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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/11(日) 12:07:15 ID:Ny0Tf2Xj
語れ








3: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/11(日) 12:08:30 ID:rxEbHwiO
成田の離反が無ければ、謙信の関東征伐は成功してたのかな。

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/11(日) 12:14:56 ID:xjc9e77V
微妙、離反がなくても北条の領国統治システムは優れていたし
謙信は長期遠征による負担というアキレス腱を抱えたまま

多少は楽になった程度ではあるまいか?

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/11(日) 15:28:12 ID:T+G37EEn
【北条vs上杉】河越の夜戦は本当にあったのか?

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/12(月) 00:30:24 ID:KrSW+uno
>>8
なかった説ってあるの?

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/12(月) 09:47:17 ID:A7HKP9Ef
>>9
「夜戦」が無かったという説はある。
もう少し言えば、河越夜戦があったという証拠がほとんど無い。

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/13(火) 15:48:27 ID:Z5zNBcTp
兵力は詳しくないのでなんともいえないし、誇張多いしね

>>10
夜戦があった証拠
内容は知らないが、「太田資武状」「上杉憲政書状」「行伝寺過去帳」等があるそうだ

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/13(火) 21:35:52 ID:8pSrKMiQ
>>18
ああ、知らないようだから補足しておくね。
北条氏綱が河越奪取に前後して扇谷勢を夜襲で撃破したことがある。
行伝寺過去帳はその記述は天文六年の夏頃、
天文十五年の、氏康の河越夜戦の記述ではない。
同様に太田資頼は天文10年に亡くなっているので、彼が関わったのは必然的に氏綱の河越合戦。

上杉憲政書状では、河越で合戦があったことの証明にはなっても夜戦であった証明にはならない。
そもそも伝わっているような大戦の割には確認されている感状が上杉側の二通のみ、というのも疑惑の種にもなっている。

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/13(火) 21:48:49 ID:8pSrKMiQ
まあ要するに

1:扇谷上杉と北条が(同じ対戦相手が)
2:天文年間に(同じ元号で)
3:河越を巡って戦い(同じ場所で)
4:北条が(同じ勝者)
5:夜戦で勝利した(同じ勝因。ただし氏綱のは史実、氏康のは史実か?)

ので、紛らわしいといえば紛らわしいよね。
これらをまず念頭に置いた方が良いみたいだよ。

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/15(木) 12:09:04 ID:pXsZtosG

「行伝寺過去帳」の件
「川越一戦討死弐千八百廿余人天文十五年丙牛四月」もあります
ただし夜とは記述がないですね

いろいろ見てみましたが、一つの大きな戦いなのか、
何年にもわたる幾度の戦いが、合わさり一つの戦として軍記物に記載されたのか、諸説あるようですね

扇谷が滅亡し、山内も滅亡一歩手前
一度の戦で、出来すぎといえばそう感じないこともないですね

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/12(月) 22:18:54 ID:4C94u50R
あの兵力差はありえないな。
8万も動員できるわけがない。

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/12(月) 22:25:40 ID:30X5cdji
両上杉+古河公方だけなら、最大動員で四万くらい、妥当な線で二万前後くらいかと。
さすがに八万はあり得ない。

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/12(月) 22:29:10 ID:4C94u50R
謙信も8万くらい動員してたけど、あれも誇張なのかな。

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/13(火) 11:01:29 ID:X14+2Br2
>>13
謙信の場合は佐竹辺りも参陣していることを考慮に入れてみると、
五万くらいは集まっていたかもな。

万石あたり400人動員すれば、八万に届くかもしれん。

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/13(火) 00:43:20 ID:N/OwBVfT
えーと旧参謀本部によると一万石あたり250人前後の動員能力があったと考えられるから
80000÷250=320万石

