4136QYRJH1L



1: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/10(月) 14:43:55
このスレでは、主に、中央アジアや西アジア等のイスラム世界で活躍したトルコ民族の諸王朝について語るスレです。トルコ民族は、突厥、ウイグル、ホラズム、オスマン帝国など、数多くの国々を興して来ました。トルコ民族についてさらに詳しい情報を待っています。








5: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/10(月) 16:07:29
中華帝国の一つである隋王朝・唐王朝の皇帝も鮮卑族と呼ばれるトルコ系民族の出身である。

37: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/21(金) 20:39:28
>>5
他にも、五代十国時代にトルコ系の沙陀人が建国した後唐なんかもあるよ。
のちに沙陀人は、宋の禁軍(中央軍)にも編入されたそうだ。

7: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/10(月) 16:41:29
支配民族がトルコ系ならOK?

《吐蕃》は支配民族がトルコ系だけど

10: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/10(月) 18:47:29
>>7
>《吐蕃》は支配民族がトルコ系だけど

吐蕃がトルコ系なんて話、どこのどいつが言ってるんだよ

11: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/10(月) 19:51:14
>>10
すまん、間違えた
吐谷渾が鮮卑で
鮮卑ってトルコ系じゃなかったっけ?
吐谷渾

吐谷渾(とよくこん)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。4世紀から7世紀まで(329年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット系の吐蕃に滅ぼされた。


13: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/10(月) 22:06:31
ちなみにシルクロードの東西交易ではアラブ人・イラン人の他にトルコ人も交易の活動をしていたと言う。

>>11
吐谷渾はどこの地域にあった国なの?

15: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/11(火) 16:01:14
>>13
隋の頃に青海地方

16: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/11(火) 17:08:57
>>15
そういえば前にNHKのシルクロードの特集でそういう国があったと言われていた気がする。
青海地方では「天空のシルクロード」と呼ばれるもう一つのシルクロードがあったと言う。
吐谷渾はシルクロードの貿易を通じて栄えていたと言われる。

8: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/10(月) 18:05:20
参考までにドーゾ

テュルク《Turk》は、
中央アジアを中心に広がって居住するテュルク諸語を母語とする民族である。
政治・文化的に分節されたグループの総称であり、テュルク系諸民族とも言う。
トルコ語の『テュルク』にあたる言葉として、
日本語では『トルコ』が江戸時代以来使われている、
この語はしばしばオスマン帝国においてトルコ語を母語とした人を指し、
今ではトルコ共和国のトルコ人を限定して指す場合が多い。
英語は、この『狭義のTurk(テュルク)』と言うべき民族を『Turkish』 と呼び、
『広義のTurk(テュルク)』であるテュルク系諸民族全体を『Turkic』と呼んで区別し、
他の言語でも区別がある。
これにならい、日本語でも『狭義のTurk』に『トルコ』、『広義のTurk』に『テュルク』をあてる用法ができた。

~主なテュルク系民族・国家~
高車・丁零・鉄勒・突厥・ウイグル・ハザール・ブルガール・ヴォルガ=ブルガール・クマン・ウズベク・キルギス
カラハン朝・セルジューク朝・ルーム・セルジューク朝・ホラズム=シャー朝・黒羊朝・白羊朝・オスマン朝
ジャライル朝・スーフィー朝・モグーリスタン=ハン国・ティムール朝・ムガール帝国・シャイバーン朝
ブハラ=ハン国・ヒヴァ=ハン国・コーカンド=ハン国・シビル=ハン国・カザン=ハン国・アストラハン=ハン国
ノガイ=オルダ・クリミア(クリム)=ハン国

~現在の主なテュルク系国家・自治区~
トルコ共和国・アゼルバイジャン共和国・ウズベキスタン共和国・トルクメニスタン・キルギス共和国
カザフスタン共和国・タタールスタン共和国・バシコルトスタン共和国・チュヴァシ共和国・ハカス共和国
アルタイ共和国・トゥヴァ共和国・サハ共和国・カラカルパクスタン共和国・新疆ウイグル自治区

12: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/10(月) 21:48:22
無視されがちだけど、五代期の沙佗突厥王朝も結構重要

17: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/11(火) 17:11:31
ワラキア公国も初代の公はキプチャク・トルコ人だったとかいわれている。

