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797: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:9rur1zQp0
高齢の皮膚科Drから聞いた話・・・
梅毒は皮膚科でも診察するが、江戸の昔は「瘡=かさ」と呼び
「瘡持ち=遊び人=瘡が怖くて遊べるか!!!」という状況だったらしい
梅毒はキスだけでも移る感染力が強い疾患だそうで、性交以外で罹患する
機会はそこそこあったらしい
「でも免疫があるのか、梅毒に罹患しない人間が居る」と
そうでなければ人類は「とうの昔に絶滅している」と言っていた

それと「淋病」を花柳界では「浜千鳥」と言ったと。それは「海見て鳴く
=膿見て泣く」の掛け言葉だそうだ

そのDrが初めて「バイリンギャル」という言葉を聞いたときには
「梅毒・淋病両方を罹患した女性」だと思ったと・・・

Drには是非長生きして欲しい

798: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:uqTsjimE0
no title

799: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:BZfBOHG20
>>798
二・二六事件の時、父親は満州在住で10歳だったがその母親(俺の祖母)は
二・二六事件起こした青年将校に肩入れして応援していたが、
爺さんはそんな婆さんを窘めていた、と言っていた事を思い出した。

801: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:JgaTQBNMO
信じられないけど、今でいう部落差別が普通にあった。
虐げるとかいう発想じゃなくて、そういうものとしてまかり通ってたって聞いてビビった。
だからひいばあちゃんは普通に「エッ○さんこんにちは~」と挨拶してたり、貧しいからと食べ物を分けたりしてたんだって。
もちろん言われる側、貰う側がどう捉えてたから分からないが、今じゃ狂気の沙汰。

803: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:ib6Ez6Gs0
祖母が早死して曾祖母に育てられた父が聞いた話。
代々京都の職人家系のだったので当時も京都在住で、昭和天皇の即位の時、裁縫の上手い曾祖母は晴れ着を新作を多くの人に頼まれて即位直前はずっと徹夜だったそうだ。
そういや私の子供の頃も正月に新しい服をおろす習慣はまだあったな。と、ちと思い出した

807: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:BL1WWsnw0
車好きの大叔父の話
昭和30年頃道路交通法が変わったと。何が不便といって、駐車違反と
「反対車線への停車禁止」だと。現在ならUターンしなければならないが
当時は「反対車線を横断する形で車を進め、右側通行のように車を停める」
事が可能だったと。右ハンドルだから降車しやすいなあと答えたら・・・
ベンチシートのコラムシフトだから、左右どちらにも降りられたから
関係無いだと

それと当時の車はシートがビニールで、縫い目から破れる事が多く
内装修理専門の業者がいたと。外がツートンなら、内装もタータンと
ホワイトとか、同系色でオーダーするのがお洒落だったと
ドア内張りも「熱でテレテレになって、ブカブカ浮いてみっともなかった」から
同時にオーダーする人が多かったと。それとBピラーには花瓶を付けたり
フロントグリルに馬蹄を飾るのも流行ったと
「あの時、車なんか買わずに家でも買っていたら・・・」と大叔父は後悔しているが
車で散々悪さをした人間が、何を抜かすかと思った

810: 味噌 ID:HpXclTrW0
じゃあ我が家の話
爺さんは当時の大卒で朝鮮人工夫のまとめ役をやってたんだが出稼ぎ労働者は給料をばくちや酒に使ってしまう
その原因の一つが「銀行口座をもてない」こと
日本語ができないから口座が開けなかったそうな
そういうわけで日本語で口座開いてやって爺さんが故郷に送金してやったそうな

また使用人に元ヤンバンの夫婦を雇ってたんだが俺の親父が悪がき連中と一緒に
「柿を盗みにいこう」とヤンバンの息子誘ったら拒否して
「さすがヤンバン」と思ったそうな
我が家も普通に武家の家柄なんだけどねw

その使用人の奥さんが戦時中妊娠してて毎日お腹に米を隠して持ち帰るという横領してたが
黙認してたそうな

その関係で親父の「お袋の味」は使用人の朝鮮人の味で
いわゆる「水キムチ」という朝鮮宮廷料理がすきだった

具ぐるとわかるが唐辛子を少ししか使わない
そういうわけで30代の俺もあまり辛くない宮廷料理のキムチが「お袋の味」

内の家では朝鮮が過剰に民族的なのはしょうがないという風潮が主流だった
朝鮮は圧倒的下位の存在であって日本人が朝鮮を反日感情含め「許す」のは上位の国として当然と思ってた

最近の所謂「ネトウヨ」層はそういう風潮があったことを理解してほしい

812: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/01(日) 17:04:47.36 ID:vO3U4cdC0
先日機嫌を損ねてしまった大叔母に、好物持参でご機嫌伺いに出向いた
そこで聞き出した話・・・

