510BXE2V1BL



1: 世界@名無史さん 2014/02/16(日) 15:34:08.70 0.net
多神教、一騎打ちを好むアラブ騎兵、移動型や定住型の部族の混在
隊商、貿易ルートとしての重要性、乾燥地帯での農業 などなど

ムスリムからは暗黒とも言われるムハンマドの勢力確立以前の時代を語りましょう








2: 世界@名無史さん 2014/02/16(日) 15:36:12.43 0.net
メッカの町は古くより存在し、2世紀に書かれたクラウディオス・プトレマイオス(トレミー)の「地理学」にはマコラバの名ですでに記載がある。
このころからメッカは聖域とされており、5世紀中盤にはクライシュ族がこの地を制圧した。

3: 世界@名無史さん 2014/02/16(日) 15:36:42.81 0.net
クライシュ族は6世紀にはキャラバンによる遠隔地交易に乗り出し、隊商路の安全を保つためにアラビア半島各地の勢力を制圧したり糾合して、メッカはその盟主となっていった。
併合された勢力の神は滅ぼされず、メッカのカーバ神殿へと遷され、その神を信じる同盟勢力の人々が巡礼のためメッカへと赴くようになった。
ムハンマドが生まれた570年頃にはおよそ一万人の定住者人口を持ち、まだ中東の都市のなかでは小規模であったが、商業都市として、また広域信仰圏の中心として急速に発展しつつあった

10: 世界@名無史さん 2014/02/16(日) 16:55:55.79 0.net
>併合された勢力の神は滅ぼされず、メッカのカーバ神殿へと遷され、その神を信じる同盟勢力の人々が巡礼のためメッカへと赴くようになった。

これすごいね
ローマより寛容だ
寛容どころか保護して、集めることでさらに知名度広めやすくしてる

4: 世界@名無史さん 2014/02/16(日) 15:37:57.23 0.net
ペルシャ地域の混乱が何度も長く続いたせいで、交易路としての重要性がはねあがったとか

6: 世界@名無史さん 2014/02/16(日) 15:44:50.88 0.net
イスラム創成期のハンダクの戦いで、塹壕を街の周りにムスリムが掘ったら
メッカの勢力がアラビア北西部の遊牧民から勇猛な騎兵と、ムハンマドに追放されたユダヤ人たちを雇って押し寄せた軍団が
↓こんなことになっちまったらしいが、ローマやエジプト、イスラエル、ペルシャの知識は伝わってなかったのか?

>従来のアラブの戦いは、野戦での騎士による一騎打ちが伝統とされ攻城戦という概念はなかった。
>メッカ連合軍は初めて目にする塹壕に為すすべもなく、騎兵による塹壕突破を図ったが成功しなかった。
>騎士アムルのみが塹壕の幅が狭くなっている箇所を発見し、数名の従者と共に塹壕内に飛び込んだが、アリーとの一騎打ちの果てに敗れて討ち取られた。
>これ以降メッカ連合軍の士気は振るわず、夜襲をかけてもイスラム側の見張りに発見されて成功ししなかったので、やがて遠巻きに町を囲むのみになる。

7: 世界@名無史さん 2014/02/16(日) 15:46:48.67 0.net
現在の主要都市
no title


砂漠化って現代とほぼ同じくらい進行してたのかな?

16: 世界@名無史さん 2014/02/17(月) 18:25:51.20 0.net
ソコトラとかの南アラビア諸語の話者って自らをアラブ人って認識してるのかな?
そこから派生したエチオピアのセム語の話者はアラブ人って認識はしてなさそうだけど

19: 世界@名無史さん 2014/02/18(火) 00:58:40.60 0.net
ジャーヒリーヤ(暗黒)時代っていうから全くタブーなのかと思ったら
部族社会で伝承されていた詩などは古典として残ってるみたいだね
エジプト人の留学生が高校で習いましたと言っていた

20: 世界@名無史さん 2014/02/18(火) 02:51:28.60 0.net
イスラム以前の非啓典の民非ゾロアスター系の多神教の偶像とか神話とか知りたいけど
まあむりなんだろうな マンダとかマズダクとかマニとかか

22: 世界@名無史さん 2014/02/18(火) 12:06:24.26 0.net
>>20
マンダ教とかサービ教(この2つは同じものだという説もあるな)はともかく
マズダク教やマニ教はゾロアスター教からの派生とみて間違いないだろう