誇張臭いかもしれません・・・

16: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/13(火) 15:09:39 ID:Tu0aG4W2
永禄3~4年の謙信・関東連合軍は、11万5000が公式発表(上杉家御年譜)
根拠になっているのは「関東幕注文」(原本が上杉文書に残っている)で、
関東255将(永禄3年なので、那須・佐竹は未掲載)となっている文書だ。

武州衆(埼玉)は、
成田下総守(長泰)以下、親類同心14名、ほか3名
羽生衆が13名、岩附衆が太田美濃守(資正)以下14名
勝沼衆(青梅)が6名といったところか。

これが永禄8年の「関東衆軍役覚」(謙信公御書集)になると、総勢19家2510騎、騎馬1に対して雑兵10で、2万5000?
成田長泰200騎、太田三楽斎100騎、房州衆500騎、佐竹200騎、宇都宮200騎など。

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/13(火) 15:14:39 ID:YdylkTzG
戦国期、最大動員兵力は七人役と言われている。
一万石あたり七百人。
これはあくまで防衛戦に限る動員可能人数らしい。
関ケ原時の上杉の動員計画で行なわれかけた。(それでも多数の浪人衆を集めてるが)
これを越える動員をやったのが、関ケ原時の黒田氏。
(大金はたいて集めた。)

25: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/17(土) 17:14:49 ID:D0NaUdfd
三大夜戦(厳島、河越、桶狭間)というのはいつから言われてたんだろう?

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/19(月) 14:38:54 ID:9PTVnzhY
>>25
不思議だよね、特に桶狭間は昼過ぎの戦だよね
三大急襲戦ならわかるけど

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/20(火) 11:22:00 ID:YqF7QtWp
>>25
頼山陽という話もあるが?だ

第一川越近辺ではそういう言い方をしても、広島や愛知でそういう使い方してないんじゃ
そこらにヒントがあるような

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/20(火) 20:23:46 ID:jCCeNaMx
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/yasen2.html
※リンク切れ

このページの一番下のほうに何やら色々出とります。

どうやら歴史読本745では、頼山陽の説として日本三大合戦の一つと扱われているとのこと。
この方の持っているその他の資料には、三大夜戦なり合戦なりと呼ばれる根拠は示されていないそうです。

31: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/21(水) 14:19:32 ID:Z6XlPt5e
ところで三楽斎ってみなさんどう思います?
道灌と比べてどうなんだろう
太田資正

1522-1591 戦国-織豊時代の武将。
大永(たいえい)2年生まれ。太田資頼の子。太田道灌の曾孫。扇谷上杉氏の重臣。

武蔵(むさし)岩槻(いわつき)城城主となるが,永禄7年北条氏との戦いで城をうしなう。のち佐竹義重に属し,常陸(ひたち)片野城を拠点に武蔵奪回をはかった。天正19年9月8日死去。70歳。号は道誉,三楽斎。



32: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/21(水) 14:50:58 ID:6XnfXCYC
戦国のトップブリーダーって印象が強すぎ。

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/21(水) 15:02:48 ID:Z6XlPt5e
確かに扇谷、ひいては山内を支えていた人物ではある、道灌
でもあそこで殺されて、そのあと旧勢力の没落が始まるから、評価をより高めているような気も

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/21(水) 19:00:15 ID:8NYLPft8
資正は長野業正とともに関東の武将で一番好きなんですけど、
業正と比べると全体的に一回り小さい気がしますね。残念ながら。
太閤Ⅴで忍犬の術の秘技を持ってるのは(;´Д`)ハァハァですよ。
で、塚原卜伝門下で香取神道流の使い手の成田長泰は、
何の特徴もないただの凡将に設定されてるのがちと寂しい。

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/23(金) 22:19:23 ID:DKXdho8D
>>35
業正は猛将だな
上野は彼でもっていたようなもの

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/22(木) 15:24:45 ID:owu5lGr8
没落しかけた名家の割には活躍したと思う、三楽斎

