムは男の妄想だよ。
そんなことしていたら腎虚で命が危ないからね。

43: アマノウヅメ ◆2atuWPtiaQ
>>34
病気になって死にます。大規模なハーレムなんて持って無理すると。
日本では、奥泊りには規制があって、先祖の命日(祥月命日で無くても)
には、身を謹んで中奥で一人寝しなきゃならないので腎虚になる心配はないけど、
幕末になると命日だらけで月の半分くらいしか大奥泊りはできなかったそうな。

36: 世界@名無史さん
ヨーロッパはハーレムが無かったために、王朝の断絶が結構あった
と考えてよろしいのでしょうか

38: シュレーディンガーの猫
>>36
おおっぴらなハーレムはなくても、愛妾囲って庶子を産ませること
は普通にやってたよ。
むしろ、キリスト教では嫡子と庶子の区別が厳しく、庶子には王位
の相続権がなかったことが大きいね。
イングランドの場合、実力でイングランドを征服したウィリアム1世
という例外以外に、庶子で王になれた者はいない。
だから、王朝存続のためにハーレムを作るというのは意味がない。

37: 世界@名無史さん
日本の大奥も規模は小さいがハーレムだろ。

43: アマノウヅメ ◆2atuWPtiaQ
>>37
警戒のあまり厳しくないハーレムですね。大奥と中奥との境目は厳重に
仕切られてたけど、裏口の方はかなりいい加減。下っ端の役人は男だし。

52: 世界@名無史さん
ロクサレーナ見たいな女に嵌まって国を傾けてみたいね。ちょっとマゾ入ってるかも。

57: 世界@名無史さん
長男を産むのでなければスルタンの逝去後、
後継者がスルタンに即位されたとたんに
兄弟殺しは即座に実行された。
異母兄弟につらなる血縁の者も当然・・・・。

61: 世界@名無史さん
そういえば、近代のモロッコの王様の後宮で、あんまりにも子沢山だから
女の子は問答無用で間引きして・・・って言う話あったよね。
2chで見たんだけど(w、確か世界で一番子たくさんな王様。
側室たちにとってはたった一人の我が子なのにね。

77: 世界@名無史さん
アラビア語やペルシア語だと「ハラム」だけど、
ハレムとかハーレムってトルコ語なんだろか?

86: 世界@名無史さん
>>77
トルコ語はHarem(ハレム)。

ハーレムは「日本語」ですな。Harlemと混同したのかも。

80: 世界@名無史さん
皇室のハーレムは?

84: アマノウヅメ ◆2atuWPtiaQ
>>80
平安時代の後宮が世界的に珍しい女性文化をもたらしたのは周知のことですが、
明治天皇の時まで、後宮はありました。
平安時代同様、貴族の女性でないとあがれません。
ただし、女御とか更衣とかはなくなって、典侍とか尚侍とか女官としての名を名乗っていますが。
明治天皇は女運の悪い人で、皇后には子がないし、お側に上がる女官もお産で亡くなったり
(それも母子共に死亡などという最悪のケースが多)結局成人したのは男皇子では
大正天皇(生母は権典侍柳原愛子)だけ。女皇子は5人ですが当時はもう継承権ないから大変です。
大正天皇は皇后に早く4人の皇子が生まれたので後宮の必要なしです。病人だし。
それで、日本の皇室の後宮は明治天皇の代で終わりました。

85: 世界@名無史さん
>>84

明治天皇以降は後宮(って、言ったのですか?)が廃止されたのはなぜですの?

なんか、ご説明では納得できないんですけど。「はやく皇子が生まれた」だけなら、まえの天皇にもあったのではないですか?

87: アマノウヅメ ◆2atuWPtiaQ
>>85
明治33年5月御成婚
明治34年4月昭和天皇御誕生
明治35年6月秩父宮誕生
明治38年1月高松宮誕生
と続いたら、側室要らないでしょ。一夫多妻は世界的に後進国とみなされたし。
大正天皇は、諸説ありますが、即位後は病人です。
昭和天皇は、女子が4人も続いたので、側室を勧められたが断乎として拒否されたそうです。

88: 世界@名無史さん
>>87

納得しました。
大正天皇は(個人の意思がわからないので)ともかく、
昭和天皇は個人的資質として、一夫多妻を否定し、それが定着した、と考えてよろしいのですか?

あれ、皇室典範とかに、この手の規定ってあるんでしたっけ?
側室の数とか、側室の子とか。ないと即位順序決められないからあるはずと思いますけど。
現行の典範にもあり?

90: アマノウヅメ ◆2atuWPtiaQ
>>88
http://www.houko.com/00/01/S22/003.HTM
「皇室典範」です。
「嫡出」と書いてありますから、庶子は問題外でしょう。
自称親王なんて出てきたら大混乱です。

93: 世界@名無史さん
>>90
第6条 嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする。
のことですね。

でも、読んだ限りでは、

第2条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。
1.皇長子
2.皇長孫
3.その他の皇長子の子孫
4.皇次子及びその子孫
5.その他の皇子孫
6.皇兄弟及びその子孫
7.皇伯叔父及びその子孫

の、「皇長子」の定義(嫡出に限る、とか)が見当たらないんですが。

民法(?)では、その区別がなくなったんではなかったでしたっけ?

