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1: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/03/13(土) 19:33:04
自分を、劉邦、劉秀、曹操、司馬一族と比較し、

「朕若逢高皇,當北面而事之,與韓彭競鞭而爭先耳.脫遇光武,當並驅于中原,未知鹿死誰手.大丈夫行事當礌礌落落,如日月皎然,終不能如曹孟德、司馬仲達父子,欺他孤兒寡婦,狐媚以取天下也.朕當在二劉之間耳,軒轅豈所擬乎!」

と評し、没落し、胡人の奴隷から、華北を制し、皇帝にまでなった石勒

民族融和を図ったとされ、小勢力から華北を曹操・石勒以上に広範囲に支配し、
たった一度の敗戦から、全てを失ってしまった苻堅

この二人が本当に曹操以上の英雄といえるのか、話し合おう









石 勒

石 勒(せき ろく)は、五胡十六国時代の後趙の創建者。

石勒自らは字が読めなかったが、他人に書物を読ませて聞くのを好み、漢人士大夫を登用して律令・官制を整えた。『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。

また、過去の群雄について

「高皇に会ったら、(その部下となり)韓信や彭越と先陣を競うだろう。光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳や司馬仲達父子のように、孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」

と評した。



苻 堅

苻 堅(ふ けん)は、五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝(大秦天王)。

漢人の王猛を重用して華北統一に成功し、前秦の全盛期を築く。中国統一を目指したが、大軍を南下させたところを淝水の戦いで大敗し、以後諸部族が反乱・自立して前秦は衰退して苻堅もかつての部下姚萇に殺害され、前秦は実質的に滅亡した。

苻堅は王猛のおかげで五胡十六国時代の中で唯一華北を統一する王にまでなったが、それは苻堅自身の才覚というよりは王猛の補佐によるところが非常に大きく、王猛没後に苻堅は没落して殺害されている。これは王猛の生前に苻堅が極端に異民族を優遇したためであり、また滅ぼした旧皇族をそれぞれ重用するなど余りに苻堅は諸民族を糾合するという理想に駆られていた感があった。苻融などはこの施策を危険と見て諌めたが、苻堅は当時としては信じられないほど極端な理想を述べて聞き入れなかった





279: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/06/27(月) 19:18:11.62
符堅は惜しかった
王猛と霄壯輿(そらそうよ)がいたら日本シリーズさえ勝てたろうに

280: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/21(木) 23:42:20.03
惜しかったよなぁ

281: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/24(日) 21:28:11.98
石勒は東晋をどうする心算だったんだろ、
北伐しなけりゃ放置かね。

282: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/25(月) 09:39:41.74
>>281
和平交渉してるんだから、とりあえずは放置だったんだろ

283: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/25(月) 19:11:44.66
石勒は徹底したリアリストだから、国力的に併合が可能なラインまで
華北の復興が進まないのであれば、侵攻することは無かったと思う。
当然、東晋が北伐しない程度には牽制のための限定攻撃はし続けた
と思うけど。

桓温の登場は華北政権にしてみれば完全に想定外

284: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/26(火) 20:21:17.25
石勒にとって東晋は皇帝を僭称している
琅邪王家の認識なんだろうな

和平交渉してたっけ

285: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/27(水) 08:35:56.66
>>284
石勒の晩年には郭敬を総司令官として荊州攻略させてる
最終的には陶侃の踏ん張りによって、この攻勢は撃退されてしまっているけど

石勒は領土欲はかなり淡白だから、無理やりの天下統一ってのが考え辛い

287: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/27(水) 18:48:23.81
石勒の戦略判断は、年を食えば食うほど冴え渡っていく晩成型
晩年ほど安定感がある英雄ってのも珍しいよな

288: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/27(水) 22:08:14.80
三国志の文献はどこにでも転がってるけど石勒とかはどこで勉強してるの君達?