23: 忍法帖【Lv=2,xxxP】(1+0:8) 2014/02/18(火) 14:04:49.34 0.net
>>20
マンダ教は現存してるやん(´・ω・`)

26: 世界@名無史さん 2014/02/18(火) 20:46:39.03 0.net
シャーイル(詩人)やカーヒン(祭司)はマジュヌーン(ジン憑き)
ムハンマドはナビー(預言者)でラスールッラー(アッラーの使徒)

27: 世界@名無史さん 2014/02/18(火) 21:04:39.22 0.net
でも「アル=イッラーフ」からイスラームの神を呼ぶために「アッラーフ」という単語が出来たのがイスラーム以降だから必然的に「アッラーの使徒 」とかいう概念ができたのもイスラーム以降なんでしょ?

28: 世界@名無史さん 2014/02/18(火) 22:13:00.69 0.net
アッラーはアル(定冠詞)+イラーハ(神・男性単数)の組み合わせで、英訳すれば単にThe God
べつに固有名詞ではないし大文字小文字の差もないから、
そのままイスラーム以前から特定の男性神を指す時には使うことができたろう
結果的にはムハンマド以降アラビア語においてその意味が劇的に変わったというだけのことだろう

29: 世界@名無史さん 2014/02/18(火) 22:30:04.27 0.net
文献学的にはアッラー(الله)って形はいつ出てきたんだろ?
ジン(جن)は天国(جنة)と同語根の様だけどそこから察するにイスラーム以前には神(إله)扱いされてたりしてないんだろか?

30: 世界@名無史さん 2014/02/18(火) 23:42:01.94 0.net
確かアッラートって女神も祀られてたんじゃなかったっけ。アッラーと対になってたのかな

31: 世界@名無史さん 2014/02/19(水) 03:45:34.91 0.net
日本語でググって出る限りの情報では
アッラート、マナート、アル=ウッザーでアッラーの3人の娘
それからフバル
それ以外は?

33: 世界@名無史さん 2014/02/19(水) 23:28:37.99 0.net
アッラーには娘がいたのか

38: 世界@名無史さん 2014/02/21(金) 15:16:54.23 0.net
>>33
まあ、旧約聖書の神だって
我々に似せてて人間を作ったと明記しているからな

42: 世界@名無史さん 2014/02/22(土) 07:00:04.34 0.net
>>33
その言い方は不正確
アッラーはあくまで「神」という普通名詞だから
ムハンマド啓示以前と以後で同じ呼称でもつながりはない

36: 世界@名無史さん 2014/02/21(金) 12:06:44.46 O.net
イスラムの人ってメソポタミア文明やエジプト文明のことどう思ってんのかな。
偉大なムハンマド以前の野蛮な文明に価値などないって思ってるんだろうか。

37: 世界@名無史さん 2014/02/21(金) 14:42:03.70 0.net
イスラーム登場時にはオリエントの先行文明はすでにキリスト教とゾロアスター教に塗り替えられたあとだった
コーランには先行する文明や預言者たちに敬意を払っていることがわかる
ハディースでは広く知識を求める事を奨励している
異教徒であろうと何かの宗教を信仰していれば取引の相手として認めるのがムスリム
ただ同時に機会があればイスラーム入信を薦めてくる

39: 世界@名無史さん 2014/02/21(金) 17:54:37.10 0.net
改宗した連中は、以前はカーバの黒い石とかを崇めてた
わけのわからん信仰をもつわけのわからん連中なんだろう?

それともゾロアスターが主な改宗前の主要宗教だったの?

45: 世界@名無史さん 2014/02/25(火) 21:21:24.69 0.net
>>39
当時のアラブ人の大多数はいわゆる多神教徒
加えて当時のアラビア半島には少数派ではあるがユダヤ教徒も居住していた。

ゾロアスター教はほとんどササン朝の領域に限定されていて
当時のオリエントで勢力を広げていたのはローマ帝国において
正統(カトリック)的でないとされたキリスト教の派閥よ。

41: 世界@名無史さん 2014/02/22(土) 03:06:02.31 0.net
ユダヤの唯一神YHWHも、多神教の一神だった「黒歴史」があるんだろうな
旧約聖書には書かれてないだろうけど

