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1: 世界@名無史さん
決して脇役でもなく、辺境の蛮族でもなく、単なる軍事的要素でも
なかった、匈奴、鮮卑をはじめとする遊牧民たちにスポットを
あててみましょう。








2: 世界@名無史さん
匈奴が最大勢力を誇ったのは、漢の時代。
初めのころは漢も匈奴帝国の属国扱いだったとか

5: 世界@名無史さん
文章残してないから知らないよ

6: 世界@名無史さん
そう遊牧民って文章残さないから、本当の姿ってわかりにくいんですよね。

7: 世界@名無史さん
冒頓単于(ボクトツゼンウ)
完顔阿骨打(わんやんあぐだ)
愛新覚羅弩爾哈斉(アイシンギョロ・ヌルハチ)

8: 世界@名無史さん
秦と匈奴の関係はやっぱり秦>匈奴だったのかな?

11: 世界@名無史さん
>>8
オウセンやモウテンや白起が匈奴に遅れを取ると思うか?

12: 世界@名無史さん
匈奴が強くなったのは、やっぱり冒頓の時代からでしょう

13: 世界@名無史さん
冒頓単于は鳴鏑の逸話もあるように統率力抜群て感じですよね。
冒頓 単于

冒頓 単于(ぼくとつ ぜんう、生年不詳 - 紀元前174年)は、秦末~前漢前期にかけての匈奴の単于(在位:紀元前209年 - 紀元前174年)。

冒頓は紀元前209年に反乱を起こし、父、継母、異母弟及びその側近を抹殺した上で、単于に即位した。

クーデターに当たり、事前に冒頓は私兵を秘密裏に養成していた。私兵を率いて「自分が鏑矢を放ったらすぐさま同じ方向に矢を放て」と命令する。そして、まず野の獣を射た。矢を放たないものは斬り殺した。次いで自らの愛馬に向かって射た。同じく放たないものは斬り殺した。更に自分の愛妾を射て、同じく放たないものは斬り殺した。そして父の愛馬を射るときには全ての部下が矢を放った。こうして忠実な部下を得たのである。

そして父が通りかかった際にそこに向けて鏑矢を放ち、配下の私兵も大量の矢を浴びせ、これがクーデターの端緒となった。

15: 世界@名無史さん
秦より強いって事はないだろ。
趙の李牧にも惨敗しとるし。

16: 世界@名無史さん
秦があれほど短命でなければ、匈奴も帝国を作るまでになれただろうか

17: 世界@名無史さん
秦や趙の対匈奴の戦果は誇張だと思う。向こうが逃げたのを
「撃滅」と記録したとか。
匈奴の騎兵を補足して壊滅させられるほどの機動力が秦や趙にあるとは思えない。
後の統一された漢の時代ですら苦戦しているわけだし。

27: 世界@名無史さん
>>17
蒙テンや李牧は実際に功があったから昇進し、李牧にいたっては
君主が李牧の名声を恐れて濡れ衣まできせてまで処刑したのだが。

19: 世界@名無史さん
冒頓が匈奴をまとめたのと、秦の二世皇帝が即位したのが大体同じ頃だっけ

20: 世界@名無史さん
大体同じころじゃないかな。
冒頓が単于になったのが始皇帝も死の直後だったと思う
107: 世界@名無史さん
そもそも秦という国は、
純粋な農耕民からなる国家だったのか?
中原諸国からは蛮夷扱いされてたところを見ると、
後の金や元の先がけ、
匈奴にとっては先輩格だったんじゃないのか、とすら思えるんだが。
やつらこそ西戎に他ならないというか。

まあ、商オウ以降の秦は法家思想に則った中原風国家だったとは思うが、
他の諸国に比べて素朴で武断的な面が強いという特徴がある。

108: 怨霊 ◆NRtIkON8C2
>>107
秦の建国伝説には、牧畜(馬)に長けていたと言うことで周王に認められた、
という一節があります。

要するに、
 
>そもそも秦という国は、
>純粋な農耕民からなる国家だったのか?