293: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/30(土) 13:22:36.90
東晋関係、劉淵~石勒(西晋滅亡あたり)、北魏・劉裕あたりは比較的あるんだけどね

299: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/30(土) 18:44:18.51
リアリストとしての石勒は結構魅力あると思うんだけどなぁ
羯族の部落小帥の子として生をうける
都で王衍に捕らえられそうになるも、間一髪逃れる
その後、部落が困窮し流浪
途中で司馬騰に捕らえられ奴隷として売られるが、買主
に認められ開放仕える人物を紹介される
八王の乱が転機で、群盗→主と一緒に司馬穎軍に合流
司馬穎は殺されるが、仇の司馬騰を殺す
その後は劉淵の武将として頭角を現し、王衍らを殺すが、
劉聡の後を継いだ劉曜から裏切られ、独立
劉曜を倒し、華北をほぼ統一
って結構ネタあると思うけどな

300: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/31(日) 11:15:58.52
>>299
大虐殺と強制移住ネタは絶対に回避できないから、主役向きじゃないな

昔の大河であった秀吉みたいに、汚点の部分をバッサリ切り捨てるって方法
も有りかもしれんが、石勒を石勒たらしめているのは、復讐心と合理主義が
相俟った負の情熱だから、そこを切り捨てたらもう石勒の魅力無くなって
しまうんよなあ

301: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/31(日) 13:11:39.39
晩年は洛陽遷都を考えていたりして、
西晋の全盛期を生きてきたので、
十分に中華皇帝を意識していたと思うがなあ。

302: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/07/31(日) 19:22:56.54
>>301
全然そんな事無かったと思うよ。自分の勢力を保つことは意識していただろうけど
暴力団かマフィアの頭やってた奴が、あちこちに付いたり離れたりしてるうちに組織をでかくしていったというケース
石勒の場合、政治の勉強なんてまったくしてないから、皇帝と言っても、所詮その延長線上に過ぎない
同じ大虐殺と強制移住ネタでも、基本的に王朝に帰属していた曹操とは根本的に違う

306: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/05(金) 21:02:51.59
石勒とか符堅みると曹操はちっちゃい
方や大官宦の息子、方や奴隷だろ。符堅は石勒寄りの真ん中
石勒が曹操なら統一簡単だろ

309: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/05(金) 21:59:54.49
>>306
状況が全然違うじゃん
400年続いた漢帝国を軍事力だけで滅ぼして
人心が簡単につかめるとは思えんが

310: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/05(金) 23:30:25.49
石勒の時代は曹操みたいなキャリアエリートが平気で首を斬られる時代、その代わりに奴隷ヤクザでも王様に成れた
逆に曹操の時代は石勒みたいなぷーたろーが独立するのは不可能だった時代だ
それこそ、190年代の初めまでは黒山や臧覇一味のようなのが各所で縄張りを作ってたが、結局ほとんどが曹操や袁紹に駆逐されてしまった
一度首都を握った涼州勢力すら、官位持ちにも関わらず数年足らずで政権が瓦解してしまった
石勒のようなタイプは、他勢力に取り込まれるか、遼東や隴西で独立していた連中のように辺境で勢力を保つくらいが精一杯だろう。
劉備でようやく蜀一州のみだったからな

311: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/06(土) 08:21:28.52
仮定がちゃうやん
曹操の立場ならだろ

312: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/06(土) 23:22:33.51
曹操の立場でも、石勒に曹操のような政治のやり方が出来たとは到底思えんな
人間の種類が違う。そもそも出自や経歴が変わっていたなら、石勒自身が歴史上の石勒とは全く別の人物になっていたはずだし
その仮定に意味なんかない

314: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/07(日) 10:11:47.31
>>312
まあ、蘇秦も「自分に耕す田んぼがあったならば、縦横家になるために勉強なんか
しなかっただろうなあ。」って言ってるし、やっぱ門地や経済力ってのは、人間の
資質に与える影響はデカいよ。

石勒なんて奴隷として売り飛ばされてこその反骨心だし。

316: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/19(金) 20:48:37.28
つーか、まさに臧覇だろ>石勒

317: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/20(土) 00:38:53.58
>>316
同意…と言いたいところだけど、石勒が率いる部衆は基本的に定住してないんだよね
(311年の襄国割拠までは飛蝗のごとく、あちこちに転戦)
行主・塢主は、まだ本格的に活躍する以前の時代だからな、三国は

小規模な赤眉に近いんじゃねーかな

319: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/24(水) 02:07:23.20
>>317
要するに劉備だな

