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1: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/19(日) 10:52:17.56
正確に言うと「北条氏はなぜ鎌倉殿になれなかったのか?」

執権政治草創期ならともかく、得宗専制時代では鎌倉殿になれそうだったのにならなかった。
これは「なれなかった」又は「鎌倉将軍家を廃止できなかった」ためで、
その理由は「貴種性」にあると一般では説明されている。
このスレでは自由な発想で、中世東国社会での「貴種性」観を軸に
「足利氏はなぜ将軍になれたのか?」「室町殿はなぜ天皇にならなかったのか?」まで
じっくり、またーり論じていきたい。










2: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/19(日) 11:06:41.33
このスレの隠れたテーマとして「天皇家はなぜ永く続いたか?」も最初に申しあげておきたい。
スレタイは「徳川氏はなぜ天皇にならなかったのか?」でも「パリは燃えているか?」
でもよかったのだが、やはり順番として北条氏から始めるのがよろしかろうと思う。
北条氏が越えられなかった壁を、自称・清和源氏嫡流足利が越えられたのはなぜか?
自称桓武平氏の北条氏の限界についても諸兄の意見を伺いたい。

4: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/19(日) 12:44:20.77
将軍になるには幕府を倒す必要がある
実際にやろうとすると統幕に賛成しない者も多く出てくるでしょう
それよりは現体制を維持したまま操った方が得策と考えたのでしょう
得宗家ゆえに得策を採用したと。。。

5: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/19(日) 20:09:41.87
北条氏は桓武平氏と言っても時政以前は正直不明だ。伊豆の小豪族から突然急成長した成り上がりだ。
頼朝時代の御門葉のような家柄だったら、源氏亡き後の将軍後継者になりえたが、当時の東国社会ではあまりに低い家格というのが当時の一般認識だったんじゃないか?
足利 新田 山名 吉見から見れば源氏本家の家来筋という感覚が抜けなかっただろう。

6: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/19(日) 20:33:12.09
武家の棟梁つーのは最低でも源氏や平氏の本宗家でないと人心がついていかない。
それ以下の家格の者が棟梁では座りが悪い。
北条は自分が資格要件に欠けていることを認識できていたんだろうね。
得宗専制というのは、鎌倉将軍家(皇族)と得宗家の一体不可分のシステムだった。

7: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/20(月) 03:53:01.45
初代摂家将軍 九条頼経は当初全くの傀儡として鎌倉に迎え入れられたが、成人するとそれなりの権威を持つようになり、名越や三浦などの反得宗とつるんで政治的脅威となった。
この頼経以降、鎌倉将軍は成人したら京都へ送還というのが幕府滅亡まで慣例化するのだが、こんな厄介な存在を最初から廃止すりゃいいのに、それができなかったのが、北条政権のジレンマだったんだね。

8: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/20(月) 07:28:53.98
仮に将軍になるとすると全員を屈服&納得させる武力&経済力が要るな

9: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/20(月) 10:34:19.57
>>8
承久の乱の時に京方の所領(荘園3000余箇所)を没収したが、
あれはどう分配したんだろうかねえ。
徳川家康みたいに外様にはけち臭く分配したのか
足利尊氏みたいに大盤振舞したのか、どっちだろう。
北条義時・泰時親子はその後も御家人の支持を得ているから自分は少なく
他人には多くを分配した気もするし、一門の数がやたら増えたことを考えると
北条氏優先に論功行賞したんだろうか。


>全員を屈服&納得させる武力&経済力が要るな

北条が圧倒的武力をもつのは霜月騒動後じゃね? 甘く見ても宝治合戦後だな。
将軍になれるとしたら、貞時の頃がチャンスだったな。

10: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/20(月) 15:09:58.82
執権北条氏の歴史は戦いの歴史。得宗家に生まれたからと言って、権力者の座が約束されているわけではない。
後の足利将軍家もそうだが自分で戦い、勝ち抜けなければならない。大体、家督相続の折に一波乱起きている。

