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1: 世界@名無史さん
無かったので立てました。








4:
しょうがないから話題振ろう。

「玄宗は名君か暗君か」

存分に議論してください。
170px-Tang_XianZong


玄宗

玄宗
(げんそう)は、唐の第9代皇帝。諱は隆基。唐明皇とも呼ばれる。

治世の前半は開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。

前半の善政と後半の堕落。玄宗の功罪をどう評価するかは難しい。節度使が唐だけではなく五代十国時代まで戦乱の原因になったことを考えると、さらに評価は分かれる。ただし、堕落した後半生でも、民へのいたわりを見せていた。長安から蜀へ避難する際、宝物庫を焼き払おうとする楊国忠に「賊が宝物を得られなければ、今度は民への略奪が激しくなる」と言って制止した。


17: 世界@名無史さん
玄宗皇帝は、無気力でぼんくらの睿宗皇帝の子供にしては勇気があり、頭もまあまあ。
しかし、根っからの金遣いの荒い遊び人的な性格。

即位当初は我慢して倹約していたけれども、治世20年過ぎて気がゆるみ、
ついに虫がはい出してきて治世後半の乱脈政治に直結と言うこと。

18: 世界@名無史さん
玄宗の治世前半は名君で、晩年だめになったってよく聞くけど、
ほんとかいなあ。
たんに治世の前半は武則天期に登用された名臣たちが手綱取ってた
から比較的うまくいってただけなんちゃうの?
開元の治世で玄宗が主導してこれをやった!…というのが思いつか
んのね。
玄宗は政治的才能より政権争奪における果断さや独特の嗅覚のほう
が光ってると思う。

19: 世界@名無史さん
太平公主(だっけか?)を排除するためのクーデターをおこしたことで
後継者の地位を獲得したんで、ちょっと運命が一本違えば無名の部屋済み
の皇子だった人。

34: 世界@名無史さん
>>19
本当だったら兄貴が皇位を継いでいたわけだし…。

23: 世界@名無史さん
最初は名君っぽく登場して、晩年の頃には暗君・昏君ってのは
治世の長い君主や権力者にはありがち。
漢の武帝もそうだし、日本では徳川綱吉なんかが典型的な例。
玄宗だけが特別な例ではない。

27: 世界@名無史さん
つか、前半の善政は則天武后の遺産、中盤は張説が頑張ったから良かったが、
後半に李林甫が出てくるとだめになった。
結局輔佐の臣に左右されやすい君主だったんだろ?

張 説

張 説(ちょう えつ、667年(乾封2年) - 730年(開元18年))は、中国唐代の政治家である。

688年に科挙に第2階級で合格して太子校書郎となり、以降、文官、武官として順調にキャリアを重ね、工部侍郎、同中書門下平章事、中書令、按察使、節度使を歴任し、3度も宰相となった。

713年には、玄宗に刀を送って太平公主に対する挙兵を決断させ、その功績で燕国公に封じられた。


李 林甫

李 林甫(り りんぽ、? - 天宝11載(752年))は、唐代玄宗朝の政治家であり、唐朝の宗室。貴族派の代表として、張九齢など科挙出身者の派閥との権力抗争に勝ち、その後も他の政治家たちを謀略の末に追い落とし、19年も宰相の地位にあった。しかし、楊貴妃のいとこである外戚の楊国忠に権力争いに苦戦し、死後に庶民の地位に落とされた。安史の乱の遠因をつくるなど、唐王朝を衰退に向かわせたとされる。


28: 世界@名無史さん
現代中国での武則天の評価ってどんなもんなんでしょうね。

29: 世界@名無史さん
評価しない人は「則天武后」と言い、
評価する人は「武則天」と言うらしい。

で、発行物をみると歴史史料以外はほとんど「武則天」。

26: 世界@名無史さん
唐代になって突然帝号がやたら長くなるのは何でだろう。

31: 世界@名無史さん
唐代になって突然帝号がやたら長くなるのも則天の虚栄心から

32: 世界@名無史さん
>>31 
高祖からだが?

