1: 日本@名無史さん
改易された大名についてマターリ語りましょう。








8: 日本@名無史さん
結局、最上家は何で潰されたの?
藩主が幼少で、家臣の分裂もあったけど、老中のから所領に関する寛大な
処置が降りたのに、何で、それを利用しなかったのかが知りたい。
最上って確か、大した兵力も無かったんでしょ。だったら、お手伝い普請
なり何なりで、利用できたのに、幕府はなぜ潰したの?
明らかに、幕府にとって残しておいた方が徳が大きいのでは?

294: 日本@名無史さん 投稿日:2008/04/25(金) 22:41:50
>>8
徳川氏は清和源氏新田流と自分の出自を称していますが、本当はどこの馬の
骨か分からないのです。それに対して、最上氏は清和源氏足利流の中でも特別の
家格を持つ斯波氏の流れです。
江戸時代初期において、最上氏は吉良氏よりも足利将軍家(惣領家)に血筋が
近い家柄だったのです。
要するに、利用価値はあったとしても、潜在的に「目の上の瘤」だったのです。

12: 日本@名無史さん
そういえば、秀忠の治世になってから、改易大名が増えたよね。
加藤とか、福島、最上等。
そんなに、外様を改易しなくても良いような気もする。
むしろ、生かさず殺さずの方針のほうが役に立つと思う。
幕府は利用しがいのある外様を潰してでも、権力を誇示したかったのか。
あの秀忠ならやりそうだな。関ケ原にも遅刻してるし。

17: 日本@名無史さん
里見ってなんで潰されたのか良くわかりません?
大久保に連座して倉吉移封(実質は流罪)までは良いとして、
池田家が転封してきたら自動的に取り潰しって酷すぎると思います。
大久保は復活してるし、本田正信の弟の系統も幕末までちゃんと
続いているわけだから、酷く不公平な気がしますが。
竜造寺や最上は自滅っぽいですけどね。
何かよほど幕府からにらまれるようなことがあったのか、単に
めぐり合わせが悪いのか?

19: 日本@名無史さん
>>17
里見は存在を忘れ去られていただけで、特に潰されたわけではないと
思うぞ。

102: 日本@名無史さん
>>17
あと、領地が安房で新田一族内の家系の序列が世良田系の徳川より格上(里見は新田の庶長子系)だから。

18: 日本@名無史さん
めぐり合わせが悪かっただけのような気がする。
竜造寺は鍋島直茂の乗っ取りだから、
自滅に違いないけど。

21: 1
福島家は信州川中島に減封後も大名として、
存続したの?
他にも、本多家等の譜代の各家もどうなったのか、気になる。

22: 日本@名無史さん
>>21
4万5千石(のち嫡子忠勝死去により2万5千石は返上)を与えられたとはいえ謹慎生活を送っていたんじゃなかったっけ?
大名とはいえないような気はするが

27: 日本@名無史さん
>>21
正則死後すぐにまた因縁つけられて速攻で潰された。
四十九万石から一気に四万五千石にされて無力化していたのに、
「徳川に逆らうとどうなるか」の格好のスケープゴートにされた形だな。

28: 日本@名無史さん
>>27
検死到着前に勝手に荼毘に付したからだろ

そういえば酒井忠清にもそんな話があったな

23: 日本@名無史さん
宇都宮はどうよ?
秀吉が死んでお家再興の話が立ち消えになったが   
徳川時代じゃ水戸藩に仕えてたみたいだけど再興する気もなくなったのかな   

24: 日本@名無史さん
>>23
宇都宮の改易は玉突き転封を引き起こしたな

宇都宮←蒲生←上杉←堀←青木

26: 日本@名無史さん
それなら、最上改易の後も、十二回変わってるな。
あれ程、城主が変わっては、領民も大変だろう。
で、最上は幕末まで、高家もしくは交代寄合だったの?

31: 日本@名無史さん
>>26
最上家は、近江で五千石貰って幕末まで旗本として続いてる。
子孫も滋賀県在住と聞いたことがある。

29: 日本@名無史さん
一般的に大名が死んだら、検死ってするの?