320: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/24(水) 08:07:05.08
劉備よりいいだろ
初期に張賓手に入れてるし、劉備も傑物だけど石勒には劣る
陳羣手放してるし

321: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/24(水) 21:22:38.56
>>320
石勒の人的資源の部分については、おそらく成都王系統の人材が多く流入していると推測される。
(公師藩~汲桑~石勒のライン、及び匈奴単于劉淵への円滑な帰順等から)
八王の乱を経て、完全に非主流派として没落してしまった趙魏の諸豪族が石勒に乗っかった形、
劉備と比較するとかなり恵まれていると言える。

王浚という化け物がいたため、臆面もなく石勒に与した部分が大きい。
そうでなければ、石勒なんて泥舟に乗っかる理由が無い。
王浚

王浚(おうしゅん、252年 - 314年)は、中国・西晋末から五胡十六国時代の将軍・政治家。

306年に懐帝が即位すると司空に任ぜられた。匈奴の首長で漢(前趙)の皇帝劉淵の部将石勒と冀州をめぐり攻防を繰り広げ、当初は段部の支援を得て優勢であった。311年6月、永嘉の乱で漢が洛陽を占領すると王浚は尚書令と称し、皇帝に即位しようとしたが、反対する臣下を誅殺したため、人望を失った。

312年末、武将の王昌、段務勿塵の息子段疾陸眷らに命じて襄国の石勒を攻撃させた。しかし、石勒は段務勿塵の甥段末波を捕らえて段部と講和し、王浚との離間を図ったため王浚と段部は衝突、烏桓と鮮卑の支持を失い急速に没落していく。翌年には段部を討とうとして鮮卑の拓跋猗盧・慕容廆に命じて攻撃させたが失敗した。

314年、石勒の帰順を信じて迎え入れたが、捕らえられ斬られた。


325: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/26(金) 21:09:35.51
王浚という強大な存在がいるのに、流賊に毛の生えた夷狄の泥舟のような石勒に、
趙魏の諸豪族が臆面もなく乗っかってくる

王浚が暴虐という理由ならば、敗北した時にどのような運命が待っているか分からないわけがないだろう

やはり、石勒は曹操とは比べものにならない存在のようだ
奴隷で夷狄から曹操と対等の領土を持ち、曹操もなれなかった皇帝にもなるってのは、普通の感覚ですごいよ

石勒はファンタジー小説の主人公レベル

327: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/26(金) 23:04:32.81
>>325
当時の風潮なら、石勒に乗るだろ。そりゃ
旧晋の権威が急落的に瓦解している状態。ちょうど現在のリビアの様なもの
時流に任せて傾いた王朝を打倒するよりも、虫の息の旧権威に組して復活させる方が難しい
鍋底まで落ちた中央府を復興させた曹操、そして立て直しが為された後、諸勢力の九割が曹操に帰属しても尚、反現政権として戦い続けた劉備
やってる事はこっちの方がハード

329: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/26(金) 23:52:31.88
王浚の状況は、三国志で言うなら、逃げてきた帝を保護した時の曹操に近いかもしれない
一応、連立者や同盟者は居るが、いつ敵になるかわからず、予断を許さない状況
結局、王浚は読み間違って外交上孤立し、石勒に殺された。
曹操も、全く同じ手に引っ掛かって、張繍に殺されかけている。
また、時期は前後するが、兗州の内乱や袁紹とやり合う時、曹操も外交上四面楚歌にあった
でも、だからと言って生き残った曹操の方が王浚より優れているというと、必ずしもそうではなくて、
袁紹と戦っている時に孫策が都合良く死んでくれなかったらヤバかっただろうし、張繍が曹操に帰順しなかったら高い確率で詰んでいた
石勒だって、たまたまタイミングが良かったから皇帝になれたわけで、表面上の事だけで能力の優劣など論じれないのだよ
そもそも曹操の言葉じゃないが、必ずしも皇帝になる事が、いい指導者の条件じゃないわけだしねえ

330: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/27(土) 00:05:59.97
石勒が凄いのは、革命の理論を確立した点にある