98: アマノウヅメ ◆2atuWPtiaQ
>>93
「第5条 皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃及び女王を皇族とする。」
というのがありますから、第5条と第6条を合わせると嫡出でなければ、
現行の皇室典範上は皇族にはなれないことになります。
皇室典範ができる時に、明治天皇の直系以外の皇族は全員、臣籍降下です。
昭和天皇から数えるわけですから、皇長子は今上天皇で、皇兄弟は秩父宮以下3人、
いずれも大正天皇の嫡出です。
皇伯叔父は当時存在しなかったから、問題ないんじゃないですか。

128: 世界@名無史さん
感業寺
太宗の寵を受けた後宮の女が菩提を弔うためにいれされられた尼寺。
その魂は安らかに……。

129: 世界@名無史さん
則天武后も居たな

132: 世界@名無史さん
>>128>>129
そこから敗者フカーツ戦で女帝の地位にまで上り詰めた女だからな。
祀られてる太宗も心中穏やかじゃなかったろうな。教育テレビの深夜で
いいから『則天武后』、再放送しないかなあ…劉暁慶(含吹き替えの
小山茉美)はあーゆー役がヤパーリ似合う。

130: 世界@名無史さん
王昭君も

140: 世界@名無史さん
しかし、アラブ人って白人の女が好きだよな。
東洋人も金髪に弱い男が多いが、
中東だとあからさまに金髪嗜好。

141: 世界@名無史さん
代々のスルタンが白人女性好きで、白人奴隷との子供がスルタンに
なったのなら、支配者層の容姿は、アラブ人的風貌ではなくならない?

142: 世界@名無史さん
>>141
だから代が下るにつれ、白人系(特にウクライナ・コーカサス系の女が好まれた。
スレイマン大帝の皇妃ヒュッレムとか。だから自然にスルタンの顔も…)の顔に
変わっていったんだ罠。他にもイタリアとかカリブのクレオールとか…それこそもう
ワケワカラン位様々な血が混ざってるからなあ…。

144: 世界@名無史さん
>>142
トルコの皇帝の末裔って、今でも残っているのですか?
そんなにいろんな国の美女の地が混じっているのなら、さぞやトルコ皇帝は美男
ぞろいだったんでしょうな。

146: 突撃!!天狗党
何で白人が人気だったんだろう
当時はアラブ女が気が強くて、スラブ女がおしとやかだったとか?

147: 世界@名無史さん
アラブじゃ奴隷身分にできないから
スラブ系やコーカサス系が多くなるのは必然だと思います
(トルコ系の非奴隷身分の夫人から生まれたスルタンもいますが)。

でも後宮の女が黒人奴隷じゃないのは…。

149: 世界@名無史さん
>>146
主要供給地だったしね。トルコへの奴隷の。コーエーの『大航海時代』が
ガチで歴史に準拠してたら、カッファやターナの港の交易所のオヤジは
「この港は奴隷が特産品ですよ」と言ってるところでつ。
あと、シリア人って純然たるアラブ系じゃないのかな?結構トリポリ
(現レバノンのね)なんかも奴隷の供給地としては名高かったみたい
だけどさ。ハレムにも人材供給してたし。

155: 世界@名無史さん
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)滅亡直後、
多くの美少年が、皇帝の元に送られたようだ。
断ると、処刑だったらしい。

157: 世界@名無史さん
美女狩りというか、そういうのは普通に行われていたのでは?
オスマン帝国のキョセムは確かギリシアから船でつれてこられたんじゃなかったか
多分あっちこっちで半ば強引に連行されていたんでしょうね

166: 世界@名無史さん
スルタンの生活って興味あるなぁ。戦争ばっかやってたのかも知れないけど。
中世って、ヨーロッパより中東の方が面白そうだ。

169: 世界@名無史さん
西洋にはなかったのかな

170: 世界@名無史さん
愛人を何人も囲ってた王なら西洋にもいるけどね。
制度としてのハーレムとなると、やっぱ教会がうるさいから。

182: 世界@名無史さん
ルイ何世だかが持ってた、鹿の園だっけ?
あんなの欲しいな。
鹿の園

鹿の園は、18世紀、フランス王ルイ15世のために、その公妾ポンパドゥール夫人がヴェルサイユの森に開設したとされる娼館のことである。名を伏せて訪れるルイ15世に性的な奉仕を行った。ルイ15世と娼婦の間に生まれた子には年金を保障し、男子は将校に取り立て、女子には良縁を取り次いで面倒を見た。鹿の園にいた女性ではマリー=ルイーズ・オミュルフィなどが知られている。