35: 世界@名無史さん
李淵           高祖神堯大聖光孝皇帝
李世民          太宗文武大聖大廣孝皇帝←太宗文武大聖皇帝←太宗文武聖皇帝
李治           高宗天皇大聖大弘孝皇帝←高宗天皇大聖皇帝←高宗天皇大帝
武曌           則天順聖皇后
李顕           中宗大和大聖大昭孝皇帝←中宗大和大聖皇帝←中宗孝和皇帝
李旦           睿宗玄真大聖大興孝皇帝←睿宗玄真大聖皇帝←睿宗大聖真皇帝
李隆基         玄宗至道大聖大明孝皇帝
李亨←紹←璵←嗣昇 粛宗文明武徳大聖大宣孝皇帝
李豫←俶        代宗睿文孝武皇帝←世宗睿文孝武皇帝
李适           徳宗神武孝文皇帝
李誦           順宗至徳弘道大聖大安孝皇帝
李純←淳        憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝←憲宗聖神章武孝皇帝
李恆           穆宗睿聖文恵孝皇帝
李湛           敬宗睿武昭愍孝皇帝
李昂←涵        文宗元聖昭献孝皇帝
李瀍           武宗至道昭粛孝皇帝
李忱←怡        宣宗元聖至明武献文睿智章仁神懿道大孝皇帝←宣宗聖武献文孝皇帝
李漼←温        懿宗昭聖恭恵孝皇帝
李儇←儼        僖宗恵聖恭定孝皇帝
李曄←敏←傑     昭宗聖穆景文孝皇帝
李柷←祚        昭宣光烈孝皇帝

43: 世界@名無史さん
>>35
ものものしいね。戒名みたいだね。

38: 世界@名無史さん
どの王朝にもいる「世宗皇帝」が唐にはいないのが不思議だったが、
代宗が初め「世宗」だったのか。
たぶん、太宗の名前「(李)世民」をはばかって改廟したと思われる。

39: 世界@名無史さん
代宗が世宗の廟号にふさわしい男とは思えんから、
変えてよかったんじゃないか?

42: 世界@名無史さん
唐って漢民族なんですか?

45: 世界@名無史さん
>>42
唐の王室ということなら、鮮卑と漢族の混血だろうと思う。

46: 世界@名無史さん
>>45
んで老子さま(姓が李)の子孫だとか言ってたんだっけ。
史記列伝の最初を老子にしたり。

鳥姫伝って小説があって、舞台が唐の時代の北京なんだけど、
この北京って唐で言う所の燕? それともまんまで太原?
田中芳樹の解説だと唐に北京はないらしいんだけど。

49: 世界@名無史さん
>>45>>46
少なくとも父方は鮮卑族の血が濃い。
それを隠すために李世民は「氏族譜」を作らせて
李氏を中国筆頭の名族ということにこじつけた。
ちなみに高祖の李淵は煬帝の従兄弟にあたる。

>鳥姫伝って小説があって、舞台が唐の時代の北京なんだけど、
>この北京って唐で言う所の燕? それともまんまで太原?
>田中芳樹の解説だと唐に北京はないらしいんだけど。

まさか原作者がそれを知らなかったとは思えないから、
欧米の一般読者のイメージに合わせて史実をいじったんだと思われ。
そもそもあの話だと、確か北京が都にされていたような……

51: 以古為鏡
太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可し。
古を以て鏡と為せば、以て興替を知る可し。
人を以て鏡と為せば、以て得失を明かにす可し。
朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過を防ぐ。
今、魏徴徂逝し、遂に一鏡を亡へり、と。
因りて泣下ること久しうす。
詔して曰く、昔、惟だ魏徴のみ、毎に余が過を顕す。
其の逝きしより、過つと雖も彰すもの莫し。
朕豈に独り往時に非にして、皆茲日に是なること有らんや。
故は亦庶僚苟順して、龍鱗に触るるを難る者か。
己を虚くして外求し、迷を披きて内省する故なり。
言へども用ひざるは、朕の甘心する所なり。
用ふれども言はざるは、誰の責ぞや。
斯れより以後、各々乃の誠を悉くせ。
若し是非有らば、直言して隠すこと無かれ、と。