の答えは「No」。

112: 世界@名無史さん
>>107-108
秦は西戎ではなくて北狄。

1)秦は建国当初から伝統的に周囲の「○戎」系の諸民族と対立関係
2)秦に対する侮蔑語は「秦戎」とでもいえばよさそうなのに実際には「秦狄」
3)秦と関係ありといわれる匈奴がそもそも西戎ではなくて北狄。

116: 世界@名無史さん
>>112
> 秦は西戎ではなくて北狄。

とはいえ、原住地は西や北の地方ではないらしい。

西周代嬴姓諸侯(徐・黄・穀など)の国は、淮水~漢水付近に集中している。
秦の部族(嬴姓)も原住地はこの辺だろうと推測されている。

さらに元をたどると山東の東夷か?という説もある。

秦の始祖伝説は「顓頊高陽氏の孫・女脩が玄鳥(燕)の卵を飲んで産んだのが
始祖・大業」てな話で、商の始祖・契の卵生説話に近い。

他にも秦には鳥にまつわる伝説が多く、東夷系の伝説と共通している。

117: 世界@名無史さん
どういう経緯か知らないが、西周・孝王の代には渭水上流・犬丘(現甘粛省)にいて、
そこで西戎とはずいぶんケンカした。周東遷後陜西に移ってからが諸侯としての秦。
西戎=羌とのケンカは続き、戦国期にようやく羌を陜西から甘粛・青海に追っ払った。

あまりはっきりはしないが、甘粛に来る途中、山西・汾水流域にいた形跡もある。
嬴姓諸族は汾水の神・臺駘(東夷系の神・少昊の孫とされる)の祭祀を持っていた。

山西にいるときに分かれたのが、趙の始祖・造父(西周・穆王の代)。
北狄とは山西にいるときに深い交流があったんでしょう

22: ◆uKVTjeIm9A
なんで清あたりの頃は、あんまり存在感がなかったのかね?

30: 世界@名無史さん
>>22
ロシアに押さえ込まれたとか。火器が兵器の主流になると、さすがに
騎馬軍団だけじゃどうしようもなくなるしね。

32: 世界@名無史さん
ロシアはマスケット銃とコサックでシベリアー沿海州ーアラスカー中央アジア
を征服したからなぁ。
モンゴル系の国々も全部壊滅した。
支配層は貴族になったけどne.
というか、ロシア皇帝は東に対してはハーンの称号ももっているしなぁ。
清ももっているから
ある意味、遊牧帝国の後継国が2国あるともいえる。

23: 世界@名無史さん
センピが分裂の三国時代に華北を得れなかったのは何故?
曹魏が強かったから?
それとも部同士で争ってたから?

28: 世界@名無史さん
>>23
曹氏の魏が強いんだと思う。
烏ガンが壊滅しているし、匈奴の一部にいたっては定住化政策まで
やっている。

29: 世界@名無史さん
魏武の強勢ここより始まる

31: 世界@名無史さん
烏丸や匈奴は当時弱体化してたから

33: 世界@名無史さん
於扶羅
劉豹
劉淵

36: 世界@名無史さん
禿髪烏孤
乞伏国仁
赫連勃勃
沮渠蒙遜

37: 世界@名無史さん
>>33-36
しかしこうして並ぶと字面だけで圧巻だね。
原語の発音でなんという名前だったのかは・・・もはや推測するしかないんでしょうな。
59: 世界@名無史さん
 
禿髪=拓跋 Tabgatch
乞伏 Kivugh
赫連勃勃 Ghoren Borbor
沮渠蒙遜 Tsugu Mengsun

なんていう推定があるよ。こうすると俄然北方民族っぽくなる。

64: 世界@名無史さん
>>59
ちなみに
頭曼 Deuman
冒頓 Baghdur
という推定があって、この辺から匈奴は
原トルコ・モンゴル系か?という説がある。

66: 世界@名無史さん
匈奴時代にトルコ系言語とモンゴル系言語が
どういう関係にあったのか(また確立していたのか)
わからない。
ただDeumanもBaghdurも両言語に共通する
単語らしいよ。

Baghdurは延々受け継がれて、現モンゴル語の
「バートル」、それからムガル帝国最後の
皇帝の名「バハドゥル・シャー2世」まで
続いてるのを見ると感慨深いね。


41: 世界@名無史さん
夏王朝の始祖も、甘粛関の西から中原に入ってきた羊飼の猟民だから、
もともと、チャイニーズは遊牧民だな。

46: 世界@名無史さん
夏は長江文明の良渚文化の移民、商(殷)は狩猟民のテキ(ツングース系?)
周はチベット系遊牧民のキョウ。

47: 世界@名無史さん
「タングート=羌」ですよね?
明代以降の西夏遺民の消息がよくわかりません。
タングート

タングート(Tangut)は、7世紀~13世紀ごろに中国西北の四川省北部・青海省などに存在したチベット系民族である。11世紀初めに西夏を建てた。タングートの前身は羌である。
同時に、中国語表記で唐兀とも表記され、モンゴル化したテュルク民族とする説もある。