それまで、晋の内訌に介入していた有力な鮮卑たちにして、晋の政権を乗っ取る
あるいは新王朝を樹立するという革命理論に到達し得なかった
また、匈奴たちは漢王朝の姻戚という名目で中原王朝の成立を目論んだ
益州に自立した李雄の子孫たちは、政権の正当性を裏付ける理論が組み立てられずに
その正当性を徐々に失なっていき、ついには東晋に併合されてしまった

ただ、石勒ひとりだけが「異民族でも有徳(一番強い)であれば帝号を称しても
問題ない!」という革命理論を確立・実行し、そして、じ後の華北における
五胡政権の正当性というバックボーンを後世に残しわけだ
ここは、もっと評価されていい部分だと思う

331: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/27(土) 09:49:51.38
>>330
いや既に劉曜で確立されてるだろ
むしろ転機は劉曜が漢から趙に変更した時だろ
そもそも、石勒は
「異民族でも有徳(一番強い)であれば帝号を称しても
問題ない!」という革命理論を確立・実行なんか持ってないだろ
劉曜に殺されかけた上の反逆(事実上は独立していたが、名目では違っていた)
石勒が優れているのは、漢民族との融和政策の先駆者と
一旦人民流出を止めたことじゃないか?
あと、劉備と孫呉の同盟も魯粛あってのものだし
第一なぜ出自が問題ないのかがわからない

劉淵

332: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/27(土) 16:52:08.58
石勒が漢民族との融和政策の先駆者とか言えるなら
曹操だって異民族を強制移住させて位を与え正規軍に仕立てた、北方民族と漢民族の融和のパイオニアになってしまうな
民族融和を図ろうとしたと、はっきり言えるのは苻堅だよ

333: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/27(土) 20:19:54.94
そもそもこの時代の異民族の台頭は、曹操のせい
しかし、強制移住をもって融和とかどういうつもり?
西晋までは使い捨てだろ
先鞭をつけたなんて到底言えない

334: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/27(土) 20:52:54.01
>>333
異民族の内地移住は、後漢成立直後から漸次進められてきた安全保障政策
当然、結果的に見れば後漢の財政難につながる愚策でしかなかったが
建国直後の異民族との対外関係を穏便に推移させることができたのは事実なので
非難される謂れはない

内地に移住させられた羌族の叛乱(110年代~それこそ韓遂の乱まで)のことを
考慮すれば、曹操は別に異民族台頭の元凶でも何でもないんだよな
(鮮卑・烏丸の独立志向は、当初はかなり低かった)
やっぱ、八王のボンクラどもが一番の元凶じゃねーかな?

339: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/28(日) 15:24:51.84
魏晋南北朝って要するに大陸レベルの現象としての民族大移動の時代だし
同じ頃にユーラシアの西側でも似たような事が起こってた訳で
光武帝とか曹操とか石勒とか苻堅とかの個別の行動としての遊牧民族の内徙がトリガーになったとしても
気候の変動とか人口の増加とかのグローバルな要因を抜きにして
個人の個別の行動だけ強調するのはどうかと思わんでもない

360: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/05(月) 22:22:58.50
なんで単なる覇道主義者に過ぎない石勒が
漢民族との融和政策の先駆者とかいう話になるんだよ
さすがに頭おかしいだろ
そんな超解釈がまかり通るなら、どんな珍説でも正当化されるわ

361: 353 投稿日:2011/09/05(月) 22:51:30.09
>>360
その意見には同意
別に石勒は融和政策推進はしていないよ(むしろ胡漢で待遇を区別し続けた)
石勒と苻堅の政策理念は別物

340: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/28(日) 21:23:50.19
石勒はともかく苻堅はないわ

341: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/30(火) 19:26:22.55
符堅=石勒>>曹操=桓温じゃないか?

