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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/28(土) 18:59:59 ID:kPKUGExN0
呂母の乱から天下統一まで語ってください









92: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/01(金) 17:18:37 ID:0KHz2KBHO
二十八将の中で最強の武将って誰なの?

雲台二十八将

雲台二十八将(うんだいにじゅうはっしょう)は、後漢の光武帝の天下統一を助けた28人の功臣である。

永平年間に明帝が前代の功臣たちに感じて洛陽南宮の雲台に二十八将の肖像画を描かせたことから「雲台二十八将」と称される。また永初6年の安帝の詔に「建武元功の二十八将は天命を受けた天子を扶けた勇猛な臣下であり、讖記(予言書)に徴兆がある」という。

雲台二十八将の序列は以下の通りである。

    太傅高密侯・鄧禹
    大司馬広平侯・呉漢
    左将軍膠東侯・賈復
    建威大将軍好畤侯・耿弇
    執金吾雍奴侯・寇恂
    征南大将軍舞陽侯・岑彭
    征西大将軍陽夏侯・馮異
    建義大将軍鬲侯・朱祜
    征虜将軍潁陽侯・祭遵
    驃騎大将軍櫟陽侯・景丹
    虎牙大将軍安平侯・蓋延
    衛尉安成侯・銚期
    東郡太守東光侯・耿純
    城門校尉朗陵侯・臧宮
    捕虜将軍楊虚侯・馬武
    驃騎将軍慎侯・劉隆
    中山太守全椒侯・馬成
    河南尹阜成侯・王梁
    琅邪太守祝阿侯・陳俊
    驃騎大将軍参蘧侯・杜茂
    積弩将軍昆陽侯・傅俊
    左曹合肥侯・堅鐔
    上谷太守淮陵侯・王覇
    信都太守阿陵侯・任光
    予章太守中水侯・李忠
    右将軍槐里侯・萬脩
    太常霊寿侯・邳彤
    驍騎将軍昌城侯・劉植




93: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/01(金) 20:55:00 ID:fv4DGrdS0
>>92
もっと具体的に書かないと。
例えば、二十八将が個別に一騎打ちしたら最強は?
例えば、二十八将に同質同数の軍を率いさせて戦えば最強は?
この場合も、単純な戦いで計略不可と最大限計略を許す2通り
で変わってくる。状況によって最強は異なる。
一騎打ちのことを言うなら、賈復、蓋延、銚期、馬武に絞れる
かな。その中では賈復かな。異議有りの人はコメントして。

賈 復

賈 復(か ふく、? - 55年)は後漢の武将。字は君文(くんぶん)、南陽冠軍(河南省鄧州市)の人(『後漢書』列伝7・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第3位に序せられる。

賈復は一度も敗れたことがなく、闘ってはしばしば負傷した。河北の五校掃討で重傷を負って戦線を離れ、劉秀が「わが名将を失えり、その妻孕めると聞く。女を生まんや、我が子これを娶らん。男を生まんや、我が娘これに嫁がん。それをして妻子を憂えしめざるなり」と嘆いたこともある。

敵陣に深入りして危険を冒すため、劉秀はその勇気を壮とする一方、遠征の任務を与えなかった。


94: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/01(金) 23:22:29 ID:YI6/pxCa0
個人の戦闘力は賈復か馬武、指揮官としては耿エンか岑彭、
知略は馮異かコウ準、軍団の攻撃力だと呉漢だと思う。

96: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/02(土) 00:38:39 ID:PMzNdt7zO
個人的な武勇なら銚期が一番じゃないかな?
銚期伝には「手づから(自らの手で)~人を殺した」って記述がよく出て来るし。
他にまだ挙がってない候補としては陳俊とゾウ宮とかかな。

銚 期

銚 期(ちょう き、? - 34年)は後漢の武将。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第12位に序せられる

身の丈八尺二寸(190cm)、ただならぬ容貌を有し、慎み深く威厳を備えていた。劉秀が薊にいた頃、当地の人々が王郎の檄書に応じて挙兵した。劉秀は薊を逃れるため車駕を急がせたが、彼を発見した群集に道をふさがれて立往生した。そこで銚期は騎上で戟を振るい、目を瞋らせ「控えおろう」と大喝して道を開けさせた。

のちに天下の経略について劉秀に献策したところ、「この前の『控えおろう』をやりたいのか」と笑われた。「控えおろう(“蹕”)」は、天子の露払いだけが用いることを許される語句である。つまり劉秀は、銚期の献策に対して自分を天子にしたいのかと答えたわけである。


97: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/03(日) 11:08:28 ID:QFRY3/ZqO
二十八将ではないけど馬援はどうだろうか?