32: 日本@名無史さん
>>29
一般の大名にはしないはず
酒井忠清の一件は、甲子夜話に載っているもので後世の創作といわれる
ただしその中でも、大名の病死を改める先例はないとして上使は追い返されるという話になっている

33: 日本@名無史さん
>>32
そんで、綱吉が切れたと。

35: 日本@名無史さん
立花家って、一度改易されてるよね。

36: 日本@名無史さん
>>35
関ヶ原の合戦で西軍に味方した
その上九州に帰国してからも東軍に抵抗して戦してしまった。

この辺がいったん改易された理由かと。

37: 日本@名無史さん
その立花家って、立花道雪の末裔?

38: 日本@名無史さん
越前松平の忠直・光長は親子二代で改易されてるね
その度に復活してるが(石高は先細り)

>>37
道雪の養子立花宗茂を初代とする

39: 日本@名無史さん
立花は大名に復帰したしばらく後に旧領だった柳川に転封
けっこう珍しい例かも

40: 日本@名無史さん
だろうね
他の例が思い浮かばない

41: 日本@名無史さん
>>39-40
大久保は?
改易後復活して小田原に戻ってきてたような気が。

43: 日本@名無史さん
改易後復帰する例って、ごく稀ですよね。
大久保家は、なぜ戻されたのですか?

44: 日本@名無史さん
>>43
政争での冤罪だったから。本多正純失脚で復活

46: 日本@名無史さん
>>43
小田原復帰は、吉宗が恩を感じていたからとかいう話があったような

45: 日本@名無史さん
越後国沢海の溝口家、四代目の政親の酒乱が酷く家臣が訴えでて除封。
潔い家臣達だ。

51: 日本@名無史さん
蒲生はどうなったの?

52: 日本@名無史さん
蒲生家がなくなったあと、割合的にどのくらいかは知らんが、石田三成の
家中に編入されていたような気がする。その士卒らも関が原の戦いでほぼ全滅
したと思う

55: 日本@名無史さん
>>52
おいおい、そのときは蒲生家無くなってないぞ

56: 日本@名無史さん
蒲生が会津から宇都宮へ減封になったとき、蒲生の家臣が石田に雇われたって話だろ
蒲生郷舎とか蒲生備中(横山喜内)とか

65: EM
廃絶後再興された大名家

織田信秀 美濃岐阜13万3000石 慶長8年陸奥棚倉1万石で再興
立花宗茂 筑後柳河13万2000石 慶長8年1万石取立
丹羽長重 加賀小松12万5000石 慶長8年常陸古渡1万石再興
新庄直定 摂津高槻3万石 慶長9年常陸麻生3万石再興
木下政房 備中の内2万石 元和元年備中足守2万5000石再興
羽柴雄利 伊勢神戸2万石 慶長7年同地に取立
糟屋宗孝 播磨加古川1万2000石 慶長7年同地に取立(後再び廃絶)
岩城貞隆 陸奥磐城平1万2000石 元和2年信濃川中島1万石再興
皆川広照 信濃飯山4万石 元和9年常陸府中1万石再興
山口重政 常陸牛久1万石 寛永5年同地に取立
鳥居忠恒 出羽山形24万石 同年信濃高遠3万石取立

66: 日本@名無史さん
岩城は陸奥磐城平17万石だったような。

68: 日本@名無史さん
宍戸は幕命で改易され勅命で復易された。

69: 日本@名無史さん
勅命で復易?
珍しいことですね。
宍戸は朝廷に対する何らかの功績があったんでしょうかねぇ?

70: 日本@名無史さん
宍戸は大名じゃない

71: 日本@名無史さん
常陸宍戸の松平だろ

148: 日本@名無史さん 投稿日:2005/11/06(日) 20:45:34
領地返上→復活は蜂須賀家も
77: 日本@名無史さん
歴史読本別冊の「廃絶大名一覧」見たいな感じの本前に古本屋で買ったんだけど結構面白い
討つ相手間違えて改易された大名・イジメで弁当箱にウンコつめられたりして発狂して格上殺したり
とか。。うる覚えスマソ

79: 日本@名無史さん
弁当箱にうんこ詰められたら、発狂してもおかしくないね。
ていうか、うんこを詰める事を考えた奴が一番汚い。

83: 日本@名無史さん
>>79
ごめん 本探し出して改めて読んでみたら旗本だった。
松平外記。射撃場に訓練に行った時に弁当食おうとしたら米が入ってるほうに糞
おかず箱にミミズが入ってたみたい。最終的に彼をいじめていた同僚を五人殺害。。
外記は切腹 家は取り潰し

100: 日本@名無史さん
結局のところ大身大名で改易を食らったのは最上だけ折角最上百万石と持て囃されていたのにねぇ

146: 日本@名無史さん 投稿日:2005/11/06(日) 17:19:15
>結局のところ大身大名で改易を食らったのは最上だけ折角最上百万石

里見も最盛期は上総・下総・安房で80万石だぞ!