342: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/30(火) 20:59:01.32
>>341
評価基準によって、その4名は如何様にでも優劣が入れ替わるからなあ
獲得した最大領土では苻堅が圧倒的、ただし晩年には関中以外の大部分を失陥し、
本人もかつての部下である姚萇に攻め滅ぼされている
文化史・宗教史的には、国家仏教の先鞭を付けた石勒の功績が大きい
文化史で言えば、曹操親子は巨大な足跡を残している
南朝において、北伐に打って出る国力と北シナ回復の可能性を内外に呈示した桓温は
もっと評価されるべきだし

ぶっちゃけ、個人の好みだわ

343: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/30(火) 23:53:08.70
じゃ、個人の好み

石勒>>符堅>曹操>桓温>>司馬懿

中国人でもない自分は、遊牧民族を差別するいわれはないわ
外国人がその国で自分が生きている間だけでも安定政権を作り上げるのは大変なことだし、
時代のせいにしても、既存の権力に頼ることができない遊牧民が圧倒的に不利だ
旧式の権威が瓦解しているといっても、浮沈が激しい新政権より、旧政権に賭ける人間の方が多いだろ
(リビアではなく、アメリカや日本の経済と考えたら、どうだ?)

選択肢として、曹操、桓温はどっちも選べる。これは大きい

二代、三代皇帝の籠絡と秘書の買収で、王朝を乗っ取った司馬懿は、
今の政局と政権だけに拘る政治家と同じ(+大国の大軍を率いて、小国に領土を奪われなかった程度の功績)
民主主義の選挙がないから、循環しなかっただけ

344: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/31(水) 15:27:33.07
苻堅は董卓あたりが比較対象じゃね

345: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/08/31(水) 20:35:44.86
>>344
全然違うでしょ、本家からの簒奪という観点では(他国になるが)
アケメネス朝のダレイオス1世みたいな感じ、簒奪者兼名君

347: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/02(金) 19:44:43.76
結局、漢の枠から抜け出せなかった曹操

348: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/03(土) 21:13:59.99
>>347
簒奪の正当性を確立することができなかったのだから仕方が無い
献帝なんて担がなきゃ良かったんだよ
権威(正当性)を自ら担保できないのであれば、旧来の権威に依存せざるを得ないのは
世界の常識(カリフとスルターン、教皇と皇帝等々)

そういう意味で、完全に開き直って「劉邦だって庶人から皇帝に登りつめただろ、
異民族の俺も見習って頑張りマース」とやった石勒は傑物、普通は其の発想に至らない
これがあったからこそ、北シナで異民族政権が成立する基盤ができたと言える

350: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/04(日) 00:50:01.69
曹操の場合は実質相手が400年続いた漢王朝というのが大きいでしょ
簒奪においても、後世の簒奪ケースと比べると相当慎重だし

中国で異民族が支配するというのは、その支配者の偉大さよりも
当時の中国で、支配者に呼応する異民族の割合がそれだけ多かったってことだと思うけどね

後漢末の時代背景で異民族が中国を支配しようとしても到底ムリだとおもうけど
漢民族の曹家でさえあんなに慎重だったんだから

351: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/04(日) 05:41:10.83
>>350
ところがどっこい、石勒の出身部族は雑胡の羯族の中の一集落にしか過ぎません
(100名くらいの小部落、超弱小勢力)

後漢後半の関中は羌族の叛乱が継続していたけど
羌族たちが一致団結して、統一的な政体がもし生まれていたならば、関中地域
だけでも独立みたいな形は可能だったと思う
残念ながら、羌族に檀石槐のような傑物はついに現れなかったけど

352: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/04(日) 14:58:05.98
うんだから細かく区切ればそうなんだろうけど
当時の中国にいた異民族全体が呼応出来たってことでしょ
異民族が支配する事が”大義”になる時代だったんだよ
漢時代ではそうはいかなかったと思うよ

353: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/04(日) 16:53:02.21
>>352
石勒が纏め上げたのは、何も異民族だけではない
有象無象の山賊・馬賊たち(十八騎)、乞活集団(冉良、石堪、郭敬)
漢人権豪(張賓をはじめとする君子営)、羯族(石虎、石生等々)
いわば、社会の非主流派の力を結集して天下を半分切り取ったという感じ

その過程で、鮮卑、匈奴とは熾烈な戦争を繰り広げている
異民族による統治の大義ということであれば、貴種である匈奴単于や
大人の流れをくむ段(檀)部の方が石勒なんかより遥かに上だ
そいつらが石勒になれなかったのは何故か?

