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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/08(火) 01:44:03 ID:PwULYb+H
景虎さまこそ上杉次代に相応しいと思うのだが・・・









3: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/08(火) 02:30:01 ID:UwIztxZc
直江のせいとか言ってみる

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/08(火) 06:51:47 ID:wvICqKRo
春日山城内の景虎屋敷が景勝屋敷より位置的に不利だったからってのはだめ?

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/08(火) 13:37:49 ID:r5nG7AD5
兄貴の動きが鈍かったからさ

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/08(火) 18:41:04 ID:31OuErII
夢を見たいならせめて河田長親を口説き落としてからにするんだな。

4: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/08(火) 02:31:37 ID:lMf1/C6a
景虎が継いだら上杉潰されてたと思う

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/08(火) 20:32:23 ID:oXfFhBhK
>>4
本能寺が無かったら景勝でも潰されてたって

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/08(火) 20:56:33 ID:A04sRJxP
むしろ景虎だったら北条に同調して織田に恭順したかも

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/30(水) 18:29:07 ID:tU4GZ6Ee
謙信は景勝より景虎を後継者にしたかったかもしれんな。

「景勝は上杉の一族なので謙信も景勝を後継者と見ていた」
とえらそうに講釈垂れる人がいるが、
上杉(長尾)家は伝統的に養子相続は多いし、
謙信も景虎を後継者にするのに抵抗はなかんったと思う。
むしろ景勝の法が油断ならん男で謙信の前でも隙を見せなかったそうで、
謙信の愛情と信頼は景虎にあったと思われ。


16: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/30(水) 19:46:33 ID:spRtfdZf
>謙信の愛情と信頼は景虎にあったと思われ。

必ずしもそうとは言い切れんのだよなぁ。
謙信の書状で「雪が降るからもどっておいで」と、
飯山の守備に出陣中の景勝宛書状もあるし、幼いころの
溺愛ぶり(書道のお手本)は周知のとおり。
官途をそのまま譲ってることを考えても、越後国主は景勝移譲だろ。
景虎は北条との鎹にと期待し、名目だけの関東管領を譲るという説に説得力がある。


18: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/31(木) 18:06:02 ID:XxaCjzsk
>>16
そうだとしても証拠がないんだよね。
有名な仙桃院のインチキ遺言で
謙信の遺言を捏造した件もあるし。

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/31(木) 18:22:30 ID:gBkPCcPP
>仙桃院のインチキ遺言

直江実綱未亡人が正しい。
これも江戸時代に編集された「年譜」の記事なんだけどね。

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/31(木) 18:51:42 ID:XxaCjzsk
まあ、書面が残ってるわけでもなし、
景勝が胡散臭いのは事実だけどね。

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/30(水) 20:40:26 ID:EnvARBjU
>雪が降るから戻っておいで

軍神様カワユス。
21: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/31(木) 18:55:22 ID:kjuyS6JO
謙信は景虎を後継者と考えていたに一票

根拠は
謙信が春日山の本丸に近い、二の郭に景虎を住まわせ、景勝を下方に置いたこと
景勝には他の諸将と同様の扱いで軍役を課しているが、景虎には何も課していないこと
自分の旧名「景虎」を与えた事

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/31(木) 20:55:56 ID:gBkPCcPP
>>21
たしかに二の郭は本丸(実城)に近かったんだろうが、
景勝の中城も、当時の春日山(鉢ヶ峰)では実城とならぶ
2大城郭だった説もあるからなぁ。

景虎には軍役を課してないのではなく、知行地がないから軍役衆もいない。
兵を出せといわれても困るわけだ。この場合も、謙信の直領を相続するはずだった。
とかの推論では結論まで出せない。従五位下弾正少弼は謙信生前に景勝が継いでるし。

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/01(金) 14:16:45 ID:Jc2s1IsI
春日山の景虎屋敷跡ってさ四畳半ぐらいしかなくない?
土手が崩れて狭くなったんかな
昔見に行った時
こんな所に掘っ立て小屋でも建てて住んでたのだろうかと想像して悲しくなった記憶が…

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/31(木) 19:30:09 ID:vRen4UO9
ふと思ったが、景虎を後継者にしようと考えたとしたら、何が謙信の決断の要因になったんだろう。
景勝の場合はまぁ血縁関係という分かり易い背景があるから納得するの簡単だけど。