岩付と松山を基盤とした北条への抵抗
嫡子氏資の岩付乗っ取り後は、常陸片野城に移り、あくまでも北条方と戦う
一途なのよね、結構

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/24(土) 15:44:54 ID:lctMQ835
東上野:箕輪長野
西上野:金山由良

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/24(土) 21:42:07 ID:+zBMvJOa
西が長野で東が由良じゃないの?
つか由良は謙信を激怒させてるが怖くなかったのかな?
佐野などもそうだけど反旗を翻しても北条はロクに支援してくれないだろうに。
それどころか佐竹・宇都宮勢まで来襲してくるわで得な事は一つもないだろうに。
そんだけ利根川以北にも北条の圧力が強かったのかな?
太田や里見などと共闘した方がいいような気がするがなぁ。

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/24(土) 23:18:48 ID:fBwoGwZh
いや、そうでもないと思う。
謙信との決戦こそ避けているが、対陣は頻繁に起きているみたいだし。
あと頼りないという点では北条<上杉なのは確定だろ、詳細は省くが。
また謙信が越山してくるのが期間限定なので、
四六時中領国を接している北条の方が良くも悪くも気にかかる存在だろうしな。

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/26(月) 15:39:09 ID:N5ClZGxM
謙信の越山って、動けば強烈だけど、なかなか来ないところがミソ
少しづつあてにするものが少なくなる
北条は逆に少しずつ勢力を広げる
でも越山あれば掌を返すのも多いし
また謙信は許しちゃうんだよね

47: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/06/26(月) 17:30:48 ID:kXznXXJa
謙信の越山は台風みたいなものだからな。
自然現象を当てにしていてはまともな戦略を立てられないよね。
北条側も慣れたのか、後年になればなるほど越山の脅威は薄れてるのがなんとも哀れ。
特に杉山城及び関宿城後詰めの失敗は謙信と反北条諸将にとっての致命打になったな。

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/04(火) 15:40:21 ID:3Xi8BDOk
実際地元では誰が著名or人気なのかな?

56: 公孫参 投稿日:2006/07/04(火) 16:23:49 ID:DcIDMQlJ
さあ…太田道灌?

57: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/05(水) 00:07:55 ID:on9Bz7tn
他県の人でも分かるだろうけど、全県的に人気も知名度もある人物っていないね。
道灌は埼玉に重畳の縁があっても郷土の英雄と呼ぶには無理があるし、
強いてあげればやはり源平期の熊谷直実か畠山重忠、まあ直実かな。

59: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/06(木) 16:42:53 ID:KojK1AQ9
>>57
やはり鎌倉に近すぎる地勢がそうさせるのかな
道灌は江戸~ってイメージが強いし
河越の扇谷も岩付の太田もそう長い期間でなく、いなくなちゃったし
江戸期は江戸と近すぎるし

60: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/06(木) 18:41:21 ID:64O201aH
行田の成田甲斐姫は?
お酒の銘柄にもなってたと思うが。
甲斐姫

甲斐姫(かいひめ、元亀3年(1572年)- 没年不詳)は、安土桃山時代の女性。忍城城主・成田氏長の長女。豊臣秀吉の側室。

天正18年(1590年)の小田原征伐の際、父・氏長が小田原城に詰めたため留守となった忍城を一族郎党と共に預かり、豊臣軍が城に侵攻した際には武勇を発揮して城を守りぬいたと伝えられてい。


61: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/06(木) 21:54:44 ID:oOnrVyKo
>>60
地元の奴以外は、まず知らないんじゃないかな?>甲斐姫
十万石饅頭で有名な、ふくさやからも甲斐姫のもなか出てるんだがw

63: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/07(金) 15:39:32 ID:4/7hER/w
甲斐姫の話って、どこからどこまでが本当なの?
教えて地元の詳しい人

65: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/07(金) 21:58:49 ID:eXGpLSMl
>>63
大体「成田記」自体が江戸時代に書かれたものだからなあ・・・
他の事実と照らし合わせて推察するより手がない
まあ大なり小なり他の大名家でも誇張や拡大解釈はあるものだからな
話半分程度に思っておけばいいんじゃないだろうか?