183: 世界@名無史さん
ルイ15世

188: 世界@名無史さん
ルイ15世は大変な美男子だったそうだから、
相当モテたろうな。

192: 世界@名無史さん
何人かいる王子たちは、都からほぼ等しい距離に別に住まわされた。
王が死んだという知らせが入ると、馬で駆けつける。
一番早く着いたものが時期国王。それ以外は、死刑。
跡目争いが面倒だから。
絹の紐で絞め殺していたらしい。幼い子なんか可愛そう。
母親は別に殺されません。
でも、こんなのを繰り返してると後継ぎ作っていなかった場合
後継者に困ってしまうから、時代が下ると
王子たちは、幽閉されることになる。
運良く順番が回ってくればいいけど、そうでないのは気がふれるのも
いたそうだ。
もっと悲惨なのは、その王子の目にとまった女で
妊娠すると袋詰にされて、ボスポラス海峡に放り込まれたそうだ。

193: 世界@名無史さん
>>192
しかし、「運良く順番が回って」きても、そんな育ち方をした王子が
名君になれたかどうかという問題があるなあ

194: 世界@名無史さん
>>193 
うん。
跡目争い云々も、どっちかっつうと側近たちのためだよね。
王様は、存在さえしててくれればいいんだねえ。
あとは好き勝手できるもの。
よく出てきている、エイメは皇子を産んだけど三番目の子。
でも皇帝がよくできた、進歩的な考えの人だった。
だから皇子を幽閉してなかったそうな。
で、長子の皇子とエイメは、歳が近かったり
皇帝が皇子に西洋の雰囲気になれさせるためよく話させたりしてたので
仲良かったそうだ。
長男は良い皇帝になれそうだったけど、
2番目の皇子の母、コーカサス妃がクーデターを起こして
殺されてしまいまふ。

195: 世界@名無史さん
オスマン帝国は宮廷奴隷の実力者が皇帝の首をすげ替える事態にまでなった
中国の明朝も宦官の力が強くて皇帝は「家奴に召し使われる」状態だったし

196: 世界@名無史さん
>>195 194のクーデターも、それぞれの妃についていた
黒人宦官と白人宦官との争いだったみたいだね。
エイメについてたのは、黒人宦官。

234: 世界@名無史さん 投稿日:2005/07/14(木) 23:48:57
高文明圏で最大の後宮・ハレムを擁した人物は誰でしょうか?
やはり、唐の玄宗の後宮四万人?
ちなみに明代末期の宮廷には宦官だけで10万人居たというけれど、
インド・イスラーム等のオリエント諸国では、どの程度の規模だったのですか?

241: 世界@名無史さん 投稿日:2005/07/15(金) 13:26:13
サーサーン朝のホスロー2世の妻妾は3000人。
バグダードのカリフ・ムスターシムのハレムには妻妾700人。
チンギス・ハンの後宮には500人の妻妾がいた。

242: 世界@名無史さん 投稿日:2005/07/15(金) 18:36:11
何と小規模な後宮よのう。
     唐・玄宗

281: 世界@名無史さん 投稿日:2005/12/20(火) 18:24:10
軍板よりコピペ


302 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2005/12/20(火) 00:29:18 ID:???

ギネスブックに登録されている世界一の子沢山は、モロッコ最後の皇帝ムーレイ・イスマイル(1645-1727)。
1703年までに525人の息子と342人の娘をもうけ、1721年(76才!)に700人目の息子、最終的には合計888人の
子を成したという。
これを計算してみると、82年の生涯のうち、男としての現役年齢を15~78才として、
(78-15)×365(日)÷888(人)≒29

ほぼ月に1人ずつ作っていたことになる。
もちろん、常に「一発必中大当たり」とは行かないだろうから、セクースの頻度はもっと高かっただろう。
いずれにせよ、実にパフフルでグレートな人物である。

293: 世界@名無史さん 投稿日:2006/03/18(土) 16:30:30
>>281
すげえ、最強の男だな

282: 世界@名無史さん 投稿日:2006/01/03(火) 02:48:58
全員が皇帝の子としてそれなりの処遇を受けたのかねえ?

283: 世界@名無史さん 投稿日:2006/01/03(火) 09:45:29
>>282
全員ではないような気がする。
どこの国でも、「王の子」が全員、
「王子」「王女」の位を与えられたわけではないからねえ。

幼児死亡率が高かった頃だから、888人が成人したわけではないだろうけど、
それだけの人数を王族として遇する予算はないだろう。

310: 世界@名無史さん 投稿日:2006/05/07(日) 01:28:22
古代中国後宮制度では、皇后1人、夫人3人、嬪9人、世婦27人、御妻81人の
合計定員121人が規定だったらしい。
白楽天は「後宮佳麗三千人・・・」と、謳っているが。


引用元: ・後宮(ハーレム)の女






後宮の世界―仰天!歴史のウラ雑学 (竹書房文庫)
堀江 宏樹
竹書房
売り上げランキング: 99,490