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/31(木) 20:03:43 ID:XxaCjzsk
>>22
まあ、ようするに可愛かったという事か。

別に謙信は変人だから、特におかしいとも思わんが。

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/02(土) 01:39:42 ID:J/TM6o/O
ここで支持した家臣をざっと挙げて見よう

上杉景勝支持→直江信綱、斎藤朝信、河田長親、千坂兵部など

上杉景虎支持→本庄秀綱、北条景広、神余親綱、上杉景信など

よく、謙信時代に政権の中枢にあった連中が景虎派に属しているから、
謙信の真意は上杉景虎に後を継がせたかったというが、上を見る限り
そうでもないような気がする

31: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/02(土) 07:17:46 ID:n0Y3UK/D
謙信に取りたてられた重臣は景勝
越後国内の昔からの豪族は景虎
って気もする

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/02(土) 15:08:00 ID:bcvau+8h
景虎が継いでたら、上杉家は北条家に乗っ取られる事になるんじゃないの?

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/02(土) 18:18:45 ID:2ed5KjJt
>>34
ならないだろ。
養子相続なんて日本ではゴロゴロある。
血の繋がりよりも家の繋がりが大切。
例えば芦名盛氏の養子も佐竹の人間だしさ。

そもそも上杉綱憲は吉良家の人間。
上杉鷹山も秋月家の人間。
そもそも上杉自体が上杉憲政の形式的養子の長尾景虎が
継いだのたが。

54: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/04(月) 23:56:54 ID:DH6OvtK4
景虎の本名?って、北条氏秀の説は今は時代遅れなのかい?

56: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/20(金) 03:55:00 ID:Frgb5ZxK
今は景虎・氏秀別人説が有力っぽい。
上杉景虎

近年では「北条氏秀」と「上杉景虎」は別人という説[9]が定着している。上杉景虎が越後に赴いた頃、北条氏秀は江戸に存在しており、氏秀は北条綱成の次男であると考えられるからである。上杉景虎が北条氏秀を名乗った証明となる確かな史料も発見されていない。このため、現在では北条時代の景虎を「北条氏秀」ではなく「北条三郎」と表記するのが一般的である。


59: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/20(金) 22:22:58 ID:klsygmtC
氏堯・氏忠・氏光も一時期は氏康の子供とされていたけれど、
氏堯は氏康の弟で、氏忠・氏光は氏堯死後氏康の養子にされたらしいしな。

なんかごちゃごちゃしてきた

69: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/20(水) 09:16:50 ID:Re6tgkrQ
景勝弾正少弼就任がよく言われるが謙信は出家したのだしもしかして景虎も関東管領に就任していたのかもしれない。

70: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/20(水) 09:49:59 ID:rLGyPYym
関東管領職就任の理由だった北条家と同盟し、その人質に管領職を継がせるか
よく考えてみればかなりアホらしい構図になるな。義はどこに隠れた?

74: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/21(木) 08:24:08 ID:V/Z+y1Zh
>>70
すべて憲政のためだけの壮大なドッキリカメラ。

67: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/20(水) 05:54:28 ID:Re6tgkrQ
謙信旗揚げ当時からの地盤中越豪族はみんな景虎派。謙信存命中彼らがよほど横柄だったのでその反感が一気に来た?

68: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/20(水) 08:48:32 ID:GDSMznxz
景勝はれっきとした長尾氏の血筋
景虎は所詮、人質として送られてきた長年の宿敵北条氏の子
当時の価値観からすればどっちを選ぶかは大勢が決まるだろう
北条氏の後援が鈍かったのも、自分達がしゃしゃりでれば却って少ない景虎支持派にも悪影響を与えかねないとかの思いがあったんじゃ?