義時没・泰時相続時: 伊賀氏の変
泰時没・経時相続時: 将軍職を頼経から頼嗣へ強制譲位
経時没・時頼相続時: 宮騒動・宝治合戦
時頼没・時宗相続時: 二月騒動
時宗没・貞時相続時: 霜月騒動

あと貞時在世中に平禅門の乱と嘉元の乱がある。
幕府内部の権力争いをひとつひとつクリアして得宗家に権力が集中していった。
こうして観てみると、得宗専制ってのは成立まで100年掛かっていることがわかる。
北条貞時は若い頃は祖父時頼を尊敬し、政務に熱心だったが、晩年はやる気を失い、
内管領に任せっきりで酒色に溺れて行った。もう疲れちゃったんだろうね。

13: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/20(月) 22:29:04.37
いくら力があっても在庁官人あがりの北条丸が将軍なんて無理だろ。
孫正義やユニクロ柳井が経団連の会長になれないのと同じ。

16: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 05:16:26.57
一旦、幕府の組織ができて鎌倉殿の御家人という立場を崩せなかったからだろう
足利が将軍になれたのは鎌倉幕府が滅亡した後で新秩序を構築するという状況だったから
中先代に成功して後醍醐らを駆逐できたら北条時行は将軍になっていただろう

18: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 07:00:06.02
>>16
あの時代は親王将軍が一般的だった
足利尊氏は新秩序を構築したから征夷大将軍になったわけじゃない

後醍醐のせいで退位に追い込まれた光厳上皇に
私を征夷大将軍にしたら北朝の天皇を立てて院政を執らせてあげますよと言ってなっただけ

19: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 08:25:09.56
>>18
親王将軍が一般的な時世に光厳様を誑し込んで征夷大将軍になる自体、尋常じゃないんだが

20: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 08:51:31.45
>>19
足利は頼朝の親戚だったから
鎌倉時代を通してずっと将軍になりたかったんだろ

21: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 09:59:02.89
>>18
どちらかというと俺も16・19氏の意見に近いね。持明院統を引っ張り出せたこと自体が、
建武政権への反逆の成果だし、尊氏の将軍宣下は建武政権打倒の2年後
光明天皇の御世だ。足利の将軍補任はやっぱり、力技・荒療治だよ。
フジテレビの韓流ごり押しと同じ。ちょと喩えが分かりづらいか?

22: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 10:06:21.55
>>21
そうかな?
尊氏の征夷大将軍就任は尊氏の力技による横暴などではなく
光厳上皇本人の強い野望・願望でもあった

光厳上皇は自分を担いでくれるなら誰だって征夷大将軍にしただろう
新田義貞でも良かった
光厳は上皇とはいえまだ24歳とかで政界を完全引退するには若すぎたし
後醍醐のせいで持明院統は当時皇統を完全に断たれていた
治天の君として復活したい野望もあった

だから北条時行が後醍醐を駆逐して京都に常駐し
光厳上皇の院政を保証すれば征夷大将軍もありえただろう
関東に幕府開きたいと言うのならばダメ(後醍醐がまた戻ってくるから)

あと、尊氏が征夷大将軍になったのは離反の2年後というだけで
建武政権打倒の2年後ではない
尊氏は離反した当初は負け戦で九州まで逃亡し建武政権打倒どころではなかった
2年後に光厳上皇と結んで錦の御旗を持ってようやく京都制圧をし
光明天皇を立てて征夷大将軍になった

23: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 10:36:22.23
力によりごり押しなら、後醍醐様がよっぽどあからさまなような
尊氏が表舞台に出たのって案外短いし

24: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 10:45:09.17
尊氏だって鎌倉幕府を滅ぼすためなら後醍醐を利用したわけだし
尊氏よりも後醍醐のほうがごり押しだと言われても

25: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 11:13:10.77
>>24
後醍醐を利用して鎌倉幕府を倒し、建武政権が不祥事続きで崩壊寸前になって北条の残党狩りを名目に蜂起 武士や北朝の支持を取り付けて征夷大将軍って
ごり押しどころか、かなりの手法だが