*チップ・心付け
今日本では「チップ不要」が当然で、外人が感動する事頻りだが、実はつい最近まで
日本も「心付け必須」の国だったと・・・

①戦前の映画館(日比谷・有楽町辺りの映画館の事で、浅草・新宿等は除く)には
一等席二等席があり、座席指定の前売り券があったそうで、当日「座席の変更」が
可能だったと。それを「お直り」と称したそうで、入場後にカウンターがあり
美人係員が対応していたと。その際も「心付け」を紙に包んで渡すと、良い席を
宛がってくれたと。顔馴染みになると「お得意様用パンフレット」も提供して
くれたと

②戦前の寝台券・特急券は「二重売り」が発生したそうで、必ず「予備席」を
準備していて、列車ボーイがその差配をしていたと。事情通は寝台料金未満の
チップをボーイに渡して、無料で寝台を使っていたと
列車ボーイは寝台の設営・湯茶のサービス・電報の仲介・朝刊販売・弁当の
代理購入等、様々なサービスをしてくれたそうで、チップの有無でサービスに
差があったと。チップ無しだと、いい加減な寝台設営・ぬるいお茶・弁当売り切れ
読み古しの新聞等が宛がわれたと

③東京の主要デパートには必ず「貴賓室」があり、皇華族が来店の際に応接をしていたと
それも何室かあり、上下の等級があったと。最も低い貴賓室は子爵男爵クラス用とされていたが
そこへ入れば「お買い上げ」が必要となり、実際には低い子男爵用貴賓室を使う華族は
ほとんどいなかったらしく、一般平民の上得意用になっていたと。ただその際は「熨斗袋」を
ばら撒く必要があったとかで、茶菓を運ぶ女性に熨斗袋・クローク係に熨斗袋・その階の
エレベーター係に熨斗袋・・・田舎から出てきた知人を連れた富裕層とか、華族の縁続きを
装う見合いの席などに使われたと

思うに昔は「給与」が安く「役得」がなければ生活できなかったのかもしれない
富裕層は「それなりの経済的負担が必要」とされたのだろう

813: 味噌 投稿日:2013/09/01(日) 19:29:45.75 ID:qU2fBBmv0
今でも歌舞伎や相撲観戦には5千から1万近い「ご祝儀」を渡す場合があるね
そういうわいろというか挨拶料は昔は必須だったんだろう

814: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/02(月) 02:48:57.74 ID:ujSCq5Ku0
木場から嫁いだ大叔母と、亡くなった祖母の法事の話をしていた際に聞いた話

あまり気持ちの良い話ではないので、ご了解願いたい
大叔母の実家は葛西に小作さんが居て、小作料とは別に野菜や米を届けてくれたと
その際毎に様々な話をしていたそうで、店の若い衆との猥談などもこっそり聞いて
嫁入り前には一通りの知識はあったそうだ

その中で葛西の海岸に流れ着く「水死体」に関しての話題があったと
江戸の昔からのしきたりで、女の場合は何もせず、男の場合には下帯を確認し
練絹・羽二重であれば筵を敷いた上に寝かせ、顔を隠すように筵を掛けたそうだ
木綿物の下帯や刺青者は、女と同様なにもせずそのままにし、警察に通報した
そうだ
それが漁師のしきたりになると、そのような風習は無く、海上で見つけた水死体は
必ず港まで連れ帰ったそうだ

大叔母曰く、どうも農家は漁師を見下していた?ような感じで、漁師は素っ裸で
漁をしている・・・などと話していたと。大叔母の妄想・勘違いかと思っていたら
何と事実らしく、九十九里方面では漁師を「舟方=ふながた」と呼び、ほぼ全裸で
あったらしい。それが戦後まで続いていたというから驚く

古い話を聞いてやると、大叔母は大層喜ぶ。時に上記のような「はしたない」話も
出てくるが、それそれで面白い。これからも色々聞いてやりたい

817: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/02(月) 20:34:52.73 ID:yt05licW0
>>814
九十九里では漁師だけじゃなく浜で荷揚げを手伝う嫁や母も全裸だった
記録を見る限り少なくとも昭和30年代までは裸

815: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/02(月) 03:45:36.78 ID:ujSCq5Ku0
思い出した・・・
正月に大叔母から聞いた話だ
昭和15年に「贅沢品禁止令=奢侈品等製造販売制限規則」が発令された際
大叔母の祖母が「石鹸・蜂蜜・藍染木綿」を買い溜めたと。元は衛戍病院の看護婦だった
人らしく、衛生面の観念がシビアな人だったらしい。一般の奥様方は「反物・帯地
綸子白絹・足袋」を買い溜めたらしいが、大叔母の祖母は、石鹸・蜂蜜・藍染綿布を
買い溜めたらしい