111: 日本@名無史さん
譜代だと

水野忠恒vs長府毛利師就 (水野、被害妄想)
稲葉正休vs堀田正俊 (仕事上のトラブル)

あたりが有名でしょうか。
当然、松の廊下も。

旗本vs大名っていう事件も多いんですよね
板倉修理7000石vs熊本細川宗孝50万超石
とか。
でもこの場合、勘違いなんですけど。板倉の。
(隣家トラブル説もあり)

115: 日本@名無史さん 投稿日:2005/03/31(木) 02:59:11
改易された大名家数を年代で比較。急に改易が減りまた増える年代があります。その時の幕府の政治方針を調べると改易になったかならなかったのかわかります。東大の日本史記述で出たような。

120: 日本@名無史さん 投稿日:2005/05/30(月) 08:02:29
改易されたら、旗本になるんですか?(家が残っている場合)

121: 日本@名無史さん 投稿日:2005/05/30(月) 09:20:20
>>120
朽木は外様大名→交代寄合だが分家が旗本→譜代大名

125: 日本@名無史さん 投稿日:2005/07/04(月) 02:46:05
>>120
改易>除封>減封
処分の重い順だよ。

130: 長崎人 投稿日:2005/08/29(月) 12:03:41
有馬家って一旦改易されて、晴信の息子の直純にまた領地が返されてるのね。その跡
日向延岡→越後糸魚川→越前丸岡と移って最終的には譜代に格上げされてるし。
ある意味勝ち組。

134: 日本@名無史さん 投稿日:2005/10/06(木) 01:49:29
>>130
久留米の有馬はもっと勝ち組

135: 有馬稲子 投稿日:2005/10/06(木) 07:26:53
幕末に久留米の有馬家から政治総裁職が現れるとは思いも依らなかったであろう

140: 日本@名無史さん 投稿日:2005/10/14(金) 19:18:44
永井尚長カワイソス…
乱心した内藤忠勝に切り殺されたあげく無嗣断絶。
子供作るまでは殺されるわけにもいかないな。

141: 三井洋一 投稿日:2005/10/15(土) 11:35:48
永井山城守が内藤志摩守に嫌がらせをしたのが原因と聞くがな

142: 日本@名無史さん 投稿日:2005/10/17(月) 20:29:05
嫌がらせがあったという説もあるな。
しかし嫌がらせされたって切り殺しちゃダメだろ。
まともな人間なら藩のことを考えて自重するわけで、理由があったにせよ乱心としかいいようがない。
内藤忠勝は浅野長矩の叔父だからなあw

143: 日本@名無史さん 投稿日:2005/11/06(日) 02:09:58
加藤清正って今でも地元で絶大な人気あるのに、なんで改易になったの?
なんで改易になったのに、地元で絶大な人気あるの?

144: 日本@名無史さん 投稿日:2005/11/06(日) 02:13:16
改易になぞなっていない。

145: 日本@名無史さん 投稿日:2005/11/06(日) 10:00:50
清正が人気があったのは洪水が多発していた当時の肥後で
大土木工事を行って治水に成功したというのが大きいみたいです。

昭和に入ってからも、現代の技術で築いた堤防が決壊したのに、
清正が造った堤防は無事だったりして「さすが清正公」と言われたりしました。

加藤家の後に細川家が入ったときも、当主の忠利がわざわざ大手門のところで駕籠を降りて、
「謹んで肥後54万石を拝領仕ります」と城に向かって拝礼したというエピソードがあります。
当時から清正は人気があったらしいです。

147: 日本@名無史さん 投稿日:2005/11/06(日) 18:12:18
「清正が」人気あるわけで
ボンクラ息子の方は別に人気あったわけじゃない


161: 日本@名無しさん 投稿日:2006/01/10(火) 02:02:13
昔は最上・加藤・福島のような50万石クラスの大名を改易できたのに、
時代が下るにつれて大大名を改易しにくくなり、ついには長州40万石、
土佐24万石にも堂々と意見され、ついに倒れた江戸幕府。