53: 世界@名無史さん
貞観政要だな

貞観政要

貞観政要(じょうがんせいよう)は、唐代に呉兢が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる。

本書は、唐の太宗の政治に関する言行を記録した書で、古来から帝王学の教科書とされてきた。主な内容は、太宗とそれを補佐した臣下たち(魏徴・房玄齢・杜如晦・王珪ら重臣45名)との政治問答を通して、貞観の治という非常に平和でよく治まった時代をもたらした治世の要諦が語られている。


56: おぎまる ◆JJi5gOTcvk
貞観政要を読むと、完全無欠な素晴らしい人物だと思い込みやすいよな。
ガキの頃、オヤジの書架に在った貞観政要を
読んだことを懐かしく思い出すよ。
おまけにその本の解説には玄武門の変に於ける太宗の活躍が
血沸き肉踊る文章(資治通鑑のリライトだということに気づいたのは
成人の後)で書かれていたので、消防の頃は太宗はヒーローだと
思っていたなあ。西遊記の太宗もいい人だったしなあ。

大学に入った頃、太宗が史料の粉飾を行わせ、煬帝を故意に
貶めていた事が気賀沢さんの監修によりNHKで報道され、
ショックだったなあ。その後太宗の自筆文書の研究も
進んだようだが、存外気の弱い一面もわかってきているようだね。

74: 世界@名無史さん
唐の皇帝、というとどうしても、太宗李世民、武則天武照、玄宗李隆基
程度しか思い浮かばない厨房ですが、他に業績を残した皇帝としては
どんな人がいますか。

75: 世界@名無史さん
・・・初代の高祖・李淵は?w

あとは憲宗なんかも有名かな。三武一宗の法難のひとつをやらかした人物。

76: 世界@名無史さん
>>75
法難は武宗だよ。道教に凝って廃仏毀釈したんだよね。

尤も、唐の後半の皇帝は如何わしい丹薬飲んでおかしくなったけど

83: 74
>>76
大体王朝はどこの国も後半になっちゃうと凡君が増えだしますが、
唐の場合は、それがあったのですね。

84: 世界@名無史さん
>>83
宣宗は?
一応説明はコピペしとくわ

宣宗 820~846~859
第十六代天子。諱は忱。憲宗の第13子、穆宗の弟、武宗の叔父。
韜晦によって魯鈍と評されていたため、武宗の病臥に乗じた宦官の馬元贄に擁立された。
武宗の廃仏を撤廃して開山・剃髪に一定の制限を設け、牛李の党争を終わらせて宦官の抑制にも一定の成果を挙げるなど、内政安定に尽力して“小太宗”と称された。
晩年は道教を篤信し、不老長生薬の誤用で没した。

86: 世界@名無史さん
確かに唐の名君だと太宗以外に名前を挙げろと言われたら
首を傾げざるを得ない。
武則天は「武周」の皇帝なので除外がな。
玄宗は後半がだめだめ。

88: おぎまる ◆JJi5gOTcvk
おやじの尻拭いをみごとにやってのけた肅宗も相当な名君だと思いますが。
新唐書肅宗本紀に曰く、
「天寶の亂、大盜(安禄山)にわかに起り天子出奔す。
まさに是の時、肅宗皇太子を以って兵を治め賊を討つ、
真に其の職を得たり!(中略)
亂を平らげ守成、蓋し亦た中材の主なり!」

89: 世界@名無史さん
肅宗も晩年は李輔国の専権を抑制出来なかったのがマイナスかな。

しかし唐の皇帝は晩節を全うできたのは皆無だな。

90: 李白&杜甫&白楽天&王維&韓愈&柳宗元&劉禹錫&李賀&李商隠
  僕 ら に つ い て も 語 っ て お く れ

92: 世界@名無史さん
>>90
とりあえず酒飲み杉
とくに筆頭の奴!w

93: 世界@名無史さん
>>90
>李白
アル中にも程がアルコール

>杜甫
いつもメソメソし過ぎだ

>白楽天
モテナイ男のコンプレックス丸出し(プ

>王維

おまいは画家なのか詩人なのかはっきりしろ

>韓愈
この全員の中で一番つまらん詩を書くのはお前だ

>柳宗元
流罪ご苦労様

>劉禹錫
美女の描写だけはやたら秀逸だ

>李賀
そんなに幽霊が好きか

>李商隠
いつもロ~ンリーな男だな

94: 花は舞う長安の春
長安の都に憧れます

95: 世界@名無史さん
西安は文化大革命のとき、長老たちが必死で文化遺産を守ったので、
かなり歴史的なものが残っているそうだよ。

96: 世界@名無史さん
文化大革命なんて、長安の歴史にすればごく最近だろう。
それ以前に何度掠奪を受けたことか。

97: 世界@名無史さん
唐代も洛陽は復興せずじまいですか?