61: 世界@名無史さん
>47
> 明代以降の西夏遺民の消息がよくわかりません。


チベット人は「タングート」を「ミニャク」と呼んでいて、現・四川省西部
(チベットで言うところの「カム」)にその末裔がたくさんいる。「ミニヤ
コンガ」なんていう山は「タングートの白い峰」という意味だ。

現在は「チベット人(蔵族)」に区分されていて「チベット語」も話すけど、
その他に「ギャロン(ヂャロン)語」「アールゴン語」なんかの羌系
言語も話す。

西夏滅亡後、ここに流れたタングートもかなりいるらしいよ。実は
「西夏のタングート」もこの辺が原郷で、「王国滅亡後故地に戻った
だけ」という説もある。

62: 世界@名無史さん
それから西夏貴族の中にはチベット各地に流れ着いて豪族として
活躍した連中もいる。もう完全にチベット化したけど、それでも
「先祖はミニャク」と名乗っていた。

シッキムの王家も「ミニャク」だったよ。はるばる西夏から流れた
のか東チベットから来たのかはよく知らないけど。

ただ西夏滅亡後、現地に残ったタングートの多くは周辺民族に
同化してしまったんだろうね。

57: 世界@名無史さん
>>47
タングート(党項)は鮮卑族拓跋部の末裔とも言われています。

63: 世界@名無史さん
>>57
> タングート(党項)は鮮卑族拓跋部の末裔とも言われています。

西夏王家の祖先は鮮卑拓跋部を名乗っていたから、王家は鮮卑
出身だった可能性もある。が、箔をつけつため拓跋姓を名乗ったと
いう説もあるよ。

ただ領民は羌系民族が多かったんじゃない?(だいぶいろんな
民族が混血していたろうが)。鮮卑語がわからないから、西夏語に
鮮卑の要素がどれほどあるか不明だけど、今のところは羌系言語
との共通性が多く指摘されているよ。

60: 世界@名無史さん
>>47
>「タングート=羌」ですよね?


「羌」という民族は長い歴史があって、その概念も時代ごとに
変化しているが、まあ「10世紀頃のタングート」と「現在の羌」が
近縁の民族であるのは間違いない。

「タングート=羌系民族の一派」とした方が誤解が少ないだろうね。

48: 世界@名無史さん
羌(チャン)族が青海省に現存しますね。
現存する言語の中では羌語が西夏語に最も近いとのこと。

53: 世界@名無史さん
チベット系も忘れられがちですが
中原を脅かしてきた遊牧民ですな。
吐蕃のころが最盛期だったなあ・・・

58: 世界@名無史さん
こないだ現代中国の紳士録見てたら
「拓跋」姓が今もいるのね・・ビクーリ
末裔かは分からないけれど。

79: 世界@名無史さん
ツングース系で最古の記録といわれる「東胡」については
あまり分かっていないのでしょうか?

東胡

東胡(とうこ)は、中国の春秋戦国時代から秦代にかけて内モンゴル東部~満州西部に住んでいた遊牧民族。

はっきりした事は解らないものの、殷晩期に遼西で栄えた夏家店下層文化を征服して断続的に入れ替わった遊牧生活を営んでいた集団のうち、故地に残留した部族が東胡の祖先に当たるとする説などがある。他には上記の夏家店上層文化に属する墳墓から一緒に埋葬された犬が見つかった(烏丸の習俗)ことと頭頂部を剃る習慣から、同地域にあった土方や後の周代に在った屠何を東胡の先祖とする説、春秋時代に燕の北方に居た山戎などの遊牧民を戦国時代以降に東胡と呼ぶようになったとする説などがある。


80: 世界@名無史さん
>>79
冒頓単于が匈奴帝国を出現させるまでは、東の「東胡」と西の「月氏」が2大勢力。
古くは「屠何」とか「無終」という種族(または都市名?)が南満州方面にみえ、これが東胡の前身とする説もある。
のちに匈奴に服属してからは「烏丸(=烏桓)」とよばれる。
(東胡はのちに烏丸と鮮卑にわかれたことになっているが、鮮卑の起源についてはやや疑問視する説がある)