99: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/03(日) 15:54:27 ID:/eOXbFBb0
馬援は、確かに隗囂と本格的に戦うときには活躍している。しかし、馬援
の功績が強調されるのは、武陵蛮が反し、呉漢の副将であった武威将軍劉
尚(或いは劉向)を遣りてこれを討たしめるも敗北し、次に送られた馬成
も功無く、最後に馬援が送られて、武陵蛮を討ち果たして以降。この時、
建武二十四年で、二十八将で馬成以外に残っていたのは、鄧禹、賈復、耿
弇、この三人は兵権を返し、王覇は匈奴と対峙し、残るは臧宮、馬武、劉
隆である。この状態だから、馬援も活躍の場ができたとも言える。

100: 99 投稿日:2006/12/03(日) 16:37:41 ID:Aqj5EQrb0
建武二十四年が、光武帝の名言「矍鑠たるかな是の翁(勇ましいかな、こ
の爺さん)」の年。馬援六十二才。率いる将には中郎将馬武、耿舒(耿弇
の弟)、劉匡、孫永ら。

ちなみに交阯の姉妹徴側・徴弐の叛乱を伏波将軍馬援が平定しに行くのは
建武十八年のこと。この時、副将扶楽侯劉隆、他に楼船将軍段志。

104: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/04(月) 23:17:50 ID:3T/d/mI+0
厨臭くて無理を承知で聞くけど、光武帝の能力を光栄三国志式にあらわすとどうなる?
武力、統率、知力、政治、魅力で

105: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/05(火) 01:13:11 ID:Ff8LrAZa0
折角馬援の話が続いているのだから、馬援に光武帝の採点をして貰おう。
馬援は隗囂の使いで、劉秀に会い、その人物像を隗囂に報告している。
馬援が隗囂に語るに「(劉秀は、)聡明で勇気と才略があり、人の敵う所では
御座いません。且つ心を開きて誠を示し、隠し事無く、闊達にして大節多き
ことあらまし、高帝(劉邦)と同じ。経学は博覧、政治は明解敏速、前の世
に類なし」
隗囂が劉邦に比べてどうかと尋ねれば、馬援は「比較になりません。高帝は
可も無く不可も無し。今上帝(劉秀)は実務を好み、常に節度を保ち、また
飲酒を好まず」と言う。
隗囂、心喜ばずして「きみの言の如くであれば、返って(劉邦)に勝れると」
と息子を人質に出すのを承諾する。

よって、劉邦を基礎点に上乗せして下さい。

117: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/06(水) 21:48:16 ID:cIM5h2BB0
>>105
「可も無く不可も無し」って一応ほめ言葉なんだよな。
闊達自在の境地って意味で、仙人みたいな感じかな?
劉邦は行き当たりばったりって意味で言ってる気もするけど・・・。

134: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/09(土) 13:07:09 ID:aFuZjiOJ0
>>117
「可も無く不可も無し」は『論語』微子編で孔子が言った言葉で、孔子が七人の
賢隠者を評した後に、それに比べて自分は「可も無く不可も無し」の平凡たるも
のだと自らを謙遜して言ったもの。しかし孟子や朱子学では別の解釈がされて
いる。
馬援が口にしたのは、平凡の意味で「可も無く不可も無し」でしょう。

128: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/08(金) 23:15:33 ID:iFfrKRC9O
なんで李軼って更始帝側に寝返ったんだろうか
元々李通に劉秀兄弟に協力することを薦めたのは彼だったのに
なんで後に劉エンの暗殺に関わったのか…