砂糖とかの方が良かったのでは?と尋ねたところ「砂糖は湿気に弱い」とかで「蜂蜜は
腐らないし薬になる」という理由で、一斗缶を80も買ったと。洗濯石鹸は1000個も
買い溜めたと
若い衆の面倒を見なければならない事から、衛生面=洗濯石鹸を連想したらしい

それが戦中戦後大層役に立ったらしい。葛西の小作さん宅も男手を取られた上
米の供出も厳しく、小作料も免除させられた為、世間一般と同じく「買出し」に
出かけなければならなかったが、その際「洗濯石鹸一個」が米一升になったと
蜂蜜も、三合徳利一個で米一升になったと。若い衆用に買い溜めた藍染木綿も
とても役に立ったらしい
その他の例では、電球なども民間用には供給が途絶え勝ちで、切れた電球を持参する
「交換販売」になり、その内全く供給されなくなり、一個の電球を「台所から風呂場
風呂場から居間」と付け替えるような状況だったと
戦時中を舞台にした映画などで、各部屋に電球が付いているのは「有り得ない話」だと
大叔母は言う。そんな電球の入手にも「石鹸」が威力を発揮したらしい

大叔母の祖母は戦争を生き抜き、昭和23年に亡くなった
洋装で颯爽と衛戍病院に通勤していた事が、自慢だったらしい
2047年に、100年の法事を行う事ができるのか・・・多分無理だと思う

816: 名無す@西蒲原 投稿日:2013/09/02(月) 13:52:58.25 ID:wu1H9gwu0
九十九里の漁師の話が有りましたが、海人たちは、女は褌だけ、男は縄で珍棒を縛ってたそうです。その格好で一緒に浜辺の焚火に当たって、エロ話をしていたそうです。それを見て東京あたりでは、千葉の女はスケベだと言われていたそうです。
この話自体は、大昔の新婚さんいらっしゃいで見ましたし、昔あったアサヒグラフみたいのでも、そんな焚火に当たる写真を見たことがあります。

820: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/02(月) 23:54:45.06 ID:sIpM1cKw0
大叔母との話
昭和の中頃までは、大きな銭湯には必ず「三助」がいたと。落語などにも
登場するし、職業としては認識していたが・・・

大叔母の実家の木場では、若い衆の数も多く「内風呂」は家族のみで
家と店の使用人は、銭湯に行かせていたと。それが息抜きにもなり
買い食いなどしなければ、多少帰宅が遅くなっても文句は言わなかったそうだ
注)買い食いは、店での食事が不足していると噂が立つのを嫌った事と
  衛生面の用心だったそうだ
銭湯で三助を頼むのは、既婚者(男女共)が主だったらしいが、女湯の三助は
女性に人気が出るように「清潔感のある役者のような男」を配置する事が多かった
らしい。そんな三助が「不恰好を仕出かす」と、直ぐ様「お暇=解雇」になったと
不恰好とは「男性の下半身の変化」を指す言葉だったそうだ。それを嫌って、ゴム製の
下着を身に着けた三助も居たらしい
お客に欲情するなど、とんでもない事という論法らしい
大叔母の家の近くに「良い男」と評判の三助が居たそうで、大層人気があって
贔屓にする人も多かったらしい。不始末を仕出かす事も無くしばらくは真面目に
勤めていたらしいが、ある時大叔母の店の若い衆と、亀戸の宿で心中を図ったと
同性愛であったらしいが、外聞を憚って、それぞれの田舎にこっそり帰したらしい
女性に刺されたり博打に狂ったり、色々な人間が居たらしいが、流石に同性間の
心中は「トップシークレット」だったらしい

大叔母曰く昔は「役者のような良い男」は呉服屋へ奉公に出すのが一般的だったと
それが戦後は「デパートの外商・外車のセールスマン」に替わったと言っている

821: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/03(火) 05:13:23.96 ID:3cfBzuy4O
母方祖父が戦前の高等学校を卒業していると自称してて
当時としては高学歴なんだぞと自慢していた。
農家の田舎の爺さんだと思ってたけど賢いんだなぁと思って
よくよく話を聞くと「高等小学校」を高等学校と称しているのに気づいた。

822: 味噌 投稿日:2013/09/03(火) 09:31:34.76 ID:2n8O9crD0
女学校が女性の高学歴かなぁ
女学校でたら代用教員といって小学校の先生になれたな

デパートの外商は確かに美男美女だね
というかデパートは全部そうかな

823: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/03(火) 14:34:21.08 ID:NcPRS8yj0
昭和の初め、新聞は連日こんな広告で賑わった。
「男児至急差し上げたし。生後一カ月。体健。血統保証」
「女児譲りたし。生後二週間。健全。極美。両親共高等教育有り。慈愛深き方に」
堕胎が禁じられていたこの時代、登場したのがもらい子商売であった。