18: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/11(火) 17:20:21
中央シベリアに住んでいるフィン・ウゴル諸語を話す人たちについて調べてみたが、
フィン・ウゴルはトルコ系モンゴロイドとされていて、フィン・ウゴル諸語を話す
フィンランド人・ハンガリー人は白色人種と黄色人種の混血種とされていた。

19: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/11(火) 17:22:28
フィン・ウゴル系はコーカソイドじゃないかね。
ウゴルはツングースとかと混血したようだが。

21: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/11(火) 17:41:07
>>19
図書館にあった地図帳の『人種』と言う項目でコーカソイド=赤色、モンゴロイド=黄色、ニグロイド=灰色で色分けがされていて、言語の分布と人種の分布で、世界地図を見比べて見た結果、シベリアのフィン・ウゴル諸語の部分が人種の項目では黄色、つまり『モンゴロイド』として分類されていたよ。
ちなみに混血種は緑色にされていて、フィンランドやハンガリーがあった場所は緑色『混血種』に塗りつぶされていたな。

20: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/11(火) 17:32:08
ヨーロッパ人が大航海時代で世界中に進出する前の時代では、トルコ人やモンゴル人などの遊牧民は
ユーラシア大陸全土に進出していて、トルコ人が西アジア世界でアラブ人やイラン人の王朝を押し退けて、
イスラム世界の主役に登りつめていき、北アフリカのマムルーク朝の軍人の中にもトルコ人がいたとも言われる。
モンゴル人が世界史上空前の大帝国であるモンゴル帝国を築き、「世界史」を始めて創り上げ
東西交易を更に活発化させ、世界最大の勢力を誇っていた時代であった。

23: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/11(火) 20:25:59
世界最古の遊牧民国家であるスキタイ帝国は王族と遊牧民族と農耕民族の
三つの階級に分けられていたと言う。農耕民族はスラブ系で、遊牧民族はイラン系とされていて、
ちなみに支配者層である王族の階級がどの民族であったかはよく解っていないと言う。

このスキタイとトルコ民族って何か関係あるのかな?

34: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/20(木) 21:20:41
トルコ系というと、どうしても現在のトルコ人の西洋人っぽい風貌を
イメージしてしまう。
でも、ヤクート人なんてのっぺりしたモンゴロイド顔なんだよな。

36: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/20(木) 23:55:52
>>34
トルコというから変な先入観が入る
歴史時代を語る場合にはテュルク(チュルク)を使えばいい。
26: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/11(火) 21:45:14
モンゴルとサモイェードもある意味トルコ族。

27: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/12(水) 00:21:31
サモイェードはどうだか分からないが、
モンゴルは、モンゴル帝国時代から「モンゴル」と「テュルク」の別は
意識されていたが、両者は根本的に「同胞」やや遠いものとはいえ
「同族」と見なされていた。

そこら辺の意識は『集史』以降、『オグズ・ナーマ』や『チンギス・ナーマ』
などの族祖伝承、さらに聖者伝などの記述やアダムから続く当代までの系図などに
その旨記されてきたようだ。

29: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/19(水) 15:22:40
『集史』って信用なるの?

31: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/20(木) 04:48:50
『集史』はイルハン朝のガザン・ハンの勅令により宰相ラシードゥッディーンが
その編纂総監を任され、ガザンの死後弟君オルジェイトゥ・ハンに献呈された
大部の歴史書なわけだが、本文を劈頭を飾るテュルク・モンゴル諸部族誌および
「チンギス・ハン紀」などの各帝王本紀やチンギス・ハン家に属す王族たちの記事の
多くは主にガザン自身による口述に基づいて構成されたものだった。

それらガザンの口述をもとにして、当時最もモンゴル帝国の全般の諸事に精通していた
プーラード・チンサンや各部族の古老、首長たちから諸部族の歴史について情報収集を
行い、勅許を得て王家の宝蔵に秘匿されモンゴル語で書かれていた門外不出のチンギス・
ハン家の史書の閲覧などして完成させたとラシード自身序文などで述べている。