100: 世界@名無史さん
>>97
洛陽は唐の東都。武則天なんか長安が嫌いで(王皇后の亡霊が出るとかで)、
洛陽にいずっぱりだった。

102: 世界@名無史さん
長安・洛陽が完全に使い物にならなくなったのは、結局朱全忠のせいなのかな?

103: 世界@名無史さん
安史の乱のあと、よくあれだけの期間一応とはいえ国家が保ててるな

安史の乱

中国,唐の中期755年―763年,安禄山とそれを受け継いだ史思明らによる反乱。唐の玄宗は晩年楊貴妃を愛し,宮廷が腐敗し,均田制などの諸制度もくずれ,農民の流民化が著しくなってきていたが,この乱を機に門閥貴族が没落し,税制が改革され,節度使が中国内地に置かれ軍閥化するなど中国社会が大きく変化する契機となった。



104: 世界@名無史さん
>>103
安史の乱以降,唐朝は衰退したといわれる。しかし,専売制や新税制を導入
して,安定した財政を維持したといえると思うよ。また,唐朝の境域も安史の乱
以前にくらべると,周辺民族の活動が活発になって縮小したかもしれないが,
王都長安などは,むしろ安史の乱以降に繁栄を極めていくといわれまっせ(←妹尾
達彦・中央大学教授の本に書いてあった気がする)。
だから,「一応とはいえ国家が保ててる」というのは,あまりいい表現ではない
気がします。
ちなみに,安史の乱では江南が被害を受けず,乱以降の財源となったといわれ,一方,
黄巣の乱では江南も多大な被害を受け,唐朝は滅亡するしかなかったというのは,
大学受験レベルの知識でつ

106: 世界@名無史さん
>>104
黄巣の乱ではインドやペルシャの商人たちも十数万人殺されたとか。
このあたりの歴史もなんだか面白そうだ。

108: 104
>>106
そうですよね。唐朝の歴史って,安史の乱以前の唐の建国とか,貞観の治とか
武則天とか開元の治にスポットがあたっているけど,むしろ安史の乱以降五代
を経て宋朝と遼朝の分離成立にいたるプロセスのが,ダイナミックな動きが
あっておもしろいよ。でも,五代は別スレ(←ここはちょっとマニア系)。

109: 世界@名無史さん
>>106
イラクで生まれて10世紀前半に活躍したイスラームの大歴史・地理学者
アル・マスウーディーは『黄金の牧場と宝石の鉱山』の中で、
シーン(中国)における唐帝国の崩壊と五代の動乱についても語っています。


あたかもマケドニアのアレクサンドロスがペルシアの王ダーラーを殺した後、
各州の長官たちがそれぞれ独立した時にも似ている。

現在われわれの方でも起こっているごとくである(←アッバース朝の権威低下を指す)

107: 世界@名無史さん
唐って新羅にも渤海にも撃退されてるんだね。

110: 世界@名無史さん
>>107
何だかんだいって、隋が手こずった高句麗は結局滅ぼしてますけどね。太宗在世中は無理でしたが。
それに突厥も倒したし、前期には吐蕃も懐柔したし、西トルキスタンまで勢力を拡大してますし。

112: 世界@名無史さん
>>110
結局、高句麗の領地を吸収できなかったんだね。
深い森林は苦手だったんだろうか。

125: 世界@名無史さん
高宗李治
「嫁が怖いけど、唐の最盛期は私の時代なんですよー(´・ω・`)
隋文帝&煬帝、それとパパの失敗した高句麗遠征を成功させますた。
約一名を除いて息子も結構出来がいいし(ロクな死に方してないけど)。」