69: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/10(月) 18:53:52 ID:+mUrN3dS
成田記以外のソースってあるの?
関八州古戦録に出てるのは甲斐姫の継母だし

70: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/10(月) 19:08:38 ID:b0sJklux
>>69

その後の消息として、秀吉の側室(秀頼の乳母・成田殿)になり、
秀頼の娘を庇護して東慶寺(鎌倉)に下向した。醍醐の花見の側室席順に
「かい」とあるのが甲斐姫らしい。

77: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/17(月) 02:20:47 ID:N72J+foi
>>70
「かい」の名が醍醐の花見に名のあることは知ってるけど、
東慶寺に下向したというのは初耳だ。
天秀尼の母が成田氏と伝わっている(甲斐姫とはまた別という)ことからの
何となーくのこじつけじゃないのか。

史板や三戦板には甲斐姫ハァハァな姫武将ヲタが多いけど、

80: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/19(水) 21:24:16 ID:uzDp78mQ
>天秀尼の母が成田氏と伝わっている

これが誤伝。成田殿と「かい」は史料的には同じと考えられ
甲斐姫が秀頼の乳母になった史実から、成田殿が天秀尼の養育→母
秀頼の側室となったと思われ。よくある混同。秀頼と甲斐姫は年が
離れすぎ。

123: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日:2006/09/04(月) 03:35:19 ID:XaRZBwCE
>>80
根拠はどこかにあるのでしょうか?
年が離れ過ぎたケースは、例えば、
室町幕府の8代足利将軍義政は、
乳母であった今参局を寵愛して子供作っています。

ちなみに「天秀尼の母は成田氏」で、
その成田氏は「成田助直の娘」とあるのですが。
助直って、誰でしょう。成田一族の初期には「助」の字の付く人多いようですが。
どなたかご存じないですか?

126: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/04(月) 23:44:21 ID:Oz2b00jI
>>123
>>80の言うとおりでだいたいあってると思うけど?

知られている甲斐姫の逸話は江戸時代になって書かれたもの、
ということはご存じだろうか?
豊臣家に入ってからの甲斐姫の消息は確実な文献に残っていない。
醍醐の花見でこれは甲斐姫か?という名が残るくらいだ。
また東慶寺にも天秀尼の母が甲斐姫という文献どころか伝承も無い。

最近は甲斐姫が昔より脚光を浴びてるせいで、
秀頼の愛も受けたなんて適当なことを言い出す人がいるのだろう。

128: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日:2006/09/05(火) 00:41:30 ID:Zc1gUDLx
>>126
成田記などが江戸時代になってから書かれた、
フィクション性の高い文書ということは充分存じております。
甲斐姫が秀頼の子を産んだか否かということに関して、
年齢が離れているだけでは根拠にはならないと思い(私も別人とは思いますが)、
では「成田助直」とは何者か、を知りたいと思っているのです。
それから「関八州……」の資料には、甲斐姫が登場するよりも
継母が主に忍城を守ったように書かれているのでしょうか。
かなり以前に読んだ新聞記事には忍城は妻が守った城のように書かれていて
記憶に残っております。

71: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/10(月) 20:05:32 ID:tQlHhtka
甲斐姫の継母って太田三楽斎の娘だよね?確か?

72: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/10(月) 21:18:15 ID:hsZNh6SG
甲斐姫の母は横瀬成繁の娘
室は三楽斎の娘だけど
継室なのかな?