42: 世界@名無史さん 2014/02/22(土) 07:00:04.34 0.net
>>41
エホバを神として「選んで」契約し、という表現が創世記にあったと思う
創世記は翻訳で読んでもあちこちに多神教の名残りを感じ取れる内容だ

44: 世界@名無史さん 2014/02/24(月) 23:13:05.16 0.net
創世記で天地を創った神と、モーセを助けたユダヤの神は別人という説もあるな

47: 世界@名無史さん 2014/02/26(水) 18:14:01.29 0.net
ヨルダンのガッサーン朝、イラクのラフム朝はキリスト教(ヤコブ派など)
イエメンのヒムヤル朝はユダヤ教
ナジュドのキンダ朝は多神教ほかいろいろ

49: 世界@名無史さん 2014/02/27(木) 12:39:57.01 0.net
ヒトコブラクダの家畜化はアラビア半島が起源

53: 世界@名無史さん 2014/02/28(金) 19:10:42.98 0.net
>>49
昔から大型だったかららくだ騎兵の歴史ってかなり古いんだよなカルカルの戦いとか。
重いもの載せれるし、運搬能力は馬以上、乾いた地での持久力は圧倒的
でも馬のほうが戦場では良く見られる

やっぱ気性が荒いことが原因か?

54: 世界@名無史さん 2014/03/01(土) 13:36:57.90 P.net
>>53
ラクダは、その体型から、車を牽かせにくいからなあ。
実質、騎兵の用途でしか使えない。
このパターンは、象と似てる。象も、体型の問題から車を牽かせにくい(出来ないことはないけど)
だから、象も、事実上古代の騎兵としてしか使えなかった。
結局、ラクダは馬に劣後し、象は牛に劣後した。馬と牛は、どちらも車を牽くことができる。

まあ、日本のように、どういうわけか馬で車を上手に牽けず、
事実上、「荷駄馬としてしか使えなかった」文化圏もあるけどね。
実は、ラクダは日本に向いてたのかもな。梅雨時に脚が化膿壊死して死んでしまうかw

55: 世界@名無史さん 2014/03/01(土) 15:03:51.47 0.net
ラクダも、ひとこぶラクダとふたこぶラクダでは用途が異なる
ひとこぶ →騎兵用 ふたこぶ →荷役用

56: 世界@名無史さん 2014/03/01(土) 16:58:01.13 0.net
フタコブラクダは中央アジア以東のもので
ヒトコブラクダの10分の1しかいない

57: 世界@名無史さん 2014/03/02(日) 02:20:44.18 0.net
ふたこぶをひとこぶエリアに連れてきたら、熱中症でばったばった斃死するんだろうか
ダナキル低地とか特にやばそう

59: 世界@名無史さん 2014/03/02(日) 05:36:53.16 0.net
『The Cambridge History of Africa(ケンブリッジ大学 アフリカの歴史)』(1975)によれば

アラビアとインドの香や香辛料における貿易はますます重要なものとなり、ギリシア人は始めて直接インドと貿易を始めた。
(中略)
紀元前115年頃にアラビア南西部にあったサバ人の王国が崩壊し、ヒムヤリテ王国が台頭した。
この期間に、おそらくアラブ勢力の弱体化で、エジプトとインドとの直接接触が可能になった。
エジプトに輸入されるシナモンやその他コショウなどの東洋の香辛料はかなり増加した。
しかしながら、インド洋航路での貿易も小規模ながら短期間続いており、毎年、20隻未満のエジプト商船が危険を冒して紅海の外に出ていた。

60: 世界@名無史さん 2014/03/02(日) 05:41:50.72 0.net
インダスとメソポタミアという2大古代文明間の海上交易と発展し、インダス渓谷で作られた綿織物がメソポタミアに輸出されていた。
紀元前23世紀ころのメソポタミア遺跡から発見されたインダス文字の印章も当時の交易を物語っている。
また、紀元前30世紀ころのエジプト古代王朝も紅海貿易を展開していたが、孔雀を輸入したとの記録があり、インドとの交易を示唆している。
紀元前7世紀には鉄製釘を使って竜骨材と側板を張り合わせたダウ船がこの海域の代表的な航海船となる。


インド洋貿易の話から一部抜粋
http://www.in.emb-japan.go.jp/Ambassador_Lectures/Ambassador_Lectures3.html