要するに『集史』全体はチンギス・ハン王家の首長の一人であった、ガザン自身の
「モンゴル」観を体現した書物であるといえる。それらで述べられている当時の
認識としては、モンゴル系とテュルク系では言語的な差異は少なからず意識され、
『集史』の「テュルク・モンゴル諸部族誌」の「テュルク諸部族」と「モンゴル部族」の
違いはこの「言語的差異」に重点を置かれているようだが、文化的には生活様式も
衣服も頭髪のスタイルも同質であり、また言語的にも共通語彙が多数有り単語の置き換え
だけで特定の語彙を認識可能で文法的にも近似な関係であったため、意思の疎通も東方の
漢語の世界や西方のペルシア語の世界などよりは遥かに親近感が高かったことが、『集史』
で使用されているテュルク語、モンゴル語の語彙の対照によっても伺い知ることができる。

何よりも、チンギス・ハン親征などでテュルク系諸族に対して帰順を呼び掛ける場合、
文化的な共通性と衣服や言語の類似を指摘して「同胞」であることを主張し、言語的な
差異についても「方言差」であると説明してることが『集史』や『世界征服者史』で
述べれている。概ねこの説得は成功しているようなので、帰順したテュルク系の部族側も
その説明には納得し説得力があったものと理解することができるだろう。

39: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/23(日) 18:22:17
>>31
近隣の有力な集団を味方にするために、同祖同族説・貴種流離譚みたいなものはよく使われる手法。
ジンギスカンの時代には不足するモンゴル人の兵員を補うために、チュルク系の集団に対して同祖同族をふれまわって仲間に引き込み、モンゴル帝国瓦解後には、帝国初期の同祖同族説を引用したり、帝室や安堵状を得た貴族との系譜上のつながりを以って統治権の正統性を主張しているにすぎない。

有名なところでは、ローマだって支那では清朝でも、本邦の武士だってやっている。
ローマはトロイ戦争の亡命者の建てたアルバロンガ市の王の系譜としてラテン人・ギリシャ人諸国の統治権を正当化しているし、清朝は中原に定住した夏・商王朝の頃の漢人が猟牧民であったことを以って現役の猟牧民と同祖同族説を主張、日本の武士は、大半が、源か平か藤原かの氏姓を称していた。
現代ならば、韓国が、必死になって日本文化なり人種なり言語なりの起源を自国にあると主張して日本の関心を引こうとしている。
ここらと本質は同じだよ。

42: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/23(日) 23:10:05
>>39
言わんとしていることはよく分かるが、彼らモンゴルが西征において
見知ったモンゴル高原周辺の諸国に対して行った帰順・征服作戦と、
良く知らないパミール以西のテュルク系諸族に対して行った帰順勧告に
ついては方法が若干違う。
>>31の下段で言うチンギス・ハンの親征で同族的親和性を主張して
帰順を呼び掛けたのは、主にこの西方のパミール以西のテュルク系諸族のことね。

一般論的な歴史的なアクションの同質性の解釈を持ち出すのはそれはそれなりに重要だけど、
本邦の鎌倉時代や室町時代の武士集団の事例にしても欧州の事例にしても、それぞれ個々の
事情なりがあって同族的な主張をしていることも忘れてはいけない。
政策的に主張された部分もあったろうが、事実当時としては元々昔から近しい内容の
族祖伝承を共有していて、なおかつ歴史的にも系統分化して久しいまでも同じ政体の
許にあった事実によってそのような共通性が存在する場合も大いにありうる。

ただ、チンギス・ハンの親征で主張された内容は、主に「タージーク」に対しての、
相互の言語と服装や生活文化の親和性であった。ホラズムシャー朝は確かにテュルク系だが、
王朝内部の混乱のおりに遊牧勢力からは「タージーク」化しすぎるとの批判があったからだ。

西方遠征はウイグル王国やカルルク族が自発的に帰順してきた後のことで、実際に歴史的にも
西方のテュルク系と大いに関係のある東方の勢力がモンゴル帝国側に組みしていた事も重要
だろうが、それは彼ら自身近現代の東洋史の発達まで意識される事はなかったろう。

族祖伝承についての親和性は恐らく13世紀も半ばくらいに歴史書などが編纂され出した段階で
意識されてきたことは確かだろうが、モンゴル帝国が統一的な政権・権威を維持していた13世紀
の族祖伝承の状態と、ティムール朝などテュルク・モンゴル系の諸族がイスラーム化やチベット仏教
などの文化的直接的影響を背負うようになってからの族祖伝承とでは局面が違い過ぎるので、それぞれは
状況を区別して考えるべきだろう。