李 軼

李 軼(り いつ、? - 25年?)は、中国の新代の武将、政治家。

劉玄が更始帝として即位した後に、李軼は五威将軍(五威中郎将とも)に任命された。新の大軍が攻めてくると、王鳳・王常・劉秀らと共に昆陽城(頴川郡)に立て篭もる。そして、劉秀と共に僅か13騎で夜間に包囲を突破して援軍を呼び、新軍を撃破した(昆陽の戦い)。

以上のように劉秀の片腕として大活躍を演じた李軼だが、その一方で、更始帝に接近してこれに諂い、高位を得ていた。この様を見た劉秀は、「もはや李軼は、信じるに足る男ではありません」と劉縯を諌めたが、劉縯は笑って受け流す。果たして、5月末の宛攻略等で名声を高めた劉縯に危機感を抱き、李軼は大司馬朱鮪と謀って、劉縯とその部将劉稷を誅殺した。


130: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/09(土) 09:27:05 ID:vNtRkI6T0
>>128
昆陽が、王邑の軍に包囲された時、劉秀は夜半十三騎で脱出に成功する。
この十三騎の一人が李軼。

(劉縯は宛を降し、それを知らぬまま劉秀は昆陽にて実勢力四十二万の
軍勢を数千の兵で破る)

次に李軼が登場するのは、朱鮪と共に更始帝に劉縯の殺害を勧める時。

これ全て更始元年六月のことである。妙だと感じない人はいないと思う。

131: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/09(土) 10:00:31 ID:jL3O992w0
>>130
昆陽戦で意見が対立し、感情的にこじれてしまったのかな?
兄の仇の片割れである朱鮪が降伏後、登用され出世しているのも奇妙だ。

132: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/09(土) 11:04:22 ID:bJ//zeyM0
>>128
劉縯兄弟にしろ、李通、李軼、劉玄も、
みんなバラバラで主従関係なんてなかったから、
そもそも寝返るなんて感覚もなかったんじゃない?
主従関係になるのは、劉玄が更始帝に即位してからでしょう。

133: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/09(土) 12:22:51 ID:jL3O992w0
劉兄弟は李通・李軼を義兄弟のように思ってっていたが、
李軼にはそんな考えは無かったのかもな。

135: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/10(日) 11:41:57 ID:MrF8iOjn0
李軼が劉縯・劉秀に反目したのは自明だからそのまま置いておくが、
従兄弟・李通の立場はどうだったんだろ。つまり、劉縯の暗殺にど
れだけ関与していたか。また、劉秀・李軼どちらに肩入れしていた
のか。

そう考えると、李通の動き方も面白い。
長安まで更始帝に同行し、西平王に封じられ、荊州に赴任する時に
は劉秀の妹の伯姫を娶る。劉秀が皇帝に立った時は、召されて洛陽
に往き、臣下となっている。世渡りが上手いといえばそうだが、ど
うしてそういう芸当ができたのか。

137: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/11(月) 15:23:07 ID:XexgBJPX0
> 荊州に赴任する時には劉秀の妹の伯姫を娶る

もっと前に娶っていた可能性はない?
通因娶光武女弟伯姫
"因"は、普通は理由を示す言葉だから、
後に光武帝に召し出された理由を示してるってことないかな?

139: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/12(火) 00:01:36 ID:2P+SzEdL0
>>137 
後漢書で、前後の文は
更始使通持節還鎮荊州,通因娶光武女弟伯姬,是為寧平公主.

更始(帝)、(李)通をして節を持ちて還って荊州を鎮ぜしむ。
(李)通因って光武帝の妹伯姫を娶る。これ寧平公主と為す。

因ってが掛かる文は直前の「更始(帝)、(李)通をして節を
持ちて還って荊州を鎮ぜしむ」しか無いと思いますが。

136: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/11(月) 14:26:11 ID:XL7bbA22O
劉秀の妹を娶ったぐらいだから相当信頼されてたんだろうね。
図讖に通じていたらしけど、劉秀が図讖に拘るようになったのは李通の影響だったのだろうか。

138: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/11(月) 17:08:04 ID:4L0h5FLQ0
>>136
図讖は当時の流行だったから、
劉秀の図讖好きも単なるミーハーだったと思われ。

讖緯

讖緯(しんい)とは、古代中国で行われた予言のことであり、讖緯の説、讖緯思想、図讖などと呼ばれている。

讖緯説が著しく発展したのは、王莽の新の時代である。王莽の即位を予言する瑞石が発見された、とされ、王莽自身も、それを利用して漢朝を事実上簒奪した。後漢の光武帝も、讖緯説を利用して即位している。