ちなみに「東胡」がツングースだというのはめちゃくちゃ古い大昔の説で、
今ではモンゴル系と考えられているかと。

97: 世界@名無史さん
柔然/蠕蠕って存在感ないね~。

113: 世界@名無史さん
古代の華北には広大な原生林が広がっていたらしい。
それが開墾と鉄器の普及による乱伐でどんどん失われていき秦漢時代にはほとんど消滅してしまったそうな。この森林破壊のスピードと北方遊牧民の脅威の度合いが妙に比例するように思うのはど素人丸出しかな。
春秋から戦国前期あたりまでは北方遊牧民が中華世界を脅かす大勢力という感じはあまり受けないが
秦代にはもう匈奴の圧迫が重圧となってのしかかっている。
「森が消えて田畑や草原に変わり、騎馬軍団がスイスイ侵入して来れるようになった」という
厨房チックな考えがどうも浮かんでしまうんだけど、そういう研究はないのかな。
教えてエロい人

119: 世界@名無史さん
>>113
スキタイやアヴァールはポーランド南部まで侵入してたよ。
森はあんまり関係無いっぽい。

120: 世界@名無史さん
たとえば講談社学術文庫の「魏晋南北朝」では、冒頭で中国の北部を
「見通しのよい平原が広がるオープンランド」とし、南部を「森林が
多くて動きにくいフォレストランド」としている。

当然、騎馬民族はオープンランドの方が動きやすい。実際、モンゴル人
が南宋を滅ぼすまで、純然たる異民族王朝が大陸を統一することは
できなかった。

125: 世界@名無史さん
>>120
その点はヨーロッパも似たような地相、モンゴルがポーランドから先には
一気に突進できなかたのは、森林や山脈に阻まれ、騎兵の運用に難があったため。
ウルス内部の事情もあって引き返したとばかりも言えないものがある。

130: 世界@名無史さん
>>125
そう考えるとフン族はすごいよな

132: 世界@名無史さん
>>130
フン族はヨーロッパでは歩兵中心で戦ってたって何かで読んだ。
やっぱり馬群を維持できないらしい。

140: 世界@名無史さん
遊牧民はあまり森林地帯を征服したいとは欲しなかったのでしょうか。
狩猟や木材調達の場としては必要だったろうけど、優先順位としては農耕地より後回しだった感も。

147: 世界@名無史さん
>>140に関連したことなんだが、中国近辺の遊牧民族は北の狩猟民と毛皮の取引などはしなかったのだろうか?

148: 世界@名無史さん
>>147
いやしてるだろ。
中国に入ってきた毛皮の殆どはそのコースだと思うよ

149: 世界@名無史さん
>>140 >>147
当然しただろうけど、それよりも食い物(穀物・野菜)の方が重要。
だから交易にしても略奪にしても南に向かうことが多いのは当たり前。

141: 世界@名無史さん
支配を維持するのも難しいしね。
森林地帯を領土として重要視するのは開墾できる農地として、あるいは交易ルートとして
欠かせないと見なしたときくらいかもね。

155: 世界@名無史さん
まだ登場していないので振ってみるとしよう。
チベット高原のヤク遊牧民は未出だよね。
一時は五胡十六国の一角に食い込んだり、唐代に長安を奪ったりと元気だったんだがなあ・・・

156: 世界@名無史さん
>>155
>チベット高原のヤク遊牧民は未出だよね。
>一時は五胡十六国の一角に食い込んだり、


「五胡」の中の氐族とは違うの?

159: 世界@名無史さん
>>156
確かそうじゃなかったっけ。

160: 世界@名無史さん
氐族であれば、>>155が言うように、

>一時は五胡十六国の一角に食い込んだり、

なんてもんじゃないですよ。
一時期華北を統一した前秦の符堅は氐族です。
漢人宰相・王猛ら群臣の反対を押し切って東晋に攻め込み、大敗して滅亡したけどね。
苻 堅

苻 堅(ふ けん)は、五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝(大秦天王)。

漢人の王猛を重用して華北統一に成功し、前秦の全盛期を築く。中国統一を目指したが、大軍を南下させたところを淝水の戦いで大敗し、以後諸部族が反乱・自立して前秦は衰退して苻堅もかつての部下姚萇に殺害され、前秦は実質的に滅亡した。