34: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/22(水) 00:10:54.72
もし源家が断絶した時に足利義氏が将軍職を狙おうとしたら、平賀朝雅や阿野時元のように抹殺されていただろう
門葉といえど一旦鎌倉殿の臣下になった以上、幕府御家人としてそれを乗り越えることはできない
もし北条が将軍になろうとするのなら一旦幕府を解体して、自身を頭にした新幕府に作り直すしかない
すでに鎌倉殿の御家人の中で絶対的地位を手中にして、将軍改廃すらできるまでになったのに
あえて危険を冒してまで体制変革を図るのはあまりにもリスクが高すぎた

35: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/22(水) 00:26:25.99
天皇に自分を将軍に任命させるとかじゃダメなの?
北条ならできるだろ

38: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/22(水) 04:44:21.44
>>35
足利や徳川の例を知っているから誰でも征夷大将軍になれるという認識だけど
当時は親王将軍や摂家将軍が一般的だったんだよ
頼朝に始まる源家将軍すら血筋的には劣悪で
実朝には甥がいたにもかかわらず実朝の後には都から親王将軍を迎えることで
北条政子らが一致していた

尊氏は都に常駐して北朝天皇の補佐をする名目で征夷大将軍になったんだよ
親王将軍よりも更に高貴な天皇を手中にいただいたわけ
関東に幕府を開くのならばやはり天皇の代わりの宮将軍が必要だというのが
当時の認識だっただろう

41: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/22(水) 13:12:16.15
>>38
非常に面白い考察だ。本来、征夷大将軍というのは従四位上あたりが相当官位のそれほど高い職ではなかった。
それを頼朝がどーんと付加価値をつけ、従二位権大納言や右近衛大将に釣りあう職位にした。
つまり、将軍家の家格はこの辺のクラスじゃないとダメですよ、という相場感が生まれたのかもしれない。
そうすると本来別物であった鎌倉殿も将軍職とドッキングしたことによって、
鎌倉開府時とは異なりはるかに値を釣り上げたものとなっていく。
これが源氏将軍家滅亡後となると、摂家将軍・宮将軍と市場公定価格(家格と掛けてみたw)が
さらに吊り上る。
鎌倉末期になると、「将軍家と言えば親王ですぜ旦那。この近辺では常識ですぜ。」
という風潮があったのかもしれないね。清和源氏の門葉、桓武平氏の傍流ぐらいでは市場の相場には

40: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/22(水) 11:50:36.09
北条が将軍になる大義名分があったのは
①承久の乱の戦後処理
②元寇の時
この2つだと思う

42: 足利革命 論 ① 投稿日:2014/10/22(水) 15:35:39.22
源氏将軍家亡き後の足利氏をよく「清和源氏嫡流と目されていた」などと記述する著書が多い。
以前からここに疑問を感じている。後世の歴史家の後付けの知識ではないのか? 
あるいは室町以降の足利プロパガンダに引きずられた都市伝説ではないのかと考えている。
 
鎌倉開府時の足利氏は将軍家の御門葉とされ、北条家累代と縁戚関係を結んで幕府内での高い家格を維持してきたのは事実だ。また、家格に見合う経済力を持つ大豪族でもある。ただ、だからといって当時の人々が、足利氏を源氏将軍亡き後の清和源氏嫡流と見ていたのか、まして鎌倉殿・征夷大将軍を襲封できる有資格者と見做していたかは別の話であろう。
足利氏は決して江戸時代の御三家ではない、と僕は見ている。
 
仮に明治維新で島津久光が将軍になったとしよう、現代の歴史本は
『島津家は頼朝の末裔惟任氏の血筋を引き、江戸時代には幕府に次ぐ軍事力と御三家を上回る石高を誇り、将軍家や摂関家とも縁戚関係を結ぶ名門家系だった。』
と書き囃したことだろう。間違いではないが、江戸時代の人が島津氏を徳川の後の天下人候補とみていたとは思えない。筆の走り過ぎだな。
足利氏の「清和源氏嫡流」説はこういう類のものではないのかな。