46: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/25(火) 07:51:37
>>42
有力な集団が近くにあれば、敵対するか味方に引き入れるかそれとも自分たちの主体性を
捨てて仲間に混ぜてもらうかしか選択はないじゃんよ。
敵対しない2つの選択では、同祖同族を主張する方が軋轢が少ない。
こんなのは、個々の事情もヘッタクレもない、人間の本能に基づいた普遍的な行動様式じゃんよ。

32: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/20(木) 06:08:28
「モンゴル」の範囲に入れられたのはチュルク語系までということ?
契丹はモンゴル語系でも「漢人」扱い。

33: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/20(木) 20:42:34
金の支配下にあった連中を全部漢人といってたからなあ。
マルコポーロの本ではそれを「キタイ」と呼んでたよね。

35: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/20(木) 22:27:24
当時の(おもに西方からの)認識としては、金朝のことを
「ヒターイー」地域を統べているのは「アルトゥン・ハーン」の王朝だと
見なしていた感じがするので、ペルシア語などに出てくる「ヒターイー人」
は飽くまでも「ヒターイー地域に住んでいる人々」ほどの意味で、必ずしも
「漢人」と同義でないし、かといって「契丹人」や「女真人」を区別していた
かは微妙な感じが拭えない。

華北地域(旧金朝領)を「カタイ(<ヒターイー)」と称したのはウイグル人とか
主に中央アジアからイランにかけてのイラン系の住人たちで、マルコ・ポーロの
言説や旅程にしても、ホラーサーン系などのムスリムたちの行動範囲を大きく出ない。

大元朝側では「契丹人」は華北での基幹軍団の一翼を担うような「モンゴル」の
軍集団と見なされていたようだが、西方では「ヒターイー人」とだけあって、
「漢人」「契丹人」「女真人」の区別ができていたかは確認できなかった。

『集史』「テュルク・モンゴル諸部族誌」のオグズ系以外の西部領域に住む
テュルク系の諸族の分類のうち、ケレイトやナイマン、ウイグルまでは良い
としてタングートもその範疇に名を列ねていたりする。

38: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/23(日) 03:08:18
マルコ・ポーロは実在しなかったとか

40: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/23(日) 18:50:20
>>38
そのソースはあるの?じゃあ東方見物録は一体何だったの?

44: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/24(月) 14:14:38
マルコポーロは本当に中国へ行ったのか
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794207891/249-1558303-6528339

これによると、ポーロの記述は、当時イスラム圏で出回っていた地誌・旅行記を集成
したものなのではないか、との意見。記述に一貫性が無い点や、あってしかるべき
描写や重大事件(長城や日本侵攻など)が登場しないなど、中国側の記述に
登場していない、などの点から論じている。この書籍で、ポーロの旅行の空想性が証明されたわけではないが、
議論が喚起され、決着はついていない。個人的には、マルコが実際には
旅行していないとしても、元朝まで直接旅行したイタリア人商品は実際には
いた筈(さすがに元朝の高官になった西欧人はいなかったろうが)なので、
この旅行記はまったくの虚構とは思わない。エリュトラ海案内記の記載が、全て
著者の経験ではなく、バリュガサ以東は、知識で書いたとの説があるが、
それでも、インドの東についての記述の価値は減らない。

45: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/24(月) 22:12:46
イブン・バトゥータでさえ、「お前ブルガールとか中国には
行ってねえだろ」と突っ込まれまくりだしね。

49: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/31(月) 05:31:04
マルコポーロが知人と世界の記述を書いたのは事実だけど、
実際東方行ったのは叔父達でその伝聞に色々と脚色したとかなんとか言う話は聞いた。
内容は数値がたまに凄まじいだけでそれなりに正しい物だとか。

51: 世界@名無史さん 投稿日:2005/11/20(日) 17:51:26
なんで西進ばかりで東進は起きなかったのだろう?
満州にキルギスを名乗る集団が今も住んでいるそうだが、これは清代の八旗関連で駐屯した結果だったっけか?