165: 日本@名無史さん 投稿日:2006/01/22(日) 07:00:22
>>161
別に幕府に力が無くなったわけじゃなくて大名のほうも牙を抜かれただけでしょ?
浪人対策とかも面倒だし。

166: 日本@名無史さん 投稿日:2006/02/02(木) 22:50:11
>>161
毛利秀元は(関ヶ原で空弁当食ってた当人だが)晩年御咄衆で家光の大のお気に入りだったから、
当主の毛利秀就が少々ヌーボーでも毛利家の受けは非常によかった。
黒田家は幕閣の有力者と積極的に縁組みしていたし、
細川家は忠興と忠利が国元と江戸の間でしきりに手紙をやりとりしつつ、
懇意の旗本をおだてては江戸幕府の内部情報を探っていた。
この時期に改易されなかった外様大大名は結構努力してたんよ。
彼等には潰されないだけの理由があったわけで、
後になって「あの時、毛利を潰しておけば、、」という理屈は通らない。

その点、加藤とか、福島とか、最上は努力が全然足りん。

169: 日本@名無史さん 投稿日:2006/02/02(木) 23:47:21
(肥後)加藤家の場合、徳川忠長と親しかったのが裏目に出たという説もありますね。
姻戚も紀州の頼宣だし、何か反主流派とばかりつながりがありますね。

178: 播磨の本多美濃守忠刻 投稿日:2006/05/19(金) 06:49:20
播磨の池田輝政、姫路宰相百万石は播磨52万石、淡路6万石、備前32万石を兼ねる鎮西守護だったのに、
死去後、たちまち土井周防守、松平伊豆守、阿部対馬守らの陰謀で備前32万石と因州34万石に分割解体される

183: 日本@名無史さん 投稿日:2006/05/21(日) 23:14:07
綱吉時代もあるな。結構。
土佐中村藩2万7千石。山内豊明
外様ながら綱吉に気に入られ若年寄になり、更に老中職を命じられたが
本人があまりの栄進に不安を持って固辞した所、綱吉の逆鱗に触れ改易。

信濃長沼藩1万8千石。佐久間勝ちか(ちかの字変換出来ず)
綱吉の小姓を病気と偽って辞退し改易。

佐久間家の場合大名なのに小姓に任命されるのが不思議ですが・・・
山内家は本人が辞退しただけなのに・・・

184: 日本@名無史さん 投稿日:2006/05/21(日) 23:38:26
つ 綱吉は偏執症

大名が小姓に任命されるのを辞退したっつーのは
いわゆる「尻ねらい」を回避ちうことだったのだろうか。
綱吉は男狂いだったらすぃねぇ。。。

185: 日本@名無史さん 投稿日:2006/06/15(木) 11:43:15
>>184
そう言えば、大岡越前殿の兄君が八丈島へ流されたのも、上様とお尻愛に成ることを拒んだからだとか…

200: 日本@名無史さん 投稿日:2006/08/11(金) 21:10:01
筑後国32万石の田中は?

201: 日本@名無史さん 投稿日:2006/08/14(月) 00:17:18
>>200
田中家は、1620年に無嗣断絶してます。
田中家の他に、織豊系の大藩では、米子の中村家、松江の堀尾家、松山の蒲生家が無嗣断絶。
せっかく戦国時代を乗り切ったのに、カワイソス…。

207: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/16(木) 15:23:33
>>201
蒲生家は

当主が若死にし、お家騒動で減封

関が原&家康との姻戚で加増

またも当主が今度は嗣子を残さずに若死に、徳川一門だから特例で弟が相続したが減封

またまた当主が嗣子を残さずに若死にし今度こそ改易

とことん当主の短命に振り回された家だ

208: 日本@名無史さん 投稿日:2006/11/17(金) 12:22:34
>>207
歴代当主の生物的生命力がもう少し多かったら、大大名でなくても残れたかもしれなかったのにね。
結局氏郷から見れば2世代(忠郷・忠知兄弟)しか続かなかった。

202: 日本@名無史さん 投稿日:2006/08/20(日) 02:14:12
最後に改易されたのは?
勿論大政奉還以前に

203: 日本@名無史さん 投稿日:2006/08/20(日) 10:55:12
天明八年に改易された近江小室の小堀政方かな

204: 日本@名無史さん 投稿日:2006/08/20(日) 16:21:41
本郷は?
あ、あれは改易じゃないか。

213: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/18(日) 01:44:18
立花が復帰できて宇喜多が復帰出来なかった理由てなんでしょう?
両方とも純粋戦力としての参加でしょ?命が助かってる時点で危険性は薄いと
判断されているわけで。