77: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/21(木) 22:04:22 ID:prNOu0lM
>>68
小早川とか吉川とかそのにもいくらでも、養子が家を継いだ例はあるよ。探せば
血縁がある一族がほかにいたにもかかわらず。

ちなみに当時は同じ一族血筋で何十年も争って因縁が残る例もいくらもある。
実際に謙信の出身である府中長尾氏と景勝の出身である上田長尾氏は長年抗争を
続けた間柄。父親には謙信よる謀殺説すらある。

79: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 11:57:36 ID:eoroFKAS
>>77
それは他家を乗っ取るための謀略での養子入りじゃん
抗争してようが血筋が重視された時代には違いない
景勝は別にそれまでに無能とか性格劣悪とかの評価があったわけでもない
当然の結果だよ

80: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 14:56:43 ID:OgZ+PYGe
身内の抗争こそ後に引くんだよ
古くは木曾義高、下っては津田信澄など
あっさり謀殺された遺児など挙げればきりがない

81: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 16:04:52 ID:zM45ZG3z
史実として御館の乱の場合、引いてないじゃないか
第一例に挙げられたものがことごとく当主争いとは別種だというのは何だよ

82: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 16:24:22 ID:OgZ+PYGe
引いたじゃん
府内長尾系はことごとく景虎派
例外は琵琶嶋弥七郎くらいで、それにしたところで
息子と目される琵琶島善次郎は景虎派の主力


ちなみに津田信澄は明智光秀が織田新当主として担ぐことを
恐れたので旗色鮮明にする前に殺されたんですよ

83: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 16:28:45 ID:zM45ZG3z
>>82
ことごとく、と言いながら自分で違う人物がいるとしっかり認めるとは如何にw
津田の件なんて証拠あんの?

84: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 16:42:54 ID:OgZ+PYGe
家名存続のために名目上親子で両陣に分かれただけであり
琵琶嶋家の主力は景虎側であったことが言いたいだけですが

いちいち御館の乱の基礎知識から説明しなきゃならんのはなんなんですが
大半の家は両陣に分けられていたわけです
例として、山本寺上杉なら兄の定長が景虎、弟の孝長が景勝
河田なら伯父の重親が景虎、甥の長親が景勝
斉藤なら兄の朝信が景勝、弟の三郎左衛門が景虎
下越本荘なら親の繁長が景勝、子の顕長が景虎

ちなみに本荘顕長は繁長謀反の降伏後に謙信に人質として出され
以後春日山にいた人です

85: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 16:48:57 ID:OgZ+PYGe
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tora.html
 
これをみれば一目同然なんですが
乱後から上田衆と信濃衆の重用が進み
会津時代に至っては家中序列上位の殆どを占め
兼続没後にようやく旧中越系が復権を果たします

景勝政権が誰を信頼できる身内を見なしていたかが
よくわかります

86: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 19:05:25 ID:ajteuEQW
山吉没後の三条城主神余親綱は恐らく越後最大の兵力を預った謙信最大の側近と思われますが景虎自刃後も延々と抵抗を続けました。彼をそこまで駆り立てたのはやはり義だったのではないでしょうか。

88: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 21:11:54 ID:ajteuEQW
神余親綱の前任三条城主山吉の軍役を見ると越後最大ではあるが人数では景勝と大差ありません。注目すべきは騎馬武者の多さです。これぞまさに謙信の兵力である証拠でありだからこそ簡単に城主を変えられたのではないでしょうか。

89: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 22:23:01 ID:OgZ+PYGe
三条は越後長尾の本貫地ですから
重要視されたのは間違い無いでしょうね

91: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/26(火) 22:19:44 ID:9UYeCSwL
山吉といえば系図の混乱が激しいわけだが
久盛が応永年間と長森原の合戦と2回出てきたり
豊盛と景長は兄弟ではなく別家かもしれないとふと思った

盛を通字とする家(行盛・久盛・能盛・正盛)
政を通字として孫五郎を継ぐ家(義政・政応・政久)
景を通字として玄蕃を継ぐ家で(景久・景長)
全部別だったのをムリクリ合わせたとか

孫次郎も豊盛ともう1人長森原の合戦に出ていてたぶん親子だよね

95: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2007/01/11(木) 16:55:51 ID:uY8aq0X7
氏秀のお付きとして北条家から移籍してきた武将って誰がいた?