141: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/12(火) 12:22:18 ID:eCGBfkQ0O
劉秀の図讖へのこだわりようは単にミーハーだからっていう域を越えてる感じがするけどね。
普段絶対に部下を粛清しなかった劉秀が、図讖を否定した儒者を死刑にしようとしたこともあったし。

164: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 23:14:02 ID:eyhqux1B0
>>141
光武帝が処士で旧友の厳光と同じ部屋で寝たとき、
厳光は寝返りを打って光武帝の腹に何度も足を乗せた。
翌朝「昨夜、客星が御座(北極星)をしばしば犯したので異変が起こるのでは」と
報告を受けたが、光武帝は「厳子陵とともに寝ただけだ」と答えた。
このエピソードから考えるに、光武帝は本当は予言の類を本気で信じてはいなくて、
ただ自分の都合によって上手く利用していただけじゃないか?

165: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 23:23:14 ID:wsvnStHHO
>>164
それを見る限りでは光武帝は天人相関を信じていないようには感じないが

ただ、客星の侵犯→天下や帝の身に何か大事が!と思ったら帝の身体に足が乗っかったという徴だった、というオチなだけで
「身体に足が乗っかった」であれ、天子の身に何かあるときには天文に徴があるということは否定されてない

166: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 23:46:42 ID:eyhqux1B0
>>165
でもそれほど深刻には考えていないようだけど?
予言を信じて致命的なミスを犯したって話は聞かないし、
良い予言は信じ、悪い予言は別の解釈をしたんじゃなかろうか?
清の時代に崇厚という人物がいたが、イリ地方返還を求めるためロシアへ行った時、
占い師に「期日までに帰国しなければ死ぬ」と言われ、
それを信じて本国に無断でイリ地方を割譲してしまった。
崇厚は帰国後、死刑を宣告された。こいつは結局命は助かったが、
光武帝は崇厚のように予言の内容について他人の解釈を無条件で信じるような人間じゃなかったんだろう。
予言に関しては当時の人間として普通といえるぐらいしか信じていなかったのでは?

169: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/06(土) 16:32:03 ID:W/VV0iUw0
>>166
図讖によって、皇帝になった劉秀が、その同じ図讖で大司馬を選ぼうとして、
臣下がブーイング。皇帝劉秀、だったら誰なら良いんだと言えば、名前が上
がったのが呉漢と景丹。で呉漢を大司馬、景丹をある意味同等な驃騎大将軍
にした。図讖で名前が上がった男は、それっきり歴史から消えた。
と、全面的に予言に託す人物ではない。
もし、朝に「今日の占い」が読めるなら、それを見てから仕事する人みたい
なものかも。

170: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/07(日) 21:04:53 ID:B5/enrzB0
>>169
しかし、同じ図讖に名前があった王梁は二十八将に入ってるな。
ひょっとしたら図讖を理由に孫カンを大司馬に選んだのは、
王梁の県令から大司空の異例の抜擢のブーイングをかわす目的で、
わざと評判の悪い人間の名を一緒に入れたのかも。

171: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/08(月) 01:01:40 ID:VlAnFFAp0
>>170
面白いけど『後漢書』の「本紀一上」によれば
六月己未 皇帝に即位
七月辛未 鄧禹を大司徒と為す (上記の12日後)
七月丁丑 王梁を大司空と為す (上記の6日後)
七月壬午 呉漢を大司馬と為す (上記の5日後)
と、三公の選定は日がずれている。王梁がブーイングされれば、その日一日
で、呉漢と同様に、では誰が大司空に相応しいかと諮問したと思われる。

173: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/08(月) 11:24:41 ID:3BgL8BGT0
>>171
それって、任命した日じゃないの?
三公を発表したその日に任命するなんてあるのかな。
もしそうだとすると、王梁がブーイングされなかったのは何故だ。
皆が図讖を信じたからか、あるいは三公にふさわしい人格と容貌をもっていた為か?