②へと続きます。

43: 足利革命 論 ② 投稿日:2014/10/22(水) 15:49:33.35
足利氏が全国の武家の棟梁(征夷大将軍)になれたのは、やはり建武政権をぶっこわして北朝を建てるという、スクラップアンドビルドを成したからであろう。
承久の乱の類似性を指摘する人もいるが、承久の乱が朝廷側からの売られた喧嘩であるのに対し、尊氏の謀反は初めから天下取りをを狙った行動である。そしてその結果、承久の乱においても北条氏は「貴種」性を得ることはできなかったが、足利氏はこの荒療治で「貴種」のハードル越えに成功した。
鎌倉期を通して存在した「血統主義」を実力主義・結果オーライで乗り越えた感じがどうしても消えない。

名称はどうでもいいのだが、わかりやすくこれを仮に「足利“革命”」と呼ぶ事にする。
この革命性は平安時代的「貴種」理論の転換であると考える。
革命という語句に過剰反応する向きもあるが、この「革命」というワードは、体制転換という意味よりも
「この商品は従来のテレビに革命をもたらした!」というニュアンスだな。
西洋史でいう「科学革命」や「産業革命」という意味合い。

③に続きます。お楽しみはこれからだ。

44: 足利革命 論 ③ 投稿日:2014/10/22(水) 15:59:18.19
では、その「革命」理論に従えば、中先代の乱の北条時行だって、将軍になれたんじゃないか?
という指摘も可能であろう。もちろんイエスだ。力が全てだ。
しかし、ここで留意しておきたいのは北条氏の貴種としてのブランド力である。
足利氏は鎌倉時代全般を通して、「源氏将軍家亡き後の(なんちゃって)清和源氏嫡流」の演出というか、
「家柄の粉飾」をシコシコやってきたんじゃないかと考えている。これに対して北条はそういう都市伝説作りをせず、政務遂行のための権力強化の方向に実直に進んだ。結果として鎌倉殿継承資格者の免許皆伝を得る作業を怠った。
 
ここで頭の体操として、東国武家社会で通用する貴種性を表す物差しとして、
「キシュ」という単位を勝手に作ってみる。摂家将軍・宮将軍、
つまり将軍職有資格者の家を100キシュとする。足利氏は70キシュ、北条氏は50キシュである。
(ここまで来ると妄想過ぎてダメかww ついてこれる人だけでいいやw)
 
足利はこの不足分の30キシュを建武政権打倒で埋め合わせることが出来た。
50キシュの北条氏はそれでも20キシュ足りない、と考えている。
北条時行が革命を起こしてもブランド力がチト足りないので足利とは違う、と。
僕の「時行未熟説」はこういうことである。(ちょっと無理筋か。屁理屈か)


④に続きます。もうちょとの辛抱だ。

45: 足利革命 論 ④ 投稿日:2014/10/22(水) 16:14:35.05
北条時行のブランドと足利革命の問題で大きな示唆として、徳川家康を取り上げてみる。
  
鎌倉末期、史上最高値をつけた将軍職の株価は、足利尊氏の強引な敵対的株式取得でいくばくか値を下げた。
それでも頼朝時代の家格だ。現実味はともかく、吉良や渋川、石橋というマイナー芸人までもが「清和源氏嫡流候補」になっていく。挙句の果ては戦国時代。足利将軍家の分家の分家の今川氏まで、「家柄は足利・吉良・今川の順。」などと与太話を平気で吹聴しだす。もう何でもアリですよ。
言うたモン勝ちだな。
「足利“革命”」とは時間をかけて家系の付加価値を高め、足りない分はどどーんと実力主義・成果主義で「血統主義」のハードルをクリアする。
この荒っぽい手法で結果オーライに持ち込む「なんちゃって清和源氏嫡流理論」を理解し実践したのが徳川家康といえる。鎌倉末期には高嶺の花だった将軍株の実勢価格が戦国時代に下がった。家康は吉良氏の系図を借りて自らの家系を粉飾して新田氏嫡流になりすました。
戦国期の朝廷は貧乏なので金を積んで申請すれば簡単に認可が下りる。
(実際はそうではなかったのだがね>戦国大名の官位取得。まあスレ盛り上げのためフカしてみる。) 
 