昭和8年、ある男が殺人罪で捕まった。
彼は一年間に25人の乳児をもらいうけ、その25人をことごとく絞め殺し、養育料を稼いだ。
養育料は一人につき120円~200円。

昭和5年4月、東京・板橋で、子殺し団が捕まった。
彼らは紡績工場の女工が産んだ子を50円から100円の安値で引き取り、次々と殺した。
その数は一年間で30人。死骸は私立医大に解剖用として売っていた。

ある神戸の三味線師匠の女は、もらった子を自分の変態趣味の犠牲にした。
4つの子を170円でもらいうけ、芸者に売るつもりで三味線を教えた。
子どもが間違えると針や火箸で折檻したが、それが病みつきになり、この子が保護されたとき、
陰部周辺に27カ所、背中に30カ所の傷がつけられていた。

824: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/03(火) 22:02:13.09 ID:s8v0TQ8Z0
大叔母から電話があり、他愛無い会話の中で・・・
最近の着付けには、色々お道具が必要なようで
見た目はスッキリしているけれど、着心地は悪そうだという話から・・・

実は昔も「お尻に布団を巻いて」着物を着る人は存在していたと・・・
着物は臀部が大きくないと「後姿が美しくない」とかで、襦袢の下に
「尻を強調するような」空豆型の小さな布団を巻いていたと・・・
昭和10年代初頭には、ごく普通の事=常識的工夫 だったらしい
「ほら、あたくし腰下が長くて、スラッとした洋装が似合う体形だから・・・」だと
背が低い人用には「足袋の中=踵部分に入れるゴム製のヒール」などもあったと
「あたくしには必要なかったけど・・・」だと。その頃はまだ子供だったはずが
女の見栄張りには驚くばかりだ

825: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/03(火) 22:19:51.82 ID:s8v0TQ8Z0
大叔母が尋常小学校低学年の頃だから、昭和の初めの事らしい
ただこれは大叔母の勘違い?ではないかと思うが・・・

祖父母(私からすれば、義理の「高祖父母」)に連れられ、堀切へ菖蒲を観に行った帰途
馬鹿でかい茅葺の家に立ち寄ったらしい。お子様の居られないお宅だったらしく
歓談の邪魔にならないように、中年の女性が遊び相手となってくれたと。その際大叔母が
尿意を催し、お手洗いを拝借したそうだ。畳の廊下が続き、手水鉢がある土間が付随した
二畳程の小部屋の奥に「香を焚いた畳敷きの個室」が二つあり、大小用に分かれていたいたらしい
用を済ませ小部屋に戻ると、壁に木製の突起が二個並んでいたと
何かと思って見上げていたら中年女性が「あれは、お刀掛けですよ」と教えてくれたと
「昔、お侍さんが来られた際に、あそこへお刀を掛けてから、入られたんですよ」と教えてくれたと
チャンバラが大好きだった大叔母としては、刀・お侍の言葉だけで興奮してしまい、近くで観たいと
中年女性に抱っこをせがんだそうだ。中年女性が疲れたと言うまで、その突起を弄繰り回していたと

自宅に帰ってから、自分の木刀(???)を壺に入れるのが嫌になり、雑用をしてくれていた御爺さんに
「刀掛けを作って!!!」とねだったそうだ。そんな願いが叶う訳も無く、しばらくは泣いたり拗ねたり
部屋に閉じ籠ってみたりしたらしい

大叔母に「香を焚いた畳敷きの個室」に驚くのではないか?と尋ねたが、それには特に驚かなかったと・・・
後で祖父母に「上の厠=かみのかわや を使わせていただいた」と聞かされたらしい

注)関東大震災以後の事で、廃刀令以前の茅葺家屋が無事に残っていたとは考え難い
  倒壊した家屋と同様に「建て替えた」というのも奇妙に思う
  多分これは大叔母の「勘違い」だと思う
  