214: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/18(日) 02:48:20
立花は相当な人格者だったみたいよ。領民にも慕われていた。
改易の際は家臣の再仕官に感状を多く与えた。
そのためもあるのだろうが、その名声は全国に知れ渡っていたらしい。
仕官の誘いも多かったが浪人暮らしを選択。
それを秀忠に見い出され人間として信用されたと思う。
宇喜多は前田、島津(外様)と親しいからでは?

215: 日本@名無史さん 投稿日:2007/03/18(日) 22:08:36
確かに宇喜多は前田の親族(妻の豪姫の実家が前田)ではあるが、島津とはどうかねぇ
島津と親しいというなら、立花だって変わらないし

むしろ豊臣との近さが嫌われたと思われ>宇喜多

221: 日本@名無史さん 投稿日:2007/04/04(水) 13:03:37
>>215
立花の実父は島津に殺されている。いわば仇。
関ヶ原の帰路に偶然、遺恨は解消したらしいが親しくはない。

222: 日本@名無史さん 投稿日:2007/04/04(水) 17:08:23
>>221
そんなあなたに
『立花宗茂』人物叢書
関ヶ原の合戦以前に島津氏と誓詞を取り交わすなど
既に遺恨は解消ずみな事も書いてある

223: 日本@名無史さん 投稿日:2007/04/05(木) 01:08:48
>>222
関ヶ原の帰路に戦場を決死の突破してきた島津と出合った立花家臣団
が仇討ちを具申している。しかし宗茂は遺恨ない旨、使者を送った。
その申し出に島津義弘が感謝してもし東軍によって籠城を余儀なくさ
れたときは援軍を出す約束をした。

229: 日本@名無史さん 投稿日:2007/05/25(金) 01:49:16
福島正則
こいつ、策略とか一切無いのな。
正直モノは馬鹿を見る、の典型だろ。

50万→4.5万→0.3万だからな。
検死が来る前に荼毘に伏せよ、と遺言して、とうとう3000石までになった。

今も、長野県の最期の地には、墓が残る。

232: 日本@名無史さん 投稿日:2007/05/27(日) 06:27:47
>>229
人生あきらめていたのかもな。
さっさと隠居して、家康の娘を嫁にしていた二代目に継がせていれば
生きながらえたかもしれん。
細川家みたいに。

234: 日本@名無史さん 投稿日:2007/05/28(月) 08:21:39
江戸時代で最後に改易された大名は?

235: 日本@名無史さん 投稿日:2007/05/28(月) 10:16:03
>>234
多分水戸天狗党の乱の処理の仕方を問題視されて
改易になった松平頼徳。

236: 日本@名無史さん 投稿日:2007/06/01(金) 00:01:26
>>234
林忠崇・・・と言おうと思って、気づいた。
請西藩を改易したのは明治政府だ。

242: 日本@名無史さん 投稿日:2007/11/05(月) 23:20:03
江戸時代に改易されて絶家にされた大名の一族って、やはり領地から叩き出されて放浪したりするもの?
で、たどり着いた土地で郷士になったり帰農したりするのかな?

243: 日本@名無しさん 投稿日:2007/11/06(火) 00:21:47
>>242
「絶家」というのは、一族というよりも、その家個々が負っている問題です…

まず(弟や男子などの)継嗣がいるか、その存在を認められるかどうかで運命が分かれます。
そもそも「絶家」とは継嗣なきまま家主が亡くなることです。いなければ無嗣を理由に除封。
こういった例はそのまんま終了。確かあの小早川秀秋が最初の適応例だったかと。

いても幼すぎるとみられれば除封されることもありましたが、この例は本家や分家や姻族、
あるいは配流先の大名家が面倒をみたりしました。継嗣は後に大名や旗本として再雇用
されることが多く、それがなかったら縁故を頼ってどこぞの家に仕えることもありました。
落ちぶれても大名家。名門のうちなのですから、当てがないということはまずないのです。