56: 世界@名無史さん 投稿日:2005/12/05(月) 14:36:57
>>51
中東の方が発達してたからか
中国との戦いに疲れて中東に向かうとか

52: 世界@名無史さん 投稿日:2005/11/27(日) 11:18:47
東側は森林があってズンズン進んでいけないからだよ

53: 世界@名無史さん 投稿日:2005/11/27(日) 11:34:01
それもそうだ
同様に西側の森林であるドイツまでは入って行けない

今は入ってるが

59: 世界@名無史さん 投稿日:2006/01/15(日) 21:27:33
>>53
アッチラはハンガリー平原を突っ切ってフランスまで進撃したんだっけ?

54: 世界@名無史さん 投稿日:2005/12/02(金) 21:52:03
7~9世紀にイスラム軍の東進を阻み続けた
カーブルのテュルク・シャーやザーブルRTBYL(イルタバル)も
忘れないでくれ

63: 世界@名無史さん 投稿日:2006/03/12(日) 13:48:22
丁零が最古のトルコ系王朝になる?
部族社会どまりかも知れないが堅昆もそうかな。

丁零

丁零(ていれい)は、紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。4世紀~6世紀では高車、6世紀~8世紀では鉄勒(てつろく)とも呼ばれた。

『山海経』海内経に「北海之內,有山,名曰幽都之山,黑水出焉。其上有玄鳥、玄蛇、玄豹、玄虎、玄狐蓬尾。有大玄之山。有玄丘之民。有大幽之國。有赤脛之民。有釘靈之國,其民從膝已下有毛,馬蹄善走。」とあるのが、丁零の初出である。



64: 世界@名無史さん 投稿日:2006/03/17(金) 03:03:55
康居はテュルク系説が有力らしいのう。

 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E5%B1%85

68: 世界@名無史さん 投稿日:2006/04/04(火) 10:19:38
トルコ人は一体いつ頃から非常に男色好きな民族になったのでしょうか?
イスラーム化される以前から男色風俗ぐらいはあったでしょうが・・・

70: 世界@名無史さん 投稿日:2006/04/04(火) 11:12:15
中央アジア史スレかなんかで、遊牧トゥルクメンの間で
男色は罪悪とみなされているとかいう話があったような

71: 世界@名無史さん 投稿日:2006/04/04(火) 11:27:51
違った。北アジア史スレでした。

169名前: 世界@名無史さん投稿日: 2005/07/12(火) 16:19:56 0
男色の習慣はトルコ人からはひどい罪とみなされている。あるとき、クダルキン一族
のところへ商人がやってきて滞在した。この商人は羊を買うためにしばらくこの主の
ところに滞在した。ところで、この主にはまだひげのない息子があって、この客は
絶え間なくこの少年を邪道に引き入れようとしていたが、とうとうその少年を自分の
思い通りにした。とかくするうち、トルコ人の主がはいってきて、現行犯の彼らを
捕えた。
トルコ人は、この罪によって商人も息子も殺そうと思った。しかしあまりの哀訴嘆願で、
商人は罪のあがないに身代金を払って許されることになった。商人は主の息子に対して
したことのために四百頭の羊を支払って、そそくさとトルコ人の国から出て行った。

77: 世界@名無史さん 投稿日:2006/04/07(金) 20:20:36
そういやオグズ族ってたしかウイグルから分かれたんだっけ?
オグズ

オグズ(Oghuz)は、かつて中央アジアの北部に存在したテュルク系遊牧民族。10世紀以降になると南下してトゥルクマーン(「テュルクに似たもの」の意)という名で呼ばれるようになり、その一部はセルジューク朝などのイスラーム王朝を建てた。

79: 世界@名無史さん 投稿日:2006/04/07(金) 20:45:29
> オグズ族ってたしかウイグルから
 
と言われているけど、実はウイグルの碑文なんかに出てくる部族リストと
カシュガリーのトルコ語辞典なんかに出てくるオグズ二十数部族のリストが
全然一致しないらしくて、なかなか西方のオグズとウイグルとの関係は
今一つよくわかならいんだそうだ。

80: 世界@名無史さん 投稿日:2006/04/07(金) 21:04:03
フン族みたいだな

引用元: ・トルコ民族の諸王朝について






中央ユーラシア史 (新版 世界各国史)

山川出版社
売り上げランキング: 193,894