74: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/11(火) 15:06:04 ID:4dpuw5or
三楽斎の娘は義重の側室だね

正室は伊達晴宗の娘、義宣、盛重等の母

132: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/10(日) 09:50:00 ID:ojSt+LaE
成田甲斐姫の件
とりあえず、行田忍城の資料館では甲斐姫関連の史料・研究論文等は
行田商工会議所発行(非売品)の小冊子以上はなかったです。女性の学芸員に聞いてみたが、
まるで要領を得ず。忍城の研究自体が江戸期忍城を対象にしたものだったし。
行田市史・埼玉県史はこれから取り組んでみます。
みなさんの調査、検証に期待します。わたしも続けますが・・・・。

133: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日:2006/09/10(日) 11:52:35 ID:FYmY9SHW
>>132
ありがとうございます。
そうなんですよね。現地にやみくもに行っても、
あんがいたいしたことしか分からないこと多いんです。
訊きたい件にくわしい学芸員が、お休みの時もありますし
取材に行くときは、必ず先に電話します。
電話でかなり分かることもありますし、行かなくとも
向こうから資料を送ってくださることもあるんです。
非売品だったり、借りられない資料など親切なときにはコピーして
送ってくださるときも多いです。ありがたいです。
調べたいところが近ければよいのですが、今回私は関西ですので、
このスレのみなさんの知識やご協力をあおいだのでした。

137: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/20(水) 01:14:45 ID:sXhAxNu8
女武者から天下人の側室というのは人々の興味をそそるに充分だし
甲斐姫については江戸期の創作がかなーり入ってるだろうな。

561: 人間七七四年 投稿日:2011/07/31(日) 13:25:46.53 ID:VdevANNK
>>55
武田氏が滅亡して一益が上州へはいると、上州や武蔵どころか、奥羽の連中も信長の上意を
意識している状況なっているし、関東でも宇都宮、皆川、上総武田などに出仕を求めている状況にくわえ、
一益の裁定によって小山秀綱が祇園城復帰を果たしている(そしてそれに北条も佐竹も従わざるを得ない)ことを
考えれば、太田父子が一益のところに伺候して「直参」となるのを望むメリットは大きいだろう。
79: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/19(水) 19:55:07 ID:kmd/Tkpd
戦国時代埼玉は行田地方は忍城の成田氏。寄居には鉢形城に北条氏邦がいました。
深谷あたりは上杉の武将がいたこともあるみたい

82: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/20(木) 00:44:48 ID:1MEMocjh
>>79
太田氏房のこともたまには思い出してください

83: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/20(木) 11:14:18 ID:9OYjOJEo
常陸の三楽斎は認めなかっただろうね=太田氏房

84: 公孫参 投稿日:2006/07/20(木) 16:26:23 ID:UOvUHhK8
氏邦も藤田家継いでるし、北条はうまいことやってるよな

85: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/20(木) 19:44:07 ID:TrSK3iWk
氏照るが継いですぐ捨てられた大石家の悲惨さについて

86: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/20(木) 20:15:27 ID:djycgZPs
>>85
定久の実子定仲は八王子千人同心になったから
ましなんじゃ

87: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/23(日) 13:13:48 ID:CIfsV1gh
氏房って氏資の養子だっけ?

88: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/23(日) 18:50:41 ID:Lhwb/N3V
>>87
娘を娶ったのは氏資の死後らしいぞ

89: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/24(月) 00:25:44 ID:GkRz+ZSx
>>88
氏資は確か北条に寝返って資正を追放した後は討ち死にさせられてるよな

90: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/24(月) 13:12:50 ID:qsgWRXgD
酷いね。もうお前は用済みだ、という事かな?
まったく氏康はとことん外道だな。やはり謙信公に誅殺されるべきだったのだ。

91: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/24(月) 15:28:14 ID:aCMKNkm0
うん?
氏資は上総三舟山の合戦で、北条方として里見勢と戦い
殿にて討死、太田勢は全滅したんでしょ

それにより氏房が、太田に入るんだけどね

92: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/26(水) 19:10:06 ID:aX/mxAe+
資正と一緒に追放されたのって梶原景政だっけ?