142: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/13(水) 00:22:56 ID:4OSmrqW30
それほど当時は図讖に影響力があったんじゃないか。
いくら否定しても図讖を信じるものはいるだろうし、
それなら自分達に都合の良い解読をして流布させたほうが良い。

143: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/13(水) 06:59:43 ID:4IBLo/GE0
図讖は西漢末期に頻出する。王莽等はそれを操り、また逆に振り回された。
哀章の「金匱策書」なんかそう。劉秀の時代も影響が残っている。公孫述
も図讖で自分の正統性を主張する、或いは臣下を納得させるのに使ってい
る。蛮中山の賊の張満というのが、劉秀の部下に敗れた時に「讖文、我を
誤てり」と言っている。それほど世の中に流布していたということになる。
その後、図讖の類、讖緯節は西晋の武帝が禁止してから、各王朝では禁止
されることになった。よって以降は図讖の影響は少ない。

144: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/14(木) 21:01:24 ID:ls6P91RE0
李通の図讖は元がある。『漢書』「王莽伝下」に魏成(魏郡)の大尹(太守)李焉が卜者
王況と謀り、王況が李焉のために讖書を作ったとある。王況が言うに「(中略)漢家當
復興、君姓李、李音徵、徵火也、當為漢輔」つまり「漢は当に復興すべし、君の姓は李、
これは徴調(ちちょう)の音で、(五行では)火、当に漢の補佐となるべし」これが由来
である。
『後漢書』「李通伝」では、王莽の世、李通の父李守は王莽の宗卿師であり、その集め
たる讖文に「劉氏復興、李氏為輔」とあるのを李通は胸に留めていた。李通は巫県の丞
となり能名あり。しかるに李通の家は富たるが故に、李通は役人でいて面白くもないと
辞めて帰る。

147: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/17(日) 20:37:13 ID:rQQEy8eM0
城陽景王ってどういう人? 何故、信仰されてるの?
教えてくんですまん。

148: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/17(日) 21:00:10 ID:3CBQI8030
>>147
高祖劉邦の長男の斉王劉肥の次男劉章。呂氏討伐時に兄の斉王劉襄を挙兵させ、
みずからは呂産を斬った。
兄が皇帝なっていれば斉王になっていただろうが、結局帝位は叔父の代王劉恒(文帝)
が継いだ。文帝は劉章を趙王にという意見を退けたため、彼は城陽という小国の王となり二年後に死んだ。
恨みを抱いて死んだとされ同情が集まり神として祭られた。

149: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/18(月) 00:47:45 ID:Han0yFqw0
赤眉は、長安を一度出て隴に向った時、帝陵を荒らしたらしい。
呂后の墓荒しは分かるけど、他を荒らせば、城陽景王の親族を
汚すことになる。そこまで知恵回らなかったのかな。

150: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/18(月) 00:57:56 ID:YuOb2Qy3O
城陽景王が怨んでいたであろう相手は文帝だったろうから、文帝以降の皇帝たちはむしろ報復すべきだったのかもしれん

156: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 08:52:57 ID:pbwq5MUJ0
>>150
遅まきながらダウト。
『漢書』王莽伝下巻末に「宗廟園陵がみな発かれ、ただ覇陵と杜陵のみが
完全であった」とある。覇陵は文帝の墓、杜陵は宣帝の墓で、これらは長
安の南東にある。他の園陵は全て長安の北、渭水を渡った所。長陵、高祖
の墓もこちらにある。よって赤眉は何も考えずに宗廟園陵を発いたと言え
る。

152: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 00:43:32 ID:6zWpIXfh0
朱虚候だった劉章は呂后存命中、酒宴の司会を勤めたとき「将軍の家系だから」
という理由で軍法をもって司会を勤め、無断で中座した呂氏の男を斬り、また呂后
の前で「農作業の歌」と称して呂氏は除かれねばならぬという意味に取れる歌を歌ったが
どちらも呂后の許しを得てやったことなので罰せられなかった。
また未央宮の便所で呂産を斬った後、勅使の馬車に同乗して長楽宮に赴いたため近衛兵の長官
呂更始は勅命と信じ抵抗せず斬られた。
知勇を兼ね備え、気骨もあるこの人物を大国の王にすれば兄と共に反乱を起こすかもしれないと
文帝は考えたんだろう。

153: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 17:59:19 ID:TQebedHP0
赤眉は景王を祀って巫(かんなぎ)を連れていた。その巫がトランス状態に
入って言うに「景王大いに怒って曰く、まさに天子と為るべし、何故に賊に
為ると」。この巫を笑う者、病めば、軍中驚き騒ぐ。
 というわけで天子を立てる一助となる。

151: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 12:14:31 ID:YEdYqf4UO
王莽の二名の禁は何故新朝が倒れた後も守られたのかな?