中先代の乱の頃の北条時行では、家康流の長年の下準備もなく、将軍株も最高値だったので、実力があっても将軍職ゲットは叶わなかったかもしれない。
「足利革命」は足利尊氏の成功によって初めて実現し、承久の乱の頃の北条氏では到底無理な相談だったと思う。
北条氏が将軍になれなかったのは、こういったところかな。

終わり

46: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/22(水) 19:20:08.26
大筋では理解できますが
尊氏は建武政権末期に正三位参議
この時点で貴種性はクリアしてるのでは?

48: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/23(木) 04:21:01.92
>>46
幕府時代の尊氏の官位は従五位上止まりで建武政権下では公卿の末席にまで上がった。
まあ、位としては将軍職候補としての貴種要件はクリアできたのだろうが、
肝心の後醍醐天皇が足利を武家の棟梁にする気がさらさらなかった。足利だけではなく、
新田や北畠でも同じことで、皇族以外は認めなかった。南朝時代が典型。
「貴種」論とはズレるが、尊氏が武家の棟梁になるにはこの「皇族将軍制」を実力で
突き崩すしか手はなかっただろう。

51: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/23(木) 21:13:28.12
>>46
六波羅陥落の後に従四位下に昇叙しているのは理解できるけど、
その後の建武政権期になにもないのに正三位まで昇叙してるのは不思議。
この時代の武家にとって四位と三位の間の壁って結構厚いものだと思うけど、
あっさり破ってるんだよね。

49: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/23(木) 17:33:18.46
「なんちゃって清和源氏嫡流」の元祖は実は頼朝なんだよね。
清和源氏の2代満仲の本拠地摂津多田荘は
嫡子頼光の系統摂津源氏が継承しているから、
嫡流を言うならこっちの方だろう。頼光の弟頼信の子孫河内源氏が
その後武勇で名をはせたのでこちらが武家源氏の主流に躍り出た。
しかもこちらの嫡流も義家の4男義忠で一旦途絶え、
義忠の甥 為義【頼朝の祖父】が河内源氏の棟梁を称するが
この人と河内の関係を示す史料はなく、
河内源氏の嫡流を自称する他の一族も居るのでかなりグレーだ。
頼光ー頼義ー義家―義忠-為義―義朝―頼朝のラインを本流とする思想は
実は鎌倉時代以降の思想で、頼朝の「家系の粉飾」とみる学者も多い。

52: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/23(木) 21:44:00.81
>>49
そもそも源氏嫡流という概念がいつ生まれたのか?
桓武平氏にしろ坂東に集住してても全く統制取れてなかったし。

55: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/23(木) 22:48:53.51
源氏長者
http://ja.wikipedia.org/wiki/源氏長者

>>52
清和源氏が源氏長者になるのは足利義満から。それまでは頼朝も尊氏も、
『嫡流証明書』のない状態。為義や今川義元と同じく言うたもん勝ちだ。
後世の人間は頼朝・尊氏が天下を取ったから検証なしに「嫡流」神話を鵜呑みにしてしまっている。

67: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 10:01:49.51
まあ、こういう独自解釈もある。

19 :日本@名無史さん:2014/10/13
>>717
アウグストゥスが皇帝になった際の長ったらしい肩書知ってるでしょ。
皇帝なんだけど絶対に皇帝と言いたくないからあんな長ったらしい肩書になってる。
承久の乱以後の得宗家が名を求めなかったのは
あれと極めて類似する政治判断だと思う。
皇帝や将軍になれなかったのとならなかったのとはやはり違うことだと思う。
アウグストゥスも義時も政治の熟達者なんだよ。
まあ、ローマの場合、長ったらしい称号から後に
皇帝という単語が出来てしまったから結構見落とされがちだけどね。