93: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/27(木) 11:58:13 ID:JKIBdTxE
資正追放の発端は、資正が継室(大石定久の娘)の言をいれ、
前室の子氏資を吃音を理由に遠ざけ、
継室の子政景に家督を譲る旨を、上杉輝虎に伝えたこと

これに北条氏康が乗じ、資正の留守中に、氏資や老臣と謀った上での追放劇
(小田原記によるので、史実かどうかは?の部分もあるようだけど)

当初追放されたのは資正のみ
政景は岩付城内に幽閉→家臣により救出、以後父に同行

94: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/28(金) 21:01:30 ID:+LPAskQC
“太田資正”でググって一番上に出てきたページの下の方に
“「天下十三大将」のひとりにも数えられた”ってあるんだけど、
「天下十三大将」って呼称、誰かご存知?俺は初耳ですた。
http://www.asahi-net.or.jp/~JT7T-IMFK/sanraku/sanraku.html

95: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/28(金) 21:49:15 ID:9AO66awP
残りの十二人は誰なんだろう

96: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/29(土) 11:13:10 ID:p0q+4TVT
わからないね・・・

ある本によると
資正は当時の関東武士の物語に、日本の十三大将の一人に挙げられている、とある
(だから何の物語?なのさ、と言いたいけど)

又、直江兼続が
わが国の大小の名将中で、主君謙信と太田三楽に及ぶものはない、と激賞しているとも

99: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/30(日) 02:36:48 ID:JEZ80cAK
深谷上杉家臣の秋元氏は埼玉の武将に入るだろうか…
最終的には譜代で館林藩主になって明治維新を迎えているのだが
武蔵出身の中でも結構な出世頭じゃない?

104: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/31(月) 14:28:28 ID:dLAkCeci
>>99
成田も途中までは良かったけどね、残念ながら廃絶

101: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/30(日) 12:49:03 ID:qQfbqJed
忍城を作った忍氏ってのはどこの出なんだろう。

103: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/31(月) 14:18:28 ID:dLAkCeci
忍氏は確か、児玉党では

105: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/07/31(月) 16:55:34 ID:Eyd+atwC
吾妻鏡に突然名前が出てくるからね<忍氏

106: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/01(火) 21:49:20 ID:G0KRqPyb
上田か成田が忍城奪ったんだっけ?

107: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/02(水) 09:48:24 ID:9OYeTuME
成田だね
でもそのころ(14世紀後半~15世紀)って同氏族の別府氏の方が勢力が上だった節があるからなぁ

109: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/06(日) 00:09:48 ID:aClWNo96
成田氏って最後まで北条側として戦った奴らだよな。

111: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/07(月) 15:19:34 ID:FggHl6Cy
忍城は天正十八年 六月四日に囲まれてから、
小田原開城の十日後の、七月十六日の開城まで、石田三成らの攻勢を凌いだ

この間水攻めの失敗とか、いろいろあったけど

113: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/10(木) 16:15:54 ID:0ESAkAmQ
上杉謙信が北本の石戸城を攻めた時の城将って誰でしたっけ?

114: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/10(木) 22:06:09 ID:tFIyaCxz
>>113
松山城の救援に間に合わずに、私市城に矛先を転じたその前後(永禄六年二月)に、
石戸城に兵を向けてる筈なので、依田某って奴じゃないかな。

115: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/11(金) 17:12:11 ID:nnFNLocG
永禄五年(1562)七月北条氏邦が毛利丹後守が守る、石戸城を攻略
これ以後の城主は、依田大膳亮

>>114のお説のとおり、永禄六年二月頃に上杉方が奪還したらしい
ただ謙信が城衆救援の為出陣とか、北条氏康が出陣とか、間接的な記述で、
戦の詳細はわからない、らしい


引用元: ・【太田資正】さいたま~の武将【成田長泰】







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