826: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/03(火) 22:26:40.49 ID:s8v0TQ8Z0
この「馬鹿でかい茅葺の家」には、もう一つ思い出があるらしい
大叔母が中年女性と「かくれんぼ」をして遊んでいたら、来客用の座敷近くの和室に「ど~ん」と大きな箪笥が
二棹並んでいたらしい。それがピカピカに磨き上げられており、とても良い香りがするので、大叔母はその前で
動けなくなってしまったらしい。直ぐに中年女性に見つかり「これは下され箪笥ですよ」と教えられたと
それは「進物をいただいた際、その額に応じた答礼の品=引き出物を準備しておく箪笥」だと教えられたと
それでも香りが気になり、その場を動かない大叔母に、中年女性は箪笥の下の段を開けてくれたらしい
そこには反物や白生地が沢山入っていたらしい。しかし大叔母の身長では二段目は覗けず、またもや抱っこを要求し
中を覗かせてもらったらしい。そこには、包装された小さな箱が沢山入っていて、良い香りの「元」だという事が解ったらしい
中年女性が引き出しから「箱入りの千代紙」を出して、大叔母にくれたと。それにも良い香りが移っており
大叔母は喜び勇んで祖父母の元に駆け戻り、その余りの無作法を祖父母に叱られたらしい

その後しばらく大叔母は「刀掛けと、下され箪笥のあるお家へ行きたい」と駄々を捏ねたらしいが
その後に行った覚えは無いと言っている

注)御隠居所のようなお宅をお訪ねしたようで、来客が多いとも考え難く、これも大叔母の「勘違い
  混同」のように思う。

832: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/14(土) 01:47:46.01 ID:T+lmUvxy0
大叔父の話です
最近はラブホテルがありますが、昭和40年頃までは「連れ込み宿」は
あったものの「手軽に済ませる」場所は無く、屋外で済ませる事も多かったと
しかし「連れ込み宿」より手軽な場所として「鮨屋の2階」というものが
あったそうです。本来は「会食用小座敷」なのですが、鮨代と部屋代を払うと
1時間ほど部屋を使えたそうです。形ばかりの不味い鮨とビール、座布団を並べて
行為に及んだそうです。お好み焼き屋の奥座敷・・・というのもあったそうです
お好み焼き屋に屯する「女性」が「相手をしてくれる」というシステムもあったそうです

833: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/14(土) 18:33:43.64 ID:enCZOyFJ0
江戸の風俗みるとソバや、うなぎ屋、茶屋などが今のラブホ兼ねてたな

834: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/14(土) 20:10:00.49 ID:T+lmUvxy0
大叔母の話です
体を露出するファッションが多い昨今ですが、昭和30年頃には「ナイロンブラウス」が
流行し、ブラジャーの上に「半透明のブラウス」を着ていたそうです。とは言えそれは
あくまで「休日の外出着」で、通勤には「そんなものは着なかった」と言います
ブラジャーは丸見えだったそうですが、当時は「ブラジャーそのものがお洒落」なもの
だったそうで、下着という感覚は希薄だったようです。必然的に「腋毛の処理」も必要となり
「お洒落にお金を掛けられる人」にしかできないファッションだったそうです

大叔父は昭和30年頃から「ナイロンブリーフ」を使用していたそうで、女性の前で脱ぐのを
意識した為だそうです。その頃は下着は「自宅で作る」のが普通で、下着にまでお金を
掛けられる人は「そこそこの収入がある人」だったそうです。銀座の東京温泉や錦糸町の
楽天地プールなどは、入場料が高かった事もあり、下着や靴にお金を掛けた人ばかりだったと
言います

865: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/02(水) 19:55:58.06 ID:oUGK26He0
>>834
昭和30年代の映画では、「イケてる男子」はブリーフ穿いてたなあ。
(ちなみに、撮影日当日に偶然着てた下着だそうな)

835: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/15(日) 20:04:47.97 ID:ASHigrPB0
東京温泉で思い出した
大叔母の実家は年寄りが温泉好きで、昔から店の人間が怪我をしたりすると
「大旦那の湯治お供」を口実に、怪我人を療養に連れて行ったらしい
江戸の昔から湯治は「6泊」と決まっていたそうで、ゆっくり滞在するのが
大叔母の実家の慣わしだったらしい
大叔母やその兄は、それに着いてゆくのが楽しみで、女中さんも連れて
熱海や箱根へ行ったらしい
熱海は、帰京時や上京時の帰途に利用する人が多く、慌しい街で
ゆっくりもできず、箱根の方が多かったらしい
湯治に行っても編み物をしたり、浴衣を縫ったり、習字の練習をしたりで
ぼ~っとしている事は無かったらしい
それでも夜更かしが許されたり、温泉場の華やかな雰囲気が好きだったようだ

836: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/15(日) 20:45:21.56 ID:ASHigrPB0
835の続き
温泉宿では他のお部屋をお訪ねしたり、夕食をご一緒したりといった
事から、色々な方とお知り合いになったと
大叔母は女中さんと、その兄は店の人間と一緒の部屋だったらしいが
夜になると、その女中さんや店員さんが部屋から居なくなる事があり
子供ながらに「逢引だな!!!」と理解していたらしい
そんな大叔母の兄は、12~3才頃に宿の女中さんから「お餅搗き」を
教わったらしい。戦後に初体験が話題になった際、大叔母の兄は「箱根の
女中さんに教わった」事が判明したと。きっと一所懸命搗いたのだと思う