石田三成のように関が原で負けて除封されたものたちは居場所そのものがないでしょうが
少し時代を過ぎればそんなことはなくなるのです。

244: 日本@名無史さん 投稿日:2007/11/06(火) 00:41:18
>>243
詳しくサンクスです。
たとえば、大名に5人男子の子供がいたとする。
で、長男が後を継ぎ、2代目になったとする。そしたら残りの4人は家臣化するわけですよね。
(婿入りは例外として)
で、その2代目が男子がいないうちに急死して領地没収、お家断絶にされる。

すると、残りの4人は大名の血筋なわけだけど、領地没収されているわけだからもうそこにはいれないですよね。

となると、家臣であれば大名の一族であろうが放浪する、とはなりませんでしょうか。

246: 日本@名無しさん 投稿日:2007/11/06(火) 02:03:18
>>244
末期養子の禁というのもあったりしたのですが、これとて結局は廃止されてしまいます。
ましてや舎弟がいるのなら、嫡男が生まれるまでは誰かを継嗣にしておくのが普通ではないでしょうか。
そうしないと、仰るように臣下もろとも困窮することになりかねないからです。

251: 日本@名無史さん 投稿日:2007/11/08(木) 13:25:16
>>246
まだ生殖活動ができない年齢や体力の場合、「仮養子」みたいな形で予め兄弟や縁続きの家の子を指定しておき都合に
応じて更新したりするケースもあったようです。
もちろん実子が生まれればそちらが継承順位第1位になるわけですが。

245: 日本@名無史さん 投稿日:2007/11/06(火) 01:21:53
> で、その2代目が男子がいないうちに急死して領地没収、お家断絶にされる。

2代目に男子がいなければ、弟のうち誰かが形式だけでも養子になってるよ。
弟が沢山いるのに無嗣廃絶なんてまず起きない。
それから大名家ってのは婚姻政策を行って、あちこちの大名家や旗本家が
親戚・姻戚だから、もし改易になって路頭に迷えば、親戚の家に厄介になるんだよ。

247: 244 投稿日:2007/11/06(火) 02:15:54
みなさま、レスありがとうございます。
具体例をあげて、もう一度だけ質問させていただけますでしょうか。
甲斐徳美藩が江戸前期にありましたよね。
甲斐徳美藩は4代目の勝守(子供無し・兄弟無し)が発狂し、自害したため改易され、領地没収、絶家となったようですが、
すなわち自害した勝守の実父、3代目当主の勝政には兄弟が3名いたようですが、各々に妻をめとり、徳美藩家臣となっていたのではと推察しています。
いわゆる、勝守の叔父にあたる3代目当主勝政の兄弟の一族は、徳美藩が御取り潰しになった際、やはり>>245氏の仰る通り、親戚や知り合いの大名家に行くのだと思いますが、
徳美藩に限らず、こういった状況(すなわち、大名の叔父にあたる人間の一族)は他大名で仕官という形になるのが一般的なのでしょうか。
それとも、流れ着いた大名家の領地で知行をもらい、旧族郷士として生きていくなど、ありますでしょうか。

わかりにくい質問で申し訳ございません。

248: 日本@名無しさん 投稿日:2007/11/06(火) 02:54:12
>>247
伊丹勝政は嫡男勝守が生まれるまでは、弟勝久を世子としていますね。
また勝政の弟が大村藩に養子に行っているので、ここを頼ることもあったでしょう。
具体的には存知ありませんが…

小野寺氏のように、子孫が預かり先に封じられた大名の家臣になるという例は
江戸時代初期に少しみられます。水戸のような新設藩では家臣を欲していた
という事情もあってか、宇都宮氏のような名族を採り立てていますね。

249: 244 投稿日:2007/11/06(火) 03:09:59
>>248さん、どうもありがとうございます。
なるほど、大村藩の養子になっておりますね。
徳美藩は初代当主康勝、2代目当主勝長までは越後国の佐渡奉行を親子二代で歴任していたようですので、
越後国の藩にでも行ったのかなと予想しておりました。

実際、各々に3~5名ほどの子供がいたようですので、あちらこちらに散らばっているのでしょうね。

>子孫が預かり先に封じられた大名の家臣になるという例は江戸時代初期に少しみられます。
なるほど。
やはり、仕官するのが一般的なのでしょうか。
個人的には「旧大名の血縁」という由緒で旧族郷士にでもなっていたのか?と予想していました。

引用元: ・【加藤】改易された大名【最上】





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