96: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2007/01/11(木) 17:55:35 ID:rjJf1VmD
遠山なんとかってのがいなかったけ

97: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2007/01/11(木) 20:01:43 ID:BFvBCaNM
家帰って調べたらあった

3)『戦国人名辞典』遠山康光項

(…)相模国中郡白根のうちに三百四十一貫文を領し、天文年間の末頃から永禄年間にかけて奏者となる。北条氏康の命により上杉謙信との講和の交渉にあたり、元亀元年、氏康の子氏秀(景虎)が謙信に養子入りしたとき従い奏者となった。

103: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2007/02/19(月) 02:31:45 ID:mk6oH8sU
その当時、北条の勢力は群馬県辺りまで及んでいたと思われる。何ゆえ氏政
の近親者といわれる影虎を北条が見捨てたのだろう。影虎が後継者になれば
上下から武田を挟み撃ちに出来ると思うのだが。影虎が北条出身だけに
北条側の動きの悪さに疑問を抱く。

106: 人間七七四年 投稿日:2007/02/19(月) 13:21:07 ID:JnqxRDB5
>>103
とりあえず、関東情勢を頭に叩き込んでおかないと
氏政の行動は理解できないと思うぞ
御館にしかり、小牧長久手にしかり

あと氏邦勢の一部は越後進出済

104: 人間七七四年 投稿日:2007/02/19(月) 02:50:36 ID:0oXtktqd
臣従してきたばかりの壬生氏のために援軍派遣を決めたところだから身内は後回し
臣従してくれた高天神城見捨てて身内が所領増やすために上野出兵した武田勝頼とは真逆の家風

115: 人間七七四年 投稿日:2007/04/28(土) 17:57:41 ID:TkOppZ/f
北条軍が景虎支援のため越後に侵攻したが、大雪の為間に合わなかったと
いう説と、武田軍が邪魔をしたという説があるが史実ではどうなってるの?

117: 人間七七四年 投稿日:2007/04/28(土) 21:44:25 ID:ZHGuvfhI
>>115
関東管領上杉謙信が死んでから、織田が武田上杉を滅ぼして関東に攻め込んでくるまでの間に
関東を平定するのが最優先事項だったので適当なところで引き上げた
ってのがもしも勝頼スレでは有力だった気がする。
北条の悲願は関東制覇だし、この時点では既に織田と通じていたようだ。
三郎も北条一門なら自分が謙信足止めのための捨石だと承知していただろう。

118: 人間七七四年 投稿日:2007/04/28(土) 22:33:01 ID:C0vd+1Vf
景虎敗死直後さっそく厩橋城が武田に開城降伏
それにより関東から孤立した名胡桃城小川城が開城
翌1580年には最後まで抵抗していた沼田城の藤田信吉が開城

これを見ればやはり勝頼は早い時期から北条に対して軍事攻撃を見せていたと思われる

その後大胡城膳城など利根川東岸をも席捲する一方で
遠州高天神城には援軍を送らず、守城側の奮闘空しく翌81年3月に落城
このことにより信濃国人衆からの信望を失い、木曾氏保科氏を始めとした
大量離反を招くこととなり武田家は内部から崩壊する

126: 人間七七四年 投稿日:2007/05/07(月) 13:41:38 ID:58YJlZo6
春日山城内で二派に分かれて篭城戦やるってのも面白いよな。
この当時の双方の兵力てどんなもんだったんだろう。

127: 人間七七四年 投稿日:2007/05/15(火) 16:02:43 ID:kFbdbZhY
春日山城内戦では兵力は景虎方、物資は景勝方だったとか
景勝が農民まで徴用してまわったみたいな逸話が残ってるとか残ってないとか

141: 人間七七四年 投稿日:2007/06/20(水) 22:50:23 ID:fS9kAVFn
戦国大名の後継ぎなら戦に出てたほうが後継ぎ候補なんじゃないか?
戦えない後継ぎとか困るじゃん。
なんとなく、僧侶として生きたかったのに戦国大名になってしまった謙信が、
子供の頃寺に入れられていた景虎に若い頃の自分を重ねて見ていたような気がする。

144: 人間七七四年 投稿日:2007/06/26(火) 21:24:24 ID:h1Mek2Tj
謙信が上杉景虎に「景虎」の名前をやったの、
たんに景虎が寅年生まれだったからって話もありそうな気がする。
謙信自身名前に虎を付けられたのは寅年寅月生まれだからって話だし。

145: 人間七七四年 投稿日:2007/06/28(木) 03:21:45 ID:QtZ6+A8C
その法則でいくと景勝は景兎(かげうさ)か。

146: 人間七七四年 投稿日:2007/06/28(木) 07:16:57 ID:NKBdlgGY
景兎可愛いなw

149: 人間七七四年 投稿日:2007/07/01(日) 08:26:07 ID:Ate6IOF5
景勝の幼名は「卯松」な件。

150: 人間七七四年 投稿日:2007/07/20(金) 03:08:44 ID:G4Yvym0M
なんとなく牛丼屋が脳裏にひらめいた

163: 人間七七四年 投稿日:2007/10/09(火) 00:35:53 ID:PlbNVJt8
氏政は本気で景虎を応援しようとしたの?