睿宗李旦
「無事これ名馬ていうでしょ?自分自身はそう悪くない人生だと思う。
かわいいかわいい妹を息子に殺されてヽ(`Д´)ノウワアァンだけど。」

文宗李昂
「事実上私のクーデター失敗で唐朝もうだめぽ。_| ̄|○
この頃には地方も言う事聞いてくれないし。」

昭宣帝李祚
「殺されるためだけに即位なんて悲惨すぎ(;Д;)
でも御先祖様も同じことして皇帝になったんだよね。
曹丕や司馬炎見習う気ない?無いでつか…そうでつか…。」

137: 世界@名無史さん
玄武門の変で殺された皇子たちは本当に暗愚だったのだろうか・・・
濡れ衣に思えて仕方ない。
玄武門の変

玄武門の変(げんぶもんのへん)は、626年7月2日(武徳9年6月4日)に発生した唐の高祖の後継者争い。これに勝利した李世民が第2代皇帝として即位することになった。

高祖は長男の李建成を立太子するが、隋討伐で戦功を挙げた李世民の名声が高まり、天策上将なる称号を与え、東宮に匹敵する弘義宮を建築するに至り、皇太子の地位に不安を持つようになった。

世民の勢力を削減しようとした建成は、世民から礼遇されている謀臣である房玄齢と杜如晦を讒言により排除した。その後建成の幕臣魏徴や弟の李元吉が世民暗殺を建議した。

この計画を事前に察知した世民は、讒言によって遠ざけられていた房玄齢と杜如晦を道士に変装させて自邸に呼び寄せ対策を協議、建成の部下で長安北門である玄武門の守備隊長である常何を買収、武徳9年(626年)6月4日に変を起こした。

当日建成は宮中に参内することになっていた。緊迫した情勢の中警備兵に守られていた建成であるが、宮殿内部は符籍を有した者しか入ることが許されていなかったため、少数の供者を引き連れて中に入ると、世民側に寝返っていた常何らが一斉に切りかかった。その中、建成の幕臣である馮立と、皇太子派の李元吉の幕臣である謝叔方が奮戦、世民の部下である呂衡の首代を上げるなどの抵抗を示したが、結局建成と元吉は殺害されてしまった。



139: 世界@名無史さん
>>137 
勝者は敗者を何とでも書ける。

140: 世界@名無史さん
>>137
少なくとも兄貴は暗愚じゃないし世民よりいい人だったと思われ

141: 世界@名無史さん
李世民は何しろ歴史書捏造の前科(後科?)があるからなあ。
そんなことせんでも十分名君なのに。
といっても人口はとうとう隋時代の水準まで回復しなかったし晩年の高句麗遠征も痛いが・・・

142: 世界@名無史さん
高句麗は隋唐の鬼門だね。じっさい東北方向にあるしw

143: 世界@名無史さん
あんな利用価値のわからない地域に
無理して出兵する意味はあったんでしょうか?

隋も唐もそれでケチついてますし

144: 世界@名無史さん
中華世界の一部と見なしていたんじゃないかな。
五胡の侵入にともなう中国大分裂の前は魏の楽浪郡だったわけだから
燕雲十六州みたいなもので、あそこを支配しない限り
天下統一は完成されないと思っていたんでは?

145: 世界@名無史さん
ただの面子では?

146: 世界@名無史さん
面子だとしたら、そんな些細な事で兵を出している時点で既に瀆武の暗君ケテーイ

149: 世界@名無史さん
鮮卑の故地のあたりに集住していたことと、
突厥と共同して侵攻されるのを恐れたからとか?>高句麗

150: 世界@名無史さん
滅ぼした隋の煬帝が失敗したんだから成功させて名声をより高めたかったからとか
コストパフォーマンスでみれば半島の存在価値はすごい低かったかもしれないけど、一応陸続きの近所だし合わせたかったからとか?

151: 世界@名無史さん
計画段階では簡単に思えたというのもあるのでは?
煬帝時代の遠征でも後方で反乱が起きなければ
あと一歩で平壌が占領できるところまで迫った事もあるようだし。

157: 世界@名無史さん
李白が西方系民族だったというのは本当でしか?