727 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 19:10:55.23
>>726
なれないこととならないこととは違うだろ。似て非なるものだよ。
義時は承久の乱に勝った時点で、関白にすらなろうと思えば簡単になれたんだ。
しかし政治的判断を優先してならなかった。
なれるのにならなかったのと、なれないのとは違うよ。
前者には選択権があるが後者にはないんだ。
オクタビアヌスだって君主になろうと思えばなれたのに、
シーザーの件も念頭にその道を選ばなかった。
これも選択だよ。

68: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 10:08:35.24
同じ人のレス。「将軍にならなかった」説の根拠らしい。

121 :日本@名無史さん:2014/07/20(日) 06:55:49.12
北條得宗家に真の政治的権威が発生したのは承久の変で朝廷を倒したからだよ。
この時、将軍という存在が事実上空白だったのにも関わらず朝廷を妥当したので、
義時自身に頼朝並の権威が発生した。
だから義時の後継者にはあの義時の後継者であるという権威が継承されて行ったんだ。
義時の後継者であるという事自体に幕府統率者としての政治的権威があるのだから、
もはや得宗自身の官位や幕府における地位の上下にほとんど意味がなくなったんだよ。
時頼以後、得宗が執権じゃなくなっても全く政治的権力にに変わりがなかったのはそういうこと。
そしてその北条家は、幕府において執権以上の地位に執着しなかったから将軍にならなかっただけのことだよ。
当時の公家の記録に、朝廷では北条家の望む官位を与えようとしてたが、
北条家では相模守あたり以上の官位を望まなかったとある。
幕府内の地位に関しても全く同じ姿勢だったんだろう。

69: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 10:15:56.43
で、この人の頭の中の「承久革命」 朝廷は滅亡したらしい。

714 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:08:55.32
 >>712
承久の乱の過小評価だ、あんたは。
承久の乱は朝廷が武力で滅ぼされたというのが客観的事象だ。
武力で圧倒されて上皇や天皇が全員配流されたというのは朝廷の滅亡と評価するしかない事象だ。
その後幕府が朝廷の仕組みそのものを弄らなかったのは、
これがもともと幕府の側が企図した戦いではないため、
朝廷を倒した後の仕組みのグランドデザインが何にもなかった結果に過ぎない。
それをよくあらわしてるのが、当時の処分されなかった公家が、
北条から言って来た官位ならどんな官位でもあげるつもりだったというエピだ。
将軍家の家人に過ぎない北条家が関白でも希望したら
あげるつもりだって事なんだからもはやそこには朝廷の秩序なんて
全く崩壊していることを意味している。

70: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 10:27:13.08
67~69の画期的独創性は、北条氏が将軍(鎌倉殿)にならなかったのは、
歴代 得宗家当主は北条義時の後継者という血筋だけで 十分な政治的権威であり、鎌倉殿になる必要性が無い、
将軍になろうと思えばいつでもなれたが、そもそも必要性が無いのでならなかった。
その北条義時の権威とは「朝廷を滅ぼした」ことに由来し、武家社会に絶対的権威を確立した、
というもの。

自由で素敵な発想力ではある。

71: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 10:50:29.16
正直元寇が無かったら、朝廷の存在すら忘れられたままだったろうね

129: 日本@名無史さん 投稿日:2014/11/04(火) 16:20:52.54
得宗スレからのコピペ  承久の乱と北条氏についての独自見解

69 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 23:44:10.41
承久の乱が起きる前までの北条家なら確かにそうだろうけど、
承久の乱で朝廷を事実上滅ぼしたことで北条義時の権威は頼朝に匹敵するくらい絶大なものになった。
その義時や後継者が高い官位を望んでも他の御家人は別に反発なんてしなかったと思うよ。
高い官位なんて欲しくなかったんだろ。

72 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 08:45:45.17
>>71

だからそれは高い官位を希望しなかったのと同じで、
幕府内でも御家人の同輩という地位以上のもんを望まなかったというだけの話でしかないだろ。
政子死後の北条家は形式的には将軍となんの関係もない。
でもその地位は全然揺るがなかったわけで、
それは指導力の源泉が北条家という存在そのものにあったからだよ。