164: 人間七七四年 投稿日:2007/10/09(火) 01:37:52 ID:5BVWaOfx
越後守護上杉景虎なら助けてたように思うが、関東管領上杉景虎は内紛の元にしかならない気がする。
そもそも人質として送られた、まぁ捨駒だよね。そんな人間が実家並の国力、兵力、実家以上の官位を
持ったりしたらどう考えても難しいコトになると思うんだが…

166: 人間七七四年 投稿日:2007/10/10(水) 15:31:37 ID:xoBH/f7l
武田としても景虎が勝っちゃうと自国が北条上杉連合に囲まれる形になっちゃうわけで
結果として武田は景勝に付き北条はやる気が無かったと

167: 人間七七四年 投稿日:2007/10/11(木) 11:21:20 ID:YauHLc6B
北条も助ける気があったんなら三方ヶ原の時の信長みたく
3千でもいいからさっさと兵を送るべきだったと思う。
兵力が少なくても軍監として武田や上杉の牽制、監視にはなるし
援軍の将に譜代の重臣、或いは北条一族の人間を遣わせば
北条の本気度合いのアピールにもなるし。
ただ、景虎が勝ったアトの扱いが問題だわな。

169: 人間七七四年 投稿日:2007/10/11(木) 19:42:40 ID:MXDHtqjO
>>167
いや、一応氏邦(氏照も?)が軍勢を率いて三国越えしているんだが・・・・

171: 人間七七四年 投稿日:2007/10/12(金) 11:20:09 ID:Fm21tXWx
>>169
謙信が死んだのが3月、戦争勃発が5月、武田の救援が6月、北条の援軍が9月。
長篠で大敗したばかりの武田に多くを期待するのは有り得ないとなれば北条の動きは遅過ぎだろ。
援軍も行ったら行ったで坂戸城を攻略出来ず雪で身動き出来なくなるといって樺沢城に
守兵を残して帰るってのは助ける気を疑われてもしょうがないような。
とりあえず見殺したらバツが悪いんで助けるポーズだけでもしました。ってのなら
納得もするんだが。

172: 人間七七四年 投稿日:2007/10/12(金) 13:22:22 ID:pQQTfICZ
冬は仕方ないだろ。
数メートルも雪が積もる土地で軍事行動なんて無理。
動きが鈍いというのには賛同するけれど。

173: 人間七七四年 投稿日:2007/10/12(金) 13:23:47 ID:Fm21tXWx
援軍を好意的に解釈して越後まで何とか来たけど雪で本当にどうにもならなかったんです。
というのを真に受けたとしても、戦争勃発!早速援軍をという流れにならなかったてコトは
北条の中に景虎を助けるコトに微妙な空気があったと思われても仕方無いわな。
つーか、景虎って一族の中で嫌われてた?
景虎が乱の勝者になって関東管領になったりすれば北条宗家とのあいだで諍いが発生するかも
という意見も景虎側が宗家に管領職を禅譲するか宗家と管領の間で婚姻なり養子縁組なりして
両者の縁者というか宗家というか氏政の血筋が管領職を継ぐようなカタチで手打ちをが出来そうな
ものなのに…景虎が管領になったら宗家に従うかどうか判らないと思わせる何かがあったのかな?

179: 人間七七四年 投稿日:2007/10/28(日) 02:34:23 ID:i4/pKDKs
>>173
事が起きてから、小田原まで使者が着くまでの時間を考えると仕方ないような?
農繁期に田んぼを放置して、援軍に大軍を送るわけにも行かず。

177: 人間七七四年 投稿日:2007/10/13(土) 11:38:11 ID:zumHkSjX
三郎景虎には所領も自分で動かせる兵力も無いから
例え勝ったとしても越後の諸豪族の傀儡になるのみえみえだし
どっちが勝っても大した旨味が無いから北条もやる気なかったんじゃ。

引用元: ・【何故負けた?】上杉景虎【御館の乱】





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