162: 世界@名無史さん
漢代以前の羌はチベット系だって話だけど、「チベット系」の定義は何?
羊+人で羊を飼ってる牧畜民族かなと思ったが、漢人でも羊は飼ってたよね。
言語が違うってことかもしれないが、吐蕃以前にも羌語と漢語の区別ははっきりと存在したのかな。
ちなみに姜姓は羌だと言うけど、斉の王家も「チベット系」ってことか?
姜姓は姫姓の周王家との姻族関係を歴代結んでいたし、周も羌の同族みたいなものか。
とすれば漢人も羌人ももとはたいして違いがないと言うこと?
殷はツングース系だとか。時代は下って唐の王室もタクバツ系の血統だとか。
なのに何で漢民族は周辺民族を夷狄視したがるのかな?
「中華思想」とかいう言葉で判断停止しないでつっこんで考えてみる必要あるかもね。

165: 世界@名無史さん
>>162
>なのに何で漢民族は周辺民族を夷狄視したがるのかな?

そりゃあ、何度も苦しめられてるからでしょ?
侵略目的の場合や、ただの略奪目的だけの場合でも頻繁に侵入されてるから。

166: 世界@名無史さん
前にもあったと思いますが、漢民族が遊牧民族を夷狄視だと言う考えるのは当然かも知れません。
なぜなら、遊牧民族が文化的水準が低かったという点と、中国国境での略奪、侵略があったという点です。
とくに、周辺に強大な農耕を主とした王朝が存在しなかったからではないでしょうか。
言葉は悪いですが「お山の大将」だったのです。
話はずれますが、遊牧民族は強いですから、飴玉をやって我慢してもらっていたのです。
もちろんそうでもしないと大打撃を受けますから。それで、漢民族の一種思い込みともいえるものが形成されていったのでしょう。
現に、清帝国の時、アヘン戦争があったとき、イギリスを夷狄視しているのです。
あの強国にここでも飴玉を何回かやっているのです。最終的に思い込みだと気づいてしまうのですが。

168: 名無しさん@そうだ選挙に行こう
>>166
イギリスを夷狄視した清自身が漢民族出身ではなかったというのも皮肉ですね。
清自身が漢民族の価値観に取り込まれてしまったのか。

まあ、イギリスの国力がどのようなものか、
その情報が中原のど真ん中にすら無かった
状況ではいたしかたないとも言えるけど。

169: 世界@名無史さん
>>168
それもそうですよね。モンゴル民族(元)の例外を除けば、
知っている限り中国に侵入し征服王朝を立てている民族は悉く漢化していますよね。
それだけ漢民族の文化が魅力的だったのかも知れませんね。

170: 世界@名無史さん
↑「漢民族の文化」ではなくて「中華文明」なのでは。

171: 世界@名無史さん
>>170
全くそのとおり「中華文明」の方が適切ですね。

174: 世界@名無史さん
中国の歴史は繰り返されていると仮定すると
統一帝国→混乱→南北分断とする
・秦漢帝国→三国~五胡→南北朝
は、わかりやすい
・隋唐帝国→五代十国→遼/金と北宋/南宋
北方と漢族国家による中国分断ね
・元帝国→元末の混乱→タタール/オイラートと明帝国
これも上記同様
・清帝国→軍閥支配/日中戦争→中共とモンゴル国
といった流れで…
南北分断期の「北側」は
華北全域→燕雲十六州等→長城より北→漠北
だんだん南側が大きくなっている

186: 世界@名無史さん
チベットも長安を乗っ取った吐蕃の頃は凄い勢いだったのになあ・・・

187: 世界@名無史さん
>>186
やっぱ、仏教に凝ったから?