61: 世界@名無史さん 2014/03/02(日) 05:43:10.78 0.net
1世紀にギリシャ系エジプト商人が記述した「エリュトラ海案内記」
アラビア海貿易の模様を生き生きと描写しており、ソマリア海岸のスパイス、奴隷、亀甲、象牙、及びエジプトの衣料、食糧、インドの鉄製品、綿織物、ごま油など各地の名産が活発に交易されている模様を紹介している。

エリュトゥラー海案内記に基づいたインド洋(Erythraean Sea)における1世紀のローマ・インド間貿易のルートと主要都市
no title

62: 世界@名無史さん 2014/03/02(日) 05:44:35.40 0.net
イエメンのヒムヤリテ王国(Himyarite Kingdom)やフランキンセンス王国(the Frankincense Kingdom)
についての情報あったら誰か教えてくだされ

63: 世界@名無史さん 2014/03/02(日) 13:57:03.11 0.net
隊商交易の時代(乳香の道)
http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Najran-2.html#3.
ヒムヤル王国とジャヒリイヤの時代
http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Najran-2.html#4.
アビシニア傀儡政権とペルシャのイエメン獲得
http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Najran-2.html#5.

65: 世界@名無史さん 2014/03/02(日) 19:45:55.46 0.net
>>63
お、いいねそのサイト。
アクスム王国のイエメン侵攻の経緯に暗かったんだが、非常によく分かった
いわれてるほど、ユスティニアヌス1世の教唆って感じでもなさそうだね

70: 世界@名無史さん 2014/03/02(日) 23:03:28.61 0.net
ユダヤ教徒がキリスト教徒を大虐殺したってのは珍しいな
初期の弱小教団だった頃を除いては、あんまり例がないんじゃないか
ユダヤ教国家ってのも、このヒムヤル王国以外にはハザール王国くらいしかないか

71: 世界@名無史さん 2014/03/03(月) 01:20:51.86 0.net
イラク北部にアディアベネ王国というのがあって
1世紀にユダヤ教に改宗している

73: 世界@名無史さん 2014/03/04(火) 13:51:14.72 0.net
そういやユダヤ教ってどれくらい広まってたの?
なんか選民的で広く普及しないイメージなんだが

74: 世界@名無史さん 2014/03/07(金) 11:56:34.41 0.net
1世紀頃にはユダヤ人は数百万人もいて
ローマ帝国の人口の1割にも達したという
ユダヤ人は奴隷を解放する時に割礼を施して
ユダヤ教徒に改宗させていた

76: 世界@名無史さん 2014/04/21(月) 19:47:47.10 0.net
ゼノビアってシバの女王のモデルだっけ

78: 世界@名無史さん 2014/04/21(月) 19:58:58.69 0.net
シバの女王は紀元前10世紀(伝説)
ゼノビアは紀元後3世紀(実在)

81: 世界@名無史さん 2014/04/22(火) 11:25:28.46 0.net
>>76>>78
ゼノビアは、シバの女王とエジプトのクレオパトラを、モデルにしていたのは事実。

シバの女王は、時代が1000年以上前と言っても一応同じアラブ人の女王だし、
クレオパトラを持ち出したのは、エジプトやアナトリアを押える上でも必要だった。

今は、アナトリアは、トルコ人の支配地だけど、当時は、ギリシャ人が多く住む場所だった。
クレオパトラは、エジプトの女王だけど、プトレマイオス朝のルーツは、ギリシャだから。