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 23:35:53 ID:mcNwhQFiO
>>151
秦や隋のように、政権自体短命でも後の王朝が前王朝の遺産を引き継ぎ発展・定着させることは多々あるので、それも一例じゃないかな?

諱が一文字でもよく使う字の方が二文字になれば、直ぐには困らないんじゃない?

まぁ、諱でもって語ってる後世の人間よりも、当時の人は同姓同名に困ってなかったかもね。

155: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 23:41:44 ID:xcijv007O
二字名の禁は王莽が勝手に考え出したのではなく、当時の儒教的な価値観から出てるものだからな
王莽に関係なく納得して従う奴が多かったということだ

175: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/14(日) 10:16:46 ID:aoLaXa5Z0
王莽の軍事知識は大軍を派遣すれば勝てるという程度のもので、
補給や将兵の事をまったく考えていないよな。
指摘すると厳尤(荘尤)や田況のように懼れられて兵権を奪われるし。

238: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/03/13(火) 20:07:03 ID:gEgYkbtT0
王莽って、何であんなに情けなくなったんだろう?

239: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/03/13(火) 23:41:12 ID:veo65chW0
得意なのは権力争いだけじゃない?
実力が有ったと思わせるようなことあったっけ?

158: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 22:46:08 ID:c6Wwweh/0
廉丹って廉頗の子孫だったんだ。

159: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20:52:58 ID:A41Cy64XO
>>158
それは初耳だね。この時代に廉頗の子孫が生き残ってたなんて驚きだな。

160: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20:58:27 ID:nxvCkIQ60
>>159
後漢書には、廉丹の孫の伝記がある。

162: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 04:02:05 ID:cbkCawco0
>>160
廉范伝。楚王英の謀反の時に、連座し誅せられた薛漢の遺体を独り収めて、
明帝の怒りを買い詰問される。そのとき廉范が答えるに「自分はわきまえも
知らぬ愚か者でございます。思いますに薛漢は既に誅せられ、(これに教え
を受ける身とすれば、)師への情に耐えず。罪は計り知れませぬ」
怒りが解けた明帝の言葉が面白い。「そちは廉頗の後裔か。右将軍褒、大司
馬丹と親属であるか」と尋ね、廉范が「褒は曽祖父、丹は祖父なり」と答え
ると、明帝は「(道理で)そちの肝が据わって妙だと思った」と赦す。これ
によって名を現す。

177: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/20(土) 19:55:40 ID:pK1VrREA0
そういえば、後醍醐天皇の年号も建武だったな。
光武帝にあやかろうとしたのかな?

179: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/22(月) 16:26:46 ID:jbLfZKQeO
漢朝の復興にあやかって、天皇親政を復活させたかったんでしょ。

醍醐天皇の「延喜の治」に対するオマージュから「後醍醐」と呼ばれたがってたみたいだし。
結構、過去の偉人や故事に自分を投影するタイプかもね。

しかし、中興を意味する「光」の諡号(当然、光武帝もこの意味)は北朝の天皇に贈られてるのは、歴史の皮肉なのかな。

181: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/22(月) 21:08:36 ID:U+5x+ObUO
>>179
劉備の諡号である昭烈帝の「昭」も、光武帝の「光」と同じ意味なのかな?