158 :日本@名無史さん:2014/10/07(火) 18:14:40.56
その通りだと思う。
承久の乱で誰がどう考えても北条義時が朝廷を滅ぼしてしまったから
以後形式はともかく実質は得宗家(義時の後継者)が天下人になってしまった。
義時はそこまで考えてなかったろうね。

73: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 20:00:41.61
そもそも、征夷大将軍という地位を過大評価している
後世、足利家、徳川家と天下人が、この官に任命されたから
まるで武家の棟梁にとって絶対的な官職に思われるけど

本来は蝦夷討伐のための臨時の職に過ぎない。
朝廷に朝敵とみなされないまま、東国政権を作るのに便利だったから
この官職を利用しただけだろう。
本来の武家の最高位は近衛大将だけど、
この官職だと天皇の近くで使えないと駄目だから
最終的には、遠隔地で臨時の政権つくりやすい征夷大将軍や鎮守府将軍が便利で
大将軍がつく征夷大将軍を所望しただけ。

74: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 20:05:31.70
この目的を達成するためには、別に北条氏自身がその官位を受ける必要もなく、
より天皇に近い皇族や摂家の一員に征夷大将軍になってもらって
自身が裏でコントロールしたほうが楽だった。

また、同じ皇族氏族でも、平氏と源氏では差があったんだろう。
源氏というのは、源定省こと宇多天皇の即位でも分かるように
いずれ皇族に戻る意味も含まれていたらしいから
きわめて皇族に近い貴族なんだよ。
一方、それよりも前に分かれ、平将門という謀反人を生み出した平氏の北条氏では
権威が弱すぎる。
伊勢平氏(平家)の場合も、当初は、朝廷では成り上がりという見られ方が強くて
源氏が高い官位を受けるよりも反発があったけど
平家の場合は、遠隔地に政権を作るのではなく、あくまでも、天皇の近くで
政権を握っただけだからな。

それが平氏が遠隔地で政権作るってのは、もろ平将門を連想させるし、
かなり遠くなって皇族から離れてきた平氏ってのは、マズイ。

77: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 20:27:40.00
鎌倉殿がもう少し続いていたら、得宗家はどうなっていたかな。
案外、征夷大将軍には興味ないままだったと思うけどね。

78: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 20:50:47.38
>>77
北条得宗家体制が出来たのって北条時頼の頃だっけ?
執権と得宗は別でない

80: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 21:13:10.96
>>78
どこのサイトだったか忘れたけど
北条氏嫡流は自身を武家の棟梁というふうに認識しだしたのは、
北条時頼からだって、書いてあったね。
北条時頼から、かつて鎌倉源氏が行っていた儀式なんかを
自らが継承するようになっていった。
北条時頼は、息子の時宗を武家の棟梁として育成するようになったらしい。
ちょうど、このころから、執権≠北条氏嫡流になり、
北条氏嫡流は必ずしも執権職に在位しつづけなくなった。

北条氏ってのは、関東の武家の棟梁としては、やはり権威が弱いのよ。
関東の武家にとっては、源頼義、源義家の存在が絶大。
平貞盛ってのは、あくまでも、京都朝廷側にあって、将門の乱を鎮圧した人物だし、
平直方も、あくまでも、河内源氏の外戚であり、脇役なんだよ。
平忠常も、一族の平直方には従わず、源頼信が出てきたら、従ったわけだから。

よって、北条氏が自身が平貞盛、平直方の子孫だからといって、
平良文や平忠常の子孫たちである坂東平氏にとっては、
嫌な奴らの子孫なわけで、自分たちの主君にはなりえない。
平良文は甥の将門びいきだったみたいで、彼の子孫の忠常の行動にも出ている。

81: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 21:21:15.20
>>80
国司上がりの武家なんかが多い状況でそたあつらが北条に従わなきゃならない理由ってなにかな?