188: 世界@名無史さん
>>188
でもジュンガルのガルダンは元ラマ教の坊さんだけど
中央アジアからモンゴルにまたがる大帝国作ったしなー。

191: 世界@名無史さん
匈奴=スキタイというのはほんとですか?
ヘロドトスの描写したスキタイの風習と、司馬遷の描写した匈奴の
風習がほとんど同じだそうで。

192: 世界@名無史さん
>>191
匈奴はスキタイではありません。そういう説もないです。
遊牧民の風習が似てるのは匈奴とスキタイに限りません。

198: 世界@名無史さん
>>192
ノインウラ出土の匈奴の刺繍などは
典型的スキタイ文様として紹介されている文献もあるのだが。
2行目には同意するがな。

199: 世界@名無史さん
遊牧民の集団なんてアメーバみたいなもので、どこまでが匈奴、
どこまでがスキタイとか明確に分けられるものじゃない。
飢饉になれば部族は四散するし、強力な指導者が出ればあっという間に
そこらじゅうの集団が次から次に帰参して一瞬で大帝国の出来上がり。

匈奴やスキタイといっても、はっきりその名が通用するのは
心臓部の一部集団だけだろう。他の連中は見方次第でどうとでも見なせる。

200: 世界@名無史さん
烏桓の一派「使鹿部」ってトナカイ遊牧民のことなんですか?

201: 世界@名無史さん
>>200
そんなサンタさんみたような遊牧民族が居て溜まるかいな!!
するってえとあれかい?禿髪族は全員ハゲだったのか?

204: 自転車小僧 ◆IBmI/K76EY
>>201
今もシベリアに居るヤクート族はトナカイ遊牧民です。
契丹、西夏、女真などなど頭髪を剃る習俗のあった集団は多い。

211: 世界@名無史さん
>>204
ヤクートは牛馬を主要な家畜としていた。1917年の統計によれば、
ヤクーツク南部の住民一戸当り所有家畜の平均頭数は、牛9、3頭で
馬は2,4頭であり北部のそれは、牛5、5頭で馬4、9頭となる。
ロシアの他の地方の馬において2倍、牛において5倍に当るという。
尚、1933年以前のヤクート住民は八割以上がヤクート人。
冬季の為乾草の刈入れが重要で、純遊牧と異なり半農半牧的、
牛の多い所以も農耕の役畜、農作業の運搬用荷車に使う。

217: 世界@名無史さん
>>211
ヤクーツク一帯で農耕というとどんな作物を作っていたのでしょうか。
牛馬飼養・農耕はロシア人との接触以前からの生業なのでしょうか?
半地下式の家畜小屋を見たことがあるので定住性の高い生活だったのでしょうか。

218: 世界@名無史さん
>>217
牛馬飼育・農耕はロシア人との接触でパンを食す等の影響はあるが、
ヤクートの作物は勉強不足で、申し訳ありませんが分かりません。
しかし、ヤクートが馬乳酒を飲む習慣はロシア的ではないと思います。

ヤクートの原住地の問題は其の伝承でキルギスの逃亡者、ブリヤートに
あって自己の氏族に不平を懐き、新天地を求めた移住者であった事や
遺跡においてバイカル地方とヤクートの鉄器類の類似、バイカル地方は
半農半牧で住居址は土屋と洞窟で固定住居を有したことが窺われる事
等から、バイカル湖畔のブリヤートの土地であろう。すなわち「牛馬、
馬乳酒(クミズ)の祭りや製法を北方に将来した」とはいえるでしょう。

北部ヤクートは、その住地が農業不可能な凍土地帯の為漁猟を主業とし、
家畜には牛馬のほかトナカイもあるが、類接民族のエヴェンキと
比較しても牛馬の重要性が際立っていると思います。

205: 世界@名無史さん
中国の史書にも時おり登場するトゥバやハカス(トルコ系)、
エベンキ(ツングース系)などもトナカイ遊牧を営む集団がいますね。
草原地帯=ウマ、北のタイガ=トナカイ、といった感じなのかな。

206: 世界@名無史さん
チベットのヤク遊牧も忘れないでけろ~
ヤクの家畜化はやはりウシやウマの応用で野生種を飼い馴らし始めたのだろうか。
今でも野生種はいるそうだし、比較的家畜としての歴史は浅いほうなのかな。

209: 世界@名無史さん
女真族はかなり古くからブタを飼育していたようだけど、これは
中原からの影響?
紅山文化のころにイノシシの骨が出てくるそうだが独自に家畜化されたのだろうか。

211: 世界@名無史さん
>>209
女真以前の靺鞨や挹婁、モンゴル系の室韋等も豚を多く飼育していた。
紅山文化より後の、青銅器期に遼河流域の夏家店文化から、
松花江流域の西団山文化、沿海州アムール地方のポリツエ文化に
至るまで豚飼育をしている。


引用元: ・中国史における遊牧民の歴史






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