82: 世界@名無史さん 2014/04/22(火) 13:48:51.87 0.net
>>81
>一応同じアラブ人の女王だし

ん?アラブ人?
セム人ならまだわかるが

83: 世界@名無史さん 2014/04/22(火) 16:53:02.49 0.net
アラブ人もセム人だが。

当時は、アラム人かな? アラム人が、アラブ人になったと言う説もある。

それとイスラム化する以前のアラブ人には、北アラブ人と南アラブ人の区別があった。

ゼノビアは、明らかに北アラブ人っぽい。

シバの女王は、南アラブと言うか南セム系だろうね。
エチオピアとの交渉の話しも出てくるからね。

86: 世界@名無史さん 2014/04/25(金) 11:41:16.91 0.net
ムハンマドっつーか、クライシュ族は、南アラブっぽいけどね。

ムハンマドによるアラビア半島制圧は、南アラブ人の統一で、
メソポタミヤ、シリア、パレスチナ制圧は、北アラブ人制圧の意味があるのかも。

正統カリフ時代~ウマイヤ朝までは、アラブ帝国と言われるから、
基本的に南アラブ人による北アラブ人やペルシャ、アフリカの制圧なかのかも。

88: 世界@名無史さん 2014/04/25(金) 17:58:42.24 0.net
>>86
その用法の「アラブ」は「セム」に言い換えるべき

北西セム(カナン人、シリア人など)、東セム(アッカド人、バビロニア人)、南セムとあって
アラブは南セムの民族
南アラブというのはそのアラブのうちイエメンなど特に南寄りの特殊な一群

89: 世界@名無史さん 2014/04/25(金) 18:36:00.59 0.net
本当?
メッカって結構南だけどね。

メソポタミヤ、シリア、パレスチナなどは、アラブ化されたアラブっていわれるけど?

>アラブは南セムの民族
>南アラブというのはそのアラブのうちイエメンなど特に南寄りの特殊な一群

んじゃ?今のサウジあたりが、北アラブ?  南アラブっぽいけどな。

94: 世界@名無史さん 2014/04/25(金) 21:25:08.75 0.net
>>89
シリア方面のアラブ化はイスラーム以後のことだからまた別
その前はアラブと言ったらその「けっこう南」だけ

105: 世界@名無史さん 2014/04/28(月) 14:31:33.77 0.net
>>94
>シリア方面のアラブ化はイスラーム以後のことだからまた別

そうか? ゼノビアは、ベドウィン出身だが、パルミアの本拠地は、シリアだぞ。

属州アラビアや属州シリアなどは、それほどヘレニズムが浸透している訳ではない。
ギリシャ人が居るには居るけど、ローマ帝国が弱体化すると、直ぐに分離傾向を見せる。

95: 世界@名無史さん 2014/04/26(土) 00:26:25.34 0.net
南アラブは多くがマアリブダムの放棄までイエメンの農耕民だったから、
多くが遊牧民だった北アラブよりも人口が多かった。
南アラブの遊牧民化によりアラブ遊牧民が増大したので、
イスラムの大征服が実現したとされる。

97: 世界@名無史さん 2014/04/26(土) 09:26:01.25 0.net
>南アラブの遊牧民化によりアラブ遊牧民が増大したので、イスラムの大征服が実現したとされる。

たしかにムハンマドの時代には、ペルシャ帝国と東ローマ帝国の対立に
挟まれた事も有り、通商路の変化と共に、アラブ人統一の機運が出ていたらしい。

ただし、その統一機運は、別に宗教色を伴った物ではなかった。

それとササン朝ペルシャへの反感は、セットだろう。
「ニバーハンドの戦い以前までは、我々(アラブ人)は、(ペルシャ人に)バカにされていた。」
とのアラブ人(イスラム軍)の証言が、記録にあったと思う。

同じ一神教徒が、多神教のゾロアスター教のササン朝の打ち破った事で、
中東のキリスト教徒は、イスラムの勝利に当初は、賛同していたらしい。

イスラムでは、イエスも一応預言者の一人だし。

99: 世界@名無史さん 2014/04/26(土) 19:46:14.19 0.net
南アラビア人は言語的にはアラビア人よりもエチオピア人に近い
それでもアラビア半島の南東部に完全には同化されずに残ってるってのは
広漠な土地であるにもかかわらず閉鎖性が高い社会だからなのだろうか?

100: 世界@名無史さん 2014/04/27(日) 00:23:30.34 0.net
北アラブ人と南アラブ人は、やはりルーツが異なるのでは?