838: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/16(月) 00:15:34.66 ID:UhHPdf4o0
婆ちゃんが大阪の都島でカネボウの女工さんをやっていたんだが、給料日の週の休日は
同じ宿舎の女工さんと市電に乗って梅田や難波に遊びに行っていたらしい。
しかし心斎橋は女工さんごときが来るな、というオーラがあり行っていないそうです。
またカネボウの社員食堂はご飯とみそ汁は共通だが、おかずは大衆食堂のように好きなものを選んで
食うスタイルだったそうです。

840: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/19(木) 00:33:25.95 ID:87jvb5Nw0
家の倉には先祖代々の物が入っているんだが、祖母が女学生時代に愛読していた雑誌「少女画報」と吉屋信子の小説が出てきた。
こんな本
no title

旧字体で読みにくかったが、内容は、ミッション系の女学校の寄宿舎の女学生が、自らの過去の恋愛や性体験を告白しあい、最後は「キャハハウフフフ。駄目お姉さま」になるガチ百合の小説でした。
私の体には、変態の血が流れています。
ちなみに祖父は、日本共産党武闘派の戦士。
赤色ギャング団事件で服役。
日本共産党とレズが、どうやって知り合ったのかは、我が一族最大の謎です。

841: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/19(木) 04:48:24.88 ID:G9ZY2wDQO
悪さをすると爺さんから
「また爆弾が降るぞ!!ふみまろ!!」
と怒られてた。
ふみまろ!!が意味不明で、何かの語呂合わせだと思ってた。

844: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/21(土) 23:05:02.00 ID:mtMm/USm0
終戦の頃の話を。
東京にいた俺の祖母と、岡山にいた妻の祖母では、終戦についての捉え方が真逆だった。

俺祖母(東京在住 終戦当時24歳)
昭和20年当時、今の北区に住み、勤労動員で工場で働いてた。(そのときの怪我で指が1本短い)
終戦までの半年は連夜の空襲警報。工場も中破、死者も出た。
「明日は死ぬんじゃないか」「もう負けだろう」「米兵が上陸したら山の中に逃げようか」と、憲兵の目を逃れながら同僚と休憩時間中にコソコソ話してたそうだ。

で、終戦となっても驚きはなく、「やっと終わったか」と「もう空襲はないんだ!」とほっとしたらしい。
負けて悔しいとかは全くなかったって。
あとは戦後の食糧難がとにかくつらかったと。
「長生きしたおかげでこんなにおいしいものが食べられる。あの頃は本当にひもじかった。」と、92の今でもビールがんがん飲んで食べまくってます。

妻の祖母(岡山在住 終戦当時19歳 女学校出で大地主のお嬢様)
農村に住んでいたので空襲の経験なし。
岡山市街は空襲があったそうだが、とのこと。
広島の隣県のため、知り合いの知り合いレベルでは、「広島でピカにやられた人がいた」と言ってた。

どういうわけか、勤労動員もなかったそうだ。
まあ近所に工場もないし、男手が出征してしまった農家の働き手、という建前なのか。
お嬢様なので農作業などしなかったそうだが。

そんな環境からか、最後まで日本は勝っているという報道を信じていた。
玉音放送を聴き、日本が負けたと知ったときは本当に驚いた、と言っていた。
農家で地主でもあるため、食糧事情は戦中戦後とも無双。
だからなのか、今でも好き嫌いがめちゃめちゃ多いのには驚いた。
お年寄りはひもじい思いをしてるから、何でも食べるものと思ってたので。

「国民は敗戦に涙し、打ちひしがれた」とか教科書には書いてあったが、場所や立場などによってそれぞれなんだな、と思いました。

教科書や一般的な書物にはない、生の人の声は貴重ですね。
皆様のカキコ、興味深く読んでます。

850: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/26(木) 02:03:28.27 ID:Bt8Yb2DEO
>>844
なるほど、それほど戦争で困窮しなかった人はあえてそう言わないので、マスコミに話が載ってこないということか
たしかに都市部と農村部で状況が違うのは当然といえば当然だな

849: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/25(水) 20:07:34.11 ID:Vi6n+kP80
うちの祖母は島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」で有名な信州の小諸市の
出身です。終戦時は高等女学校の4年生

小諸には高等女学校がなく、良家の娘達は小諸から汽車で約20分の
上田高等女学校か軽井沢高等女学校のどちらかに進んだそうですが、
そのどちらを選ぶかで、運命の分かれ道になりました。