石勒はどの時代に生まれても一定以上の活躍はする逸材だよ
権威とケンカする気概と知恵を兼ね備えているんだから

355: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/05(月) 06:15:39.80
石勒とか情報が少なすぎる

356: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/05(月) 16:35:39.08
>>355
そりゃ異民族だからな
現代の中国では全く重要視されてないし
一族も早い段階で抹殺されてる

檀石槐程度っていうのはさすがに難しいだろう
実質の後漢崩壊させた人物だからな
ただ、もうちょっとマシな人物がいれば良かったとは思う

359: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/05(月) 22:14:30.75
情報が少ないってことは、なんとでも脳内補正出来るってことだからな

361: 353 投稿日:2011/09/05(月) 22:51:30.09
>>359
晋書載記で、だいたい十分だろ
補完して欲しいのは、「重門の誓い」の内容と、「石勒と劉曜の不和の決定打は
何だったのか」の部分くらい(個人的に推測はしているが)
戦役の概要は知りたいけど、石勒そんなに戦に強くないし、面白い戦例少ないし
喉から手が出るほど必要ってものでもない


363: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/06(火) 00:14:20.41
石勒の政治思想は、曹操や苻堅と比べれば到ってシンプル
わかりやすいという見方もあるが、裏を返せば政治家として未熟であるに過ぎないとも言える
遊牧民の様な社会システムでは通用しても、国民が土着して社会を営む体制の政治にはそぐわない
そういう意味でも、胡人的ではあるよな

379: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/09(金) 23:21:09.74
>>363
石勒の統治システムは、魏晋以前への回帰路線+遊牧民族の封建的体制のミクスチャー
後趙の政治体制の影響を受けた苻堅がそれをひとつ上のステージにすすめたわけだから
石勒がいなかったとしたら、苻堅の政策理念も生まれなかっただろう
さらに部族解体まで急進的な改革を行ったのが、拓跋珪

石勒は時代背景と権威の脆弱さにより、ドラスティックな手法がとれなかっただけ
石勒の時代は誰がやっても、限界が存在する

365: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/06(火) 00:53:00.58
苻堅だけは曹操・石勒と明らかにタイプが違う
苻堅の事業は王猛無くしては全く成り立たなかったもの
曹操も石勒もいろんな人間や巡り合わせに助けられて王様になったわけだが
苻堅にとっての王猛の存在感は、それとは全く比較にならないくらいでかい。半身に等しい
一個人の処理能力で言ったら、贔屓目に見ても一枚下だろう。ただし、政治家として目指した理想は明らかに一つ次元が高い

366: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/06(火) 14:05:58.52
光武帝とタメ張れるとか自惚れ過ぎだろ

367: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/06(火) 14:10:44.16
>>366
軍事的に考察すれば、光武帝とタメ張れるかもしれない、やったことはないが

ちなみに苻堅率いる全盛期の前秦軍なら光武帝+光武二十八将にタメ張れる

371: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/06(火) 23:36:48.03
正面決戦で勝ち目ないなら、それは兵士の力だろ・・・

376: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/07(水) 20:15:45.08
>>371
劉秀配下には有能な騎兵司令官が多く、特に烏桓突騎を率いる呉漢なんか相当脅威だろ

翻って石勒はと言うと、軽騎兵主体の部隊運用がやや多く、突騎をはじめとする重装騎兵の
運用に長けていたとはお世辞にも言い難い
そもそも、烏桓や鮮卑相手にボロ負けを繰り返していたわけだから、かなり相性が悪いと
言った方が正確だと思う
まあ、負けても幾度となく軍容を立て直しまくる石勒もある意味脅威だが
(この再編力・組織化・持久力的な部分は直接の強さには結びつきにくいからか、評価の
俎上には上がらないのが残念なところ)

372: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/07(水) 00:20:50.21
光武帝は、正史を信じると、敵がザコすぎるからな
曹操、石勒、苻堅、桓温もあの時代なら統一できたってのも、信じられない話ではない
(劉備、李雄クラスでもいけるか?)

かといって、捏造を疑うと完全超人が崩れてしまう(後漢書って、なんか信用できないし)
実際はどんな人物だったのだろう?