159: 世界@名無史さん
>>157
西域生まれなのは確か

161: 世界@名無史さん
>>159
でも漢族ではあると思うが
これは先入観のせいなのかね?
異民族の方が話として面白いのは確かだが。まあ帝室自体が鮮卑系だし

163: 世界@名無史さん
唐って鮮卑族の王朝なんですか?
漢族王朝だと思ってたんですが。

Frow大学受験版住人

164: 世界@名無史さん
李氏が鮮卑だってのは何に拠っているんだろう?
判る事は李氏が非漢族であるってだけで、実際のところ
匈奴かもしれないし丁零かもしれないし高車かもしれないしテイや羌かも判らない。
この時代に関しては余り詳しくないんだけど、そのあたりはどうなっているんだろう?

168: 世界@名無史さん
>>164
記録では賜ったことになっている「大野」という鮮卑姓が、実は賜りものじゃ
なくて、本来の姓だったんだよ、李という姓が後付けなんだよという説だね。
でもそれも想像の域を出ない。記録通りに西涼の李嵩の子孫とまではいか
なくても、漢族のその辺の李氏の子孫というのを否定する証拠もなさそう。
正直、よくわかりません、としか言いようがない。武川鎮の連中は、もう完全に
ハイブリッドでしょ。

165: 世界@名無史さん
唐=隋の外戚
隋=北ギの外戚

唐=鮮卑
ってことなのかな。

漢族王朝だったら、他文化を蔑視する中華思想が影響して、長安に国際的文化が栄えるとは思えないから少なくとも漢族王朝ではないよな。

167: 世界@名無史さん
唐朝李氏は、鮮卑族というより、鮮卑系と表現したほうが良い。彼らの本来の種族が
漢族に出自するものだったのか、北アジアの遊牧民に繋がるものであったのかは判然としないが、
唐朝初期の皇族らが、多分に鮮卑の文化の影響を受けていたことは事実だろう。
唐朝を鮮卑王朝とか漢族王朝と一概に言い切ることも難しい。唐朝300年の歴史は、
徐々に中国的な王朝に変質していく過程であることは、間違いないと思うので。
ただ、初期唐朝を鮮卑系王朝とみなすことは、従来の中華中心史観によって描かれてきた
中国史を見直すことにつながると思われ。

169: 世界@名無史さん
隋は鮮卑名「普六茹氏」、漢名「楊氏」。で元は漢人だが鮮卑化して半漢半鮮卑になっていた。
唐は鮮卑名「拓跋氏」、漢名「李氏」。で元は鮮卑だが漢化して半漢半鮮卑になっていた。
武川鎮の連中はみんな鮮卑とも漢人ともつかぬ混血集団。

平凡社の世界史のシリーズだっけ、緑色の本。あれの中に
なんとかっていう坊さんが、唐の太宗が本当は拓跋ナンタラの子孫なのに
関係のない涼州李氏だと家系を偽ってると非難した話がでている。

170: 世界@名無史さん
唐帝室が拓跋氏ってのはちょっと信じられないな。
若しそうなら家系を偽って隴西李氏を名乗る必要ないと思うけど

172: 世界@名無史さん
拓跋氏は夷狄の酋長にすぎないけど涼州李氏は漢人の名家。

173: 世界@名無史さん
あの時代を考えれば漢人の名家を名乗りたくなる気持ちもわかるよ。

174: 世界@名無史さん
太宗はわざわざ『氏族譜』とやらを作って帝室を中華第一の名家にでっちあげた。
元々の隴西李氏でもまだ三位にしかならなかったんで、王氏と謝氏だったか、
上にいる二氏族を押しのけて、だ。
やはりあの人は資料捏造がうまいね。

177: 世界@名無史さん
>>174
そういう逸話が残っているから類推すると、起居注を見せろと無理強いしたというあのとき
兄弟殺しの一件を改竄していないと断言できるかどうか怪しいもんで。

175: 世界@名無史さん
父方と母方と両方考えりゃ何がなんだかわかんなくなるけど
とにかく純粋の漢族でも純粋の鮮卑でもなかったのは間違いない

引用元: ・【李氏】☆☆唐帝国の歴史総合スレッド☆☆【天命】






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