祖母は父親の友人の奨めで上田高女を選んだが、昭和19年になると連日勤労動員。
上田は工業都市なので、市内の工場で毎日慣れない肉体労働をさせられて、
体はとても辛かったが、少なくとも毎日実家に帰れたし、御飯も十分に食べられたし、
田舎だから空襲もほとんどなく、終戦時も全員が無事だった。

しかし軽井沢は観光地のため工場がなく、軽井沢女学校を選んでしまった友人達は、
動員で名古屋の飛行機工場に学年ごと送られ、食事はイモしか出ない状況で、
頻繁に凄まじい空襲を受け、さらには東南海地震では工場が倒壊して大勢が死亡、
戦後になんとか生還した同級生も栄養失調と空襲の恐怖で幽鬼のようになっており、
信州に帰ってきてから死んだ人も多かったそうです。

半死半生で帰ってきた友人に聞くと、飛行機工場に空襲があると学生が逃げないよう
守衛が門のカギを掛けてしまって、外に出れないようにしてしまうので、
逃げ場を失った同級生が大勢焼け死んだり爆死したり機銃掃射を浴びたそうです。

祖母は「要領の悪い私が軽井沢高女に行ってたら、間違いなく名古屋で死んでいた。
最も仲がいい友人が軽井沢高女を選んだので、本当は私も軽井沢に行きたかったが
父の友人の奨めで上田高女に行って今も生きている。頭が良くても、美人でも、
大きな商家のお嬢様でも、軽井沢に行った同級生はみんな死んでしまった。
全ては運命なのかなあ」と言っています。

852: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/27(金) 22:12:35.49 ID:Q7YTOWE30
大叔母の話

昭和17年春には「マックスファクターのマーナ化粧料が、どこで手に入るか???」が
母親達の話題だったらしいが、それが昭和18年には「お米をどうするか???」になり
昭和19年春には「疎開には何処が良いか?食糧事情が良くて、冬の寒さが厳しくない所・・・」
と変化していったらしい

大叔母の父親=木場の旦那 の友人連中が戦時中も続けていた俳句の会で
昭和18年頃、たまたま参加した老婦人の一句で、そのお宅は「非国民」と
判定されてしまい、在郷軍人が度々「説諭」に訪れ、その度に酒肴での
もてなしを強要され、泣くに泣けない辛い生活を送ったらしい
その一句が・・・
「モンペには できぬ御召を 土用干し」といった句だったらしい
廃物利用や不要物交換会が盛んだった時代に「浅ましい」と評価されたらしい

853: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/28(土) 13:26:59.18 ID:xfv/5f9L0
大叔母の話

季節外れの話題で失礼
節分の豆撒きについて、豆そのものを盛大に撒き散らすなんて事は
戦前には無かったと思うと・・・映画や芝居だけのものだと思うとも・・・
木場の実家では、煎った大豆を2個・3個と半紙に包んで、それを撒いたと・・・
撒き終わった後、家人や店の人間はそれを集め、2個・3個は手触りで判断できる為
それぞれの年齢に見合った数の半紙包みを別けあったと・それからは「体の不調がある部分」を
その半紙包みで撫でてから有りがたく食したと・・・
体の何処を撫でるかを、主人家族はさり気無く観察し、店の人間の健康状態を判断したらしい

855: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(火) 00:07:34.75 ID:pdZOOxbJ0
大叔母の話

戦前には一般の商店が「休む」というのは「珍しい事」で、年に二度の
薮入り・年賀の為の三が日を除いて、大概は営業していたと
ただ営業時間は短く、18時を過ぎて開いている店は「馬力のあるお店」と
判断されたらしい。それでも段々と「五の付く日は休業仕り候」などという
店が増えたらしい。これは昔から、店員の「お菜」に鶏肉か魚が付く日を
そのように設定していたようで、その流れで決まったのではないか?と言う
そのうち統制が厳しくなり、店員が徴兵されたりで、どちらのお店も開店休業
状態が続いたと

856: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(火) 00:32:16.25 ID:pdZOOxbJ0
大叔母の話

大叔母は紅茶が好きで、子供の頃から飲んでいたらしいが、疎開をした
昭和19年春頃にも「喫茶店」は営業していたと言う
ただ提供されるのは「薄い日本茶」程度で、食物の提供はされなかった
らしい。大叔母が勤務していた工場近所の喫茶店は、隣組等からの嫌がらせがあり
「隠れ営業」に近かったらしい
表向きは「時局柄を弁えた、会合等への場所提供」として、場所代をいただく
代わりに「日本茶・麦湯」を提供したそうだ。一時は買い置きしたコーヒー等も
提供したらしいが、香りが漏れた為警官が飛んできて「説諭」をされたらしい
ただ穏やかな老齢の警官だったらしく、コーヒーを飲みながらの世間話で許された
らしい。その後は「麦湯に少量のお砂糖」に切り替えたらしいが、お馴染みには
こっそり「薄く切った羊羹」なども提供したらしい。大叔母は自宅で「蜂蜜湯」を
飲む事ができた為、麦湯のみをいただき、砂糖は紙に包んで持ち帰ったらしい