182: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/22(月) 22:45:45 ID:jbLfZKQeO
>>181
「昭」は「功績を譲る徳を持つこと」
関羽・張飛・諸葛亮ら臣下の功績で大事をなしたことを意味するんじゃないかな。

楽毅が仕えた燕の昭王も広く人材を集め、燕を復興させたわけだしね。

183: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/22(月) 23:11:42 ID:U+5x+ObUO
>>182
ふーむなるほど

自分は劉備の諡号である「昭烈帝」は、「光武帝」を意識して付けられたのかと思ってたけど違うみたいですね

184: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/22(月) 23:13:15 ID:fDIR9QHIO
諡法に書いてあることだけが諡の意味ではない場合もある
むしろ諡法は表の意味で、裏の意味を持つ場合があると言うべきだろう
昭烈帝は昭→光、烈→武と意図的に光武帝を連想させる諡を選んだのだろうし、献帝も献上の意味も込めて魏が贈ったと思われる

185: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/27(土) 01:13:39 ID:0JwtOrU7O
漢代の皇帝は全員諡号の最初に「孝」が付くけど
光武帝には「孝」は付かないよね?

186: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/27(土) 01:18:26 ID:Da4NyyxXO
>>185
「先代を引き継いで祭祀を継承した」=「孝」なので初代には付かない
だから高皇帝と昭烈帝にもない

196: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/04(日) 13:42:21 ID:0WRf6H3iO
光武帝って完璧すぎてつまらないなんて聞いたこともあるけどそういうもんなの?

197: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/04(日) 14:28:54 ID:WC3Co8vZ0
牛に乗って戦に出る人間が完璧なわけがない

198: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/04(日) 14:59:47 ID:74slseESO
光武帝は結構情けないエピソード多いよ

199: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/04(日) 15:14:02 ID:zzI2Diy4O
情けないエピソード≠完璧ではない≠魅力的

どんな人物のどこを気に入るかは最後は好みだからねぇ
情けないエピソードと言われるものを含めて鼻につく人もいるだろうし、好きになる人もいる

200: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/04(日) 15:34:34 ID:74slseESO
ああごめん、「情けないとこもあるから魅力的」って意味で言ったんじゃなくて
「光武帝といえども完璧な人間じゃないよ」って意味で言ったつもりでした

208: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/10(土) 16:52:48 ID:Ek1oUKaaO
皇帝の外戚とはいえ傍流から一代で禅譲を受けて皇帝になったんだから偉大な英雄には違いないよな

214: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/14(水) 04:58:13 ID:+JEMP33i0
横山光輝には死ぬ前に光武帝伝を描いて欲しかったな。

215: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/14(水) 12:39:15 ID:c87tDxIqO
確かに横光光武帝を読んでみたかったな

218: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/15(木) 21:56:22 ID:4lnUXgea0
原作・武論尊 
作画・池上遼一

219: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/15(木) 22:35:03 ID:+Zp/EBEcO
>>218
劉秀が悪人で倭人に殺されちゃうのか

220: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/17(土) 19:37:39 ID:EfpZs+Hv0
画・園田光慶 
作・久保田千太郎

221: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/17(土) 22:19:13 ID:3KnCQlNW0
>>220
隈取りが入った劉秀が「この野郎!」と叫びながら
陰麗華を寝取った更始帝を真っ二つにするわけだな。

235: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/03/08(木) 19:08:46 ID:C/CgKbDZ0
劉秀は、一昔前の歴史小説なら主人公としてこれ以上の人物はいないだろ
読者の感情移入と阻害するような史実も少ないし。
今どき単純な英雄史観で歴史を書きたい奴は、劉秀をこそ書くべし。

逆に朱元璋とかを小説の主人公にしちゃうような単細胞には
元末は書いてほしくないな

236: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/03/08(木) 20:43:37 ID:fqyBKi3v0
いや、面白いと思うぞ。
最初は信頼しあっていた家臣団を見る目がどんどん変わっていき、最後には……ていう展開
どこが英雄物だ、て説もあるが。

237: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/03/08(木) 21:13:52 ID:FEueH56+0
朱元璋は
最悪の幼少時代、心が荒む
友と過ごす幼年時代、荒んだ時代に自分の居場所
天下争乱の青年時代、サクセスストーリー
李善長らとの出会い。彼らが教える儒教に統治者として夢ヒロガリング
理想と現実。腐りきった地方官。士太夫の裏切りに怒る朱元璋
最愛の息子の死。他人を信じられなくなったかっての英雄

これはこれで一本の筋が通ってて
それでいてバッチリ典型的な英雄記だと思うぞ


引用元: ・【王莽】新~後漢初【光武帝】






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