377: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/07(水) 22:28:53.70
>>372
光武帝は敵が大物になる前に潰せてるから、ってのもあるだろう
統一国家が乱れる→それに合わせて群雄が割拠する→有力群雄が再統一
ってコースは速さが重要、遅いと敵が強くなって手詰まりになり易い
(光武帝も実際後半の隗囂や公孫述はそれなりに手間取った)
時間が掛かり過ぎると一代では統一事業が成し遂げられず、王朝の課題みたいになるな
乱世だと有力勢力にも内訌が多いから、さらに統一に時間が掛かる場合も
(まあこれは天命というか運や巡り合わせが絡むし、結果論的なんだが)

曹操は光武帝に比べ若干時間はかかったけど光武帝のかつて乗った統一レールに乗れたんだが、孫権で脱線した
(あそこでコケなければ統一の目もあったんだろうけど)
石勒と苻堅はもう敵がハッキリと「国」になっちゃったからね
そりゃ手間取るし、寿命も足りないだろう

394: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/10/04(火) 23:35:28.68
>>377
光武帝とまったく同じことをやろうとして失敗したのが、袁紹だな。
華北を征して優秀な人材を得、中原に打って出る・・・はずが・・・

部下を使いこなせ以内スペックがあだになって。

曹操の時代には劉備と孫権がいた。そして涼州の反抗勢力も健在

他の二人にはグダグダの晋王朝があっただけだし、比較は難しいんじゃないか。

395: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/10/05(水) 10:08:06.93
>>394
比較が難しいのは別時代だから当然だろ
でも光武帝>>>曹操なのは間違いないよね

別の人が書いてた時代背景が違うとか当時の風潮とかもってのほか

399: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/10/05(水) 20:51:09.23
>>394
袁紹に関しては、劉秀の真似といわれる部分でも差があると思ったり
劉秀が河北に来てから、およそ平定し南に兵を向けるまで2年程度
赤眉と争って更始帝勢力が弱まるタイミングをつけた
それに比べたら袁紹は時間が掛かってしまい、曹操に地盤を固める時間を与えてしまった
(まあそれは逆でも言えることで、曹操は官渡ののちに袁紹勢力を一掃するのに7年掛かってしまった)
そもそも劉氏でもなく反董卓連合軍で劉秀の昆陽のような大功もたててないのに、その後追いするのは難しいと思うけどね

あと劉秀の統一事業最後の壁は結局涼州と益州な訳で、その点では曹操も似たようなものだと思う
(イメージ的には劉備≒劉氏で一回り優秀にした延岑、だったり)
最大の違いはやっぱり揚州に割拠していた群雄が、劉秀の時に比べはるかに強かった事じゃないか?
劉秀の時の群雄李憲は途中で劉秀が帰っても2年で陥落したけど、曹操の時の群雄孫権は曹操が率いた軍を破って雄飛した

まあやっぱり時間を与え過ぎたのも問題かなぁとは思うけど、時勢の違いや土地の生産力なんかも無視出来ないだろう
新末後漢初に比べ後漢末の群雄の持久力があるのは、地方の体力が高くなってたからってのもあるんじゃないかなぁ、と

402: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/10/06(木) 21:48:16.96
>>399
新に比べりゃ漢の方が明らかに強いだろうしね
黄巾の乱以降も、漢は一定の支配力を持ち続けていた。だから曹操や袁紹が一勢力の長として独立できるようになるのはだいぶ後になって、中央がヘタってきてからの事だし
新は瓦解するのも早かったからね

384: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/15(木) 23:36:05.71
王猛がもし桓温に仕えていれば晋朝の中原回復も夢ではなかっただろうに

388: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/23(金) 19:38:51.62
>>384
王猛のような奔放不羈な人間が、あの魑魅魍魎うごめく東晋朝廷で
政界遊泳できたかどうかは非常に疑わしい
門地も立派な方じゃなかったしな(北海王氏なんて、実質王猛一代の新興勢力)

東晋朝廷の足の引っ張り具合は、もう芸術の域だろ
北伐しようとすると、味方が後ろから撃ってくるんだからよ

385: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/16(金) 19:27:14.44
晋かどうかは微妙じゃね?

386: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2011/09/23(金) 05:39:50.90
384-385
いい所までは行くけと内ゲバでおじゃんというパターンたどりそうな……


引用元: ・石勒・苻堅は本当に曹操を超えた英雄といえるのか






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