本当に美味しい紅茶を飲めるようになったのは、昭和25年以降らしい

857: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(火) 00:55:55.12 ID:pdZOOxbJ0
大叔母の話

戦時中には数多くの不自由があったが、最も切なかったのは「靴」だったらしい
闇で手に入れる事はできても「履いて歩くには憚られた」為、故意に汚し中古を
装い履かなければならなかったと。配給は「工場に何足・学校に何足」という形式で
その他には「誉の家」と呼ばれた「名誉の戦死者の遺家族宅」の男子に「特別配給」が
有った程度らしい。それらは無料では無かったと。権利を得れば、誰もが無理をしてでも
購入し、食料に交換したと
それでも神戸在住の親類が「靖国神社参拝」に上京した際に「キッドのローヒール」を
履いていたのを見た時には、羨ましくてならなかったらしい。兵庫には皮革の生産地があり
皮革製の靴は、比較的手に入り易かったらしい

大叔母の下駄箱を見ると、もう手に入らない「鰐・蜥蜴・亀」の草履が何足も入っている
昭和40年代、勧められるままに購入し、さほど履かない内にすっかり流行遅れに
なっしまったといっている

蛇足
大叔父曰く「靴の数は女の数」だそうだ。靴を沢山持つ人間は「交際相手を
変えたがる」らしい。一足を履き潰す人間は「一穴主義の人間だ」と言う
大叔父を見ていると、まんざら嘘では無い様に思う

858: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(火) 12:48:55.64 ID:JTGnt9ZZ0
姫路あたりに皮の生産地で有名なのあるな
ちなみに田舎庶民は戦時中戦後もわらじを普通にはいてたそうな
ソースは親戚

都会だから靴はいてたのかのう

861: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(火) 20:48:27.60 ID:zIapNVDk0
京の着倒れ大阪の喰い倒れ神戸の履き倒れ・・・という言葉を聞いた事がある
多分「潤沢にあった」訳では無く、無理をすれば入手が可能だった・・・という程度の
話だと思う

以前大叔母から聞いた話で意外だったのは、戦時中には「針と糸」が不足していたと
針は品質が良くない物しか流通しておらず、糸も「スフ=ステープルファイバー?」の
物しか無く、繕い物は中途半端にしかできず、古着を解して糸を作ったと
針は製造に繊細な技術が必要だそうで、その昔は京都の土産に「みすや針」が定番だったらしく
嵩張らず軽い土産として、江戸の昔から「何よりの土産」という位置付けだったらしい
そんな貴重な針が折れようものなら、折れた先を探し出すのは当然の事として、そんな針でも
無理をして使ったらしい。それも難しくなってから、初めて「供出」に出したらしいが
糸穴が割れたものでも「欲しい」という人が居れば、差し上げて役立ててもらったらしい

863: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/02(水) 03:47:52.30 ID:snnGWITq0
スフはビスコースのほうでしょう

864: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/02(水) 11:35:51.26 ID:bNgbEsl40
化学的にはスフというのはビスコースレーヨンの事なんだが
慣習的に短繊維の事をスフと呼んでいるよ
縫い糸やミシン糸はフィラ(長繊維)じゃないとうまくいかない

862: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(火) 21:15:56.77 ID:zIapNVDk0
大叔母の話

昭和19年に疎開をして最も嬉しかったのは、食料事情の改善も然る事乍
入浴の回数を増やすことが出来た事らしい。火力は弱いながら、落ち葉や
枯れ草を拾い集め、風呂を立てたらしい。薪類は調理優先だったと

866: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/02(水) 22:12:57.07 ID:fqsrods3O
又聞きで当事者が不明な話です。
昔祖母さんの親戚が幼少の頃、外で遊んでたら近所の男の子達が一人の子をからかって泣かしていたらしい。
それを見た通り掛かりの老人がこっぴどく叱り付けたそうな。
祖母さんの親戚はあまりの恐さに物陰に隠れて見ていたそうです。
すると老人は祖母さんの親戚やその子達を集めて、
「友達とも、そうでない子とも仲良くしなさい、よく話しなさい」
と言って昆布のお菓子?(酢昆布?)を手渡して行ったんだって。
謎の老人とはそれっきり。
その老人の正体が分かったのは1932年に起こった五・一五事件の後。
その老人が殺されて、新聞で大々的に報じられた時気付いたんだと。
勘違いやら盛込みやらがあると思うけど興味深く聞いたのを思い出した。


引用元: ・爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話4





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