北アラブ人は、アラム人由来なんだろう。

南アラブ人は、エチオピア人に近い。

ヒムヤル王国は、イエメン人の政権のはずだけど、エチオピアの衛星国って感じ。

105: 世界@名無史さん 2014/04/28(月) 14:31:33.77 0.net
>>99
そもそもサバ王国とかは、当初は、メソポタミアやエジプトやエチオピアの影響は少なくて、
古代イエメン独自の文明だったんだろう。それが、交易の進展と共に文字の伝来などが有り、
エジプトやエチオピアの文化的影響下に入った。

ヒムヤル王国も、当初は、ユダヤ教とは関係なかった。途中から、あれほどマデにユダヤ教に傾斜した。

105: 世界@名無史さん 2014/04/28(月) 14:31:33.77 0.net
>>100
北アラブ人は、もともとは、アラム人なんだろう。

アラム人自体が、当初から遊牧民だし、ベドウィンと言うのも、
特定の民族を表す言葉ではなくて、砂漠地帯のラクダ遊牧民の総称であり、
生活様式を表す言葉なのだろう。しいて言えばアメリカのカウボーイに近いと思う。

また、ベドウィンを表すヘブライ語が、アラブと言う説がある。
そうなるとアラブも民族名ではなくて、砂漠地帯のラクダ遊牧民の総称だった可能性がある。

それが何時の間にか、民族名になってしまった。

で南アラブ人は、イエメン人だ。 しかも後年になり、エチオピアやエジプトの影響を受けている。

101: 世界@名無史さん 2014/04/27(日) 02:37:26.96 0.net
同系統だけどやや遠い関係の2グループが主なルーツで、しかも中核を成したグループの言語が、同化したはずのグループの言語にとってかわられる
こんなケースって他にあるかな。あるいは南アラブがアラブの大本って伝承がフィクションの可能性もあるのかな
同化したはずの集団の言語が支配者の本来の言語にとってかわるケースは、語族レベルで違うなら満洲族やムガール朝王家などがあるけど

102: 世界@名無史さん 2014/04/27(日) 03:44:36.58 0.net
>>101
テュルク語内でキプチャク語群を話す支配者が現地のカルルク語群と同化したシャイバーニー朝

進出していった各地で現地の別系統の印欧語に乗り換えていったノルマン人

103: 世界@名無史さん 2014/04/27(日) 14:10:37.16 0.net
血統はともかくアラビア語は南セムに分類される

北西セム語はカナンシフトと言う独自の音変化を経ていて
東・南とかけ離れている

その点ではウガリット語・ヘブル語・フェニキア語・アラム語いずれも共通の北西セム

104: 世界@名無史さん 2014/04/28(月) 12:55:21.16 0.net
>>103
南アラビア諸語とアラビア語は別物
混同してはいけない

アラビア語は北西セムと同系の中央セム
南アラビア諸語はエチオピア諸語と同系の南方セム

115: 世界@名無史さん 2014/04/29(火) 00:12:22.47 0.net
.
【 ジャーヒリーヤ時代 】

 後世のアラビアの史家が、イスラム出現前夜の4~6世紀のアラビア半島を呼ぶ言葉。
この時代は定住から遊牧の時代へと移り変わる激変の時代だった。

特に南アラビア(イェメン)では砂漠化の進行が著しく、
ヘレニズム経済圏との交通路を途絶されて経済は破綻した。

  →  農耕民の遊牧化、北方への大移動開始

 南アラブ族の北方移動の結果、次のような勢力が中央~北アラビアに出現した。

・ガッサーン族……イェメンから北上し、4世紀末にナバタエ族の故地ペトラを占めて王国を築く。王国は636年イスラム軍に滅ぼされる。
・ラフム族……同じくイェメンから北上し、ユーフラテス川河口に近いヒーラに王国を建設。
・キンダ族……中央アラビアの遊牧民を統一し、480年頃から529年までの約50年間、ネジド高原に王国を維持した。
・カルブ族、タイイ族ほか……7世紀初めにシリア砂漠にいた遊牧部族。

 こうした変動の結果、6世紀前半のアラビア半島の形勢は次のようになった。

・北アラビア
 シリア方面にはガッサーン朝、メソポタミア方面にはラフム朝があった。 ただし文化活動は低調。

・中央アラビア
 キンダ王国が諸部族を統一(c.480~529)。

・南アラビア
 繁栄は失われ、最後の王国ヒムヤルも国家としての統一を失い、
 525年にエチオピアのアクスム王国の侵入で滅ぶ。

116: 世界@名無史さん 2014/04/29(火) 00:59:13.74 0.net
ガッサーン朝、ラフム朝ではすぐに南アラビア語は失われたのかな
あるいは北上中に既に中央セム系のアラビア語に乗り換え?

117: 世界@名無史さん 2014/04/29(火) 09:46:12.97 0.net
ガッサーン朝もラフム朝も、アラブの詩人を招いたりして、
それなりに文化活動をしていた感じだけどね。

言語は如何なんでしょうね? 