83: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 21:25:31.65
そりゃ時政以来積み上げてきた既成事実でしょ

86: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 22:04:26.66
坂東平氏 秀郷流藤原氏 河内源氏の御家人からみれば、北条の家人になるなど、
考えられない話だ、つーことだな。北条も自分の家柄の低さを自覚していた。
だから、自らが鎌倉殿になれない代わりに傀儡を立てて実権を握る方法しか選択はなかった。
現実的な政治判断だな。それをぶっ壊して自ら棟梁の座に就いたのが信長。

実は後北条氏も信長と同じようなことやってる。古河公方を廃止した。

88: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 22:39:20.27
いや、というか
国司上がりの氏族って土着制が強いからなかなか他国のやつらの言うことって
聞かないもんなんだよね
鎌倉幕府の中だって他の他国衆からみたら北条は上司ってよりライバルだろ
北条だって一貫して評定衆って体裁をとってきたはず
官位が意味をもつのはなんらかの正当性を持つのに有効な場合だけ

89: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 22:45:19.00
ましてや
源氏ってのは義家や頼朝の話あってのものでしょ
まあどっちも最後は不審?な落ちぶれ方したり死に方なんだけどね
北条より古い国司からの氏族っての多いからな

90: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 22:55:24.72
結構、頼朝ー北条ラインではえげつないこともやってんだけどね

まず、源氏一門の分割
自分に従ってきたのを取り立てる一方で多くの同族の源氏を粛清

犠牲者
甲斐武田一族(生存者、石和系武田氏のみ)
常陸佐竹氏
木曽義仲
源義経、範頼など

91: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 23:04:57.09
多田満仲依頼の摂津源氏なんてのもこの時代に解体されてたはず
源氏姓を名乗ってた氏族なんかが源氏を名乗ることを禁じるお触れも出して
るはず
在地名の名字の名乗りが進んだのはこれが原因

同じことは足利姓を名乗ることを禁じられた斯波氏の例もある

92: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 23:19:43.09
源氏とか平氏とか藤原氏などの姓は
天皇によって認められた名前で

一方、足利氏、新田氏、平賀氏、北條氏などの苗字は
鎌倉殿によって認めらた名前。

この区別を知らないといけない。

よって、鎌倉殿の直接の御家人ではない場合は、
相変わらず姓のほうを重視した場合もある。

河内源氏の本来の嫡流だった源義忠の家系は、
室町時代位までつぢていて、源姓のままだったhず。

93: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 23:23:01.95
源頼義、義家の末裔たちは
そうではない御家人(平氏、藤原秀郷の末裔たち)に対して
俺たちの家臣の出なんだという優越感はあったはず。
鎌倉時代も、足利家と結城家がそれで喧嘩になったという記述が残っている。
ということは、足利家をはじめ、河内源氏の名門たちは
北條氏、三浦氏、千葉氏などんことを、どのように考えていたのか
おのずと推測できるはず。

94: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/27(月) 02:57:44.63
義時・泰時の頃ならいざしらず、得宗専制時代になっても、北条はこの家格意識を乗り越えられなかったわけだね。
まあ、無理に強行突破すればできんことはないのだが、人心の離反が進みカオスが到来しただろう。
得宗専制時代というのは、得宗家への権力集中が進んだ時期ではあるが、
元寇時の温床の不満・徳政令の失敗など、
幕府への不満が溜っていった時期でもある。
ましてと北条一門への守護職独占化も進み、
反感が持たれた時期でもある。
 得宗専制時代は、北条家の権威が上がり、自らの鎌倉殿就任のチャンス到来の時期
かと考えていたが、実は逆で権威が下がっていた時代だったのかもしれない。
時頼の「鉢の木」の話は、古き良き時代のレトロ話であって、大不景気時代の御家人にとっては、
「在庁官人上りが調子こいてんじゃねーよ。俺らの生活何とかしろ、つーの。」
という目で得宗家を見ていたのかもしれない。

95: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/27(月) 12:10:03.93
>>94
そもそも時頼の「鉢の木」が能の演目になったのは足利義満と世阿弥の頃だったくらいだしね

引用元: ・北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?







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