ガッサーン朝は、東ローマの衛星国だし、ラフム朝は、ササン朝ペルシャの衛星国だ。

118: 世界@名無史さん 2014/05/01(木) 19:23:44.12 0.net
アラビア半島を統一したのは、イスラム教の開祖マホメットと言われるが、
実は、それ以前にもアラビア半島を半ば統一しかかった人物が居た。

それが、ラフム朝二代目の王と言われるイムル・ル・カイスである。

彼は「全アラブの王」を称して、積極的にアラビア半島での遠征を敢行し、
半ば、アラビア半島を統一しかかった。特に、中央アラビアのキンダ王国
を攻め滅ぼし、アラビア半島の政治的統一をかなり前進させた。

ササン朝との共同の軍事行動ではあったが、
南アラビアのイエメンにも侵攻しヒムヤル王国と交戦し、オマーンにも進出。

また、シリアにも兵を進めてダマスカスやアンティオキアを包囲している。
東ローマやガッサーン朝の反撃で、撤退するが、東ローマやガッサーン朝に
大きなダメージを与えた。

アラビア半島側のペルシャ湾岸地帯も当初は、
ペルシャ帝国の版図だったが、後にラフム朝に譲られている。

ラフム朝は、紅海沿岸部のヒジャース地方以外に、ほぼ全て侵攻している。

理由は定かではないが、後にササン朝と対立して、ラフム朝は、滅ぼされ
てしまうが、これだけの広範囲の領土と軍事行動を見ると、ラフム朝による
アラビア半島の統一の可能性は、十分にあったと思う。 
また、その機運も高まっていた可能性がある。

119: 世界@名無史さん 2014/05/02(金) 09:01:37.47 0.net
>理由は定かではないが、後にササン朝と対立してラフム朝は滅ぼされてしまうが

ササン朝のホスロー2世の対東ローマ開戦に反対したからなのでは?

120: 世界@名無史さん 2014/05/03(土) 05:49:16.41 0.net
>>119
え!そうなの? 始めて知った。

しかし、ラフム朝は、東ローマやガッサーン朝を攻撃しているのに、
何で対東ローマ戦に反対したんだ? 変な話だよね。 シャーも怒るわけだよ。

121: 世界@名無史さん 2014/05/03(土) 08:49:47.62 0.net
ホスロー2世は東ローマのマウリキウス帝の援助で王位を回復して
マウリキウスの娘を妃として東ローマと友好関係にあった。
マウリキウスが反乱で殺されフォカスが皇帝になったので、
ホスロー2世は東ローマと戦おうとしたが、東ローマ側から
ペルシャ側に攻勢にでる情勢でなかったので、ラフム朝は
現状維持を望んで反対したとされる。
東ローマはフォカスらの反乱でバルカン戦線が総崩れで
とてもペルシャ側へ攻勢にでる余裕がなかった。

122: 世界@名無史さん 2014/05/03(土) 19:41:04.92 0.net
>>121
>東ローマ側からペルシャ側に攻勢にでる情勢でなかったので、
>ラフム朝は現状維持を望んで反対したとされる。

ふ~ん! これだとラフム朝は、東ローマとササン朝の二また掛けていた可能性あるね。

ガッサーン朝(族)も当初は、女族長のマヴィアとかが、反ローマでローマの軍団と
戦っていたんだけど、後に友好関係になって、東ローマの属国になっている。

ラフム朝も東ローマとササン朝の両方からオイシイ汁をもらっていたのかも。

また、ササン朝が、東ローマを圧倒すると、メソポタミアやシリア、パレスチナを
ササン朝に奪われる可能性があるから、その危険性を排除し様としていたのかも知れないけど。

いずれにせよ、東ローマ(ギリシャ)とペルシャの対立の狭間で
アラブ人が、色々政治的な動きを模索していたのは、事実だろう。

東ローマ(ギリシャ)とペルシャの対立が、アラブ人やアラビア半島の
政治的統一を志向させたり、促進させた理由と言えるだろう。そして、
更に、この事が、北アラブ人(アラム人)と南アラブ人(イエメン人)の
対立を緩和させた面があるのかも知れない。

引用元: ・イスラム化以前のアラビアのスレ





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